18世紀末から19世紀初頭のドイツ・ロマン派の代表的作家。アマデウスは、もとの名としてはウィルヘルムであったが、モーツァルトへの傾倒から自分で生涯そのように名のった。創作の中心は小説だが、歌劇や室内楽など音楽作品、水彩画など美術作品も残している。
ドイツはプロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に法律家の子として生まれたが、父母の別離により幼児期には母方の実家で育つ。その地の大学で法律を学んだのち、グローガウ、ベルリンでも学び、その後は司法官の職についたが、カリカチュア事件で左遷され、1804年からは当時プロイセン支配下にあったワルシャワで政務事務官を務めた。16年ベルリンの大審院判事に任ぜられ、司法官と文学者の二重生活を送り、22年同地に没した。
若いときから音楽創作の憧憬(しょうけい)もだしがたく、ゲーテのジングシュピールを作曲したりしていたが、ワルシャワではブレンターノの『愉快な音楽士』に基づくオペラなどを作曲。ナポレオンの制圧で公職を追われ、生活を支えるのに指揮をしたり歌ったりもしていた。1808年から宮廷楽長も務めたが、やがてバンベルクに移り、そこの劇場つきの作曲家となって、フケーの作に基づくオペラ『ウンディーネ』や合唱曲などを作曲した。
このころG・H・シューベルトの論文『自然科学の夜の側面の見方』の影響で著作に向かう。音楽紹介や批評を書き、ベートーベンを世に広めた草分けの一人となる。文学創作は、音楽を動機に据えた『騎士グルック』(1809)、『ドン・ファン』(1813)などから始まり、次々に短編を書き、これが『カロ風幻想作品集』にまとめられていく。
26歳でポーランド女性ミーシャと結婚。30代なかば、ピアノの家庭教師で糊口(ここう)をしのいでいた時期に、生徒で14歳の少女ユーリア・マルクに恋をしたが、親の妨害、そしてユーリアが富豪商人と結婚、この体験をホフマンは悲劇的にとらえ、これがのちのち作品に表れる女性の映像に「ユーリア体験」とよばれる形でルサンティマンの暗い影を投げかけることになる。
ホフマンの作品では、美的観念は伝統的で、ポエジーの表現はその美的感覚による幻影に化していく。そのため、物語の怪奇性と形象の幻想性とから、非合理な世界秩序を信奉し、決定論的世界観にたつ作家のように思われがちだが、実体としてはそうではない。人工的な都会文明の構造への批判や啓蒙(けいもう)主義的合理主義への批評が、イローニッシュに現実の仮面を剥(は)ぎ、人為によってはまだ解決されてない、あるいは解決されがたい現象をデモーニッシュな亡霊のような姿でえぐり出そうとしているのである。
長編小説では『悪魔の霊液』(1815~16)や『牡(おす)猫ムルの人生観』などの代表作のほか、最後の長編『蚤(のみ)の親方』では、時の警視総監の策動に抗して、それを戯画化したメルヘン風の物語が、作者の人生観と社会観とを風刺的によく表している。当時発禁処分となったぐらいである。
[深田 甫]
短編の多くは、次の三つの作品集に収められている。
詩的な幻想を媒介に、この世界の事物や人間の純粋性と存在の本質を透視する『黄金の宝壺(たからつぼ)』、狂気の様式でこの世界に存在して語り続ける一楽長の手記に失恋の苦悩や音楽観を織り交ぜた『クライスレリアーナ』、モーツァルトの歌劇を聴いた瞬間の興奮と衝撃を幻想にのせて綴(つづ)る『ドン・ファン』、鏡に姿の映らなくなった男の運命を描いた『大晦日(おおみそか)の夜の椿事(ちんじ)』などを収めた『カロ風幻想作品集』(1814)。
幻想の虜(とりこ)となり身を投げる男の話『砂男』、古城にまつわる相続争いの執念を描いた『世襲権』、そのほか、のちにオッフェンバックの歌劇で知られるようになる『ホフマン物語』の題材となった『夜景作品集』(1817)。
自分が細工した装飾品を奪い返すために殺人鬼と化す男の二重性格と二重生活を描いた『スキュデリ嬢』、チャイコフスキーの作曲で有名な幻想的メルヘン『胡桃(くるみ)わりと鼠(ねずみ)の王さま』、ワーグナーの楽劇となる中世の『歌合戦』をはじめ、『ファルンの鉱山』『おばけの話』『不気味な客』などの物語を、聖者セラーピオンにちなむ結社を組んだ芸術好きの仲間が、日常生活に身を潜めながらも、内部から燃え上がる衝動から書き上げた作品を持ち寄っては朗読するという形式になっていて、ボッカチオの『デカメロン』に倣って全体がいわゆる「枠構造」でまとめられている『セラーピオン朋友(ほうゆう)会員物語集』(1819~21)。
ほかに、ボードレールが「高級美学の教理綱要集」と絶賛した幻想的な小説『ブランビルラ王女』や、妖怪(ようかい)の老女に魔力を授けられて、周りの人が成し遂げたはずの功績をすっかり自分のものにしてしまい、大臣にまで成り上がっていく小男と、それに善意の魔力で対決していく小男とを、一体の表裏として描いていく『ちびのツァッヘス』などがある。
[深田 甫]
『深田甫訳『ホフマン全集』全12冊(1971~・創土社)』▽『池内紀編訳『ホフマン短篇集』(岩波文庫)』▽『松居友訳、M・ラボチエッタ絵『ホフマン物語』(1982・立風書房)』
ドイツの有機化学者。ギーセンの生まれ。父は建築家で、リービヒの実験室を拡張した。1836年ギーセン大学に入学、最初は法律と言語学を学んだが、リービヒにひかれて化学に転じ、1841年コールタール研究で学位を得た。リービヒの私的な助手を1843年まで務め、1845年春ボン大学私講師となったが、同年秋、ロンドンに新設のロイヤル・カレッジ・オブ・ケミストリーの教授に招かれ、以降20年間をイギリスで過ごした。このカレッジはリービヒのギーセン実験室に倣って、農芸、薬、工業化学などを教えるために建てられた私立学校で、ここでホフマンはW・クルックス、マンスフィールドCharles Blachford Mansfield(1819―1855)、J・A・R・ニューランズ、ニコルソンEdward C. Nicholson(1827―1890)、W・H・パーキン、またドイツ人のP・グリース、メルクGeorg Merck(1825―1873)など多数の人材を育てた。1861年ケミカル・ソサイエティー・オブ・ロンドン会長となり、また広くイギリス政府の科学技術的諮問にこたえた。1865年ドイツに帰り、ベルリン大学教授となり、1867年ドイツ化学会を設立、以後何度も会長に選ばれた。
彼の研究はアニリンを中心とする。初期の研究は理論的なもので、1850年にはアニリン構造について、アミド説(リービヒ)とアンモニア説(ベルツェリウス)が対立していたなかでアンモニア説をとり、アンモニアNH3の水素1原子をフェニル基C6H-5で置換したものに相当するとし、臭化アルキルをアニリンに作用させてその理論を検証した。そして、アンモニアの水素を炭化水素基で置換した一群の化合物を「アンモニア型」と分類した。1856年パーキンのアニリン染料合成に刺激され、染料合成の仕事を進めた。アニリン染料の出発点となる物質は純粋のアニリンではなく、アニリンとトルイジンの混合物であるとし、赤色染料ローズアニリンを研究し、自らホフマン紫を合成した。このほか、アリル化合物、ホルムアルデヒド、イソニトリルなどについても研究し、全部で277編にも上る論文を書き、工業についても染料のほか、無機化学、製薬工業にも貢献した。
[道家達將]
『田中実「ホフマン」(『化学』Vol.14,No.6所収・化学同人)』
フランスの生理学者(生物学)。ルクセンブルグに生まれる。ストラスブール大学で生物学と化学で学士号を取得後、1969年同大で博士号取得。1974年からフランス国立科学研究センター(CNRS:Centre national de la recherche scientifique)の研究チームの責任者として活動。1993年からフランス国立科学研究センターの付属研究所である細胞分子生物学研究所(IBMC:Institut de biologie moléculaire et cellulaire)で細胞バイオロジー学会の責任者を務める。ストラスブール大学客員教授、フランス科学アカデミー会長を務めた。2011年に「自然免疫の活性化に関する発見」の業績により、ブルース・ボイトラーとノーベル医学生理学賞を共同受賞した。
免疫には、生まれながらにして保有する免疫(自然免疫)と、いろいろな抗原にさらされて後天的に獲得する免疫(獲得免疫)とがあるが、ホフマンはおもに自然免疫の仕組みの解明に貢献した。人間の免疫機構では、外から体内に侵入してきたウイルスや病原細菌などを、白血球のT細胞が認識してB細胞に抗体を作製させている。この抗体や別の免疫細胞を働かせて病原体を排除しており、これが獲得免疫のメカニズムとされてきた。B細胞は、同じ抗体をいつでも作製できるように記憶しており、T細胞が獲得免疫の司令塔の役割をすると考えられていた。
1973年、アメリカの生理学者ラルフ・スタインマンは新たな免疫細胞を発見し「樹状細胞」と名づけた。ボイトラーらは、この樹状細胞を詳しく研究、樹状細胞が皮膚など全身に存在し、ウイルスや細菌の侵入を探知すると、仲間の細胞をよび集め細菌やウイルスを攻撃することをつきとめた。さらに1996年、ホフマンらはショウジョウバエを用いた実験により、ある遺伝子(Toll(トール)遺伝子とよばれる)がカビの感染を防御していることを発見した。1998年ボイトラーは、ヒトやマウスの樹状細胞にも同様の遺伝子があり、それをもとに作製されるタンパク質が病原体を探知するセンサーの役割をしていることも発見。樹状細胞の発見と研究は、自然免疫とよばれることになる新しい免疫機構の究明に寄与した。また、これらの研究成果により、獲得免疫機構においても、T細胞に抗体作製の指令を出しているのは樹状細胞であることもわかってきた。スタインマン、ボイトラー、ホフマンらによって免疫のメカニズムが明らかにされ、免疫療法などの分野への可能性が広がった。なお、スタインマンも「樹状細胞と獲得免疫におけるその役割の発見」により、ともにノーベル医学生理学賞を受賞している。
[馬場錬成]
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のフロリダ・マーリンズ、サンディエゴ・パドレスで投手としてプレー。チェンジアップを武器にするナショナル・リーグ屈指の抑え投手(クローザー)である。
10月13日、カリフォルニア州ベルフラワーで生まれる。アリゾナ大学から1989年、ドラフト11巡目指名を受けてシンシナティ・レッズに入団。最初の2年間はマイナーで内野手としてプレーしていた。しかし芽が出ず、1991年から投手へと転向した。1992年のシーズンオフに、翌年から誕生する新球団のため選手供出を目的とするエキスパンション・ドラフトが行われ、マーリンズから指名されて移籍。1993年に大リーグ昇格を果たしたが、シーズン途中でパドレスへトレードされた。そして1994年から抑え役に抜擢されると、20セーブをあげた。自己最高のシーズンとなったのは1998年で、66試合に登板して4勝2敗、防御率1.48、投球回数73で奪三振86をマークし、セーブ機会54で53セーブを記録、完璧な投球であった。この活躍で、チームは14年ぶりのリーグ優勝を果たした。1999年からも3年連続40セーブ以上で、2002年は38セーブをマーク。2003年は右肩の故障のため9試合の登板に終わったが、04年、05年と2年続けて40セーブ以上をマークして復活を遂げた。また2005年は7年ぶりの地区優勝に貢献、さらに史上3人目となる通算400セーブも記録した。同年シーズンオフにFA(フリーエージェント)の権利を得たが、パドレスと新たに2年契約を結んだ。
[山下 健]
2006年は65試合に登板、セーブ機会51で46セーブをあげ、2回目のセーブ王を獲得。チームの2年連続地区優勝に貢献した。2007年は登板61試合、セーブ機会49で42セーブ。6月には対ロサンゼルス・ドジャース戦で大リーグ史上初の500セーブを達成した。
2007年までの通算成績は、登板試合881、投球回942と3分の2、53勝60敗、セーブ524、防御率2.73、奪三振1009、完投0、完封0。獲得したおもなタイトルは、最多セーブ2回。
[編集部]
アメリカの化学者。ポーランドのズウォツォフ(現、ウクライナのゾロチェフ)に生まれる。ナチスによってユダヤ人の両親とともに強制収容所(ゲットー)に送られたが脱走し、学校の屋根裏で生活した。1944年に解放され、1949年にアメリカに渡った。1958年にコロンビア大学を卒業、ハーバード大学に進学して化学を学び、1962年に博士号を取得した。1965年コーネル大学の準教授に就任、1968年教授となった。1990年に放送されたテレビの科学啓蒙番組『化学の世界』の制作に参加し、案内役として出演した。
ホフマンは、ハーバード大学でウッドワードと有機化学の応用理論について共同研究を行い、1965年に、有機化合物の反応において、反応に関与する分子軌道の間に対称性の保存されていることを発見した。この法則はウッドワード‐ホフマン則と名づけられ、化学反応のおこりやすさを理論的に予測することを可能にしたものとして高い評価を得た。また、同種の概念は福井謙一がフロンティア電子理論として発表していた。1981年、化学反応過程に関する理論の発展に貢献したとして、福井とともにノーベル化学賞を受賞した。
[編集部 2019年1月21日]
『ホフマン著、小林宏他訳『固体と表面の理論化学』(1993・丸善)』
ドイツの医学者。2月19日ハレに生まれ、イエナ、エルフルトで医学を学ぶ。ミンデンで実地医療に携わり、その間イギリスに旅行して化学者のボイルと親交を結んだ。1693年新設のハレ大学教授に迎えられて、ほぼ終生この職にあり、当地の名を高めた。1742年11月12日没。
ホフマンは、ハレ大学の同僚G・E・シュタール、ライデンのブールハーフェと並ぶ18世紀初頭の医学の体系家であった。シュタールがアニマという概念によって形相を重んじたのに対して、ホフマンは運動の法則を重視し、決定論に傾斜したといわれる。ホフマンにとって、人体は1個の機械であり、脳に由来して全身に行き渡る精気や血管内の血液の動き、種々の病的現象を引き起こす組織の緊張や弛緩(しかん)など、すべてが物理の法則で説明できると考えた。実証よりも思弁が先行したのは、当時の物理、化学の水準を反映している。薬物療法にも多くのくふうを加え、また『体系・合理医学』『医学の基礎』など多数の著作を残した。
[梶田 昭]
ドイツの日本学者、中国学者。2月16日ウュルツブルクに生まれる。劇場歌手となったが、1830年にシーボルトに出会い、以後41歳までその助手として『記録・ニッポン』の編纂(へんさん)を助ける。1846年オランダ植民省翻訳局に勤め、1855年ライデン大学の日本学講座初代正教授となる。本格的日本語文法書『日本文典』の英語版・オランダ語初版を1867~1868年に出版(1876年に英語再版、1877年にドイツ語版)。日本語辞書も手がけるが、未完のまま1878年1月19日ライデンで没。
[古田 啓 2018年8月21日]
『『ヨハン・ヨゼフ・ホフマン』(『幸田成友著作集4』所収・1972・中央公論社)』▽『フランツ・バビンガー著、古田啓訳「ホフマン伝」(『日本語学』1986年6~8月号所収・明治書院)』
オーストリアの建築家。ピルニッツに生まれる。ウィーンの美術学校で建築を学び、オットー・ワーグナーに深い影響を受けた。1897年ウィーン分離派の創立者の1人となり、師の合理主義を推進させるというよりも、洗練された感覚面で過去からの「分離」を目ざした。1903年、コロマン・モーザーらとウィーン工房を設立し、工芸界の刷新に携わった(1933閉鎖)。代表作であるブリュッセルのストックレ邸(1905~11)もこうした高雅な趣味性に貫かれている。14年のドイツ工作連盟のケルン博ではオーストリア館を設計し、分離派以来の成果を示した。1899~1936年ウィーン工芸学校教授を務め、ウィーンに没した。
[高見堅志郎]
ドイツの医者、絵本作家。フランクフルトに生まれ、各地の大学で勉強したのち、故郷の市立精神科病院の医長を務めた。1844年のクリスマスに、3歳の息子への贈り物に絵本を買おうとしたが、適当なものがないので、自分で絵を描き、文章を添えて与えた。それが偶然フランクフルトの出版者の目に留まって印刷され、『もじゃもじゃペーター』(1845)として世に出るや、すぐ国際的に評価され、各国語に翻訳された。教訓的な内容だが、いまなお価値を失わない。
[関 楠生]
『伊藤庸二訳『ぼうぼうあたま』(1980・教育出版センター)』
ドイツ出身のアメリカの画家。バイエルン州ワイセンブルクに生まれる。ミュンヘンで美術を学んだのち、パリに出てマチスに師事した。帰国後ミュンヘンで美術学校を創立するが、1930年アメリカに移住し、カリフォルニア大学などで教鞭(きょうべん)をとり、ニューヨークでふたたび美術学校を創設して多くの後進を育てた。幾何学的構成による抽象絵画を描いたが、のちに抽象表現主義の影響から激しい筆触を生かした作風に転じた。ニューヨークで没。
[石崎浩一郎]
ドイツの小説家,また作曲家でもあった。東プロイセンのケーニヒスベルク(現,ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の大学で法律を学び,司法官の道を進むが,音楽と絵画に熱中,また遺伝的に神経症を背負う。1802年高等官として任官,しかしナポレオン軍侵攻の動乱で失職,08年以降,バンベルクその他で音楽指揮者をつとめ,音楽評論も執筆。それらの評論はロマン派的音楽把握の頂点をなすと同時に,近代的音楽批評の先駆となる。この頃から文学にも手をそめ,16年ベルリン大審院判事に任命されたのちも,昼はすぐれた司法官,夜は文学仲間と飲酒にふける二重生活を送り,怪奇と幻想にみちた数多くの小説を書いた。それらの根底には芸術家的幻想と実務的現実という分裂的二元性があり,そこからアイロニカルな社会批判も生まれている。立身出世を求めながらも美しい蛇の化身への恋ゆえに夢幻の国のとりことなる大学生の話《黄金の壺》(1814),ある修道士の奇怪な運命とその一族の消滅を描いた長編《悪魔の霊液》(1815-16),自動人形への恋を仕組まれて破滅する青年の話《砂男》(1816),そのほか,シューマンのピアノ曲集表題に用いられた音楽論的小品集《クライスレリアーナ》(1814-15),犯罪小説《スキュデリー嬢》(1819),長編《牡猫ムルの人生観》(1820-22),《ブランビラ王女》(1821),官憲風刺の問題作《蚤の親方》(1822)などの作品がある。短編は上記のものも含めて大部分が《カロ風の幻想画集》(1814-15),《夜の画集》(1817),《ゼラーピオンの兄弟たち》(1819-21)にまとめられている。彼はアメリカの作家ポーなどに影響をあたえたほか,オッフェンバックのオペラ《ホフマン物語》の主人公ともなっている。作曲家としてのホフマンは,交響曲を含む多数の曲を書いたが,オペラ《ウンディーネ》(1816初演)がロマン派オペラの先駆的作品として大成功をおさめ後世まで上演された。
執筆者:渡辺 健
ドイツの有機化学者。ギーセン生れ。法律を学ぶつもりでギーセン大学に入学したが,リービヒの感化を受けて化学に転じ,リービヒの助手を経て,1845年ロンドンに新設された王立化学大学に招かれ,20年間教授をつとめる。65年ドイツへ呼び戻されてベルリン大学教授となり,そこで没するまで研究を続けた。アニリンの本体をきわめ(1843),アミン類をアンモニア型の有機化合物として体系づけた(1850)。そのほか,〈ホフマン則〉(1851),〈ホフマン分解〉(1881)の発見,フクシンの研究に基づく合成染料〈ホフマンバイオレット〉の合成(1863),酸アミドを次亜塩素酸塩あるいは次亜臭素酸塩の作用でアミンに変える〈ホフマン反応〉の発見(1882)などの業績がある。これらの窒素化合物の合成と反応の研究は,その後ドイツで隆盛をきわめたタール工業や合成染料工業の基礎となった。ドイツ化学会を創設(1867),初代会長として活躍した。
執筆者:岩田 敦子
ドイツの医師で,御雇医師としてL.B.C.ミュラーとともに1871年来日した。ブロツワフ,ベルリンの両大学に学び,トラウベL.Traubeについて内科学を修めた。海軍軍医となり,普仏戦争のため当初の予定より来日が2年遅れた。日本がドイツ医学を採ることを決したときの最初の招聘(しようへい)者の一人で,東校(東京大学医学部の前身)で内科学,病理学,薬物学などを教授した。74年より宮内省御雇に転じ,翌75年帰国した。ミュラーが13歳年長のゆえもあって主導権をもったため,日本側の対応も両者に差があった。日本で最初の穿胸(せんきよう)術・肋骨切除術を行ったとされ,脚気の研究をし,日本医学についての論及もある。
執筆者:長門谷 洋治
オーストリアの建築家,工芸デザイナー。O.ワーグナーの弟子でウィーン分離派(ゼツェッシオン)の創立者の一人。1903年モーザーK.Moserとともにウィーン工房を設立し,建築,室内装飾,家具調度品の多方面にわたる創作活動をし,アール・ヌーボー以後のデザインに深い影響を与えた。代表作ストックレー邸(ブリュッセル,1905-11)には画家クリムトらが協力し,合理主義建築の空間造形をふまえながら細部には豊かな装飾を残している。プルケルスドルフ・サナトリウム(1904),パリの現代装飾・工業美術国際展オーストリア館(1925)などの建築作品のほか,いす,食器など工芸作品をデザインした。
執筆者:山口 廣
ドイツのビュルツブルク生れのオランダ人で,初期の日本学者。1830年アムステルダムでP.F.vonシーボルトに会ってその助手となり,のちライデン大学教授として日本学の講座を担当した。彼はシーボルトの大作《日本》(1832-51)の編集・刊行に協力したほか,日本書のオランダ訳の刊行にも尽力したが,とくにその著《日本文法Japansche Spraakleer》(1867)は,この方面における画期的な労作として記憶さるべきものである。本書はオランダ版と同時に英語版(再版1876)が,1877年にはドイツ語版も出ている。
執筆者:亀井 孝
ドイツの詩人。ブラウンシュワイク近傍ファラースレーベンの生れ。1830年ブレスラウ大学の教授となるが,急進的な詩集《非政治的歌謡》(1840-41)のために罷免された。自由精神にあふれた愛国的な抒情詩のほか,歌いやすい民謡調の子供の歌や恋の歌で知られる。ドイツの国歌Deutschland,Deutschland über allesの作者としても名高い。
執筆者:前田 彰一
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ドイツの化学者.ギーセンに生まれる.1836年法律を学ぶために同地の大学に入学するが,J. Liebig(リービッヒ)の分析化学にひかれ化学に進む.1841年学位を取得し,コールタール中に得られた塩基性物質にアニリンの名称を与えた.1845年Liebigの推薦を受けてロンドンに新設された王立化学カレッジの教授になった.その後20年もの長い間,ロンドンで研究し,教育の面で多くの業績を残した.とくにコールタールとその誘導体の研究が重要である.かれの弟子の数は多く,W.H. Perkin(パーキン),S.E. Frankland(フランクランド),W. Odlingなど,のちのイギリスの化学に貢献する人材を輩出した.1865年ベルリン大学の教授となり,ドイツ化学会を創立し,機関誌Berichteを創刊するなど,ドイツ化学会,工業会の発展に尽力した.かれの研究室からは900の報告がなされており,アニリンの塩素化による置換説の実証(1845年),ヒドラゾベンゼン(1863年),ジメチルアニリン(1873年)の研究など,多くの発見があげられる.ホフマン反応(ホフマン転位)やホフマン分解もかれにちなむ.これらの研究の成果は,純理論的というよりは化学工業に顕著な貢献をした.1877年に出版された“近代化学入門”は好評を博した.1872~1874年,わが国の薬学の開祖長井長義が指導を受けている.
ポーランド生まれのアメリカの理論化学者.第二次世界大戦下,ユダヤ人として収容されていた収容所から母と逃れ,解放後,各国のキャンプを経て,1949年にアメリカに渡る.1955年コロンビア大学に入学し,1958年ハーバード大学大学院に進学し,1962年学位を取得.在学中に9か月間モスクワ大学に交換学生として滞在.1965年にコーネル大学に移り現在に至る.大学院時代に理論化学を専攻し,W.W. Lipscomb(リプスコム)のもとで拡張ヒュッケル法プログラムを開発し,ホウ素化合物など無機化合物に応用したが,エタンの内部回転障壁が計算できたことから,有機化学への理論化学の応用を本格的に進めた.R.B. Woodword(ウッドワード)とともに化学反応における軌道対称性の保存則(ウッドワード-ホフマン則)を見いだし,電子環化反応における異性体の生成機構などの説明に成功した.さらに有機金属化合物や無機化合物,結晶系などの性質を軌道概念にもとづいて研究し,化学反応経路に関する理論的研究の業績で,1981年福井謙一とともにノーベル化学賞を受賞.近年は詩集や哲学的随筆も著している.
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(筒井迪夫)
(長門谷洋治)
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
生没年不詳。明治初期の御雇外国人。ドイツ人医師。ブレスラウとベルリン両大学で内科学を修めたのち,1871年(明治4)外科医ミュラーとともに来日。海軍軍医少尉。大学東校で内科・病理学を教授。73年,脚気と間欠熱で死亡した男性をデーニッツとともに解剖した。日本の特志者以外の病理解剖第1号。75年帰国。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
1776~1822
ドイツのロマン主義の小説家。昼はまじめな司法官として勤め,夜は酒に溺れながら,怪奇な幻想,鋭い風刺,痛ましい悲劇の交錯する特異な作品『黄金の壺』『悪魔の妙薬』などを書いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…怪奇と超自然を栄養分とした文学は,人間精神を理性や道徳の枷(かせ)から解放し,想像力の自由なはたらきを助長した点で,ロマン派芸術運動の目覚めをもたらしたのである。例えば,ドイツではL.ティーク,E.T.A.ホフマン,J.C.F.シラーなどが,ゴシック・ロマンスに影響を受けた作品を多く発表した。ホフマンの《悪魔の霊液》(1815‐16)が,イギリスの作家M.G.ルイスの《修道僧》(1796)を下敷きにしていることは有名であるが,ホフマンの文学は逆にロベルト・シューマンなど,ドイツ・ロマン派の音楽家に構想の素材を提供した。…
…ベヒシュタインL.Bechsteinの《ドイツ童話の本》(1844)がそれにつづく。一方では,L.ティーク,ブレンターノ,F.de la M.フケー,E.T.A.ホフマンが不思議な物語を手がけ,その流れから創作としてぬきんでたW.ハウフの《隊商》(1826)が生まれた。T.シュトルムやA.シュティフターにも子どもに向く作品はあるが,レアンダーR.Leanderの《フランス風暖炉のそばの夢想》(1871)とザッパーA.Sapperの《愛の一家》(1906)が大きな収穫となった。…
…フランスの作曲家J.オッフェンバックが作曲したプロローグとエピローグをもつ3幕のオペラ。J.バルビエとM.カレーの台本により,ドイツ・ロマン派の作家で作曲家のE.T.A.ホフマンの小説のいくつかから自由に題材をとって作られている。主人公のホフマンを中心に三つの恋の物語を展開するという筋で,ニュルンベルクのとある酒場を舞台に繰り広げられる。…
…人間が機械から区別される要因は,魂や理性をもつことにもとめられたが,18世紀にはこれすら機械的な本質をもつとする考え方も生じた。 これらの動向を背景に19世紀に入ると,文芸の方面でE.T.A.ホフマンの《砂男》(1816)に機械の舞姫オリンピアが登場する。また,M.シェリーの《フランケンシュタイン》(1818)の怪物は,人間や動物の死体の不細工な寄集めだが,この作品は,擬似科学的な書きぶりと,人間のつくったものが人間に反逆するというSFの基本テーマをふまえている点で,正統的なロボット文芸の始祖と目される。…
… ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。フィヒテやヘーゲルの観念論哲学と密接な関係をもったドイツ・ロマン主義文学は,自我の内的活動の探究,夢と現実あるいは生と死の境界領域の探索,イリュージョンの形成と自己破壊(アイロニー)などを主題とするきわめて観念論的かつ神秘主義的な色彩を帯び,ノバーリス,J.P.リヒター,ホフマンらの幻想的な作品を生み出した。 フランスにおけるロマン主義は,ルソー以来の前期ロマン主義の精神風土の上に,スタール夫人のドイツ文学理論の紹介《ドイツ論》や,ゲーテやバイロンの作品の翻訳の刺激を受けて,両国に比べやや遅れて始まったが,よりいっそう激しい華やかな展開を見せた。…
… 上記の認識自体,ロマン主義芸術観の所産であった。ティーク,E.T.A.ホフマンら多くの作家が,音楽のうちに詩(ポエジー)の究極的理想像をみている。したがって音楽にロマン主義が浸透すると,それが果たす役割は他の芸術に比べても著しいものがあった。…
… 来日せず日本を論じた学者としてはまずルネサンスのフランス人文学者G.ポステルがあり,《東インド会社遣日使節紀行(モンタヌス日本誌)》(1669)を書いたオランダの宣教師モンタヌスArnoldus Montanus(1625‐83),上記のシャルルボアがある。シーボルトの助手を務めたJ.J.ホフマンは1835年ライデン大学教授となり,40年に《千字文》,42年に浅野高蔵の《和漢年契》のオランダ語訳,48年には上垣守国の《養蚕秘録》のフランス語訳をパリとトリノで出版,67年には《日本文法》を出し日本学に多大の寄与をしたが,1848年に柳亭種彦の《浮世形六枚屛風》を訳し,72年《万葉研究》を刊行,78年オーストリア学士会員となったフィッツマイヤーAugust Pfizmaier(1808‐87)と同じく,来日はしていない。中国学Sinologyが早く確立したフランスでも,中国学者S.ジュリアンの弟子ロニーLéon de Rosny(1837‐1914)は日本研究に移り,1863年からパリ東洋語学校で日本語を教え始め,68年から正規となったこの講座の教授を1907年まで務めたが,来日はしなかった。…
…19世紀末に,全欧を巻き込んだ新しい芸術創造を目ざす気運の一環としてゼツェッシオン(分離派)が組織されたが,その理念の工芸面における実践を図ろうとしてつくられた。1903年ウィーンの建築家J.ホフマンやモーザーKolo(man) Moser(1868‐1918)らによってウィーン分離派所属の工芸品製作所として設立。05年独立の工房となり有能な美術家と工芸家をともに擁し,建築,室内装飾,家具,織物,ガラス細工,陶器,金銀細工,皮革,宝石,レース,ししゅう,本の装丁,喫煙具に至るまで新しいデザインを凝らして製作し,工房マークの〈W.W.〉を記し,さらにその販売組織をもって当時の流行を大きく支配した。…
…同時にそれは社会・経済的には,資本主義が〈レッセフェール(自由放任主義)〉から制限された方向に向かうことに対応していた。またウィーンのゼツェッシオン(分離派),とくに建築家J.ホフマンらを中心に1903年設立されたウィーン工房は,機能性と直線の合理性を強調し,建築と工芸各分野で近代の新しい造型を目ざしたが,いまだ装飾芸術の範囲にとどまっていた。装飾性を切り捨て,生産主義,機能主義に立つ近代デザインの思想が現れてくるのは,イギリスの住宅の調査から機能主義をひきだした建築家ムテジウスHermann Muthesius(1861‐1927)によるドイツ工作連盟Deutscher Werkbundの設立(1907。…
…たとえば,ハーベーの血液循環論は,静脈内に直接薬物を注入すれば,内服や外用よりはいっそう早く全身へ運ばれるであろうという期待を生み,1660‐70年にかけて,血液をはじめ種々の物質の注入が患者に対しても試みられ,多くの事故を生んだ。また物理的医学派の一人F.ホフマンは,身体の単位的な構成要素としての繊維という概念に達し,あらゆる機能を,この繊維の緊張・弛緩によって説明し,病気は,それぞれのゆきすぎ状態としての過緊張か低緊張,あるいは無緊張であると理論的に単純化したうえで,過緊張に対してはアヘンを,低緊張に対しては酒精(スピリッツ)を処方すべきであると主張し,多くの賛同者を得た。化学的医学派としては,パラケルスス,J.B.vanヘルモント,F.シルビウスらがいる。…
…ハイチ国に招かれたのち普仏戦争に従軍,陸軍軍医正となる。1869年,日本はドイツ医学の採用につき同国に教師の派遣を依頼したが,普仏戦争で来着が遅れ,71年(明治4)にミュラーと,彼が選んだ13歳年少のT.E.ホフマンの2人が来日した。ミュラーは文部卿のすぐ下にあって,他の日本人の指示を受けない絶大な権力をもって医学教育と診療にあたり,予科3年,本科5年の本格的な医育制度を推進した。…
…コークスや石炭ガス需要が増大するにつれ,それまで廃物として取扱いに困っていたコールタールを有効に利用することが考えられるようになった。A.W.vonホフマンを中心にコールタールの分析が進み,芳香族炭化水素であるベンゼンが発見された。1856年には弟子の一人であるW.H.パーキンが,ベンゼンからアニリン染料〈モーブ〉を合成するのに成功した。…
…昔は木材の防腐剤などの用途しかなかったが,コールタールの成分に関する化学的研究が進むにつれ,その工業的な利用の道がしだいに開かれ,19世紀から20世紀前半にかけては,コールタールを中心とする石炭化学は有機合成化学工業の花形として不動の地位を占めていた。 コールタールの化学成分の研究を回顧すれば,1819年にA.ガーデンがナフタレンを発見,また45年にA.W.vonホフマンがベンゼンの分離に成功したのをはじめとして,56年にはW.H.パーキンがコールタールから初めてふじ色の染料モーブ(アニリン紫)の合成に成功した。これらに続いて19世紀後半からは合成染料,医薬品工業が発展し,コールタールはその基礎原料として不可欠の重要な資源となったのである。…
※「ホフマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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