松崎村(読み)まつざきむら

日本歴史地名大系 「松崎村」の解説

松崎村
まつざきむら

[現在地名]気仙沼市 松崎浦田うらだ・同下金取しもかねとり・同立石たていし・同大萱おおかや・同上金取かみかねとり・同下赤田しもあかだ・同馬場ばば・同鶴巻つるまき・同前浜まえはま・同中瀬なかぜ・同地生じしよう・同丸森まるもり・同上赤田かみあかだ・同五駄鱈ごだんだら・同尾崎おさき・同かや・同片浜かたはま・同そとさわ・同高谷たかや・同柳沢やなぎさわ・同猫渕ねこぶち・同面瀬おもせ・同北沢きたざわ

赤岩あかいわ村の南に位置し、東は気仙沼湾に臨む。西方の北上山地から、東に標高六〇―一〇〇メートルほどの丘陵が延び、その南を面瀬川(旧称傾城川)が、北側を神山かみやま川が流れる。その丘陵の尾根道が赤岩村との境である。面瀬川は当地西端長の森ながのもり山を水源にして東流するが、上流の金取地区には砂金採取、みよし堀などの古い採掘跡があり、江戸時代まで砂金および砂鉄を採取していたようで、同地には採金用具を保存する旧家もある。平安時代末期、当地方は奥州藤原氏の支配下にあり、また摂関家領本良もとよし庄に含まれていたと伝える。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]宇佐市松崎

蜷木になき村の北、寄藻よりも川が周防灘に注ぐ河口部西岸の低地上にある。西は佐々礼さざれ村・西大堀にしおおほり村。文政年中(一八一八―三〇)に当村の地先を埋立てて北鶴田きたつるだ・南鶴田などの諸新田が成立する。それまでは北方と東方に広大な干潟が展開する海辺の村で、当地の浜は和間わま浜とよばれた。同浜には和間神社があり、宇佐宮の神事放生会が執行われた。また古代から海浜で製塩が営まれ(長元元年二月一三日「大中臣守安等塩田譲状案」永弘文書)、塩屋神社(現在は迎宮神社に合祀)を祀っていた。嘉承三年(一一〇八)に宇佐公順が記した和間浜における殺生禁断地の四至のうち、西は「松崎并石塔会浜路」を限りとした(宇佐託宣集)。弘安九年(一二八六)一一月一三日の宇佐保広等連署宛行状案(永弘文書)によると、「塩屋神田内宗大夫入道之下作余田」の所当米三斗が弥源二弁官山成弘に宛行われている。永仁二年(一二九四)八月一六日の宇佐某宛行状案(同文書)によると、塩屋しおや神田の下作の塩地子は年二斗であった。


松崎村
まんざきむら

[現在地名]成田市松崎・玉造たまつくり一―七丁目

上福田かみふくだ村の南に位置し、西は大竹おおだけ村と印旛いんば沼。永正六年(一五〇九)九月二八日の千葉勝胤判物(浄泉寺文書)に松崎郷神宮じんぐう寺とみえ、左近将監の所領であった当地が粟飯原右衛門三郎に安堵されている。文禄三年(一五九四)の検地帳(湯浅家文書)に香取郡埴生はぶ庄松崎村とあり、高六一〇石、佐倉藩領。文化九年(一八一二)まで新田検地を一六回も受けるなど切添新田の開発が盛んに行われ(松崎区有文書)、元禄郷帳では高六八五石余。印旛沼付の埜地を開発し延宝四年(一六七六)に検地を受けたたつ新田は松崎新田と通称され、高五三石余と小さな村に匹敵する規模で、一一軒の屋敷があった(松崎区有文書)。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば、小物成として夫役永一貫八九〇文余・栗代永三二〇文・山銭鐚三貫三五五文・新山銭鐚二貫四四四文・埜地銭永二貫八六四文・同鐚四四一文があった。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]中島村松崎

村の東を阿武隈川が北流し、いずみ川の北岸に位置する。石川郡に属し、南は白河郡滑津なめづ村、北は明岡みようおか(現矢吹町)、東は新屋敷あらやしき(現石川町)、西は中畑なかはた(現矢吹町)。康永三年(一三四四)九月二四日の結城文書正文目録(伊勢結城文書)に「一通 石河・中畠当知行・松崎同国宣建武元年四月六日」とあり、建武元年(一三三四)結城白川氏が松崎の知行を認められている。康永二年一一月二八日とみられる結城親朝譲状案(仙台結城文書)では親朝が朝常に松崎を譲っている。阿武隈川西岸の地が結城氏の所領となる以前は、石川有光の五男光房が滑津・松崎などを支配し奈目津五郎光房と称し、領民からは「西側様」「にしがわ」とよばれたと伝える。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]中郷村松崎

北国街道の宿場で、南は市屋いちや村に接し、北の二本木にほんぎ村とは町続きで、月の後半を当村、前半は二本木が宿役を勤めた。片貝かたかい川に沿い、東に花房はなぶさ山・高床たかとこ山がある。古くは北国街道は中山なかやま道とよばれ、姫川原ひめがわら(現新井市)から高床山の西麓片貝川沿いに南下し、二本木を経て松崎に達していたという。正保国絵図では高五〇石余。天和三年郷帳では高八五石一斗余。旧高旧領取調帳では高一〇二石九斗余。

慶長一五年(一六一〇)高田藩では信州路の付替えをし、以来松崎村は二本木村とともに一五日交替で、人足二五人、伝馬二五匹の宿役を勤め、北の新井宿から、南の関山せきやま宿(現妙高村)まで継いだ。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]多古町東松崎ひがしまつさき

さか村の北西に位置する。中世は千田ちだ庄に属したとみられ、在地領主として千葉氏系の松崎氏が知られる。神代本千葉系図は匝瑳系飯高氏の一流に松崎氏を載せ、松崎太郎高将・同五郎胤信・同次郎泰氏らが散見される。応永二四年(一四一七)八月の日英末寺等支配注文(法宣院文書)に「下総国松崎顕実寺」とみえ、日英は当地の日蓮宗顕実けんじつ寺などを末寺として弟子の千代寿・寅菊両名に譲与している。戸城とじようには松崎城跡があり、土塁・空堀に囲まれた単郭の遺構が残る。慶長九年(一六〇四)の香取郡松崎郷御縄打之帳(県立中央図書館蔵および飯田家文書)、同一四年の松崎之郷御縄打水帳(県立中央図書館蔵および飯田家文書)が残る。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]松崎町松崎

現町域の北西部に位置し、那賀なか川が南部を西流して駿河湾に注ぐ。北西に松崎湊がある。賀茂郡に属する。古くは宮内みやうち村と一村であった(増訂豆州志稿)。江戸時代初めは幕府領、天明四年(一七八四)下総関宿藩領、同八年再び幕府領、一部が文化八年(一八一一)旗本前田領となり幕末に至る(韮山町史)。相給となってからは一つの通りの東と中ほどの二ヵ所に高札場が置かれたという。元禄郷帳によると高一三四石余。「掛川誌稿」では戸数一九二(幕府領一四〇・前田領五二)、人数七四三(幕府領六五〇・前田領九三)


松崎村
まつざきむら

[現在地名]安塚町松崎

小黒おぐろ川右岸、じよう山の北西麓にある。北は虫川むしがわ(現浦川原村)、西の小黒川対岸は板尾いたお村・袖山そでやま村。直峰のうみね城の郭の主要部が北西の当村に向かって延びており、地内に作衛門畑さくえもんばた黒滝くろたき郭井戸くるわいど八方口はつぽうぐち漆平うるしだいらなどの地名のほか天神堂てんじんどう堂地どうじ堂尻どうじりとうこし宮田みやたみやざわ鳥井前とりいまえなどの宗教地名が多い。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「直峯分此外三方分松崎村 上」とあり、本納七七石九斗七升九合・縄高一二六石五斗八升二合、家一〇軒・三二人。正保国絵図では高二三二石余。天和三年郷帳では高二〇二石一斗余、うち山高七石五斗五升九合・漆高三石五斗、反別田一二町一反余・畑屋敷二町五反余・山林二四町七反余で漆木三二四本。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]大町市大字やしろ 松崎

現大町市中央部にあって、南隣の現館之内たてのうち集落とともに東に中山なかやま山地を負い、西は松本まつもと盆地に面する山麓段丘上を村居とする。村居を南北に農具のうぐ川から導水した横堰よこせぎが流れている。松崎の名は、松崎村北部の曹洞宗薬師やくし寺のある場所をはじめとして、村全体が盆地に向けて突出した段丘地形であることから起きた地名と考えられる。

文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に、「百五拾六石弐斗九升八合 松崎村」とあるのを文献上の初見とする。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]遠野市松崎町松崎

光興寺こうこうじ村の北、駒木こまぎ村の西方にあり、北部と西部は山で囲まれる。村内をさるいし川がほぼ南流し、早池峰はやちね山に向かう道が通る。駒木は建保年間(一二一三―一九)阿曾沼親綱が仮館を築いた地で、のち阿曾沼氏は光興寺に横田よこた城を築いて天正年間(一五七三―九二)まで拠所とするなど(阿曾沼家乗)、当地一帯は阿曾沼氏の本拠地として早くから開けていた。地名の由来について「遠野物語」は、往古湖であった遠野盆地から猿ヶ石川が流出するようになり、これに落合う「七内八崎」の一つであったと記す。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、松崎村の高四一九石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]新潟市松崎・白銀しろがね有楽ゆうらく向陽こうよう材木ざいもく町・ゆたか二―三丁目・大形本おおがたほん町一丁目・同三丁目

河渡こうど新田の東、通船つうせん川右岸、砂丘のすそに立地。砂丘に松林があり、砂崩れして岬状になっているところがあることから名付けられたという。もとは現阿賀野川対岸の濁川にごりかわ興野地内に居住していたが、阿賀野川の流路変更に伴い、通船川対岸の字向ノ島に移転、後、古屋敷を経て現在地に落着いたと伝える。草分家は、越前方面から来越の金子氏、建武二年(一三三五)加賀国大聖寺だいしようじ(現石川県加賀市)落城のため来越したという山田氏六家、享保一五年(一七三〇)まつさき浜掘割工事の成功後、出雲国方面から来越した若槻氏三家、会津方面から来越した小島氏二家といわれ、松崎一二人衆と称される。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]津久見市入船東町いりふねひがしまち入船西町いりふねにしまち・セメントまち元町もとまち新町しんまち下青江しもあおえ 松崎町・新町・元町・入船町いりふねちよう

志手して村の東、青江川の最下流右岸に位置し、南東は警固屋けごや村。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち松崎組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ、高四〇石余(田方三六石余・畑方三石余)、村位は中。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]詫間町松崎

荘内しようない半島の基部、詫間村の東にある。北は海に面し、南と西は高瀬たかせ川、東に竜王りゆうおう山を望む。文和二年(一三五三)三月五日の源泰忠譲状(秋山家文書)に高瀬郷「しんはまのしおはま」の北境として「まつさき」とある。寛永国絵図に「大見松崎」とみえ、大見おおみ郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では大見村一千四三九石余のうち。同一八年の小物成は綿一〇〇匁・塩八六俵(山崎領小物成帳)


松崎村
まつさきむら

[現在地名]大内町松崎

落合おちあい村の南にあり、石土いしつち山北の丘陵地と山裾の平地部からなる。みなみ川が東流して番屋ばんや川に注ぐ。寛永国絵図では入野にゆうのや郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳による高一八三石余。寛政三年(一七九一)には田方一三〇石余・畑方二五石余(大山文書)。寛永一九年の小物成は綿三五六匁五分(高松領小物成帳)。年貢は三本松さんぼんまつ御蔵に納めた。灌漑は主として溜池により、池泉合符録によると池数は新池・上池など九。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]熊本市清水しみず町松崎・室園むろぞの町・清水本しみずほん

東は万石まんごく村、西は南流する坪井つぼい川を挟み高平下たかひらしも村・打越うちごし村、南は室園村に接する。応永六年(一三九九)四月五日の鹿子木東荘坪付(詫摩文書)に「一所五町 大まつさき」「一所五町 こまつさき」とある。

慶長一三年(一六〇八)の検地帳では、田方九町余・畠方一四町余、分米二〇二石四斗余、竈数九・家数二一、男一八・女一〇、牛五、桑三と茶床若干を記載する。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では、坪井源右衛門尉手永に属し、当竿前は一八町余、うち田七町余・畠一一町余・山畑六反余で、そのほかに野開三反余をみる。その後五町手永に属し、「国誌」に「下村ト云小村アリ」とし「旧ハ今ノ村ヨリ北ニアリシカ、作掛悪シキ故ニ今ノ所ニ移ス」とある。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]東区水谷みずたに一―三丁目・舞松原まいまつばら二―五丁目・松崎一―四丁目・名島なじま四―五丁目・多々良たたら二丁目・松島まつしま一―六丁目・若宮わかみや三―五丁目など

表粕屋おもてかすや郡に所属。「地理全誌」によると古くは「真洲崎」と書き、のち松崎と書くようになるが地元では「マスサキ」と読むとする。多々良川河口部北岸に位置し、西は名島なじま村。唐津街道の東側に人家が広がる。村内に今屋敷いまやしき村があった(続風土記)。慶長石高帳に松崎村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高五三四石余。


松崎村
まつさきむら

[現在地名]田主丸町中尾なかお

猪口いのくち村の南に屋敷地がある。中世は竹野西たかのさい郷のうち。徳治三年(一三〇八)一月一六日に沙弥道盛(守部氏)が娘の今鬼御前に譲った屋敷のなかに「竹野新御庄西郷内明暹地頭屋敷内松崎西薗北依壱所」の注記がある(「守部道盛譲状」近藤文書/鎌倉遺文三〇)。応永三年(一三九六)四月二五日の筑後国竹野西郷内枝松名坪付(早稲田大学蔵後藤文書/早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書下)に「一 松崎名畠地五反 屋敷一所此内荒野アリ」とある。江戸時代の本高は六九石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高九〇石・役高一〇〇石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦二石余・小麦一石余・菜種三斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)


松崎村
まつざきむら

[現在地名]平賀町松崎

ひら川と六羽ろつぱ川の形成する氾濫原上にあり、北の館山たてやま村、西北平川寄りの松館まつだて村とほぼ一体となる。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡の新田に高一〇〇・七五石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に村高八九・一八七石、うち田方七町四反二畝二七歩、八一・九九四石、畑方一町一反七畝二九歩、七・一九三石とあり、ほかに漆木八本、稲荷社地があり、屋敷持百姓七名。元禄三年(一六九〇)には大光寺組に属し、村位は中(平山日記)。文政九年(一八二六)の「小和森村今井仁兵衛記」では高や面積はまったく変わらず、百姓は三軒に減り、他は高無に没落している。


松崎村
まつがさきむら

[現在地名]秋田市下北手松崎しもきたてまつさき

さくら村の北、太平たいへい川左岸の平地に開け、対岸は広面ひろおもて村。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「松ケ崎村」とあり、太閤蔵入地。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に松ヶ崎新田村一五六石とあるが、享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とあり、それ以前からの村と思われる。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]吉見町松崎

上砂かみずな村の南に位置する。西は山野下やまのした村で、吉見丘陵が迫る。集落は旧荒川筋の自然堤防上に発達。本村から南東方に三〇町ばかり離れて、今泉いまいずみ村の近辺に持添の新田があった(風土記稿)。田園簿では田高九六石余・畑高一五九石余、幕府領、日損場との注記がある。その後新田開発が進められたとみられ、元禄郷帳では高四一四石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本奥津(興津)領の相給。以後、この相給のまま幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。「風土記稿」などによると相給の時代、幕府領であったのは持添新田分で、本田は元文五年(一七四〇)から興津領であったという。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]八代市松崎町・高島たかしま

松江まつえ村の西に立地し、北は高子原こうごばら村に接する近世の干拓村。元禄国絵図に「松崎村 無高」とみえる。「国誌」は三六町余、明暦―万治(一六五五―六一)の間に長岡佐渡興長が築造し松求摩まつくま(現八代郡坂本村)のうち松崎村の民を移したと伝える。高田手永に属し、「肥集録」に「松江沖帯刀殿開」と記す。文化一三年(一八一六)当村と上・下高子原しもこうごばら村とで高島新地一八七町余を築造している(八代郡誌)


松崎村
まつざきむら

[現在地名]市原市松崎

磯谷いそがや村の南に位置する。応永二一年(一四一四)三月五日の大炊助持朝書状(鹿島文書)に「いちはらの郷内松さき」とみえ、「こいつミ入道」が知行していた当地の半分などが持朝から宍戸一木入道に与えられている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七六石。正保国絵図でも同高で幕末まで変わらない。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五三で、旗本林領。文政八年(一八二五)同氏が大名となったことに伴い貝淵藩(のち請西藩)領となり、幕末に至る。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]岡山市西大寺松崎さいだいじまつざき富士見町ふじみちよう一丁目

広谷ひろたに村の西、芥子けしご山の南麓にあり、南は松崎新田村。「太平記」巻一四(児島三郎熊山挙旗事付船坂合戦事)などに散見する児島高徳の甥松崎範家は当地の出身と伝える(「吉備温故秘録」など)。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)東可知ひがしかち郷に村名があり、寛永備前国絵図では高四五二石余、正保郷帳には水損所と注記がある。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]上下町松崎

矢多田やただ川下流域にある谷間の村で、昭和三二年(一九五七)以前は世羅郡に属した。東から北は矢多田村、西北は矢野やの村、南は世羅郡小谷おたに伊尾いお(現甲山町)の両村で、甲奴郡に入込んでいた村であった。広島藩領。村の様子を「芸藩通志」は広さ二〇町余・長さ三三町余で、「東西は山連り、一川、村中を通じて南に出、谷川数流これに会す」と記す。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]井波町山斐やまひ

井波町の北、坪野つぼの村の北東に位置。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四一石・免四ツ七歩、小物成は野役二〇目(三箇国高物成帳)。所属組は北川きたがわ村に同じ。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)によれば、天明六年(一七八六)から天保九年までの手上高一五石余があり高五六石余。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]印西市松崎

結縁寺けつえんじ村の南に位置。「寛文朱印留」に村名がみえ、下野皆川藩領。延宝四年(一六七六)惣深そうふけ新田から割渡された畑地分は松崎新田となった。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三一〇石余、旗本松平領。その後佐倉藩領となり、寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚では先崎村と誤記され、高四二八石余・新田改出高五石余、夫役永一貫二八四文余・百姓山銭永一貫二五〇文・萱代永二貫文。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]小松市松崎町

柴山しばやま潟北方に位置し、南は村松むらまつ村、北と西は日末ひずえ村。正保郷帳では高一九石余、田方四反・畑方七反余、ほかに新田高五三石余。初め加賀藩領、万治三年(一六六〇)より大聖寺藩領。「江沼志稿」では高一〇五石余、小物成は野役一四匁・鍬米二斗六升。


松崎村
まつざきむら

[現在地名]小国町松崎

南流するあら川を挟み、今市いまいち村の東方対岸に位置する。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録に「よこ在家、まつさき」とみえ、守屋監物に与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高四二石余、免二ツ、家数二(うち役家一)・人数一七。蒲生氏高目録帳では村柄は下。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松崎村の言及

【遠野[市]】より

…岩手県中南部,北上高地中央の遠野盆地にある市。人口2万8172(1995)。1954年遠野町と綾織,小友(おとも),附馬牛(つきもうし),松崎,土淵,青笹,上郷の7村が合体,市制。遠野三山と呼ばれる早池峰(はやちね)山(1914m),六角牛(ろつこうし)山(1294m),石上山(1038m)に囲まれた遠野盆地の西端,西流する猿ヶ石川の河谷に中心市街の遠野がある。近世は八戸南部藩の城下町で,また内陸部と沿岸部の結節点にあたる交易の町,宿場町として繁栄した。…

※「松崎村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android