デジタル大辞泉 「社会民主党」の意味・読み・例文・類語
しゃかいみんしゅ‐とう〔シヤクワイミンシユタウ〕【社会民主党】
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略称SPD(エスペーデー)。1863年にF・ラッサールの指導のもとに結成された「全ドイツ労働者協会」と、1869年にA・ベーベル、W・リープクネヒトらによって設立された「社会民主労働者党」とが1875年にゴータ大会で合同して誕生した社会主義政党で(最初の党名は「ドイツ社会主義労働者党」、1890年「ドイツ社会民主党」と改称)、現存するドイツの政党のなかでは最古の歴史をもつ政党である。
同党の歴史は、ドイツ近・現代史の展開にあわせて、第二帝制期、ワイマール共和制期、ナチス第三帝国期、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)期、およびドイツ統一以後の五つの時期に分けて考察するのがよい。
まず、第二帝制期、同党は、ゴータ大会以降、その発展が軌道にのりかけた時点で社会主義者鎮圧法(1878~90)による弾圧に直面しなければならなかった。しかし、この試練によく耐え、首相ビスマルクの退陣(1890)により弾圧が終わると、帝国議会での議席を、1890年の35議席(得票率19.7%)から第一次世界大戦前の最後の選挙(1912)での110議席(第一党、得票率は34.8%、党員数は1914年に108万6000人)へと躍進させる発展を示し、国際社会主義運動(第二インターナショナル)においても指導的な地位を占めるに至った。
だが、このような発展は、同党に独特の性格を与えることとなった。というのは、体制による厳しい弾圧は、革命路線を唱えるマルクス派の党内での勝利をもたらし、1891年には折衷(せっちゅう)的なゴータ綱領にかえて、マルクス主義の論理で貫かれたエルフルト綱領が採択されたが、1890年代に入ってからの躍進の結果、党内ではこれとは反対に体制内改革への志向性が大きく高まったからである。この革命理論と改良主義的実践の間の矛盾は、亡命先のイギリスでマルクス主義の全面的修正の必要性を確信するようになったE・ベルンシュタインによる「修正主義」の提起をきっかけに激しい党内論争へと発展する。論争自体は、1903年に「修正主義」の敗北という形でいちおうの決着をみるが、理論と実践との乖離(かいり)、左派と右派との対立という状況はその後もなくならず、同党の単一社会主義政党としての一体性は、論争に勝利したカウツキーらマルクス主義中央派の、社会主義革命を必然とみなしつつも将来の問題として扱うという、多分に二面的な理論によってかろうじて維持された。また同党は、このような直接的な政治活動の一方で、スポーツその他の余暇組織、労働者教育機関や協同組合などさまざまな大衆組織の網の目を党の周囲につくりあげ、「国家のなかの国家」の様相を呈する民主的統合政党へと変貌(へんぼう)しつつ、第一次世界大戦直前にはその発展のいちおうの限界(得票率「3分の1の壁」)に到達していた。
第一次世界大戦とその敗戦の結果としてのワイマール共和制への移行は、同党に内在する矛盾を全面的に表面化させた。第一次世界大戦開戦時の同党の、反戦運動から「城内平和」政策への180度転換は、第二インターナショナルの崩壊をもたらしたばかりか、やがて、敗戦による共和制成立の局面(ドイツ革命)を迎えるなかで、同党を、多数派社会民主党(社会愛国主義者)、独立社会民主党(社会平和主義者)、共産党(社会革命主義者)の三つに分解させ、新しい民主的な秩序形成の担い手となることを不可能にした。その後、ワイマール共和制の定着のなかで、独立社会民主党は消滅し、ドイツの社会主義運動は、社会民主党(社会主義インターナショナル加盟)と共産党(コミンテルン加盟)の二大勢力対抗の局面に移行したが、この両者間の対立は深刻で、1933年のヒトラー内閣成立の前夜においても両者の間には協力関係が成立しえなかった。
ワイマール共和制期の社会民主党は、ナチスの台頭が本格化する1932年7月選挙まで一貫して第一党であり、初代大統領エーベルトを出したほか、同共和国の19の内閣中(その初期を中心に)四つの内閣に首相を送った。しかしその党勢は、国会選挙での得票率が共和国成立時の37.9%(1919)を例外として終始20%台にとどまったことに示されているように、もはや第一次世界大戦直前の単一社会主義政党期の頂点を越えることはなかった。また同党は、理論的にはR・ヒルファーディングらを中心に、1925年のハイデルベルク綱領で、一方では「経済民主主義」の重要性を提起しながらも、他方ではエルフルト綱領以来の、資本主義崩壊の「自然必然性」を強調する立場を再確認した。こうした対応は、同党が、安定期には、労働組合運動との提携によって社会保障の確立に向けて一定の成果をあげることを妨げはしなかったが、1929年以降の世界恐慌の襲来と大量失業の発生という事態は、同党の危機局面における政策能力の欠如を露呈させ、労働組合指導部との間に疎隔を生むことにもなった。恐慌襲来時には、同党は首相H・ミュラーを中心に政権の座にあったが、失業保険問題を原因とする同内閣の崩壊(1930年3月)ののちは、政局収拾のイニシアティブを失って、以後ヒトラー内閣成立までなすすべを知らなかった。
ナチ支配期の社会民主党は非合法化され、指導部は一時プラハに移り、立て直しの機会を待ったが、反ナチ戦線の統一のイニシアティブをとることも、党内諸分派をまとめることもできないままに、第二次世界大戦の敗北による「第三帝国」の崩壊を迎えた。
第二次世界大戦後も社会民主党の不運はしばらく続く。ソ連占領地区では、同党は共産党に合体・吸収された(1946年4月)。西ドイツでは、1946年5月のハノーバー大会でK・シューマッハーを党首として正式に再出発し、やがてドイツの中立化と軍縮によるドイツ統一を主張することになるが、1949年の初の総選挙で同党は得票率29.2%にとどまり、僅差(きんさ)で勝利を得たキリスト教民主同盟/社会同盟がアデナウアー政権を発足させ、これが1950年代の「経済の奇跡」を背景に政権基盤を固めていった。
こうしたなかで社会民主党は、大胆な政策転換により万年野党からの脱却を図ることになる。まず1959年、バート・ゴーデスベルク綱領を採択し、マルクス主義を基盤とする従来の立場からの決別を宣言した。経済政策に関しては、「可能な限りでの競争と必要な限りでの計画化」を謳(うた)い、従来の「社会化」政策を重視する立場を放棄するとともに、自らを労働者階級だけでなく、すべての人に開かれた「国民政党」であると位置づけた。次いで1960年には、中立政策を放棄し、北大西洋条約機構(NATO(ナトー))を外交・安全保障政策の基礎として承認する立場を明確にした。こうした転換の結果、同党の支持基盤は伝統的な労働者層の枠を越えて、ホワイトカラー、カトリック、農村にも広がり、1961年選挙において、前述の「3分の1の壁」を初めて越えることに成功した。
このような躍進を背景に同党は、1966年、保守中道政権の崩壊を受けて、民主・社会同盟との大連立政権を樹立、戦後初めての政権入りを果たす。これにより政権担当能力を証明した同党は、1969年選挙では初めて40%超の得票を記録し、第二党でありながら自由民主党との連立により、戦後初めて社会民主党首班の政権(ブラント内閣)を成立させた。その後、同政権は、東西両ドイツ国家併存の現実を認めた緊張緩和政策(東方政策、1972)と――その後のシュミット政権による――共同決定制度の確立(1976)などによって政権の基盤を固めた。しかし1980年代に入って新たな東西対立のなかで東西の仲介者としての重荷を背負うとともに、国内経済の行き詰まりに直面、1982年10月、連立は崩壊して政権の座を去った。また、シュミット政権の現実主義的な外交政策や経済政策は、中道左派陣営内部でこれに反発する勢力の結集を促し、緑の党が誕生した。これにより社会民主党が中道左派陣営を独占できる体制も崩れることとなった。
その後、同党は長期にわたる混迷に陥る。1980年代末にはコール保守派政権には陰りがみえていたが、「ベルリンの壁」崩壊(1989)によってドイツ統一問題が急浮上し、これを精力的に実現へと導いたコール首相率いる民主・社会同盟に対し、社会民主党は、首相候補のO・ラフォンテーヌ(1943― )が統一に消極的な態度を示したこともあって、統一後初の選挙(1990)で惨敗を喫し、その後も指導部の混乱や党内対立が繰り返された。
このように党内対立が収まらない同党であったが、保守派長期政権に不満が高まるなか、左派のラフォンテーヌ党首と右派のG・シュレーダーが手を結び、シュレーダーを首相候補として臨んだ1998年選挙で同党は大勝、「90年連合・緑の党」との連立により、16年ぶりに政権復帰を果たした。その後、ラフォンテーヌは首相のシュレーダーと衝突し、党首を辞任、シュレーダーが党首に就任した。シュレーダー政権は、脱原発政策や国籍法の改正などで成果を上げたものの、政権の中心課題である失業問題と福祉国家改革では芳しい成果を出せず、政権2期目に入って社会保障制度の抜本的見直しに着手せざるをえなくなったが、これは多くの党員や支持者の反発、離反を招いた。とりわけ同党にとって打撃であったのは、改革に反発した離党組がラフォンテーヌを迎えて新党を作り、東ドイツ旧共産党の系譜を引く民主社会主義党と合同したことであった(左翼党)。その結果、2005年選挙で社会民主党は敗北、野党への転落こそ、民主・社会同盟のメルケルを首班とする大連立政権に加わることによって免れたが、その後も党勢の退潮は止まらず、2009年選挙では戦後最低の23.0%の得票率という大敗を喫し、11年間続いた与党生活に終止符を打った。党員数もこの11年間に30万人以上も減っており、2009年11月現在で51万3000人となっている。
[山口 定・野田昌吾]
『F・メーリング著、足利末男他訳『ドイツ社会民主主義史』上下(1968、1969・ミネルヴァ書房)』▽『安世舟著『ドイツ社会民主党史序説』(1973・御茶の水書房)』▽『E・マティアス著、安世舟・山田徹訳『なぜヒトラーを阻止できなかったか――社会民主党の行動とイデオロギー』(1984・岩波書店)』▽『中木康夫・河合秀和・山口定著『現代西ヨーロッパ政治史』(1990・有斐閣)』▽『P・レッシェ、F・ヴァルター著、岡田浩平訳『ドイツ社会民主党の戦後史――国民政党の実践と課題』(1996・三元社)』▽『仲井斌著『西ドイツの社会民主主義』(岩波新書)』
イギリスの政党。略称SDP(社民党)。1980年代のサッチャー政権下での労働党が、「EC(ヨーロッパ共同体)脱退」、「一方的核廃棄」、「産業国有化」などを党大会で決議して左傾化していき、右派の社民派は党内で圧迫されていた。そうした状況から、二大政党制にかわる政党政治を目ざして、1980年3月ロンドンで結成。元蔵相で1977年から1981年までEC委員長を務めた労働党の著名な大物政治家ロイ・ジェンキンズ、元文相のシャーリー・ウィリアムズShirley Williams(1930―2021)、元外相のデビッド・オーエンDavid Owen(1938― )を含む21名の下院・上院議員が、労働党を離脱して結集した新党であった。その政治的立場は、(1)特定の階級に依拠しない社会自由主義、(2)社会市場経済寄りの経済自由主義、(3)比例代表制への選挙制度改革、というものであり、自由党に近いものであった。単純多数代表制の小選挙区制をとるイギリスの選挙制度の下では、政策面がいかに優れていても第三党や第四党が生き残ることは容易でない。そこで社民党は、結党後まもない1981年9月に自由党との連合を結成した。1982年7月にジェンキンズ下院議員を党首に選出したとき、社民党は下院議員29名、党員6万2000名余りを擁していた。自由党との連合政党が挑んだ1983年総選挙では、得票率を25.4%まで伸ばしたものの議席数は23と解散前の42から激減した。同年党首はD・オーエンに交代し、次の1987年総選挙では得票率22.6%、議席数22とさらに伸び悩み、後にSDPはわずか5議席の党に低落した。こうしたなかで、自由党との連合から一つの党への合併が目ざされ、1988年3月社会自由民主党(Social Liberal Democrats、略称SLD)が結成された。党首にはパディ・アシュダウンPaddy Ashdown(1941―2018)が就任。SLDはその翌年、党名を全党員による郵便投票で自由民主党(Liberal Democrats、略称LD)に改めた。アシュダウン党首の下で党勢は着実に伸びて、1997年には党員数10万、地方議員数では労働党につぐ第二党の地位を占め、同年の総選挙では得票率16.8%、46議席と大きく伸ばした。アシュダウン党首は1999年夏に辞任し、1983年に議院入りしたSDP出身の下院議員ケネディCharles Kennedy(1959―2015)が党首に選ばれ就任した。
元SDP党首のジェンキンズやS・ウィリアムズは、LDに所属する上院議員になった。ジェンキンズはブレア首相の信望も厚く、1998年には下院議員の選挙制度改革案を作成し、首相に答申した。合同に反対して消えゆく命運をたどるSDPを率いたオーエンは、その消滅後保守党の上院議員になった。
世界中の社会民主主義を掲げる政党のなかでもっとも代表的な党は、1875年に結成されたドイツ社会民主党(SPD)である。この党は100年を超える歴史をもち、さまざまな試練に耐えて鍛えられた確たる組織をもつ統治政党となって久しい。これに比してイギリス社会民主党の存在は7年余りにすぎなかったが、自由民主党となって生き残り、さらに発展して統治政党に近づくものとみられる。
[犬童一男]
『Ivor Crewe, Anthony KingSDP ; The Birth, Life and Death of the Social Democratic Party(1997, Oxford University Press)』
1996年(平成8)1月に、日本社会党が改称して生まれた政党。略称社民党。社会主義インターナショナルへの日本からの加盟党。初代党首は村山富市(とみいち)。東西冷戦・五五年体制下の日本社会党は、党内にソ連・中国型社会主義を志向する左派と西欧型社会民主主義を唱える右派が共存・抗争しつつ、自由民主党に対抗する最大野党であった。冷戦終結後、自民党・新党さきがけと連立した村山内閣のもとで自衛隊容認など基本政策を大きく転換し、村山首相退陣直後の1996年1月19日に社会民主党と改称した。しかし議員・党員の多くは民主党・新社会党などに離脱、1996年10月衆議院選挙で大敗して土井たか子が第2代党首になり、第二次橋本龍太郎自民党政権への閣外協力を行った。1998年5月に政治腐敗防止法案をめぐり与党を離脱。4年にわたる「自・社・さ」連立は解消された。2003年11月総選挙で大敗し、土井たか子は党首を引責辞任、幹事長であった弁護士の福島瑞穂(みずほ)(1955― )が第3代党首に就任した。その後も党勢は伸びず少数派護憲政党として存続するが、2009年8月総選挙で自民党が大敗し民主党政権ができた際、参議院で過半数を占めたい民主党の思惑で、国民新党とともに連立政権に加わり、福島党首は特命担当大臣(消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当)として入閣した。しかし2010年5月、米軍普天間(ふてんま)基地移設をめぐる民主党との対立で、連立政権から離脱した。
[加藤哲郎]
日本最初の社会主義政党。1901年(明治34)5月18日に片山潜(せん)、安部磯雄(いそお)、木下尚江(なおえ)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、河上清(きよし)、西川光二郎(みつじろう)が結成。「純然たる社会主義と民主主義に依(よ)り、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめん」ことを宣言し、8項目の理想として、人類同胞主義、軍備廃止、階級制度打破、生産機関の公有、交通機関の公有、分配の公平、政権の平等、自由教育を掲げた。また貴族院・治安警察法の廃止、普通選挙の採用、集会・言論・結社の自由など、28項目の綱領も定めた。ドイツ社会民主党の綱領を参考にしているが、ブルジョア民主主義の要求を強く打ち出している。主唱者6名のうち5名までがキリスト教徒であり、その観点もうかがえる。従来、社会民主党は即日禁止されたといわれてきたが、禁止を受けたのは5月20日で、2日間存続している。なお結社禁止と同時に、社会民主党宣言書を掲載した諸新聞も発売禁止となった。
[成田龍一]
『太田雅夫著『明治社会主義政党史』(1971・ミネルヴァ書房)』
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社会民主党は明治期と昭和戦後期の二つある。(1)日本最初の社会主義政党。社会主義の原理を〈日本に応用すること〉を目的として1900年につくられた社会主義協会のメンバーを中心として結党された。01年5月18日結党届け出,20日宣言書を発表,同日禁止された。宣言書を掲載した《東京横浜毎日新聞》《労働世界》《万朝報》なども発禁となった。発起人は,安部磯雄,片山潜,河上清,木下尚江,幸徳秋水,西川光二郎の6人で,幸徳を除きすべてキリスト者である。結党の背景には,労働組合期成会(1897結成)を中心とした労働組合運動が1900年治安警察法制定により衰退,期成会中心メンバーの一人の片山らが政治運動によって局面を打開しようとしたことがある。安部の起草した宣言書は,個人競争主義と貧富の差を否定し,社会主義,平和主義と民主主義を主張,理想綱領に,軍備・階級制度の全廃,土地資本の公有など8ヵ条を掲げ,行動綱領に,鉄道・電気・ガスの公有,義務教育無償,児童労働禁止,少年・婦女の夜業廃止,労働組合法・普通選挙法実施,治安警察法の撤廃など28ヵ条を掲げた。綱領中の軍備撤廃,貴族院廃止,人民の直接投票制度の3項目を削除すれば結社許可の可能性があるという話があったが,同党は〈卑怯の行為〉としてそれを拒絶した。社会主義よりも民主主義の要求が禁止の理由とされたのである。翌6月社会平民党と改名して届け出たがこれも禁止され,同党メンバーは社会主義協会を復活して再び社会主義啓蒙活動に入っていった。
(2)1951年2月平野力三を委員長として結成された社会民主主義政党。1948年3月片山哲内閣の農相を罷免された平野は日本社会党を脱党した全農議員団を中心に社会革新党を結成した。しかし,平野は公職追放され,党勢はふるわなかった。50年10月追放解除になった平野を迎えて,党と全農の強化を図るべく,社会民主党を結成した。民族自立の精神を綱領とし,憲法改正,生活協同組合の育成,農民大衆の組織化などを政策とした。書記長佐竹晴記。議員4名(衆議院)。52年7月農民協同党と協同党を結成する。
執筆者:梅田 俊英
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「ドイツ社会民主党」のページをご覧ください。
「フィンランド社会民主党」のページをご覧ください。
「ポルトガル社会民主党」のページをご覧ください。
「民主左翼連合[ポーランド]」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1日本初の社会主義政党。社会主義協会の中心メンバーであった安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・西川光二郎・木下尚江(なおえ)・河上清が1901年(明治34)5月に結社届を提出。人類平等,軍備全廃,階級制度廃止,土地・資本の公有などの「理想綱領」8カ条と,貴族院廃止,普通選挙実施,治安警察法廃止,労働組合法制定と団結権保障などの「行動綱領」28カ条を掲げた。基本的な行動方針としては暴力的手段を排除し,普通選挙の実現を通じて議会に代表を送りこみ,合法的に目標の達成をはかろうとした。そこに明治期の社会主義の特質がよく表れている。結党の2日後に結社禁止を命じられた。
2昭和戦後期の政党。党首平野力三(りきぞう)の公職追放で党勢が振わなかった社会革新党が,平野の追放解除をきっかけに,1951年(昭和26)2月に結成。委員長平野,書記長佐竹晴記。第2次大戦前からの農民組織を基盤に衆議院に4人を擁したのみで,52年7月に農民協同党の一部と合同し,協同党を結成。
31996年(平成8)1月,日本社会党が党名・党則を変更して成立した政党。同年9月,委員長は村山富市から土井たか子に,03年に福島瑞穂に,13年に吉田忠智に交代。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
(渡邊啓貴 駐仏日本大使館公使 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…両党に不満足な有権者は,長年低迷していた自由党支持に向かうか,スコットランドやウェールズの地域独自性を主張する政党に流れた。81年には労働党穏健派の一部が分離して社会民主党SDPが結成されるなど,政界再編の動きも目立つようになり,その主要な流れが集まって自由民主党になった。97年選挙では保守・労働両党の得票合計は75%程度になり,小選挙区制を含めて,伝統的な二大政党政治が民意を十分には吸収できなくなっているという批判も根強いが,保守・労働両党ともに比例代表制には消極的である。…
…その間一貫して労働党の現代的再生のために尽力したが,次の総選挙での勝利を目前にしながら,63年1月急逝した。81年3月に労働党から分離した社会民主党には,ゲーツケルの考え方を継承する者が多い。【萩原 延寿】。…
…もともとは道の中央あるいは中庸公正な道の意であるが,政治用語としては,一般的に左右の政治勢力の中間に位置する政治的立場を指す。このような立場を標榜する政党が〈中道政党〉であり,この種の政党の典型としてあげられるのが,西ドイツのキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)とドイツ社会民主党(SPD)の中間に立ち,1949‐66年にはCDU/CSUとの,69年以降はSPDとの〈小連立〉に参加してきた自由民主党(FDP)や,社会主義なしの社会改革を主張し,政治的スペクトル上で保守党と労働党の中間点を占めるイギリス自由党,さらに労働党よりは穏健で保守党ほど保守的でない立場を唱えて労働党からの離脱者を中心に81年3月に結成されたイギリス社会民主党などである。日本で中道勢力をめぐる論議が盛んになってきたのは,1970年代後半以来の1955年体制崩壊期においてで,〈55年体制〉下の保守・革新の二分法的政治勢力配置状況のなかで,その中間に立つ第三勢力として台頭してきた諸政党が中道勢力と呼ばれてきたが,とくに公明,民社,社会民主連合のみを指して〈中道3党〉という場合と,これに新自由クラブを加えて〈中道4党〉という場合がある(新自由クラブは1986年解党)。…
… 労働党を特徴づけるマルクス主義とフェビアニズムとの歴史的妥協は,党の野党化とともにその矛盾が顕在化した。1980年キャラハンが辞意を表明し,後任党首に左派のマイケルフットMichael Foot(1913‐ )が選出され,活動的左派が党支部を掌握し,81年,これに反発する右派が脱党して社会民主党Social Democratic Partyを創設した。労働党は社会主義への有効な移行の理論を欠くイデオロギーの党へと傾斜し,83年総選挙で一方的核軍縮の断行,ヨーロッパ共同体からの脱退などの政策を掲げて敗れた。…
…98年安部磯雄らと社会主義研究会(1900年社会主義協会となる)を組織する。1901年日本最初の社会主義政党,社会民主党を結成するが即日禁止となる。04年第二インターナショナル(アムステルダム大会)に日本代表として出席し,交戦国代表ロシアのプレハーノフとともに反戦アピールを世界に向けて行う。…
… 治安警察法は1900年6月に公布された行政執行法とともに早速その威力を発揮し,11月の鉄工組合争議の弾圧を手始めとして労働組合運動抑圧の武器となった。さらに社会主義研究会から社会主義協会の結成へと進んだ社会主義運動が01年5月,日本最初の社会主義政党である社会民主党を創立するや,警視庁は8条によって即日解散を命じ,以降社会主義政党抑圧の武器ともなった。25年治安維持法が制定されるとその役割を譲ったが,45年11月ポツダム勅令第63号によって廃止されるまで存続した。…
※「社会民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」