アジア(英語表記)Asia

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改訂新版 世界大百科事典 「アジア」の意味・わかりやすい解説

アジア
Asia

アジアとは地球の陸地の一部分を指す地域の名称でユーラシア大陸の東の部分およびそれに付属する日本列島などの島々を指し,今日では通常,ヨーロッパとはウラル山脈,ウラル川,カスピ海,大カフカス山脈,黒海,ボスポラス海峡,ダーダネルス海峡により区分され,アフリカとの境はスエズ運河とされている。しかし諸民族・諸国家からなる多様なものを含むから,時代によってアジアという語が意味する内容は大きく変化してきた。本項においては,地理的な範囲,自然,民族,国家などには言及せず,もっぱらアジアという言葉の意味の変化を追ってみたい。

古くは,アッシリアの碑文に見えるasuとereb(またはirib。碑文には母音が示されていないため,母音は変化しうる)の対応,すなわち〈日いづる所〉(東)と〈日没する所〉(西)の対応があり,このasuがasiaへ転訛したといわれる。これはギリシアに伝わってAsiaとEuropaとなった。もっともエウローパは,ホメロスのアポロン賛歌(前9世紀)のなかでは,当時の彼らの世界であるペロポネソス半島とエーゲ諸島のみを指しているから,もう一つのアジアのほうは,それ以外の東のほうを広く,漠然と指していたとみられる。東の限界が,ペルシアまでかインドまでかは不明である。

 ヘロドトス(前5世紀)にいたると,彼の旅行範囲が南北に広がったため,現在の北アフリカにあたる地域がアジアから区別されてリビアと呼ばれるようになった。彼の《歴史》がギリシアとペルシアの戦争を一つの主題としているため,彼がペルシア帝国の首都スーサ(カルフ川の貫通する盆地)を訪れなかったにもかかわらず,アジアは少なくともペルシアまでを含む。

 東と西という対応概念が,AsiaとEuropaという称呼を生みだしたことは,やがてラテン語におけるoriensまたはorient-em(〈昇る太陽〉または〈東〉)とoccident-em(〈落日〉または〈西〉)という対応にも継承された。この場合,対応概念は同一で,語源が異なるにすぎない。ラテン語のローマ世界は,ギリシア世界より拡大したにもかかわらず,大国ローマによる平和(Pax Romana)のため東方との大規模な戦争がなかったから,オリエントの語義が地理的に拡大したとは考えられない。なおローマ帝国には,古代イオニア都市の一つのエフェソスを中心としたアジア州がおかれたが,これは現在のトルコ西部の一部の狭い地域を指すものであった。

12世紀から活躍を始め,13世紀初頭には強大な遊牧国家となるモンゴル帝国は,1219年から西方遠征を行い,バトゥ・ハーンの遠征は南ロシアとヨーロッパに拡大した。やがて,これに代わって西方ではオスマン帝国が誕生する。この事態に応じて,マルコ・ポーロは1260年,コンスタンティノープルを出発して元の世祖フビライ・ハーンに謁し,《世界の記述》(通常,日本では《東方見聞録》と呼ばれる)という書物を残したが,総称としてのアジアという語は使われていない。

 航海術の発達と東方産物の需要から,ヨーロッパが世界に拡大するのは,15世紀後半のことで,スペイン,ポルトガルによってなされた。内陸の遠征と異なり,海路を経て地球が丸いことを発見するにともない,沿海を線で囲む諸大陸の地図が作られる。大陸内部の詳細な民族・国家にとらわれず,大陸を総称する用語の概念が発達し,ここにアジアという称呼が現在とほぼ同じ意味をもつ言葉として使われるようになった。

 コロンブスの第1回探検行と同年に作られたベハイムの地球儀は,プトレマイオスの地図に準拠して東方の限界を拡大したものだが,これにはアジアの語はない。ポルトガル人の新大陸到着やマカオ居留開始(1511)以来,16世紀前半から続出しはじめる地図には,Asiaの語が用いられ,現在とほぼ同じ広大な地域の総称となっている。すなわちルチェーリG.Rucelli(1561),ムンスターS.Munster(1575),メッシナJ.M.en Messina(1587)などの地図である。

さて2000年余にわたって意味を変えてきた,このアジアという単語が,中国,日本に伝来し,しだいに定着していく過程はどのようなものであったのか。漢字によって〈亜細亜〉と表記されたのは,現存する地図では,マテオ・リッチ(利瑪竇)の《坤輿(こんよ)万国全図》(1602)が最初である。〈亜細亜〉の記載場所は地図の中のウラルあたりであり,ほかにも〈大明国〉などの記載があって,このほうが字が大きいから,この〈亜細亜〉が現在の用法,すなわち,〈亜細亜〉が大概念で,その中に〈大明国〉その他が含まれるという考え方は,この地図と説明を読んだ当時の漢人に,明白な概念として伝わった保証はない。なおリッチによる漢訳の世界地図は,1584年刊の肇慶(広東)版,1600年刊の南京版が出されたが,現在まで現物は発見されていない。

 この地図で,亜細亜,欧羅巴(ヨーロツパ),南北の亜墨利加(アメリカ),利未亜(リビア)(アフリカ),墨瓦蠟泥加(メカラニカ)(オーストラリア)の五(六)大州が示されている。リッチと李之藻(明朝の工部員外郎)が並んで撰者となっているから,漢訳にどの字をあてるかの議論があったはずだが,全体として,なるべく意味が少なく表音機能に徹しうる漢字を選んだと思われる。

 漢字は表意文字だから,表音機能だけをとることはできないが,表意機能の大小はありうる。諸大陸の名は,もともと音だけを漢字に移せば足りる。その結果,亜細亜という漢字の組合せとなった。ところが,〈亜〉は〈次〉〈劣〉に通じ,〈細〉は〈太〉の反対語で,いずれもよいイメージは与えない。同音異字で,もっとよいイメージを与える組合せ(例えば〈阿喜雅〉など)も可能ではあるが,亜細亜については,これ以来この表記が継承された。亜墨利加などは別字の組合せができ,亜美利加などを経て,現代中国語では〈美国(メイクオ)〉となっている。

さて日本に伝来した世界地図には,このリッチの漢訳版とシドッチG.B.Sidottiの伝来版の2系統があるといわれるが,亜細亜という漢訳法は二者に共通している。前者はリッチから約40年後の1645年に《万国絵図》として出され,従来の世界認識(本朝,唐土,天竺の三大州説)に対して,世界が球形であり五大州から成ることを教えた。後者はオランダ人ヨハン・ブラウの《地球図》(1648)をもとに,シドッチらの供述を合わせて作られた。シドッチの訊問に当たった新井白石は,その《采覧異言》の中で,〈アジア 漢に亜細亜(ヤアスイヤア)と訳するは即此(すなわちこれ)〉と記し,漢字表記の亜細亜を避け,かたかなによるアジアの表記を選んでいる。この系統の地図は《新製地球万国図説》(桂川国瑞,1786)など,アジアとかたかな表記を採用している。江戸時代には,こうして〈亜細亜〉と〈アジア〉の二つがあったが,明治以来の約100年間は〈亜細亜〉が主流で,かたかな表記の〈アジア〉は第2次大戦後(とくに1950年代以降)に主流となり,現在にいたっている。

 幕末から明治初年にかけての時代は,欧米から多くの概念,用語が導入された時期にあたっている。それまでの中国思想からしだいに離脱して,オランダ語からおもに英語を媒介とした欧米思想導入に移った。現在使われている政治,経済,文化,哲学など,多くの新造漢語は,明治20年ころまでに創出された。このような漢語新造という流れの中で,〈亜細亜〉という漢字表記がかたかな表記を駆逐した感がある。明治期には,アジアではなく〈亜細亜〉が主流だが,その意味内容を見ると,亜細亜はたんなる地理的範囲を示す用語ではなく,きわめて政治的な意味をこめたものとして用いられた。振亜社(1877年,大久保利通らによって結成,80年に興亜会と改名,同人には中村正直,曾根俊虎,宮崎誠一郎など),亜細亜協会(1883年結成,同人に長岡護美,鄭永寧ら),東亜同文会(1898年,東亜会と同文会を合併して近衛篤麿を会長に結成)などがその例である。

 欧米によるアジア進出に対抗した〈興亜〉の流れと,日本の欧米化を願う〈脱亜〉の流れは,対立する二つの思想潮流であったが,両者とも〈亜細亜〉という漢字表記(その省略形も含む)を用い,これはやがて〈東亜〉〈大東亜〉という用語として継承された。

明治期には,もう一つ,orientまたはthe Eastの訳語として,〈東洋〉が登場する。もともと〈東洋〉は漢語においては〈東(ひがし)の洋(うみ)〉すなわち日本またはその近海の海を指す意味であり,日本でも幕末までは多くの人がこの用法を踏襲していたが,明治になると地理的には日本,中国,インドあたりまでを含み,とくに文化(宗教,思想,歴史)の共通性を強調する概念となる。東洋の芸術,東洋道徳といった表現がそれである。日清戦争以後には,東洋の平和が外交上のスローガンにもなる。

 地理的な範囲を指すか,あるいは政治的な意味をこめるときには〈亜細亜〉(またはアジア)を用い,もう一方で文化的な意味をこめるときには〈東洋〉を用いる--こういう使い分けが,明治に生まれ,現代の人々の深層意識にも流れている。日本が〈東洋〉の一部をなすことは自明のこととされるが,日本が〈亜細亜(アジア)〉の一部かと問われると,地理的にはそうだが,価値的には違うという返答がありうるのは,このためである。

 日本の会社名で〈東洋〉を冠したものは多いが,〈亜細亜〉を冠したものは少ない。これは日本が〈東洋〉の一部だという意識があるためであるとともに,筆者のアンケート調査によると,〈東洋〉のほうが〈亜細亜〉またはアジアにくらべて,魅力的,きれい,平和的,といったイメージで受けとめられているからである。

 1950年代は,アジア諸国が相次いで独立し,平和五原則のもとに結束した時代であった。このとき,アジアというかたかな表記が定着するとともに,新興の平和勢力という政治的イメージが付与された。アジア・アフリカ(A.A.)と並べて使われることもある。

 現在では,〈アジア〉は純粋な地理上の概念として用いられるにもかかわらず,やはり脱亜論以来の否定的価値意識や,また逆に古い伝統をもちつつ民族・国家として再生した若い力という肯定的価値意識が,複雑に投影された用語になっている。
アジア主義 →インド →中央アジア →中東 →東南アジア →ユーラシア
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百科事典マイペディア 「アジア」の意味・わかりやすい解説

アジア

漢字では亜細亜。六大州の一つで,地球の陸地総面積の3分の1を占める地域。世界総人口の約60%を占める。アジアという言葉の起源は明らかでない。古代アッシリア語またはヘブライ語から出たものと推定されるが,古代フェニキア人が,東方の日の出の国をアスAsu,西方をエレブErebと呼び,これがアジアおよびヨーロッパという言葉の起源であるといわれている。現在一般には,紅海からスエズ運河,ダーダネルス海峡を経て黒海に出,カフカス山脈沿いにカスピ海に達し,ウラル山脈を北上,カラ海に達する線から東のユーラシアの大部分と,ジャワ島,パプア島からフィリピン諸島,日本列島,千島列島,カムチャツカ半島を経てチュクチ半島に至る線から西に含まれる地域をアジアと総称している。〔地理区分〕 アジア大陸を北西から南東に切ると,その延長は8500kmを越え,標準時差は8時間に及ぶ。ヨーロッパ大陸との区画は判然としないが,アフリカ大陸とはスエズ運河ではっきり画されている。大陸中央部にパミール高原を含む高地帯が広がり,東にヒマラヤ,崑崙(こんろん),西にヒンドゥークシ,エルブルズの諸山脈が走っている。この中央高地帯を源にして,オビ川,エニセイ川,黄河,揚子江(長江),メコン川,ガンガー川,インダス川,ティグリス川ユーフラテス川が流れる。中央高地帯によって交通が切断され,海洋の影響もさえぎられるため,大陸の南北では気候や文化に著しい差異が見られる。インド洋に面する地域から太平洋に面する地域にかけてはモンスーン(季節風)地帯で,典型的なアジア式米作農業地帯をなしている。これに反してヒマラヤ山脈の北に横たわる内陸アジアからインダス川以西,アラビア半島にかけての地域は,砂漠とステップに占められ,遊牧地帯となっている。このようにアジアは一個の単元とみるわけにはいかない。地理的にいうと,東,東南,南,中央,西,北の6地域に分けられる。東アジアは極東ともいわれる。東南アジアは大陸部と島嶼部からなり,南アジアは,ヒマラヤ山脈の南面でインド亜大陸を中心とする。中央アジアは内陸地帯,西アジアはパミール高原の南西,アフガニスタン,イラン以西,北アジアはアルタイ山脈以北で,シベリアを主とする地域をさす。〔政治区画〕 北アジアと中央アジアの一部は旧ソ連領で,ロシア帝国の版図に入って以降は政治的にはアジアから除外されヨーロッパと結びつけて取り扱われてきた。またアフガニスタンを除く西アジアは政治区画としては,中東に含められてアジアとは独立して取り扱われることが多い。古くからの独立国である日本,タイのほかは,第2次大戦後の独立国,新興国が多く,朝鮮民主主義人民共和国,大韓民国,モンゴル,中華人民共和国,フィリピン,インドネシア,マレーシア,ブルネイ,シンガポール,ベトナム,カンボジア,ラオス,ミャンマー,ブータン,ネパール,インド,バングラデシュ,モルディブ,スリランカパキスタン,アフガニスタンがある。西アジアには,イラン,クウェート,イラク,トルコ,シリア,レバノン,イスラエル,ヨルダン,サウジアラビア,イエメン,エジプト(アフリカに含まれることが多い)があり,ほかにオマーン,バーレーン,カタール,アラブ首長国連邦がある。その後1991年にソ連が消滅し,アゼルバイジャン,アルメニア,ジョージア,ウズベキスタン,カザフスタン,キルギスタン,タジキスタン,トルクメニスタンの8ヵ国が誕生した。このようにアジアには独立後日の浅い国が多いだけに,また複雑な歴史的経緯もあり,領土の帰属,不画定な国境線をめぐっての紛争が多い。インド・パキスタンのカシミール問題,南沙群島(スプラトリー諸島)の領有権問題,日韓の竹島(独島)問題,日中の尖閣諸島問題,中越国境問題中印国境問題などがある。また,朝鮮の統一問題,カンボジア内戦,アフガニスタン戦争,中国・台湾関係,スリランカのタミル問題,インドネシアの東ティモール問題,ミャンマーの民主化問題など,未解決の問題が残されている。〔アジアとヨーロッパ〕 メソポタミア,インダス川流域,黄河流域に世界最古の文明が興り,また仏教,キリスト教,イスラムのほか儒教,ヒンドゥー教など世界の主要宗教のほとんどがアジアに興った。古代のアジアは世界文明の先進的地域としての役割を果たし,6―7世紀以降アラブ,イランの文明はイスラム拡大の波にのってスペインからフランスにまで達し,ヨーロッパ全域に深い影響を与えた。13世紀,中央アジアにモンゴル帝国が興り,アジアの大半と東欧を領土とし,これがアジアとヨーロッパの交通を促進したが,このころすでにアジアは,その先進的な役割をヨーロッパに譲っていた。1498年バスコ・ダ・ガマの喜望峰回りインド到着,1521年マゼランの太平洋横断フィリピン到着によって海からの道が開け,ヨーロッパ各国のアジア侵略,支配が始まった。17世紀初めにイギリス東インド会社オランダ東インド会社が設立され,やがて産業革命の諸成果を背景としてヨーロッパのアジア侵略は本格化し,帝国主義時代を迎えて19―20世紀にアジアの大半にヨーロッパの支配が確立した。こうして資源,労働力に恵まれたアジアは,その生み出す富をヨーロッパに持ち去られることになり,植民地アジア,貧しいアジア,搾取されるアジアと化した。もっとも,ヨーロッパによる侵略を阻止しようとする動きは常に起こった。とりわけ19世紀後半には中国の太平天国インド大反乱,イランのタバコ・ボイコット運動,朝鮮の甲午農民戦争,スマトラのアチェ戦争,トルコの青年トルコ革命のほかビルマ(現,ミャンマー),アフガニスタン,エジプトなどで反乱,蜂起が集中的に起こった。しかし,いずれも優勢なヨーロッパ植民地主義国の武力の前に屈服させられた。ところが,第1次世界大戦後,アジアの諸民族の植民地主義に抵抗する運動が活発となった。こうした状況で,ヨーロッパ型近代国家をめざしてきた日本は周辺地域への侵略を進めて第2次大戦をアジア・太平洋地域に拡大し(太平洋戦争),大東亜共栄圏を唱えて周辺諸国に禍根を残した。第2次大戦後,多くの地域は民族自決のイデオロギーのもと植民地支配から脱却して独立国となったが,同時にその国家的枠組の多くが植民地時代に作られたものであるという矛盾を抱えている。しかしアジア諸国は国際社会においても重要な役割を担うようになり(アジア・アフリカ会議),また,とくに1960年代以降の東アジア,東南アジアの目覚ましい経済発展をへて,〈アジア・環太平洋地域〉という枠組が世界的に注目されている。

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