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ギリシア文学 ギリシアぶんがくGreek literature

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ギリシア文学
ギリシアぶんがく
Greek literature

ギリシアの本土および島嶼部,古代マグナ・グレキア,小アジアの人々によってギリシア語で書かれた文学作品の総称。ギリシア文学の歴史は古代 (4世紀まで) ,ビザンチン時代 (330~1453) ,近代 (1453以後) に分けられるが,世界文学史上に圧倒的な重要性をもつのは古代の作品である。
近代西洋文学のジャンルの大半は,古代ギリシア人が創造あるいは少くとも形式化したものである。それらは叙事詩,エレゲイア詩,抒情詩,演劇,田園詩,単なる年代記ではない歴史,雄弁術 (古代では修辞学の一つとして研究された) ,哲学などである。ギリシア文学史の巻頭を飾る作品は,ホメロスの二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。この作品は何世紀にもわたって口承された結果であり,書きとめられた正確な時期 (おそらく前 700年以前) も,ホメロスという1人の人物が書いたのかどうかも不明である。ヘシオドスの教訓叙事詩『神統紀』『仕事と日々』は教育を目的に書かれたものである。前8世紀末から発達したエレゲイア詩は,恋愛,結婚などさまざまな場面でつくられ,叙事詩とは異なり個人の視点に立っているため,内省的な抒情詩のさきがけとなった。前7~6世紀には3人のエレゲイアの大詩人,チュルタイオスミムネルモステオグニスが誕生した。前7~5世紀にはパロスのアルキロコスアルカイオスアルクマンステシコロスイビュコスバキュリデスら,多くの抒情詩人が現れた。とりわけ重要なのはサッフォーで,直接的でいきいきとした言葉で張りつめた感情を表現した。テオスのアナクレオンはエレガンスと洗練を特徴とする。ピンダロスの作品はオリンピック競技の勝者をたたえる歌などが,数多く残っている。
ギリシア語のような創意に富む土着の言語は翻訳が困難である。なかでもアイスキュロスの悲劇は,その詩的思考の豊かさと複雑さは翻訳では伝えきれない。人間と神々との関係というアイスキュロスの中心主題は『オレステイア』3部作に表現されている。一方ソフォクレスは『アンチゴネ』にみられるように,より個人的な危機,すなわち公的権威と一族のつとめに板ばさみになった状況を描いている。エウリピデスは,『ヒッポリュトス』で満たされない愛を描いた。アテネの様子を世俗的,人間的に描いたアリストファネスはギリシア喜劇の最高峰である。彼の作品『蛙』『雲』『鳥』は風刺に満ちているが,本質的には真摯なもので,『リュシストラテ (女の平和) 』は感動的な反戦劇である。メナンドロスの家庭喜劇は,類型的な登場人物を初めて登場させ,時代的にはのちのヘレニズム期に属している。
さまざまな田園詩を書いたテオクリトスは牧歌の創始者として知られる。西洋文明における本格的な歴史的手法は,ペルシア戦争とその背景を書いたヘロドトスに始る。ツキジデスはアテネとスパルタの戦争を客観的な手法で描き,その形式は簡潔でまとまった文章の模範となった。ペロポネソス戦争後の複雑な時期に多くの作品を書いたクセノフォンの代表作は『アナバシス』である。雄弁術では,デモステネスの演説が説得技法の模範として古代以後も研究された。なかでもマケドニアのフィリッポス2世を弾劾した演説が特に有名である。プラトンの哲学的著作は,哲学的内容だけでなく散文詩の確立にも貢献した。巨人アリストテレスは西洋文明における文学批評用語すべてと,哲学,科学思考を創造した。
ビザンチン時代にギリシア語で書かれた文学は,ビザンチン文明のすぐれた表現であり,古代ギリシア文学と現代の日常ギリシア語で書かれた文学との間をつなぐ役割を果している。この時代の文学は,ビザンチン帝国の中央集権機構とコンスタンチノープルの宮廷生活の影響を受けて,大都市的で貴族的な色彩を帯び,さらにキリスト教が新たな特色をもたらした。また,ビザンチン社会の静的な特徴が反映され,文学の形式や言語の使用法は保守的であった。文学の大部分が衰退したビザンチン時代において,年代記はローマの伝統を何世紀にもわたって最良の状態で受継ぎ,ビザンチンの歴史が終るまで,完成度の高い記述で事件を記録した。この成果に並びうるものがヨーロッパで登場するのは 12世紀になってからのことである。 (→ビザンチン文学 )
1453年にコンスタンチノープルが陥落し,ギリシアがオスマン帝国に組込まれると,ギリシアの知識階級の多くは故郷を離れて他民族の言葉を学び,その言葉で著述したが,ギリシア語でも書く者も多かった。現代のギリシアは2つの文学形式を継承している。カサレブサ (純正語) と呼ばれる古典語を範とする形式と,ディモティキと呼ばれる現代民衆語の形式である。これら2つの文学潮流の発達過程で,1880年代のディモティキ運動が重大な転機となった。この運動はカサレブサに対する反発と,ギリシアのロマン主義の興隆を目的とした。 1888年,I.プシハリスが『私の旅』を発表してこの運動の指導者になった。『私の旅』は見かけは連作旅行記であったが,真の意図はギリシア人の言語に対する意識を呼びさますことであった。主流を占めるカサレブサに対するディモティキ支持者の闘いは,すぐに古典的伝統全般に対する反発へと拡大し,ギリシアの芸術と文化を現代の生活に取戻すよう主張された。 N.ポリティスによる近代ギリシア民俗学の研究や,K.パパリゴプロスによる中世・近代ギリシア史の研究もこの運動の推進の一翼をになった。この論争はディモティキの圧倒的な勝利に終り,科学や公式文書でもディモティキが主流を占めるようになった。
コンスタンチノープルの陥落からギリシア独立戦争 (1821~29) までの間に,クレタ島,ロドス島,キプロス島,その他オスマン帝国の支配下でないギリシアの島々では,詩が発達した。オスマン帝国支配下にあった地域で注目に値する詩は,クレフティス (武装した無法者のギリシア人) 歌謡だけである。このなかには,ギリシア語で書かれた詩のなかで最も美しくいきいきとした作品も含まれている。
ギリシアがオスマン帝国から解放されたのちに新王国の首都となったアテネは,ギリシアの知識人の中心地となった。アテネのロマン派の詩は 1800年代中頃に A.スーツォスを中心に創始され,長年にわたりギリシアの詩に影響を与えた。 A.パラスホスは後期アテネ・ロマン派を代表する詩人である。詩人 D.ソロモスは,文語としてカサレブサよりもディモティキを選び,80年代ディモティキ運動以後のギリシアの詩を方向づけた。さらに,彼は多くの西洋の韻文形式を紹介し,ギリシアの詩をそれまで主として用いられていた 15音節の政治詩の単調さから解放した。ギリシアの詩が不毛な状況に向っていると感じた K.パラマスらの若く才能に富む詩人グループが,1880年頃いわゆる新アテネ派を結成した。彼らはギリシアの高踏派を目指したが,同時に現代ギリシアに着想を得ていきいきとした慣用句を用いた。新アテネ派の影響を受けなかった大詩人に K.カバフィスがいる。第1次世界大戦後の詩人のなかでは,悲観的でしばしば冷笑的な詩で知られる K.カリオタキス,現代人の運命を詩的なタッチで描いて 1963年にノーベル文学賞を受賞した象徴派詩人 G.セフェリス,小説家としても知られ,3万 3333行に及ぶ長編叙事詩『オデュッセイア』を書いた N.カザンザキスが重要である。第2次世界大戦後の主要な詩は主として象徴派,シュルレアリスムで,代表的な詩人に G.セメリス,M.サフトゥリス,Z.カレリ,D.パパジツァス,T.シノプロス,T.バルビチオティスがいる。
プシハリスが発表した『私の旅』とディモティキ運動の発展により,近代ギリシアの散文は決定的に変化し,日常の言葉が詩だけでなく,すべての散文作品に用いられるようになった。この時期の作家には短編作家の A.パパジアマンティス,A.カルカビツァスがいる。彼らは「生きているルーツ」に着想を求め,ギリシアの村の生活を描いた。プシハリスと G.クセノプウロスによって都市小説がギリシア文学に紹介されたのは,19世紀末のことである。 1930年代の作家によって,日常語の散文は成熟期に達し,初めて重要な意味をもつ小説が生れた。 S.ミリビリスの戦争3部作に続いて,力強さと独創性に富んだ多くの短編小説が現れた。 I.ベネジスは自身のトルコの捕虜体験を描いた衝撃的な作品『31328番』 (1931) でデビューした。 30年代の最も才能ある作家の一人に K.ポリティスがいる。 G.セオトカスは『レオニス』 (40) をはじめとする数々の作品で,力量のある多才な作家であることを示した。彼は流麗で単純なディモティキを用いる最もすぐれた作家の一人である。
第2次世界大戦後は,詩と小説の両分野で戦前の世代が若い世代の模範であり続けた。彼らの影響はカザンザキスのすぐれた作品がよく示している。カザンザキスは長い文学キャリアを積んだ高齢になってから小説に転じ,国際的に認められた。彼の小説は傑出した創造力と手段を完全に自分のものにしていることが特徴である。粗雑な部分もあるが,それでもカザンザキスはディモティキ散文の豊かさを深く掘下げた作家の一人である。第2次世界大戦と内戦の荒廃ののちに登場した若い世代の作家は,1960年代になってから独自の発言力を得た。なかでも V.バシリコス,K.タフツィスは,散文の用法と想像力において傑出している。

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世界大百科事典 第2版の解説

ギリシアぶんがく【ギリシア文学】


〔ギリシア文学とギリシア語〕
インド・ヨーロッパ語族の一派に属するギリシア語は,前12世紀のミュケナイ時代の末期の粘土板文書に姿を現してから,古典古代(前8~後5世紀),ビザンティン帝国(1453崩壊),現代ギリシアの独立(1829)を経て今日に至るまで,東地中海諸地域における共通言語の一つとして3000年以上の長きにわたる生命を保ちつつ,日常言語としてはもとより,文学作品,公式記録,外交文書の言語としてきわめて重要な位置を占めてきた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ギリシア文学
ぎりしあぶんがく

古代ギリシア文学はホメロス(前8世紀)に始まり、前古典期(前8~前6世紀)、古典期(前5~前4世紀)、ヘレニズム時代(前3~後1世紀)を経てローマ帝政後期の5世紀までの間にギリシア語で書かれた文学作品をさすのが通例である。
 ギリシア民族がバルカン半島に入ったのは、紀元前二千年紀初頭とされるが、定住後、先住民やオリエント諸国、ことにクレタ島のミノア文明の影響を強く受けて、独自の文明を形成した。これがミケーネ文明で、前1400~前1200年にもっとも栄えた。この時代に使用されたいわゆる線状文字Bが20世紀中ごろに解読されて、ギリシア語を写していることが判明した。これによりギリシア語の歴史は400年ほどもさかのぼることになったが、粘土板に記されたこれらの文書は、内容が行政事務用のメモに類するものばかりで、文学とはかかわりがない。したがって、ギリシア文学の歴史がホメロスに始まるという定説は今日でも動かない。なお、ビザンティン帝国の崩壊(1453)から現代に至るギリシア文学については別項「近代ギリシア文学」を参照。[松平千秋]

ギリシア文学の特質


 ギリシア人は前10世紀ごろから、政治的、経済的理由で各地に植民を図ったが、ことに歴史時代に入る前8世紀以降は、植民活動は活発を極め、東は小アジアの沿岸一帯、西はイタリア半島およびシチリア、南フランスからスペインに及び、北は黒海沿岸、南はアフリカ北岸に至る広大な地域にギリシア都市を建設した。その結果、ギリシア各地に、様式、言語(方言)、韻律を異にする、それぞれ独自の文学が生まれ、ギリシア文学は他の文学には類をみない多様性を示すことになった。ただし、古典期にはアテナイ(アテネ)、ヘレニズム時代にはエジプトのアレクサンドリアと、それぞれ都市が文芸の中心地となったため、地方色を反映した文学は影が薄れていった。
 叙事詩、叙情詩、演劇、散文など文学形式のすべてがギリシア文学に発している。小説のみは近代文学の創造であるといわれるが、ローマ帝政期に流行した恋愛物語、いわゆる「ギリシア小説」は、近代小説とは趣(おもむき)を異にするとはいえ、まったく無縁ではない。古典文学においては、文学の概念を近代よりも広く解釈しており、哲学、歴史、弁論、さらには自然科学の分野にも及ぶことが少なくない。ヘロドトス、ヒポクラテス、プラトン、デモステネスらが文学史に登場するのは、彼らの作品が散文学の代表と目されるからである。[松平千秋]

ギリシア文学の歩み


叙事詩
ギリシア文学が、ホメロス作と伝えられる『イリアス』『オデュッセイア』の二大叙事詩に始まるという定説は、唐突と受け取られるかもしれない。稚拙な揺籃(ようらん)期から成熟への過程を省略して、いきなり完成度の高い作品を掲げているからである。しかしギリシアの叙事詩がホメロス以前数百年もさかのぼる長い伝統を担っており、ホメロスはその最終的結実であることは疑いない。ホメロスの天才によって理想的完成度に達した二大作品の出現により、前代、同時代、および後代の群小作品は色あせ、やがて忘れ去られた。ホメロス作と伝えられる作品はほかにもいくつかあったが、いずれもホメロスより後代の作。『ホメロス讃歌(さんか)』と称する、わが国の祝詞(のりと)に似た趣の小叙事詩30編余、英雄叙事詩のパロディー『蛙鼠(けいそ)合戦』などである。また「叙事詩(キュクロス)の環」と称する一連の叙事詩も多くつくられた。トロイア(トロイ)伝説をはじめ、テバイ(テーベ)伝説、ヘラクレス伝説など巨大な伝説圏を、それぞれいくつかの独立した叙事詩で完結するように構想されたもので、わずかな断片以外伝わっていない。
 ホメロス流の英雄叙事詩はイオニアで成立したが、ギリシア本土ではボイオティアを中心として、やや趣を異にする叙事詩の一派が栄えた。イオニア派に対して本土派またはボイオティア派といわれ、その代表的詩人がヘシオドス(前8世紀末)である。イオニア派は華やかで娯楽的性格が強いが、本土の叙事詩はむしろ実用的、倫理的色彩が濃い。ヘシオドス作『仕事と日々』は、放埒(ほうらつ)な弟を戒め農事を教える目的で書かれた一種の農事暦。『神統記』は、神々の系譜を述べつつ人倫の道を説き、ホメロスと並んでのちのちまでギリシア人の宗教観、倫理思想に影響を与えた。
 前7世紀以後はしだいに衰えるが、ヘレニズム時代のアレクサンドリアでは、カリマコス、アポロニオスの2大家によって叙事詩の再興が行われる。カリマコスは小叙事詩に新工夫を凝らし、アポロニオスは『アルゴ船物語』4巻の長大な作品を著した。いずれもローマ時代の作家に与えた影響は大きい。ローマ帝政期に入り、4~5世紀のころクイントゥス・スミルナイウスが『ホメロス後日談』14巻を、ムサイオスが『ヘロとレアンドロス』を、エジプト生まれのノンノスが『ディオニソス物語』48巻を著した。いずれも後世まで広く愛読され、近世の文学にも影響を与えた。[松平千秋]
叙情詩
古代ギリシアには今日の叙情詩に相当する用語はなく、イアンボス、エレゲイア、独唱詩、合唱歌などと、それぞれの詩形や様式によってよばれていた。したがってここに叙情詩というのは、詩人が韻律によって自己の感懐を述べた作品というほどの意味で、多くの場合、竪笛(たてぶえ)または竪琴の伴奏を伴うものをいう。
 エレゲイアとイアンボスはともにイオニアにおこった。エレゲイアは叙事詩形を若干変形した2行1連からなり、イアンボスは短長の韻脚を6脚含む1行単位の詩形である。両者はほぼ並行して発達し、アルキロコス、ソロンのように両詩形を用いた詩人も少なくない。エレゲイアはその詩形から推測されるように、荘重厳粛な内容のものが多く、軍歌、恋愛歌、哀悼歌、さらに政治思想、人生観を述べたものなど、その主題は多岐にわたった。その代表的作家としてアルキロコス、カリノス、チュルタイオス、ミムネルモス、やや下ってソロン、さらに遅れて教訓詩の作家として名高いテオグニスがいる。なお、前6世紀の哲学者クセノファネスも、エレゲイアやイアンボスの詩形で優れた作品を書いた。イアンボスの韻律は日常の話しことばに近いといわれるように、その内容もエレゲイアに比べはるかに砕けたもので、個人攻撃、または鬱屈(うっくつ)した世間への不満を風刺、罵倒(ばとう)で発散している。アルキロコスはその代表的詩人で、陋巷(ろうこう)にあって無頼の生涯を送ったヒッポナクスや、人生の悲哀を歌い、女のタイプを動物その他に見立てた風刺詩を残したセモニデスは彼の後継者である。
 今日の叙情詩にもっとも近いのは、アイオリスとイオニアにおこった、いわゆる独唱詩である。多くは4行を単位とするスタンザ(連)形式のもので、竪琴で弾き語りしたものらしい。アイオリスでは、レスボス島のアルカイオスとサッフォー、イオニアではアナクレオンがその代表的詩人。いずれも自国の方言を用い、身辺の事物についての感懐をすなおに歌い上げている。アルカイオスとサッフォーとは同国人で、同時代人である。アルカイオスは政争に明け暮れる日々を激越な調子で歌い、サッフォーは同性の愛人たちへの思慕を綿々とつづる。アナクレオンは独裁者たちの宮廷に抱えられ、酒や女を歌い、軽快で享楽的な作品が多い。
 古典期以後は優れた詩人は現れず、アレクサンドリアでピレタスやカリマコスらが叙情的作品を試みたほか、テオクリトスの創始した「牧歌」(パストラル)もきわめて叙情性の高い詩形式である。テオクリトスの後継者としてはモスコスとビオンがあげられる。『ギリシア詞華集』に名を連ねるメレアグロス、アスクレピアデスらもヘレニズム時代の優れた詩人である。
 合唱歌はおそらく、今日の叙情詩の概念にはもっとも遠いジャンルである。元来、祭礼や祝典の歌舞隊のためにつくられたもので、おのずから公的な性格が強かった。ドリス系の各地、とくにスパルタで栄えたことは、『乙女歌』で名高いアルクマン(前7世紀)がスパルタで活躍したことでも知られる。シチリア出身のステシコロス(前7~前6世紀)が創始したという三部形式(正歌、反歌、添歌)が合唱歌の最終的パターンであり、これは悲劇の合唱歌にも取り入れられた。前6~前5世紀にシモニデス、ピンダロス、バキリデスの3大家が現れて、合唱歌は最盛期を迎える。彼らの名を高からしめたのは、王侯貴族の依頼により制作した、オリンピアなどの競技優勝者をたたえる祝勝歌で、ピンダロス作の『祝勝歌』4巻がほとんど完全な形で伝存している。シモニデスとバキリデスは叔父・甥(おい)の関係にあり、イオニア系の詩人で、言語、文体も平明で軽快感がある。ピンダロスはドリス特有の荘重厳粛な格調で、きわめて難解である。乙女歌や祝勝歌のほかに、ディオニソス崇拝と関連のあるディテュランボスという合唱歌形式も一時流行し、ピンダロス、バキリデスにもこの種の作品がある。前5~前4世紀にかけてもっとも人気の高かったディテュランボス作家はティモテオスである。なおシモニデスは墓碑銘詩の作家としても名高く、偽作を含む多数の銘詩が伝えられている。[松平千秋]
演劇
演劇に関しては、悲劇も喜劇もともにアッティカ(中心地アテネ)の独占といってよい。演劇の稚拙な段階はアッティカ以外の各地にみられるが、これを完成の域に導いたのはアテネの劇作家たちである。その起源については古来諸説があるが、悲劇、喜劇ともに合唱隊(コロス)を伴っているところから、合唱歌から発したとみるのが妥当であろう。前6世紀中期、悲劇作家テスピスがいちおう演劇の体裁を整え、同世紀後半からディオニソスの祭典においてその競演が公的行事として行われた。前5世紀に入るとともに、アイスキロスによって飛躍的発展を遂げ、ついでソフォクレス、エウリピデスの出現によって、アテナイ劇壇は空前の盛況を呈した。前406年にエウリピデス、ソフォクレスが相次いで世を去ったあとは、アテナイの衰退と呼応するように、悲劇も急速に衰え、かつ変貌(へんぼう)した。
 喜劇が悲劇と並んでディオニソスの祭典に競演を認められたのはかなり遅く、前5世紀に入ってからで、現存する完全な作品はアリストファネス作の11編のみである。ほぼ同時代に活躍したクラティノス、エウポリスらの作品は断片しか伝わらない。本来、時事万般の批判風刺をたてまえとした喜劇は、前5世紀末の敗戦を機に、急速に活力を失い変貌する。前5世紀の初期段階を古喜劇、以下、中期喜劇、新喜劇とよぶ習わしである。新喜劇はメナンドロス、ディピロス、ピレモンらが代表的作家で、完全な作品としてはメナンドロスの1編だけで、ほかはすべて断片である。しかしローマ喜劇はほとんどが中期・新喜劇の翻案なので、それらの作品を通して、ある程度まで原作を復原できる場合もある。多くは日常市民生活に取材したメロドラマで、登場人物のタイプも千編一律、筋の運びも同じパターンの繰り返しである。
 アッティカ以外では、シチリアのドリス方言地域で別種の喜劇が行われ、エピカルモス(前6~前5世紀)がその代表的作家である。またヘレニズム時代に流行したミモス(擬曲)という特殊なジャンルもある。前3世紀のソフロンやヘロンダスらの作家が知られるが、これは一種の寸劇で、多くは有閑階級の家庭の日常の一こまを対話の形で写す。19世紀末に発見されたヘロンダスのミモス数編によってその特質が知られるが、これは上演用というよりも朗読用の脚本であったらしい。[松平千秋]
散文
散文の発達はかなり遅れ、ようやく前6世紀ごろから散文作品が姿を現す。散文が韻文と一線を画して、詩歌と異なる分野のメディアとして常用される以前は、叙事詩やエレゲイア、場合によってはイアンボスの詩形がそのかわりの役を果たしていた。ソクラテス以前の初期の哲学者たち――エンペドクレス、パルメニデス、クセノファネスらがその哲理を説くとき、ソロンが己の政治的信念を吐露するときなども韻文を用いているのは、散文がなお未発達の状態にあったからである。散文も叙事詩と同じく、まずイオニアにおこった。イオニア方言を用いる初期の散文の分野は多岐にわたっている。歴史の父と称されるヘロドトスの『歴史』9巻、古代医学の祖ヒポクラテスの名で伝わる膨大な医学論集はその代表的作品。哲学者デモクリトスも、その作品はほとんど失われたが、イオニア散文でその哲学思想を叙述した。イオニア散文の語彙(ごい)、措辞(そじ)には叙事詩の影響が強く残っており、文体は概して単純素朴である。
 イオニア散文の伝統を継ぎながら、さらに磨き上げて精巧な芸術的散文を完成したのはアテナイの文章家たちである。民主政治下の社会で頭角を現すには、政界および法曹界において、雄弁技術の修得が最上の策とされた。ソフィストたちの活動と相まって、ここに雄弁術、修辞学が目覚ましく発達し、その影響下にアッティカ独特の散文が生まれた。歴史ではトゥキディデス、クセノフォン、弁論ではアンティフォン、リシアス、イソクラテス、デモステネスらが前5世紀から前4世紀にかけて輩出した。哲学の分野ではソクラテス門下のプラトンが傑出し、その著『対話篇(へん)』は散文による劇的対話としてみごとな文学作品といってよい。アリストテレスは、文学作品といえる著作は残さなかったが、説得術としての弁論法を説いた『レトリカ』、悲劇を中心とする文学作法を論じた『創作論(詩学)』は、近世以降の文学研究に多大の影響を与えた。
 ヘレニズム時代以後、ギリシア語はいわゆるコイネー(共通語)とよばれて世界の通用語となった。それとともに知識人の間に純正なアッティカ散文復活の機運が生じ、弁論を中心に擬古文による著作が盛んに行われ、したがってヘレニズムからローマ時代にかけての散文は、程度の差はあれ、この傾向を受けている。注目すべき作家としては、紀元前では史家ポリビオスやディオドロス、地理学者ストラボンがあり、紀元後では『対比列伝』『倫理論集』の著者プルタルコス、風刺作家ルキアノスをあげることができる。またパウサニアス、アイリアノス、アテナイオスらの著述も、故実を探る宝庫として珍重されている。
 先にも触れたように、紀元前後から4~5世紀にわたって、「ギリシア小説」といわれる恋愛物語が流行した。グレコ・ローマン時代の家庭読み物で、主人公の美男美女がさまざまな危難にあいながら純愛を貫き、最後はめでたく結ばれるというパターンはみな同じである。伝えられている数編のうち、ヘリオドロスの『エチオピア物語』、ロンゴスの『ダフニスとクロエ』がとくに名高い。千編一律の筋立てを救うために、作者たちは異国趣味を盛ったり、スリルに満ちたシーンを加えるなど、それぞれ趣向を凝らしている。[松平千秋]
『高津春繁・斎藤忍隨著『ギリシア・ローマ古典文学案内』(岩波文庫) ▽高津春繁著『古代ギリシア文学史』(1977・岩波書店) ▽高津春繁著『世界の文学史 ギリシア・ローマの文学』(1967・明治書院)』

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