社会学的にとらえると,医者とは医療に関して高度の知識や技術を保持しており,感情的に安定し,緊急事態においても動揺せず,さらにみずからの知識や技術を病人の救助という社会的な善に向けるという役割期待にこたえているものをいう(T.パーソンズ)。したがって現代社会では,高度の知識・技術の保持者であることを示すために,(1)高等教育を受けていること,しかも他の多くの職能者より長年月学習し,(2)その教育訓練の内容も近代社会でもっとも信頼され,また感情的な安定を保持するため,客観性を手段とした知識であると一般に認められている科学を基本にして行われているうえに,(3)医師法などに基づき独占的に医療を行うことを国の免許によって法的にも保証された職能者である。このようにして医者は病気の統御者としての役割を期待されているが,病気と病人とは不可分に結びついており,さらに病人は一般に医者に感情的に依存しようという傾向のあるところから,その役割を権威的に演ずることが多い。知識のうえで権威者であり,道徳的にも高く,意識的・無意識的の別はあれ,カリスマ的な演出を行う。患者に不安を与えないことを理由にして行う情報操作,顧客である患者から〈先生〉〈ドクター〉と敬称をつけて呼ばれることを暗に求めること,そして,これは日本に特有なことであるが,診療室で(診療の便宜のためという理由もあるが)患者には粗末な1本脚の丸いすを与えながら,みずからは背もたれ,ひじのせつきのりっぱないすに座ること,また医療内容への外部からの干渉を極端に嫌い,独立した自由業としての業務形式を好むことなどは,このような役割の解釈に沿ったものである。また近代社会では,とくに知識・技術がより高度であることを示すために,一般的な医者としての資格免許のほかに専門医という称号を制度化させている国が多い。これは,医療のある分野またはある範囲の技術を限るよう特殊化された医者であり,歴史的には,医師養成施設で教育内容を分担することによって,より高い内容を教授するため,あるいは,社会事業の一端として行われた生活困難者の救済のために設けられた収容施設の管理を効率化するために,視力障害者,聴力障害者,肢体不自由者,精神障害者,小児,妊産婦,老人などを,それぞれ分けて収容したが,そこに医者が医療についての管理を委託されて関係をもったところから始まっている。任務上,それぞれの分野や範囲での専門医の知識や技術は高まったが,それを市民,とくに都会の富裕階層の人々が高くかったことでしだいに制度化した。
第2次世界大戦後は,健康権が社会的に承認されたことによる医療需要の量的・質的な高度化と,他の科学技術の発展が,さらに細分化された専門化の傾向を助長した。このために医療は,個々の患者にとっても,また国の医療についても,全体的な展望を失い,医療は高度化されながら,患者の不満は高まり,医療費経済においても困難を生ずるようになったばかりでなく,医者たちの不安と不満を高めることになった。不安というのは,急激な医療需要の増大にこたえるために,医者の数を急速に増大させたことで競争の激化が予想されるようになったこと,保険医療や公費医療の増大によって医療が社会化され,独立した自由業としての性格が希薄になりつつあることなどであるが,とくに医療費の社会化が進行すると,医療を受けることが特別の心構えを要しなくなって日常化しただけでなく,権利ですらあることになる。そうなると,前述のような医者の役割の権威性もうすれ,むしろ援助者としてのサービスと考えられるようになる。診療についての意思決定も,かつてのように医者に全面的に委任するのでなく,患者に判断材料をすべて与えたうえで,患者自身が決定するという原則(自己決定)がしだいに基本的になりつつある。
このように患者や国民にとって,さらに医者自身にとっても不安と不満が高まるなかで,1970年ころから,新しい形の医療モデルと,そこで中心的な役割を果たす医者のモデルとが台頭しつつある。前者は包括医療とか地域保健,あるいはプライマリー・ヘルス・ケアprimary health careという言葉で呼ばれるが,地域を限定し,そのなかで,一貫性・総合性・継続性そして責任をもつ保健医療システムであり(地域医療),後者はプライマリー・フィジシャンprimary physicianと呼ばれる。これについては,まだ広く合意を得ている訳語はないが,プライマリーとは第一線,初期,第一級などの意味である。多くの国で,このような医者を育てる教育がすでに始まっている。国によって,教育内容や方法に多少の差があるが,従来のように,身体内部の知識や技術に限定するのでなく,患者の心理状態への理解と働きかけ,家庭や社会と個人の健康の関係などの把握にも大きな比重をおいている点については,おおむね共通している。
→医学 →医療
執筆者:中川 米造
西洋において,医者はひじょうに古くから存在し,すでにエジプト中王国時代(前20~前16世紀)のパピルス文書に,またバビロニアのハンムラピ法典(前1700ころ)の中に医者についての記述がある。しかし,呪術から解放された,その意味で現代にも通ずる医者の起源としては,前5世紀のギリシアにこれを求めるのが順当である。このころのギリシアには,一応の教育課程を持ち,規約ないし職業倫理を掲げる専門の医者集団が,コス島,クニドス,ロドス島,シチリアのシラクサ等に存在した。中でもヒッポクラテスを生んだコス島の医者集団は,すぐれて経験主義的な立場に立ち,合理的な診断を特色としたクニドス派に対し,コス派として知られた。今日に伝わる〈ヒッポクラテスの誓い〉は,当時におけるギリシア医師たちの高い倫理基準を示している。ついでローマ時代にはいると,小アジアにガレノスが現れて,ヒッポクラテス以来のギリシア医学を集大成し,アラビア文化圏を介して伝えられたこの知識がその後19世紀にいたるまでの西洋医学を大きく規定することになる(〈アラビア医学〉の項目を参照)。だが,ローマ時代を通じて,公医,軍医はいたとしても,社会的・国家的に医者の資格が定められたことはなく,その意味で古代ローマの社会には,十分な専門知識と技能を持つ医者から,医療疑似行為,さらには祈禱・占いをこととする偽医者にいたるまでの多種多様な医者が存在した。そしてこの状況は,西ローマ帝国滅亡後の中世ヨーロッパにそのまま受け継がれ,10~11世紀ころにいたるまでは,民間療法の医者,偽医者と並んで,教会の聖職者,修道僧たちが,いわば社会の正統な医業者として共存した。
10~11世紀ころから,医者の歴史には新しい時代が訪れる。まず11世紀にはいると,南イタリアのサレルノに医学校が開かれ,この学校から,聖職者とは別の専門の医者が生み出されるようになった。ついで12世紀以降近代の初期にかけて,ヨーロッパは,都市と大学の草創期をむかえ,イタリアのボローニャ,パドバ,フランスのモンペリエ,パリ,イギリスのオックスフォード,ケンブリッジ等にあいついで大学が誕生し,この高等教育機関を通じて,プロフェッション(専門職)としての医者が広範かつ恒常的に育成されるようになった。一方,これと平行して,社会的,国家的に医者の資格が定められ,資格医と無資格医がしだいに区別されるようになった。といっても,偽医者を含む無資格医の営業が必ずしも直ちに法律によって禁止されたわけではなく,たとえば経済最先進国のイギリスでは,営業自由の原則から,19世紀にいたるまで,資格医,無資格医の無制限の競合が継続した。
ところで,このように中世後期以降,大学の成立とともに生まれたヨーロッパ近代の医業制度が,内科,外科,薬剤の三つの医・薬業者からなる独特な分業体制に編成されていたことは注目に値する。というのも大学を出た教養ある医者physicianは,当時はもっぱら手の技とみなされた外科医術と薬の販売にもかかわった製薬・調剤の仕事とを蔑視して,これらには手を染めず,自分の仕事を,病人を診察して処方箋を書く内科医業に限定したからである。それゆえ,この事情に応じて各都市には,外科医術を専門とする職人のギルドが生まれたが,通常は理髪師が,理髪外科医(バーバー・サージャンbarber-surgeon)としてそれを兼業した。もっともパリにおけるように,理髪外科医のギルドの上に専門外科医のプロフェッション集団が形成される場合もあった。また製薬と調剤にも各都市に結成された商人のギルドが当たったが,彼らは同時に内科医の従属集団となり,薬剤師apothecaryの役割を演じた。こうしてでき上がった身分制的分業体制が最終的に崩壊するのは,国によって遅速はあるが,一般的には,ギルドが法律によって禁圧されるフランス革命以降のことに属し,外科学と薬学が内科学と並んで大学教育の中に吸収されるようになるのは,やっと19世紀になってからであった。
執筆者:村岡 健次
病気の原因が主として超自然的な魔力に帰せられていたベーダ時代では治療の中心は呪法であり,祭官が医者の役割を兼ねていた。病気や薬草に関する経験と知識が積み重ねられ《アーユル・ベーダĀyurveda》という体系へとまとめられていったとき,医者は祭官から独立した専門的職業になった。すでに前6世紀には二つの医学の中心地があった。北西部のタキシラには内科的治療を専門とするアートレーヤĀtreya学派が,東部のベナレス(ワーラーナシー)では外科的治療も取り入れたダンバンタリDhanvantari学派が活動していた。前者はとくに医者の倫理を重んじ,その綱要書《チャラカ・サンヒター》には,すぐれた医師を見分ける方法,学習指導の方法,患者に接すべき態度などをこまかく規定し,他の医者との議論を奨励し,論争法も述べている。医者になるための学問に入門を許されるのは原則として上位3カーストに限られていた。しかしダンバンタリ系の書物《スシュルタ・サンヒター》は条件付でシュードラの入門を認めている。バラモンを中心とするアーリヤ人社会では〈穢(けが)れ〉の観念のために外科的治療を行う医者の地位は内科専門の医者の地位よりも低かった。医者になるためには一定期間教育を受け,国王によって認可されなければならなかった。一般に医者は〈バイドヤvaidya〉と呼ばれ知識人の代表として尊敬されていたが,それだけにえせ医者も多く,古典医書にはえせ医者とほんとうの医者の見分け方が述べられている。
イギリス統治時代に近代西欧医学が導入され,伝統医の地位はおとしめられたが,独立以後政府は伝統医学の復興政策をとり,多くのアーユル・ベーダ大学や病院ができ,伝統医も西洋医と同じ資格で開業できるようになった。しかし伝統医も極端な純粋主義者から西洋医学との折衷主義者にいたるまで千差万別である。一般に伝統医は質素な個人医院で患者とじかに接した治療を行っている。
→インド医学
執筆者:矢野 道雄
中国の医療は官吏としての医者と民間の医者によって支えられてきた。医官は周の時代から存在し,長官である医師の下に食医,疾医,瘍医,獣医という専門医が置かれ,地方の各侯国にも太医令などの医官が置かれていたと伝えられている。これらの医官の勤務成績は年末ごとに査定を受けていた。漢代には官吏などを治療した太医令以下の医官と天子や皇族を治療した侍医があり,軍隊には軍医がいた。制度の整った唐代には,中央には天子や皇族の健康を管理した尚薬局と官吏を対象にした太医署が設置され,太医署には医,鍼,按摩,呪禁の4科があり,それぞれに博士,助教,師,工,生がいた。生は学生で《素問》(《黄帝内経》),《甲乙経》《脈経》などを読むことが義務づけられ,その課程を終了したのち試験を受け,合格者だけが採用されることになっていた。博士はそれぞれの部門の長官で助教とともに教育もつかさどり,診療は師と工が担当していた。《大唐六典》によると医博士は1名で,医師と医工の定員は20名と100名であった。このほかに地方の府や州にも医学博士以下の医官が置かれていた。このように医師は古代の中国では官職名であったが,その地位は時代によって異なっていた。国立の医療機関はそのほかの時代にも設置されていたが,その名称や規模,診療科目などは時代によって違い,国全体の医療のどの程度を分担していたかは不明で,かなりの部分は民間の医者が担当していたであろう。
民間の医者の養成は個人教育や世襲によっていたが,特別な資格は要求されなかった。後世まで名医として知られている人は,医官のなかでは王叔和や王惟一程度で,民間人のほうが多く,それらの人は華佗(かだ)や姚僧垣(ようそうえん),孫思邈(そんしばく)などのように貴人や官吏の治療にも当たった。しかし医官の最高位が各省の副長官の下程度であったように,医者の社会的地位は低く,とくに職業としての医療行為は低い評価しか受けなかった。このことは華佗が士人でありながら医を業としたことを悔いたという話や,姚僧垣の孫の姚思廉(557-637)が《陳書》を撰したときに,父の姚察が祖父が貴人を治療して得た報酬を学資にあてたことを恥じてそのことを伝記から除いたという話が示している。これに対して文人や政治家で医療に興味を持った人は多く,報酬を受けずに病人を治療するという行為は美談として史書に特筆されている。後世になると職業としての医療行為に対する評価はある程度改善されたが,大著《本草綱目》の撰者李時珍の伝記に不明の点が多いように,その社会的地位は高くなく,とくに明・清時代の鈴を鳴らしながら治療してまわったという鈴医などは賤民に近い扱いを受け,第2次大戦前でも薬店の雇人として生活していた医者もある。それらの医者のなかには教育程度が低く,せいぜい《湯頭歌訣》のような歌の形で薬の使用法を暗記しているにすぎない人も多かった。なお,周のような古代には巫医(ふい)というまじない師と区別のつかないような医者もあった。
→中国医学
執筆者:赤堀 昭
原始・古代の日本の医療は,シャマニズムに基づく経験医療であった。禊(みそぎ)や祓(はらい)などによって穢れを除き,駆魔法によって病根を断ち,安産を促すという,魔術的医療行為だったから,職業医の存在はうかがえない。シャーマンが医者の役割を担っていたのである。日本における本格的な医者の出現は,大陸との文化交流が活発化した5世紀ごろからである。新羅や高句麗の医師が渡来しだし,仏教伝来とともに,教義から医術を学んだ僧が医療行為を行うようになったからである。その後,大化改新を経て律令体制が整備されると,体系的な医学教育が行われ,専門医が養成されるようになった。しかし,一般の庶民医療に従事したのは,古代・中世を通じ,もっぱら僧医であって,このなかから開業医が生まれ,さらに戦国期にいたると実証主義をとなえる臨床医が出現した。やがて江戸中期からは,すぐれた蘭方医が輩出して幕末までに医療界の主流を形成し,明治維新後に近代医事制度ができる素地となった。
(1)仏教医学の全盛期 日本固有の原始的な経験医療が,仏教伝来にともない,しだいに体系づけられた仏教医学にとりこまれていく過程で,医を業とする者の身分も固定化された。608年(推古16)の遣隋使のなかには,恵日や福因のような医学生も混じっていた。彼らが帰国して隋・唐医学を伝えると,これが日本における医療制度確立の嚆矢(こうし)となった。大化改新にはじまる国家体制の整備にともない,医療制度も唐を模倣した〈医疾令〉にのっとって,中央に典薬寮や内薬司,地方に国学が設けられ,国家による医者の養成が行われるようになった。その結果,貴族が実権を握った奈良・平安期を通じ,官医の活躍がめざましくなる。その代表格が丹波康頼で,彼が984年(永観2)に著した隋・唐医学の集大成ともいうべき《医心方》は,古代から中世にかけて活躍した官医たちの基本的な医療教本とされた。
しかし,これらの官医は官人の診療をもっぱらとしていたから,一般の救療事業は僧医にゆだねられていた。754年(天平勝宝6)に渡来した唐の仏僧鑑真の救療活動や医学教育はその典型である。この傾向は武家が政権をとった鎌倉期以降,一段と顕著になった。良観房忍性が救癩活動を行い,《喫茶養生記》を著して飲茶の効用を説いた栄西は,当代の養生観を一変させ,武家出身の僧医梶原性全(浄観房)にいたっては,仏教的医療精神をもととしながらも,既成の隋・唐医学に宋医方を加え,実際的な独自の経験医方を確立した。
(2)実証医学の展開期 南北朝期以降になると,争乱を反映して,僧医や武士たちが実用本位の医療を行うようになった。僧医の壺隠庵有隣は疾病ごとにその原因,症候,診断,類症鑑別,予後を記した《福田方》を著し,生西は民間療法を結集した《五体身分集》を著してその普及をはかっている。治療に必要な技術だけを重視したもので,戦国期の金創医に大きな影響を与えた。武士を兼ねた金創医は創傷治療を主としていたが,助産や婦人病,さらに小児病などをも治療の範囲としていたから,必然的にこの分野の専門医を生み,実質的な医療の分化をうながした。
戦国期に広まった実地医療を体系づけたのは,田代三喜とその門人曲直瀬道三(まなせどうさん)である。三喜は明に留学して李朱医学を伝え,これをもとに気,血,痰の治療秘訣を明らかにして臨床医学の端緒を開いた。一方,道三は在来の観念論的医療を否定し,独自の〈道三流〉医術を大成した。仏教色を一掃して医術の根本理念を儒学の慈仁に求め,察証弁治の治療心得を強調した。神,聖,功,巧の四知(望,聞,問,切の四診)を励行して病因を察したばかりか,急性と慢性疾病の区別を明確にし,年齢や性別,生活環境のちがいに応じて臨機応変に合理的治療を行った。その医術は《啓迪(けいてき)集》に集約されている。しかも,学舎啓迪院を基盤に医学教育を行い,豊臣政権下で施薬院を復活した全宗や江戸幕府の奥医師制度を企画した曲直瀬玄朔ら後継者を育成した。
戦国・織豊期に実地医療を行った医者として,日本にはじめて《傷寒論》を伝えた坂浄運や,庶民の治療に実をあげた永田徳本,さらにイエズス会の医師L.deアルメイダらも無視できない。ことにアルメイダは日本にはじめて南蛮医学を伝え,外科療法に新風を吹き込んだ。病院の設立や縫合・焼灼法といった新手の療法をもたらしたのである。
(3)蘭医学の興隆 道三の実証主義は,江戸中期にいたり,後藤艮山とその学派(古方派)によって発展的に修正された。医療における親試実験が極度に追求された結果,吉益東洞が〈万病一毒説〉をとなえて臨床治療医学を具体化し,山脇東洋は1754年(宝暦4)蘭医学の解剖書をもとに人体解剖を行って五臓六腑説を訂正した。
このころから蘭方医が本格的に出現した。杉田玄白,前野良沢らが《ターヘル・アナトミア》をもとに,千住小塚原で腑分け(人体解剖)の観察を行い,その正確さに感嘆して1774年(安永3)これを《解体新書》と題して翻訳すると,蘭医学が急速にはやりだした。桂川甫周,宇田川玄随,伏屋素狄らのすぐれた蘭方医が続出した。なかでも華岡青洲は独自に麻沸散とも通仙散とも称される麻酔剤を開発し,1805年(文化2)世界にさきがけて全身麻酔による安全な腫瘤摘出手術に成功した。
蘭方医は,幕府の不安定な対外政策にもかかわらず,着実に増加し,診療の実をあげていった。幕末の49年(嘉永2)オランダ商館医員モーニッケが本国から送られた痘苗を用いて牛痘接種を行い,天然痘の予防に成功するや,伊東玄朴は江戸神田のお玉ヶ池に種痘所を開いてその普及につとめている。この間の1823年(文政6)オランダ商館医員として赴任したシーボルトが,長崎に開いた鳴滝塾は,蘭方医進出の一大拠点となった。
(4)近代医学の成立 幕末の58年(安政5)に西洋医学が解禁され,60年(万延1)に種痘所が公認されると,蘭方医の臨床評価は一段とたかまった。これにともない,漢方医(後世派や古方派)の間に漢蘭折衷を図ろうとする動きや,反対に,古医書の研究をすすめてこれと対決しようとする動きが活発になった。この動きは,明治維新後の75年,新政府が文部省通達によって医術開業試験実施を公にし,試験科目をすべて西洋医学としたことから,政治闘争に発展した。漢方医は理論闘争を挑んだが,社会医学的性格や科学的普遍性での見劣りはおおいがたく,ついに95年,医師免許規則改正案は議会で否決された。ここに漢方は没落し,生粋の漢方医は活躍の基盤を失った。
執筆者:宮本 義己
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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