ギリシア文学(読み)ギリシアぶんがく

改訂新版 世界大百科事典 「ギリシア文学」の意味・わかりやすい解説

ギリシア文学 (ギリシアぶんがく)

インド・ヨーロッパ語族の一派に属するギリシア語は,前12世紀のミュケナイ時代の末期の粘土板文書に姿を現してから,古典古代(前8~後5世紀),ビザンティン帝国(1453崩壊),現代ギリシアの独立(1829)を経て今日に至るまで,東地中海諸地域における共通言語の一つとして3000年以上の長きにわたる生命を保ちつつ,日常言語としてはもとより,文学作品,公式記録,外交文書の言語としてきわめて重要な位置を占めてきた。その強靱な生命力と洗練された表現力に匹敵するものはラテン語と中国語あるのみかと思われる。古代ギリシア語によって著されたものは,叙事・抒情・演劇などの詩文作品,対話・旅行記・小説・随筆・書簡・日記などの散文体作品など狭義の文学をはじめ,歴史記述,地誌,法令・決議文,政治弁論,法廷弁論,修辞学,哲学,政治学,文法学,文献学,旧・新約聖書や神学,護教論など,広く人文・社会科学の全域にまたがり,さらに医学,数学,生物学,物理学,天文学など自然科学の基礎領域にまで及んでいる。しかもこの多岐にわたる文学の表現様式や,諸々の基礎学の研究方式は,いずれもみな西欧においては古代ギリシア人によって発見ないしは初めて確立されたものである。この点でも東洋において比肩しうるのは,諸学の礎を築いた中国文化あるのみであろう。

 しかし古代ギリシア文明と漢文明との差異も深く広い。漢文明が大河大陸性の文明であるのに比して,ギリシア文明は海洋性の特色が強い。しかし両文明,とりわけ文学の道を大きく分かつことになっているのは,漢字とアルファベット文字の違いである。漢字は象形文字から発達した複雑・多数の文字であるに比して,ギリシア語は前12世紀ごろは音節文字(約100個の文字による仮名記法)を,前8世紀以降は音声を24個の簡単な字による母音・子音の組合せとして表記するアルファベット記法を用いた。ギリシア文学の諸作品は,最初からこのきわめて簡便な文字記法によって筆写された。これは文字記法に,ひいては文学全体にかつてない開放性を与えた。女性も子どもも奴隷も簡単に読み書きに習熟することができたからである。またアルファベット記法は,正確にギリシア語を記録し,各地方,各時代の音声上の特色を書き留めることを可能にした。神話・伝説などの口頭伝承の文字化を平易にし,多様な変化に富む歌謡や語り物のリズム構成の表示をも可能ならしめた。古代ギリシアの文学や思想の優れた特色である平明さ,論理性,人間中心主義は,文字の障壁を超克した自由な思惟とその表現の特色であり,これはアルファベット記法の発明とまさに表裏一体の関係にある。

Ⅰ叙事詩成立の時代(前8~前6世紀),Ⅱ諸ポリス(諸方言)の抒情詩文学の時代(前7~前5世紀),Ⅲアテナイ文学の時代(前5世紀~前323),Ⅳ田園と都市の文学と文学研究の時代(前323-前31),Ⅴローマ帝政期のギリシア文学(前31~後6世紀),Ⅵビザンティン時代の文学と古代文芸の復興(330-1453),Ⅶ独立後の近・現代ギリシア文学(19世紀初頭以降から今日まで)。これら七つの時代区分はまったく便宜的なものにすぎないが,ギリシア文学の表現様式を根本的に改めていった,政治・社会面での歴史的基礎条件の推移・変遷とおおむね対応している。以下ⅠからⅤまでの概要を順次述べていきたい。ⅥおよびⅦについては〈ビザンティン文学〉とこの項末尾の記述を参照されたい。

ミュケナイ時代の記録には文学の痕跡は発見されていないが,前8世紀以降台頭するホメロス,ヘシオドスらの叙事詩文学の最初の萌芽は,前12世紀以降の〈暗黒時代〉に諸地を歴遊した吟遊詩人(アオイドスaoidos)の語り物技芸に発する。今日伝わる両詩人の作品は初期イオニア方言をおもに用いた職業的詩人たちの間で口承の語り物として成立し,彼らの間で代表的レパートリーとして発展・熟成の過程をたどった。アルファベット記法の発明とエジプトからのパピルス紙の大量導入によって,口承文芸はにわかに文字作品に転ずる契機をつかみ,数多くの口承叙事詩も前500年代半ばころには増補や改作を経つつ,文学作品として定着したものと思われる。こうして成立したギリシア叙事詩の古本諸流は前400年ころまでに諸都市の記録所や個人の所有として伝播していたが,前300年ころエジプトのアレクサンドリアにおいて集輯され,約150年間にわたる校訂作業を経て現存するホメロス,ヘシオドスらの〈祖本〉が完成されたのである。

 口承文芸の段階から〈祖本〉校訂の完了までその間7,8世紀,ギリシアは都市国家(ポリス)群の興隆,ペルシア帝国との幾度かの戦争,ギリシア人同士の覇権争い,マケドニア王国の勃興とギリシア統一,アレクサンドロス大王の東征とヘレニズム世界の出現,という歴史のめまぐるしい推移を閲(けみ)した。しかしその間一貫して初期の叙事詩文芸,とりわけホメロスの《イーリアス》と《オデュッセイア》やヘシオドスの教訓詩が至高の評価に値するものとされてきた。それはこれらの作品が平明な言葉と論理的な筋の運びによって,歴代のギリシア人たちが世情の転変を超えて求めてやまなかった人間的な諸価値を,具体的に人間行為を通じて示し,称揚し続けてきたからにほかならない。それは正義や平和や労働など,一回性の習俗や宗教にはとらわれない人間社会に普遍の価値を明らかにし,人間を人間ならしめる判断,選択,勇気,情愛を,戦争談や帰郷談,そして労働の歌を通じて語り続けたからである。世界文学としてのギリシア文学の位置づけは,諸国吟遊のホメロスやその継承者たちによって確立されたといっても過言ではない。

吟遊詩人たちが活躍していた現実のギリシアは,じつに数百の小都市国家のひしめく分立割拠の時代であり,またおのおのの都市国家はあげて政権争奪をめぐる内乱の様相を呈していた。市民たちはおのおのの地域において,個人としてまた集団として,自己の立場や心情を明確に語る内的あるいは外的な要求を感ずることが多かったのであろう。初期のエレゲイア詩人たち(エレジー)の主題はいずれも,現実の社会と人間のあるべき姿に迫ろうとしている。スパルタのテュルタイオスTyrtaiosは内戦克服に向かう市民の勇気と正義心こそ新しい社会秩序の礎となるべきことを,パロスのアルキロコスは戦乱の悲哀を超克する果敢な心意気を歌う。彼はまたみずからの創始したイアンボス詩を風刺の武器として,何ものにも屈しない己の姿を映しだす。アテナイの政治家ソロンは故国の内乱収拾のために法を制定し,法の精神をエレゲイア詩に託してさとす。彼は一人の人間として貴ぶべきささやかな幸福について歌うことも忘れない。

 前7~前5世紀の諸都市における神々の祭祀や市民たちの冠婚葬祭の場もまた,各種の抒情詩文学の興隆と開花を促した。スパルタのアルクマンはアルテミス女神をことほぐ乙女たちの歌を,シチリア島ヒメラの詩人ステシコロスは抒情詩の形による叙事物語を,レスボス島の女流詩人サッフォーは情熱的な恋の歌を,おのおの地方色の濃い題材と方言とを織り交ぜながら歌っている。この時代の抒情詩文学においては,時と場所が課する要請と,歌い手の詩人自身の個性とが不可分の一体を成している場合も多く,アルカイオスのように政治と自分と酒の歌とが一つに歌われているものもある。またこの時期に各地の僭主たちの宮廷に招かれて宴席に華をそえたイビュコスやアナクレオンのような耽美的詩人たちも現れている。オリュンピアの体育競技の祭典やデルフォイ,イストミア,ネメアなどでの同様の催しがにぎわいの頂点にあったのも前500年代のころであり,競技祭における神人一体の勝利の喜びを合唱歌として歌った詩人たちは数多い。中でもバッキュリデス,ピンダロスらの作品は,パピルス巻本や中世写本の形で数多く伝わっている。またこの時代の文学作品として墓碑詩が多く伝存することを忘れてはならない。死者の悲哀と現世にとどまる者との間に追慕となって行き交う詩情は,ペルシア戦争戦没者を追悼するシモニデス作の《墓碑詩(集)》において頂点に達している。

 詩形,方言,神話的モティーフ,政治と人間の葛藤,そして詩人の自己主張,いずれの点を見ても多彩なギリシア抒情詩文学は,林立する都市国家群の姿の忠実な投影であった。しかしそれは,相続く争乱と大国による支配強化のもとに小国家群の自立性が弱められるに及んで凋落の道をたどる。抒情詩文化の担い手であった貴族階層の没落とともに,抒情詩人たちの活躍は前400年代中ごろ以降はとみに衰える。かろうじてエレゲイア形式の随想表白や墓碑詩,エピグラム,酒宴歌(スコリオン)などが,受け継がれる。通称《テオグニス詩集》として今日伝わるものは,詩人テオグニスの作品を中核として,後世に至るまでのエレゲイア詩を集輯して生まれたものである。

叙事詩と抒情詩という2本の大道を進んできたギリシア文学の歩みは,ペルシア戦争を境として大きく変容する。デロス同盟の結成とともにエーゲ海支配の覇道を歩み始めたアテナイは,新しい演劇運動と散文体文学誕生の中心地となった。客席数が万を超す大劇場では悲劇・喜劇が熱狂的に歓迎され,市民の直接参加による議会では政治家たちが弁論を競い,陪審法廷では原告・被告が甲論乙駁の火花を散らせる。アテナイではこのような状況が過熱した民主主義のもとに70年以上も続いた。文学はこの時代に著しい趣向の変化をみせたのである。

 大劇場・大観衆という条件と,そこで求められたであろう強烈な刺激的要素を考えてみれば,前400年代のアテナイの劇文学が,堕落し俗悪なものとなったとしても,理解できないことではない。しかしアテナイ文学が刻み残している道はまさにその反対である。後年アリストテレスも認めているように,アテナイの悲劇・喜劇の芸術は単純素朴な即興大衆演芸から始まり,従来の叙事詩と抒情詩の文学的伝統を総合的に吸収・集約し,ついに新しい表現様式として高度の完成に達したのである。今日伝存するのは当時上演された作品総数のおそらく数百分の一に過ぎないが,それでも作者たちの抱いた高遠な展望を十分に知らしめる。アイスキュロスは古い神話・伝説が伝える人間の迷妄,執念,呪詛が織り成す葛藤や悲劇が,新しい正義と秩序のもとに苦難を経つつも解決に向かうべきことを告げている。続いてソフォクレス,エウリピデスらも観客の心眼を,人間の行為と運命を神々の眼からとらえる悲劇芸術の視点にまで高めようとしている。さらに特記すべきはアリストファネスの喜劇であろう。完全な言論の自由を喜劇詩人の特権として容認したアテナイ民主主義の特質も刮目(かつもく)に値する。しかし,アリストファネスは市井人の猥雑さや政治家・知識人の堕落ぶりを俎上(そじよう)にのせ放埒(ほうらつ)な揶揄(やゆ)を浴びせることもできるその自由を,いたずらに俗受けの手段にとどめることなく,文芸,政治,教育に対する真剣な批判と風刺の道具とし,笑いこそ健全なる常識の勝利であることを示し続けている。この喜劇詩人の誇り高い態度こそ,アテナイの演劇を民主主義の指針たるべきものへと高めたといえよう。

 外国人に対して開放的であったアテナイには,諸国の詩人,芸術家,学者たちが足繁く訪れて,アテナイ文化の興隆に多大の刺激と貢献を与えた。とくに文学の領域においては彼らの寄与なくしては,アテナイの散文体文学の成立は異なる道をたどっていたに違いない。散文体は前400年代前半にイオニアで発達しはじめたが,これは詩文体と異なり,事物を対象化し,これを分析・整理して記述するのに適している。イオニアでは散文体による地誌,旅行記,書簡文の類が生まれたが,歴史家ヘロドトスの出現とともに散文体文学は名実ともに一つの完成へと駆け上る。人間世界のできごとを収録し,その因果を究明するという壮大な知的展望のもとに繰り広げられる彼の《歴史》の文章は,その明快優美な流れのゆえに,ギリシア散文体文学の最高傑作の一つに数えられている。

 イオニア散文の今一つの雄は,医学者ヒッポクラテスの《医学論集》である。ここには医学史や,今日でも職業的医師の倫理綱領となっている〈ヒッポクラテスの誓い〉,〈神聖病〉と呼ばれていたてんかんの病理的究明,風土・体質・病気・文明の相関を論じた環境論などが含まれており,同時代の叙事詩や演劇詩,また歴史記述などとはまったく別個の角度からの人間論が,明晰な文章でつづられている。

 ヒッポクラテスの医学的人間論と,ヘロドトスの歴史記述とが,アテナイの貴族主導型の民主政治の精神的土壌に吸収され,装いを新たにして誕生したものが,アテナイの歴史家トゥキュディデスの《戦史》である。彼こそは,歴史の主役が人間性そのものであることを鋭く看破した最初の歴史家であり,人間が人間であるかぎり妥当性をもつ歴史記述の方法を明示してこれを実践しようとした,最初の歴史哲学者でもあった。

 散文技術の発達は,ギリシア語という言語そのものの解析をも可能にした。言語が単なる音声の流れではなく,一定の数と順列に並べられた子音と母音の組合せからなり,その組合せはある〈法則〉に基づいていること,したがってまたその〈法則〉を理解すれば,言語の分解や組替えも可能であるという了解は,アルファベット記法の原則に含まれている。前500年ころ哲人ヘラクレイトスによって,言語に内在する統辞的な〈法則〉の存在が発見されるや,次の世代の知識人たちは,その〈法則〉の具体的な機能の究明に取り組むこととなる。アテナイにやってきた高名なソフィストたちの活動の実態は不明の点が多いが,彼らが言語の〈法則〉,すなわち語彙(ごい)・文法・修辞の諸問題を熱心に論じたことは確かであり,彼らの教説が議会や法廷における弁論の技術はもとより,悲劇・喜劇の中にまで著しい影響を与えていることは確認できる。アテナイの哲人ソクラテスの対話のねらいも,実はギリシア語統辞論の目覚めと不可分の関係にある。アテナイの散文技法の特色は,詩文よりもはるかに正確に主語と述語の論理的関係を明示しうることであった。ソクラテスの問題は,従来の文章表現を組み替えて新たな価値を探ろうとするものであったが,この試みにこそ,知の道の基盤があることを主張して譲らなかった。ギリシア的知性の証ともいわれる論理学は,こうしたアッティカ散文統辞論の自己検証と,新しい組替えの可能性の追究から生まれたといっても過言ではない。

前5世紀末,ペロポネソス戦争の敗北とデロス同盟の崩壊を機に,アテナイの文学活動は重大な転機を迎える。エウリピデスの亡命,ソフォクレスの死によって悲劇文学は一つの時代の終りを告げられる。喜劇も政治情勢の激変を鋭敏に反映して,それまでの自由な政治風刺や個人攻撃の矛を収める。中にはクセノフォンのように他国に亡命しながらも,追憶談義や冒険旅行記,伝記や歴史小説のごとき新しい文芸ジャンルの開拓に足跡を残したものもいる。またソクラテスの弟子プラトンのように,現実の社会と政治には携わらず,前5世紀のアテナイ文化に対して容赦ない道徳的批判を浴びせ,ついに詩人追放論を公にするものが現れたのも,この時代の極端な一つの反動的動きを示している。

 前4世紀初めのアテナイの文人たちの活動にはこのような幻滅感,ないしは遠心性ともいうべき特色が顕著ではあるが,反面,法廷や議会,祝典などの制度上の民主的機能の復活とともに,優れた弁論家が輩出し,名文を数多く後世に残していることも大きな特色である。リュシアスはもっとも純粋なアッティカ散文と称される弁論体によって,法廷弁論をつづり,イソクラテスは華麗な文体を駆使して全ギリシア的和合を目ざす政治と文化の理念を説く。中でもデモステネスの政治弁論はまさに壮絶といわねばならない。彼は,北方からギリシア全土の併呑をたくらむマケドニアの王フィリッポス2世に対抗して,ギリシアの自由を主張して果敢な論陣を張り,みずからの命をもってその政治責任を負う。激しい気魂に満ちたその弁論集は,古典期都市国家の理念を訴える最後の証であり,ローマ時代はもとより,ルネサンスから現代に至る西欧修辞学のかがみと仰がれている。修辞学とは単なる言葉の技術ではなく,人間の言葉が真に表すべき誇り高い理念を基底として立つ芸術であることを,デモステネスは告げているからである。

 前4世紀はギリシア文学の伝統の総点検と批判と再評価の時代であり,このギリシア文学史第Ⅲ期の優れた総括がアリストテレスの《詩学》と《修辞学》である。彼の師プラトンは,真理究明を目ざす哲学の見地から見れば,詩文は虚妄の影に過ぎないと断じたが,アリストテレスは文学の創作と享受こそ人間の生の喜びに根ざし,あらゆる学の出発点たりうることを示す。師プラトンは,道徳的見地から見て,詩文・弁論は社会的諸悪の源泉であると批判したが,アリストテレスは,文学の魂ともいうべき人間行為の構造的把握(ミュトスmythos)こそ,人間が己の生を理解する優れた道である,という。また彼は,いかなる英知も正論も,人の心を知り己の言葉を律する法則によって語られることがなければ実践的価値を示しえない,と措定し,その法則(修辞学)の体系的解明を遂げる。彼は,厳密な証明の技術(論理学)と,人間一般の理解と賛同を訴える技術(修辞学)とはおのずと性質を異にするが,両者は車の両輪に等しく人間にとってはいずれを欠くこともできない,というのである。大自然と人間界とを一つの有機体と見るアリストテレスの体系的思想において,文学は初めて普遍的位置づけを与えられ,人間学の基礎とされたのである。

アレクサンドロス大王の東征とともに,ギリシア語とギリシア文化は洪水の勢いでオリエント世界に浸透し,大王配下の諸侯がエジプトや小アジアの各地に建設した大都市がギリシア文化の前衛拠点となっていく。ヘレニズム文明の拡散と同時に,ギリシア文学もおのずと主題と装いを改めていく。アテナイでは前5世紀の悲劇・喜劇は〈古典〉となり遠ざかるが,これらに代わってメナンドロス,フィレモンPhilēmōn,ディフィロスDiphilosらの〈新喜劇〉が新しい時代の先駆となる。ここではかつてのように一都一国の命運を担った英雄や政治家が悲劇・喜劇の中心を占めるわけではない。都市や田園はもはや神と人間との対決の場ではなく,市民あるいは農夫の生活の場である。文学作品においてはその一隅に暮らす一私人が,運命のひそかな計に導かれ思わぬ転機に遭遇する顚末が筋となり,老若男女の人情の機微が場面展開の端々に語られる。ここには明らかにヘレニズム文学の先触れが認められる。また,アレクサンドロスや諸侯の宮廷では,〈擬曲(ミモスmimos)〉と呼ばれる世情描写の寸劇が盛んに演じられた。現存するヘロンダスの《擬曲》(《ミミアンビ》とも呼ばれる)は,男女風俗,追想,恋物語などをかなり卑俗な形で模している。しかし同じ擬曲風とはいえ,シチリア島の詩人テオクリトスの《牧歌(エイデュリオン)》は,高度に文芸化され洗練された趣向を見せている。登場人物は牧童や町の女たちで擬曲風であるが,彼らが歌う歌くらべや,恋愛,別離,追悼などのモティーフや言葉づかいは,テオクリトスが明らかに芸術的造詣の深い文人や学者たちなど,少数読者のために書いているという印象を強くする。

 ホメロス以来第Ⅲ期までギリシアの詩人,歴史家,弁論家たちは都市国家の全市民たちに向かって語り続けてきた。しかしヘレニズム期の詩人たちは山野や田園や都市の一隅を彼らの宇宙と見立てて,そこに文芸的造詣深く,情緒細かい人間理解が交わる文学の世界を築く。ロドスのアポロニオス,キュレネのカリマコスは,互いに文学観を異にしたと伝えられるけれども,共通するところもまた著しい。2人の深い学識と詩的洞察によって,森や泉,古い神々のほこらやひなびた祭祀,またそれらのいわれを伝える縁起譚が田園の神話となってよみがえる。狂暴な神々は去り,人間中心の小叙事詩やエピグラム詩の中には,穏やかな人の心と自然の営みが歌われ,恋人たち,幼い子どもたちの愛すべき姿が登場する。アポロニオスの《アルゴナウティカ》の英雄イアソンは,初期叙事詩の武張った強勇の士たちとは著しく異なり,コルキスの王女メデイアの心を恋の炎で焼き焦がすロマンスの騎士に近いものとなっている。

 アポロニオスやカリマコス,また《ギリシア詞華集》に幾多の秀作をとどめているエピグラム詩人たちが掲げた文学的規範は,ギリシア文学を〈ポリス的世界〉という約束から解放し,〈純文学〉という新しい世界を開くものであった。これは古くサッフォーが先鞭をつけた個人的抒情にも連なるものであるが,ヘレニズム時代の詩人たちはどのような外的変化が訪れようとも,またどのように厳しい評価が加えられようとも,人間が人間であるかぎりその試練に耐えうるような,純粋文学が持すべき基準を意識的に創造することに情熱と学識を傾けたのである。彼らの文芸理念の継承者たちはやがて,ローマ共和政末期から帝政初期にかけてきら星のごとくに現れ,ラテン詩文の黄金時代を築く。ヘレニズム文学の繊細・強靱な精神こそ言語や民族の障壁を超え,歴史の風雪にもよく耐えるものであることを示したのが,カトゥルス,ウェルギリウス,ホラティウス,そして帝政期のオウィディウスらの恋愛詩人たちであったのである。

ヘレニズム時代は中・西部地中海におけるローマの支配権確立とラテン文学誕生の時代とも重なりあう。前2世紀を通じてヘレニズム諸王国とローマ元老院との接触が深まるにしたがって,高度の表現力に富むギリシア語と専門化されたギリシアの学問や諸技術は,ローマの政治家たちにとって必須の素養と化していく。ホメロスはラテン語に訳され,メナンドロスらの新喜劇の翻訳・翻案劇はローマの観衆の間でかっさいを博する。ここにまたギリシアの文筆家や哲学者たちが,ローマ人の被護者のもとにギリシア語で執筆活動を行う素地が培われた。スキピオ一族の被護下に前2世紀早くも《ローマ興隆史》を著したギリシア人歴史家ポリュビオスの足跡は,いみじくも,ローマの覇権下に生きることとなったギリシア人らの文芸活動を先触れするものといえよう。共和政ローマの政治家・知識人にとってアテナイ留学は必修課程であり,またロドス島のストア派の大学者パナイティオスやその弟子ポセイドニオスの教えを請うた者たちも数多い。アウグストゥス帝の時代にもギリシアの学者たちは優れた専門家としての好遇を受けるが,中でもハリカルナッソスディオニュシオス(ディオニュシオス・ハリカルナッセウス)の著述は今日までよく伝存し,その《ローマ史》は貴重な文献資料であり,またそのギリシア文芸や弁論家についての著述や《トゥキュディデス論》は,ローマ時代はもとよりルネサンス以降の近世人のギリシア語・ギリシア文学理解に多大の影響を与えた。またアレクサンドリアでは,ギリシア文学研究の資料散逸を憂えたディデュモスが,数千巻を数える注釈書を草したと伝えられ,今日わずかにパピルス巻本で残っている《デモステネス》注釈は,古代随一の文献学者の該博な知識と旺盛な探究心の一端を鮮やかにとどめている。

 ヘレニズム世界の広大な広がりに接し,わけてもローマ人有識層の血肉と化していったギリシア文学は,ここで再び新しい読者と時代を前にして,新たなる発言の形と内容を創出しようとしたかに見える。ディオニュシオスやディデュモスの盛んな文筆活動は,一見ただ学問上の貢献にとどまるかのごときであるけれども,この広大な地中海世界の知的覇者となるに至ったギリシア語,そしてギリシア文学とは,どのようなものであるのか--いわばギリシア文化の総体を広く世界の人々に知らしめる強い願望に根ざしていた。アウグストゥス帝の時代に著された作者不詳の(ロンギヌス作と誤伝されている)《崇高について》と題する小論文も,かつてギリシア文学の代表的な担い手たちが目ざしてきたものを一つの理念としてとらえて,これを〈崇高〉という概念でとらえ,これを語り明かそうとしている。ギリシア・ローマの歴史を一つの偉大な人類の体験として眺観する視点を掲げているのはまた,カイロネイアの人プルタルコスである。古代人の倫理的判断と生きざまをつづった《英雄伝(対比列伝)》は,古代伝記文学の伝統の頂点に位置づけられる。またその《随筆集》は,一つのドグマに偏することなく自由寛容に人間の営為を理解しようとする筆者の態度を余すところなく告げる。プルタルコスの著述においては,古代人の生の内面から輝きいでる力強い資質が語られているゆえに,時代が移ろっても古代の人々の面影を彷彿させる。過ぎにしギリシア文学の伝統を追慕する心情は,やはり帝政期の地誌家パウサニアスの《ギリシア旅行記》にもあり,フィロストラトスの《絵画論》《彫刻論》などからもくみ取ることができる。他方,アルキロコスやアリストファネスらの活発な風刺の精神もなお衰えず,この時期の文学に異彩を加えている。サモサタの(自称シリアの)ルキアノスはみごとなアッティカ風文語文によって世に蟠踞する偽予言者,偽哲学者などを次々に風刺のやり玉にあげている。あらゆるものが彼の否定的・懐疑的な笑いの対象とされながら,古典期のギリシア文学のみはやはり一種の聖域となっており,ルキアノスもまた,懐旧の時代の申し子であったことがわかる。さらに4,5世紀の,帝政期末期のギリシア語著述としては,弁論家の祝典演説の類や,弁論術教程という種類のものが数多く伝わっているが,いわゆる娯楽的な読物としてはわずかに小説が数編伝わるのみである。漂浪・冒険・恋愛・再会という段取りで展開する恋人たちの別離と再会の散文物語は,《オデュッセイア》からメナンドロスまでの文芸的モティーフを総ざらいして,ヘレニズム世界を背景に語り直したという印象が濃いが,しかしなかには《ダフニスとクロエ》のように独特の詩情を漂わせているものもある。帝政末期になると,アレクサンドリア以来の高雅な文学理念の継承者はほとんど影をひそめてしまうが,かろうじて叙事詩のジャンルではノンノスの《ディオニュソス譚》が,ヘレニズム時代の厳密な叙事詩技法の修練がなお創作に息づいていたことを証言している。

最後にギリシア文学の作品伝承につき述べておきたい。古代ギリシア人自身の手稿原本は今日一片も伝わっていない。彼らの作品集写本はアレクサンドリア,あるいはローマなどで校訂され,ローマ世界に広く伝播したが,西ローマ帝国崩壊後は,東ローマの首府コンスタンティノポリス(コンスタンティノープルイスタンブール)に伝わる。それらの古代写本(その現物もほとんど伝わらない)は,800年代末から900年代の,ビザンティン文芸復興の時代に,新しい形の中世写本に転写され,それらがやがてイタリア・ルネサンスの諸都に伝えられ,現在ミラノ,ベネチア,フィレンツェ,ローマ,ナポリ,パリ等の図書館,教会,修道院に伝存する諸写本がギリシア文学作品のもっとも古い物的証拠となっている。

 原作者と伝存写本との時間的隔りは十数世紀にまたがり,その間数次にわたる転写過程に生じた誤字や錯簡の事例はおびただしいが,全体的に見るならば,筆写の正確さこそ強調されてしかるべきであろう。伝存する中世写本と,2世紀のパピルス巻本が断片的に伝える文言とを比較すると,パピルス巻本より10世紀も後の写本が伝える文言が正しい場合が多く,中世写本という形の作品伝承の権威と,これを支えてきた学問の伝統をうかがい知ることができる。

 15世紀以降,中世写本の集輯と研究活動が盛んとなり,ビザンティン写本やイタリア系写本の系統的研究が着実な歩みを遂げ,今日までの約5世紀の間に西欧諸国の多数の校訂学者たちの手によって綿密な写本校合と校訂が絶えまなく進められ,その結果,古代ギリシア人作家たちの伝存する作品は,ほとんどすべて校訂本の形で世に流布されるに至っている。作品中,その数はわずかであるが,中世写本によっては伝わらず,帝政期のパピルス巻本の状態でのみ伝わっているものも近年再発見されており,ギリシア文学研究に多大の刺激を与えている。
ギリシア演劇 →ビザンティン文学 →ラテン文学
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近代ギリシア文学は1829年,この国がトルコから独立したときに始まる。この時期の文学の課題はギリシア人に近代的統一国家の国民としての自覚を与えることと,文学表現にふさわしい言語を確立することであった。言語問題は古代風の純正語の復活を主張する派と日常的な民衆語派の対立という形をとり,論争は今もなお続いているが,文学に関するかぎり民衆語派の勝利は確定したといってよい。民衆語に崇高な国家的内容を盛り,国民意識をおおいに高揚したのがソロモスDionýsios Solomós(1798-1857)の《自由の讃歌》(1823)である。ザキントス島に生まれた詩人が25歳にして書いたこの詩は後に国歌となり,彼は国民詩人と呼ばれた。彼は単なる独立のスローガンの域を越える高度な作品をも多く書いたが,それらの真価が理解されるようになったのは20世紀になってからであった。ソロモスに次ぐ世代は19世紀ロマンティシズムの応用に終始したが,1859年生れのパラマスKóstis Palamás(1859-1943)に至って近代ギリシアの精神はより雄弁な表現を見いだした。パラマスの詩の世界には個人の抒情と国民的な抒情という二つの極がある。前者の代表としては《ゆるがぬ生活》(1904)という傑作があり,後者には《王の笛》(1910)のような作品がある。

 19世紀ギリシアの詩人にとって国家はなかなか重要な問題であったが,アレクサンドリアに生まれて生涯のほとんどをこのエジプトの町で過ごしたK.カバフィス(1863-1933)の場合には近代ギリシアという国はなんの意味も持たない。彼は3000年にわたるギリシア人の歴史を題材に,独特のアイロニーに満ちたスタイルで失われた栄光と運命の皮肉を語った。シケリアノスÁngelos Sikelianós(1884-1951)も国家などにはかまわずひたすらに自然と宇宙と神秘をきわめて美しく歌い,完璧な抒情詩人を目ざした。N.カザンザキス(1883-1954)も国家をはるかに超越した。このクレタ生れの巨人は近代ヨーロッパの哲学からキリスト教,イスラム教,仏教までを走りまわって人生の意味を追い求め,それを多弁な詩行と散文で表現しつづけた。彼の代表作《オデュッセイア》(1938)はホメロスの英雄の後日談を3万3333行にわたって語りつぐ長大なもので,ここには人間の精神のすべての側面がダイナミックに展開されている。近代ギリシアではあまりふるわなかった小説の分野でも彼は《アレクシス・ゾルバスの数奇な生涯》(1946)のような傑作を残している。

 1930年代以降ギリシアの詩人たちはフランスのシュルレアリスムの影響を受けて新しい成熟した詩風を確立し,これが現代ギリシア詩の主流となった。この世代の詩人たちからは外交官として困難な時代の小国ギリシアの苦悩をおのが身に体現したG.セフェリス(1900-71)と,厳密な形式の中にエーゲ海の自然と太陽の優越を歌ったO.エリティス(1911-96)という2人のノーベル文学賞受賞者が生まれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギリシア文学」の意味・わかりやすい解説

ギリシア文学
ぎりしあぶんがく

古代ギリシア文学はホメロス(前8世紀)に始まり、前古典期(前8~前6世紀)、古典期(前5~前4世紀)、ヘレニズム時代(前3~後1世紀)を経てローマ帝政後期の5世紀までの間にギリシア語で書かれた文学作品をさすのが通例である。

 ギリシア民族がバルカン半島に入ったのは、紀元前二千年紀初頭とされるが、定住後、先住民やオリエント諸国、ことにクレタ島のミノア文明の影響を強く受けて、独自の文明を形成した。これがミケーネ文明で、前1400~前1200年にもっとも栄えた。この時代に使用されたいわゆる線状文字Bが20世紀中ごろに解読されて、ギリシア語を写していることが判明した。これによりギリシア語の歴史は400年ほどもさかのぼることになったが、粘土板に記されたこれらの文書は、内容が行政事務用のメモに類するものばかりで、文学とはかかわりがない。したがって、ギリシア文学の歴史がホメロスに始まるという定説は今日でも動かない。なお、ビザンティン帝国の崩壊(1453)から現代に至るギリシア文学については別項「近代ギリシア文学」を参照。

[松平千秋]

ギリシア文学の特質


 ギリシア人は前10世紀ごろから、政治的、経済的理由で各地に植民を図ったが、ことに歴史時代に入る前8世紀以降は、植民活動は活発を極め、東は小アジアの沿岸一帯、西はイタリア半島およびシチリア、南フランスからスペインに及び、北は黒海沿岸、南はアフリカ北岸に至る広大な地域にギリシア都市を建設した。その結果、ギリシア各地に、様式、言語(方言)、韻律を異にする、それぞれ独自の文学が生まれ、ギリシア文学は他の文学には類をみない多様性を示すことになった。ただし、古典期にはアテナイ(アテネ)、ヘレニズム時代にはエジプトのアレクサンドリアと、それぞれ都市が文芸の中心地となったため、地方色を反映した文学は影が薄れていった。

 叙事詩、叙情詩、演劇、散文など文学形式のすべてがギリシア文学に発している。小説のみは近代文学の創造であるといわれるが、ローマ帝政期に流行した恋愛物語、いわゆる「ギリシア小説」は、近代小説とは趣(おもむき)を異にするとはいえ、まったく無縁ではない。古典文学においては、文学の概念を近代よりも広く解釈しており、哲学、歴史、弁論、さらには自然科学の分野にも及ぶことが少なくない。ヘロドトス、ヒポクラテス、プラトン、デモステネスらが文学史に登場するのは、彼らの作品が散文学の代表と目されるからである。

[松平千秋]

ギリシア文学の歩み

叙事詩

ギリシア文学が、ホメロス作と伝えられる『イリアス』『オデュッセイア』の二大叙事詩に始まるという定説は、唐突と受け取られるかもしれない。稚拙な揺籃(ようらん)期から成熟への過程を省略して、いきなり完成度の高い作品を掲げているからである。しかしギリシアの叙事詩がホメロス以前数百年もさかのぼる長い伝統を担っており、ホメロスはその最終的結実であることは疑いない。ホメロスの天才によって理想的完成度に達した二大作品の出現により、前代、同時代、および後代の群小作品は色あせ、やがて忘れ去られた。ホメロス作と伝えられる作品はほかにもいくつかあったが、いずれもホメロスより後代の作。『ホメロス讃歌(さんか)』と称する、わが国の祝詞(のりと)に似た趣の小叙事詩30編余、英雄叙事詩のパロディー『蛙鼠(けいそ)合戦』などである。また「叙事詩(キュクロス)の環」と称する一連の叙事詩も多くつくられた。トロイア(トロイ)伝説をはじめ、テバイ(テーベ)伝説、ヘラクレス伝説など巨大な伝説圏を、それぞれいくつかの独立した叙事詩で完結するように構想されたもので、わずかな断片以外伝わっていない。

 ホメロス流の英雄叙事詩はイオニアで成立したが、ギリシア本土ではボイオティアを中心として、やや趣を異にする叙事詩の一派が栄えた。イオニア派に対して本土派またはボイオティア派といわれ、その代表的詩人がヘシオドス(前8世紀末)である。イオニア派は華やかで娯楽的性格が強いが、本土の叙事詩はむしろ実用的、倫理的色彩が濃い。ヘシオドス作『仕事と日々』は、放埒(ほうらつ)な弟を戒め農事を教える目的で書かれた一種の農事暦。『神統記』は、神々の系譜を述べつつ人倫の道を説き、ホメロスと並んでのちのちまでギリシア人の宗教観、倫理思想に影響を与えた。

 前7世紀以後はしだいに衰えるが、ヘレニズム時代のアレクサンドリアでは、カリマコス、アポロニオスの2大家によって叙事詩の再興が行われる。カリマコスは小叙事詩に新工夫を凝らし、アポロニオスは『アルゴ船物語』4巻の長大な作品を著した。いずれもローマ時代の作家に与えた影響は大きい。ローマ帝政期に入り、4~5世紀のころクイントゥス・スミルナイウスが『ホメロス後日談』14巻を、ムサイオスが『ヘロとレアンドロス』を、エジプト生まれのノンノスが『ディオニソス物語』48巻を著した。いずれも後世まで広く愛読され、近世の文学にも影響を与えた。

[松平千秋]

叙情詩

古代ギリシアには今日の叙情詩に相当する用語はなく、イアンボス、エレゲイア、独唱詩、合唱歌などと、それぞれの詩形や様式によってよばれていた。したがってここに叙情詩というのは、詩人が韻律によって自己の感懐を述べた作品というほどの意味で、多くの場合、竪笛(たてぶえ)または竪琴の伴奏を伴うものをいう。

 エレゲイアとイアンボスはともにイオニアにおこった。エレゲイアは叙事詩形を若干変形した2行1連からなり、イアンボスは短長の韻脚を6脚含む1行単位の詩形である。両者はほぼ並行して発達し、アルキロコス、ソロンのように両詩形を用いた詩人も少なくない。エレゲイアはその詩形から推測されるように、荘重厳粛な内容のものが多く、軍歌、恋愛歌、哀悼歌、さらに政治思想、人生観を述べたものなど、その主題は多岐にわたった。その代表的作家としてアルキロコス、カリノス、チュルタイオス、ミムネルモス、やや下ってソロン、さらに遅れて教訓詩の作家として名高いテオグニスがいる。なお、前6世紀の哲学者クセノファネスも、エレゲイアやイアンボスの詩形で優れた作品を書いた。イアンボスの韻律は日常の話しことばに近いといわれるように、その内容もエレゲイアに比べはるかに砕けたもので、個人攻撃、または鬱屈(うっくつ)した世間への不満を風刺、罵倒(ばとう)で発散している。アルキロコスはその代表的詩人で、陋巷(ろうこう)にあって無頼の生涯を送ったヒッポナクスや、人生の悲哀を歌い、女のタイプを動物その他に見立てた風刺詩を残したセモニデスは彼の後継者である。

 今日の叙情詩にもっとも近いのは、アイオリスとイオニアにおこった、いわゆる独唱詩である。多くは4行を単位とするスタンザ(連)形式のもので、竪琴で弾き語りしたものらしい。アイオリスでは、レスボス島のアルカイオスとサッフォー、イオニアではアナクレオンがその代表的詩人。いずれも自国の方言を用い、身辺の事物についての感懐をすなおに歌い上げている。アルカイオスとサッフォーとは同国人で、同時代人である。アルカイオスは政争に明け暮れる日々を激越な調子で歌い、サッフォーは同性の愛人たちへの思慕を綿々とつづる。アナクレオンは独裁者たちの宮廷に抱えられ、酒や女を歌い、軽快で享楽的な作品が多い。

 古典期以後は優れた詩人は現れず、アレクサンドリアでピレタスやカリマコスらが叙情的作品を試みたほか、テオクリトスの創始した「牧歌」(パストラル)もきわめて叙情性の高い詩形式である。テオクリトスの後継者としてはモスコスとビオンがあげられる。『ギリシア詞華集』に名を連ねるメレアグロス、アスクレピアデスらもヘレニズム時代の優れた詩人である。

 合唱歌はおそらく、今日の叙情詩の概念にはもっとも遠いジャンルである。元来、祭礼や祝典の歌舞隊のためにつくられたもので、おのずから公的な性格が強かった。ドリス系の各地、とくにスパルタで栄えたことは、『乙女歌』で名高いアルクマン(前7世紀)がスパルタで活躍したことでも知られる。シチリア出身のステシコロス(前7~前6世紀)が創始したという三部形式(正歌、反歌、添歌)が合唱歌の最終的パターンであり、これは悲劇の合唱歌にも取り入れられた。前6~前5世紀にシモニデス、ピンダロス、バキリデスの3大家が現れて、合唱歌は最盛期を迎える。彼らの名を高からしめたのは、王侯貴族の依頼により制作した、オリンピアなどの競技優勝者をたたえる祝勝歌で、ピンダロス作の『祝勝歌』4巻がほとんど完全な形で伝存している。シモニデスとバキリデスは叔父・甥(おい)の関係にあり、イオニア系の詩人で、言語、文体も平明で軽快感がある。ピンダロスはドリス特有の荘重厳粛な格調で、きわめて難解である。乙女歌や祝勝歌のほかに、ディオニソス崇拝と関連のあるディテュランボスという合唱歌形式も一時流行し、ピンダロス、バキリデスにもこの種の作品がある。前5~前4世紀にかけてもっとも人気の高かったディテュランボス作家はティモテオスである。なおシモニデスは墓碑銘詩の作家としても名高く、偽作を含む多数の銘詩が伝えられている。

[松平千秋]

演劇

演劇に関しては、悲劇も喜劇もともにアッティカ(中心地アテネ)の独占といってよい。演劇の稚拙な段階はアッティカ以外の各地にみられるが、これを完成の域に導いたのはアテネの劇作家たちである。その起源については古来諸説があるが、悲劇、喜劇ともに合唱隊(コロス)を伴っているところから、合唱歌から発したとみるのが妥当であろう。前6世紀中期、悲劇作家テスピスがいちおう演劇の体裁を整え、同世紀後半からディオニソスの祭典においてその競演が公的行事として行われた。前5世紀に入るとともに、アイスキロスによって飛躍的発展を遂げ、ついでソフォクレス、エウリピデスの出現によって、アテナイ劇壇は空前の盛況を呈した。前406年にエウリピデス、ソフォクレスが相次いで世を去ったあとは、アテナイの衰退と呼応するように、悲劇も急速に衰え、かつ変貌(へんぼう)した。

 喜劇が悲劇と並んでディオニソスの祭典に競演を認められたのはかなり遅く、前5世紀に入ってからで、現存する完全な作品はアリストファネス作の11編のみである。ほぼ同時代に活躍したクラティノス、エウポリスらの作品は断片しか伝わらない。本来、時事万般の批判風刺をたてまえとした喜劇は、前5世紀末の敗戦を機に、急速に活力を失い変貌する。前5世紀の初期段階を古喜劇、以下、中期喜劇、新喜劇とよぶ習わしである。新喜劇はメナンドロス、ディピロス、ピレモンらが代表的作家で、完全な作品としてはメナンドロスの1編だけで、ほかはすべて断片である。しかしローマ喜劇はほとんどが中期・新喜劇の翻案なので、それらの作品を通して、ある程度まで原作を復原できる場合もある。多くは日常市民生活に取材したメロドラマで、登場人物のタイプも千編一律、筋の運びも同じパターンの繰り返しである。

 アッティカ以外では、シチリアのドリス方言地域で別種の喜劇が行われ、エピカルモス(前6~前5世紀)がその代表的作家である。またヘレニズム時代に流行したミモス(擬曲)という特殊なジャンルもある。前3世紀のソフロンやヘロンダスらの作家が知られるが、これは一種の寸劇で、多くは有閑階級の家庭の日常の一こまを対話の形で写す。19世紀末に発見されたヘロンダスのミモス数編によってその特質が知られるが、これは上演用というよりも朗読用の脚本であったらしい。

[松平千秋]

散文

散文の発達はかなり遅れ、ようやく前6世紀ごろから散文作品が姿を現す。散文が韻文と一線を画して、詩歌と異なる分野のメディアとして常用される以前は、叙事詩やエレゲイア、場合によってはイアンボスの詩形がそのかわりの役を果たしていた。ソクラテス以前の初期の哲学者たち――エンペドクレス、パルメニデス、クセノファネスらがその哲理を説くとき、ソロンが己の政治的信念を吐露するときなども韻文を用いているのは、散文がなお未発達の状態にあったからである。散文も叙事詩と同じく、まずイオニアにおこった。イオニア方言を用いる初期の散文の分野は多岐にわたっている。歴史の父と称されるヘロドトスの『歴史』9巻、古代医学の祖ヒポクラテスの名で伝わる膨大な医学論集はその代表的作品。哲学者デモクリトスも、その作品はほとんど失われたが、イオニア散文でその哲学思想を叙述した。イオニア散文の語彙(ごい)、措辞(そじ)には叙事詩の影響が強く残っており、文体は概して単純素朴である。

 イオニア散文の伝統を継ぎながら、さらに磨き上げて精巧な芸術的散文を完成したのはアテナイの文章家たちである。民主政治下の社会で頭角を現すには、政界および法曹界において、雄弁技術の修得が最上の策とされた。ソフィストたちの活動と相まって、ここに雄弁術、修辞学が目覚ましく発達し、その影響下にアッティカ独特の散文が生まれた。歴史ではトゥキディデス、クセノフォン、弁論ではアンティフォン、リシアス、イソクラテス、デモステネスらが前5世紀から前4世紀にかけて輩出した。哲学の分野ではソクラテス門下のプラトンが傑出し、その著『対話篇(へん)』は散文による劇的対話としてみごとな文学作品といってよい。アリストテレスは、文学作品といえる著作は残さなかったが、説得術としての弁論法を説いた『レトリカ』、悲劇を中心とする文学作法を論じた『創作論(詩学)』は、近世以降の文学研究に多大の影響を与えた。

 ヘレニズム時代以後、ギリシア語はいわゆるコイネー(共通語)とよばれて世界の通用語となった。それとともに知識人の間に純正なアッティカ散文復活の機運が生じ、弁論を中心に擬古文による著作が盛んに行われ、したがってヘレニズムからローマ時代にかけての散文は、程度の差はあれ、この傾向を受けている。注目すべき作家としては、紀元前では史家ポリビオスやディオドロス、地理学者ストラボンがあり、紀元後では『対比列伝』『倫理論集』の著者プルタルコス、風刺作家ルキアノスをあげることができる。またパウサニアス、アイリアノス、アテナイオスらの著述も、故実を探る宝庫として珍重されている。

 先にも触れたように、紀元前後から4~5世紀にわたって、「ギリシア小説」といわれる恋愛物語が流行した。グレコ・ローマン時代の家庭読み物で、主人公の美男美女がさまざまな危難にあいながら純愛を貫き、最後はめでたく結ばれるというパターンはみな同じである。伝えられている数編のうち、ヘリオドロスの『エチオピア物語』、ロンゴスの『ダフニスとクロエ』がとくに名高い。千編一律の筋立てを救うために、作者たちは異国趣味を盛ったり、スリルに満ちたシーンを加えるなど、それぞれ趣向を凝らしている。

[松平千秋]

『高津春繁・斎藤忍隨著『ギリシア・ローマ古典文学案内』(岩波文庫)』『高津春繁著『古代ギリシア文学史』(1977・岩波書店)』『高津春繁著『世界の文学史Ⅰ ギリシア・ローマの文学』(1967・明治書院)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ギリシア文学」の意味・わかりやすい解説

ギリシア文学
ギリシアぶんがく
Greek literature

ギリシアの本土および島嶼部,古代マグナ・グレキア,小アジアの人々によってギリシア語で書かれた文学作品の総称。ギリシア文学の歴史は古代 (4世紀まで) ,ビザンチン時代 (330~1453) ,近代 (1453以後) に分けられるが,世界文学史上に圧倒的な重要性をもつのは古代の作品である。
近代西洋文学のジャンルの大半は,古代ギリシア人が創造あるいは少くとも形式化したものである。それらは叙事詩,エレゲイア詩,抒情詩,演劇,田園詩,単なる年代記ではない歴史,雄弁術 (古代では修辞学の一つとして研究された) ,哲学などである。ギリシア文学史の巻頭を飾る作品は,ホメロスの二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。この作品は何世紀にもわたって口承された結果であり,書きとめられた正確な時期 (おそらく前 700年以前) も,ホメロスという1人の人物が書いたのかどうかも不明である。ヘシオドスの教訓叙事詩『神統紀』『仕事と日々』は教育を目的に書かれたものである。前8世紀末から発達したエレゲイア詩は,恋愛,結婚などさまざまな場面でつくられ,叙事詩とは異なり個人の視点に立っているため,内省的な抒情詩のさきがけとなった。前7~6世紀には3人のエレゲイアの大詩人,チュルタイオスミムネルモステオグニスが誕生した。前7~5世紀にはパロスのアルキロコスアルカイオスアルクマンステシコロスイビュコスバキュリデスら,多くの抒情詩人が現れた。とりわけ重要なのはサッフォーで,直接的でいきいきとした言葉で張りつめた感情を表現した。テオスのアナクレオンはエレガンスと洗練を特徴とする。ピンダロスの作品はオリンピック競技の勝者をたたえる歌などが,数多く残っている。
ギリシア語のような創意に富む土着の言語は翻訳が困難である。なかでもアイスキュロスの悲劇は,その詩的思考の豊かさと複雑さは翻訳では伝えきれない。人間と神々との関係というアイスキュロスの中心主題は『オレステイア』3部作に表現されている。一方ソフォクレスは『アンチゴネ』にみられるように,より個人的な危機,すなわち公的権威と一族のつとめに板ばさみになった状況を描いている。エウリピデスは,『ヒッポリュトス』で満たされない愛を描いた。アテネの様子を世俗的,人間的に描いたアリストファネスはギリシア喜劇の最高峰である。彼の作品『蛙』『雲』『鳥』は風刺に満ちているが,本質的には真摯なもので,『リュシストラテ (女の平和) 』は感動的な反戦劇である。メナンドロスの家庭喜劇は,類型的な登場人物を初めて登場させ,時代的にはのちのヘレニズム期に属している。
さまざまな田園詩を書いたテオクリトスは牧歌の創始者として知られる。西洋文明における本格的な歴史的手法は,ペルシア戦争とその背景を書いたヘロドトスに始る。ツキジデスはアテネとスパルタの戦争を客観的な手法で描き,その形式は簡潔でまとまった文章の模範となった。ペロポネソス戦争後の複雑な時期に多くの作品を書いたクセノフォンの代表作は『アナバシス』である。雄弁術では,デモステネスの演説が説得技法の模範として古代以後も研究された。なかでもマケドニアのフィリッポス2世を弾劾した演説が特に有名である。プラトンの哲学的著作は,哲学的内容だけでなく散文詩の確立にも貢献した。巨人アリストテレスは西洋文明における文学批評用語すべてと,哲学,科学思考を創造した。
ビザンチン時代にギリシア語で書かれた文学は,ビザンチン文明のすぐれた表現であり,古代ギリシア文学と現代の日常ギリシア語で書かれた文学との間をつなぐ役割を果している。この時代の文学は,ビザンチン帝国の中央集権機構とコンスタンチノープルの宮廷生活の影響を受けて,大都市的で貴族的な色彩を帯び,さらにキリスト教が新たな特色をもたらした。また,ビザンチン社会の静的な特徴が反映され,文学の形式や言語の使用法は保守的であった。文学の大部分が衰退したビザンチン時代において,年代記はローマの伝統を何世紀にもわたって最良の状態で受継ぎ,ビザンチンの歴史が終るまで,完成度の高い記述で事件を記録した。この成果に並びうるものがヨーロッパで登場するのは 12世紀になってからのことである。 (→ビザンチン文学 )
1453年にコンスタンチノープルが陥落し,ギリシアがオスマン帝国に組込まれると,ギリシアの知識階級の多くは故郷を離れて他民族の言葉を学び,その言葉で著述したが,ギリシア語でも書く者も多かった。現代のギリシアは2つの文学形式を継承している。カサレブサ (純正語) と呼ばれる古典語を範とする形式と,ディモティキと呼ばれる現代民衆語の形式である。これら2つの文学潮流の発達過程で,1880年代のディモティキ運動が重大な転機となった。この運動はカサレブサに対する反発と,ギリシアのロマン主義の興隆を目的とした。 1888年,I.プシハリスが『私の旅』を発表してこの運動の指導者になった。『私の旅』は見かけは連作旅行記であったが,真の意図はギリシア人の言語に対する意識を呼びさますことであった。主流を占めるカサレブサに対するディモティキ支持者の闘いは,すぐに古典的伝統全般に対する反発へと拡大し,ギリシアの芸術と文化を現代の生活に取戻すよう主張された。 N.ポリティスによる近代ギリシア民俗学の研究や,K.パパリゴプロスによる中世・近代ギリシア史の研究もこの運動の推進の一翼をになった。この論争はディモティキの圧倒的な勝利に終り,科学や公式文書でもディモティキが主流を占めるようになった。
コンスタンチノープルの陥落からギリシア独立戦争 (1821~29) までの間に,クレタ島,ロドス島,キプロス島,その他オスマン帝国の支配下でないギリシアの島々では,詩が発達した。オスマン帝国支配下にあった地域で注目に値する詩は,クレフティス (武装した無法者のギリシア人) 歌謡だけである。このなかには,ギリシア語で書かれた詩のなかで最も美しくいきいきとした作品も含まれている。
ギリシアがオスマン帝国から解放されたのちに新王国の首都となったアテネは,ギリシアの知識人の中心地となった。アテネのロマン派の詩は 1800年代中頃に A.スーツォスを中心に創始され,長年にわたりギリシアの詩に影響を与えた。 A.パラスホスは後期アテネ・ロマン派を代表する詩人である。詩人 D.ソロモスは,文語としてカサレブサよりもディモティキを選び,80年代ディモティキ運動以後のギリシアの詩を方向づけた。さらに,彼は多くの西洋の韻文形式を紹介し,ギリシアの詩をそれまで主として用いられていた 15音節の政治詩の単調さから解放した。ギリシアの詩が不毛な状況に向っていると感じた K.パラマスらの若く才能に富む詩人グループが,1880年頃いわゆる新アテネ派を結成した。彼らはギリシアの高踏派を目指したが,同時に現代ギリシアに着想を得ていきいきとした慣用句を用いた。新アテネ派の影響を受けなかった大詩人に K.カバフィスがいる。第1次世界大戦後の詩人のなかでは,悲観的でしばしば冷笑的な詩で知られる K.カリオタキス,現代人の運命を詩的なタッチで描いて 1963年にノーベル文学賞を受賞した象徴派詩人 G.セフェリス,小説家としても知られ,3万 3333行に及ぶ長編叙事詩『オデュッセイア』を書いた N.カザンザキスが重要である。第2次世界大戦後の主要な詩は主として象徴派,シュルレアリスムで,代表的な詩人に G.セメリス,M.サフトゥリス,Z.カレリ,D.パパジツァス,T.シノプロス,T.バルビチオティスがいる。
プシハリスが発表した『私の旅』とディモティキ運動の発展により,近代ギリシアの散文は決定的に変化し,日常の言葉が詩だけでなく,すべての散文作品に用いられるようになった。この時期の作家には短編作家の A.パパジアマンティス,A.カルカビツァスがいる。彼らは「生きているルーツ」に着想を求め,ギリシアの村の生活を描いた。プシハリスと G.クセノプウロスによって都市小説がギリシア文学に紹介されたのは,19世紀末のことである。 1930年代の作家によって,日常語の散文は成熟期に達し,初めて重要な意味をもつ小説が生れた。 S.ミリビリスの戦争3部作に続いて,力強さと独創性に富んだ多くの短編小説が現れた。 I.ベネジスは自身のトルコの捕虜体験を描いた衝撃的な作品『31328番』 (1931) でデビューした。 30年代の最も才能ある作家の一人に K.ポリティスがいる。 G.セオトカスは『レオニス』 (40) をはじめとする数々の作品で,力量のある多才な作家であることを示した。彼は流麗で単純なディモティキを用いる最もすぐれた作家の一人である。
第2次世界大戦後は,詩と小説の両分野で戦前の世代が若い世代の模範であり続けた。彼らの影響はカザンザキスのすぐれた作品がよく示している。カザンザキスは長い文学キャリアを積んだ高齢になってから小説に転じ,国際的に認められた。彼の小説は傑出した創造力と手段を完全に自分のものにしていることが特徴である。粗雑な部分もあるが,それでもカザンザキスはディモティキ散文の豊かさを深く掘下げた作家の一人である。第2次世界大戦と内戦の荒廃ののちに登場した若い世代の作家は,1960年代になってから独自の発言力を得た。なかでも V.バシリコス,K.タフツィスは,散文の用法と想像力において傑出している。

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