翻訳|Myanmar
基本情報
正式名称=ミャンマー連邦Union of Myanmar
面積=67万6578km2
人口(2010)=5050万人
首都=ネーピードーNaypyidaw(日本との時差=-2時間30分)
主要言語=ビルマ語
通貨=チャットKyat
東南アジア,インドシナ半島西部の共和国。1989年,国名のビルマBurmaをミャンマーとビルマ語による呼称に改めた。東はタイ,ラオス,北東は中国,西はインド,バングラデシュに囲まれる。面積は日本の1.8倍,タイやフランスよりやや大きい。1948年にイギリスから独立した。国民の85%までが仏教を信仰している。
国土は,北緯9°36′~28°29′,東経92°10′~101°09′に位置する。全体の形はひし形に近い。東西の幅は最大900km,南北の長さは1300kmであるが,南端から細長い帯がさらに800kmも南のマレー半島の方にのびている。地勢は北高南低で,西からのびてきた低地ヒマラヤがミャンマーの北端で分岐し,一つはインド,バングラデシュとの間をナガ丘陵,チン丘陵,アラカン山脈の山並みとなって南走し,もう一つは中国,ラオス,タイとの間でシャン台地,テナッセリム山脈を形成,マレー半島へと連なっている。国土の東と西を南北に走るこの二つの山並みに挟まれた中央をイラワジ川が北から南へ貫流し,流域に平野を形づくっている。ヒマラヤ山脈へと連なる北部のカチン山地には,カカルボ・ラージ,ガムラン・ラージといった6000m近い高峰が群立している。おもな河川は,イラワジ,シッタウン,サルウィンの三つで,いずれも国土を北から南へと縦貫している。イラワジ川は全長2400km,流域面積41万km2におよぶ大河で,国土のほぼ中央を流れ,下流でヤンゴン(旧ラングーン),バセインなど九つの分流となってマルタバン(モウタマ)湾に注いでいる。3万5000km2の面積をもつ下流の低湿地帯はイラワジ・デルタと呼ばれ,この国最大の米の生産地になっている。中央部で合流するチンドウィン川はイラワジ最大の支流で,北西のナガ丘陵に源を発している。シッタウン川はシャン台地に源を発し,シャン台地とペグー山脈とに挟まれた狭い平野を流れてマルタバン湾に注ぐ。560kmにおよぶ水路の大半は船舶の航行には不向きである。サルウィン川はチベット高原に源を発し,雲南を経由,シャン台地からカヤー,カレン両州を2800kmにわたって貫流したのち,マルタバン湾に注ぐ。急流が多いが,木材の搬出に利用されている。
中部と南部が熱帯,北部は温帯に属し,気候は南と北でかなり違うが,全体としてみれば高温多湿である。南西および北西からの季節風の影響で1年が雨季と乾季に分かれ,雨季は5月ごろから10月ごろまで,乾季は11月ごろから4月ごろまで続く。年降水量は,中部の乾燥地帯では600~800mmと少ないが,イラワジ・デルタでは2500mm,アラカン,テナッセリム両海岸では4000~5000mmに達する。雨季の雨は日本の梅雨とは違い,激しいスコール性である。乾季は,11月から2月ごろまでの涼季と,3月ごろから4月までの暑季(暑季はさらに雨季に入った5月末ごろまで続く)とに分かれる。涼季には北西季節風の関係で降水量が0に近くなり,1日の最低気温がヤンゴンでも15℃まで下がることがある。暑季は酷暑の季節で,内陸部の乾燥地帯では日中の最高気温が40℃を超すこともまれではない。植物は全土で約7000種知られているが,生育地によって温帯山地林,常緑熱帯降雨林,有刺叢林,半砂漠林などに分かれる。
ミャンマーは多民族国家である。総人口の70%近くが平地に住むビルマ族で,残りは山地に住むさまざまな少数民族が25%,インド人,華僑などの外来アジア人が5%ほどいる。ビルマ土着の民族は人類学的にはすべてモンゴロイドであるが,言語系統的には,チベット・ビルマ語派,タイ諸語,アウストロアジア語族,アウストロネシア語族の四つに分かれる。イラワジ川流域の平地に住み,チベット・ビルマ語系の言語を話すビルマ族は,9世紀の中ごろ,北方から移動してきたとみられる。同じチベット・ビルマ語系の民族でも,カチン族は中国国境沿いのカチン州に,チン族はインド国境に接したチン州に住んでいる。タイ諸語系の民族のうち最も人口が多いシャン族は,タイ,ラオスと国境を接したシャン州に住んでいる。カレン族はサルウィン川流域のカヤー,カレン両州とイラワジ・デルタに多い。アウストロアジア語系のモン族はサルウィン川下流域のモン州に,パラウン族はシャン州北部にそれぞれ住んでいる。〈海のジプシー〉と呼ばれるサロン族はアウストロネシア語系の民族で,南端の島嶼(とうしよ)を中心に海上漂泊の生活をしている。
仏教国で全人口の85%までが仏教を信仰し,なかでもビルマ,モン,シャンの3民族は100%近くが仏教徒である。このほか,山地少数民族に多いアニミズム(5%),インド系住民によるイスラムとヒンドゥー教(各4%),カレン,カチン,チンなどの山地民の間に広まっているキリスト教(2%)などがある。ビルマの仏教は,スリランカ,タイ,カンボジアなどの仏教同様に南方上座部仏教で,前3世紀の初めごろ,モン族の地ラーマニャデーサに伝えられたのが最初だとされる。その後パガン朝の興隆とともに全土に普及し,15世紀後半にはスリランカの大寺派の授戒様式が伝えられて今日のビルマ上座部仏教の基礎となった。パガン時代には国王や王族,貴族による仏塔,寺院の建立が盛んに行われたが,そうした建塔思想はその後も人々の間に強く根を張っており,今日でも白い仏塔が全国いたるところで見られる。またビルマ人の社会では,男子は一生に一度は出家得度して修行するのが不文律となっている。10万人を超す比丘とそれに数倍する沙弥とで成る出家集団は,広範な在家信者の存在に支えられている。
王朝制国家であった19世紀以前のビルマでは,社会は,王権を支える官僚,軍人階層のアフムダンと,農民層のアティーという二つの身分によって成り立っていた。こうした身分制度はイギリスによる植民地化とともに消滅し,今日のビルマ人社会には身分制度は存在しないといってよい。都市住民と地方住民との間には意識や行動,価値観などの面でかなりの違いがみられるが,ビルマ語を話し,仏教を信仰し,伝統的生活様式を維持しているという点で両者は基盤を共有しているといえる。山地居住の少数民族と平地居住のビルマ族との間には大きな違いがあるが,この溝は植民地時代に為政者によって巧妙に利用されたこともあって,容易には埋まりそうにない。
ビルマ人の社会は,夫婦とその子から成る核家族が中心である。しかし居住形態からみると直系尊属,直系卑属との同居や,結婚した子どもが親と同居する拡大家族,結婚した兄弟姉妹たちが同居する傍系の拡大家族の例も,決してまれではない。新婚夫婦の居住形態は妻の両親と同居する妻方居住制が普通であるが,たいてい数年後分出する。家族相互の紐帯は緊密で,父子・長幼の間に厳然とした秩序がある。けれどもそれは,家父長制社会であることを意味しはしない。ビルマ人の社会は父方,母方へのつながりが均等な双系制社会で,〈イエ〉という観念はない。先祖の霊をまつる祖霊信仰もない。遺産は子どもたちの間で均等に相続される。もっとも,ビルマ族以外の場合は事情が異なる。モン族やシャン族は仏教徒とはいっても祖霊祭祀を行うし,カチン族やチン族の間では,長子ではなく末子中心に財産相続が行われている。なお,5歳から10歳まで5年間の義務教育が実施されている。
太古,イラワジ川流域に人が住んでいたことは,斧やのみなどの打製石器,局部磨製石器の出土によってうかがえる。これらの石器は今からおよそ1万1000年前,すなわち旧石器時代の終りから新石器時代の初めにかけて使用されたとみられている。
《南伝大蔵経》の中に含まれる《島史》や《大史》などの記述によると,アショーカ王の時代,第3回結集(けつじゆう)終了後,多数の布教師がインドから各地へ派遣されたが,ソーナとウッタラの両長老は金地国(スワンナブーミ)へ派遣されたという。その金地国は,ビルマの仏教史書によるとサルウィン川,シッタウン川の下流にあったモン族の国ラーマニャデーサだとされる。それが事実だとすれば,マルタバン湾岸のラーマニャデーサとインド東岸との間には,前3世紀ごろから交流があったということになる。
イラワジ川の流域には,ピュー族の遺跡が点在している。遺跡はいずれも城市の周囲を煉瓦造の長大な城壁で取り囲み,その外側を堀で囲繞(いによう)した防衛的性格の強いものである。出土した遺物の炭素14法による測定値から考えて,これらの遺跡は2世紀から9世紀ごろまでの間に栄えていたとみられる。その住民は,チベット・ビルマ語系の言語を話す民族で,漢籍史料には驃,僄,剽,漂などの名称で現れるが,自称は突羅朱であった。彼らは両面に文様を施した銀貨を使用し,死者は荼毘(だび)に付したのち,壺や石甕に納めて埋葬した。彼らが使用した文字はインドのカダンバ文字に類似している。ピュー族の国は9世紀中ごろ,雲南の南詔に攻撃され,住民多数が拉致されて滅亡した。
ピュー族国家の消滅を契機にイラワジ平野に進出したのが,同じチベット・ビルマ語系のビルマ族である。彼らはアノーヤターの指導の下に国土統一に成功,11世紀中ごろパガン朝を築いた。パガンではモン族の地タトンからもたらされた上座部仏教が信仰され,多数の堂塔・伽藍が建立された。人々は,土地や奴隷をこぞって三宝(仏法僧)に寄進した。この華麗な仏教文化の開花が,一方では国力の衰退を招いた。パガンは13世紀後半,4度にわたって繰り返された元の侵攻に耐えきれず,1287年瓦解した。その後のビルマの覇権は,東部山地からミンザインへと進出してきたシャン族の手に移行した。シャン族は元の5度目の侵攻を撃退したのち,1312年にピンヤ,15年にはサガインの両王朝を建てた。この両王朝は64年タドーミンビャーによってアバ朝に統合されたが,北のシャン系諸部族の攻撃で16世紀前半に滅び去った。
パガンの崩壊後,シャン族の支配を逃れて南下したビルマ族は,シッタウン川の上流タウングーに集結し城砦を構築した。16世紀中ごろ,ダビンシュウェティー,バインナウンといった傑出した指導者の出現とともに,ビルマ族は史上2度目の国土統一を達成する。タウングー朝ビルマはチエンマイ,アユタヤ,ビエンチャンといったタイ族諸王国を攻略して強大な王国に成長したものの,相次ぐ遠征に伴う絶えざる兵士の徴発,農地の荒廃,国力の衰退といった悪循環を引き起こした。17世紀から18世紀にかけて,西方のマニプル,北方の清などのたび重なる侵犯やチエンマイの離反,新興勢力グウェの勃興などによって衰弱したタウングー朝は,1752年南方のモン族の手で倒された。
このモン族の興隆に対抗してビルマ族の覇権を三たび確立したのが,シュウェボー出身のアラウンパヤーである。彼は5年間におよぶモン族との戦闘に打ち勝って1752年コンバウン朝を建てた。彼とその後継者たちは一貫して拡張政策を遂行した。60年代に8年間続いた清の侵略を撃退する一方,1752年にはルアンプラバン,67年にはアユタヤ,85年にはアラカンを征服して広大な版図を築いた。しかしとどまることを知らぬ拡張主義は,19世紀に入りイギリス勢力と接触することによって挫折する。イギリスとビルマとの戦争(ビルマ戦争)は3回行われた。最初の衝突はアッサム紛争とアラカン国境での国境侵犯とがきっかけで1824年に発生,敗れたビルマはアッサム,マニプルの放棄,アラカン,テナッセリム両地方の割譲,賠償金1000万ルピーの支払という犠牲を払わされた。2度目の衝突は,イギリス人船長に対するラングーン太守の罰金徴収をめぐって52年に発生した。インド総督は一方的にペグー地方のイギリス領化を宣言,ビルマ王国を内陸部に封じ込めた。3度目の衝突は,イギリス系木材企業の脱税に対するビルマ政府の罰金課税が発端となって85年に起きた。インド総督はビルマの実質的保護領化を内容とする最後通告を突き付け,拒絶されると軍事行動に出て王都マンダレーを落とし,国王ティーボーを捕らえた。ビルマ王国はこうして滅亡し,86年全土がイギリス領とされ,植民地となった。
イギリスの支配に対するビルマ人の政治的反応は,第1次世界大戦が終了するまではほとんど表面化しなかったが,モンタギュー=チェルムスフォード報告により両頭制政治がインドに導入された1919年,ビルマだけがこの〈改革〉から除外されたことからビルマ人の民族感情が高まった。それは20年の大学ストを契機に高揚し,ビルマ人団体総評議会という政治結社を誕生させるにいたった。またウー・オッタマ,ウー・ウィサヤといった反英・反権力思想の僧侶による民衆への啓蒙運動も大きな影響を与えた。23年ビルマにも両頭制が導入され,副総督は総督に昇格した。立法評議会選出の長官2名には農林,教育,厚生といった事項が譲渡されたが,財政,地租,警察,司法といった留保事項は総督の掌中に残され,国防,外交,通貨などの重要事項はイギリス領インド政府が握ったままであった。こうした部分的行政改革が行われたものの,農民の貧困化が進行し,30年末ターヤーワディ地方の農民たちが税の延納,減税を要求して蜂起した。この一揆は各地に波及したが31年に指導者のサヤーサンが死刑に処され,32年には一揆は鎮圧された。当時イギリスでは,インドからのビルマ分離の必要性が論議され始めていた。35年に成立した改正ビルマ統治法によってビルマはインドから分離され,イギリス国王の名代である総督によって統治されることになった。上・下両院から成る立法評議会の選挙が行われ,任命制の長官10名で構成される行政参事会が設けられた。初めて成立したビルマ人の政権は,バモーを首班とするものであった。1930年代は,急進的な民族主義者が台頭した時代でもある。自分たちの名前に〈主人〉を意味するビルマ語〈タキン〉を付けて呼びあったことから,彼らはタキン党と呼ばれる。
第2次大戦の勃発に伴い,ビルマ人の間では戦争協力をめぐって意見が対立した。非協力を主張するタキンや,タキンたちと組んで自由ブロックを結成したバモーらは,弾圧された。日本の参謀本部によって設置された対ビルマ謀略機関〈南機関〉は,40年から41年にかけて青年タキン30名をビルマから密出国させ,海南島で軍事訓練を施したうえ,ビルマ独立軍を結成させた。太平洋戦争勃発とともに,ビルマ独立軍は日本軍と連携してビルマに進出した。バモーを首班とする中央行政府が設けられ,43年には東条内閣によってビルマ独立が許容された。しかし日本によるビルマ独立は見せかけにすぎず,対日不信を募らせたアウンサンらは,45年3月ビルマ軍を率いて蜂起,全土で抗日運動を展開した。
終戦とともにビルマにはイギリスの民政が復活した。ビルマ軍,ビルマ共産党,ビルマ社会党の統一組織〈反ファシスト人民自由連盟〉は,イギリスのアトリー内閣を相手にビルマ独立の交渉を行った。47年7月にアウンサン以下7名の行政参事会員が暗殺されるという悲運に見舞われたものの,ビルマは48年1月4日連邦共和国として独立した。
独立と同時に,ビルマは国家崩壊の危機に直面した。その第1は,コミンフォルムの闘争路線を反映して行われた48年3月のビルマ共産党の武装蜂起である。同年8月には左派の人民義勇軍が反政府活動に転じた。49年1月にはテナッセリムやイラワジ・デルタでカレン族が蜂起した。正規軍からもカレン族3個大隊が反徒側に寝返った。カレン族の臨時政府がタウングーに樹立され,カレン国〈コートゥーレー〉の独立が宣言された。ビルマ軍はネーウィン司令官の下に兵員を強化して事態収拾に努め,反政府組織の活動は52年を境に衰退した。このころ国民は,長びく内戦と万年与党の座に安住して腐敗した反ファシスト人民自由連盟に不満を抱いていた。56年の総選挙では,弱小10政党が合同結成した民族統一戦線が250議席中47議席を獲得して与党をあわてさせた。与党内部では,指導者のウー・ヌとウー・バスウェ,ウー・チョーニエインとの間に亀裂が入った。両派の対立が激化し,58年6月には分裂したため,ネーウィン参謀総長が担ぎ出され,選挙管理内閣が組織された。60年2月の総選挙ではウー・ヌの率いる連邦党が圧勝,反ファシスト人民自由連盟は大敗し,ウー・バスウェもウー・チョーニエインも落選した。ウー・ヌ内閣が再登場したが,政情は不安定であった。シャン族の間からは連邦離脱の声が出始めた。カチン族の過激派も独立を求めて蜂起した。ネーウィン将軍は62年3月クーデタを決行,政治家を逮捕するとともに憲法を停止,国会を解散した。高級将校16名から成る革命評議会が結成され,議長のネーウィンが全権を掌握した。革命評議会は議会制民主主義を否定,社会民主主義国家の建設を目ざして生産資本を国有化した。既成政党はすべて解散され,〈ビルマの社会主義への道〉と題する綱領を実現する組織として,ビルマ社会主義計画党が結成された。中央から地方の末端にいたるまで,すべての行政機構に軍人が配置された。
革命評議会は,治安回復を目標に63年6月反政府諸組織と和平交渉に乗り出したが,カレン族右派勢力との交渉を除いて不成功に終わった。しかし農民評議会,労働者評議会など国民の組織化は着実に進められた。71年新憲法起草委員会が設置されて各地で公聴会が開催され,3回にわたって練り直された憲法草案は73年12月の国民投票で90%強の支持を得て承認された。74年1月人民議会の選挙が行われ,選出議員450名による第1回人民議会が3月に開かれた。革命評議会は解散され,12年間にわたって続いた軍政は廃止された。軍籍を離れたネーウィンが大統領に選出されて民政移管は完了し,国名もビルマ連邦社会主義共和国と改められた。革命政権時代のビルマは,国連外交を進めるほかは東南アジア条約機構にも東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))にも加盟せず,鎖国に近い独自の路線を推進した。民政移管に前後して73年アジア開発銀行に加盟,東南アジア開発閣僚会議にも代表を派遣するなど,いくらか開放的姿勢を示しはしたが,中立・非同盟という基本方針だけは堅持した。超大国に対しては等距離姿勢をとり,79年には左傾化した非同盟諸国会議を非難して脱退した。
1962年のクーデタは議会制民主主義を否定したが,74年の民政移管では,国権を行使するのは国民の代表たる人民議会であるということになった。人民議会は唯一の立法機関で一院制である。全国475の選挙区(1区1人。1981年10月現在)から選ばれた議員によって構成され,多数決の原理に基づいて運営される。任期は4年で,年に2回定例議会が開かれる。大臣17名で構成される閣僚組織,行政を担当する機関である。大臣はすべて人民議会の議員の中から選出され,人民議会に対して責任を負う。任期は4年で,首相は閣僚組織の間で選出される。人民裁判組織は最高の司法機関で,判決は判事たちの合議に基づいて行われる。判事は9名で,すべて人民議会の議員の中から選出され,人民議会に対して責任を負う。任期は人民議会同様4年である。ビルマの国家機能は,このように立法,行政,司法の三権に一応分離されてはいるものの,すべてが人民議会を出発点とし,各機関の責任もまたすべて人民議会に対して負うという人民議会至上主義が貫かれている。これは,人民議会が国民の代表によって構成される最高の国家機関だという認識に基づいてとられた措置である。
国家評議会もまた,この人民議会を基につくり出された機関の一つである。この評議会は地方行政区画を基準に選出された人民議会議員28名と首相とによって構成され,人民議会に対して責任を負う。任期は4年である。この評議会には,人民議会の閉会中,法的拘束力をもつ命令を出す権限が与えられており,非常事態宣言や軍政布告,外国からの侵略に対する軍事行動の決定,閣僚候補の選定,諸外国との国交・断交などの決定,条約の締結・批准・破棄・脱退などの決定,中央および地方各段階の行政機関に対する指導・監督といった高度の政治的権限が付与されている。また,この評議会の議長に選出されたものは大統領に就任することになっており,国家を代表する。
地方の行政は,人民評議会によって執り行われる。地区は管区または州,郡,村落または区の3段階に分けられ,各段階ごとに人民評議会が設置される。評議会の議員は当該地区の住民による直接選挙で選ばれる。任期は4年である。
74年に制定された現行憲法では,ビルマ社会主義計画党による一党独裁がはっきり打ち出されいる。この党は,革命評議会の基本綱領を推進する機関として1962年7月に結成された。共産党が非合法化され,既成政党がすべて解散されたビルマでは,存在を認められた唯一の政党である。設立当初は革命評議会のメンバーを中心とする限られた数の正党員による幹部政党であったが,70年以降大衆政党に改編された。党には中央,監査,規律の3委員会が設けられ,それぞれ党大会で選出された委員によって構成されている。中央委員会の下には,管区(または州)段階の地域委員会,郡段階の党支部が置かれている。計画党には国家を指導するという重要な役割が与えられており,人民議会や人民評議会の議員候補は党員であることを要求されている。83年末現在,計画党議長にはネーウィン,大統領には81年11月にネーウィンから引き継いだサンユ,首相にはマウンマウンカが就任している。いずれも軍人出身で,現在のビルマの政治体制が軍政当時の性格を基本的には継承したものであることを示している。
こうした政治体制に対して,その打倒あるいは武力による反対闘争を展開して,いる反政府組織には,独立以来武装闘争を続けているビルマ共産党と,現在の国家体制からの離脱を志向する少数民族の組織とがある。ビルマ国軍は,現在の国家体制の維持のためその反政府組織と厳しく対決しているが,兵力約12万の陸軍と6000の海軍,7000の空軍の三軍から成る。主力は陸軍で,9軍管区,6個師団で編成されている。
独立までのビルマ経済は,農業,林業,鉱業などの第1次産業による生産と輸出,および完成消費財の輸入という植民地型経済の典型的な構造をしていた。原材料の供給源,完成消費財の市場というビルマ経済のこの基本的性格は,太平洋戦争によって破壊を被りはしたものの,独立後もさほど変化しなかった。むしろ輸出に占める米の比率だけが異常に高まるなど,ますます先鋭化する傾向にあった。たまたま朝鮮戦争の特需で潤った1952年,政府は8ヵ年の野心的な経済開発計画を立案したが,国際市場における米の需要の後退で外貨事情が悪化し,わずか4年間で計画は破棄されてしまった。62年に登場した軍事政権は社会主義を志向し,63年から64年にかけて金融,流通機構を,67年から68年にかけては生産機構を国営化した。1964年にはビルマ輸出入公社が設立されて貿易のいっさいがこの組織に独占されるようになり,65年には22の公社が設立されて主要産業の国家管理が行われるようになった。1950年代にはあまり実効の上がらなかった土地の国有化も,農業関係法の整備によって60年代には実現,小作農は自作農となり,地主は特権を剝奪された。64年以降,政府は工業化政策にも力を注いだ。事実,部門別の投資割合は70年代においても,農業の一桁台に対し工業のそれは総額の1/4近くを占めている。そうした努力にもかかわらず,ビルマの国内総生産に占める工業の割合は1981/82年現在で1/10強にすぎず,農業が1/4強を閉めている。農業の役割が依然としてきわめて重要であることを示しており,労働総人口からみても65%が農業従事者である。その農業生産の中心は米で,耕地総面積の5割強が水田で占められ,輸出総額の50%は米の輸出による。米やチークといった特定の一次産品を輸出し,建設資材,機械,輸送設備などの資本財を輸入するというビルマの貿易の特徴は,年をおって強まっている。このような貿易構造を反映して,貿易の相手国も,輸出がヨーロッパ共同体,スリランカ,バングラデシュ,インド,インドネシアといったビルマ米およびその他の一次産品の需要国が中心であり,輸入は日本,ヨーロッパ共同体といった先進諸国が相手となっている。なかでも日本の割合は輸入全体の3割を超えており,その重要性がうかがえる。
産業の基幹である農業の生産形態は,自然条件の違いによって,海岸地帯における米の単一栽培と内陸部における各種の畑作物栽培とに分かれる。これは,年降水量が2500~5000mmと豊富な海岸地方と,1000mmを割る内陸部との違いによるもので,前者では天水による稲作が可能であるが,後者では灌漑を必要とする。畑ではゴマ,豆類,ワタ,ラッカセイなどが栽培される。
ビルマ文学の萌芽は仏教の受容を契機に始まったとみられるが,本格的にはアバ朝(13~16世紀)以降,韻文,散文の両形式をとりながら発展してきた。韻文は4音節1行の形式をもつ詩が中心で,構成様式や内容によって長編詩(リンガー),経典詩(ピヨ),宮廷叙事詩(エージン),史詩(モーグン)などに分かれる。いずれも韻が行ごとに第4・第3・第2音節と遡行する変形脚韻を特徴としている。初期の作家にはパーリ語の仏典を自由に読みこなす僧侶が多かったが,のちには王権を賛美し国王の事跡を記録する形の作品も現れた。散文体の文学作品には,古くは仏伝なかんずくジャータカ(本生譚)を題材とするものが多かった。マハーティーラウンタ,マハーラッタターラ,エッガタマーディなど16世紀初期に活躍した作家のほとんどが僧侶で,その作品もジャータカ,ことに最後の十大説話(マハーニパータ)に取材したものが多い。タウングー朝の16世紀後半になると《ラーザダリ戦記》のような戦記文学,ニャウンヤン朝(17~18世紀)になると《マニコンダラ物語》や《ヤタワッダナ物語》のような仏典に基づく物語や,ウー・カラーの《マハーヤーザウィン》のような編年体の王統史などが現れる。その次のコンバウン朝(18~19世紀)はビルマ古典文学の爛熟期で,作家が輩出した。この時代は宮廷文学の最盛期であったが,仏教文学もまだ命脈を保っており,ウー・オーバータの手になる作品は有名である。
近代西洋文学の影響は,ビルマの植民地化が進行した19世紀末から20世紀初頭にかけて現れ始める。その最初は《イソップ物語》や《ロビンソン・クルーソー》のような物語の翻訳,《モンテ・クリスト伯》を下敷きにした《マウンインマウン・マメーマ物語》のような翻案作品であった。やがてそれはウー・ラットの《シュウェピーゾー》(1914),タキン・コードーマインの《フマードーポン》(1916),ピーモーニンの《ネーイーイー》(1920)のようなビルマ人の手になる創作へと発展した。1930年代に入ると,テイパン・マウンワ,ゾージー,ミントゥウンといったラングーン大学を拠点とする若い知識人を中心に,時代に挑戦する新しい文学(キッサン)が勃興した。独立後の作品は,抗日運動を扱った反戦文学や,因習的社会からの解放を主題とする社会主義文学,人間のさまざまな生き方を描いたリアリズム文学など,多方面にわたっている。
ビルマの美術作品は絵画,彫刻,建築物のいずれも,仏教文化と密接に結びついている。現存する絵画のうち,時代的に古く量的に最も多いのは寺院壁画である。壁画の大半はパガン朝(11~13世紀)に描かれたもので,今でもパガン遺跡の寺院内には当時の壁画が残っている。画題は釈迦生存中のおもなできごと,なかでも八大事象を示す釈迦八相図や,仏陀の前世の姿を描いた本生図などが中心で,それに付随するものとして,菩薩や緊那羅(きんなら),乾闥婆(けんだつば),飛天,竜王,薬叉(夜叉)などの護法神図,象,馬,牛,鳥,魚などの鳥獣図や植物文様などがみられる。彫像には素焼きの塼仏,ブロンズ像,木像,石像などがある。全体が木の葉の形をしていて表面に仏,菩薩の像を浮彫にされた塼仏は,仏塔建立の際に法舎利として塔内に宝蔵されるのが目的で作られ,大きさも10~20cm程度しかない。青銅像も法舎利として作られたもので,大きさは20~30cmと塼仏よりはひと回り大きい。木彫の像や石像は最低でも1m前後はあり,寺院内の尊像あるいは壁面内外に設けられた龕(がん)の中に納める像として製作されたとみられる。造像様式には時代的変遷がみられるものの,仏,菩薩像は32相80種好を備えたものとして作られている。仏教建築物には,仏塔と寺院とがあり,前者はストゥーパから発展した円錐形の建造物,後者は内部に尊像をまつった建物である。
執筆者:大野 徹
ミャンマーは,インド,中国,タイなどの国々と国境を接しており,その音楽も古くからこれらの国々の影響を受けてきた。9世紀初めには,先住民族の国ピュー(驃)から唐に楽人たちが来貢し,白楽天は《驃国の楽》という詩を詠んでいる。11世紀中ごろにビルマ族のパガン朝が興った。今日パガンに残されている仏教壁画からみて,ビルマの古典音楽は11~13世紀には成立していたと考えられる。また,16世紀と18世紀にタイのアユタヤ朝を攻略し,多くの舞人・楽人たちを捕虜として連れ帰った。このときアユタヤの楽舞がビルマに伝えられ,しだいにビルマ風に変化して今日の様式が形成された。
代表的なものにサイン・ワインと呼ばれるにぎやかな野外で行われる合奏と,サウン(弓形ハープ)やパッタラー(竹琴)などによる静かな室内用音楽とがある。楽器はほかにドウンミン(箱形チター),タヨウ(3弦の胡弓),ミジャウン(鰐形チター),マダリン(マンドリンの変形楽器)や,オウジー(花杯形の太鼓)など多くの太鼓がある。歯切れのよいリズムと明るい中にも一抹の哀愁のこもった旋律に特徴がある。歌詞の内容は釈迦や王,国土の賛美,自然や恋愛を歌ったものなどであるが,いずれも仏教的色彩の濃いもので,主として仏教儀式や通過儀礼にまつわるポウェ(祭り)の場で演奏される。とくに10月にインレイ湖で行われる船祭では,カラウェイ(迦陵頻伽(かりようびんが)。〈極楽にすむ鳥〉の意)と呼ぶ黄金の鳥形の船とそれを引く多くの小舟の上で音楽が演奏され,乙女たちが優雅に舞う。音階は,西洋の長音階のミとシの音がやや低められた7音音階であり,リズムは弱強型の2拍子系である。歌い手はシーとよぶ小型シンバルを弱拍に,ワーとよぶ拍子木を強拍に打って,曲のテンポを決める。
執筆者:大竹 知至
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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