ボリビア(英語表記)Bolivia

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精選版 日本国語大辞典 「ボリビア」の意味・読み・例文・類語

ボリビア

  1. ( Bolivia ) ( ボリビア独立の英雄ボリバルに由来 ) 南アメリカの中西部にある共和国。一八二五年独立。西部はアンデス山系のボリビア高原、東部はアマゾン低地とグランチャコの一部からなる。地下資源が豊富でスズ・タングステン・石油を産出。公用語はスペイン語・ケチュア語・マイアラ語。カトリックが圧倒的に多い。憲法上の首都はスクレであるが実質上はラパス。

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改訂新版 世界大百科事典 「ボリビア」の意味・わかりやすい解説

ボリビア
Bolivia

基本情報
正式名称ボリビア多民族国Estado Pluvinacional de Bolivia 
面積=109万8581km2 
人口(2010)=1043万人 
首都=スクレSucre(政府所在地はラ・パスLa Paz)(日本との時差=-13時間) 
主要言語=スペイン語,ケチュア語,アイマラ語 
通貨=ボリビアノBoliviano

南アメリカ大陸の中央部に位置する共和国。ブラジル,ペルー,チリ,アルゼンチンパラグアイの5ヵ国に囲まれた内陸国である。国名はこの地域の独立解放の指導者S.ボリーバルにちなんで名づけられた。ボリビアには約8500人の日系人と在留邦人がいる(1994)。日本人移住は1900年(明治33)のペルーからの再移住が最初であるが,第1次大戦前後にゴム栽培のためにペルーから大量の再移住があった。第2次大戦後の移住は53年に始まり,5800人にのぼる。サンタ・クルス州に集中し,3000人余りが米作を中心とする農業を行っている。アメリカ施政権期の沖縄から移住した人も多い。

面積は日本の約3倍にあたり,南アメリカでは第5位を占める。その地形により,標高3500m以上のアンデス高地(アルチプラノ)とそれ以下のアンデス東麓地帯(エル・バエ)および東部平原地帯(オリエンテ)の三つに大別される。アルチプラノとエル・バエの両地帯の面積は全面積のそれぞれ5分の1を,オリエンテは残りの5分の3を占める。高い山岳と広大な原始林のために交通が阻害され,アルチプラノの地下資源やオリエンテの農業その他の豊富な資源の開発が遅れたほか,政治の面でも国内統一が妨げられていた。

 ボリビアは気候的には熱帯圏に属している。オリエンテの北半部,アマゾン地方では年間を通じ暑さは相当厳しく多雨であり,熱帯雨林もしくは湿地・草原をなしている。一方,南半分のチャコ地方では乾季があり,サバンナ状を呈している。熱帯雨林では野生ゴムの採取がなされており,草原地帯の大部分は牧牛地帯になっている。オリエンテ地方のサンタ・クルス州は1952年の革命後開発が進められており,石油の採掘および米,砂糖,大豆,綿花,コーヒー,タバコなどが大規模に生産されている。アルチプラノはボリビア経済が依存する最も重要な鉱業地帯で,人口が最も集中している地帯でもある。年平均気温は10℃前後で年較差はわりあいに小さく,12月から3月までが雨季である。アルチプラノやエル・バエでは先住民がトウモロコシジャガイモ,キノア,豆類,コカなどをつくっているが,生産性は一般に低い。

ボリビアはアメリカ大陸の他の諸国と同様に,人種的には混血国家であるが,先住民インディオの要素が強い。総人口の約70%がアルチプラノとエル・バエに,残り30%が広大なオリエンテに居住している。人種構成はインディオ55%,混血32%,白人13%となっている。ボリビアにおいては,その人種区分は,文化的・社会的な要素が重視され,とくに使用言語によるところが大きく,単に身体的特徴や血統によるものではない。白人とインディオの混血のうちでも白人の要素が優越している人々はメスティソと呼ばれている。これに対して,チョロcholo(半ば白人化したインディオ)というひとつの社会階層概念を表す語で呼ばれている人々がいる。彼らは,人種的な特徴はインディオに近いが,スペイン語を話し,また植民地時代のスペイン人のファッションに由来する独特の服装をしている。そして,都市で経済活動に参加し,それによって村落の中に商業とコミュニケーションを導入する社会的役割を演じている。近年,都市人口が急増し,総人口の57.5%(1992)が都市に居住しており,チョロ,メスティソ人口が相対的に増大していると考えられる。

 植民地時代以来,一貫して公用語はスペイン語であるが,現地諸語を使用している者が64%(1970)いるといわれる。スペイン語と現地諸語の両方を解し,話す2言語常用者も多い。アルチプラノに居住するインディオの種族はアイマラ族とケチュア族であり,エル・バエでは主としてケチュア族である。これら以外にもオリエンテのジャングルなどにはさまざまな部族が散在している。

 独立後,信教の自由が認められたが,宗教はスペイン人のもたらしたローマ・カトリックが大多数を占める。初等教育は義務制で期間は8年である。非識字率(スペイン語)は20%(1992)で,都市部9%,農村部36%に及び,人口の半分を占めるインディオの教育が問題となっている。1952年の革命以後,教育の普及に努めてはいるが,著しい進展はみられない。宗教,言語,法制,経済制度などの公的なものはスペイン的な要素が圧倒的に優越しているが,生活文化の中には先祖のインディオから受けついだ伝統がまだ多く残っている。インディオやチョロはそれぞれスペインの影響を受けてはいるが,一見してそれとわかる伝統的な服装をしており,特有の織物,焼物などをつくるほか,豊かな民俗音楽・舞踊を保持している。

1825年に独立して以来,今日までに実に190回余の政変を経験しており,政情は不安定な国柄である。伝統的に軍部が政治に介入する傾向が強いが,その軍部もつねに一致団結しているわけではなく,内部対立も存在する。また政党の勢力も安定していない。このため,政治に対する国民の意識の乏しさも手伝って,国民諸政治勢力のバランスはつねに不安定で,文民支配・民主政治の維持は困難であった。1952年より64年までボリビア革命を率いた民族主義的な政党,国民革命運動(MNR)による文民支配があったが,64年以後82年まで,わずかの例外を除いて軍部の支配下にあり,かつ軍部内の対立を反映してクーデタが相次いだ。

 保守派のバンセル軍政の後1978年に始まった民主化プロセスでは,3回の大統領選挙と5回のクーデタという混乱をきたしたが,82年10月に民政移管が実現した。以降97年には民主的に選ばれた5代目の文民政権が誕生しており,ボリビア政治は安定した民主政治の時代に入った。民主化過程で行われた選挙で,中道のパス・エステンソロを中心とする国民革命運動(MNR),MNR左派のシレス・スアソが左翼革命運動(MIR)や共産党と結成した人民民主連合(UDP),バンセルが結成した右派の国民民主行動党(ADN)の3極に政治地図は収斂した。80年選挙に基づき招集された国会でシレスが大統領に選ばれたが,経済混乱を深めてUDPは解体,任期を1年短縮して総選挙が行われた。85年には,MNRのパス・エステンソロが返り咲き,経済自由化に基づく新経済政策を断行し,バンセル派との連携のもとで経済再建を行った。89年にはMIRのパス・サモラが政権についたが,右派のバンセル派との権謀術数的な連携で経済政策は継続され,93年には,新経済政策導入の責任者であったMNRのサンチェス・デロサダが当選した。97年にはバンセルがMIR等との連合で当選し,政権を担当している。

 政体は,三権分立に基づく立憲共和制。1826年に最初の憲法が公布された。その後数回改定されたが,61年憲法では52年以降のボリビア革命による社会政治的な諸権利が盛り込まれ,67年の改正の後,現行憲法は94年8月に改正されたものである。大統領は元首であるとともに行政の長であり,11閣僚がこれを補佐する。大統領は副大統領とともに任期は5年(従来は4年),再選は1回まで,連続再選は認められない。選挙で過半数に達しない場合は,国会において上位2人の候補の間で決選投票が行われる。国会議員は,上院が各県3人で27人,比例代表で選ばれ,下院は130名で半数は単記投票制で選ばれる。革命以降,非識字層を含む21歳以上のすべての国民に選挙権が付与されている。95年には県議会の設置を認める地方分権化法が制定され,国家予算と権限の大幅な地方への移管を進めている。

 内陸国であるが,軍隊は陸海空の三軍をそなえており,男子徴兵制がしかれ,常備兵力は1万8000人を擁している。海軍はチチカカ湖と河川を管轄している。革命以降は,鉱山労働者を中心に中央労働センター(COB)に組織化された労組が強い政治力を発揮し,それが政治の混乱をまねく原因ともなってきたが,85年以降の経済改革や,ボリビア経済における鉱業の比重が低下するにともなって,その力を弱めている。

内陸国,モノカルチャー経済という特性に加え,恒常的な政情不安と国民意識の乏しさのために経済政策が不安定で,そのため経済発展が阻害され,ラテン・アメリカ諸国の中でも最も低開発の国の一つに数えられている。1人当り国民総生産は770ドル(1994)で,かつ所得格差が大きく,工業化の進展の度合は低い。

 ボリビアの経済構造は基本的には鉱産物(とくにスズ)の輸出を中心としたモノカルチャー経済であったが,近年鉱産物の比重が低下し,一次産品開発の多角化が進んだ。輸出のうち,鉱産物が40%,近年開発された石油・天然ガスが25%を占めるほか,大豆,木材,宝飾品など非伝統産品の割合が増加している(1990)。

 鉱業はつねにボリビア経済の支柱の役割を果たしてきた。鉱業の中心を占めるスズの開発が本格的に始まったのは,その需要が高まり始めた1890年代以降のことで,1920年代には最盛期に達した。52年の革命でパティニョS.I.パティニョ),オスチルド,アラマヨの三大鉱山会社が国有化され,国営鉱山会社(COMIBOL)がつくられた。鉱山の老朽化,古い技術,それに伴うコストの上昇などの経営悪化の要因に加えて,生産量が減少傾向にあり,商品の国際的な価格変動が激しいためにその動向は不安定であるが,外資収入および税収源として重要な地位を保持してきた。

 一方,就業人口構成の中で最も重要なものが農業である。労働人口の約44%が農業に従事しているが,国内総生産量への寄与率は約27%にすぎない(1991)。国内の食糧需要を満たしているのは高地に広く分布する小規模な零細農民で,総人口の約50%を占めており,国全体の食糧需要の約4分の3を賄っている。しかし,こうした農民の多くがインディオで,国民経済に組み込まれる度合はいまだに低い。また,東部平原では高地からの移住者,外国人移住者によって換金作物の栽培を主体とした熱帯農業が行われ,米,綿花,砂糖,大豆,コーヒー,牛肉が中規模,大規模の企業農園の下で生産されており,国内需要を満たすのみならず,総輸出の30%を占めるまでになっている。高地のインディオ農民の生活水準の引上げと農業生産性の向上および東部平原地帯の農業開発とが重要な課題となっている。

 1930年代から石油生産を始めたが,その産出量は限られ,73年の石油危機後の高価格で一時的な石油ブームが起きたものの,その後の生産量の低下によって長続きはせず,80年ごろまでに原油輸出の余力がなくなり,代わってアルゼンチン,ブラジル向けの天然ガスの輸出が増大した。76年以後,石油収入の減退,鉱産物輸出価格の低下のために経済は再び停滞局面に入った。鉱産物などの輸出に依存する経済構造のために経済は不安定であり,また恒常的に不安定な政情のために外資の流入もはかばかしくない。さらに80年にクーデタによって登場したガルシア軍事政権の反対勢力弾圧に対する非難が国際的に高まり,アメリカ合衆国の援助が停止され,物価,国際収支,財政収支などの主要経済指標はいずれも悪化し,対外債務の支払不能に陥り,2万4000%のハイパー・インフレと経済破綻をまねいた。このなかで20年ぶりで大統領に返り咲いたパス・エステンソロは,価格や貿易の自由化,緊縮財政,国営公社の合理化など徹底した市場改革を断行した。以降,自由市場経済政策は,政党間の連携関係に基づき政権が変わっても維持され,とくにサンチェス・デロサダ政権のもとで,民営化を進め,電力,航空会社,鉄道,石油などに外資を導入するとともに,教育,年金など近代化に向けた大幅な制度改革に着手した。こうして85年以降,低いインフレと安定成長への道が築かれてきたが,改革のコストは失業の増大という形で現れ,麻薬経済への依存度を高めているのが実態である。高地農民の貧困対策,内陸国という特性からする外資参入の限界,雇用創出,輸出産業の高度・多角化など取り組む課題は大きい。ボリビアは,アンデス・グループに属しているが,96年メルコスール(南米南部共同市場)への準加盟国となり,南部諸国との通商・経済関係を急速に強めている。
執筆者:

ボリビアではアイマラ族により約3000年前からティアワナコ遺跡にみられるようなアンデス最古の文明が開花した。紀元後9世紀から11世紀にかけて,このティアワナコ文化は中央アンデス全域に広まった。15世紀に入るとアイマラ族はケチュア族のインカに征服され,同地はインカ帝国領となった。インカ帝国は1533年にピサロの率いるスペイン軍に征服され,スペイン植民地となった。今日のボリビアに当たる地域はペルー副王領の管轄下におかれて,アルト・ペルーAlto Perúと呼ばれた。1545年にポトシの銀鉱が発見され,ポトシは新大陸で最大かつ最も富裕な都市になった。インディオの大部分はミタ制という労力徴発によって鉱山で働かされた。新しい病気の流行や過酷な労働などが原因で,インディオの数は激減した。ポトシ銀山の産出量は16世紀末に最大に達し,その後,17世紀を通じて漸減し,18世紀に入り急速に衰退した。

 アルト・ペルーは,1776年にペルー副王領からラ・プラタ副王領に転入された。本国生れのスペイン人の少数支配に反対するクリオーリョ(現地生れのスペイン人)を中心として独立運動が1809年にチュキサカ(現,スクレ)で起きた。しかし,それは鎮圧され,その後,他地方で独立戦争が進行している間,アルト・ペルーは王党派の牙城としてその支配下にあったが,S.ボリーバルによってペルーを含む近隣諸国のほとんどが解放され,1825年スクレ将軍の率いるボリーバル軍によってこの地も解放された。同年8月6日,アルト・ペルーは独立を宣言し,国名をボリビア共和国とした。翌年,ボリーバルが起草した憲法が採択され,スクレが終身大統領に選ばれたが,27年の内乱で国外に追放された。サンタ・クルス将軍がその後継者として選ばれ,国内の秩序を確立し,ペルーとの連邦をつくったが,チリの干渉により追放され,連邦制はまもなく崩壊した(ペルー・ボリビア連合)。

 19世紀後半は都市民衆を支持基盤にしたメスティソのカウディーリョが支配者として台頭した時代であり,1864年大統領となったメルガレホは奇行・蛮行に富んだ無教育な軍人であったが,ボリビアの近代化の先がけをなした人物であった。以前から注目されていたアタカマ砂漠の硝石やグアノの利益が重要視され始め,それが原因でチリとの間に太平洋戦争が勃発した(1879-83)。ボリビアは敗れ,1904年の講和の結果,太平洋岸一帯の領土を失い,内陸国となって国の発展を著しく遅らせることになった。

 19世紀末,アマゾン上流アクレ地区のゴム採集者の反乱の結果,1903年にはこの地区をブラジルに割譲することになった。20世紀初めの政局は比較的安定しており,パンドJosé Manuel Pando以後4代にわたる大統領の治世下に鉱山の開発,外資の導入,鉄道の建設などが進み,鉱物輸出に依存する高地の経済は繁栄した。第1次大戦のため,主要輸出品である鉱物資源の価格が高騰し,経済成長は1920年代に入っても続いたが,政情はきわめて不安定で,クーデタが相次いだ。対外的には,チャコ地方に関してパラグアイとの間にチャコ戦争(1932-35)が起こり,チャコ地方の大部分をパラグアイに割譲して講和が成立した。ボリビアは1825年に独立したときには約250万km2の領土を有していたが,隣国との紛争や国境調整によって約150万km2を失った。

 頻繁に起きたボリビアのクーデタのほとんどは,少数の大地主や軍人の間の政権の争奪戦にすぎず,社会改革には至らなかった。国民の半ば以上が生産性の低い伝統的な農業に従事し,その一方では,人口の1%に当たるスズ鉱山労働者が総輸出額の90%以上も生産していた。チャコ戦争以後の知的高揚に伴って多くの政治団体が結成されたが,その指導権を握ったのは国民革命運動(MNR)である。1941年にMNRは若干の議席を獲得し,政治的に大きな影響力をもつ鉱山労働組合でも支配的になった。43年,ビジャロエルGualberto Villarroelがクーデタで政権を奪ったが,46年に失脚した。その後,保守派の弱体政権が成立したが,保守政権は労働運動の高まりを押さえることができず,またスズ産業の低迷による経済の悪化に歯止めをかけることもできなかった。このような状況下で,MNRは多くの中間層をひきつけ,40年代末,相次いで指導者が亡命先から帰国したのに伴い,労働運動へ深く浸透していった。

 51年の大統領選挙ではMNRの推すパス・エステンソロが当選し,国会でも多くの議席を占めた。52年4月8~11日の間,ラ・パスは内乱状態に陥ったが,MNRが鉱山・都市労働者の支援を得て軍を圧倒し,15日パスが帰国,大統領に就任し,ここに民族主義革命が成功し,MNR政権が誕生した。このボリビア革命は,メキシコ革命に次ぐラテン・アメリカで第2の社会革命であった。パスは全面的な社会改革に着手し,スズ鉱山国有化,農地改革,旧軍隊の解体,文盲にも選挙権を与える新しい選挙制度などの政策を実施した。MNR政権は1952-64年にわたったが,1956年の経済危機を契機としてIMFの勧告を受け入れ,その政策は穏健化し,労組勢力を押さえ,一方では,軍部を再建し,強化した。60年代初頭にはアメリカ合衆国の〈進歩のための同盟〉計画のよき協力者となった。64年に大統領3選を意図してパスが憲法改正を試みたことがきっかけとなり,MNR内部の対立は激しくなり,MNRは完全に分解し,同年11月軍事クーデタによりパス政権は簡単に崩壊,バリエントス政権が成立した。66年初めには南部の密林地帯で反政府ゲリラが活動を開始した。政府はアメリカ合衆国の軍事援助を受けて,ゲリラの鎮圧を行い,67年10月には,エルネスト・チェ・ゲバラが政府軍に捕らえられて銃殺された。69年4月にバリエントス大統領が死亡すると,69年,70年の左派軍事政権に続いて71年8月右派のバンセル政権が反共・親米政策をとり,石油ブームの恩恵を享受して7年間続いた。軍事政権に対する国際的非難の高まりのなかで,78年,79年につづいて80年には3回目の民政移管を目ざす大統領選挙が実施されたが,決選投票で左派のシレス・スアソ候補の当選が有力となるのを見て,右派勢力が軍事クーデタを決行,政権を掌握した。その後,経済は危機的状態に陥り,ついに82年10月,軍事政権はみずから退陣して,民政移管が行われた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボリビア」の意味・わかりやすい解説

ボリビア
ぼりびあ
Plurinational State of Bolivia 英語
Estado Plurinacional de Bolivia スペイン語

南アメリカ中央部西寄りにある国。正称はボリビア多民族国Estado Plurinacional de Bolivia。2009年にそれまでのボリビア共和国から現国名に変更した。北東をブラジル、南をパラグアイとアルゼンチン、西をペルーとチリに囲まれた内陸国である。面積109万8581平方キロメートル、人口962万7000(2006国連推計)、1005万9856(2012センサス)。人口密度は1平方キロメートル当り11人(2020)。憲法上の首都はスクレであるが、実際にはラ・パスがその機能を果たしている。国名は、独立運動の英雄シモン・ボリーバルの名にちなんだもので「ボリーバルの国」を意味する。

[山本正三]

自然・地誌

国土は東西二つのアンデス山脈とその間に広がるアルティプラノ高原を中心とした高地、アンデス山脈東側の斜面からなるモンタニヤ地方、および北部から東部、南東部にかけて広がる広大な平原であるオリエンテ地方に三分される。

 アンデス山脈はボリビアでもっとも幅を広げて、コルディエラ・オクシデンタル山脈とコルディエラ・オリエンタル山脈の東西二つの山脈に分かれ、両山脈の間には南北830キロメートル、東西140キロメートルのアルティプラノ高原が広がる。コルディエラ・オクシデンタル山脈はチリとの国境をなし、サハマ山(6542メートル)をはじめ6000メートル級の高峰が立ち並ぶ。コルディエラ・オリエンタル山脈にはアンコウマ山(6388メートル)、イーマニー山(6402メートル)などがある。アルティプラノ高原は標高3600~3800メートルの寒冷で風の強い荒涼とした地域で、雨期と乾期の区別があり、北部は適度の雨があるが、南部に行くにしたがって砂漠となる。ラ・パスやオルロをはじめ主要都市や鉱山の大部分がこの高原に集中する。これは、歴史的事情や鉱産資源の豊かなことに加え、チリやペルーの港に比較的近いことによる。ここはインカやそれ以前の文明の発祥地でもある。北端のティティカカ湖からポーポ湖にかけて大麦やジャガイモなどが栽培され、ヒツジやラマの放牧が行われている。ラ・パス南西方のコロコロは錫(すず)、銅、オルロは錫、銅、銀を産する。錫の大鉱山としては、世界最大のリャリャグア鉱山およびウアヌニ鉱山がある。しかし交通の不便さおよび希薄な空気のためボリビアでの錫の生産コストは高い。

 コルディエラ・オリエンタル山脈の東斜面を占めるモンタニヤ地方は深い峡谷と高山稜(さんりょう)が交錯した地域である。とくにベニ川、マモレ川、ピルコマヨ川などの森林に覆われた峡谷が入り込むユンガス地方は、ボリビアでも人口稠密(ちゅうみつ)な地方の一つで全人口の3分の1近くが居住し、耕地総面積の5分の2を占める。ここで生産されるコカ、サトウキビ、コーヒーなどの商品作物はアルティプラノ高原へ出荷される。コチャバンバ、スクレ、タリハは農産物の集散地である。ポトシでは錫、鉛、アンチモン、銅を産出する。モンタニヤは気候が温和な地域である。

 オリエンテ地方は、モンタニヤ地方を北から東にかけて半円形に取り囲んでいる地域で、面積が広大であるにもかかわらず人口は総人口の20%にも満たない。リャノともよばれ、標高1500メートル以下の亜熱帯および熱帯低地で、北部はアマゾン川流域の熱帯雨林に、南部はグラン・チャコのサバナに連なっている。中部は湿潤亜熱帯気候で、サンタ・クルスとその周辺地区が中心地域となっている。1954年にコチャバンバ―サンタ・クルス間の道路が完成してユンガス地方およびアルティプラノ高原と自動車交通で連結され開発が進められた。南部のグラン・チャコにはアンデス山脈東麓(とうろく)に沿った約240キロメートル幅の産油地帯がある。南東部のカミリが軽質原油のおもな産地で、パイプラインでスクレ、コチャバンバ、ラ・パスに送油している。重質原油はアルゼンチン国境に近いベルメホ川付近が主産地である。

 起伏に富んだ地形的特徴から多様な植物相がみられる。標高3000メートル以上の地域では樹木はほとんどなく、一部にイチュの生育がみられる程度である。コルディエラ・オリエンタル山脈の支脈レアル山脈の頂上はセハ・デ・ラ・モンタニヤとよばれる密な森林で覆われる。樹種はキナ、コカなどである。1200メートル以下の傾斜地や谷の底部では熱帯低地林が繁茂する。オリエンテ地方北部は深い密林で、パラゴムノキ、マホガニー、セイヨウヒノキ類が有用である。

 主要水系はアマゾン川、ラ・プラタ川、ティティカカ川の3水系に区分される。中部の高原地帯はティティカカ湖に注ぐ内陸水系で、湖から流出するデスアガデロ川はポーポ湖に注ぐ。内陸水系は蒸発や浸透によって水を失い、海への出口は存在しない。東部の低湿な平野には多くの湖や湿地帯がある。

[山本正三]

歴史

古く紀元前2000年ごろからアイマラ人の高地文明が栄えていたが、13世紀になって北方ペルーに興ったケチュア人のインカ帝国の一領土に編入された。1535年スペインの植民地となりポトシなど多数の鉱山都市が栄えたが、18世紀に入り衰微した。

 1825年、隣国のペルーとともに、スクレの率いるボリーバル軍によって解放され、国名を解放者の名にちなんでボリビア共和国と名づけた。しかし、その後半世紀以上、内乱、革命、独裁、隣国との紛争に悩まされた。1879~1883年、いわゆる太平洋戦争がボリビアの硝石をめぐる利害対立によってチリとの間に引き起こされたが、ボリビアは敗れて太平洋に面したアントファガスタ州を失い、海港をもたない内陸国となり、同国の発展を遅らせる元となった。1900年には天然ゴム開発が絡んで北部のアクレ地方が分離を宣言、1903年には東部の広大な地域がブラジルに割譲された。

 第一次世界大戦後の政情は不安定でクーデターが相次ぎ、世界恐慌とパラグアイとのチャコ戦争(1932~1935)で国力を消耗した。ボリビアはチャコ戦争の敗戦によりチャコ地方の大部分をパラグアイに割譲し国土の約60%を失った。このチャコ戦争がきっかけになって民族主義的な青年将校グループが台頭し、外国と関係の深い大鉱山主や外国の石油会社の利益を抑えることを主張した。1952年に民族革命運動(MNR)が政権を獲得するに及んでその主張が急速に実現された。MNR政権は、1964年軍部クーデターによって倒されるまでの12年間、経済、社会問題の根本的な改革と取り組み、アメリカ資本と少数の富裕層に支配されたボリビア社会の改良を推し進めた。しかし1961年憲法を改正して大統領の連続再選を可能にすると野党や国民の反対運動が起こり、1964年軍部がクーデターを起こしてMNR政権は打倒された。

 以後軍部が政治に介入し、政情はきわめて不安定で、独立以来200回以上のクーデター、190回以上の政権交替を繰り返している。陸軍は1960年ごろからアメリカの軍事援助を受けその力は民兵組織をしのぐに至った。1969年9月、左翼ゲリラ台頭の兆しをみたオバンドAlfredo Ovando Candía(1918―1982)将軍はクーデターを起こし政権を握った。さらに1970年10月の軍部左派クーデターに続き、1971年8月にはバンセルHugo Banzer Suárez(1926―2002)大佐を首班とする軍部右派勢力がクーデターで実権を掌握、7年間にわたって反共・親米主義を標榜(ひょうぼう)する軍事政権を維持した。その後経済危機が深刻化して、1982年10月軍部は政権を放棄し、18年ぶりに民政に復帰したが、政情不安が続いた。ブラジル、アルゼンチン、アンデス諸国との関係を重視しており、チリとは「海への出口」の回復を主張して対立している。1993年にはサンチェスGonzalo Sanchez de Lozada(1930― )政権が成立し、1995年にはゼネストが行われたこともあったが、政局はかなり落ち着き、同時に経済も安定成長し始めた。1997年バンセルが大統領になったが病気のため2001年に辞任し、副大統領キロガJorge Quiroga Ramírez(1960― )が残りの任期を勤めた。2002年大統領選挙ではサンチェスが二度目の当選を果たしたが国内に豊富に埋蔵している天然ガスの輸出政策をめぐり、先住民を中心とする貧困層が国内での優先利用を求め、暴動に発展、2003年10月辞任に追い込まれ、副大統領メサCarlos Mesa Gisbert(1953― )が大統領に昇格した。メサは天然ガス輸出政策に国民投票を実施、輸出で得た利益を教育や雇用対策に充当する方針を掲げ、国民の支持も高かったが、諸政策をめぐり富裕層と貧困層の根深い対立の板ばさみにあっていた。2005年5月の天然ガス資源の国有化や先住民の権利拡大を求めるデモ活動の混乱より6月に辞職、法律学者のロドリゲスがEduardo Rodríguez Veltzé(1956― )が暫定大統領に就任した。2005年12月の大統領選挙ではモラレスJuan Evo Morales Ayma(1959― )が当選し、2006年1月、大統領に就任した。

[山本正三]

政治

1967年に改正された憲法によれば政体は大統領制共和体制で、大統領、副大統領、上院議員(27人)、下院議員(130人)が5年任期で選出されることになっている。大統領の連続再選は禁止されている。地方行政単位は九つの州Departamentoに分けられている。政情の激しい移り変わりに呼応して政党も乱立状態で、中道右派の民族革命運動(MNR)、右派の国民統一戦線(UN)、中道左派の社会主義運動(MAS)などがある。外交は、1978年に太平洋岸の出口確保をめぐってチリと国交を断絶、1982年のフォークランド紛争ではアルゼンチンを支持した。1983年にキューバと国交を回復、当時のソ連と技術協力を結び、1985年には中国と国交を樹立したが、軍部を中心に共産圏との関係拡大に対する反対も根強い。選抜徴兵制をとり、常備軍は陸軍の3万5000、ほかに小規模の空軍(6500)、河川湖沼警備の海軍(4800)がある。

[山本正三]

経済・産業

1人当りの国民総所得(GNI)は990ドル(2000)と低い。国内総生産(GDP)への寄与率と労働人口の吸収率の点では農業、輸出産業としては鉱業がもっとも重要である。農業には労働人口の半分以上が従事し、もっとも主要な産業であるが生産性は低い。主要農作物はサトウキビ、ジャガイモ、トウモロコシ、小麦、米などである。農地改革により1955年から1969年までに760万ヘクタールの土地が分配されたが、農業生産性は低く、農産物価格引上げ、融資、技術援助、道路建設などを通じて生産を刺激することが農業政策の中心である。可耕地は国土の3%にすぎず、農場数の6%が全農地面積の92%も占めている。米と砂糖は自給の域に達しているが、食糧輸入に輸入総額の40%を費やさねばならない。

 鉱業は労働人口において約3%しか占めないが、輸出収益の約44%にも達する。年産1万6000トン(1994)の錫(すず)が中心で国営公社によって生産されているが、良質鉱の枯渇によって停滞傾向を示している。そのほか亜鉛、鉛、銀、アンチモンなどを産する。最近ではサンタ・クルス南方の油田の開発が進み、石油と天然ガスは輸出総額の20~25%を占めて錫に次ぐようになった。伝統的な錫依存の経済は転換されつつあり、政府は石油、鉱工業、農業などの部門に資本を投下し輸出産業の多角化を目ざしている。石油公社は新油田を開発するとともに各地に精油所を建設し、石油化学、鉄鋼などの産業の確立を急いでいる。天然ガスはパイプラインでブラジルに供給している。

 おもな輸入相手国はアメリカ、ブラジル、アルゼンチンで、輸入品は工業化のための資本財や原料および食糧である。鉱産物を中心とする輸出相手国はコロンビア、イギリス、アメリカが上位を占める。1970年代前半には比較的高い経済成長率を保ち、南部の石油、天然ガス資源の開発が急速に進められて明るい見通しをもっていた経済は、1970年代後半以後は混迷状態へと逆転した。1993年のサンチェス政権では農地改革、国営企業の民営化、石油探査など積極的な政策を実施し、経済は成長の傾向を強めた。

[山本正三]

社会・文化

住民は純粋のインディオが55%を占め、インディオとスペイン系白人との混血メスティソは32%、スペイン系白人は13%でインディオ的色彩が濃厚である。インディオ全人口の約55%がモンタニヤに住むケチュア人、約40%が高原地帯に住むアイマラ人、そして残りの少数はオリエンテに散在するさまざまな民族である。インディオは鉱山労務者として働くかたわら自給的農牧業を営む。メスティソは鉱山関係、白人は都市で商業に携わる者が多い。かつてインカ帝国の一部を形成したボリビアには、その支配者ケチュア人と被支配者アイマラ人が今日でもそれぞれの伝統的生活様式を続けており、ケチュア語とアイマラ語がスペイン語とともに公用語となっている。

 宗教は国教であるカトリックが圧倒的で、国の保護を受け、国民の精神生活や教育に大きな勢力を振るっている。離婚がきわめて容易なのはほかの南アメリカ諸国と異なる点である。義務教育は6~13歳である。1952年の革命以後教育の普及に努めているが著しい進展はみられない。全般的にインディオ的要素が強く、女性の服装、織物、陶芸などの民芸品、民族音楽、舞踊にそれがうかがえる。

[山本正三]

日本との関係

日本との外交関係は1914年(大正3)に始まるが、公使館がラ・パスに設置されたのは平和条約調印後の1955年(昭和30)であった。在留邦人は2612人(2000)である。移住者、日系人は1万4000人と推定されている。邦人移住地はサンタ・クルス州に集中し、米作を中心とした農業に従事している。綿花栽培のほか肉牛などの家畜の飼育もみられる。経済協力では、1975~1999年度までに日本からボリビア道路網拡張計画などに対し、有償資金協力1057億9300万円、無償供与611億6100万円を受けている。

[山本正三]

『W・モンテネグロ著、町田業太訳『ボリビア』(1977・芸林書房)』『中屋健弌他編『ラテン・アメリカ事典』(1984・ラテン・アメリカ協会)』『国本伊代著『ラテンアメリカ――悠久の大地・情熱の人々』(1995・総合法令出版)』『田辺裕監修『世界の地理5――南アメリカ』(1997・朝倉書店)』


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百科事典マイペディア 「ボリビア」の意味・わかりやすい解説

ボリビア

◎正式名称−ボリビア多民族国The Plurinational State of Bolivia。◎面積−109万8581km2。◎人口−1006万人(2012)。◎首都−憲法上の首都は最高裁のあるスクレSucre(24万人,2012)。政府,国会所在地はラ・パスLa Paz(76万人,2012)。◎住民−インディオ55%,メスティソ30%,白人15%。◎宗教−カトリックが大部分。◎言語−スペイン語40%,インディオは主としてケチュア語,アイマラ語(以上,公用語)。◎通貨−ボリビアーノBoliviano。◎元首−大統領,モラレスEvo Morales(2006年1月就任,2015年1月3選,任期5年)。◎憲法−1967年2月制定,2009年2月改正。◎国会−二院制。上院(定員36,任期5年),下院(定員130,任期5年)。最近の選挙は2014年10月。◎GDP−167億ドル(2008)。◎1人当りGNP−1100ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−43.4%(2003)。◎平均寿命−男65.1歳,女69.5歳(2013)。◎乳児死亡率−42‰(2010)。◎識字率−90.7%(2008)。    *    *南米中西部の内陸共和国。西部はチリ,ペルーと国境を接し,アンデス山中の平均標高3962mの高原が広がり,チチカカ湖,ポーポ湖がある。ボリビア高原の東側は標高5000〜6000mの山脈をなし,その北東部はアマゾン川支流域の低地,中部〜東部はブラジルおよびパラグアイまで広がる平原に続く。気候は高原地帯が寒冷,アンデス東斜面は亜熱帯性,アマゾン川支流の低地は熱帯性で高温多湿。住民の過半がインディオで,メスティソ(インディオと白人の混血)が3分の1を占める。鉱業が主で,スズ,鉛,銅,金,銀,亜鉛,アンチモン,タングステン,石油,天然ガスなどに富み,輸出の上位を占めている。農業ではサトウキビ,ジャガイモを主産,羊,牛,アルパカの畜産も行われる。 インカ帝国の一部だったが,1533年ピサロに征服されスペイン植民地となった。1545年ポトシで銀が発見されると,スペインはインディオを徴発して採掘し,ヨーロッパに運んだ。スクレ将軍の率いる軍により解放され,1825年独立,国名は独立の指導者ボリーバルにちなむ。スクレの後を継いだサンタ・クルスは1836年ペルー・ボリビア連合を結成するが,チリ軍に敗れて崩壊。1879年―1883年チリとの国境紛争(太平洋戦争)で太平洋岸の領土を失い,内陸国となった。1932年―1935年にはチャコ地方の領有をパラグアイと争い(チャコ戦争),敗れた。この結果寡頭支配層が力を失って改革の波に洗われ,1950年代にはパス・エステンソロ政権が鉱山国有化・農地改革など〈ボリビア革命〉を推進し,先住民の政治参加の道も開かれたが,革命勢力の分裂により1964年から軍事政権が続いた。1982年に民政に復帰して以後,政情は安定している。石油危機以降鉱産資源の輸出が停滞して経済不況に見舞われ,一時は年率2万%を超えたインフレと累積債務に悩まされた。世界第2のコカ生産国であり,アメリカが経済援助の条件としてコカ畑削減を要求しているが,農民の抵抗が根強い。南米南部共同市場(メルコスール)と1995年経済補完協定を結んだ。2005年6月,天然ガスの採掘権をめぐり左派政党・社会主義運動や先住民から強い反発を受け,メサ大統領は辞任,2005年12月大統領選で社会主義運動のモラレスが当選して,ボリビア初の先住民大統領となった。2009年1月,新憲法制定の是非を問うための国民投票が実施された。2009年3月には国名をボリビア共和国からボリビア多民族国に変更した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボリビア」の意味・わかりやすい解説

ボリビア
Bolivia

正式名称 ボリビア多民族国 Estado Plurinacional de Bolivia。
面積 109万8581km2
人口 1184万2000(2021推計)。
首都 ラパス

南アメリカ中部にある国。憲法上はスクレが首都と定められているが,行政府と立法府がラパスにあるため,実質的にはラパスが首都として機能。19世紀末ペルーと争って太平洋岸の領土を失った結果,海岸線をもたない内陸国となり,北から東へかけてはブラジル,南東はパラグアイ,南はアルゼンチン,西はチリとペルーに囲まれる。地形は南西のアンデス山脈と北東の低地に大別される。このうちアンデス山脈は同山脈が最も幅広くなる部分にあたり,山間には広大なアルティプラノ高原が広がる。ここに人口が集中,ラパスをはじめとする主要都市が立地し,ボリビアの中心部をなしている。国土の 5分の3を占める低地は熱帯雨林あるいは草原に覆われ,湖沼や湿地帯が多く,大部分が人口希薄な未開発地域である。チチカカ湖ポーポ湖の内陸水系に属する高原地帯とラプラタ川水系に入る南東部以外は,全域がアマゾン川支流マデイラ川の流域である。気候は標高によって大きく異なり,低地北部は高温多雨の熱帯雨林気候,低地南部およびアンデス北東斜面は亜熱帯気候であるが,高原は年中冷涼ないし寒冷で,高原の東をかぎるレアル山脈には万年雪をいただく高峰が連なる。スペイン征服前にインカ帝国の一部をなしていた地域で,住民にもケチュア族アイマラ族を中心とした先住民のラテンアメリカインディアン(インディオ)が多く,総人口の約半分を占める。そのほか,メスティーソと呼ばれるインディオと白人の混血が約 30%,白人が約 15%。公用語はスペイン語のほかインディオ語系のアイマラ語,ケチュア語など 36の先住民言語が指定されている。信教の自由は保障されているが,国民の圧倒的多数がキリスト教のカトリックである。天然ガスとスズをはじめとする鉱物資源に恵まれ,天然ガスは最大の輸出品。ほかにタングステン,アンチモン,鉛,亜鉛,銅,銀,金,ビスマス,石油などを産する。農業は就業人口の約 4割を擁し,高原では穀物やジャガイモなどを栽培する古くからの自給農業が中心で,生産性の高い低地ではサトウキビ,コーヒー,綿花,カカオなどの換金作物の栽培が盛ん。一方,依然としてコカ生産国でもある(→コカノキ)。牧畜も重要で,ヒツジ,ウシ,ヤギなどのほか,ラマ,アルパカなどが飼育される。工業は石油精製,鉱石精錬などのほか,食品,飲料,たばこ,繊維などの製造が中心。インカ遺跡などを中心とした観光も重要。たび重なる政変と政情不安のため外国からの投資が減少し累積債務を抱え,1980年代中頃にはインフレ率が 1万4000%にも達したが,国営企業の民営化など緊縮財政によって 1990年代初めに沈静化した。周辺各国との協定のもと,ラパスとサンタクルスを起点として太平洋,大西洋の港に通じる鉄道と,アンデス山中を縦貫するパンアメリカン・ハイウェーが主要交通路である。(→ボリビア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「ボリビア」の解説

ボリビア
Bolivia

南米大陸中央部の内陸国。首都ラパス
【略史】紀元前からチチカカ湖周辺にアイマラ人が定住。13世紀ころ西隣のペルーから進出したケチュア人のインカ帝国に組み込まれる。1532年スペイン人に征服され,42年ペルー副王領に編入された。
【独立とその後の動向】1821年サン=マルティンがペルー副王を説得してペルーの独立を宣言。しかし,副王軍の一部がこれを認めず議会も混乱する中,サン=マルティンは完全独立をシモン=ボリバルに託してペルーを去った。あとを託されたボリバルがアヤクーチョの戦いに勝利して,1824年ペルーの完全独立を達成。このとき副王領の一部だった上ペルー(現ボリビア)も,その後ボリバル軍によって解放された。ボリバルはペルーと上ペルーを合わせた大ペルー国の構想を打ち出したが,上ペルーのクリオーリョの賛同を得られず,1825年上ペルーは分離独立し,その国名をボリバルにちなんでボリビアとした。その後,アタカマ砂漠の硝石の開発をめぐって,当時この地方に海岸線を有していたボリビアとペルー・チリの3国の間で,いわゆる「太平洋戦争(1879〜83)」が起こり,チリが勝利して,敗北したボリビアはこの地域を失い内陸国となった。その後,1903年ブラジルにアクレ地方を,28〜35年の2度の戦争で南部をパラグアイに奪われた。独立以後,年1回以上の軍事クーデタが続いたが,1952年民族革命運動(MNR)のパス=エステンソロが政権を獲得。錫鉱山の国営化など民族主義的革命を推進したが,1964年軍部がクーデタで政権を獲得。こうした情勢下,1965年キューバ国籍を離脱したゲバラがボリビアに来て革命を指導するが,67年政府軍に捕らえられ殺害された。その後,軍事政権のもとで国情は混迷を続けてきたが,1982年左翼政権が誕生して民政に復帰。しかし,経済政策に失敗,異常なインフレを招き,1985年の選挙でパス=エステンソロが大統領に復帰。その厳しい財政規制でインフレは鎮静に向かった。その後も1989年から左翼政権,97年から右派政権へと政情は不安定。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボリビア」の解説

ボリビア
Bolivia

南アメリカ中央部にある内陸の共和国。インカ帝国時代にはコリャスーユという地方の一部をなした。インカに先行するティワナク文化の所在地でもある。スペイン植民地時代はアルト・ペルー(高ペルー)と呼ばれ,1545年に発見されたポトシ銀山によって有名だった。1825年独立し,それ以後頻繁な政権交替を繰り返している。太平洋戦争の結果,84年の講和で太平洋への出口を失った。,錫(すず)などの生産が経済の柱であり,1952年国民革命運動(MRN)が政権をとって,錫鉱山の国有化,農地改革などを行ったが,その後分裂し,軍部との抗争,労働運動の激化などによって社会的動揺が絶えない。

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世界大百科事典(旧版)内のボリビアの言及

【ボリーバル】より

…21年にベネズエラとエクアドルを解放しグラン・コロンビアを正式に発足させたのちペルーの解放に向かい,24年のアヤクチョの戦でスペイン軍に大勝してペルーを完全に解放するとともに,イスパノ・アメリカの独立をほぼ決定的にした。さらに25年にはスクレが率いるボリーバルの軍隊がアルト・ペルーを解放し,独立したアルト・ペルーはボリーバルにちなんで国名をボリビアと名づけた。ボリビア共和国の憲法はボリーバルが起草したもので,晩年の彼の政治思想の到達点を示している。…

※「ボリビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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