出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
〈善〉を意味する西欧近代語のthe good(英語),das Gute(ドイツ語)は形容詞の名詞化であり,le bien(フランス語),il bene(イタリア語)は副詞の名詞化である。そこには古代ギリシア語における,特にプラトンにおけるto agathonという語法,ないしはラテン語のbonumの用法の影響が認められる。〈よい〉という形容詞や〈よく〉という副詞は,肯定的価値一般を表示する日常語として,きわめて多義的に用いられるが,〈善〉という名詞は本来的には哲学の術語である。特にそれを〈よいもの〉,ないしは〈財〉,すなわちギリシア語のagatha,ラテン語のbona,ドイツ語のGüterなどという複数形の意味するものから区別して,道徳的意味に限定しようとするかぎり,善は倫理学の最も基本的な主題の一つである。道徳的善をある独立の観念的実在とみる見解は,〈善のイデア〉を探究したプラトンに始まり,新プラトン主義を経て,最高の自体的善=最高善としての神という中世哲学の形而上学的概念において,そして近代以降にも神学的倫理学において認められ,M.シェーラーやN.ハルトマンの価値倫理学にもその影響が認められる。
総じて古代ギリシアにはさらに,幸福をいっさいの本性的活動の究極目的とみなす考え方があり,そこからアリストテレスは道徳的善を徳に即しての人間の魂の活動として把握したが,この種の見解はエピクロスの節度ある賢明な快楽主義とストア学派の厳格な道徳哲学という両方向において展開された。17~18世紀のイギリス,フランスの啓蒙思想において道徳的善を世俗的な感覚主義的人間観に基づいて功利性に還元しようとする試みがなされ,この方向は功利主義の立場に受け継がれた。カントは道徳的善を道徳法則によって規定された純粋意志の形式的特性とみなすというある深い洞察を示した。彼はまた最高善を道徳性と幸福との統合を表す理念とみなした。ヘーゲルは道徳的善を,主観的意志として現存すると同時に行為によって現実性を得るある生動的な善として把握した。そのさい行為は人倫性を基礎とし目的として行われるとされ,そして人倫性は人倫的な社会的諸関係の必然的発展として把握された。マルクス主義の立場では,ヘーゲルの基本的な考え方を継承しながらも,道徳的善についての諸観念は,人間がその客観的な諸関心を観念的に反省し言表するさいの必然的なイデオロギー的諸形式の一種にほかならないとされる。分析哲学では,自体的善と手段としての善という伝統的な形式的区別を踏まえて,自体的善としての道徳的善は自然的な諸性質を表す語では定義できないことを明らかにする試みがなされた。その源流に位置するのが,道徳的善はある単純な定義できない性質だとするG.E.ムーアの主張である。デューイも,その形而上学的考察,特に人間の経験に関するその見解から,善についてのいっさいの経験に共通の性質としての究極的な自体的善の探究は失敗すべく運命づけられているという,分析哲学の場合と同様な結論に達した。
執筆者:吉沢 伝三郎
儒教では具体的な徳目が論ぜられることが多く,善の定義(孟子の〈欲す可きを善という〉などは恰好の定義であったと思える)をめぐって議論が展開することはなかった。〈善とは何か〉に当たるものはむしろ〈仁とは何か〉であった。しばしば,儒教では礼(外的な規範)に合致することが善である。儒教道徳は外面道徳である,と説かれることがあるが,それは正しくない。孔子は仁と礼を教えたが《論語》に明白であるごとく,最も強調したのは仁(愛情,人間らしさ)であった。仁が必要条件,礼はそれを前提としての十分条件であった。儒教の公理ともいうべき孟子の性善説では性(人間の本性)の内容を仁義礼智の四徳(漢代,信を加えて五常という)として仁を第一にあげ,朱子は仁とは〈天地に在っては坱然(おうぜん)として物を生む(生きしめる)の心,人に在っては温然として人を愛し物を利するの心〉といい,五常は一個の仁の細目にほかならないとした。仁は天地の生々の徳の人間における発現だというのである。王守仁(陽明)は天地万物一体の仁を説いた。中国における善の説として仁を考えるとき,このような規模(〈天地の善さ〉)でのそれを考える必要があろう。
執筆者:島田 虔次
日本で用いられる〈善〉という言葉は,しばしば仏教語としての善である。これは,サンスクリットの〈プニヤpuṇya〉とか〈スクリタsukṛta〉などの漢訳語であり,いずれも〈善業〉のことを指している。業(カルマン)というのは,直接には外的な行為のことであるが,同時に,その行為が残す,実体ともいうべき潜在的な力のことも意味する。この潜在的な力は,やがてしかるべき結果を,その行為を行った人にもたらすと考えられた。よい行為,つまり善業はよい結果(楽果)をもたらし,よくない行為,つまり悪業はよくない結果(苦果)をもたらすというわけである。時代によって変遷はあるが,インドでは,通常,善としては,不殺生,不偸盗,不邪淫,不妄語(真実語),不飲酒,自制,誓戒,布施,忍耐,沐浴,祭式,苦行,遊行などが数えられる。このうちの最初の五つの善は,仏教の五戒そのものでもある。また,ヒンドゥー教では,法典の定めるところにしたがい,それぞれの階級(バルナ,ジャーティ)に課せられた社会的義務(ダルマ)を遂行することが,とりもなおさず善であるとされる。
善を行う目的は,一般には,来世に天界に生まれることである。しかし,解脱を願う人にとって,輪廻の枠内にある天界は,決して目標にはなりえない。善は業にほかならず,その業は輪廻の原因なのであるから,彼らは,善すらも滅却ないし超越しようとする。善悪を超えたところに解脱があるのである。ただ,彼らも暫定的には善を行う。それは身心を清浄にして,解脱への道を滞りなく進まんがためである。なお,善は計量されうるものであり,しかも移行可能であると考えられている。仏教でいう回向(えこう)(追善回向)とは,みずからが保持している善の一部を,他人(死者も含む)に譲渡することである。
→悪
執筆者:宮元 啓一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
広義には、肯定的評価の対象となる価値をもつものがすべて善である。しかし、狭義には、行為および意志の規定根拠が善である。この二義はときとして混同され、多くのものが「善(よ)い」とよばれる。たとえば、すべて「値うちのあるもの」は「善いもの」である、といわれるが、この意味では「見るによいもの」も、「用いるによいもの」も、なんらかの意味では善である。しかし、それらは「美」であり、「有用なもの」であって、本来の意味では「善」ではない。善は本来の意味では、これらの値うちのあるものにかかわる行為が選択される場合の根拠なのである。したがって、善は本来、行為外的に、事物に付着する性質として、「観照」の対象をなすものではなく、行為内的に、意識の自己還帰を構成契機とする「実践」の場面において、実践を成立させる根拠として自覚されるものである。一つの行為は多くの可能な行為のなかから、「いま、なすべきもの」として選び取られるが、この選択の根拠が善である。したがって、善は自由において自覚されるものであって、自由の根拠である。
[加藤信朗]
古代ギリシア・ローマでは、善を意味するagathon(ギリシア語)、bonum(ラテン語)という語は善の両義を意味しながら、広義の善への傾きをもっていた。この意味での善は、悪kakon(ギリシア語)、malum(ラテン語)に対するとき、禍、不幸に対する福、幸を意味した。しかし、ソクラテスが「不正を蒙(こうむ)るほうが不正をなすよりも善い」と述べ、これを自分の死をもって証明したときに、善の本性は明らかにされた。以後、善は「見えぬもの」であり、不可視な魂が自分自身を善いものとしようとする能動的な配慮において、内的に魂にかかわるものとなる。プラトンとアリストテレスの倫理学はこの問題状況において成立した。同じように、カントも広義の善との関係で成立する「目的倫理学」を退け、善は意志に対して、「汝(なんじ)いつもこれをなすべし」という絶対的な命令(定言命法)という形で迫る普遍的法則として把握されるとした。したがって、真の意味で「善いもの」はただ一つ、善を意志する善意志だけである。意志に対して迫るこの無条件な命令をなんとするかによって、いろいろの倫理学が生じるのである。
[加藤信朗]
悪evil(英語)、mal(フランス語)、Übel(ドイツ語)は善に対立する。したがって、否定的評価の対象となるものがすべて悪である。それゆえ、「みにくいもの(醜)」も「有害なもの」もなんらかの意味では「悪いもの」である。だが、善についてと同じように、本来の意味で「悪」といえるものは、「善なる行為」を退ける意志だけである。
そこから、「悪」の存在をめぐって古来二つのパラドックスが生ずる。一つは「だれも自ら進んで悪人たろうとする者はない」というソクラテスのパラドックスである。意志が本来善に向けられているとすれば、善を退けて悪を選ぶ意志はないと考えられるからである。とすれば、世に本来の意味での「悪人」はいないことになる。もう一つは「悪の起源」をめぐるパラドックスである。一般に古代では、悪の起源は形相の完全な実現を許さない質料の粗悪さに求められた。だが、至善なる創造者による世界の創造を信条とするキリスト教にとって、この世界に内在する悪の事実は説明しがたいものであった。創造主に悪の起源を求めることはできない(神は善なるものだから)。他方に、創造主に対立する悪神にも(神は唯一だから)、粗悪な質料にも(神は万物の創造主だから)悪の起源を求めることはできない。ここにキリスト教の弁神論の問題があった。
アウグスティヌスは、悪がそのもの自体として独立には存在しないこと、悪は存在を前提にしてその否定としてのみ存すること(悪の非存在性)、したがって、善なるものとしてつくられた意志が自己自身の置かれた秩序に離反すること(意志の反逆)としてのみ悪が存すること、この意志の反逆(罪)もそこから帰結する当然の報いとしての罰によって償われ、意志の回心をもたらすよすがとなること、こうして、悪もまた善なる神の経綸(けいりん)(摂理)の内に置かれていることを示して、悪の存在を説明した。
[加藤信朗]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…悪はふつう善の反対語とされている。しかし〈よい‐わるい〉という日本語の対比は,英語の〈good‐bad〉と同様に,道徳的意味だけには限られない。…
…この考え方の代表的思想家はプラトンである。プラトンは正義を善のイデア=〈神的にして秩序あるもの〉であるとし,人間は善のイデアを超越的能力である理性によって観照しうるとした。善のイデアはある数的調和を示す概念として考えられており,経験によって得られるものではなくむしろ経験を超えたところに存在する超越的概念である。…
…倫理学は倫理に関する学である(〈倫理〉〈倫理学〉の語義については〈道徳〉の項を参照されたい)。それは古代ギリシア以来歴史の古い学であり,最初の倫理学書といえるアリストテレスの《ニコマコス倫理学》と,近代におけるカントの倫理学とによって,ある意味では倫理学の大筋は尽くされているといえなくもないし,また倫理学の長い歴史を踏まえて,その主題とされている事柄,たとえば善,義務,徳などについて,一般に認められている考え方を述べることは可能である。だが他面,倫理学についてその学としての可能性を否認する立場もありうるし,そうでなくても,それぞれの倫理学者の立場によって,その倫理学の概念が異なっているのは,ある程度まで必然的なことである。…
※「善」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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