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ウマ ウマ Equus caballus; horse

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ウマ
ウマ
Equus caballus; horse

奇蹄目ウマ科。現存するものは家畜化されたもので,家畜化は青銅器時代中央アジアで行われたと考えられている。初期の用途は物を引くことであったが,その後乗用,競走用,愛玩用などの品種がつくられている。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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とっさの日本語便利帳の解説

ウマ

ゲームのルールに沿った得点とは別に、個々の間でやりとりする点数。任意の二人の間でだけやりとりするものを差しウマ、卓外の人間が勝者を当てる行為は外ウマ。

出典|(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」
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栄養・生化学辞典の解説

ウマ

 [Equus caballus].哺乳綱ウマ目ウマ属に属する.肉を食用にする.

出典|朝倉書店
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ウマ
うま / 馬
horse
[学]Equus caballus

哺乳(ほにゅう)綱奇蹄(きてい)目ウマ科ウマ属の動物。草食性で、家畜として広く世界中に分布している。ウマ科にはウマのほか、ロバとシマウマが含まれる。[加納康彦]

進化と起源

ウマの祖先は、何千万年の間に積み重なった地層の中から次々と発見された多くの化石をよりどころとして系統的に分類されている。最古のものは、北アメリカで約5000万年前の始新世の地層から発掘されたエオヒップスEohippusである。この動物はキツネくらいの大きさで、頸(くび)と肢(あし)が短く、背は湾曲し、前肢には第1指がなく4本指、後肢には第1・第5指がなく3本指で、木の葉を食べていた。また、これに似た大きさで5本の指があるヒラコテリウムHyracotheriumはイングランドはじめヨーロッパの各地で発見されている。その後のものとしてオロヒップスOrohippusが同じく始新世の地層の中部から、さらに上部からエピヒップスEpihippusが発見された。これらはエオヒップスより大きいが、指の数は同じで前4本、後ろ3本であった。体の大きさ、指の数や形などは、当時の柔らかい地表面を歩くのに適していたと考えられる。さらにその後の3600万年前、すなわち漸新世初期の地層から発掘されたメソヒップスMesohippusになると、体は小さいヒツジほどになり、指は前後とも3本、しかも第3指(中指)が伸びて、現在のウマにみられるひづめをもつようになり、頸と肢が長くなって背の湾曲も少なく、ウマに似た形となるが、やはり葉食性で森林にすんでいた。続くものとしては、2000万年前の地層からパラヒップスParahippusが、1000万年前の地層からメリキップスMerychippusが発掘され、後者は草原型となって、野草を好んで食べるようになった。400万年前の鮮新世に入ると、ネオヒッパリオンNeohipparion、プリオヒップスPliohippusが現れる。その体形は頭、頸、四肢が長くなり、後者では指1本の単蹄(たんてい)となって、体高は1メートル以上に達し、現在のウマと非常によく似たものとなった。
 現在のウマ類のエクウスEquusが現れたのは、同じ鮮新世の末期である。170万年前から更新世(洪積世)に入ると何回か氷河にみまわれるが、そのころベーリング海峡は陸続きであったから、この時代のプリオヒップスの子孫と思われる動物たちは、ここを通ってアメリカ大陸からユーラシア大陸へ渡りエクウスとなり、さらにアフリカ大陸へも広がってロバやシマウマの祖先ともなった。ロバはアジアではチベットと蒙古(もうこ)に、アフリカではアビシニアとヌビアに生息し、生息地の名を冠してチベットノロ(野驢)などとよばれる。シマウマは、アフリカ東部にバーチェルシマウマ、アフリカ南部のケープ岬にヤマシマウマ、アフリカ中部および北部にグレービーシマウマなどがいる。一方、南北アメリカ大陸に残ったものは、氷河に襲われてことごとく絶滅したと考えられている。こうして広がっていったエクウスは、その分布した地域の気候風土の違いに適応して二つの型に分化した。乾いた暑い地方では放熱機構が発達し、皮膚は薄く被毛は短くなり、皮膚に分布する血管と呼吸器が発達した。逆に、湿った寒い地方では保温機構が発達して、皮膚は厚く被毛は長くなり、皮膚に分布する血管は少なくなった。この2型はさらに、体形、体質、気質の異なる多くの種類に分化し、エクウス・プシバルスキーE. przewalskii、エクウス・タルパヌスE. tarpanus、エクウス・ロブスタスE. robustas、エクウス・アジリスE. agilisなどに大別されている。
 エクウス・プシバルスキーまたはエクウス・フェルスE. ferusは、アジアからヨーロッパにかけて広く分布し、草原、砂漠地帯に生息していたが、しだいに追われてバイカル湖、ロプノールの付近からトルキスタンに至る広大な草原に群れをなして生息するようになった。1879年、ロシアの大旅行家ニコライ・M・プルジェバリスキー(プシバルスキー)によって発見され、その後ドイツのハーゲンベック動物園で繁殖し、世界各国に分配された。このプシバルスキーウマはモウコノウマともよばれるが、現在では純粋の野生種は知られていない。頭は長大で、頸と胴は短い。毛色は淡色でやや赤みがかった河原毛(黄灰色で、長毛と四肢下部が黒い)、背の中線には色が濃い線(鰻線(まんせん))があり、また四肢に横線(驢線(ろせん))がある。たてがみは短くて立ち、前がみはなく、尾毛も少ない。
 エクウス・タルパヌスまたはエクウス・グメリニE. gmeliniは、南ロシアから、ドニエプル川とボルガ川に挟まれた地域を経てカフカスに至る草原に広く分布し、帝政ロシア貴族たちの狩猟の獲物となった。ターパンの名でもよばれるこの種は、頭が大きく、頸と肢は長く、たてがみ、前がみ、尾毛が多く、腰は短く、ひづめは大きい。毛色は河原毛である。利口で敏捷(びんしょう)であり、古くはフン人、タタール人やスキタイ人の乗馬となったが、家畜の牝馬(ひんば)を連れ去ったり、畑地を荒らしたりしたので、農民に嫌われ絶滅した。
 エクウス・ロブスタスまたはエクウス・アベリE. abeliは、中部ヨーロッパの森林や肥沃(ひよく)な草原に分布した。大形で幅広のウマで、頭は大きく、頸は短くて太く、胴も太く長い。尻(しり)は大きく傾斜して、肢はやや短いが太く、ひづめも大きい。性質は温順で、現在の重種の祖先となったと考えられている。
 エクウス・アジリスは、アラビア、メソポタミア、シリア、イランなどの平原に分布していた。暑さに強く、頭は小さく、頸と肢は長い。胴はやや短く軽快な筋肉質の気品あるウマで、体形はやや小さいが、現在の軽種の祖先と考えられている。[加納康彦]

形態

ウマの体は頭、頸(くび)、胴体と四肢に大別できる。顔の白斑(はくはん)はウマを識別するのに役だち、額の白斑を星、鼻筋に沿う白斑を鼻梁(びりょう)白、同じように鼻白、上唇白などとよぶ。両耳の間から額に垂れるかみを前がみ、頸の上縁に生えるかみをたてがみという。頸と胴との接合部であばらの上部のやや隆起した部分を(きこう)、ここから地上までの垂直の高さを体高といい、ウマの大きさの尺度とする。胴体の上縁で、甲の直後から肋骨(ろっこつ)の付着した脊椎(せきつい)の部分を背、背から尻までが腰、腰の下部にあたる胴の側面で、肋骨のない部分をひばらとよぶ。四肢の先端にはひづめがあり、そのすぐ上の関節を球節(きゅうせつ)、その間のくびれてみえる部分をつなぎという。球節の上にある関節は前肢では膝(ひざ)、後肢では飛節(ひせつ)といい、球節とそれらの間を管(かん)といい、この周囲を計測した管囲は、骨の太さの尺度となる。胸の前端から尻の後端までの長さである体長と、胸の周囲を測る胸囲は、それぞれ馬体の長さと太さの尺度とされる。ウマの毛色には、栗毛(くりげ)、鹿毛(かげ)、青毛などがある。栗毛は名のように全身に栗色か、やや淡い栗色の毛が生えたもので、鹿毛は、たてがみ、前がみ、尾と四肢の先が黒いもの、青毛は全身黒色のものであるが、これらの毛色のなかに白い毛が多く混在するものを葦毛(あしげ)という。そのほか、黒鹿毛、栃(とち)栗毛(濃い栃の実色のもの)、月毛(全身黄色で黒い毛のないもの。日本では、色素を欠く白色のものも含まれる)、河原毛などその種類は多い。
 ウマは四肢が長く頸も長い。肢(あし)の長いことは歩幅が大きいこと、頸の長いことは重心を前に移動させやすいことを示し、いずれも速く走るのに適した形態といえる。前肢と軸心となる骨格とは、筋肉と腱(けん)で付着しているので、体の前半は前肢2本の間に懸垂されたようになっており、この構造が運動時の衝撃を緩和している。四肢の指は、前肢は中手骨、後肢は中足骨のみが発達して1本になり、したがってひづめも一つである。着地の衝撃は、ひづめが広がることと、ひづめの中にある弾力部、さらにつなぎによっても緩和される。
 顔は長く、鼻腔(びこう)も長い。歯は切歯12、犬歯4、臼歯(きゅうし)24の計40本からなり、その上面は挽臼(ひきうす)状に発達し、草を食べるのに適している。雌には犬歯はなく計36本である。切歯と第1臼歯の間には歯のない部分があり、ここに手綱のついたはみを通す。この部位は知覚が鋭敏で、手綱によって伝えられる騎手の意志を敏感に感知する。ウマの年齢は、乳歯から永久歯への脱換の時期や永久歯の磨滅の状態によって、正確に判定することができる。
 ウマの胃は一つで比較的小さく、同じ草食であるが、四つの反芻(はんすう)胃をもつウシとは対照的で、このため飼料あるいは草を少量ずつ長時間かけて採食する。そのかわり腸は長く全長25メートルにも達し、大腸、盲腸も大きい。ここでは、消化酵素で消化されなかった繊維が、腸内細菌によってゆっくり分解され、養分として吸収される。肝臓には胆嚢(たんのう)がない。
 ウマは走る場合、イヌやネコ、その他の動物のように背中を曲げることがない。したがって、人はウマに乗って走らせることができるわけで、ウマが乗用とされる理由の一つとなった大きな特徴といえる。[加納康彦]

生態

ウマの寿命は概略25歳で、繁殖年限は、満3歳に始まり15歳から18歳までである。繁殖季節はおもに春で、北半球では3月中旬から7月初旬までである。妊娠期間は約335日で、通常1子を産する。子ウマは約6か月間母乳を飲むが、2か月齢で草や穀物を食べるようになり、秋に離乳され独立する。成長が完了するのは満5歳であるが、満3歳(明け4歳)ごろから使役に供される。
 ウマは恐怖心が強く、外界の刺激に鋭敏に反応する。また群れをつくり、ウマどうしの間に好き嫌いがあり、一定の社会的な順位をつくる。目は顔の側方にあるので視野は広いが、人のように両眼で同時に前方の物体を見ることはむずかしいから、遠近感がなく距離判定を誤ることが多い。聴覚は相当に発達し、遠隔の音や、低音、弱音を聴き取る能力は人より優れている。嗅覚(きゅうかく)は非常に鋭く、ウマにとってもっとも重要な感覚で、「ウマは鼻の動物」といわれる。鼻腔は長く嗅細胞もよく発達し、臼歯の著しい発達と相まってその顔を長くしている。嗅覚によって、性別、個体別、場所、牧草や飼料の良否を弁別する。したがって、強い臭気を放つ薬品、溶剤などを嫌い、若草などの緑臭を好む。ほかに、味覚は甘みを、色は緑を好む。恐怖心は強いが温和に扱えば温順で、記憶力に優れ、人の愛情を感じてその人を信頼し、その意志に身を任せるようになる。こうして飼育された競走馬の速力は時速約60キロメートル、馬術馬の飛越能力は高さで2.47メートル、幅は8.3メートルの記録がある。[加納康彦]

品種と利用

ウマを初めて家畜としたのは、紀元前2000年ごろ、黒海北部のウクライナとドナウ川流域に住んでいたアーリア系の古代民族である。そのころのウマは小さく、体高1.35メートル程度で、小さな二輪車を2頭で引き、戦車または運搬用として用いられた。この馬車はメソポタミアからインド、エジプト、ヨーロッパへと広がった。ウマを乗用に供したのは前750年ごろで、ペルシアのダリウス1世(在位前522~前486)は乗馬による駅伝制度をつくった。中国では前1500年ごろ、殷(いん)代に戦車が用いられていた。8世紀に入ると、イスラム軍が砂漠の軽快なウマに騎乗してヨーロッパに侵入し、トゥール・ポアチエの戦い(732)に敗れはしたが、イスラム軍のウマはその当時のヨーロッパの大形のウマに比べて速力と持久力に優れていた。このためヨーロッパではフランスをはじめ各地でイスラム軍のウマ「東洋馬」を彼らの「西洋馬」に交配して優れた軍馬をつくりだすことを考え、ここに初めてウマの改良が始まった。軍馬のみでなく、荷車を引く輓馬(ばんば)、背に荷を乗せる荷駄馬、畑を耕作する農耕馬、さらにレクリエーションとしての狩猟を楽しむための乗馬など、それぞれの用途に適した体形と体格に改良され、現在あるようなさまざまの品種が成立した。また、ウマは用途別に分類されるばかりでなく、体形、体格などによっても分けられるが、その分類法は統一されていない。
(1)東洋種と西洋種 東洋種は、アラブ、ペルシアウマのように、体高1.5メートル程度で小格であるが、頭は小さく目は大きく、頸は長く、(きこう)は高く、腰は短く、肢は長く、胴は丸みを帯び、皮膚は薄く皮下に脂肪が少ない筋肉質のウマで、骨は緻密(ちみつ)で硬く、性質は精悍(せいかん)である。これに比べて西洋種は、大格で、頭は大きく、目は細く表情に乏しい。頸は厚くやや短く、甲は低く、背腰は長く、肢は太く、ひづめは大きいが、骨の質はもろく、皮膚は厚く脂肪があり、その性質は比較的鈍重である。アルデンネはその代表的品種である。
(2)純血種と半血種 血統上の分類法で、アラブ、サラブレッドなど長年月にわたる系統繁殖によって固定された品種、およびアラブとサラブレッドの交雑によってつくられたアングロアラブを純血種といい、サラブレッドを交配して改良したものを半血種という。
(3)軽種、重種および中間種 わが国で用いられる分類法で、軽種はサラブレッド、アラブ、アングロアラブとその雑種、重種はペルシュロン、中間種はアングロノルマン、ブルトンで、日本にはこれらの品種以外はきわめて少ない。[加納康彦]
世界のおもな品種
現在、世界のウマの品種は100を超える。蒙古(もうこ)と中国東北地区に産するモウコウマは、プシバルスキーウマの子孫で、朝鮮半島、日本、東南アジアへと広がり、それぞれの在来馬となった。日本でも、これらの在来馬に明治以降多かれ少なかれ外国種の血を混じてはいるが、トカラウマ、道産子(どさんこ)、御崎馬(みさきうま)、木曽馬(きそうま)などが現存する。また同じ明治以降、外国種を輸入して改良した軍馬、農耕馬は約150万頭に達したが、第二次世界大戦後激減した。インドネシアのサンダルウッドは、アラブを混血して改良された体高1.3メートル程度の小格馬であるが、気品があり持久力に富む。中国ではウマを飼養した歴史は古く、前1900年ごろからといわれ、在来馬が西部の四川馬(しせんうま)として知られている。そのほかにモウコウマとの雑種も多い。旧ソ連地域にもモウコウマの系統は多く、カザフ草原のカザフウマ、ドンとボルガ両川下流のカルムイク草原のカルムイクウマなどがあり、体高1.3メートルの小格であるが、粗食で、耐寒性と持久力に富む用途の広いウマである。そのほかゼマイトカ、バシュキルなどの品種もある。さらに、黒海の西とカスピ海の北、ボルゴグラードを中心とした地域は肥沃(ひよく)で、産するウマも大きい。この地方に産するドンは、カルムイクウマと、アラブ系に属するコーカサスウマやトルクメン地方のアーカルテケを混血して成立したウマである。体高1.55~1.6メートル、筋肉質で力が強く、形も整った優秀な乗馬で、コサック騎兵の乗馬としてよく知られる。アーカルテケは体高1.5メートルの乗馬で、ドンとともにロシアの誇る乗馬であり、イランにいる同系のトルコマンウマなどと同じく、アラブよりサラブレッドを思わせる優美なウマである。
 アラビアとその周辺の国々に産するアラブは、エクウス・アジリスを祖とする小形で均整のとれた気品のあるウマで、粗食に耐え、速力と持久力に富む。ムハンマド(マホメット)は戦利品として莫大(ばくだい)な量のペルシアウマをアラビアに移入して、宗教活動に必要なウマの生産に努め、その繁殖法の基礎を築いたといわれる。アラブの主産地はネジド砂漠で、貴重な5系統の母系内で繁殖が行われた。しかし外国人は、そこから貴重な系統を買えないだけでなく、入国することすら困難だった。彼らが入手しえたものはシリア、メソポタミアなど周辺の産馬であった。
 アフリカ北部アルジェリア原産のバルブウマは体高1.45メートル程度の乗馬で、アラブに似ているが別系統で、ムーア人が古くから飼育してきたものである。彼らがスペインを統治した中世の時代に、バルブウマあるいはアラブをスペインに移入し、そこに産する小格馬に交配して、美しいアンダルシアウマをつくった。このウマは当時のヨーロッパで最高の品種であったから、その子孫のネアポリタンウマとともに、ヨーロッパ各地で品種改良に用いられた。また、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出した際、スペイン人によって、当時ウマが生息しなかったアメリカに数多く運び込まれ、アメリカウマの祖となった。さらに、現在ウィーンのスペイン乗馬学校で高等馬術に用いられる華麗な葦毛ウマのリピッツァーもその子孫で、体形の整った体高1.5~1.6メートルの筋肉質の頑健なウマである。オランダのウェストフリーシアンは、中世に軍馬として用いられた重く大きなウマを、アンダルシアとアラブで改良した速歩馬である。ドイツのホルスタインは、在来馬を、アンダルシア、ネアポリタン、さらにサラブレッドで改良した体高1.6メートルの乗馬である。このホルスタインに由来するオルデンブルグは、クリーブランドベイで改良され大格の輓馬(ばんば)となった。アルプス地方のノリーカー、ピンツガウアもアンダルシアで改良された輓馬である。
 エクウス・タルパヌスの子孫は、ポーランドにフズール、コニックの2品種があり、忍耐強く従順な性質を受け継いだ広い用途のウマである。古くケルト人によってイギリスのウェールズ地方に移入されたターパンの系統は、その後東洋種で改良されて、小形アラブの体形で体高1.25メートル程度のウェルシュポニーとなった。
 ヨーロッパにはエクウス・ロブスタスを祖とする重い大形の輓馬が各地で生産されている。フランスとベルギーとの隣接地帯でおもに産するアルデンネのうち、フランスアルデンネは体高1.6メートル、体重600キログラムの温和で頑丈なウマであり、パリ西方が発祥地であるペルシュロンは葦毛と青毛を毛色とし、世界中に普及した重輓馬である。ベルギー産のベルジアンのうち最大のブラバンソンは体高1.7メートル、体重1トンに達する。さらにイギリス産のシャイヤーは世界最大のウマで、体高1.9メートル、体重1.2トンに及ぶものもある。ドイツのラインランドはアルデンネを起源とする体高1.7メートルの輓馬である。ロシア重輓馬は、在来馬をベルジアンとペルシュロンで改良した体高1.6メートルのロシアでもっとも普及した輓馬である。ロブスタスの一部は古くケルト人によって北ヨーロッパに移入され、現在ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランドに産するフィヨルドウマは、その子孫といわれる。体高1.3~1.4メートルの小格馬であるが、頑健で重労働に耐える。
 サラブレッドはイギリスの土産馬を東洋種で改良したもので、3頭の種牡馬(しゅぼば)を起源とすることはよく知られている。一方、母系としては、17世紀のイギリスに持久力と速力に優れたウマがあり、そのなかから選ばれた少数の牝馬(ひんば)を基礎として交配された。その後、競走能力による種馬の選抜法が確立され、1791年にサラブレッド血統書が創刊されたのちは、サラブレッドどうしの交配による改良が行われるようになり、現在に至った。サラブレッドは世界各地の品種改良に用いられ、主としてアラブとの交雑によって、フランスのアングロアラブ、ハンガリーのギドラン、ロシアのオルロフ、ドイツのトラケーネン、アンダルシアと交雑したアメリカのクォーターホースなどの乗馬、また古くイギリスの行商人が使用した頑丈なウマに繰り返し交雑して成立したクリーブランドベイ、ノーフォークウマと交雑したハクニーなどの輓馬のほか、ほとんどあらゆる品種の改良に貢献した。[加納康彦]
その他の利用
前述のようにウマは使役用の家畜であるが、体が大きく多量の血液が得られ、血清分離が容易なことから、各種の免疫血清の製造に使用される。また、ウマの肉は食用として利用される。馬肉は鉄分とグリコーゲンに富み甘みを呈する。その色は暗赤色、脂肪は牛脂に比べて軟らかく黄色を呈する。おもに加工食品に用いられ、地方によっては珍重するところもある。[加納康彦]

飼養管理

ウマを収容する厩舎(きゅうしゃ)は、日当りと換気のよいことが必要で、多くの場合は南に面して建てられる。馬房の広さは、繁殖牝馬1頭に対し3.6メートル四方が標準で、子ウマの離乳まで母子は同居する。育成面では、群れとして収容する追い込み馬房とすることもある。床はコンクリート、アスファルトが使われるが、日本では三和土(たたき)が一般的である。床の上には馬体を保護するために藁(わら)を敷く。この寝藁は、つとめて汚物を取り除き、舎外に広げて乾燥させる。
 ウマの手入れは、表面の汚れや垢(あか)を刷毛(はけ)で除き、血行を促して疲労を回復させるだけでなく、ウマが快く感じて人によくなつき、その意志に従うようになるのに役だつ。ウマをコンクリートや砂利の道で使役すると、ひづめは著しく磨滅するから、蹄鉄(ていてつ)をつける。その際、通常は10本の釘(くぎ)を用い、知覚部を避けてひづめの外面に分けて打ち込み、その先端を折り曲げて留める。ひづめの手入れは、汚物を除いて水洗し、表面に植物油を塗布して、過度に水分が蒸発してもろくなるのを予防する。ひづめは1か月に10ミリメートルの割合で伸び、また、不正な磨滅がおこるから、ときおりひづめを削切して蹄鉄を交換したり、あるいはひづめの正常な形を維持する必要がある。この作業は正しい判断と熟練を要するため、装蹄師が行う。
 ウマに与える飼料の基本は草である。牧草はイネ科のチモシー、オーチャードグラス、マメ科のルーサン(ウマゴヤシ)、アカクローバーなどがおもに用いられ、乾草または生草で与える。穀物ではエンバク、オオムギ、トウモロコシなどが用いられるが、ウマがもっとも好み、栄養要求にも適するものはエンバクである。そのほか、タンパク質の補給源としてダイズ粕(かす)、緩下作用のある(ふすま)、ウマが好みビタミンに富むニンジンなども与える。飼料の給与量は、中形の乗馬が3時間程度騎乗された場合、乾草5キログラム、エンバク3キログラム程度が1日量の目安で、通常、朝昼夕夜の4回に分けて与える。飲み水は1日平均25~30リットル以上必要で、つねに十分な水を与えることが不可欠である。[加納康彦]

病気

健康なウマは食欲が盛んで、目は生き生きとし、好奇心が強く元気に動き回る。もし、ウマが頭を垂れ、目をなかば閉じて元気がなく、食欲がない場合は、病気にかかったと判断する。
 疝痛(せんつう)は消化器の故障でおこる腹痛で、この状態のウマは前肢で床をしきりに掻(か)き、発汗し、床に寝ようとするなど苦悶(くもん)のようすを呈する。原因は、飼料の過食、カビやほこりのついた劣悪な飼料の給与、マメ科牧草によるガスの異常な発生などである。軽度の場合には浣腸(かんちょう)と、手綱を引いて運動させる引き運動によって治癒させることができる。かぜと流行性感冒の状態では、咳(せき)と鼻汁が出て、発熱し食欲は減退する。この場合には使役を中止し馬房に休養させる。流行性感冒には予防接種が有効である。寄生虫病としては、回虫、蟯虫(ぎょうちゅう)、硬口虫(馬円虫)、ウマバエ幼虫の寄生がおもなものである。幼馬は成馬に比べて寄生虫に冒されやすいから、2か月に一度を目安として定期的に、それぞれに有効な駆虫薬を投与することが望ましい。そのほか注意すべき病気には、破傷風とウマ伝染性貧血がある。ウマは破傷風菌に冒されやすい動物で、目だった外傷がないにもかかわらず感染して倒れる場合がある。この菌は地中に何年も生存するから、汚染地域では予防接種を受ける必要がある。ウマ伝染性貧血はウイルスによって赤血球が破壊される病気で、略して伝貧ともいう。汚染された飼料、吸血昆虫の媒介で感染する。治療法はなく、かかったウマは法律によって殺処分される。
 いずれにしても、ウマの病気は人の場合に比べ経過が早いから、病気を早く発見して獣医師の診察を受けることが肝要である。[加納康彦]

ウマと人類

中国古代の『楚辞(そじ)』『淮南子(えなんじ)』には、太陽はすみかである東海の果て暘谷(ようこく)から出て、母親羲和(ぎわ)の御す馬車に乗って天を駆けることが伝えられている。同様の日輪の車と、それを引く天馬の伝説は、ギリシア、ローマ、北欧、インド、バビロニア、ヘブライなどの神話にもみられ、このユーラシア大陸の東西にまたがる伝承は、紀元前二千年紀前半に始まるインド・ヨーロッパ諸族を中心とする民族移動によってもたらされたものと考えることができる。彼らはウマと戦車をもつ民族であり、またエジプトのヒクソスやインドのアーリアなどのように古代文明地域に軍事的征服国家を打ち立て、さらに東西の交通通商路を開いた民族である。このようにウマが歴史上主要な役割を果たす以前から、ウマと人間は長い間深いかかわりをもってきた。その始まりは、おそらく更新世(洪積世)に人類がウマを狩猟の対象としてからで、黄河近くの谷あい(オルドス南縁)から発見された多量の野生馬の骨は、追い落としによる集団猟法をうかがわせ、一方、ラスコーなどの南フランス、北スペインの洞窟(どうくつ)壁画に描かれた精緻(せいち)な野生馬の姿からは、当時ウマが重要な生活資源であったことが示されている。新石器時代(前四千年紀)にさかのぼる家ウマの骨の出土例(中央アジアのアナウ、西アジアのシアルクなど)は、最近において、ウマ属の別種オナーゲルと考えられている。確実なものとしては、前3000~前2000年にかけて黒海の北部ウクライナの平原で栄えたトリポリエ文化遺跡の出土のものである。定住農耕を行っていたこの文化では、ウマは運搬用に利用されていたと考えられるが、ほかの家畜のウシ、ヒツジ、ブタ、イヌなどに比べて出土例が少なく、またウシの家畜化の最古の例としては、これより数千年前のものが知られている。こうしたことは、ウマの馴致(じゅんち)や家畜化が比較的遅く始まったことを示している。
 臆病(おくびょう)で神経質な性格のウマは手数がかかり、飼料も栄養価の高いものを多く必要とする。それゆえウシなどに比べてより力が強く、より速く、より長く働くことが可能である。これらのウマの特質は、役畜としての用途を方向づけ、利用する側の人間の生活や文化と相互に影響を及ぼし合ってきた。すなわち、ユーラシア大陸の農耕地帯においては、ウマがウシにかわって農耕の労役の主役を務めることは少なかった。ヨーロッパ中世の農業革命以後、ウマが多く使われるようになったのは、三圃(さんぽ)式農法の確立による耕作能率の上昇と、家畜の飼育および管理方法の向上に負っている。これに対してユーラシア大陸の内陸草原地帯では、ウマに大きく依存した牧畜民文化が形成された。そこでは広大な草原によって飼料が確保される一方、ヒツジやヤギ、あるいはウマ自身の群れを管理、防御していくのに必要な迅速さが、ウマによって得られた。
 農耕民文化と牧畜民文化におけるウマのかかわり合い方の相違は、その飼育起源をめぐっていくつかの説を生み出している。現在有力な説は、近東の肥沃(ひよく)な農耕地帯でまずウシなどの家畜化が始まり、それが周辺に広まっていくにつれ、ウマの家畜化も行われたというものである。この農耕起源説に対し、少なくともウマに関しては否定的な見解がなおみられる。かつてドイツの文化史学派の考えた、北方のトナカイ飼育の先行例に倣ったとの説は、今日否定されているが、群れの把握を前提とすることから狩猟起源の可能性がいわれている。そして前述のように、家畜管理上からウマとウシの異なることは、両者の家畜化の起源の相違を考えさせている。さらに、農民と密接なつながりをもつオアシス周辺の牧畜民と異なり、ウマ、ヒツジを主力とする草原の牧畜民の生活が畜産品に大きく依存していることも、この考えの理由の一つである。実際彼らにおいては、馬肉を食べるのは祭儀などの機会に限られることが多かったが、乳の利用は高度に発達し、各種乳製品が主要な食料源となっている。馬乳から脂肪分をとって発酵させ、酸味をもたせた一種の乳酸飲料である馬乳酒(クミス)は、その一例である。
 アメリカ大陸にウマが導入されたのは、ヨーロッパ人の渡来以後であるが、少数のスペイン人によるアメリカ大陸征服を可能にさせた要因は、火器と並んでウマであった。また同じようにウマを受容したアメリカ先住民の一部は、好戦的、侵略的となって少人数集団への解体や非定住化などの社会形態の変容をもたらした。こうしたことは、ウマのもつ軍事上、社会上の意味をよく示しており、したがってウマは王や貴族に属するものとして尊重され、また神聖視されてきた。
 内陸アジアの遊牧民にあっては、ウマは古くから男子の家畜とされ、社会的身分や富の尺度となっていた。中国の『周礼(しゅらい)』には、士大夫(したいふ)の修める教養に、礼、乗、射、書、数に並んで御があげられているが、御は馬車を御する意で、士大夫階級(官僚知識層)とウマの結び付きを語っている。中国の馬車はさらに殷(いん)代にまでさかのぼるが、河南省安陽の遺跡からは、埋葬されたウマと車が出土している。なお中国での家ウマの出土例は竜山(りゅうざん)文化(新石器時代)からであるが、これも西方からの影響とみられる。しかし、以後、中国社会においてはウマと戦車は非常に大きな意味をもち、戦国時代の史書では戦力が百乗、千乗などと車の数を基準に語られ、王や貴人の墓には馬車の殉葬が行われた。漢代には画象石(がぞうせき)や壁画に多くの馬車が描かれ、交通運輸機関としての発達もうかがえる。この時代にはウマの繋駕(けいが)形式も、軛(くびき)式繋駕から胸部繋駕へと変化している。前者は首革と軛を用い、頭部の力で引くもので、比較的自由に方向を変えうる利点があるが、ウマの気管を圧迫するため、ウマの牽引(けんいん)力が十分に発揮されないという欠点をもつ。この形式は、西アジアではウマがウシやロバにかわる牽引獣となっても受け継がれ、ヨーロッパからインドに至る地域で広く行われていた。それが、胸懸(むながい)、腹帯を引綱に結んで車を引く胸部繋駕の形式に変わるのは、ヨーロッパでは9世紀以後である。
 騎馬の発明は、ウマの社会的、軍事的意味をいっそう重要なものにしたが、内陸アジアで始まったのか、古代オリエント世界の周縁部に由来するのかはさだかでない。遊牧騎馬民族は、前一千年紀にはユーラシア大陸の草原地帯に出現し、また活躍するようになった。とりわけスキタイ人は強力な軍事力をもっていたが、ギリシア神話に出てくる半人半馬のケンタウロスの伝説は、人馬一体となって行動するスキタイ人を原型にしたものといわれる。これら騎馬民族盛行の背景には、ウマの改良や馬具の発達があり、彼らの服装も乗馬に適したズボンが用いられていた。なお、金銀の腕輪や腰帯の留め金に施されたスキタイの遺物にみられる動物意匠は、遊牧民文化の一つの頂点をなしている。
 ウマは遊牧民の信仰において天と結び付き、天馬の伝説を生み、天神への供犠獣に用いられた。他方、農耕民の世界では豊饒(ほうじょう)の観念と結び付くが、それはウシの地位を引き継いだものと考えられている。ギリシア神話の海洋神ポセイドンの姿は雄ウシといわれるが、自らウマの姿となって女神デメテルを追ったといい、ウマが供犠された。日本の河童駒引(かっぱこまひ)き伝説にみられるように、ウマは水の精霊とも所縁(しょえん)が深く、水界の霊物とウマとの間にできる「竜馬」の伝承なども生み出されている。[田村克己]

民俗

日本ではウマは古代から乗馬用として飼育され、ことに合戦の際に軍馬として重要であった。また馬車の利用は明治以後のことであるが、ウマを荷物の運搬に使うことは古くから行われ、駅馬の制度などもあった。近世の助郷(すけごう)の制度では、人馬の供出が定められており、長野県では「中馬(ちゅうま)」とよばれる、ウマによる荷物の運搬が行われていた。馬耕は女手では無理な点があったため、農耕用にはウマよりもウシのほうが多く使われていた。
 ウマの使用についてだいじなことの一つに神祭(かみまつり)がある。ウマは神の乗り物とも考えられていたので、神馬(しんめ)として神社にウマを捧(ささ)げることが行われ、たとえば千葉県君津(きみつ)地方では「馬出し」といって、御幣(ごへい)(神祭用具の一つ)を背に飾り付けられたウマを引いて参詣(さんけい)させる。新潟県佐渡島の加茂宮の祭礼には「馬駆(うまかけ)」の行事があり、京都の賀茂競馬(かものくらべうま)は平安時代から名高い。流鏑馬(やぶさめ)は鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)をはじめ各地で行われているが、このほか福島県相馬(そうま)市の野馬追(のまお)い祭も騎馬武者が出るので有名である。ウマに関する年中行事としては、埼玉県入間(いるま)市では正月6日の晩を「馬の年越」といって、ウマを飼う家ではこの日に年越をする。同じように鹿児島県の大隅(おおすみ)地方でも、この日「馬の年取」といって、竈神(かまどがみ)に供えた餅(もち)をウマに食べさせる。熊本県阿蘇(あそ)郡では、正月4日を「馬の鞍(くら)起こし」といって、ウマの使役始めの日としている。岩手県上閉伊(かみへい)郡では、6月15日を馬祭、または「馬こ繋(つな)ぎ」といって、キビで1尺(約30.3センチメートル)ほどのウマ二つと馬槽(ばそう)をつくり、シトギ(神前に供える餅の名)と甘酒をいっしょに入れて、早朝に産土神(うぶすながみ)の社頭や田の水口の所へ持って行った。農神(のうがみ)様はこのウマに乗って作見(さくみ)に回られるという。香川県では一般に、8月1日を「馬節供」といっており、初めて男の子をもうけた家では前月27、28日ごろから準備をして、米の粉でいろいろなウマの形をつくって飾るが、広島県福山市付近では団子をつくって祝う。また香川県三豊(みとよ)郡では、この馬節供を「馬荒し」と称している。栃木県佐野(さの)市などでも、やはり初子のある家では八朔(はっさく)の日(旧暦8月1日)に木製のウマをつくって飾るという。
 ウマを飼育している人々の間では馬頭観音(ばとうかんのん)が広く信仰されている。とくに、ウマが落ちるような険路などでは、馬頭観音の石塔が立てられており、馬頭講とか観音講などの名でよばれる信仰集団がつくられている。長野県伊那富(いなとみ)地方(辰野(たつの)町)には、二十二夜様(産の神)の信仰があるが、そのお姿はウマだという。そして午(うま)年の人の守り本尊ともなっており、この信仰のある所にはかならず馬頭観音があるという。またサルは馬屋の守護神と考えられていたので、馬屋にはサルがウマの手綱をとっている絵馬がよく掲げてある。毎年正月に「厩(うまや)祭」を行う所があるが、これには猿回しを招く風習があった。そしてウマの神である蒼前神(そうぜんがみ)が信仰されて、正月とか、子ウマが生まれたときには御神酒(おみき)をあげる。ウマを飼っている村では、保健のために毎年獣医に頼んでウマの血取りをしたり、ウマに灸(きゅう)をすえたり、馬体に焼き鏝(ごて)を当てたり、ひづめを切ったりして治療をした。これを「馬繕(うまつくらい)」「馬ふせ」などといい、これが済むと酒宴を開いた。
 ウマに関する伝説には、古来神がウマに乗って降臨するという信仰から、その馬蹄(ばてい)の跡を残した石の伝説「馬蹄石(ばていせき)」が各地にみられる。源平の合戦で有名な「池月磨墨(するすみ)伝説」というのもあり、このなかに出てくる名馬池月が水中より出現したと伝える池沼もある。「鞍掛石(くらかけいし)」というのもあちこちにあるが、これは御神幸のとき神馬を休ませた際、その鞍を掛けた石というのが多い。また河童(かっぱ)がウマを川や池に引き込むという伝説(駒引き伝説)も多く、馬引沢といって地名にもなっている。また「馬塚」という伝説も多く、戦(いくさ)に負けた武将の乗ったウマを埋めた塚という。東北地方には蚕神(かいこがみ)とも農神ともされている「おしら神」の伝承があり、人間の娘とウマとの交情の昔話が伝えられている。徳島県をはじめ福島県、八丈島、淡路島、壱岐(いき)などでは、「首切れ馬」「首なし馬」というウマの妖怪(ようかい)が伝えられている。これには神が乗っているとか、首だけが飛んでくるといわれ、大みそかや節分の晩に通るので四つ辻(つじ)に行くと見えるという。そのほか「旅人馬」「馬方山姥(うまかたやまうば)」という昔話が各地で語られている。[大藤時彦]
『野村晋一著『概説馬学』(1997・新日本教育図書) ▽田垣住雄著『馬学綜説』(1950・養賢堂) ▽ボンジャンニ著、増井久代訳『馬の百科』(1982・小学館) ▽久合田勉著『馬学』再刊(1973・日本中央競馬会弘済会) ▽G・G・シンプソン著、原田俊治訳『馬と進化』(1979・どうぶつ社) ▽森浩一編『日本古代文化の探究 馬』(1974・社会思想社) ▽八戸芳夫著『馬 この素晴らしき友』(1986・共同文化社) ▽澤坦著『馬は生きている』(1994・文永堂出版) ▽澤坦著『馬は語る――人間・家畜・自然――』(岩波新書) ▽石田英一郎著『河童駒引考――比較民族学的研究(新版)』(岩波文庫) ▽原田俊治著『馬のすべてがわかる本』(PHP文庫) ▽競争馬総合研究所編『馬の科学』(講談社・ブルーバックス)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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