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アジア Asia

翻訳|Asia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アジア
Asia

ユーラシアの東過半分と付属島からなり,南緯10°から北は北極海にまで広がる地域。東は太平洋,南はインド洋に臨み,西はウラル山脈ウラル川カスピ海大カフカス山脈黒海ボスポラス海峡ダーダネルス海峡を結ぶ線でヨーロッパに接し,南西はスエズ地峡によってアフリカに続く。面積は世界陸地の約 3分の1を占め,人口は世界総人口の過半を有する。政治的,文化的には,ソビエト連邦だった地域を除いてアジアと呼ぶことが多い。特に統計上はその区分が一般的で,国際連合の統計なども,ユーラシアを,アジア,ヨーロッパ,ソ連の 3部分に分けている。この場合,ボスポラス海峡以西のトルコ領は,アジアに含められるのが普通である。世界四大文明のうち,メソポタミア文明(→メソポタミア),インダス文明黄河文明の発祥地で,キリスト教イスラム教仏教の三大宗教もすべてアジアで生まれた。しかし,いわゆる近代化に関してはヨーロッパに大きく立ち遅れ,ヨーロッパ諸国の植民地となった国が少なくなかった。第2次世界大戦後は民族主義運動(→ナショナリズム)が急速に盛り上がり,独立する国が急増した。アジア諸国の開発程度には大きな差があり,日本や,ホンコン特別行政区大韓民国(韓国),タイワンシンガポールを除くと発展途上国が多い。産油国と非産油国間の所得較差の増大,戦乱による難民問題など,解決を迫られる難問も多い。地域としては東アジア東南アジア,南アジア,西アジアに大別される。自然,産業,生活様式など,地域による差異は非常に大きい。旧ソ連地域を含めた(ニューギニア島は除く)面積は約 4461万km2,人口は約 40億7574万人(2008推計)。

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百科事典マイペディアの解説

アジア

漢字では亜細亜六大州の一つで,地球の陸地総面積の3分の1を占める地域。世界総人口の約60%を占める。アジアという言葉の起源は明らかでない。古代アッシリア語またはヘブライ語から出たものと推定されるが,古代フェニキア人が,東方の日の出の国をアスAsu,西方をエレブErebと呼び,これがアジアおよびヨーロッパという言葉の起源であるといわれている。

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世界大百科事典 第2版の解説

アジア【Asia】

アジアとは地球の陸地の一部分を指す地域の名称でユーラシア大陸の東の部分およびそれに付属する日本列島などの島々を指し,今日では通常,ヨーロッパとはウラル山脈,ウラル川,カスピ海,大カフカス山脈,黒海,ボスポラス海峡,ダーダネルス海峡により区分され,アフリカとの境はスエズ運河とされている。しかし諸民族・諸国家からなる多様なものを含むから,時代によってアジアという語が意味する内容は大きく変化してきた。本項においては,地理的な範囲,自然,民族,国家などには言及せず,もっぱらアジアという言葉の意味の変化を追ってみたい。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アジア
あじあ
Asia

総説

アジアという名称の起源は、古代(前11~前7世紀ごろ)地中海東部に栄えたフェニキア人が、その地より東方の地域をアスAsu(日の出る地方)、西方をエレブEreb(日の沈む地方)とよんだのが、アジアおよびヨーロッパの名称の始まりであるという。
 アジアは東半球の北部を占め、世界最大の大陸であるユーラシア大陸の大部分(東部および中部)にあたる大陸部と周辺の島々とからなっている。北は北極海、東は太平洋、南はインド洋に囲まれ、西はウラル山脈、カスピ海、カフカス山脈、黒海、地中海によりヨーロッパと、また地中海、スエズ運河、紅海、インド洋によりアフリカとそれぞれ接している。この広大な地域の面積は約5000万平方キロメートル(旧ソ連領を除くと約2800万平方キロメートル)で世界の陸地面積の約3分の1を占め、また人口は約35億人(旧ソ連領を含む)で世界人口の約2分の1に上る(1995国連推計)。
 アジアは北アジア、中央アジア、東アジア、東南アジア、南アジア、西アジアの6地域に分類されるのが普通であるが、これらの地域は地形、気候など風土的条件が非常に異なり、多種多様である。松田壽男(ひさお)によれば、アジアは〔1〕亜湿潤アジア(または寒冷アジア。森林地帯=北アジア)、〔2〕乾燥アジア(または砂漠アジア。砂漠地帯=中央アジアおよび西アジア)、〔3〕湿潤アジア(またはモンスーン・アジア。モンスーン地帯=東アジア、東南アジア、南アジア)の三つの風土帯に分けられる。そして、これらの風土的条件に規制されて、亜湿潤アジアには狩猟生活型が、乾燥アジアには遊牧生活型とオアシス生活型が、また湿潤アジアには農耕生活型および海洋生活型(沿海部と島嶼(とうしょ)部)が、それぞれ歴史の基盤となったとされている。こうして、松田は人文、地文の両条件を踏まえて、アジアを次の四大文化圏に分けて考察する。すなわち、〔1〕中国を中心とした東アジア農耕文化圏、〔2〕インドを中心とする南アジア農耕文化圏、〔3〕北アジア遊牧文化圏、〔4〕イラン(ペルシア)やイスラムの文化が支配的だった西アジア・オアシス文化圏である。[岡倉古志郎]

アジアの概念の変遷

前述したように、アジアとヨーロッパとは、地中海東部を座標軸にして、それぞれ日の出る地方(東方)および日の没する地方(西方)を意味した。これと同一の発想は、オリエントOrientとオクシデントOccidentの語源となるラテン語にもみられ、やはり日の出と日没がそれぞれの語意である。邦訳すれば東洋と西洋ということになる。ただしこの場合のオリエントは一般的には西欧からみてのいわゆる近東諸国をさし、また西洋史学ではとくに古代のエジプト、メソポタミア(古代オリエント)をさすから、前述のような意味におけるアジア、東方、東洋よりは狭義になる。この狭義のオリエントはむしろ「中洋」ともいうべきであって、それは前述の西アジア・オアシス文化圏に対応する。それゆえ、本来のアジアは、広義の東洋、東方から「中洋」を除去した狭義の東洋と「中洋」とを包含したものになるわけである。つまり、大きく分ければ、アジアは東アジア文化圏(中国およびインド)と西アジア文化圏(メソポタミア)の二つの部分からなり、宗教的にはこれらは仏教世界およびイスラム世界ということになる。
 しかし、古代、中世にかけては別として、大航海時代(15~16世紀)以降、西欧諸国のアジアへの侵入が始まり、18世紀後半までにはアジアの多くの国々が植民地化され、さらに、産業資本主義の時代から帝国主義の時代になるとアジアの植民地化は完了する。これによってアジアの社会的、経済的発展は停滞させられ、アジアは偉大な古代文明をもちながらも、発展の後れた「後進地域」としての概念でとらえられるに至った。このようなアジア像の一つの反映は、たとえば極東、中東、近東という呼称である。極東はほぼ東北アジアを、中東はほぼ西アジアを、近東はバルカン半島諸国とトルコをそれぞれさすが、これらはイギリスを基点にした呼称であって、イギリスの植民地主義的、帝国主義的な立場を反映するものである。しかし、第二次世界大戦後の植民地の独立、民族解放運動の前進に伴い、植民地アジアのイメージは変貌(へんぼう)し、アジアは発展途上の「第三世界」の有力な構成部分として世界政治、経済の舞台に登場するに至った。もちろん、アジア諸国は政治的、国家的独立を成し遂げたとはいえ、日本を別とすれば経済的発展の立ち後れや、国によっては欧米など先進資本主義諸国に対する経済的従属を脱しきれぬ国々が戦後半世紀の現在でも少なくない。しかし、戦前までのアジア像が一変したことだけは確かである。[岡倉古志郎]

古代文明とアジア

アジアは50万~60万年以前に早くも人類が出現した地である。すなわち、アジアで現在確認されている最初の人類はジャワの直立猿人(ピテカントロプス・エレクトゥス=ジャワ原人)および中国の北京(ペキン)原人(シナントロプス・ペキネンシス)であるとされ、石器を使用し、北京原人は火を知っていたという。やがてホモ・エレクトゥスはより進化したホモ・サピエンスによってとってかわられた。約1万年前、新石器時代が到来し、人類は狩猟・採集生活から農耕・牧畜生活に移行、定着して生活を営むようになるが、このような過程のなかで血縁的結合である氏族が発達し、部族社会が形成された。生産力の発展に伴い分業が進み、貴族―奴隷という階級が発生し、政治的、宗教的な階級制度や宗教的権威に基づいて政治権力をもつ支配者(神の子孫たる王)が出現した。そして、農村から分離した壮大な公共建築物と稠密(ちゅうみつ)な人口をもつ都市が出現し、人類最初の文明が登場した。
 古代文明は紀元前40世紀なかばごろ、いずれも農業が集約的に行われ、前述のような社会的発展が進んでいる大河の流域に開花した。これらは周知のように〔1〕ティグリス・ユーフラテス川下流域、〔2〕ナイル川流域、〔3〕インダス川流域、〔4〕黄河流域の四つの地域で、〔2〕のナイル川流域を除きすべてアジアに属する。ティグリス・ユーフラテス川流域に開花した文明は、メソポタミア(ついでエラム)地域、とくにバビロニアとアッシリアの両大王国で栄えた。インド最古の文明は、インダス川流域のハラッパー、モヘンジョ・ダーロなどをはじめ広大な地域にわたって、前25世紀なかばから前15世紀なかばにかけて開花したが、やがて中央アジア、南部ロシアから南下してきたアーリア人に滅ぼされた。アーリア人は農耕化して定住し、バラモン教を基礎とする専制的古代統一国家を形成、『リグ・ベーダ』、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』などの優れた文学をも生み出した。中国では黄河流域(安陽)に興隆した殷(いん)王朝(前16世紀~前11世紀)、ついで周王朝(前11世紀~前8世紀ごろ)に古代文明が開花したが、その後、春秋戦国時代を経て、秦(しん)王朝、前漢、後漢と続く専制統一国家が現れた。しかし北方民族の侵入などを契機に、魏(ぎ)、晋(しん)、南北朝へと分裂時代が続き、ようやく隋(ずい)、唐により統一が実現した。とくに唐は7世紀ごろには世界的な大帝国となり、農工業の発達と文化の興隆をもたらした。[岡倉古志郎]

中世世界の成立

7世紀なかばごろ、イスラム教の教義のもとでアジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる広大なサラセン帝国が形成され、サラセン文化が興隆した。サラセン帝国によるイスラム圏の拡大の影響はインドにも及び、やがてインド統一王朝のイスラム化が実現、ムガル帝国が建立された。ムガル帝国は16世紀初頭から19世紀なかばまで続くが、その間アクバル大帝(1542―1605)、アウランゼーブ帝(1618―1707)などの治下で文化が目覚ましく栄えた。一方中国では、唐のあとに宋(そう)朝が興り、中央集権的官僚国家体制が確立するが、13世紀後半にはモンゴル人よって滅ぼされた。モンゴル人はその後アジアからヨーロッパにまたがる大帝国の元(げん)を建設し、東西間の交通、文化の交流は著しく促進された。その後中国では元にかわって明(みん)、清(しん)が、西アジアではオスマン・トルコ帝国が興った。しかし、15~16世紀のいわゆる大航海時代を転換期として、ヨーロッパの列強はアジアへの侵略を開始し、これによりアジア的封建専制国家は相次いで崩壊し、植民地支配下の社会へと転落し始めることになる。[岡倉古志郎]

植民地支配下のアジア


重商主義の時代
前述のように、15~16世紀にかけて西欧列強はアジアばかりでなくラテンアメリカ、アフリカの各地域に侵入し始めた。16世紀前半、ポルトガルは紅海からペルシア湾、ついでインドから東南アジアにまで東進してマラッカを占領し、さらに広東(カントン)、マカオ、日本にまで進出した。一方、スペインは西回りで進み、アメリカ大陸、ラテンアメリカ諸国を経て、フィリピンに進出した。ポルトガルやスペインは海賊、奴隷貿易、香料の独占などにより莫大(ばくだい)な利益を手に入れた。しかし、スペインによるポルトガルの併合(1580)、ついでスペインの「無敵艦隊」のイギリス海軍による壊滅を契機にして、ポルトガルとスペインの植民地独占の時代は終わりを告げ、かわって、まずオランダ、ついでイギリスが登場するに至った。オランダはジャワ島、マラッカ、セイロン島などを手に入れ、ついで中国や日本とも交易した。イギリスはインドのチェンナイ(マドラス)、ムンバイ(ボンベイ)、コルカタ(カルカッタ)を手中に収めてここを軍事、貿易の拠点とした。遅れてフランスもインド、インドシナに進出した。この間、イギリスとオランダ、フランスとの間には数次の軍事衝突も生じたが、これらの戦争を通じてイギリスの地歩はいっそう強化された。
 17世紀初頭、イギリス、オランダ、フランスはいずれも東インド会社という組織を設けて、直接的な暴力、抑圧、劫掠(ごうりゃく)と収奪を行った。たとえば、イギリスはインドで、暴力と欺瞞(ぎまん)により現地生産物を4分の1の価格で購入、逆にイギリス商品を5倍の価格で売りつけ、これに反抗するインド人を投獄した。また、インド農民に対して中国へのアヘンの輸出のためケシを強制栽培させたりした。その結果、東インド会社の年間配当率は100~200%にも上ったといわれる。こうして、大航海時代から18世紀後半に至る数世紀間に、アジアの多くの地域が西欧列強によって植民地化された。その結果、アジア社会はいやおうなしに急速な変化、崩壊の過程に引き込まれ、植民地的、封建的社会に転落させられていった。他方、こうしてあげられた膨大な利益は、西欧に還流して資本の本源的蓄積の源泉となり、西欧諸国における資本主義の発展を促進した。これに対して、アジアの民衆は大小さまざまの蜂起(ほうき)で抵抗した。たとえばインドネシアではジャワ島(1512)、アンボン島(1635)、マドゥラ島(1674)における反乱が、またインドでは数次にわたる有名なマラータ戦争(18世紀末)などが起こっている。これらの抵抗戦争は民族解放戦争の端緒的形態ではあるが、主として封建的支配者の指導によるもので、多くの場合、内部対立などの原因によって敗北した。[岡倉古志郎]
産業資本主義の時代
18世紀後半から19世紀末にかけて、西欧列強のアジア侵略は従来よりも範囲がいっそう広くなり、また、その社会的、経済的影響がずっと深刻になった。これは産業革命の結果、大規模な工業生産が行われるようになり、大量かつ安価な原料、食料品の獲得と工業製品の販売市場の確保が必要になったためである。こうして、インドは1856年までに完全にイギリスの植民地支配下に置かれ、ビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)、マレー(現マレーシア)、シンガポール、コーチシナ(ベトナム南部)、アフガニスタン、イラン、トルコなども、相次いで西欧列強の植民地、従属国となった。中国もアヘン戦争(1840~1842)での敗北を契機に半植民地化の道をたどり始め、日本も列強から不平等条約を押し付けられた。この結果、アジアの大部分が植民地主義のもとに置かれ、列強の原料、食料品供給の源泉および商品販売市場として、西欧資本主義の補完物となるに至った。伝統的な自給自足経済は解体され、植民地的モノカルチュア(農作物の単一栽培)経済の鋳型に押し込まれ、農民、手工業者や封建的支配者までも深刻な影響を被った。
 これに対して多くの民族的反乱が起こったのは必然的であった。バーブ教徒の反乱(1848~1852、ペルシア)、インドの大反乱(セポイの反乱、1857~1859)、太平天国の乱(1850~1864、中国)などはその代表的なものである。歴史的にみれば、これらの民族的反乱はアジアの民族解放運動の初発的段階のものであり、封建支配層指導下の反植民地主義運動の最後のものであった。また、これらの運動はその指導力の限界性のゆえに敗北するが、同時に間接的ながら相互に影響しあっていたことは、後の時代のアジア諸民族の連帯の萌芽(ほうが)でもあった。[岡倉古志郎]
帝国主義の時代
1870年代以降の帝国主義、独占資本主義の時代に入ると、アメリカ、ドイツ、ロシア、日本など後発の帝国主義列強も含めた、帝国主義列強間の植民地略取競争は熾烈(しれつ)化し、20世紀初頭までには帝国主義列強による地球の最終的分割が完了した。この帝国主義の植民地体制下でアジア、アフリカ、ラテンアメリカは原料、食料、低廉な労働力の供給源として、商品と資本の輸出市場として完全に世界資本主義経済の枠組みのなかに組み込まれてしまった。しかし、植民地主義の支配の拡大、強化は帝国主義と被抑圧諸民族との間の矛盾を必然的に先鋭化することになり、ここに近代的民族解放運動、すなわち民族自決権の実現を目ざす運動が本格的に開始されることになる。たとえば、イランの立憲革命(1905)、トルコの青年トルコ党の革命と専制政治の打倒(1908)、インドの国民会議派によるスワラージ(独立)、スワデーシー(国産品愛用)の目標確立(1906)、インドネシアにおける民族主義組織ブディ・ウトモ(1908)、サレカット・イスラム(1911)の結成、フィリピンにおける国民党の結成(1907)などである。中国では孫文の三民主義(民族、民生、民権)を綱領として辛亥(しんがい)革命が起こり(1911)、清朝の専制支配を倒して中華民国を樹立した。これらの運動はいわゆるブルジョア民族主義者の指導によるものが多かった。
 このようなアジアの民族独立運動に決定的な影響を及ぼしたのは、第一次世界大戦とロシア革命であった。すなわち、朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動、五・三〇運動(1925)、インドネシアの反オランダ全国蜂起(ほうき)(1926)、ガンジー指導下のインド国民会議派の第一次非暴力・不服従運動の開始(1919)、アフガニスタンの第三次反英戦争と独立の獲得、エジプトの反英独立闘争といちおうの独立の実現(1922)などである。これらの運動の連鎖反応的爆発は、第一次世界大戦のパリ講和会議などでアメリカ大統領ウィルソンの唱えた民族自決の原則が、アジア諸国の民族主義者たちを励ます大義名分を与えたこと、一方ロシア革命で樹立されたソ連が、内外の諸民族の完全な自決を促す政策を実行したことなどによるものである。さらに1920年代に入るとアジア諸国に相次いでコミンテルンの支部が結成され、労働者、農民の利益を代表する共産党が徹底的な反帝国主義、反封建の革命の推進力として登場してくる。
 1930年代の世界経済恐慌のしわ寄せがアジアの植民地、半植民地人民のうえにのしかかるなかで、やがて、日本帝国主義の侵略戦争が東アジア、東南アジアに拡大されるに及んで、反ファシズムと民族解放の課題はしだいに結合して、民族解放運動の深化、発展をもたらすに至った。[岡倉古志郎]

独立と革命の時代の幕開き


独立運動の高揚の背景
第二次世界大戦後のアジアの植民地、従属国の民族解放運動の高揚は、他の大陸のそれよりも早く、終戦とほぼ同時に始まり、1940年代末までには相次いで独立を獲得した。その条件としては第一に、太平洋戦争初期に日本帝国主義がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ各帝国主義に軍事的に勝利し、それらの植民地統治制度がくずれたこと、帝国主義国どうしが軍事的に対決し互いに弱めあったこと、最後に日本帝国主義が敗退した結果、植民地支配に空白が生じたことがあげられる。第二に国際情勢に対するソ連の影響力が増大し、欧米帝国主義を牽制(けんせい)したこと、第三に、反ファッショ(抗日)民族解放戦争遂行のための民族解放統一戦線が結成されたこと(中国、ベトナム、フィリピンなどでは共産党の指導下で)などがある。このような客観的、主体的条件が反ファッショ戦争の勝利のもとで結び付き、嵐(あらし)のような民族解放運動の爆発と勝利をもたらしたのである。(なお、これ以下の諸項目の記述では、いわゆる中東は除いてある。したがって、「パレスチナ問題」「中東戦争」「湾岸戦争」についてはそれぞれの項目を参照されたい。)[岡倉古志郎]
植民地体制の崩壊
1945年、太平洋戦争の終結直後、ベトナム、インドネシアなどが独立を宣言し、ついで翌1946年にはフィリピン、1947年にはインド、パキスタン、1948年にはビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)が独立し、また戦後国連信託統治下にあった旧日本領朝鮮では北緯38度線の南に韓国、北に北朝鮮がつくられた。さらに重要なできごととして1949年10月中国革命が勝利して中華人民共和国が樹立された。この間フランス、オランダはインドシナ、インドネシアの再植民地化を企図して軍事侵略を行ったが敗北した。このように、戦後わずか5年間で十数億の人口を含むアジアの大部分で植民地体制が崩壊したことはまさに世界史的なできごとであった。それはやがて西アジア(イラク、イランなど)、北アフリカ(エジプト、マグレブ三国)、さらにサハラ砂漠以南のアフリカの民族解放運動の高揚と独立の達成に大きな影響をもたらした。この間、民族解放革命の勝利に共産党が指導的役割を果たした中国、北朝鮮、ベトナムなどでは社会主義の道に沿った建国が行われ、モンゴルや旧ソ連邦加盟のアジアの諸共和国とともに社会主義陣営に加わった。また旧ソ連、中国、北朝鮮は相互に軍事同盟を結び、他方、アメリカは日本、韓国、台湾、フィリピン、タイなどと軍事条約を締結し米軍を駐留させた。こうしてアメリカを盟主とする資本主義陣営と旧ソ連主導下の社会主義陣営との間の「冷戦」は、アジアでは、インドシナ戦争(1946~1954)、朝鮮戦争(1950~1953)のように「熱戦」にまで激化し、全アジアを巻き込む第三次世界大戦の導火線になる恐れさえも生み出した。[岡倉古志郎]
平和五原則とアジア・アフリカ会議
事態を憂慮した東南アジア5か国(インド、ビルマ、セイロン、パキスタン、インドネシア)の首相は1954年5月コロンボで会議を開きアメリカ、イギリス、ソ連の自制を求める宣言を発した。また、周恩来・ネルー両首相は1954年6月、中国・インド両国間の友好関係を保障すべき「平和五原則」(主権・領土の相互尊重、相互不侵略、相互内政不干渉、平等互恵、平和的共存)をすべての国家間関係の普遍的原則とすべきことを宣言した。こうして同年7月のジュネーブ協定でインドシナ停戦が実現、危機はひとまず回避された。だがアメリカはその直後イギリス、フランスを語らいタイ、フィリピン、パキスタンを含む反共軍事ブロックの東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))を結成、またフランスにかわって南ベトナムへの軍事支援に乗り出した。
 こうした情勢のもと前記コロンボ・グループ5か国共催下に1955年4月インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、東西の軍事ブロック加盟、非加盟を問わず、また中国、日本を含む29か国の大統領、首相らが参加して、「求同存異」の精神で国連憲章と「平和五原則」を盛り込んだ「平和十原則」(バンドン十原則ともいう)を初めとする宣言を全員一致で採択した。バンドン会議は植民地支配を脱した新興独立諸国が一致して国際社会に存在感を示した世界史上初の画期的できごとであり、未解放植民地の独立を促進し、また後年の非同盟運動の原点となった。[岡倉古志郎]
新植民地主義とベトナム戦争
植民地体制崩壊のなかで資源、市場などの植民地的支配と収奪を続けるため、欧米列強は1960年代に入るころから新植民地主義とよばれる戦略をとり始めた。それは軍事援助や軍事同盟による従属的反動政権の維持や軍部のクーデターによる政権奪取、政府借款や多国籍企業の投資による経済、技術援助、食糧援助、国際復興開発銀行(世界銀行)、国際通貨基金(IMF)、国際開発協会(IDA、通称第二世銀)、経済協力開発機構(OECD)などの国際機関の財政経済援助を介した支配、浸透、教育・文化・マスコミなどへの影響力の行使など多面的な手段、方法によるものであるが、要は新興独立国の独立を名ばかりのものにし事実上の従属国に転落させるのが目的である。アメリカは1960~1970年代のアジアで、国土、民族の分断とその片方の支配(朝鮮、台湾、ベトナム)、集団的軍事同盟SEATOや日本、台湾、韓国、フィリピン、タイ、南ベトナムなどとの個別的軍事同盟による米軍基地の設置、米軍の駐留、経済援助による経済浸透・支配・収奪などの新植民地主義政策を展開した。
 だが、新植民地主義はその本質上、対象国人民の間に窮乏、人権侵害などへの不満をつのらせ、傀儡(かいらい)政権と敵対する闘争を必至にする。そうなると仮面がはがれて植民地主義の本質が露呈し、軍事的抑圧と侵略戦争が表面に出る。1964~1975年のベトナム戦争がその好例である。アメリカはまず南ベトナムの傀儡軍を支援して人民の武装蜂起(ほうき)を鎮圧しようとした「特殊戦争」が失敗、ついには、北ベトナムへの爆撃、化学兵器の使用、大量の米軍の投入(最盛時54万)、ラオス、カンボジアにまで侵略を拡大したが、最後にはインドシナ3国の民族自決を尊重し、米軍の撤退を認める敗北を嘗(な)めた。陸海空戦力の約半分、2400億ドルの戦費、第二次世界大戦中の使用量の3倍もの砲爆弾の使用にもかかわらず、世界最強の大国が小国ベトナムの政府、人民の抗戦と世界的な反戦平和運動の前に完全に敗北したことはまさに世界史的できごとであった。[岡倉古志郎]
ASEANとアジアNIES
1976年6月南北ベトナムが統一して強力な社会主義国となったこと、とくに1978年末ベトナム軍がカンボジアを侵略したことは周辺の東南アジア諸国の危機感を募らせ、ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)の活性化を促した。元来ASEANは1967年ベトナム戦争のさなかに、当時はほとんどが開発独裁政権下にあったフィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアの5か国が結成した地域協力機構で、アメリカのベトナム戦争を支持しつつも中立化傾向を示し、1971年には中立地帯宣言を発した以外にはさほどの成果もあげなかった。だがベトナム戦争後の1976年には初の首脳会議を開いて東南アジア友好協力条約を締結、カンボジア紛争後1977年には日米両国などを加えた拡大外相会議を設置した。この活性化の背景には大半のメンバー国がこの間急速な経済成長を遂げ自身を強めたこともある。その後1984年独立したブルネイが加盟、ついで「ドイモイ(刷新)」政策で経済自由化に転じたベトナムも参加を望み、ラオスとともに加盟を認められ、ASEANは結成30年で9か国に倍増した。その後1999年4月にカンボジアが正式に加盟し、ASEAN10体制が実現した。
 日本を除くと東アジア、東南アジア諸国の経済は、1960年代なかば、とくに1970年代以降劇的な変化、躍進を遂げた。まずアジアNICS(ニックス)(新興工業諸国、後にNIES(ニーズ)新興工業経済地域と改称)とよばれた韓国、台湾、香港、シンガポールの4か国、続いて中国、タイ、マレーシア、インドネシアが驚異的な経済成長率(GDPの伸び率)を記録した。以上8か国の1965~1990年の年平均成長率は5.5%、東アジア全体では6.7%、東南アジアは3.8%でOECD諸国平均の2.7%を凌駕(りょうが)している。旧植民地型経済の一次産品輸出、工業品輸入というパターンが多国籍企業の投資と低賃金労働力利用の輸出向け工業化に転換したことがこの成長の要因であった。1990年代になると立ち後れていた南アジアのインドやベトナムなどの経済成長も進んだ。だが、この経済成長をもたらした開発独裁下の外資依存・輸出志向型工業化戦略の構造的弱点は1997年のタイ通貨バーツ切り下げを契機として露呈され、深刻な通貨、経済危機が全アジアに拡大し、抜本的な改革が必至となった。[岡倉古志郎]

今日の問題点と課題

このように第二次世界大戦後の半世紀間にアジアは大きく変貌(へんぼう)した。その最大のものは帝国主義の植民地体制の崩壊と新興独立国の出現である。それはアジア史のみならず世界史における画期的なできごとでもあった。だが今日、アジアは植民地時代の後遺症ともいうべき諸問題ばかりでなく、戦後新たに生じてきた問題も含めて多くの未解決の重大な問題や課題を抱えている。そのすべてに言及することはできないが重要なものをあげておこう。
 まず第一は戦争と平和にかかわる問題である。戦後半世紀間に世界で起こった三つの大規模な戦争、すなわち朝鮮戦争(1950~1953)、ベトナム戦争(1964~1975)、湾岸戦争(1991)はすべてアジアで起こっている。このほか、4回にわたる中東戦争(イスラエル・アラブ紛争)、イラン・イラク戦争、印パ戦争など民族、宗教、領土をめぐる紛争にかかわる中小規模の戦争もある。いわゆる冷戦時代には米ソ両陣営の対立とそれぞれの軍事ブロックや二国間軍事同盟がこれらの戦争の背景にあり、しかも大量の米軍が国連軍、同盟軍の名のもとに介入した。軍事ブロックが消滅し、ソ連が崩壊した冷戦後になってさえ、アメリカは多国籍軍を組織して湾岸戦争を遂行し、その後もイラク爆撃を強行した。
 これに対してアジアの新興独立諸国はすでに1950年代の朝鮮、インドシナ戦争のころから米ソ両陣営への不参加による平和と独立の擁護の姿勢をとり、前述の平和十原則にもその願望を盛り込んでいたが、インドのネルー、インドネシアのスカルノ両首脳も創始者に加わって1961年非同盟運動が発足すると多くの国々がこれに参加、その後軍事同盟を離脱したパキスタン、フィリピン、ベトナムも加わり、今日では日本、中国、韓国など少数を除き、ほとんどのアジア諸国が非同盟運動に参加、国連を中心に核兵器廃絶、軍縮、国連の民主化、公正平等な新国際経済秩序の実現などに向け奮闘している。
 第二の問題は以上とも関連の深い核兵器の問題である。アジアで、いな世界で核兵器が最初に戦争で用いられたのは1945年8月米軍機による広島、長崎への原爆投下であった。アメリカはその後も幸い未遂に終わったがアジアにおける前述の三つの戦争で核兵器の使用を準備したし、また、在日米軍基地やアジアの諸海域に展開する米艦船に核兵器が貯蔵、搭載されていることは厳然たる事実である。こうして現在アジアにはアメリカ、ロシア(ソ連から継承)、中国の核戦力に加え、1998年にはインド、パキスタン両国が保有を公にするに至った。これにより核不拡散条約(略称NPT)の無力さが露呈されたのみか、印パ両国間の局地戦争が核戦争に突入する危険さえ現実性を帯びた。アメリカなどが誇大に騒ぐ北朝鮮やイラクの核開発はそれほどではないが、なぜか黙過されるイスラエルの相当な数の核兵器保有は疑いの余地はない。核兵器廃絶の課題はアジアではとりわけ重要な課題である。
 アジアの多くの国々は他の非同盟諸国とともに国連総会やジュネーブの軍縮会議などで核兵器廃絶、使用禁止等の実現をめざして奮闘してきたが、とくにASEAN(アセアン)ではマレーシアのマハティール首相などの努力が実り、1995年12月、当時加盟7か国にミャンマー、ラオス、カンボジアの未加盟3か国を加えた10か国が東南アジア非核地帯条約に調印、1997年発効した(ラオス、ミャンマーは1997年、カンボジアは1999年にASEAN加盟)。これよりさき南北朝鮮も1991年朝鮮半島非核化宣言を発しており、また1997年にはキルギス、カザフスタン、タジキスタンの旧ソ連の諸共和国も中央アジア非核地帯構想に合意した。
 つぎに経済社会発展の根幹にかかわる諸問題、すなわち自立的な経済建設、人口の激増と貧困の問題や環境問題などがある。アジアの新興諸国は独立達成後発展の後れた非近代的、従属的な植民地型経済構造からの脱却、その後遺症ともいうべき貧困、飢餓、無権利、無知などの克服をめざしてさまざまな方法で経済建設に取り組んできた。その結果、多国籍企業による新しい形の資源、市場等の支配はあるものの、たとえば1970年代以後東アジア、東南アジア諸国、さらには「近代化」路線に転じた中国やインドなどにみられるような驚異的な経済発展を遂げた。だが外資依存の弱点から1997年以後深刻な経済危機が広がり、もしもこの危機の打開をアメリカの意図するIMF(国際通貨基金)の管理監督に委ねるならば自主的な経済発展の道は閉ざされるであろう。
 アジアの人口は1950年の15億人から1995年には35億人へと倍以上に激増し、増加分だけでも先進諸国の人口総計に等しい。この増加率が続けば2025年には50億人に達するものと予想されている。これは衛生、医療の改善による死亡率、とくに乳幼児死亡率の激減の結果でありそれ自体は喜ぶべきだが、経済成長ともあいまって人口の都市集中化が進み、公害やスラム化など新しい環境・社会問題を派生させている。現在、アジア人口の30%が都市に住んでいるが、2020年には50%になると予測され、現在全世界の巨大都市(人口1000万以上)14のうちアジアは9を占めるが、2015年までには27のうち18に倍増するという。これらとも関連するが、消費額1日1ドル以下の貧困層は途上国全体で約13億人、うちアジアは約4分の3で、中国3億7000万人、インドなど南アジア5億1500万人である(1993年、世界銀行調べ)。NIES諸国では貧困は急速に解消したが、貧富の格差は拡大した。また急速な経済成長に伴い過去30年間にアジアの森林の半分、全耕作地の3分の1の土壌が劣化、海洋漁業の漁獲量の半減、巨大都市のスラム化と都市公害の悪化、大気、水質汚染も進んでいる。こうして「アジアの環境は今まさに崩壊寸前という瀬戸際に立たされているのである」(アジア開発銀行)。
 最後に政治的民主主義と人権の問題がある。新植民地主義の政治的形態や経済建設のあり方とも関連するが、過去半世紀の間にアジアの新興独立諸国ではさまざまな性格、形態の独裁政権(しばしば「開発独裁」とよばれる。多くは軍部によるクーデターなどの手段により樹立され、政治的な独裁を経済的発展によって正当化するもの)が出現し、なかには30年前後の長きにわたって存続した例もある(シンガポールのリー・クアン・ユー、インドネシアのスハルトなど)。しかし1980年代末ごろから民衆の不満、反発を基礎にして民主化が進み、韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、インドネシアなどで独裁政権が崩壊、あるいは衰退した。だが、ミャンマーやイラクなどでは依然独裁政治が継続しており、また、体制の相違は別としても、共産党支配下の中国でも1989年の第二次天安門事件にみられるように政治的民主主義は確立されていない。少なくとも「国際人権規約B」の諸権利が国民に保障されるようになることが切望される。[岡倉古志郎]

アジアと日本

いうまでもなく日本はアジアの一員であり、日本人はアジア文化圏のなかで数千年来、中国、朝鮮、インドなどの諸文化の影響を強く受け、またそれらを吸収しながら独自の文化を発展させてきた。19世紀になってアジアの諸民族は欧米列強に侵略され、相次いで植民地化されたが、日本は明治維新によってこの植民地化の危機を乗り越えた。これは、明治維新の指導者たちや民衆の反植民地化、反封建の闘いによるのはもちろんだが、中国の太平天国の乱、インドの大反乱など、アジア諸民族の反植民地主義の闘争が、欧米列強に苦い経験を味わわせ、警戒心を抱かせたことのおかげでもあった。
 しかし明治維新後、日本は欧米列強に追いつくべく近代化の道を踏み出し、近隣諸国への進出、勢力圏の拡充、市場、原料、資源の獲得などによって、急速な資本主義の発展を目ざした。これに伴い、維新前後の「興亜論」(中国、朝鮮などと連携して欧米にあたる)は「脱亜入欧論」(福沢諭吉)にかわり、また自由民権左派のアジア諸民族との連体論は黒竜会などの国権拡張とアジア侵略の大アジア主義に取ってかわられた。こうして、日本は日清(にっしん)、日露両戦争によって台湾、朝鮮を奪い、植民地化し、急速に帝国主義国の列に加わった。さらに、第一次世界大戦を経て1930年代に入ると、世界経済恐慌による打撃や国内社会の矛盾の克服のため、軍国主義と対外侵略に向かって突進した。「大東亜共栄圏」の構想は、実は日本帝国主義が欧米列強にかわってアジア諸民族を支配し、自国の富強と繁栄を図る構想にほかならなかった。この過程で南京大虐殺事件や従軍慰安婦問題などが生じたのはその象徴である。
 1945年(昭和20)の敗戦の結果、日本帝国主義、軍国主義は崩壊し、連合国、実際はアメリカの占領下に置かれることになった。他方、アジア諸民族は独立し、新しいアジアが誕生した。対日講和条約の成立(1952)後も、同時に結ばれた日米安全保障条約および新安保条約(1960改定)のもとで、日本はアメリカに対する軍事・経済従属を脱却できず、現在なお、アメリカの核戦略体制下に置かれている。とくにソ連崩壊後、アメリカの世界戦略に沿った「日米防衛協力の指針」(新「ガイドライン」)が1997年9月に合意され、日本はアメリカのアジア諸国への軍事的介入の協力者として位置づけられている。
 1950年代なかば以降、日本の経済的復興と異例な高度経済成長により、日本は世界第二の経済大国になったが、日本の対外公的援助の大半はアジアに集中し、また、その多国籍企業も東アジア、東南アジアの資源、市場、低賃金労働力の支配を指向している。そして、これらが全体として、アメリカの新植民地主義的アジア戦略の枠組みのなかで、補完的役割を果たしている。このような状況のなかで、アジア諸国が「大東亜共栄圏」の再現と日本軍国主義の復活を恐れるのも無理からぬことである。
 明治以降、日本がアジア諸民族に対してとってきた誤った態度、すなわち朝鮮、台湾への植民地支配と中国、東南アジア諸国への侵略と占領、抑圧と収奪などの厳然たる歴史的事実を日本国政府が公式に認識し、これに対する反省と真摯(しんし)な謝罪、誠意のある国家補償を行うとともに今後このような過ちを再び繰り返さないという誓約を行うことがまず必要とされる。次に日本国憲法の恒久平和の大原則に基づき、また国是とされる「非核三原則」を法制化し、アメリカの「核の傘」からの離脱、核兵器の廃絶、東アジア非核兵器地帯の実現などに努めるとともに、これと関連して日米軍事同盟の廃止、在日米軍、同軍事基地の撤去、非同盟・中立の立場を確立するための措置を講ずることが必要である。さらに経済面では対外公的援助(ODA)を見直し、アジア諸国の真の経済発展と諸国民の生活向上に役立つ内容のものに改め、新植民地主義的役割を演じているIMFや世界銀行、アジア開発銀行などのあり方の改革に努力し、多国籍企業の横暴を規制するなどアジア諸国への対等・平等な協力、支援をすべきである。これこそアジアの一員たる経済大国日本が進むべき道である。[岡倉古志郎]
『松田壽男著『NHK市民大学叢書21 アジアの歴史』(1971・日本放送出版協会) ▽歴史学研究会編『アジア現代史』全5巻(1981・青木書店) ▽アジア開発銀行著・吉田恒昭監訳『アジア 変革への挑戦』(1998・東洋経済新報社)』

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