八瀬以北の高野川上流域。小原とも記す。周辺の山々に囲まれて南北に狭小な大原盆地が一小天地をなし、川沿いに若狭街道が北国へ向かう。中近世にはその地域にある八ヵ村をもって、大原郷あるいは大原八郷ともいわれた(→大原郷)。明治一六年(一八八三)これに北方山間部に点在する
地名は古く、朝廷の牛馬を飼育する牧として「九暦」天徳元年(九五七)一一月一六日条に「大原牧貢鷹一連・馬四疋、又牧司清原相公貢二枚・熊皮五枚」とみえる。また「中右記」嘉保二年(一〇九五)六月二五日条に「参両院之次、付蔵人為賢、令申事、大原刀禰等為両院下部、不随行事所召炭」とあり、国役として行事所に納めるべき召炭を、大原刀禰等が院下部だからと称して拒む挙に出ていることが知られる。この頃より商工業者が神人・寄人・供御人として権門の庇護下に入る動きを示すものだが、大原は炭窯里を別名とするほどの製炭地ともなっていた。
大原は比叡山の北西麓にあたり、
もと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市北東部、左京区の北部にある一地区。比叡山(ひえいざん)北西麓(ろく)の山間の小盆地で、八瀬(やせ)から高野(たかの)川に沿って、京都と若狭(わかさ)を結ぶ若狭街道(現、国道367号)が古くから通じていた。歌枕(うたまくら)の「大原の里」で知られた洛北(らくほく)の静寂な山村であるが、史跡に富み、近年は四季を通じて観光客が訪れ、ことに秋の紅葉時はにぎわう。
平安時代には炭、薪(まき)、柴(しば)などを産することで知られ、京の町にそれらを売り歩く大原女(おはらめ)も古くからみられた。藍(あい)の着物、御所染の帯、甲掛(こうがけ)と脚絆(きゃはん)などの服装をいまに伝えるが、寂光院(じゃっこういん)の建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないし)の姿をまねたものといわれている。三千院(さんぜんいん)は円融院(えんゆういん)とも号し、天台宗延暦寺(えんりゃくじ)の別院で、天台三門跡(さんもんぜき)寺院の一つ。本堂の往生極楽院(おうじょうごくらくいん)は1148年(久安4)の建立で、藤原期の典型的な阿弥陀堂(あみだどう)様式を示し、国の重要文化財に指定されている。堂内にも国宝の木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(ざぞう)などがある。三千院の南に、慈覚(じかく)大師円仁が仁寿(にんじゅ)年間(851~854)に創建したという来迎院(らいごういん)があり、かつては境内に多数の諸院が存在したという。また三千院の北の勝林院は、法然房(ほうねんぼう)源空が天台の座主たちと「大原問答」をたたかわせた所といわれる。三千院と若狭街道を隔てた西には、安徳(あんとく)天皇の母后建礼門院が庵室(あんしつ)を営んだ寂光院があり、『平家物語』の「大原御幸」で知られている。大原の北の古知谷(こちだに)には、若狭街道に面して中国風の山門のみえる阿弥陀寺がある。1609年(慶長14)に弾誓上人(たんぜいしょうにん)が開創した古刹(こさつ)である。
[織田武雄]
千葉県南東部、夷隅郡(いすみぐん)にあった旧町名(大原町(まち))。現在はいすみ市の南部を占める地域。旧大原町は1899年(明治32)町制施行。1955年(昭和30)東海村、東(あずま)村、および布施(ふせ)村・浪花(なみはな)村の各一部と合併。2005年(平成17)、夷隅郡夷隅町、岬町(みさきまち)と合併して市制施行、いすみ市となる。旧町域は外房(そとぼう)海岸に位置し、JR外房線、国道128号が海岸に並行して走り、内陸へのいすみ鉄道と国道465号の起点でもある。中世に土岐(とき)氏の所領となり、江戸時代には大多喜(おおたき)藩政下に置かれた。北部の砂浜海岸では近世以来イワシの地引網漁業が行われた。1954年に大原港が完成し、イワシ、イナダなどの沖合漁業の基地となった。米作やイモ、ブタの生産も行われるが、近年、日在(ひあり)浦での観光地化が進み、日在浦海浜公園広場や椿(つばき)の里がある。大聖寺(だいしょうじ)は波切(なみきり)不動として漁民の信仰が厚く、不動堂は照願寺(しょうがんじ)の紙本著色親鸞上人(しんらんしょうにん)絵伝とともに国指定重要文化財である。ほかに、大門(おおもん)台に大日鉄仏がある。なお六斎市(ろくさいいち)の流れをくみ、3、8の日に大原八幡神社の境内で開かれる朝市は有名。
[山村順次]
岡山県北東部、英田郡(あいだぐん)にあった旧町名(大原町(ちょう))。現在は美作市(みまさかし)の北東部を占める地域で、兵庫県と接している。旧大原町は、1922年(大正11)町制施行。1954年(昭和29)讃甘(さのも)、大野、大吉の3村と合併。2005年(平成17)勝田(かつた)郡の勝田町、英田郡の美作、作東(さくとう)、英田の3町および東粟倉(ひがしあわくら)村と合併して市制施行、美作市となった。吉井川支流の吉野川の上流に位置し、谷底平野を標高400~600メートルの山地が囲む。中心集落の古町は因幡(いなば)往来(鳥取―姫路)の宿場町として繁栄し、現在も本陣や脇本陣のある古い町並みが残っている。智頭(ちず)急行が通じ、国道373号がここを経由して兵庫県と鳥取県を結んでいて、429号が交差する。また一帯は古代美作国英多郡大原郷(おおはらのごう)、中世の大原保(おおはらのほ)で、これが旧町名となった。旧讃甘村宮本は宮本武蔵(むさし)の生誕地といわれる。農林業が中心で、花木、葉タバコ、クリが特産であるが、養鶏も盛んである。
[由比浜省吾]
京都市左京区北東部にあり,比叡山西麓を流れる高野川上流に位置する小盆地全体の呼称。本来は〈おはら〉といい,〈小原〉とも書いた。京都から北へ向かう若狭街道(現,国道367号線)が縦貫し,平安時代以来延暦寺にかかわる勝林院,来迎院,三千院などの名刹(めいさつ)が多く,八瀬,大原と併称された。保元・平治の乱の際の源為朝・義朝などのように,戦乱の時にここを通過することが多く,また出家・隠棲(いんせい)の地としても著名。建礼門院徳子が住んだ寂光院や三千院はいまも多くの観光客を集めている。大原はまた平安京への薪炭の供給地でもあり,京の街を売り歩く大原女(おはらめ)は,白川女,桂女などと同様に古来有名であった。明治以後は木炭を中心とした林産に加えて,柴漬も特産の一つとなった。
執筆者:金田 章裕
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…扇状地は笠懸野(かさかけの)と呼ばれ,江戸時代初期に岡登(おかのぼり)用水が開削されて水田となった。中心集落の大原(おおばら)はこのときの新田集落で,足尾鉱山の銅を江戸へ運ぶ銅(あかがね)街道の宿場町でもあった。第2次大戦後,平地林の開墾が進み,現在は野菜畑として利用されている。…
…幕末・維新期の公家。大原家4代重尹の子。京都生れ。…
※「大原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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