デジタル大辞泉
「デービス」の意味・読み・例文・類語
デービス(William Morris Davis)
[1850~1934]米国の地理学者。地形の発達過程を進化論的に見て地形輪廻説を提唱、世界の地形学に進歩をもたらした。著「自然地理学」「地形の説明的記載」など。
デービス(Miles Davis)
[1926~1991]米国のジャズトランペット奏者。独特な音色、アドリブ奏法の追究、エレクトロニックサウンドの大胆な導入など、1950年代から一貫してジャズ界をリードした。代表作に「カインド‐オブ‐ブルー」「ビッチェズ‐ブリュー」など。
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デービス
- [ 一 ] ( William Morris Davis ウィリアム=モリス━ ) アメリカの自然地理学者。地形の変化について浸食輪廻説を唱えた。主著「自然地理学」。(一八五〇‐一九三四)
- [ 二 ] ( Jefferson Davis ジェファーソン━ ) アメリカの政治家。アメリカ南部連合大統領(在任一八六一‐六五)。奴隷制擁護・州権論を主張して、南部の利害を代弁。南北戦争勃発後、南部連合国の初代大統領として活躍した。(一八〇八‐八九)
- [ 三 ] ( Miles Davis マイルス━ ) アメリカのジャズ‐トランペット奏者、バンドリーダー。一九四〇年代にチャーリー=パーカーのコンボでデビュー。以後、四〇年以上にわたってジャズ界の音楽的動向をリードし、ジョン=コルトレーンやビル=エバンスなど数多くの人材を育てた。代表作「カインド‐オブ‐ブルー」「ビッチズ‐ブルー」など。(一九二六‐九一)
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デービス(Raymond Davis Jr.)
でーびす
Raymond Davis Jr.
(1914―2006)
アメリカの実験物理学者。ワシントンDC生まれ。1937年にメリーランド大学を卒業し、1940年に修士。エール大学で物理化学を学び、1942年に博士号を取得した。1942年から1946年まで空軍に所属し、2年間のモンサント化学社勤務を経て1948年にブルックヘブン国立研究所の化学部門スタッフとなる。1950年代初めからニュートリノの観測を開始し、太陽から飛来するニュートリノ観測の可能性を1955年の論文で指摘した。
1967年には、サウス・ダコタ州にあるホームステーク鉱山の地下に約600トンの四塩化エチレンを入れたタンクを設置し、太陽からのニュートリノをとらえる準備を整えた。装置は太陽からのニュートリノを初めてとらえ、1970年から1994年までほとんど継続して稼動。太陽が熱く輝く原因は核融合反応であることを実証した。また同時に、太陽についての理論から予想されるニュートリノの飛来数に比べ、観測されるニュートリノがかなり少ないという「太陽ニュートリノ問題」を提起した。その後の日本の研究者などによる観測で、それまで質量がないと思われていたニュートリノに実は質量があることが、その食い違いの原因であることがわかってきた。ブルックヘブン国立研究所を1984年に退職し、1985年からペンシルベニア大学教授。1971年から1973年まで、アメリカ航空宇宙局(NASA)の月サンプル検討委員会のメンバーとして、アポロ11号が月から持ち帰った砂や岩の分析にも携わった。別の手法で宇宙からのニュートリノをとらえた東京大学名誉教授の小柴昌俊(こしばまさとし)、宇宙におけるX線源を発見したR・ジャコーニとともに、新たな天体観測手法を開拓した業績で2002年のノーベル物理学賞を受賞した。
[馬場錬成]
デービス(William Morris Davis)
でーびす
William Morris Davis
(1850―1934)
アメリカの地理学者。フィラデルフィアに生まれる。ハーバード大学を卒業後、アルゼンチン、コルドバの気象観測所に勤務した。1876年に母校のハーバード大学に帰り、1890年から1912年まで同大学の地理学・地質学教授を務めた。その間ベルリン大学で交換教授として講義を行い、それが有名な『地形学の説明的記載』Die erklärende Beschreibung der Landformen(1913)の著書となった。1904年にアメリカ地理学者協会を創設し、3期にわたり会長を務め、1911年にはアメリカ地質学会会長となった。地形の発達過程を進化論的にみて、いわゆる地形輪廻(りんね)説を提唱し、世界の地形学に画期的な進歩をもたらした。しかしこの説に対して、ギルバートGrove Karl Gilbert(1843―1918)の実証的な地形学などが提唱されるなどして多くの議論をよぶに至ったが、地形発達の学説史に一つの金字塔を築いたことは確かである。多くの著書のうち『自然地理学』(1898)、『サンゴ礁問題』(1928)、『石灰洞の成因』(1930~1931)などが有名である。
[市川正巳]
デービス(Sir Colin Davis)
でーびす
Sir Colin Davis
(1927―2013)
イギリスの指揮者。ハートフォードシャーのアッシュリッジ生まれ。ロンドンの王立音楽大学でクラリネットを専攻、クラリネット奏者として活動しつつ指揮を学ぶ。1957~1959年BBCスコティッシュ交響楽団副指揮者、1959~1965年サドラーズ・ウェルズ・オペラの指揮者、ついで音楽監督を歴任。1964年(昭和39)ロンドン交響楽団に同道して初来日した。1967年メトロポリタン歌劇場にデビュー。BBC交響楽団首席指揮者を経て、1971~1986年コベント・ガーデン王立歌劇場音楽監督。1980年にはサーの称号を受け、1983~1992年バイエルン放送交響楽団音楽監督を務めた。オペラ、コンサートともに、誇張を排して堅実かつ克明に音楽をつくりあげてゆき、とくにモーツァルト、ベルリオーズ、ストラビンスキー、ブリテンを得意とした。1990年からドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)の名誉指揮者、1998年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の首席客演指揮者を務めた。
[岩井宏之]
デービス(Angela Yvonne Davis)
でーびす
Angela Yvonne Davis
(1944― )
アメリカの女性黒人政治運動家。1月26日、アラバマ州に生まれる。マルクーゼに哲学を学び、ドイツ留学を経て、カリフォルニア大学から哲学で修士号を得る。10代から南部で公民権運動に参加し、カリフォルニアで学生非暴力調整委員会や、自衛のため武力行使も辞さずとするラディカルなブラック・ナショナリズムを唱導したブラック・パンサー党とともに大学や地域で政治活動に加わり、1968年にはアメリカ共産党に入党した。これを主たる理由として、カリフォルニア大学での教職を罷免された。さらに70年には、誘拐、銃撃事件の共謀者との嫌疑で逮捕されたが、16か月の留置後、72年、裁判によって無罪釈放された。この政治的弾圧に対しては、抗議とアンジェラ支援の運動がアメリカのみならず、日本を含めて国際的に広がった。80年に共産党から副大統領候補として出馬。哲学だけでなく、政治運動、女性問題に関しても優れた評論、著作が多く、日本では『アンジェラ・デービス自伝』The Autobiography of Angela Davisほか数冊が翻訳されている。
[中村雅子]
『加地永都子訳『アンジェラ・デービス自伝』上下(1977・現代評論社)』▽『デービス編著、袖井林二郎監訳『もし奴らが朝にきたら――黒人政治犯・闘いの声』(1972・現代評論社)』
デービス(Stuart Davis)
でーびす
Stuart Davis
(1894―1964)
アメリカの画家。20世紀前半の抽象的風景画の開発者。フィラデルフィア出身。父親の同僚であったロバート・ヘンライについて学んだが、アーモリー・ショーの影響から抽象様式に転向。1920年ごろから静物や都市風景を幾何学的で平面的なパターンに還元する試みに手をつけ、27年の『卵あわだて器』によって手法を確立した。35年から40年にかけて連邦美術計画の仕事に参加し、インディアナ大学やニューヨークのラジオ・シティの壁画を制作したほか、アメリカ美術家会議の議長を務めている。40年以後、画面全体に広がる開放的で華麗な平面抽象の世界に入った。
[桑原住雄]
デービス(Bette Davis)
でーびす
Bette Davis
(1908―1989)
アメリカの女優。マサチューセッツ州ローエルに生まれる。学生演劇に興じるうち女優になることを夢み、ニューヨークへ出て演劇スクールに通い、巡業劇団から1929年ブロードウェーの舞台に立つ。1931年に映画界へデビュー、『青春の抗議』(1935)と『黒蘭(こくらん)の女』(1938)でアカデミー主演女優賞を受けた。美貌(びぼう)とは縁が遠いが、個性的なマスクと突き詰めた演技で1940年代の演技派女優として活躍、『イヴの総(すべ)て』(1950)でその頂点ともいうべき名演を示した。1960年代以降は、老女の醜悪さをみせた『何がジェーンに起ったか?』(1962)の成功で、恐怖映画のスターとして出演を続けた。1977年には、女性として初のアメリカ映画協会賞を受賞している。
[畑 暉男]
デービス(Miles Davis)
でーびす
Miles Davis
(1926―1991)
アメリカのジャズ・トランペット奏者、作曲家。イリノイ州生まれ。1944年にプロ入りし、ビリー・エクスタイン楽団を経て1945年からチャーリー・パーカーと行をともにして注目された。1949年にアルバム「クールの誕生」を録音してクール・ジャズの先駆者となり、1959年には「カインド・オブ・ブルー」を録音、モードによるアド・リブの可能性を広げ、1969年にはロックや電化音まで駆使して録音した「ビッチェズ・ブリュー」で次の時代のジャズを示唆する、というぐあいにジャズ界をリードした。1970年代後半は病気のため活動を休止したが、1981年に再起。自作名曲に『ソー・ホワット』『マイルストーンズ』などがある。
[青木 啓]
デービス(William Henry Davies)
でーびす
William Henry Davies
(1871―1940)
イギリスの詩人。ウェールズに生まれ、初等教育を終えたのち日雇いや行商などを続け、ニューヨークに渡る。アメリカ、カナダの各地を放浪中、事故で片脚を失い、ロンドンに戻り、窮乏に耐えながら文筆に専念。自然の風物と庶民の生活感情を率直に歌った処女詩集『魂の破壊者』(1905)で注目を浴びた。ついで自然、愛、社会などを主題とする鋭い感性に富む詩集を次々と発表するが、8年に及ぶ青春彷徨(ほうこう)を自伝風に描いた『ある放浪者の自叙伝』(1908)でいまもなお広く読者をもつ。ほかに『自然詩その他』(1908)、没後刊行された、妻への奇抜な求婚を描いた『若きエマ』(1980)などが知られる。
[上田和夫]
デービス(Jefferson Davis)
でーびす
Jefferson Davis
(1808―1889)
アメリカの南部連合の臨時大統領。陸軍士官学校卒業(1828)。結婚により裕福な綿花プランターになる。ミシシッピ州選出民主党下院議員(1845~46)を辞し、メキシコ戦争に行き負傷。上院議員(1847~51)になったが、知事選出馬のため辞任、落選。陸軍長官を務めたのち、ふたたび上院議員(1857~61)になった。連邦離脱後の南部諸州の政府、南部連合の臨時大統領に就任(1861)。南北戦争後、66年に反逆罪を宣告されたが、翌年保釈、裁判は中断されたままになった。
[竹中興慈]
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デービス
米国の地形学者。フィラデルフィア生れ。ハーバード大学卒,同大学教授。米国地理学者協会を創設し,同会長,米国地質学会長をも務めた。地理学の諸分野で多大な業績を残したが,パウエル,ギルバートらの成果に立ち,進化論的考えを地形学に導入してまとめた浸食輪廻(りんね)の学説(1899年)で有名。
→関連項目自然地理学|地形学|ペンク
デービス
米国の政治家。ケンタッキー州出身。連邦上・下院議員を歴任。アメリカ南部連合の大統領(1861年―1865年)となり,南北戦争中の南部の指導者となった。敗戦後合衆国軍に捕らえられ投獄されたが,まもなく釈放。著書に《南部連合政府の興亡》(1881年)がある。
デービス
英国の探検家。北西航路発見のため1585年―1587年に3回の航海を行い,グリーンランド西部を探検,またバフィン湾に達した。デービス海峡は彼の名にちなむ。のち東インドに向かい,今日のシンガポール付近で日本人海賊と戦い没した。
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デービス
Davis, Raymond, Jr.
[生]1914.10.14. ワシントンD.C.
[没]2006.5.31. ニューヨーク,ブルーポイント
アメリカ合衆国の物理学者。相互作用(→素粒子の相互作用)の小さな素粒子,ニュートリノの研究で知られる。1937年メリーランド大学を卒業,1942年エール大学で物理化学の博士号を取得。軍務についたのち,1948年ブルックヘブン国立研究所の化学スタッフとなり,1984年に退職。1985年ペンシルバニア大学教授となる。1950年代に黒鉛研究炉でできるニュートリノとタンクに満たした四塩化炭素 CCl4中の塩素が反応してアルゴンになることを発見したのをきっかけにこの分野の研究に乗り出した。1967年太陽内部の核反応でできるニュートリノを測定できることに気づき,サウスダコタ州のホームステーク鉱山の地下 1500mに設置した 600tの四塩化エチレン C2Cl4入りタンクで,1960年代後半から 25年以上にわたって測定を行なった。その結果,ニュートリノの量は予想の 3分の1程度しかないことが判明,残りはどこへいったのかつきとめるべきだという「太陽ニュートリノ問題」を提唱した(→ニュートリノ振動)。2002年宇宙ニュートリノの検出に対する先駆的貢献が評価され,小柴昌俊,リカルド・ジャコーニとともにノーベル物理学賞を受賞した。(→天体物理学)
デービス
Davis, Jefferson
[生]1808.6.3. ケンタッキー,クリスチャン
[没]1889.12.6. ニューオーリンズ
アメリカの政治家。アメリカ南部連合ただ1人の大統領 (在任 1861~65) 。 1828年陸軍士官学校卒業後,35年までフロンティアで軍務につき,ブラック・ホーク戦争に従軍。その後ミシシッピ州でプランテーションを経営しながら民主党員として政界に入る。 45年連邦下院議員,翌年議員を辞職してアメリカ=メキシコ戦争に従軍。 47~51年連邦上院議員。 53~57年 F.ピアス大統領のもとで陸軍長官。大統領に対してカンザス=ネブラスカ法への署名を迫った。 57~61年再び連邦上院議員。強硬な州権論者であったが,南部諸州の連邦脱退はあくまで最後の手段と考え,南北対立激化のなかで協調を唱えた。 60年の大統領選挙に際しては北部民主党の S.ダグラスに反対して南部民主党が推した J.ブレッキンリジを支持。 60年 11月サウスカロライナが連邦を脱退したときにもなお南北の和解を唱えていたが,ミシシッピ州も脱退するに及んで 61年1月上院議員を辞任。まもなく南部連合大統領に指名され,同年2月 18日アラバマ州モントゴメリで就任。南北戦争中,南部諸州を統一して戦う指導力に欠け,多くの批判を招いた。戦況悪化とともに 65年4月3日南部連合の首都リッチモンドを脱出し,抗戦の継続を主張したが,5月 10日ジョージア州で逮捕され,2年間牢獄生活を過したのちに釈放された。その後ヨーロッパなどを旅行したあと 77年に引退。著書に『南部連合政府の興亡』 The Rise and Fall of the Confederate Government (2巻,78~81) がある。
デービス
Davies, Sir Peter Maxwell
[生]1934.9.8. ソルフォード
[没]2016.3.14. サンデー
イギリスの作曲家,指揮者。多様な音楽形式の探求により,数々の独創的な作品を発表した。初期は,対位法やセリー技法に基づく作品に単旋聖歌や中世・ルネサンス音楽の要素を取り入れた。王立マンチェスター音楽大学,マンチェスター大学で学んだのち,イタリアで作曲家ゴッフレード・ペトラッシに師事,またアメリカ合衆国のプリンストン大学で作曲家ロジャー・セッションズに師事した。1967年,作曲家ハリソン・バートウィスルとともに現代音楽のアンサンブル,ピエロ・プレイヤーズを結成。オペラ『タバナー』Taverner(1962~70)には,16世紀風のテーマや複雑なリズム,表現主義的な力強さ(→表現主義の音楽)などデービスの音楽的特徴が集約されている。1970年代初めスコットランドのオークニー諸島に移住し,そこで聖マグヌス音楽祭を創設,芸術監督を務めた。室内オペラ『聖マグヌスの殉教』The Martyrdom of St. Magnus(1976),パントマイムオペラ『シンデレラ』Cinderella(1979),『交響曲第7番』Symphony No. 7(2000)など,作品の多くが同音楽祭で初演された。BBCフィルハーモニックとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。1987年にナイトに叙され,2004~14年「女王の音楽師範」を務めた。
デービス
Davies, Marion
[生]1897.1.3. ニューヨーク,ブルックリン
[没]1961.9.22. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の女優。本名 Marion Cecilia Douras。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと 34年間にわたり愛人関係にあったことで知られる。父親は法律家。13歳のとき『青い鳥』The Blue Birdのコーラスガールとしてブロードウェーデビュー。『ジーグフェルド・フォーリーズ』The Ziegfeld Follies(1917)にコーラスラインの一員として出演中,ハーストの目に留まる。当時 54歳のハーストには妻子があったが,2人の関係は 1951年の彼の死まで続き,ハーストはその影響力と金にものをいわせてデービスを一流の映画女優に仕立て上げようとした。初期の作品ではドラマチックな役柄を演じたが,『活動役者』Show People(1928)などのコメディ映画での演技が高く評価された。『ハリウッド・レヴィユー』Hollywood Revue of 1929(1929)でトーキー映画に初出演し,『虹の都へ』Going Hollywood(1933)では若き日のビング・クロスビーと共演。最後の出演作となった『作家と御婦人』Ever Since Eveが制作された 1937年,一時的に財政難に陥ったハーストのために,宝石を売って 100万ドルを用立てたといわれる。ハーストの死後,旧友で船長のホーレス・G.ブラウンと結婚。ハリウッドを去ったのちは実業家として活躍した。
デービス
Davis, Sir Colin
[生]1927.9.25. ウェーブリッジ
[没]2013.4.14. ロンドン
イギリスの指揮者。フルネーム Sir Colin Rex Davis。20世紀イギリスの最も活力に満ち,崇敬された指揮者の一人。ロンドンの王立音楽大学でクラリネットを学んだのち指揮に転じた。1957年 BBCスコティッシュ交響楽団の副指揮者に就任。1959年,オットー・クレンペラーの代役でウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』を指揮して称賛を浴びた。その後,サドラーズ・ウェルズ・オペラ(→サドラーズ・ウェルズ劇場)の音楽監督,BBC交響楽団の首席指揮者を経て,1971年コベントガーデン劇場の音楽監督に就任。1995年にはロンドン交響楽団の首席指揮者に任命された。ロンドン交響楽団との名盤は,複数のグラミー賞など多くの賞に輝いた。国外の主要オーケストラとの演奏も多かった。1965年大英帝国三等勲功章 CBE,1980年ナイトの称号,2001年にコンパニオン・オブ・オナー勲章を授与された。
デービス
Davies, (Sarah) Emily
[生]1830.4.22. サザンプトン
[没]1921.7.13. ハンプステッド
イギリスの女流教育家。女子の大学教育獲得運動の先駆者で,ケンブリッジのガートン・カレッジ創設の中心人物。家庭で教育を受け,ボーディコン夫人,ガレット夫人らの婦人解放運動に参加,D.ビール,F.メアリとともに学校調査委員会に女性の大学入学試験の受験を認めさせるために参考資料を提供した。女性の大学受験を認め,男子とまったく同等の条件で入学を許可すべきであるという彼女の提唱により,1870年ロンドンのユニバーシティ・カレッジが女子のクラス参加を認めた。 69年友人とヒッチンに女子カレッジを開設,73年ケンブリッジに移しガートン・カレッジと称した。 70~73年ロンドン学務委員,73~75年ガートン・カレッジの教師,67~1904年同校の書記をつとめた。主著『女子高等教育論』 The Higher Education of Women (1860) ,『女性問題に関する意見』 Thought on Some Questions Relating to Women (1910) 。
デービス
Davies, John Llewelyn
[生]1826.2.26. チチェスター
[没]1916.5.17. ハンプステッド
イギリスの牧師,教育家。特に女子教育の振興に努めた。ケンブリッジ大学のレプトン,トリニティー両カレッジに学び,1851年フェローとなった。同年聖職に叙され,クライスト・チャーチの王室禄ほかロンドンの数ヵ所の教会の牧師をつとめ,89年ウェストモーランド,カークビ・ロンズデールの教区牧師となり,1908年までここにとどまった。 J.モーリスと緊密な提携のもとにワーキングメンズ・カレッジを創立,数年間教鞭もとった。 T.ハクスレーの後任としてロンドン首席教育委員に選ばれた。また 73~74年,78~86年,女子教育振興のため,48年にモーリスがハーレー街に設立したクイーンズ・カレッジの校長をつとめた。妹の E.デービスとともに女子高等教育の擁護者で,女子の学位や参政権の取得に好意的であった。 52年には D.ボーガンとともにプラトンの『共和国』を翻訳出版,これは広く普及した。
デービス
Davis, William Morris
[生]1850.2.12. ペンシルバニア,フィラデルフィア
[没]1934.2.5. カリフォルニア,パサディナ
アメリカ合衆国の地理学者,地質学者,気象学者。ハーバード大学卒業後,1870年コルドバの気象観測所勤務。ハーバード大学に職を得て,1890年地理学および地質学教授。1904年アメリカ地理学会を創設,会長を務めた。1911年アメリカ地質学会会長。地形の発展を進化論的に解釈した地形輪廻(→浸食輪廻)の理論を提唱,地形学の体系的基礎を築いたほか,サンゴ礁の研究でも名高い。気象学を含む多数の著作を残した。主著に『自然地理学』Physical Geography(1898),『地形図解』Die erklärende Beschreibung der Landformen(1912),『サンゴ礁の問題』The Coral Reef Problem(1928)がある。
デービス
Davis, Miles
[生]1926.5.25. イリノイ,アルトン
[没]1991.9.28. サンタモニカ
アメリカのジャズ・トランペット奏者。 13歳で演奏活動に入り,1945年以降 D.ガレスピーや C.パーカーらのビー・バップ運動に参加。 48年にリーダーとして初のレコードを吹込み,クールな感覚をもつジャズをつくりだした。以後しばらくは麻薬におぼれるなど不調であったが,58年にはフランス映画『死刑台のエレベーター』の音楽を担当,世界的な名声を得て 1960年代のジャズ界に不動の王座を占めるにいたった。当時の彼のクインテットは,W.ショーター (サクソフォーン) ,H.ハンコック (ピアノ) ,R.カーター (ベース) ,T.ウィリアムズ (ドラム) で形成され,ジャズ史上に残るグループの一つといわれる。 70年代にはロックのリズムを取入れるなど,生涯を通じて絶えず意欲的な試みを続けた。
デービス
Davies, Sir John
[生]1569.4.16. ウィルトシャー,ティスベリー
[没]1626.12.8. ロンドン
イギリスの詩人,法律家。オックスフォード大学卒業後,ミドル・テンプル法学院に学び,弁護士を経て 1606年アイルランド検事総長に任じられ,アイルランド問題についての論文がある。エピグラム風の詩を書き,『オーケストラ』 Orchestra (1596) は,エリザベス朝の宇宙論を背景にダンスの意義を説いたもの。『汝自身を知れ』 Nosce teipsum (99) は,霊魂の本質とその不滅を歌い,後代のコールリッジに称賛された。また『女王礼賛』 Hymnes of Astraea (99) は,各行最初の字を読むと Elizabethe Reginaとなる「アクロスティック」 acrosticによる異色の作品。
デービス
Davis, Henry Winter
[生]1817.8.16. メリーランド
[没]1865.12.30. メリーランド,ボルティモア
アメリカの政治家,法律家。バージニアとボルティモアで弁護士業に従事。 1855~61,63~65年連邦下院議員。奴隷州出身でありながら,奴隷制度廃止を強調,普通選挙のために活躍した。南北戦争のときには 64年まで A.リンカーンを支持したが,大統領の微温的な南部再建政策に反対し,再建政策の実行を大統領ではなく議会の支配下におくことを提案した。リンカーンがこれに拒否権を発動すると,『ニューヨーク・トリビューン』紙上で大統領の独裁とオポチュニズムを非難,リンカーンの再建政策を批判した「ウェード=デービス宣言」を発表した。のち再び支持に転じた。
デービス
Davis, Angela (Yvonne)
[生]1944.1.26. アラバマ,バーミングハム
アメリカの黒人女性政治活動家。ブランダイス大学を卒業し,のちカリフォルニア大学で哲学を専攻。共産党に入党し,急進的な黒人運動組織にも関与した。 1969年カリフォルニア大学哲学科助教授となったが,2度にわたって解雇された。「ソルダッド・ブラザーズ」救援活動をはじめ,政治活動を活発に行い,70年には,サンラファエル法廷襲撃事件で証拠不十分のまま起訴されたが,72年無罪判決をかちとった。著書に『もし奴らが朝にきたら』 If They Come in the Morning: Voices of Resistance (1971) ,『自伝』 Angela Davis: An Autobiography (74) がある。
デービス
Davis, Richard Harding
[生]1864.4.18. フィラデルフィア
[没]1916.4.11. ニューヨーク,マウントキスコ付近
アメリカのジャーナリスト,小説家,劇作家。新聞記者として世界各国を旅行,その見聞を『地中海の支配者たち』 The Rulers of the Mediterranean (1894) ほか数冊の旅行記にまとめ,またボーア戦争,日露戦争などに従軍した。作家としてはサスペンスに富む『ライオンと一角獣』 The Lion and the Unicorn (99) などの短編集,『風雲児』 Soldiers of Fortune (97) などの長編小説で好評を博し,『独裁者』 The Dictator (1904) 以下 25編の戯曲も大衆の圧倒的な支持を得た。
デービス
Davies, Arthur Bowen
[生]1862.9.26. ユーティカ
[没]1928.10.24. フィレンツェ
アメリカの画家。渡欧し,ラファエル前派の影響を受ける。帰国後,当時のナショナル・アカデミーに反抗し,アメリカ独自の様式を創造しようとした8人の画家のグループ「ジ・エイト (のちにアッシュ・キャン・スクールと呼ばれた) 」の一員となった。 1913年のアーモリー・ショー開催に中心的役割を演じる。ロマン主義的作風で知られるが,後期の作品にはキュビスムの影響がみられる。エッチングやリトグラフにもすぐれた作品を残した。
デービス
Davis, John
[生]1550? デボンシャー,サンドリッジ
[没]1605.12.29/30. インドネシア,ビンタン島
イギリスの航海者。カナダの北極地方から太平洋への北西航路の発見に努めた最初の人。 1585~87年の間3回にわたってデービス海峡の海岸を探検,デービス海峡を経てグリーンランド西海岸沖を通り北緯 72°に到達した。 91年フォークランド諸島を見出した。 96年 W.ローリーのカディス遠征とアゾレス諸島探検に参加し,98年と 1601年にイギリス東インド会社の案内役として航海。 05年航海中,倭寇に襲われて死んだ。
デービス
Davis, Norman de G.
[生]1865
[没]1941
イギリスの考古学者。 1898年,F.ペトリーのデンデラでの調査に参加し,以来,エジプト調査協会のデル・エル・ゲラウィ,テル・エル・アマルナの調査に協力。さらにテーベ (現在のルクソール) 西岸の貴族の墓の調査,J.ブレステッドのヌビア調査,G.ライスナーのピラミッド調査にも参加した。主として絵画や浮彫,銘文などのコピーの仕事に従事し,壁画の研究に業績を残した。特にアマルナの岩窟墓やナクトをはじめとするテーベの墓の報告書は価値が高い。
デービス
Davis, Stuart
[生]1894.12.7. フィラデルフィア
[没]1964.6.24. ニューヨーク
アメリカの代表的抽象画家。『フィラデルフィア新聞』の美術編集者 E.デービスの子。 1910~13年 R.ヘンリーの美術学校に学ぶ。漫画家,挿絵画家として出発し,アーモリー・ショーに5点の水彩画を出品。ゴッホ,ゴーガン,のちにキュビスムの強い影響を受ける。 28~29年パリ旅行,この頃抽象画に転じた。 33年公共事業促進局 WPAの壁画を描く。主要作品『ラッキー・ストライク』 (1921,ニューヨーク近代美術館) など。
デービス
Davis, Alexander Jackson
[生]1803.7.24. ニューヨーク
[没]1892.1.14. ニュージャージー
19世紀のアメリカ建築の復古主義的風潮をつくりだした建築家。 1820年代末に I.タウンとともに建築会社を創立し,ギリシア神殿の意匠を巧みに利用した建物を多数建築したが,1835年会社の解散以後は A.ダウニングに感化され,「ピクチャレスク」住宅そしてゴシック様式の第一人者として知られるようになる。代表作はコネティカット州議会議事堂 (1827~31,ニューヘーブン) ,コロネード・ロウ (32,36,ニューヨーク) ,ベルミードの荘園住宅 (45,バージニア) 。
デービス
Davies, William Henry
[生]1871.7.3. ニューポート
[没]1940.9.26. ネールズワース
イギリスの詩人。アメリカ合衆国まで足を延ばした放浪生活を送り,カナダのクロンダイクに向かう列車に飛び乗ろうとして片足を失った。帰国後,行商人,芸人を経て,詩作を始め,第一詩集 "The Soul's Destroyer, and Other Poems"(1905)以下,自然をうたう素朴な詩風で認められた。ほかに『超浮浪者の自叙伝』The Autobiography of a Super-Tramp(1907)がある。
デービス
Davies, John
[生]1565頃. ヘレフォード
[没]1618.7. ロンドン
イギリスの詩人。John Davies of Herefordともいう。名筆家としても有名で,その筆跡は『名筆の解剖』The Anatomy of Fair Writing(1631頃)に伝えられている。代表作はギヨーム・デュ・バルタスの『聖週間』にならった『小宇宙』Microcosmos(1603),エピグラム集『愚の懲罰』Scourge of Folly(1610頃)など。
デービス
Davis, Jerome Dean
[生]1838.1.17.
[没]1910.11.4.
アメリカの海外伝道協会宣教師。明治4 (1871) 年来日して神戸でキリスト教を伝道。 1875年京都に移り,新島襄,山本覚馬と協力して同志社を創立し,終生組織神学教授をつとめた。また日本最初の伝道冊子の一つである『真の道を知るの近道』 (74,のち『神の道を知るの近道』と改題) を出版,その発行部数は 10年間で 10万部に上った。このほか『新島襄先生伝』 (90) がある。
デービス
Davis, Bette
[生]1908.4.5. マサチューセッツ,ローウェル
[没]1989.10.7. パリ
アメリカの映画女優。本名 Ruth Elizabeth Davis。舞台で名をなし,1931年映画界入り。性格女優として多くの作品に出演し,『青春の抗議』 (1935) ,『黒蘭の女』 (38) で2度アカデミー主演女優賞を受賞。ほかに『イヴの総て』 (50) ,『何がジェーンに起ったか』 (62) ,『八月の鯨』 (87) などに出演。
デービス
Davis, Thomas Osborne
[生]1814.10.14. マロー
[没]1845.9.16. ダブリン
アイルランドの詩人,政治家。ダブリンのトリニティ・カレッジ在学中にアイルランド国民運動を提唱し,1842年にダッフィー,ディロンとともに週刊誌『ネーション』 Nationを創刊。多くの愛国詩をつくり,有力な著作家に呼びかけて「若きアイルランド人」運動を起したが,過労のため倒れた。彼の著作はのちのシン・フェーン運動中,福音書のごとく愛読された。
デービス
Davis, Charles Henry
[生]1807.1.16. ボストン
[没]1877.2.18. ワシントンD.C.
アメリカの海軍軍人,海洋学者。ハーバード大学で数学を学びつつ海軍士官候補生となり,マサチューセッツ,ロードアイランド,メーン各州の沿岸を初めて詳しく調査し,アメリカ航海年表 (1849) の創刊を助けた。南北戦争ではミシシッピ川上流で,北軍の砲艦隊を指揮し,1863年に海軍少将になった。アメリカ科学アカデミーの創立者の一人。
デービス
Davies, David Davies, 1st Baron
[生]1880.5.11. ランディナム
[没]1944.6.16. ランディナム
イギリスの政治家。ケンブリッジ大学卒業。1906~29年下院議員(自由党)。第1次世界大戦に従軍。1932年上院議員。ウェールズの大学教育や,国際連盟に協力。1932~33年ジュネーブ軍縮会議の失敗後,国際連盟の強化,特に国際警察軍や公正な国際司法裁判所の創設に努力した。
デービス
Davis
アメリカ合衆国,カリフォルニア州中部,サクラメント西方 25kmにある都市。文教都市。食品加工,鉄工業も行われている。 1906年カリフォルニア大学が 315haの土地に,分校と実験農場 (現農学部) をつくり,その後,獣医学部や工学部,法学部などが増設された。 62年には国立霊長類研究センターがつくられた。人口4万 6209 (1990) 。
デービス
Davies, Sir Louis Henry
[生]1845
[没]1924
カナダの政治家,法律家。プリンス・エドワードアイランド州首相 (1876~79) 。 1918年にはカナダ最高裁判所長官となった。
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デービス
William Morris Davis
生没年:1850-1934
アメリカ合衆国の地理学者,地形学者。ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれる。1869年にハーバード大学を卒業し,70年に工学修士となる。70-73年アルゼンチンのコルドバにある国立観測所の天文学助手,76年ハーバード大学に戻り,90年同大学自然地理学教授となり1912年までその任にあった。30年より他界するまでカリフォルニア工科大学の地質学教授を務めたほか,おもに合衆国西部の数大学で教えた。日本をはじめアジア,西ヨーロッパ,南アフリカ等世界各地を旅行し,晩年はとくにサンゴ礁の成因や石灰洞の起源について関心をもった。34年カリフォルニア州のパサデナで死去。その間,1904年にアメリカ地理学会を創設してその会長になったほか,アメリカ地理学者協会,アメリカ地質学会の会長も務めた。彼は進化論的立場から地形をとらえ,浸食輪廻説によって地形の変化を系統的に説明した。この学説は世界各地に広まり,多くのデービス学派の地形学者が輩出した。この考えは,彼がペンクとの交換教授としてベルリン大学で行った講義内容をまとめた《地形の説明的記載Die erklärende Beschreibung der Landformen》(1912)にまとめられている。また,《Elementary Meteorology》(1894)を著したほか,地理学,地理教育に関する著書・論文も多い。
執筆者:町田 貞
デービス
Miles Davis
生没年:1926-91
黒人ジャズ・トランペット奏者,モダン・ジャズ史上最大の音楽家の一人。イースト・セント・ルイスに生まれ,1945年チャーリー・パーカー五重奏団でデビュー。編曲を重視した九重奏団をつくり,まだフォームがなかったモダン・ジャズに初めてフォームを付与し,50年代への道をひらいた。59年には複雑化したコード進行とアドリブのマンネリ化を一新するため,モード手法(旋法)をとりいれ,当時勃興しつつあったフリー・ジャズへのアンチ・テーゼとした。69年には《ビッチェズ・ブリュー》を発表,大胆な電気楽器のとりいれとメンバーの3/4をリズム・セクションとした編成で世間を驚かせたが,次の10年間のクロスオーバー,フュージョンの流行はこの作品に発したものといわれている。70年代後半健康を害し休養していたが,81年センセーショナルなカムバックをした。また無名の新人をスカウトして大物に育てあげた点でも業績を残している。
→ジャズ
執筆者:油井 正一
デービス
Stuart Davis
生没年:1894-1964
アメリカの画家で,同国独自の抽象的風景画の完成者。フィラデルフィア生れ。R.ヘンライに師事したが,アーモリー・ショー以降は抽象に転向。1920年前後から都市風景を幾何学的,抽象的な構造に還元する試みを開始し,27-28年の《卵あわだて器》シリーズで方法論を確立した。WPA時代は壁画を手がけ,ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホール(1932)などで制作。晩年に抽象度は強化されたが,日常の現実感を失うことはなかった。
執筆者:桑原 住雄
デービス
Jefferson Davis
生没年:1808-89
アメリカ南部連合の大統領。在職1861-65年。ケンタッキー州に生まれる。ウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒業,7年の軍隊生活後,ミシシッピ州で大農園を経営。連邦下院議員,連邦上院議員を経て,1861年初め南部連合初代大統領に選出されたが,南北戦争中は過激な州権論者に悩まされた。敗戦後の65年5月北軍に逮捕され翌々年まで獄中生活。その後友人の農園で余生を送った。著書《南部連合政府の興亡》(1881)がある。
執筆者:井出 義光
デービス
Colin Davis
生没年:1927-
イギリスの指揮者。ローヤル音楽カレッジに学び,1949年より指揮活動を始める。61-64年サドラーズ・ウェルズ・オペラの音楽監督。67-71年BBC交響楽団の首席指揮者,71年コベント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督。77年バイロイト音楽祭に登場し,《タンホイザー》を指揮,イギリスの指揮者が同音楽祭で指揮をした最初のものとなった。モーツァルトのオペラでは新解釈を打ち出したほか,ベルリオーズやストラビンスキーなどを得意とし表現豊かな指揮を特徴とする。
執筆者:西原 稔
デービス
Jerome Dean Davis
生没年:1838-1910
アメリカの宣教師。ニューヨーク州出身。ウィスコンシン州の大学在学中,南北戦争に従軍。1869年シカゴ神学校を卒業し,71年アメリカン・ボード宣教師として来日,神戸,三田両教会の設立に尽力し,75年より新島襄の同志社創立に協力。彼の教育方針のよき理解者となった。組合教会の伝道と同志社のキリスト教教育に尽くし,1910年帰国した。
執筆者:土肥 昭夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
デービス
1896-1967.米国ワシントンDC生まれ.米国におけるドキュメンテーションの創始者.大学卒業後,物理学者として研究の傍ら,新聞に科学記事の寄稿を始め,1922年に科学知識の流通と普及を目的とする非営利団体サイエンスサービス(Science Service)が発行する新聞Science News(1921- 創刊時はScience News Letter)の編集者に就任.マイクロ写真技術を科学情報流通に利用するドキュメンテーション活動を構想し,同機関の所長に就任後,1935年に機関内にドキュメンテーション部門(Documentation Institute)を設立し,学術雑誌への抄録の提供とマイクロフィルムによる原報提供サービスを始める.1937年アメリカドキュメンテーション協会(American Documentation Institute)初代会長に就任した.
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
デービス Davis, Jerome Dean
1838-1910 アメリカの宣教師。
1838年1月17日生まれ。アメリカ伝道会から派遣され,明治4年(1871)来日し,神戸で伝道。8年新島襄(じょう)の同志社英学校(現同志社大)創立に協力。43年帰国。1910年11月4日死去。72歳。ニューヨーク州出身。シカゴ神学校卒。著作に「基督教証拠論」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内のデービスの言及
【南北戦争】より
…1861‐65年の間に,アメリカ合衆国の南北両地域の間で行われた戦争。奴隷問題を焦点とする南北対立の中で,南部11州が連邦を脱退して[アメリカ南部連合]を結成し,連邦側はそれを阻止し,連邦を守ろうとして南北戦争が起こった。南北戦争は今日ふつう〈内乱Civil War〉と呼ばれているが,戦争中,連邦側は〈反逆戦争War of the Rebellion〉と呼び,南部連合側は〈独立戦争War of Independence〉と呼んだ。…
【新島襄】より
…74年[アメリカン・ボード]年会で,日本にキリスト教主義大学を設立することを訴えて大きな反響を得,宣教師として帰国。75年京都府顧問山本覚馬,ボード宣教師[J.D.デービス]の協力で官許同志社英学校を京都に設立。翌年[熊本バンド]の入学で,同志社教育と日本組合教会の基礎は確立した。…
【映画音楽】より
…またアメリカでもモダン・ジャズをドラマチックなスタイルの中に吸収した《黄金の腕》のE.バーンスタインや,《或る殺人》のデューク・エリントンの〈シンフォニック・ジャズ〉が出現し,さらに50年代末から60年代にかけて,フランス映画の中にもいち早くモダン・ジャズを映画音楽として取り入れ,若々しい現代的ないぶきの表現に成功する。マイルス・デービスの即興演奏による《死刑台のエレベーター》,MJQによる《大運河》,アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズによる《殺られる》等々がそれである。 ヨーロッパ映画の作曲家としては,フェリーニ監督作品(《道》《甘い生活》等々)を中心としたイタリアのN.ロータ(1911‐79),J.ドゥミー監督作品(とくにせりふがすべて歌われた《シェルブールの雨傘》など)を中心にしたフランスのM.ルグラン(1932‐ ),マカロニウェスタン(S.レオーネ監督《荒野の用心棒》《夕陽のガンマン》等々)を中心にしたイタリアのE.モリコーネ,ミカエル・カコヤニス監督作品(《エレクトラ》《その男ゾルバ》)を中心にしたギリシアのミキス・テオドラキスらが輩出するが,やがてハリウッドに吸収されハリウッドの映画音楽を活性化することになる。…
【ジャズ】より
…ジャズを志すプレーヤーは,ことごとくバップに向きを変え,古老たちの博物館的ニューオーリンズ・スタイルにはきっぱりと背を向けたのである。
[クールの誕生]
パーカー・コンボのトランペット奏者マイルス・[デービス]は1948年,バップの革新的要素を,編曲を重視した九重奏団で演奏し,腕くらべ的で統制を欠いたジャム・セッションをグループ表現に高めたのであった。〈モダン・ジャズmodern jazz〉という言葉で呼ばれるようになったのもこのころであった。…
【アメリカン・シーン・ペインティング】より
…さまざまの傾向をふくむが,大きく分けるとキュビスムの影響をうけた半抽象的な系列と写実的な系列の二つがある。前者の舞台になったのは主としてニューヨークで,ブルックリン橋や高層建築をモティーフとして,近代文明を謳歌するステラJoseph Stella,シーラーCharles Sheeler,大都市のバイタリティを抽出した[デービス]がおり,後者には都会の底辺の日常の光景をとらえたマーシュReginald Marsh,孤独と疎外を描いた[ホッパー],ソーシャル・リアリズムsocial realismの立場を貫いた[シャーン]がいる。また,中西部の広大な農村風景を描きつづけた[ベントン],ウッドGrant Wood(1892‐1942),カリーJohn Steuart Curry(1897‐1946)などの提唱したリージョナリズムRegionalism(地方主義)も写実的な系列を代表する。…
【サンゴ礁(珊瑚礁)】より
…また氷期には海水温も5~10℃の範囲で低下し,泥質堆積物とあいまって礁の形成は阻止され,その後現在の間氷期に向かって海水準が上昇し,礁の形成が行われたという氷河制約説glacial control theoryを提唱した。これに対して地形輪廻説で有名な[W.M.デービス]はダーウィンの沈降説を全体として支持しながら,デーリーの気候変化に伴う海水温の低下や海水準低下を認めて縁辺帯説を1923,28年に提唱した。すなわち氷期には礁の形成は阻止されたものの,サンゴ海(暖海)ではサンゴ藻の生育は持続し,サンゴ礁の地形は海食から保護された。…
※「デービス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」