中国音楽(読み)ちゅうごくおんがく(英語表記)Zhōng guó yīn yuè

改訂新版 世界大百科事典 「中国音楽」の意味・わかりやすい解説

中国音楽 (ちゅうごくおんがく)
Zhōng guó yīn yuè

〈音楽〉の2字は前3世紀の《呂氏春秋(りよししゆんじゆう)》に初見する。それまでは舞もふくんで,〈楽〉とか,とくに民間音楽を〈声〉とか呼んでいた。中国においても他の原始社会と同様に,自然災害や戦勝に音楽の力が作用するとか,鳥の鳴き声で音階を定めたというような呪術性,また不合理性が存在したが,中国ではつとにその段階から脱却して,音を数理的に考え,音楽の感化作用を重視した。十二律と音階観念を早期に確立し,《管子》の楽律算定法,《呂氏春秋》の三分損益,荀勗(じゆんきよく)(3世紀)の笛の口径や長さと音律の関係を調べての管口補正試案,蔡元定(12世紀)の転調のための十八律案,朱載堉(しゆさいいく)(16世紀)の十二平均律理論に至る楽理の探究から,理知的な営みの流れが見える。また五行説は,数理的偏重に傾き,無意味な楽律論を生んだりもしたが,音階に方角,季節,色彩などを組み合わせたり,十二律を12ヵ月に当てたのは,典礼音楽に概念的統一を与える役割も果たした。そのほか五行説は,物質の素材によって楽器を分類する〈八音〉の観念形式にも貢献した。

 感化作用について,諸家のうち最も力説したのが儒家であった。始祖の孔子が音楽を愛好し,みずからも楽器を演奏して,人格形成の修養に役立つとしたからである。そのため,孟子以下,儒家はみな音楽を重視した。音楽美学を論じ,後世の学者が尊んだ〈楽記〉(《礼記(らいき)》の一編,前2世紀以前成立)に〈楽は徳の華なり〉というごとくである。しかし墨子は《非楽》を著し,為政者が楽舞を行うのに,民を搾取して過剰な経費をかけるとの理由から,音楽活動には否定的態度をとった。これに対して,荀子は〈楽論〉(前3世紀)で反駁(はんばく)し,音楽は人間の自然の欲求だから,むしろこれを正しい方向に導くことが,為政者の役割だと主張した。孔子が周朝初期の為政者によって制定された音楽を理想とし,彼の時代(前6~前5世紀)の娯楽性に富んだものを排斥した言を荀子は受けて,古学あるいは先王の楽と雅楽の概念を鮮明にし,目前の民間音楽(俗楽)と対峙させた。この雅楽は性格上,鑑賞にたえるものではなかったが,俗楽と分離することで,為政者は雅楽を尊重する原則から自分たちの正しいとする音楽を立てたので,かえって異民族統治時代にも,ともかく朝廷に音楽機関をもち,音楽活動を否定せず継続し,その記録を残した益がある。これはイスラム圏で,ときに音楽はすべて快楽だと排斥された状況とは異なる。

 だが音楽を発展させてきたのは,改革精神に満ち,外来音楽をも貪欲に摂取してきた俗楽の方である。古代の胡楽,近代の洋楽などの受入れは,楽理,楽曲や楽器においても,巧みに中国的な取捨選択,改良,発展を行い,中国化してきた。その過程で伝統は墨守せず,改革することでこそ継承できるという観念が育った。雅楽すら前朝の祖先礼賛音楽はそのまま使えないし,戦乱で失われることもあって,容易には伝統を保てない。まして俗楽は大衆が相手だから,時流に応じることを強いられ,楽曲や楽器はその特徴,利点を残し,著しい改変をしても必死で淘汰されまいとする。そのため,古典の保存は難しく,ときに目前の流行のみにとらわれたり,技術偏重の危険もはらんでいる。そのかわり,名人とか権威者を安住させず,つねに新鮮な音楽的探究,楽器の演奏技法の可能性の追究などの先進的精神を旺盛にもっている。

ほぼ4期に大別できる。第1期は先史時代から晋朝(4世紀)までの固有音楽時代。第2期は唐朝(9世紀)までの歌舞音楽中心,胡楽との融合時代。第3期は清朝(19世紀)までの語り物と劇楽(戯曲音楽)の物語音楽中心,民族音楽発展時代。第4期は現在に至る大衆音楽の芸術化,洋楽との融合時代である。

中国固有の楽器が出そろう時期で,分類法が考案されるほどの豊富な種類をもち,それによって楽理も整っていった。まず吹奏楽器としては,現存最古の陶製で1孔の塤(けん)がある。前4000年ころとされるが,以後,孔をふやして,殷代後期の前14~前12世紀には5孔塤となり,すでに1オクターブ中の11半音が吹き出せた。また縦笛やそれを組んだ排簫(はいしよう),前5世紀以前には横笛も使われ,和音を出す笙も同時に広く用いられていた。弦楽器は25弦で琴柱(ことじ)のある(しつ)と,琴柱のない琴(きん),また打奏の筑(ちく)も史書にはみえる。後世,琴は7弦を定型とするが,馬王堆漢墓出土の漢制七弦琴以前は,5弦,10弦など不定であったらしい。瑟,琴,筑より後に出現した(そう)など,第1期の弦楽器は,いずれも奏者の前に置いて弾くものが主体で,リュート属のものは,第1期の末期にようやく発達する。打楽器には,木製雅楽器(しゆく),(ぎよ),土製の缶(ふ)のほかに,石製の磬(けい),それと多様な青銅製の鐘(しよう),および各種太鼓の類があり,文献にも素材ばかりでなく,大きさ,用途,形態,組合せなどの異なる数多くの名称があげられていて,いかに古代中国人が打楽器を好んだかが分かる。鐘と磬は殷代後期に3個一組として,音高順にならべる編鐘,編磬の祖型ができ,周朝に入って(前12世紀)しだいに数を増した。とくに編鐘は鐘の中央部と脇の2ヵ所から3度関係の2音を出すことで,さらに音をふやし,基準音楽器と旋律打楽器をかねて,非常に重視された。前5世紀中葉には,65個一組という大規模なものが出現し,5オクターブ余の音域をもつにいたった。編鐘とよく合奏に使われた編磬も3オクターブをそなえていた。こうした楽器の発展と,礼楽の〈和〉の思想による雅楽合奏などから,基準音高,絶対音,移調などの観念が自然にはぐくまれた。高低8度の差を示す文字や,当時すでに5音音階が支配的であったから,6音音階,7音音階などの半音階名を示す変化音文字も使用された。

 ところで,朝廷や諸侯はおのおの楽師をかかえ,それを養成する機関をもって,典礼や饗宴で演奏させていたが,民間にも多数の音楽家がいた。とくに戦国期(前5~前3世紀)になると,衛の王豹(おうひよう)や斉の綿駒(めんく)といった歌手,琴家の伯牙(はくが)など古典に名をとどめるものもおり,趙の女性楽人のように,全国を回る旅芸人が活躍するようになる。この第1期の後期に入ると(前2世紀),漢朝で大規模な雅楽が行われた。他方,宮廷俗楽の楽府(がふ)の風が,紀元後には貴族の間に広まり,盛んに家伎を養い,優れた人材を奪いあって,歌舞奏楽をさせた。この流行には,前3世紀に初めて出現したリュート属の楽器から阮咸げんかん)を生んだこと,今の形に近い箏が成立したこと,琴が勘所をつけて琴楽が発達したこと,そしてこれらに,笛,排簫,笙などを加えて,歌舞音楽〈相和歌〉とそれに次ぐ〈清商楽〉の中心的伴奏楽器となり,器楽を充実させたことが寄与している。嵆康(けいこう)は著名な〈声に哀楽なきの論〉を発表し(3世紀),儒家の功利的楽論を批判して,音楽の独自性を強調した。この背景には,儒家思想の動揺だけでなく,上述のような俗楽の隆盛と,北朝に胡楽が流行し,中国固有の音楽に変化を迫ってきたという状況があった。

胡楽が全国に広まって,しかも前述の漢以来の楽舞を圧倒していく。日本の雅楽にも残る《抜頭(ばとう)》《蘭陵王(らんりようおう)》等の仮面舞楽はこの期に行われた。さらに,梨形曲頸の四弦琵琶や,ハープ属の箜篌(くご),それに篳篥(ひちりき)や,シンバル,ゴング類,および羯鼓(かつこ)をはじめとする太鼓類など,多くの胡楽器が定着し,奏楽に不可欠の重要な楽器となった。またそれらを演奏する西域楽人が,宮廷に入って為政者の愛護を受け,高い官職についたり,隋朝の白明達(はくめいたつ)のように楽師の長になった者もいる。こうした既成の俗楽や胡楽の影響をうけた新俗楽に加えての,胡楽楽舞の大流行の時潮に抗して,隋の文帝は七部に規制した(581)が,のちには逆に九部,十部とふえた(十部伎)。そして唐の玄宗期(8世紀)に至って,立坐二部伎,十四楽を数え,有名な教坊梨園の数千に及ぶ楽人舞人により上演され,極点に達した(燕楽)。その間,隋朝では鄭訳(ていやく)らが胡楽楽理を中国のものに合わせようと,十二律の全半音に7音音階のすべてを組み合わせた八十四調の理論を提出した。唐朝になって,その中から俗楽二十八調として実用に供した。また多数の胡楽曲を改称して漢語名にするなど,胡楽と中国俗楽の融合はさらに進んで,しだいに中国化がはかられ,それまでの胡楽は中国音楽に組み込まれていった。

 この第2期では,固有の楽器に胡楽器,さらには方響といった新楽器を入れ,しかも楽器の大小,弦数,素材,用途,ばちの使用の有無などによって,おのおの名称がつけられ,段安節の《楽府雑録》(9世紀末)には,唐代楽器約300種とある。これら多種の楽器により,大規模で個性豊かな歌舞が盛んであったが,同時に独唱,独奏も大曲と同じく転調,移調などに妙をみせ,詩や逸話ものこっているほど流行した。唐代には,近世の記譜法の中心となる,管楽器の孔名に由来する音高譜〈工尺譜〉と,文章譜から改良された琴の手法譜〈減字譜〉が登場した。このように,歌舞楽曲以外に,楽理,楽曲,楽譜など優れた水準にあって,日本などにも影響を与えた唐朝音楽も,みずから羯鼓を打ち指揮をとった玄宗の後は,急速に凋落(ちようらく)し,音楽の主要な場は民間に移っていった。

六朝時代から,貴族などが,抱えきれなくなった楽人を寺院に入れたため,寺院は民間音楽の中心となっていた。また,そこでは大衆を相手に,転読,讃唄(さんばい)などの仏教歌唱形式をもって説経僧が講釈をしていたが,これが徐々に芸能化して庶民の関心を集めた。これが唐朝に俗講となり,9世紀中葉には異常な人気を博して,語り物の端緒となった。それに,隋朝以来の俗謡から出た〈曲子(きよくし)〉が唐朝で流行し,詩人たちも作詞を試みるうちに,その固定旋律に文字をあてはめる歌曲作詞法が定着し,これが語り物音楽を盛んにさせる原因ともなった。長編の話に〈節〉を新たにつけるのは大変だが,既成の曲から物語の内容に合う旋律を選び,それを組み合わせていけばよかったからである。ただし,既成旋律の組合せには,しだいに一定の規則が形成される。こうした物語音楽の歌唱形式を〈聯曲体(れんきよくたい)〉という。

 さて宋朝に入ると,宮廷で科白を混じえた演劇音楽〈戯曲音楽〉が行われていたが,同時に開封,杭州に代表される都市の繁栄で庶民文化が開花し,瓦子(がし)を舞台に,笛と太鼓に拍板などで伴奏する語り物が評判をとっていた。その種類には,一調式の数曲で編成した〈鼓子詞〉や,複数調式の楽曲を組み合わせた〈諸宮調〉などがある。これら語り物の組歌形式は,芝居の方でも採用された。宋朝の南方で形成された戯曲〈南戯〉,元朝(13~14世紀)の〈元曲〉(〈雑劇〉の〈劇曲〉と歌曲の〈散曲〉),明朝(14~17世紀)の〈崑曲〉から,〈高腔〉系の祖型で同じく明朝の〈弋陽腔(よくようこう)〉まで,いずれも組歌形式の聯曲体に属す。この聯曲体も,〈南戯〉より南方で用いられた南曲の5音音階によるものと,元曲など北曲の7音音階を主とするものがある。また曲調は,南曲がゆるやかで婉転としているのに対し,北曲は豪放,激昂といわれる。この2種が13世紀末より並用されるようになり,南曲を基本に北曲をとり入れ発展したのが〈崑曲〉である。さらに,南北両曲とも,組歌の編成法には規則があるが,なかで比較的自由な南方の〈弋陽腔〉は,民歌も採用し,さらに歌やせりふを挿入する〈滾調(こんちよう)〉や,打楽器だけの伴奏,主唱者にコーラスをつけるという〈崑曲〉とは別の特徴をもって,各地に広まった。これらの劇種は,本来,既成旋律の配合と作詞で新作するもので,歌詞のすばらしさ,言葉の抑揚や響き,それに音進行の結合の妙により,いかに感動的に耳に快く伝えるかに主眼をおいた。この聯曲体に対し,〈板腔体〉とよばれる,字句の数がほぼ固定し,簡単な旋律をもとにリズム型によって変奏する〈梆子(ほうし)〉系戯曲が,17世紀に現れた。これは歌唱者を固定旋律から解放して,旋律にくふうを凝らすことを可能にし,同時に鮮明な拍節感の魅力もあいまって,全国各地の物語音楽に大きな影響を与え,北方地方劇や,漢劇,川劇,京劇などで広く用いられている。中国の伝統戯曲音楽の歌唱形式は,ほぼこの聯曲体か,板腔体と,これらの兼用したもので構成されている。

 この第3期の重要な楽器は,多く物語音楽と密接な関係がある。まず宋朝以来,語り物の伴奏として活躍していた笛は,元曲から崑曲に至って〈曲笛〉となり,梆子音楽でも高音の〈梆笛〉として重要な役割を果たした。それに,元朝には,唐朝に起こった擦弦楽器が,竹製から馬尾の弓を用いて胡弓となり,三弦も流行して,8世紀中葉より手で弾きフレットを増した琵琶とともに,南北の語り物や戯曲音楽の主要伴奏楽器となる。さらに明朝に伝来したチャルメラと揚琴も,物語音楽伴奏楽器として受け入れられた。これら吹奏,弾奏,擦奏の諸楽器に,銅鑼(どら),シンバル,拍板,太鼓類の打奏楽器が合わさって,近世器楽様式を形成した。それらは,多く物語音楽を素材としながら,独奏のほか,北方の〈吹歌〉〈鼓楽〉,南方の〈糸竹〉〈吹打〉など,民間器楽合奏として発展していった。他方,琴楽は宋以降,左手技法をさらに複雑にし,琴歌,琴曲とも民間音楽として独自の発展をとげ,明朝以来,とくに読書人階層に広まって諸流派を形成した。今日まで,各朝で刊行された658曲が伝わっている。これら琴曲譜は,唐朝より記譜法に大差なく,しかも古譜がそのまま残っており,唐朝以後の2000余りの旋律をおさめる《九宮大成南北詞宮譜》(1746)より,成立年代がはるかに早期である点で,古楽を知るには価値が高いともいえる。

13世紀に西洋の楽器が到来し,《律呂正義》(1713)に五線譜なども見えるように洋楽の伝来は早かったが,実際に摂取し使用するのは20世紀に入ってからのことである。大都市で洋楽教育が行われ,同時に流行音楽やジャズが欧米から入って,中国製洋楽歌謡がはやり,伝統音楽は圧倒されていった。この時期にあって,盲人音楽家の阿炳(あへい)で知られる華彦鈞(かげんきん)(1893-1950)は,胡弓曲《二泉映月》,琵琶曲《大浪淘沙》などの名作を残し,劉天華(りゆうてんか)(1895-1932)は洋楽的手法をとり入れ,胡弓曲《空山鳥語》《病中吟》,琵琶曲《歌華引》などで新技法を見せる一方,〈国楽改進社〉を結成し後進を指導し,《音楽雑誌》を出版して啓蒙活動にも努力した。これに対して,冼星海(しようせいかい),聶耳(じようじ)などの洋楽作曲家は,おのおの《黄河》や《前進歌》など,抗日戦争,革命のなかで,民衆のエネルギーを表現した。呂驥(りよき)(1907-2005)らは,1930年代より,民間音楽の採集,整理,研究,改作に尽くした。

 これら先人の業績は,新中国成立(1949)後も,創作,演奏,研究,教育などすべての面で継承,発展がなされた。文化大革命期は京劇を中心に,現代の題材を,伝統物語音楽の旋律型の自由な結合や,新旋律の創作,他の地方の物語音楽の採用,洋楽の大胆な導入などの方法により表現しようとして,技術面で興味深い試みもなされた。文革後,洋楽作品の演奏が再び許可され,海外との交流も盛んになって,優秀な人材を留学させるなど,レベル向上につとめている。また民族音楽も演奏ばかりでなく,映画音楽などを含む創作,楽器の改良,新楽器の創作,古代楽器の復元など活発になされ,青少年の啓蒙にも力を入れている。

 さらに現在,中国音楽研究所などを中心に,考古資料の整理,少数民族音楽の調査,古譜や古楽器の研究が進み,民間音楽の発掘とともに,創作に刺激を与えると同時に,文献との照合による音楽史のきめ細かい見直しがなされ,成果をあげつつある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国音楽」の意味・わかりやすい解説

中国音楽
ちゅうごくおんがく

数千年の歴史をもつ中国は、古代オリエントおよびインダス文明とともにアジア三大音楽文化圏の一つで、漢民族独自の音楽文化を形成し、音楽理論も古くから発達して周辺の諸国にも多大の影響を与え、東アジア音楽文化圏の根源的地位にあるといえる。

 その音楽の種類も多様多彩である。封建社会の確立とともに生まれ、儒家の礼楽思想に基づいて長い間支配者階級の音楽として重んじられた雅楽をはじめ、宮廷や貴族階級の間で行われた芸術・娯楽音楽である燕楽(えんがく)(宴饗(えんきょう)楽)、士大夫(したいふ)(知識階級)の琴(きん)楽、戯劇の前身である散(さん)楽、そして軍楽などがあり、一方、庶民の音楽としては説唱(語物(かたりもの))、民謡、戯劇などがあった。古代から、音律算定法によって十二律や七声(七音音階)が確立していたが、中世以後は単純化して現在のような五音音階に変化した。この音階による旋律と、二拍子系統の拍節的リズムとによって、中国音楽独特の雰囲気を醸し出している。

 以下、中国音楽の歴史を、(1)古代、(2)中世、(3)近世、(4)近現代の四つに分けて概観する。

[志村哲男]

古代=固有音楽時代

これは先史時代から4世紀の晋(しん)朝までである。三皇五帝の伝説時代の原始音楽の起源は不明であるが、周代以後の『詩経』『書経』『礼記(らいき)』などの文献には、黄(こう)帝が竹で律管をつくって音律を定め、伏羲(ふくぎ)が琴(きん)および瑟(しつ)をつくり、あるいは女媧(じょか)が笙(しょう)や竿(う)をつくったなどの、音楽に関するさまざまな伝説がみられる。おそらく殷(いん)・周以前の氏族社会では、天地を祀(まつ)り収穫を祈願する巫俗(ふぞく)的原始宗教の歌舞が存在したと思われる。

 殷代(前17~前11世紀)には、『史記』などの文献や考古学的資料により、祭祀(さいし)の歌舞が行われたことがわかり、磬(けい)、太鼓、簫(しょう)、塤(けん)(土笛)などの楽器や、原始的な琴、瑟の弦楽器も出現、周代(前11世紀~前249)に至ると、封建統治者によって典礼のための雅楽が制定され、これは儒家の礼楽思想に裏づけられて、後世の支配階級に大きな影響を及ぼした。乱世の春秋戦国時代に生きた孔子(前552/551―前479)は、雅声と鄭(てい)声を区別し、儒家の礼楽として雅声を重んじ、これが雅楽の観念の本源となった。音律を定める三分(さんぶん)損益法が編み出されたのもこの時期で、十二律とその名称が確立し、鐘・磬・琴・瑟・管・籥(やく)・篪(ち)・笙・塤・缶(ふ)・柷(しゅく)・敔(ぎょ)・鼓(こ)などの雅楽器もそろい、雅楽の八佾(はちいつ)の舞(まい)(文・武)も整えられた。

 漢代(前202~後220)に入ると、雅楽は周制をいっそう大規模にし、雅楽をつかさどる太楽署(たいがくしょ)が設置され、これとともに俗楽も発達していく。『詩経』『楚辞(そじ)』などにみられるように、民謡も行われていたが、これを宮廷に取り入れて芸術化した。周代以来の房中楽は、雅楽のような金石類の楽器を使わない管弦楽器中心のものであるが、ここでも民間歌謡を後宮の宴楽として奏した。また、太楽署に対して楽府(がふ)という官署が設置され、清商(しんしょう)三調などの俗楽が行われた。当時の宴楽の楽器やその編成は、1972年に馬王堆(まおうたい)の漢墓(湖南省長沙(ちょうさ))から出土した楽器(琴・瑟・十二律管)や奏楽木俑(もくよう)をはじめ、古墳壁画や画像石によって推察することができる。この時代には、張騫(ちょうけん)の西域(せいいき)遠征によって同地との交流が始まり、琵琶(びわ)・箜篌(くご)などの西域の楽器や楽舞、さらに後の散楽の前身となった百戯・雑戯(軽業(かるわざ)・曲芸を含む原始的な演戯)が伝播(でんぱ)された。インドから仏教も入ってきたが、仏教音楽が中国に影響を及ぼすようになるのは次の三国時代からである。

[志村哲男]

中世=国際音楽時代

これは紀元後5世紀から唐朝の9世紀までである。南北朝時代は北方民族が華北を制圧し、漢民族は揚子江(ようすこう)の南に移って対立した。北朝が北狄(ほくてき)および西域の文化の影響を強く受けたのに対し、南朝は雅楽・俗楽の伝統を踏襲した。中国を統一した隋(ずい)(581~618)は、伝統の雅楽(儒家の礼楽)の復興に努力し、俗楽(漢以来の中国固有の歌曲など)と胡(こ)楽(周辺異民族の音楽)も盛んになった。581年(開皇1)には胡楽・俗楽の代表的なものを選んで、国伎(こくぎ)(西凉(せいりょう)伎)・清商伎(漢代俗楽)・高麗(こうらい)伎(高句麗(こうくり))・天竺(てんじく)伎(インド)・安国伎(ボハラ)・亀茲(きじ)伎(クチャ)・文康伎(礼畢(れいひつ))の七部伎を制定、煬帝(ようだい)(在位604~618)の時に至り、疏勒(そろく)伎(カシュガル)と康国伎(サマルカンド)を加えて九部伎とした。

 未曽有(みぞう)の大帝国を樹立した唐朝(618~907)は、中国音楽にとっても全盛期で、その特色は国際性と貴族性にある。まず雅楽は、歴朝を踏襲してこれを空前の規模に高めた。そして、隋の九部伎から文康伎を除き、燕楽伎(新作の大曲)と高昌(こうしょう)伎(トゥルファン)を加えて十部伎とし、国家宮廷の行事の際の宴饗楽の中心とした。これらの音楽は国家機関である太常寺(礼楽の司)の太楽署に属し、典礼楽の性格をもっていた。しかし、玄宗(げんそう)朝(712~756)に入ると、妓女(ぎじょ)を中心とする教坊や、教坊と太常寺の優秀な楽工を集めた梨園(りえん)において行われるようになり、娯楽性を帯び、芸術化されて、盛唐音楽の頂点を築いた。また新たに作曲された宴饗楽14曲をまとめ、立部(8曲)・坐(ざ)部(6曲)の二部伎が制定された。

 このように、胡楽と俗楽の融合によって生まれた唐俗楽(燕楽)は日本にも伝えられ、国風化されつつも日本の雅楽として現在も伝承され、日本雅楽六調の名称は、この唐俗楽二八調のなかにみいだすことができる。また、奈良の正倉院には、唐代に日本に伝えられた五絃(ごげん)琵琶、阮咸(げんかん)、方響(ほうきょう)、箜篌、古代尺八、七絃琴などの楽器が保存されている。

[志村哲男]

近世=民族音楽時代

これは10世紀から清(しん)朝末の19世紀に至る長い時代である。五代の戦乱期には音楽の発達も一時止まったが、宋(そう)代(960~1279)になるとふたたび雅楽の復興が行われた。優れた儒学者が輩出し、音楽に関する論議が活発になり、蔡元定(さいげんてい)の『律呂(りつりょ)新書』や陳暘(ちんよう)の『楽書』などの音楽書、また姜夔(きょうき)の『白石道人歌曲』などの詩歌集が編纂(へんさん)された。一方、庶民の音楽が劇楽の形をとって台頭する。勾欄(こうらん)(劇場)などで演じられるこの雑劇は簡単な歌劇であったが、これが元代の元曲(げんきょく)や明(みん)代の崑(こん)曲へと発達していく。この雑劇とともに説唱と称される語物(かたりもの)の音楽も愛好された。さらに、唐代におこった詞楽は、太鼓を伴奏とする北方の鼓詞と、琵琶を伴奏とする南方の弾詞に分かれて発達し、朝野の区別なく大いに流行した。

 元代(1271~1368)、モンゴルによって征服されると、イスラム音楽の影響も受けた。現在胡琴あるいは二胡とよばれる中国の胡弓が、イスラムの胡弓ラバーブに源をもつと思われることなど、その一例である。元代においては、雅楽は前代の制度を著しく崩し、むしろ宴饗楽に特色を発揮している。また民謡も盛んで、散曲とよばれる民間歌曲の流行をみた。

 ふたたび漢民族による王朝の明代(1368~1644)には、雅楽の復活が試みられたが、すでに古制は失われ、雅俗混交の状態となり、新制に従った。民間には俗楽が盛行し、その一部は日本にも伝えられ明楽とよばれた。この時代は、江蘇(こうそ)省の崑山からおこった崑曲が諸戯劇を圧して流行し、元代に出現した三弦が戯劇と結び付き、しだいに国民の間に広く浸透していった。

 清代(1616~1912)には、康煕(こうき)帝(在位1661~1722)および乾隆(けんりゅう)帝(在位1735~1795)の時代に、明代の制度を基に雅楽の発展を図り、孔子廟(びょう)の祭礼楽もいちおう完備したが、小規模の新制にすぎなかった。民間では三弦・胡弓・笛・琵琶・洞簫(どうしょう)などによる合奏曲が流行、その一部は日本にも伝えられて、清楽あるいは明楽とあわせて明清楽とよばれ、明治初期まで流行した。またこの時代は戯曲が全盛を極め、各地にそれぞれ特有の演劇形態が行われていたが、清朝中期に西皮戯(せいひぎ)と結び付いた二黄劇が北京(ペキン)に入り、京劇として今日まで盛行を続ける唱劇となった。

[志村哲男]

近現代=世界音楽時代

中華民国が樹立されると、宮廷の雅楽は消滅した。わずかに孔子廟の雅楽が残り、これは現在も台湾の台南を中心に行われている。音楽教育の面では、日本の音楽教育制度を模範にし、欧米に留学生を派遣するなどして、西洋音楽の摂取と消化に力を入れた。その結果、西洋音楽の手法を導入した伝統楽器のための新しい胡弓曲や琵琶曲などが作曲された。こういった先人の業績は、新中国成立後も創作、演奏、研究、教育などすべての面で継承、発展がなされた。

 文化大革命期には、京劇を中心に現代的題材や洋楽手法の導入による新しい作品がつくりだされた。また、伝統楽器の改良も行われ、西洋のオーケストラのような声部の充実した大合奏曲の演奏も可能となり、民族音楽的素材による洋楽曲も多数作曲されている。反面、古楽譜の解読や古代楽器の復原にも力が注がれ、古曲の復原演奏も盛んである。

[志村哲男]

『村松一弥著『中国の音楽』(1965・勁草書房)』『岸辺成雄著『古代シルクロードの音楽』(1982・講談社)』『岸辺成雄・林謙三著『東洋音楽選書2 唐代の楽器』(1968・音楽之友社)』『林謙三著『東アジア楽器考』(1973・カワイ楽譜)』『三谷陽子著『東アジア琴箏の研究』(1980・全音楽譜出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国音楽」の意味・わかりやすい解説

中国音楽
ちゅうごくおんがく
Chinese music

歴史的にみると,(1) 太古~5世紀,(2) 漢民族固有の音楽の時代,(3) 唐を中心とする国際音楽の時代,(4) 宋から清朝までの民族音楽時代,(5) 中華民国以後の世界音楽時代に分けられる。固有音楽は,漢代 (紀元前後) に儒教の礼楽思想を中心にして雅楽となった。国際音楽は西域を通してイラン,インドの音楽を取入れた宮廷国家の音楽文化である (日本に伝わって舞楽となった) 。民族音楽は,漢民族の庶民の間に成育した劇楽 (清朝以後の京劇が代表) で,西アジアのイスラム音楽の影響 (たとえば,三弦や胡弓) は多少受けたものの,中国色が濃い。世界音楽は洋楽の採用に始り,資本主義社会,次いで社会主義社会の庶民の音楽である。現在の中国の伝統音楽は,民族音楽時代以来のもので,五声 (→五音 ) ,七声十二律を用いるまったく中国的な旋律で代表される。

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