コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ミャンマー ミャンマー Myanmar

翻訳|Myanmar

7件 の用語解説(ミャンマーの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ミャンマー
ミャンマー
Myanmar

正式名称 ミャンマー連邦共和国 Pyihtaungsu Thamada Myanmar Naingngandaw。面積 67万6577km2。人口 5458万5000(2012推計)。首都 ネーピードー

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ミャンマー

1962年のクーデター後、国軍支配が続いたが2011年に民政移管。軍の影響力は強いが、経済開放路線が進み始めた。海外からの投資の増加や天然ガスの輸出の伸びもあり、国際通貨基金(IMF)は15年度の国内総生産(GDP)の成長率を8.5%と見込む。人口は約5100万人。最大のビルマ族のほかに約50の民族を抱える多民族国家で、国境地帯では少数民族との武力紛争を抱えている。現政権が市民権を認めていない少数民族ロヒンギャへの迫害が周辺国への難民流出を招き、国際問題にもなっている。

(2015-11-13 朝日新聞 朝刊 1総合)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ミャンマー(Myanmar)

インドシナ半島西部にある連邦国。首都ネーピードー。最大の都市はヤンゴン(旧称ラングーン)。米・チーク材・錫(すず)などを産する。もとビルマ王国を、1897年に英国がインドに併合、1948年に独立。1989年にビルマ連邦社会主義共和国名を、首都名とともに改称。ビルマ族が多く、小乗仏教が盛ん。山岳地帯に少数民族が住む。人口5341万(2010)。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ミャンマー

◎正式名称−ミャンマー連邦共和国Pyidaungsu Myanmar Naingandaw/Republic of the Union of Myanmar。◎面積−67万6590km2
→関連項目アジアアンダマン海東南アジア

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ミャンマー【Myanmar】

正式名称=ミャンマー連邦Union of Myanmar面積=67万6578km2人口(1996)=4598万人首都=ヤンゴンYangon(日本との時差=-2時間30分)主要言語=ビルマ語通貨=チャットKyat東南アジアインドシナ半島西部の共和国。1989年,国名のビルマBurmaをミャンマーとビルマ語による呼称に改めた。東はタイ,ラオス,北東は中国,西はインド,バングラデシュに囲まれる。面積は日本の1.8倍,タイやフランスよりやや大きい。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ミャンマー【Myanmar】

インドシナ半島の西部、ベンガル湾とアンダマン海に臨む連邦共和国。七管区・七州から成る。米・チーク材・ゴム・石油・スズなどを産する。上座部仏教が盛ん。1948年、イギリスから独立。首都ヤンゴン(旧称ラングーン)。2006年に首都機能をネイピードー(ピンマナー)に移転。面積67万7千平方キロメートル。人口5050万( 2005)。ビルマともいう。正称、ミャンマー連邦。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ミャンマー
みゃんまー
Myanmar

東南アジアの西端にある国。正称はミャンマー連邦共和国Republic of the Union of Myanmar。旧称は1948年の独立から1974年までビルマBurma連邦、1974年から1988年までビルマ連邦社会主義共和国。1988年クーデターにより政権を掌握した軍事政権は国名をビルマ連邦に戻したが、翌1989年ミャンマー連邦に改称、同時に首都ラングーンもヤンゴンに改称した。さらに2006年10月、首都をヤンゴンから同国中部の都市ネピドーNay Pyi Taw(Naypyidaw)へ変更した。2011年3月、新政府が発足し、それに伴い国名はミャンマー連邦共和国に変更された。東から北にかけてタイ、ラオス、中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接し、南西はベンガル湾に面する。面積67万6578平方キロメートル、人口4879万8000(2007推定)。[酒井敏明]

自然

国土の躯幹(くかん)部は、北緯16度から28度まで南北約1400キロメートル、東経92度から101度まで東西約900キロメートルの縦に長い菱形(ひしがた)である。南東辺から細長いタニンタリー(旧テナセリム)地区が約800キロメートル南へ延びて北緯10度に達する。全体の輪郭は凧(たこ)が尾を垂らした姿にたとえられる。大まかな地質構造および地形は、生成時代が古いシャン高原を中心とする東部山地、第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈が弧を描いて連続する西部山地、両者の中間に横たわる中央低地の三つの部分からなる。
 イラワディ(エーヤワディ)川の源流域を取り囲む最北部のカチン山地は大ヒマラヤ山系の東方への延長部にあたり、北端に位置する東南アジア最高峰のカカボラジ山(5885メートル)をはじめ、万年雪が覆い氷河のある高山群が森林限界を越えて高くそびえる。このカチン山地から東西2系列の山脈が南へ馬蹄形(ばていけい)に延びる。東側のカオリクン山脈はイラワディ川、サルウィン川流域の分水嶺(ぶんすいれい)であり、中国との国境となっている。東部山地の主要部を占めるシャン高原は中国の雲貴(うんき)高原の一部であり、おもに結晶岩と石灰岩からなる高度900~1200メートルの台地である。標高2000メートルに達する山稜(さんりょう)がその上にそびえ、サルウィン川とその支流、イラワディ川支流の多くの河道が台地面に紐(ひも)状の狭い低地を刻んでいる。
 西部山地は北から順にパトカイ山脈、ナガ丘陵、チン丘陵、アラカン山脈が続き、標高2000メートル前後の褶曲(しゅうきょく)山脈からできている。イラワディ川の支流およびベンガル湾に注ぐ諸河川が、樹枝状または格子状の複雑な谷を刻む。アラカン山脈の南端はネグレス岬で海に没するが、インド領のアンダマン諸島、ニコバル諸島はこの西部山地の延長とみなされている。
 中央低地は南北約1100キロメートル、幅約200キロメートルの大平野であり、イラワディ川とその第一の支流チンドウィン川がともに緩やかに流れ、莫大(ばくだい)な水量を運ぶ。河口には延長250キロメートル、底辺200キロメートルのデルタを形成し、排出される土砂によって海岸線は毎年数十メートル進出する。ペグー山脈を挟んで東側を並行して流れるシッタン川は、マルタバン湾に大きな三角江を開く。
 一方、シャン高原中央部を南流するサルウィン川はマルタバン湾に注ぐ河口に、ジャイン川、アタラン川とともにデルタを形成している。南へ延びるタニンタリー地区は背後にダウナ山脈、ビラウ山脈など、タイ領のチャオプラヤー川流域との分水嶺をなす低い山脈が走るため、一般に山がちで平野は狭い。タニンタリー南部沖合いには、大小800の島々がほぼ3列をなして南北に並ぶメルギー諸島がある。北部のアラカン海岸にはチン丘陵から流れるカラダン川、レムロ川河口に平野が広がるが、ほかに平地は少なく、リアス式海岸の沖にラムレー島、チェドゥバ島などの島々がある。
 国土の大部分が亜熱帯に位置し、夏の季節風が発達するベンガル湾に臨むため、典型的な熱帯季節風気候が支配的である。一年中続く高温と夏に集中する大量の雨がその特徴である。最北部山地とシャン高原では気候は温帯的であり、冬には雪や霜をみる。イラワディ川中流平野はアラカン山脈が夏の季節風を遮るために雨が少なく、乾燥に耐える樹種の叢林(そうりん)が点綴(てんてい)するサバンナ的景観を示す。山地が背後に迫るアラカン、タニンタリー地区の海岸地帯では年降水量は5000ミリメートルに近く、その80%が6月から9月までに降る。イラワディ・デルタで2000~2500ミリメートル、海から遠いシャン高原で1200ミリメートル程度である。イラワディ川中流域は800ミリメートル以下、最小620ミリメートルの場所もあり、気温が高いので降水量の少ない地域は乾燥が厳しい。イラワディ・デルタにある都市ヤンゴンの年間平均気温は27.4℃で、最高気温は4月の30.9℃。年降水量は2261.7ミリメートルで5月から10月にかけてが雨期となっている。
 乾期に落葉する雨緑林に生えるチーク、ピンカド(インドテツボク)などの堅木は用材として重要であり、タケは種類が豊富で多様に利用される。海岸線はマングローブ林に縁どられる所が多い。野生動物は種類が多く、人里遠く離れた森林には、ゾウ、トラ、ヒョウ、ヤギュウ、シカ、クマ、ヤマネコ、サル、サイなどが生息している。鳥、昆虫、爬虫(はちゅう)類も各種いる。毒蛇による被害は後を絶たず、長さ170センチメートルに達するダボアイやキングコブラは猛毒で恐れられている。[酒井敏明]

地誌

自然地理的には東部山地、中央低地、西部山地に3区分され、歴史的、文化的にはイラワディ川中流平野を中心とする内陸部を上ビルマ、イラワディ・デルタや沿岸地方をあわせて下ビルマとよぶが、ここでは以下の9地域に分けて簡潔に述べる。
(1)アラカン海岸地域 ベンガル湾に面する細長いこの地域はチン丘陵とアラカン山脈によってほかの地域から分離されている。年降水量は夏に集中してきわめて多く、カラダン川、レムロ川の下流平野は水田化されている。アラカン王国の故地としてイラワディ川流域とは異なる歴史をもち、西のベンガル地方との交渉が長かった。アラカン方言が話され、イスラム教信徒も多い。
(2)西部丘陵地域 チン丘陵とアラカン山脈からなる山岳丘陵地域であり、森林が覆っている。断続する山脈、曲折する河谷によって多くの地区に分かれる。移動耕作や谷間で米作を行うチン人がおもに居住する。
(3)北部地域 亜熱帯・温帯森林が茂るカチン山地やパトカイ山脈などの高地と、イラワディ川上流およびチンドウィン川がつくる沖積平野とからなる。低地を占居するのは水稲耕作を行うビルマ人、シャン人であるが、山地にはカチン人、リス人、ナガ人などが半閉鎖的な部族社会をつくっている。
(4)中部乾燥地域 イラワディ川中流域の低地からなる。高温であり、湿潤な季節風は山に遮られて吹き込まないので、夏は乾燥が激しい。溜池灌漑(ためいけかんがい)に基づく古くからの米作地であり、伝統的ビルマ文化の故郷である。パガン、アバ、マンダレーなど、古跡や仏教文化遺産が多い。原油、石炭の埋蔵地がある。
(5)イラワディ川下流平野地域 低湿な原始林は19世紀後半から農業開発の舞台となり、輸出向け米作地帯に変貌(へんぼう)した。イラワディ・デルタには一望千里の水田が広がり、水路が四通八達する。移住定着した人口と輸出貿易の発達により、雑多な民族、人種が混住する先進的経済地域となった。ヤンゴン(ラングーン)、パテイン(バセイン)、プロームなど都市が多い。
(6)シッタン川下流平野地域 米とサトウキビを主作物とする農業が盛んである。歴史の古いバゴー(旧ペグー)、タトン、タウングーなどの都市がある。
(7)ペグー山脈地域 森林に覆われる低山地域で、少数のビルマ人とカレン人が住む。チーク材の産出がある。
(8)シャン高原地域 600~800メートルの河谷と盆地にはシャン人、交通不便な山奥にカレン人、ワ人、パラウン人などが住む。米作、養蚕、茶、果樹、ウシと水牛の飼養で知られる。チーク材、ボードウィンとマウチの鉱産があり、サルウィン川水系は包蔵水力が大きい。
(9)タニンタリー(旧テナセリム)地域 山地が海に迫って全般的に平野は少ないが、モールメインを中心とするサルウィン川デルタは米作地であり、ココヤシやゴムも栽培する。錫(すず)、タングステンは各地に産する。北部の平野にはモン人が集中して居住し、メルギー諸島のモーケン人は半漂泊的漁労民である。[酒井敏明]

歴史

10世紀以前については十分解明されていない。紀元後数世紀にオーストロネシア系のモン人がシッタン川河口地方に、チベット・ビルマ系のピュー人がイラワディ川中流域地方に定着し、水稲耕作に基づく社会を発展させ、小王国を建てる段階に入っていた。バラモン教や仏教などインド的な文化が強い影響を与えていたようである。
 ビルマ人は中国西部内陸から南下し、イラワディ川中流域に進出してその地のピュー人を同化、吸収し、849年にパガンに首都を建設したという。アノーヤター王(在位1044~1077)のときに下ビルマのモン人を滅ぼし、国家の制度を整えた。このパガン朝歴代の王は仏教への尊崇の念厚く、寺院やパゴダ(仏塔)を盛んに建設した。パガン王国が元(げん)朝フビライの遠征軍によって攻撃され(1287)弱体化したあと、ビルマ、シャン、モンの各民族が対立抗争を繰り返す分裂時代が続いたが、タウングー朝が成立して16世紀中ごろに領土を拡大するなど勢力を伸ばした。しかし1752年にモン人がこれを滅ぼした。
 その後1757年にアラウンパヤー王が上ビルマと下ビルマを統一し、最後のビルマ人の王国コンバウン朝を建てた。ポルトガルやフランスの登場の後を受け、インドの支配者イギリスはビルマ王国に三度侵攻軍を送り、1885年にこれを滅ぼし、翌1886年インドに併合するという形で植民地にした。
 ビルマ人の反イギリス独立運動は第一次世界大戦中に始まり、世界大恐慌以後、若い知識層の間に広まった。ビルマは第二次世界大戦中日本軍に占領されたが、各政治勢力は大同団結して反ファシスト人民自由連盟を結成、反攻してきたイギリス・インド軍と協力して日本軍を撃退した。戦後ビルマはイギリスとの間に独立協定を締結、1948年1月4日ビルマ連邦として独立した。
 独立交渉の立役者アウンサンが独立直前に暗殺され、独立後政党間や民族集団どうしの対立抗争が激しくなり、国内各地に反政府武装集団が割拠して内戦に突入した。政治・経済情勢が混乱するなか、1962年3月軍総司令官ネ・ウィンがクーデターによって政権を掌握した。憲法は停止され、国会は解散し革命評議会が組織された。ビルマ式社会主義を標榜(ひょうぼう)するネ・ウィンはビルマ社会主義計画党を結成、政治・経済的には鎖国主義をとり、国内治安の確保と産業の国有化を骨子とする社会主義化が進められた。しかし内戦は継続し、流通機構の混乱、農工業生産の停滞、インフレーションの進行により、長期にわたり国民生活は低水準にとどまった。
 国内がようやく安定に向かうと、ネ・ウィン軍事政権はしだいに国際社会へ復帰する方向に転じ、段階的に民政へ移行することになった。1973年12月新憲法草案が国民投票において圧倒的多数で支持され、1974年1月と2月に中央と地方の議員選挙が行われた。一院制人民議会が成立し、ネ・ウィンが大統領に就任した。1981年11月ネ・ウィンは党議長の座だけを握り、サン・ユSan Yu(1918―1996)が大統領を継いだ。1988年9月国防相ソウ・マウンSaw Maung(1928―1997)将軍が率いる国軍が権力を掌握、国家法秩序回復評議会(SLORC=State Law and Order Restoration Council)を設立して、議長に就任した。国内にはなお反政府勢力をかかえている。[酒井敏明]

政治

1990年5月に総選挙が行われ、アウンサンの娘で1989年7月から政府により自宅軟禁下にあったアウンサンスーチーが率いる国民民主連盟(NLD=National League for Democracy)が、人民議会の485議席中392を獲得して圧倒的な勝利を得たが、政府は民政への移行を拒み、民主勢力の弾圧を続けた。1992年ソウ議長は病気を理由に辞任し、タン・シュエThan Shwe(1933― )将軍が議長に就任し、首相兼国防相として、政府を指導。政府は民意を無視して新憲法の制定準備作業を進め、国民民主連盟は対決姿勢を強めていった。1995年7月、軍事政権はアウンサンスーチーの自宅軟禁を解除したが、政権とNLDの対話は成立しなかった。1996年にはヤンゴンで反政府の大規模学生デモが起こる。1997年、国家法秩序回復評議会は国家平和開発評議会(SPDC=State Peace and Development Council)へと改組された。同年タン・シュエは首相、国防相、国軍司令官を兼任したままSPDC議長に就任、その後2003年に首相を退いたが(国防省・国軍司令官はそのまま兼任)、事実上の国家元首であった。
 2000年9月アウンサンスーチーはふたたび自宅軟禁下におかれるが、2002年1月にタン・シュエと会談、同年5月軟禁を解かれる。しかし、2003年5月には軍政府当局がアウンサンスーチーとNLD幹部を拘束、同年9月以降、彼女は3回目の自宅軟禁下におかれる。2004年5月、軍事政権は約8年ぶりに国民会議を招集したが、国民会議に立法権はなく、事実上は軍事独裁政権であった。
 2005年11月ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからマンダレー管区のピンマナに移転すると発表。2006年10月ごろに移転を終了し、移転先はネピドー市と命名された。地方行政は7管区(サガイン、マンダレー、タニンタリー、マグウェ、ヤンゴン〈ラングーン〉、バゴー、イラワディ〈エーヤワディ〉)と、7少数民族自治州(カチン、カレン〈カイン〉、シャン、カヤー、モン、ラキン、チン)からなる。
 2007年8月、ガソリンなど燃料価格の大幅引上げをきっかけに反政府デモが発生、僧侶(そうりょ)、市民を中心に全国規模に広がった。9月にはヤンゴンで10万人規模のデモが行われるようになった。軍政府は武力によって鎮圧を強行、デモ参加者に多くの死傷者を出し、また取材中の日本人ジャーナリストも1名死亡した。国連人権理事会特別報告官の報告書(2007年12月)では死亡者数31、行方不明者数74とされている。
 2008年2月、軍政府は新憲法承認のための国民投票を同年5月に行うこと、総選挙を2010年中に行うことを発表。2008年5月の国民投票では新憲法が92.4%(軍政府発表)の賛成票を得て承認されたが、国民投票はサイクロンによる甚大な被害を受け、国内が混乱した状況下で強行された。この新憲法は連邦議会議員の4分の1を軍人とするほか、自身や両親、配偶者、子供が外国人であったり外国の市民権をもっている者は国家元首となれない等、アウンサンスーチーが排除され、軍の権力が維持される内容であった。2010年11月、総選挙を実施。2011年、大統領テイン・セインThein Sein(1945― )による新政府が発足し、国家平和開発評議会(SPDC)から政権が委譲された。2012年4月に行われた上下両院および地方議会補欠選挙では、軟禁を解かれたアウンサンスーチーが初めて選挙に参加して下院議員に当選している。
 外交は長く非同盟、中立を基本とし、鎖国に等しい閉鎖的な政策を続けていたが、内戦の継続と資本の不足のために経済が停滞した。1990年からは市場経済を目ざして開放政策をとり、積極的な外資導入を図っている。ミャンマーはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)への加盟を求め、ASEAN側には軍政の露骨な民主勢力抑圧を問題として反対する動きもあったが、1997年5月加盟が決定、同年7月正式加盟した。
 国軍は陸軍37万5000、海軍1万6000、空軍1万5000(2007)で、志願制。[酒井敏明]

経済

植民地時代、ビルマの林鉱産資源の開発、運輸、貿易はイギリス人が、中小規模の商業と流通は中国人とインド人が支配していた。イラワディ・デルタの米作地帯は、イギリスの植民地となったのちに開拓されたものである。そのため、インド人季節労働者が大量に流入し、下ビルマ農地の3分の1はチェティア・カーストとよばれるインド人金融業者とイギリス人の不在地主が所有していた。米、チーク材、石油、金属を輸出し、工業製品は消費財に至るまで各種を輸入するという植民地型経済の典型がビルマにみられたのである。独立後は、おもな生産手段を国有化し、社会主義的経済の建設を標榜したが、資本と経営能力をもつ人材の不足のために、経済は全般に停滞を続けた。1990年に市場経済政策に転換し、その後経済は活発化した。1992~1995年ころは高い経済成長率を示したが、その後は為替レートの問題や硬直的な経済構造などが経済発展をさまたげ、外貨不足も顕著となっている。2003年5月のアウンサンスーチー拘束を受けて、アメリカが対ミャンマー制裁法を新たに制定したことが打撃となった。2004年10月にはヨーロッパ連合(EU)がミャンマーの反民主化的状況に対して行った制裁措置(ミャンマー国営企業への借款の禁止等を含む)を強化した。さらに2007年9月のデモ参加者に対する軍政府の強行手段の行使に対してアメリカ、ヨーロッパ連合はさらなる経済制裁の強加を行った。またオーストラリアも金融制裁措置を行うなど、厳しい経済状況が続いている。流通通貨はチャットKyat。[酒井敏明]

農林・水産業

1953年に土地改革が行われ、保有限度を超える農地が収用されて土地をもたない農民に配分された。1979年には427万戸の農家が960万ヘクタールの耕地を耕作し、1戸当りの所有農地は、農家の31%が2ヘクタール以下、24%が2~4ヘクタールであった。第二次世界大戦前の最盛期には米を毎年300万トン輸出する世界第1位の輸出国であったが、人口増加と価格の低迷、流通機構の不備もあって、輸出能力は激減した。
 2005年の農業人口は全就業者人口の約70%と高率である。耕地面積は1006万8000ヘクタール、果樹などの永年作物地面積が88万8000ヘクタールとなっており、耕地面積の約60%を水田が占めている。2006年の穀物生産量は2647万4000トンで、そのうち約95%の2520万トンが米生産量である。
 米のほかに下ビルマでおもに栽培されるのは、ワタ、サトウキビ、ゴマ、茶、ジュートなどである。乾燥する上ビルマでは運河や溜池を利用する灌漑農業が重要であり、米に次いでワタ、タバコ、ラッカセイ、ヒエ、ゴマ、豆類、トウモロコシの作付けが多い。シャン高原の丘陵地帯では各種果樹と野菜、茶、コーヒーが生産される。
 森林面積は3222万ヘクタールで国土の49%を占め、このうち960万ヘクタールが管理森林である。外国資本の所有下にあった森林は1949年に国有化され、国家木材庁が伐採、搬出、製材、販売を独占している。木材の年間生産量(2006)は4254万8000立方メートルで、そのうち用材が426万2000立方メートル、残りの3828万6000立方メートルが薪炭材である。家具などに重宝されるチーク材や堅木類も用材として輸出されている。河川、湖沼、運河、水田などで網や簗(やな)を用いる内水面漁業が伝統的に盛んであったが、いまでは海面漁業が漁獲高の約70%に達している。2006年の全漁獲量は200万7000トンで、そのうち137万6000トンを海面漁業による漁獲量が占めている。水産物は塩干魚や魚醤(ぎょしょう)の原料としてビルマ人の食生活に欠かすことができない。[酒井敏明]

鉱工業

原油はイラワディ川中流のエナンジャウンを中心とする一帯で採掘され、植民地時代には輸出産業として重要であった。しかし、第二次世界大戦中および内戦における被害が大きかったうえに、西アジア、北アフリカの産油量が飛躍的に増加したため、産油国としてのビルマの地位は極端に低下した。近年はチャウ、ミンブーなどで新しい油田が開発され、天然ガスとともに生産は伸びている。マルタバン湾岸やアラカン海岸沖では外国からの技術協力によって海底油田の探査が行われている。また、同地域やアンダマン海からは海底ガス田が発見され、産出された天然ガスの大半をタイへ輸出している。鉱物資源は各種埋蔵されているが十分に開発されていない。シャン高原北部ボードウィンの鉛と亜鉛、同高原南西部からタニンタリー地区沿岸にかけては錫(すず)とタングステンがある。採掘と精錬は1962年から石油鉱物開発公社が行っている。昔から知られているルビーとサファイアはシャン高原西部のモウゴウ、ひすいはカチン州南部モガウンで採掘される。工業は、植民地時代には精米、製材、石油精製のほかにはほとんどなかった。産業国有化政策によって1960年代に外資系企業が接収されるとともに新たに国営工場が建設され、業種も多様化している。いちおうの発展がみられるのは、砂糖、植物油、タバコ、ビール、紅茶などの食品工業、鋼鉄、農業機械、ポンプ、綿織物、絹、合成繊維、麻袋、薬品、洗剤、セメントなどである。[酒井敏明]

貿易

植民地時代ビルマは、米、チーク材、石油、鉱物類の輸出が好調で、大幅な輸出超過を続けた。独立後は経済活動全般が内戦による混乱で低下し、一方輸入は人口増大のために膨張し、貿易は入超となった。1994年時には、輸出額の50.4%を米、豆類、トウモロコシ、ゴム、ジュートなど農産物が占め、チーク材を中心とする林産物22.2%、エビなどの水産物、鉛、亜鉛などの鉱産物、ルビーなど宝石類がこれに続いた。経済指標として、推定名目GDP(国内総生産)は約156億ドル(2007)、1人当りGDPは219ドル(2006)、経済成長率は5.0%(2005)、貿易額は輸出が約60億ドル、輸入が約31億ドル(2006)となっている。主要貿易品目は、輸出が天然ガス、チーク材、豆類、米、エビなど、輸入が機械類、金属・工業製品、原油、電気機械、紙類など。主要貿易相手国は、輸出がタイ、インド、中国、日本、ドイツ、マレーシア、輸入は中国、タイ、シンガポール、マレーシア、韓国となっている。[酒井敏明]

交通

旅客および貨物の国内輸送において約8000キロメートルの可航水路をもつ内陸航運が果たす役割は大きい。イラワディ川は雨期には河口から1400キロメートル上流のミッチーナまで、バモーまでは周年喫水1.2メートルの汽船が航行できる。支流のチンドウィン川は合流点から110キロメートル(雨期には610キロメートル)上流まで、デルタ地帯には3200キロメートルの可航水路がある。急流が多いサルウィン川は河口のモールメインから200キロメートルしか遡航(そこう)できない。アラカン地区のカラダン川にも水路がある。沿岸地帯には北のシトウェから南のメルギーまで汽船の航路がある。鉄道も国営で、全国に4809キロメートル(2005)の路線が営業している。路線網の中心は2006年10月まで同国の首都であったヤンゴンで、ここからマンダレー、プローム、マルタバンの各線が延びる。マンダレーからミッチーナに至るものや、イラワディ・デルタの支線もある。道路延長は約3万5900キロメートルあるが、舗装されているのはそのうちの12.9%(2002)にとどまる。国営ミャンマー国際航空会社はヤンゴン北郊にあるミンガラドン空港を中心として、国内45空港との間に定期便を就航させている。バンコク、クアラ・ルンプール、シンガポールの各都市には国際線が通じている。[酒井敏明]

社会・文化

人口のおよそ70%を占めるビルマ人が政治、経済のあらゆる分野において大きな力をもっている。経済形態、社会組織、言語、宗教を異にする非ビルマ民族が20ほど存在し、山岳丘陵地帯に分布するばかりではなく、ビルマ人といっしょに平野や都市に居住するものもある。過去において勢力の消長があり、イギリス植民地時代の統治政策も絡んで、民族間の共存、融合の道は険しく、独立後の内戦の要因の一つは民族間の対立であった。
 平野に住んで水稲耕作を営み、南方上座部(小乗)仏教を信奉するという点がビルマ人と共通するモン人(約130万人)は、モールメインを中心とするモン州北部とイラワディ・デルタに住む。シャン人(約250万人)はかつてシャン高原に34の小王国を建てた水稲耕作民であり、タイ人と同じ系統に属する。ビルマ人を除いて最大の集団カレン人(250万~300万人)は元来山岳地帯に住む移動農耕民であった。このうちポー支族は、平野やデルタ地帯に下って水稲栽培に進出したが、スゴー支族はシャン高原にとどまり、タイからの密貿易ルートを支配して現在なお反政府活動を続けているといわれている。ポー支族のうち、カヤー人(約7万5000人)はカヤー州に集中している。
 カチン州やシャン州の辺境の山岳地帯には移動耕作民であるカチン人、ワ人、パラウン人などの閉鎖的な小社会が散在している。西部山地には北にナガ人(約5万人)、中央部のチン丘陵からアラカン山脈にかけてチン人(約35万人)が住み、ともに国境を越えたインド側により多くの同胞がいる。アラカン人はイラワディ川流域からは独立した歴史を展開してきたし、隣接するベンガルの影響のもとにイスラム教を信奉するものを含んでいる。このほか、人口の少ないいくつかの民族が居住するが、メルギー諸島のモーケン人は家舟に乗って移動する漁労民であることに特徴がある。なお、1982年新市民法が制定され、国民を純粋のビルマ人(少数民族を含む)、準ビルマ人(混血)、非ビルマ人(インド人、中国人)に分類し、後二者は議員への立候補や政府の責任者につくことを禁止した。
 ビルマ人は上座部仏教を厚く信仰し、男子は10歳前後の年齢で、たとえ短期間でも見習僧として修行生活を経験するのが普通である。227に及ぶ厳しい戒律を守って僧院に起居するポンジー(僧)は民衆の尊敬を集め、托鉢(たくはつ)僧に食物を捧(ささ)げるのが民衆の毎日の生活の始まりとなっている。ヤンゴンにある、高さ99メートルの金色に輝く尖塔(せんとう)をそびえ立たせるシュエダゴン・パゴダは、仏教国ミャンマーの象徴である。家の守護神、村の守護神に食物や花のお供えを絶やさないナットとよばれるアミニズム崇拝も民衆の間に根強いものがある。ビルマ人と並んでシャン人、モン人も仏教徒であるが、山地民族には自然崇拝や精霊崇拝が多い。キリスト教各派伝道師は布教に努力したが、カレン人など一部の山岳民族に入信者を得たにとどまった。インド系住民はヒンドゥー教を守り、中国系住民は儒教、道教を心の支えとしている。
 高温と雨に恵まれた暮らしやすい土地であることと関連して、一般にビルマ人は快活で楽天的であり生活を楽しむ。女性はよく働き、社会的地位は相対的には高いほうである。男子の見習僧生活のための入仏門式が重要な通過儀礼の一つであるのに対応して、女子は耳たぶに孔(あな)をあける穿耳(せんじ)式が成人のための儀礼である。こうした行事は親類や近隣の親しい人々といっしょに祝うのが例であり、このときには芝居が上演され、食事を用意してもてなす。
 多数派であるビルマ民族の間では、仏教が社会的価値判断や個人の行動の基準として広く行き渡っている。しかし少数民族のなかにはキリスト教入信者もあり、アニミズムの信奉者もあるので、国民のあらゆる層を統合する力とはなりえていない。
 教育制度は小学校5年、中学校4年、高校2年の五・四・二制で、義務教育が憲法で定められており、義務教育の小学校の授業料は無料。僧院での寺子屋教育が盛んで識字率は男93.7%、女86.2%(2003)と高い。ミャンマー語を公用語とし、英語も広く用いられる。一部で日本語も話されている。新聞はミャンマー語、英語が用いられ、ラジオ放送、テレビ局、通信社もあるがメディアはいずれも国有である。[酒井敏明]

日本との関係

1954年(昭和29)11月、平和条約を調印し国交を樹立した。2007年度までの日本の政府開発援助(ODA)額累計は、有償資金協力4029億7200万円、無償資金協力1797億9000万円、技術協力359億9100万円となっている。経済協力開発機構(OECD)加盟国中では日本は最大の援助国である。
 2007年の対日輸出額はエビなどの食料品、林産品を中心に1億5520万ドル、輸入は機械、輸送用機器、電気機器など1億0920万ドルとなっている。[酒井敏明]
『外務省監修『世界各国便覧叢書53 ビルマ』(1974・日本国際問題研究所) ▽大野徹他著『ビルマ――その社会と価値観』(1975・現代アジア出版会) ▽G・E・ハーヴェイ著『ユーラシア叢書16 ビルマ史』(1976・原書房) ▽佐久間平喜著『ビルマ現代政治史』(1984・勁草書房) ▽綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいミャンマー第2版』(1994・弘文堂) ▽田村克己・根本敬著『アジア読本ビルマ』(1997・河出書房新社) ▽高橋昭雄著『現代ミャンマーの農村経済』(2000・東京大学出版会) ▽藤田幸一編『ミャンマー移行経済の変容』(2005・アジア経済研究所) ▽天川直子編『後発ASEAN諸国の工業化』(2006・アジア経済研究所) ▽高谷紀夫著『ビルマの民族表象』(2008・法蔵館) ▽工藤年博編『ミャンマー経済の実像』(2008・アジア経済研究所)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ミャンマーの関連キーワードネーピードーマニプルしゃんしゃん祭花火ニャンウーマーケットミャンマーとビルマミャンマーのサイクロン被害ミャンマーのゾウ在日ミャンマー人カチン[州]カレン[州]

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ミャンマーの関連情報