寺院(読み)ジイン

デジタル大辞泉 「寺院」の意味・読み・例文・類語

じ‐いん〔‐ヰン〕【寺院】

仏寺とそれに付属する別舎をあわせた称。また、広くイスラム教キリスト教の礼拝堂にもいう。てら。
[類語]伽藍仏閣仏家梵刹仏寺仏刹山門古寺古刹巨刹名刹

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精選版 日本国語大辞典 「寺院」の意味・読み・例文・類語

じ‐いん‥ヰン【寺院】

  1. 〘 名詞 〙 寺とそれに付属した別舎の総称。また、寺をいう。
    1. [初出の実例]「合寺院地 四方各一百丈」(出典:法隆寺伽藍縁起并流記資財帳‐天平一九年(747)二月一一日)
    2. 「寺院の号、さらぬ万の物にも、名をつくる事、昔の人はすこしも求ず」(出典:徒然草(1331頃)一一六)
    3. [その他の文献]〔宋史‐礼志・一六〕

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改訂新版 世界大百科事典 「寺院」の意味・わかりやすい解説

寺院 (じいん)

仏教の宗教活動の中心となる建物およびその所在する領域(境内)。精舎(しようじや),僧伽藍(そうぎやらん)(伽藍(がらん)),仏刹(ぶつさつ),寺(てら)などとも呼ばれ,仏舎利をまつる塔,仏像や諸尊像をまつり仏事供養を行う諸堂,僧侶の修行のための諸施設,布教のための諸施設などを含む。

仏教寺院は,釈迦が比丘(びく)たちの修行のため,雨季に一定の土地を画して(結界)止住させた(安居(あんご))ことに始まる。この止住地をビハーラといい精舎と訳す。また衆僧(サンガ)のための園地(アーラーマ)の意で僧伽藍(そうぎやらん)(サンガーラーマsaṃghārāma)と呼び,伽藍と略称し,僧園,僧院と訳す。比丘は元来,出家遊行(ゆぎよう)の生活をたてまえとするので建物を必要とせず,ただ安居中だけ仮小屋を設けたらしい。初期教団の安居に使用された代表的園林として仏典の記すものに,舎衛城の祇園精舎,王舎城の竹林精舎などがある。教団の発展とともに,そうした園林にもしだいに建物が造られるにいたった。釈迦の入滅に際し,その遺骨(仏舎利)をまつるためにストゥーパ(塔)が各地に造られたが,やがてそこが,仏陀を供養し,説法を聴聞する場として,在家信者たちの信仰の中心となった。仏塔はのちに僧院内にも設けられるようになった。とくに,建物の内部に小型の仏塔を安置するものはチャイティヤ(制多,支提,塔廟)と呼ばれる。前1世紀以後西部インドを中心に発達した石窟寺院(レーナleṇa)の遺構には,比丘の止住するビハーラ窟と並んでチャイティヤ窟がみられる。ヘレニズム文化の影響下に仏像が製作されると,仏塔の前あるいは塔内に仏像をまつるようになる。仏像の礼拝は大乗仏教や密教の発達に伴い,諸菩薩,諸尊も加えて盛んとなったが,寺院の中心はあくまで仏塔にあった。

 インドにおける仏教寺院の機構や活動状況は,わずかな遺跡や碑銘,中国からの求道僧たちの記録,ないし仏典の記事などから推定されるだけであるが,おもな特色として次の二つがあげられよう。

 第1に,マガダのビンビサーラ王が王舎城内の竹林をブッダとその教団へ寄進し,また,須達(しゆだつ)長者が祇陀(ぎだ)太子から園林を買い取って寄進したという祇園(祇樹給孤独園(ぎじゆぎつこどくおん))の名からも知られるように,早くから国王の保護や大商人の経済的援助をうけて発展したことが挙げられる。5世紀初めの法顕の《仏国記》によれば,彼らは寺院を建てる場合,僧院の経済を支えるべく,果樹園や牧場,そこに働く人々(奴婢)までも併せ寄進したという。また,7世紀末に義浄は富裕な僧院が穀物,金銀財宝をあり余るほど蓄えていることを嘆いている。一方,西部インドの初期石窟寺院の碑銘によれば,交易商人に混じってギリシア人寄進者の名も見え,寺院の所在地が西方との交易ルート上に位置していたことが知られる。こうした寄進は布施が来世の果報をもたらす最高の徳行とされる教義と社会慣習によって支えられていた。なお,律蔵の規定によると,仏塔と僧院ならびにそれぞれへの寄進は,仏物,僧物として所有権を異にするとされ,後者にはまた,教団の長年にわたって所有するもの(四方僧伽に属するもの)と,その場にいる比丘たちに分配するもの(現前僧伽に属するもの)に分けられる。仏物の管理には,仏塔が僧院外にある場合は,在家信者が当たったものと考えられる。大乗仏教は元来,このような仏塔を守る在家信者の間から興った運動と推定されている。碑銘で見るかぎり,寄進先の教団は小乗の諸部派のみで,大乗教団の実態はまだよく知られない。寺院を支えた人々として重要なのは建築を担当した工人たち(建築師,石工,彫刻師など)で,彼らはギルドのような集団をつくって代々その仕事に従事した。その他,料理人,雑役夫なども寺院に所属して,その一角に住んでいた。

 第2に,ナーランダーなどの大寺院から知られるように,寺院のいくつかは大学の機能を果たしている。そこにはインド各地のみならず,外国からも比丘たちが集まり,また,所属部派,大・小乗も問われない。学ぶのは大・小乗の教学のほか,サーンキヤなどの外教の学,論理・文法,医方,さらに建築などを含む工巧の学など,学芸万般にわたっていた。この状況は5~7世紀の報告から知られるが,学ぶ者の数は1万,教授者は4500と7世紀の玄奘は報じている。その他,西部インドのバラビー,少し時代が下るが,ベンガルビクラマシラーや,オリッサのオダンタプリなどが,同種の大寺院として知られている。
執筆者:

寺とは官舎の意で,初めて西域から来た僧が官舎に仮住まいしたことから,僧の住居をも寺と呼ぶようになったといわれる。院は周囲に垣をめぐらした建物をいい,官舎の名にも用いられたが,仏寺の名に院号をつけることがさかんになったのは唐末からである。寺,院より規模の小さなものは,庵,堂などと名づけた。中国で最初の寺院は,後漢明帝のとき洛陽に建てられた白馬寺と伝える。しかし漢・魏のころはなお少なく,建物も小さかったと推測される。寺院の数が激増したのは,南北朝時代である。北魏の都洛陽では,城内の3分の1が寺舎で占められたといわれ,その豪華なようすは《洛陽伽藍記》に詳しい。隋の文帝は全国に舎利塔を建てて仏教による国家興隆を願ったが,その政策は唐朝に受け継がれ,州ごとに則天武后は大雲寺を,中宗は中興寺のちの竜興寺を,玄宗は開元寺を置いて,国家の安寧と皇帝の長寿とを祈願させた。また特定の大寺には勅額を下賜して保護を加える一方,無額寺院は不法の建造物として廃毀されることが多かった。

 寺内の衆僧を統べ寺務を執る役僧に上座,寺主,維那の三綱があり,ともに寺僧の推薦によって選ばれた。寺院には僧のほかに,まだ得度していない童行,清掃や耕作などに従事する寺奴婢,寺戸がいた。寺の共有財産を十方常住物といい,その最大のものは土地であった。朝廷,貴族たちの施入,寺院みずからの買収,開墾によって広大な田土を占有し,寺院は貴族とならぶ大地主であった。その収益を元手にして無尽,長生銭と呼ばれる貸付業を行い,碾磑(てんがい)を設置して製粉業を営み,邸店(店舗),車坊(貸車屋)を経営するなど,寺院はさまざまな営利事業を行い,その点でも富民となんら異ならなかった。もちろん社会福祉の活動もさかんで,とくに唐代では諸州の寺院に悲田養病坊が置かれて貧窮者,疾病者の救済にあたった。仏教が中国社会に浸透していくにしたがって,寺院はそれぞれの地域においていわば文化センターの役割を果たすようになった。4月8日の灌仏会,7月15日の盂蘭盆会(うらぼんえ)などの法会には多くの民衆が集い,境内では縁日が立ちさまざまな演芸が催されて,にぎわいをみせた。

 宋代になって禅宗が興隆すると,寺院制度にも変化がおこった。寺院を代表する僧を住持といい,それには師から弟子へと伝える甲乙徒弟院と,ひろく諸方から名徳を招く十方刹との区別があり,とくに大刹の住持は勅命によって任ぜられた。別に寺院は宗派によって禅,教,律に分類され,南宋中期には五山十刹制が定められた。さらに禅院の行事規範である清規(しんぎ)は,元代に《百丈清規》の重編があり,これにならって律宗,教宗でも清規をつくった。宋代以後も寺院は莫大な寺産をもち,営利事業もさかんに行ったが,一方では,官府が寺院に命じて寺産の一部を供出させて,地方財政を補塡し,農民の負担を軽減する方策がとられるようになり,寺院勢力の減退をもたらす一因となった。
執筆者:

東南アジアの仏教の主流を占める上座部仏教は戒律重視の宗教である。僧はパーリ律の定める227戒を厳重に守らなければならない。寺院は持戒を志して出家した僧の生活の本拠となり,安んじて持戒に専念する環境を提供する。歴史的に見るならば,上座部仏教の発展と衰退は同時に寺院の発展と衰退でもあった。かつてスリランカ国王の保護の下に繁栄したアバヤギリ・ビハーラ派が,やがて王の保護を失って没落した結果,アバヤギリ寺もまた消滅してしまったという歴史は,このことをよく裏書きしている。

 寺院の建立は,施主に最大の功徳をもたらす宗教的行為と信じられている。古来,国王や中央,地方の有力者たちは,功徳の獲得を目ざして多くの寺院を建立し,サンガに寄進してきた。前2世紀ころと推定されるブラーフミー文字の刻文は,スリランカの仏教徒たちが,すでに2000年以前から,持戒する僧の修行生活の場として,各地の洞窟の入口に雨よけの加工を施し,これをサンガに寄進した事実のあったことを明らかにしている。今日でもタイの農村部においては,寺院,とりわけその中核をなす布薩堂の建立に参与することは,最大の功徳行と信じられている。零細な拠金を蓄積しつつ,数年あるいは十数年がかりで布薩堂を完成させるという事例は数限りない。布薩堂はすぐれて得度式の執行場所である。人はシーマー,すなわち〈結界〉した布薩堂なしに得度式を執行することはできない。布薩堂があって初めて新しい僧をつくり出すことができる。布薩堂の建立に特別の功徳をみとめるのは,それが仏教の存続と発展に寄与する可視的な行為だからであろう。

 今日,寺院と地域社会との結びつきは都市部においては弱いが,農村部では依然として強固である。農村の寺院はさまざまな形で,村落社会の統合に貢献している。国民教育のなかった前近代のタイにおいて,寺院は中央,地方の別を問わず,ほとんど唯一の教育機関であった。少年は俗人の寺子として,あるいは剃髪してサーマネーラ(20歳未満の少年僧)となって,年長の僧から読み書きの基礎を学んだ。僧は村の代表的知識人であり,日常生活の中で遭遇するさまざまな問題について,村人の相談に応じ,これに解決の指針を与えた。僧はまた,村の内外で発生した紛争を調停した。伝統医薬に関する知識もまた仏教寺院を通して伝承されている。社会の近代化とともに,僧のこうした伝統的役割は,各種の世俗的組織(学校,弁護士,裁判所,病院など)に取って代わられつつあるが,今日でも,寺院を中心に行われる各種の祭りや儀礼は,村人の生活にリズムを与え,連帯感を醸成する重要な役割を果たしつづけている。ただし,日本の場合のように,墓所の管理や死者の儀礼を媒介として,特定の寺院とその檀家が結合されるという状況は,原則として墓をつくらない上座部仏教諸国では,あまり見られない点に留意する必要があろう。
執筆者:

日本の寺院には最初から伽藍や寺地をもって出発した官寺氏寺もあれば,草庵や村堂や町堂から出発した民間の私寺もあり,また宗派や時代やそれぞれの寺史によりさまざまな性格がある。元号を寺号とするいわゆる元号寺は,勅願寺が原則である。また中世の時宗や真宗の寺院は時宗の六条道場(京都)のように道場と号した例が多い。所在の山名を付けた山号は,かつて寺院が山岳にあったなごりとされる。

 日本最初の寺院は,蘇我稲目(そがのいなめ)(?-570)が仏教伝来まもなく,仏像を自邸に安置して向原(むくはら)寺と称したのに始まるという。そののち7世紀,有力氏族がしだいに寺院を建立,624年(推古32)寺院数46を数えたといい,四天王寺式,法隆寺式などと呼ばれる七堂伽藍の堂舎(伽藍配置)を整えた古代寺院が営まれだした。だが,律令体制下に入ると,これら氏族の寺院の多くに国家の統制や保護が加えられて官寺化がすすみ,僧尼法や寺院法が発布され,692年(持統6)国家が保護下においた寺院は945ヵ寺に達し,政府はそのうち中央にある数寺を官大寺に指定した。官大寺は国家から特別の待遇をうけて,しだいにその数もふえ,《延喜式》では東大,興福,元興(がんごう),大安,薬師,西大,法隆,新薬師,本元興,招提,東,西,四天王,崇福,弘福の15寺を数え,地方諸国の官寺,すなわち国分寺国分尼寺とともに律令国家鎮護の祈念をおもな任務とした。国分寺,同尼寺は9世紀に入ると律令体制のゆるみとともに衰えたが,官大寺系の諸大寺の多くは莫大な荘園を所有して,中世に至るまで荘園領主として寺運を維持した。以上の官寺系寺院に対し,奈良・平安時代,政府は私寺乱造の弊害を是正し国家の統制をはかるため,皇族や貴族が建立した寺院のうち,寺額を与えて定額寺(じようがくじ)と定め,修理料などを施入して経営保護に当たり,半官半私の寺院制を設けた。定額寺は全盛期には数十ヵ寺を数えたが,律令制の衰退とともに政府からの実益が停止し,平安後期には院政期の六勝寺に象徴される御願寺(ごがんじ)の制にその位置をゆずった。御願寺は天皇,上皇,院宮などを本願に建立された寺院で,定額寺と同じく本願のための加持祈禱を主務とする密教系寺院で,施入された多くの荘園をもつ荘園領主でもあったが,13世紀にはいっていずれも衰微した。

 中世,武家政権の時代,幕府の官寺として台頭したものに臨済宗五山派の寺院がある。五山派は,幕府から五山・十刹・諸山の3段階の寺格のいずれかに指定された名刹で,当初多少の異動があったが,1386年(至徳3)足利義満のときに定着した。五山は京都と鎌倉に計11ヵ寺,十刹は1492年(明応1)に46ヵ寺,中世末には60ヵ寺余となり,諸山は230ヵ寺を数えた。五山派寺院の住持は,将軍の公帖(こうじよう)によって任命され,幕府は伽藍の造営と維持,寺領の保護に責任をもった。五山の禅僧は一方で莫大な寺産の運営で巨財を蓄え,他方で座禅よりも詩文の教養につとめ,政治や外交や貿易の面で幕府の政治を支えた。住持任命の公帖に対して,五山派寺院は莫大な礼銭を幕府に供出し,ために五山派寺院は幕府の官寺であるとともに,寺院自体が幕府直轄領のような役割を果たして,幕府の重要な財源となって室町時代を推移した。この五山派に対して,室町時代,在野禅を標榜し地方武士や上層町衆に教線をのばし,座禅に徹した禅本来の姿を追求したのが,臨済宗大徳寺・妙心寺派と曹洞宗全体を含む林下(りんか)と呼ばれた諸寺院である。他方,鎌倉時代に興った庶民仏教といわれた浄土宗,真宗,時宗,日蓮宗(法華宗)の諸寺院は,室町時代になるとほぼ全国に成立した。これらは朝廷や幕府の官寺ではなく,地方武士や町衆や農民の外護のもと民間の寺として出発し,草庵から村堂や町堂に,さらに寺号をもつ寺院に発達した歴史をもち,なかには多くの地方末寺を擁した各宗門流本山も成長した。浄土宗の知恩院,光明寺,誓願寺,真宗の本願寺,仏光寺,専修(せんじゆ)寺,時宗の清浄光(しようじようこう)寺,金蓮寺,日蓮宗の久遠(くおん)寺,大石(たいせき)寺,本門寺,妙顕寺などである。

 江戸時代,幕府は各宗各地の寺院法度と諸宗末寺帳をつくり,寺院本末の制(本末制度)を公権のもとに固定し,本山は末寺住持の任免,異義の取締りなどの権限を保障されて末寺支配を強化し,寺院の中央集権を確立した。さらに幕府は全民衆に対して,それぞれ宗旨と檀那寺を定め,その檀那寺の僧侶が発行する檀家証明書(寺請証文)を宗門改め,出生,結婚,旅行,転住,奉公,死亡などのときに必要とする制度をつくって民衆を統制したので,近世の日本人はすべて仏教徒となり,先祖以来の固定した宗旨と檀那寺をもつこととなった。これを近世寺檀制度という。こうして近世の寺院は一方で幕府の民衆支配の末端機構の役割を果たしたが,他方で村や町の地域文化の中心となり,また民衆の葬礼や先祖の鎮魂,年中行事や生活倫理など,生活文化の形成に当たって大きな推進力となった。だが,明治維新後,寺請宗門改めが廃止され,神仏分離廃仏毀釈の風潮のなかで仏教界は大打撃をうけ,全国で多くの寺院が廃絶した。そののち寺檀制度はしだいにゆるみ,信仰の自由も確立され,今日ではほとんどの寺院が1951年制定の宗教法人法によって,宗教法人になっている。
寺院建築
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺院」の意味・わかりやすい解説

寺院
じいん

仏像を安置し、僧尼がそこに住んで、礼拝(らいはい)・修行・儀式などを行う建物をいう。寺院に相当するサンスクリット語にはビハーラvihāraとサンガーラーマsamghārāmaとがあり、前者は毘訶羅(ひから)、後者は僧伽藍摩(さんがらんま)、略して伽藍(がらん)と音写される。修行に精励する僧尼の住む舎という意味で、いずれも「精舎(しょうじゃ)」などと訳される。

[阿部慈園]

インド

精舎としては、釈尊時代に建てられた舎衛城(しゃえいじょう)の祇園(ぎおん)精舎、王舎城の竹林(ちくりん)精舎が有名である。紀元前3世紀、アショカ王などの援助で、ブッダガヤサーンチーサールナートなどの仏教聖地に、釈迦(しゃか)の遺骨(仏舎利(ぶっしゃり))を祀(まつ)るため仏塔(ぶっとう)(ストゥーパ)が建てられ、そこが信仰の中心となり寺院が建立された。前1世紀ころからアジャンタやエローラなどに石窟(せっくつ)寺院がつくられた。大乗仏教時代になると、大河沿いの平地に教えを学ぶ総合大学形式の大規模な寺院が造営された。ナーランダやビクラマシラー寺院はその典型である。

 なお、チベットのラマ塔やミャンマー(ビルマ)のパゴダなども一種のストゥーパとみなされる。チベットやモンゴルのチベット仏教(ラマ教)寺院もインドの学問寺の形式を継承している。ジャワのボロブドゥール遺跡やカンボジアのアンコール・トムのバイヨン寺も仏教系寺院として有名である。

[阿部慈園]

中国

中国で「寺」とは元来「役所」を意味した。外国人の事務・接待をつかさどる鴻臚寺(こうろじ)で西域(さいいき)からの僧をもてなしたので、のちには僧尼の住所をすべて「寺」とよぶようになった。一方、「院」とは、もとは「周囲に巡らした垣」をいったが、転じて「周垣・回廊のある建物」を意味し、「官舎」の名にも用いられた。「寺の中の別舎」をいうこともある。「院」の最初は唐の大慈恩寺(だいじおんじ)の翻経院(ほんきょういん)である。のちに両語をあわせて「寺院」とよぶようになった。中国の寺院の最初は、後漢(ごかん)の明帝(めいてい)が洛陽(らくよう)に建立した白馬寺(はくばじ)(75)とも、呉(ご)王孫権(そんけん)の建初寺(けんしょじ)(247)ともいわれる。隋(ずい)・唐時代になると盛んに寺院が建てられ、弘福寺(こうふくじ)、大慈恩寺などの著名な寺院が次々と建立された。

[阿部慈園]

日本

日本では仏教伝来以降、遣隋使、遣唐使、留学僧、さらには百済(くだら)系帰化人を通じて大陸の仏教文化を知り、造寺への意欲を高めた。土地の豪族や王族は競って自分の住む邸宅の中に持仏(じぶつ)堂のような小堂を造立して仏像を祀(まつ)り、わが家の繁栄と子孫の安泰を祈った。このような私宅を改めて寺院としたものを私宅寺院とよぶ。552年(欽明天皇13)蘇我稲目(そがのいなめ)の向原寺(むくはらでら)(豊浦寺(とゆらでら))がその最初と伝えられる。聖徳太子も父用明(ようめい)天皇のために法隆寺を建て、蘇我氏も法興寺を建立して仏法の興隆を図った。しかし本格的な寺院の最初は、6世紀末に建てられた飛鳥寺(あすかでら)、四天王寺である。一方、639年(舒明天皇11)に天皇が初めて「大寺(おおてら)」として大規模な寺院を建てたのが百済大寺(くだらおおてら)(のち高市大寺(たけちのおおてら)、大官大寺(たいかんたいじ)、大安寺(だいあんじ)と改称)である。

 奈良時代には聖武(しょうむ)天皇が『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の思想に基づき国分寺・国分尼寺を建て、仏教文化による地方の発展と向上を願った。またその運営にあたってはその国の国司がその造営と修理にあたった。聖武天皇は741年(天平13)に国分寺を建てることを発願し、743年に金銅の毘盧遮那(びるしゃな)大仏をつくることを決意した。そして『華厳(けごん)経』に基づいて造像された大仏を本尊として、国の都である平城京の東に東大寺が造営されたが、それは当時の最大規模のものであり、世界文化を踏まえた世界的な巨大寺院としてその偉容を誇った。また東大寺を中心とする奈良仏教(南都六宗)は学派仏教ともいわれ、仏教の教理の研究が中心であった。

 これに対して平安仏教は、最澄(さいちょう)と空海(くうかい)を中心として、奈良周辺の巨大寺院から離れて、新しく山岳の中に僧侶(そうりょ)の修行の道場を中心とする山岳寺院が建てられた。最澄が開いた比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)では、東塔、西塔、横川(よかわ)の三つの伽藍(がらん)群に分かれ、入寺ののちは12年間山を出ることが許されなかった。また空海は京都東寺(とうじ)(教王護国寺)に進出し、不空(ふくう)三蔵が開いた伝法灌頂(かんじょう)を行う一方、高野山(こうやさん)(和歌山県)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建てた。ここでは大塔中心に伽藍が形成された。平安中期には天皇の個人的な祈願のための御願寺(ごがんじ)が盛んに設けられた。嵯峨(さが)天皇の仁和寺(にんなじ)や、後三条(ごさんじょう)天皇の円宗寺(えんしゅうじ)などが有名であるが、御願寺には始めから存在したものと、新たに御願を受けて建てられたものとがあった。のちに藤原道長(みちなが)が氏寺(うじでら)として、寝殿造に倣い金堂(こんどう)、薬師(やくし)堂、阿弥陀(あみだ)堂、九重塔と池水を配した法成寺(ほうじょうじ)を建てると、白河(しらかわ)天皇も法勝寺(ほっしょうじ)をつくった。のち、この東山の地には六勝寺が建ち並び、まさに京都は仏都としての壮観を呈した。しかし保元(ほうげん)・平治(へいじ)(1156~1160)の源平の兵乱は仏都を地獄と化し、壮麗な寺々も灰燼(かいじん)に帰してしまった。なお、平安時代の大寺院では、「別当(べっとう)」「座主(ざす)」「長者(ちょうじゃ)」などが寺院を管理し、仏教教学を学ぶ学侶や、堂塔を守る堂衆(どうしゅ)などの組織があった。

 鎌倉時代には源頼朝(よりとも)が平家に焼かれた寺院を復興し、武士・御家人(ごけにん)たちは自らの武運長久を祈るための祈願寺を各地に建てた。そして武士は戦いに出て戦死することも多かったので、死後の菩提(ぼだい)を祈る菩提寺が決められていた。武士はことに禅宗を好み剣禅一致を目ざし、禅堂で坐禅(ざぜん)にいそしんだ。また別に、戦乱のなかで念仏(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ))を唱えることを民衆に訴えた法然源空(ほうねんげんくう)や親鸞(しんらん)は阿弥陀仏のみを信仰することを求め、日蓮(にちれん)は六字の名号(みょうごう)(南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう))のみを唱えることを強調したので、これらの寺では弥陀一仏のみを祀り、脇仏を排している。このような祖師仏教を中心とする寺院では、本尊を安置する場よりも、大衆のために行う説教のための会堂を広くとっている。

 江戸時代になると寺院はおもに町の中につくられ、ことに城下町では寺町が設けられた。また往古の寺領は幕府に召し上げられ、そのかわりに知行(ちぎょう)が与えられた。また、本寺(本山)と末寺の関係、すなわち本末制度が幕府によって強化された。さらに幕府のキリシタン禁制により、人々はいずれかの寺院に所属しなければならないとする檀家(だんか)制度も確立した。その後、明治政府の神仏分離政策により、多くの寺院は統廃合された。

[平岡定海]

『平岡定海著『日本寺院史の研究』(1981・吉川弘文館)』


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普及版 字通 「寺院」の読み・字形・画数・意味

【寺院】じいん(ゐん)

てら。〔水経注、穀水〕水西に永り。~其の地は是れ曹爽の故宅なり。經始(けいし)(造営)の日、寺院西南隅に於て、爽の窟室を得たり。下、地に入ることばかり。地壁悉(ことごと)く方石を累(かさ)ねて之れを砌(せい)す。石作細密、(すべ)て毀(こぼ)つ無し。

字通「寺」の項目を見る

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百科事典マイペディア 「寺院」の意味・わかりやすい解説

寺院【じいん】

仏教において仏像を安置し,僧尼が修行し,また居住する建物および場所をさす。寺とも。釈迦時代の精舎(しょうじゃ)に起源は求められるが,寺の字を用いるのは,中国に仏教が伝わった時,後漢の明帝が初め鴻臚寺(こうろじ)に西域の経や仏像を置き,のち白馬寺を建てたのに始まる。寺は元来,役所または外国の使節を接待する建物を意味した。日本で〈テラ〉と呼ぶのは,梵(ぼん)語テーラ(長老の意)の音訛(おんか)という。朝鮮語のチョエル(礼拝所)からきたとする説もあるが,一般には認められていない。日本の寺院には,官寺や氏寺のように創建当初から寺地や伽藍(がらん)をもつ寺院がある一方,草庵や村堂から出発した場合もある。中世の時宗や真宗寺院の寺院は道場と号することが多い。→寺院建築

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺院」の意味・わかりやすい解説

寺院
じいん

仏像が安置され,出家者が住むところ。中国において寺は役所,院は官舎の意であった。外国人の接待を司る鴻臚 (こうろ) 寺に,初めて西域から来た僧が宿泊したので,それ以後は僧の住所をすべて寺というようになった。

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世界大百科事典(旧版)内の寺院の言及

【中世社会】より

… もとより下人の境遇は,《山椒大夫》の安寿・厨子王の運命に象徴されるように過酷なものがあったが,一方には捨子や身寄りのないものを養い保護する慣習もあり,下人の実態は,永続的ではないとしても家族をもち,主から給与された田畠を耕作するなど,平民とさほど異ならないところもあったのである。また下人はしばしば,前述した仏神領などや,戦国期に〈無縁所〉〈公界寺〉などといわれた寺院をはじめ,市・町などのアジールに逃亡し,主を変えることもあった。主は曳文に,いかなる場においてもその身を捕らえうるという担保文言(もんごん)を書かせ,南北朝期になると,領主たちは相互に契約を結び,逃亡した下人の相互返還(人返し)を行うなど,下人の掌握につとめている。…

【仏教】より

…密教の隆盛はしかし,仏教をヒンドゥー教とあまり差異のないものとした。13世紀初め,東ベンガルの教団根拠地であったビクラマシラー寺院がイスラムの軍隊に蹂躙(じゆうりん)されたのを最後に,教団は壊滅し,頭を失った仏教はヒンドゥー教の中に溶けこみ,吸収されてしまった。しかし,後期インド仏教の主張するところは,関係経論のチベット訳とともに,チベットの教団によって正しく継承されて,今日に至っている。…

【仏教美術】より

…経の内容も,教団の拡大と大乗経典の発達にともない,経,律,論に分かれ,〈大蔵経〉として集大成された。経をめぐる美術には,例えば僧侶の修学のための経典を収める寺院の経蔵がある。また,経がひとたび教団から大衆に受け入れられるようになると,その内容も経変として壁画,屛風,絵巻などに描かれるようになる。…

【別当】より

…律令官制に正官をもつ官人が本来の職務とは〈別〉に特定官司の職務全体の統轄・監督に〈当〉たるときに補任される職名。9世紀以降寺院,令外官(りようげのかん),家政機関などの統轄責任者の称として一般化した。(1)造東大寺司 奈良時代,造東大寺司管下の所(ところ)(写経所,造仏所など)の別当。…

※「寺院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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