アダムズ(英語表記)John Adams

デジタル大辞泉 「アダムズ」の意味・読み・例文・類語

アダムズ(Walter Sydney Adams)

[1876~1956]米国の天体物理学者。恒星のスペクトル線から巨星と矮星わいせいとを区別。重力による赤方偏移を検出して、白色矮星の高密度を実証した。

アダムズ(Jane Addams)

[1860~1935]米国の女性社会事業家。1889年、米国最初のセツルメントのハルハウスをシカゴに設立。第一次大戦中は平和運動に貢献し、1931年、ノーベル平和賞受賞。

アダムズ(John Couch Adams)

[1819~1892]英国の天文学者。天王星の運動の不規則さから海王星の存在を推論。

アダムズ(William Adams)

三浦按針みうらあんじん

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精選版 日本国語大辞典 「アダムズ」の意味・読み・例文・類語

アダムズ

  1. [ 一 ] ( Jane Addams ジェーン━ ) アメリカの女性社会事業家。一八八九年アメリカ最初のセツルメント、ハル‐ハウスをシカゴに設立した。第一次大戦中は平和運動に献身。一九三一年ノーベル平和賞を受賞。(一八六〇‐一九三五
  2. [ 二 ] ( John Adams ジョン━ ) アメリカ合衆国第二代大統領(在職一七九七‐一八〇一)。アメリカ独立戦争の指導者の一人で、独立宣言起草委員。(一七三五‐一八二六
  3. [ 三 ] ( Walter Sydney Adams ウォルター=シドニー━ ) アメリカの天文学者。ウィルソン山天文台長。一九二五年シリウスの伴星のスペクトル観測によって、重力効果による赤方偏移を確認し、一般相対性理論を実証した。(一八七六‐一九五六
  4. [ 四 ] ( William Adams ウィリアム━ ) 来日した最初のイギリス人。日本名は三浦按針。オランダ船の水先案内人として慶長五年(一六〇〇)豊後に漂着。家康の外交顧問となり、洋型帆船の建造、日蘭・日英貿易の計画、斡旋につとめた。元和六年平戸で没。(一五六四‐一六二〇

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改訂新版 世界大百科事典 「アダムズ」の意味・わかりやすい解説

アダムズ
John Adams
生没年:1735-1826

アメリカ合衆国第2代大統領。在職1797-1801年。マサチューセッツのブレーントリー(現,クインシー)に生まれ,ハーバード大学卒業。弁護士になりアビゲールと結婚した。1765年の印紙税法の制定を批判して《教会法と封建法について》と題するパンフレット,次いで《ノバングルス》を著し,従兄のサミュエル・アダムズとともにマサチューセッツの独立革命運動の指導者となった。74年第1回大陸会議の代議員に選ばれ,アメリカ植民地の独立を推進する活動を行う。とくに76年5月大陸会議が各植民地に革命政府の樹立を促す決議を採択した際には指導的な役割を果たした。また独立宣言を起草する委員会の委員に選出され署名者の一人となった。しかし独立を唱道した《コモン・センス》でトマス・ペーンが提案した一院制立法府を中核とする政府案には批判的な立場をとり,立法・行政・司法の三権間の〈牽制均衡〉を重視する観点から《政府に関する考察》を著して対抗した。80年にはマサチューセッツ州憲法制定会議の代議員として自己の政府観に基づく州憲法の制定を導き,同年オランダ公使に任命された。その後88年までヨーロッパにとどまり,対英平和条約交渉に当たり,次いで初代イギリス大使になる。この間フランス人のチュルゴやコンドルセの批判にこたえて《アメリカ州憲法擁護論》(1787-88)を著し,連邦憲法案の起草にも少なからぬ影響を与えた。帰国後ワシントン政権で初代副大統領に就任し,96年の大統領選挙ではわずか3票の選挙人投票差でジェファソンを破って当選した。大統領在職中は与党のフェデラリスト内部からハミルトン派の激しい対抗にあって内閣においてさえ主導権を確立できなかった一方,フランス革命後の対仏外交をめぐって野党リパブリカンの厳しい批判にもさらされた。対仏外交ではフランスとの戦争に突入することを避ける立場をとり,国交調整のために派遣した特使に対するフランスの非礼な要求を公表(XYZ事件)して批判をかわす目途をつけたものの,国内対策のために制定した外人法・治安法(1798)はリパブリカンの批判に油を注ぐことになり,1800年大統領選挙で敗れ,初めての政権交代が実現する原因となった。政治思想においては,政府三権間の〈牽制均衡〉を重視する点で一貫しており,アメリカの保守主義者の代表的な人物として位置づけられている。独立宣言公布50周年記念の26年7月4日,ジェファソンと相前後して永眠した。
執筆者:


アダムズ
John Quincy Adams
生没年:1767-1848

アメリカ合衆国第6代大統領。在職1825-29年。第2代大統領ジョン・アダムズとアビゲールの子で,マサチューセッツ出身の政治家,外交官,法律家。早くも1781-83年にロシア大使の秘書,82-83年のパリ講和会議では父ジョンの秘書をつとめ,87年にハーバード大学卒業後,94-96年オランダ大使として赴任した。政治家としては,フェデラリスト党の上院議員として出発したが,ジェファソンの出港禁止令に賛成するなど,党の方針に反して1808年辞職。09年にロシア大使になり,1812年戦争中は講和に努力し14年のガン条約の締結に貢献した。17年からモンロー大統領の下で国務長官をつとめ,18年のA.ジャクソンのフロリダ侵入を弁護し,19年フロリダ併合とオレゴン地方の英米共同管理協定に手腕をふるった。折からのラテン・アメリカ諸国の独立に際し,ヨーロッパ列強の干渉に反対する立場を明らかにするようモンローに進言し,イギリス外相カニングの共同宣言の提案を退けて合衆国が単独でモンロー主義を宣言するうえで大きな役割を果たした。24年の大統領選挙では一般投票では2位だったが,下院の決選投票でH.クレーの票をえて当選した。大統領としては,道路・運河の建設による農業・工業・商業の振興と,天文台の設立,度量衡の規格化など,科学・技術・文学の振興をはかる政策構想を発表し,これを秩序立った方法で実施しようとした。しかし1820年代のアメリカでは北東部で工業,南部で綿花栽培,西部で主穀農業がそれぞれ飛躍的に発展し,これにともなって地域間と社会階級間の対立が尖鋭化し,彼の方法は通用しなかった。とくに28年の高率の保護関税は〈唾棄すべき関税〉として南部の反発を招き,政党の分裂と対立を深めた。28年の大統領選挙ではジャクソンに敗れ,一時農事と読書の生活に戻ったが,31年連邦下院議員に選出されてから8期17年間を無所属で通し,35年以後は奴隷制とその西方領土への拡大に反対した。
執筆者:


アダムズ
William Adams
生没年:1564-1620

徳川家康の外交顧問。日本名三浦按針。イギリスのジリンガムに生まれ,ライムハウス造船所に12年間勤めた後,イギリス海軍に船長として勤務。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊の一隻リーフデ号の航海士となり,1600年(慶長5)豊後の佐志生に漂着。大坂で家康に謁見し,来日の事情を説明,イギリスが日本と貿易を開きたい希望を持っていることを伝えた。同じ船で到着したオランダ人ヤン・ヨーステンとともに家康に信頼され,外交問題の顧問を務め,幾何学,地理学,造船学などを教授した。イギリス型帆船2隻を建造し,この1隻は上総に漂着したスペイン人のフィリピン前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るとき使用された。相模国三浦郡逸見村(現,横須賀市)に領地250石,また江戸日本橋に邸宅を与えられ,三浦按針と呼ばれた。このころイギリス東インド会社はジャワのバンタムに商館を設けていたが,11年アダムズがジャワにいるイギリス人あてに日本の事情を知らせる手紙を書いたことが,イギリスの日本貿易開始の契機となった。13年ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持ち,平戸に来航し,アダムズは彼とともに駿府で家康に謁見し,貿易許可の朱印状を得た。イギリスは平戸に商館を設置し,アダムズは年俸100ポンドで,イギリス東インド会社と雇用契約を結んだ。アダムズ自身朱印状を得て,15年(元和1)シャム,17年アンナン,19年トンキンに渡航して貿易を行い,日本人妻との間に生まれたジョセフも朱印船貿易家として活躍した。セーリスの帰国の際,アダムズも日本を出発する許可を得たが,そのままとどまった。1618年将軍秀忠の時代となると,幕府との関係も薄くなり,20年平戸で病没した。アダムズ夫妻をまつった按針塚が横須賀市西逸見町にある。
執筆者:


アダムズ
Henry Brooks Adams
生没年:1838-1918

アメリカの歴史家,思想家,作家。第2代大統領ジョンの曾孫,第6代大統領ジョン・クインシーの孫。ボストンに生まれ,ハーバード大学卒業後ドイツに留学,また駐英大使の父チャールズ・フランシスの私設秘書として7年間ロンドンに滞在。1870年母校の中世史助教授にむかえられ,ドイツ式の科学的な歴史学研究法を導入し,他方,一流誌《北アメリカ評論》の主筆として政治腐敗を攻撃した。77年に大学を辞し,首都ワシントンに移って著名人との交友を重ねるとともに,歴史研究を続け,ギャラティンなど合衆国初期の政治家の伝記を出版した。また匿名で小説《デモクラシー》(1880)などを発表した。85年に妻が自殺をとげたのち広く世界各地を旅行し,86年には日本にも足をとどめた。89-91年には大作《ジェファソンとマディソン治下の合衆国史》9巻を出版した。強度の公共倫理観をもつ名門に生まれ,科学的歴史家として機械文明に向かう歴史の趨勢(すうせい)を認識しながらも,人間の精神的・倫理的進歩がこれに伴わず,機械技術が人間の統御を超えて発達し,ついには文明の破滅をもたらすと考え,深刻な懐疑におちいった。知識人の愛読書となった《ヘンリー・アダムズの教育》(1907)はこのような現代文明への懐疑を示し,《モン・サン・ミシェルとシャルトル》(1904)は中世の理性と信仰の調和への憧れを語る。晩年には熱力学の理論を援用した文明没落の法則をすら構想した。
執筆者:


アダムズ
John Couch Adams
生没年:1819-92

イギリスの天文学者。1839年ケンブリッジ大学に入学し,在学中に天王星の運動の不整(説明できない乱れ)に興味を抱いた。43年首席で卒業,特別研究員に推されるや,天王星の運動の不整は,その外側にある未知惑星の摂動によるものと考えて研究を進め,早くも45年には未知惑星の質量と軌道要素を求めた論文をケンブリッジ大学に提出し,グリニジ天文台を訪れて観測を託した。しかし観測が行われぬまま,その翌年にフランスのU.J.J.ルベリエが同様の計算を行い,未知惑星の捜索をベルリン天文台のJ.G.ガレに依頼した。そして推算位置の近くに海王星が発見されたのである。アダムズの推算位置もほとんどルベリエと同じであったため,新惑星発見の功績をめぐってイギリス,フランス間に論争が起こったが,結局,アダムズ,ルベリエ,ガレの3者で栄誉を分け合うことになった。48年に王立天文学会はアダムズにコプリー賞を贈り,また51年にはケンブリッジ大学にアダムズ賞が設定された。同年,アダムズは王立天文学会長となり,59年ケンブリッジ大学教授,61年ケンブリッジ天文台長となった。

 アダムズは月の運動にも興味をもち,とくに永年加速および交点運動などの研究が著名である。これらの研究に対して66年に王立天文学会金賞牌を贈られた。《J.C.アダムズ科学論文集》全2巻(1896,1900)がある。
執筆者:


アダムズ
Samuel Adams
生没年:1722-1803

アメリカ独立革命の民衆派指導者。ボストン生れ。1764年以後のイギリス議会による植民地課税政策に反対し,ボストン民衆を〈自由の子どもたちSons of Liberty〉に組織し,ハッチンソンThomas Hutchinson(1711-80)一門のマサチューセッツ植民地支配を攻撃した。64-74年同植民地議会議員として,印紙税法への抗議決議,タウンゼンド諸法反対〈回状〉,植民地間通信委員会結成,70年ボストン殺戮事件,73年ボストン茶会事件で中心的役割を演じ,理論的には印紙税法反対の〈代表なくして課税なし〉から〈植民地議会と本国議会の対等論〉へ転換し,第2回大陸会議では他植民地の急進派と提携し,保守派を抑えて独立宣言に導いた。合衆国憲法には批判的で,88年の連邦議会議員選挙には敗れたが,マサチューセッツ州副知事(1789-93),知事(1794-97)に選ばれた。合衆国第2代大統領ジョン・アダムズはいとこである。
執筆者:


アダムズ
Walter Sydney Adams
生没年:1876-1956

アメリカの天体物理学者。シリアに生まれ,1898年アメリカのダートマスカレッジを卒業後,シカゴ大学,ミュンヘン大学に学び,1905年からウィルソン山天文台員,23-46年まで同天文台長をつとめた。20世紀初頭に完成したウィルソン山天文台の太陽望遠鏡,152cm反射望遠鏡,254cm反射望遠鏡の装置開発に貢献し,それらを用いて数多くの発見をした。G.H.ヘールについて,太陽の黒点スペクトルや閃光スペクトルの撮影に成功したほか,恒星については巨星と矮星(わいせい)をスペクトル線の見かけによって区別する方法を考案し,分光学的に視差を求める手法を確立した(1916)。また白色矮星の存在を明らかにし,とくにシリウスの伴星については詳しい解析を行い,その高い密度とそれによると思われるスペクトル線の一般相対論的赤方偏移の存在を認めた。ただし後者については現在では疑問視されている。惑星スペクトル,早期型星の視線速度,ケフェウス型変光星,新星のスペクトル,星雲のスペクトルなどについても開拓的研究を残した。
執筆者:


アダムズ
Jane Addams
生没年:1860-1935

アメリカのセツルメント活動家,社会改革家,平和運動家。彼女は社会奉仕的な仕事に就くため,大学卒業後医学校にはいったが,病気で断念。将来の道の定まらない不安から神経衰弱に陥ったが,2度のヨーロッパ旅行でロンドンの貧民街を見て深い印象を受け,セツルメント活動を始めることを決意した。帰国直後の1889年,シカゴの貧民街の中心にあるハル所有の古い邸宅を借り,以後晩年までそこの住民となった。ハル・ハウスは,保育所,運動場,集会所であり,また料理・裁縫など移民に必要な技術や知識を教える学校となり,音楽,演劇,絵画などの芸術活動を通じて地域の生活・文化の中心となった。またフローレンス・ケリーなどの社会改革の意欲を持つ人材を多く集めた。アダムズはハル・ハウスを根拠に,革新主義運動にも貢献し,婦人参政権運動,平和運動でも活躍。1915年にアメリカの女性平和党会長,19年には平和と自由国際女性同盟の会長に選ばれ,31年,ノーベル平和賞を受けた。
執筆者:


アダムズ
Ansel Adams
生没年:1902-84

アメリカの写真家。はじめコンサートピアニストとして将来を嘱望されていたが,27歳のとき健康を害して演奏ができなくなったため,写真館を経営していた義父や,ストランドPaul Strandの影響もあって写真家となった。1932年E.ウェストン等と共に〈f・64グループ〉を結成。以来その主張のもとに撮影したヨセミテ等の風景写真は,写真集として多数刊行されている。また写真技術や理論の研究者としても第一人者で,35年に刊行した写真指導書《Making a Photograph》は,いまなお高く評価されている。ニューヨーク近代美術館の写真部門創設(1940)に大きく寄与した。
執筆者:


アダムズ
Abigail Smith Adams
生没年:1744-1818

アメリカ合衆国第2代大統領ジョン・アダムズの妻,第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの母。独立革命のために働く夫の留守の家業を預かる賢夫人として知られ,夫との間に交わした多数の手紙は,当時の状況を伝え貴重な史料となった。黒人や女性の平等権に積極的な関心を持ち,とくに1776年,独立前夜に夫に出した手紙は,人間の権利を論じる夫たちが女性の権利を忘れていることを巧みに指摘し,女性解放思想の先駆としてしばしば引用される。
執筆者:


アダムズ
Brooks Adams
生没年:1848-1927

アメリカの歴史家。ヘンリー・B.アダムズの弟。初著《マサチューセッツの解放》(1887)で,ピューリタンの民主的な植民地支配という伝統的解釈に挑戦。歴史の科学的法則を構想し,主著《文明と衰退の法則》(1895)で,エネルギーの集中・拡散の法則から社会の発展・衰微を論じた。以後の著作で,この法則からアメリカの世界強国化を論じつつも,物質主義や私利追求の風潮によるアメリカの衰退の危険を警告した。
執筆者:


アダムズ
Herbert Baxter Adams
生没年:1850-1901

アメリカの歴史家。ドイツのハイデルベルク大学に学び,1876年から新設のジョンズ・ホプキンズ大学で教えた。ドイツ式のゼミナールを導入,科学的な歴史研究法をアメリカで確立した。アメリカ民主主義の起源はゲルマンの森にあるとする〈萌芽〉理論に立って,政治制度史を研究,またアメリカ歴史学協会の設立(1884)に貢献した。後の大統領ウィルソンや歴史家ターナーも彼の弟子であった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「アダムズ」の意味・わかりやすい解説

アダムズ

日本渡来最初の英国人。日本名三浦按針(あんじん)。造船所に勤めたのち,英海軍に船長として勤務。1598年オランダ船リーフデ号の航海士となり,1600年豊後(ぶんご)に漂着。徳川家康の信頼を得て幾何学,地理学,造船学などを教授,帆船も建造した。また家康の外交顧問として,日蘭・日英の通商に尽力。相模(さがみ)国三浦郡に250石の所領を与えられる。のち肥前(ひぜん)平戸に設置された英国商館員になるが,家康の死後は不遇,平戸で病死。→ヤン・ヨーステン
→関連項目イギリス商館横須賀[市]

アダムズ

米国の写真家。サンフランシスコ生れ。1932年,ウェストン,イモジン・カニンガムらと〈グループ f/64〉を結成。ヨセミテ渓谷,シエラ・ネバダ山脈をはじめ米国の原風景ともいうべき大自然を撮影。その雄大かつ精緻な風景写真と,卓越したプリント技術は,後の写真家に大きな影響を及ぼした。ニューヨーク近代美術館の創設に参加するなど,指導者としても足跡を残した。
→関連項目キャラハンホワイト

アダムズ

アメリカ独立革命の指導的政治家。アメリカ独立宣言の署名者のひとりで,独立後は駐英大使,ワシントン政権下の初代副大統領をつとめ,1796年に第2代大統領に就任。三権分立論の代表的論者。
→関連項目アダムズホワイト・ハウス

アダムズ

米国のセツルメント活動家。1889年シカゴの貧民街にハル・ハウスを開設して,移民の多い地域住民に保育所,運動場,集会所,学校,芸術活動の拠点を提供。また革新主義運動,婦人参政権運動,平和運動でも活躍。1915年女性平和党会長,1919年平和と自由国際女性同盟会長,1931年ノーベル平和賞受賞。
→関連項目イリノイ[州]ケリー

アダムズ

アメリカ独立革命の民衆派指導者。ボストン生れ。マサチューセッツ植民地議会議員として1764年以来の反英運動を指導。1770年のボストン殺戮事件,1773年のボストン茶会事件で中心的役割を果たし,大陸会議では独立論者の急先鋒(せんぽう)。独立後は州知事も務めた。第2代大統領ジョン・アダムズのいとこ。

アダムズ

米国第6代大統領(1825年―1829年)。第2代大統領ジョン・アダムズの長男。外交官として活躍後,国務長官となり,モンロー主義の宣言を献策。大統領としては,連邦政府による産業開発推進を唱えた。奴隷制廃止運動にも貢献。
→関連項目アダムズ

アダムズ

米国の歴史家,思想家。第2代大統領ジョン・アダムズの曾孫。第6代大統領J.Q.アダムズの孫で,ドイツに留学,駐英公使の父親の秘書をしたこともある。母校ハーバード大学で中世史を講じ,のちワシントンで活躍しながら歴史書や小説《デモクラシー》(1880年)を発表。自伝《ヘンリー・アダムズの教育》(1907年)では,科学的歴史家として現代文明への懐疑を示した。

アダムズ

英国の天文学者。1861年ケンブリッジ天文台長。1845年ルベリエと独立に天王星の運動の乱れから海王星の存在を予言,万有引力の法則からその質量,軌道を算出。月の運動,しし座流星群の軌道を研究。

アダムズ

米国の宣教師,社会事業家。1891年来日,同年岡山市の貧民街に日曜学校を開き,以後小学校,施療所,幼稚園を設立,これらを総称して岡山博愛会と命名した。1936年帰米。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「アダムズ」の解説

アダムズ
William Adams

1564.9.24~1620.4.24

日本に来日した最初のイギリス人で徳川家康の側近。ケント州ジリンガム生れ。造船業を学び,地中海航路で働いた後,1598年オランダのロッテルダム会社東洋派遣艦隊の水先案内としてリーフデ号に乗船。1600年(慶長5)豊後国臼杵湾に漂着し,大坂で家康と会見。以後その側近・外交顧問として仕え,幾何学・数学・地理学などを講じ,イギリス型の帆船を建造。江戸の日本橋近辺(按針(あんじん)町)に邸を,相模国三浦郡逸見(へみ)に200余石の知行地を与えられ三浦按針と名のった。13年イギリス東インド会社が日本にクローブ号を派遣すると,その司令官セーリスの平戸イギリス商館開設を援助し,会社の使用人としてシャム貿易に,またみずから朱印船主として安南・トンキン貿易に従事。20年(元和6)平戸で病死。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「アダムズ」の解説

アダムズ
William Adams

1564〜1620
江戸初期に来日したイギリス人航海士
1598年オランダ船リーフデ号に水先案内人として乗り組み,1600年豊後(大分県)に漂着。ヤン=ヨーステンとともに徳川家康に仕えた。江戸日本橋に邸宅を,相模(神奈川県)三浦半島に領地を与えられ,航海士(按針)であったので日本名を三浦按針 (あんじん) と称した。イギリス・オランダの対日貿易開始に貢献し,朱印船貿易にも活躍した。'20年平戸で病死。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「アダムズ」の解説

アダムズ

スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスらとともにミニマル・ミュージックの作曲家として70年代末期頃からその名を知られるようになる。その後のネオ・ロマン派的な音楽は広く聴衆に受け入れられ、現代アメリカの ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アダムズ」の解説

アダムズ
John Adams

1735〜1826
アメリカ独立戦争の指導者のひとり。第2代大統領(在任1797〜1801)
マサチュセッツ州代表として大陸会議で活躍。独立宣言起草委員,フランス外交使節,パリ条約締結の全権使節などを歴任。連邦派の指導者となり,ワシントンの下で初代副大統領をつとめたのち,大統領に選ばれた。フランスとの外交関係の調整が不評で,1800年ジェファソンに敗れて引退。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「アダムズ」の解説

アダムズ Adams, Alice Pettee

1866-1937 アメリカの女性宣教師。
1866年8月3日生まれ。明治24年(1891)来日,岡山で伝道をはじめる。29年貧困児童のために花畑小学校を,さらに施療所,保育園などを開設,43年これらの施設を統合して日本最初のセツルメント岡山博愛会を設立した。昭和11年帰国。1937年5月9日死去。70歳。

アダムズ Adams, William

三浦按針(みうら-あんじん)

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367日誕生日大事典 「アダムズ」の解説

アダムズ

生年月日:1852年12月31日
アメリカの経済学者
1921年没

アダムズ

生年月日:1878年10月18日
アメリカの歴史家
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアダムズの言及

【風景写真】より

…アマチュアの写真愛好者にあっては,今日でもそれは一つの顕著な傾向であるといってよいかもしれない。一方,異境の風土や未踏の地の写真を,こうした定式化した芸術写真の脈絡から果敢に踏み出して撮影することも,写真表現の種々の面での独自性の認識が一般化するにつれ,しだいに行われるようになり,その際立った例としては,1930年代を中心とするE.ウェストンA.アダムズの風景写真をあげることができる。両者とも描写の克明なこと,トーンのととのえ方,構成の仕方などにおいて,絵画の影響からまったく脱却した写真独自のみごとな画像を作り出している。…

【大楠山】より

…高度は低いが,東に東京湾,西に相模湾を望み,北西には丹沢,箱根,富士,南西には伊豆半島と伊豆大島が眺望できる。京浜急行の安針塚駅からW.アダムズ(三浦按針)の墓のある塚山公園を経て約2時間で頂上に達する。東方の小丘には中世の土豪三浦氏の居城衣笠城跡がある。…

【ガレオン船】より

…88年のスペイン無敵艦隊によるイギリス侵攻作戦は,兵員を多数乗せ,高いところから切込みを行うカラック船主体のスペイン側と,遠距離からの砲撃を行うガレオン船主体のイギリス側との,戦術の差が勝敗を決めたという説もある。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号で豊後(大分県)に漂着したW.アダムズ(日本名三浦按針)が,徳川家康に請われて建造した2隻の船も,イギリス系のガレオン船であったろうと推定されている。17世紀前半にはビークヘッドも短いヘッドに変わり,ガレオン船の名まえも消えたが,新大陸やフィリピンとスペイン本国を往復する船は,18世紀にもガレオン船と呼ばれていた。…

【シカゴ】より

…シカゴは労働運動の中心地となり,77年の鉄道ストライキ,86年のヘイマーケット事件,94年のプルマン・ストライキ,同年および98年の炭鉱ストライキと,しばしば血なまぐさい事件をともなう大争議が生じた。貧しい移民や労働者を救うためにハル・ハウスを開いたジェーン・アダムズのような社会改革家もいたが,むしろ目だったのは移民たちの無知と結束の強さを利用して政治をあやつるボスや,一時の享楽を与える酒場や娼家であった。 シカゴは工業都市であると同時に,モンゴメリー・ワードやシアーズ・ローバックが本拠をかまえる流通業の中心であり,マーシャル・フィールド百貨店の存在が示すごとく一大消費都市である。…

【セツルメント】より

…この考え方は,1884年にS.バーネット夫妻を中心にして設けられたロンドンのトインビー・ホール(A.トインビーにちなみ命名)で具体化され,これが最初のセツルメントとされている。アメリカではJ.アダムズが89年にシカゴに建てたハル・ハウスがセツルメント運動をアメリカに広げる端緒を開いたといわれている。日本では,91年にキリスト教宣教師O.アダムズがつくった岡山博愛会,あるいは片山潜が97年に東京神田に設立したキングスレー館などが古い。…

※「アダムズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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