改訂新版 世界大百科事典 「中国音楽」の意味・わかりやすい解説
中国音楽 (ちゅうごくおんがく)
Zhōng guó yīn yuè
〈音楽〉の2字は前3世紀の《呂氏春秋(りよししゆんじゆう)》に初見する。それまでは舞もふくんで,〈楽〉とか,とくに民間音楽を〈声〉とか呼んでいた。中国においても他の原始社会と同様に,自然災害や戦勝に音楽の力が作用するとか,鳥の鳴き声で音階を定めたというような呪術性,また不合理性が存在したが,中国ではつとにその段階から脱却して,音を数理的に考え,音楽の感化作用を重視した。十二律と音階観念を早期に確立し,《管子》の楽律算定法,《呂氏春秋》の三分損益,荀勗(じゆんきよく)(3世紀)の笛の口径や長さと音律の関係を調べての管口補正試案,蔡元定(12世紀)の転調のための十八律案,朱載堉(しゆさいいく)(16世紀)の十二平均律理論に至る楽理の探究から,理知的な営みの流れが見える。また五行説は,数理的偏重に傾き,無意味な楽律論を生んだりもしたが,音階に方角,季節,色彩などを組み合わせたり,十二律を12ヵ月に当てたのは,典礼音楽に概念的統一を与える役割も果たした。そのほか五行説は,物質の素材によって楽器を分類する〈八音〉の観念形式にも貢献した。
感化作用について,諸家のうち最も力説したのが儒家であった。始祖の孔子が音楽を愛好し,みずからも楽器を演奏して,人格形成の修養に役立つとしたからである。そのため,孟子以下,儒家はみな音楽を重視した。音楽美学を論じ,後世の学者が尊んだ〈楽記〉(《礼記(らいき)》の一編,前2世紀以前成立)に〈楽は徳の華なり〉というごとくである。しかし墨子は《非楽》を著し,為政者が楽舞を行うのに,民を搾取して過剰な経費をかけるとの理由から,音楽活動には否定的態度をとった。これに対して,荀子は〈楽論〉(前3世紀)で反駁(はんばく)し,音楽は人間の自然の欲求だから,むしろこれを正しい方向に導くことが,為政者の役割だと主張した。孔子が周朝初期の為政者によって制定された音楽を理想とし,彼の時代(前6~前5世紀)の娯楽性に富んだものを排斥した言を荀子は受けて,古学あるいは先王の楽と雅楽の概念を鮮明にし,目前の民間音楽(俗楽)と対峙させた。この雅楽は性格上,鑑賞にたえるものではなかったが,俗楽と分離することで,為政者は雅楽を尊重する原則から自分たちの正しいとする音楽を立てたので,かえって異民族統治時代にも,ともかく朝廷に音楽機関をもち,音楽活動を否定せず継続し,その記録を残した益がある。これはイスラム圏で,ときに音楽はすべて快楽だと排斥された状況とは異なる。
だが音楽を発展させてきたのは,改革精神に満ち,外来音楽をも貪欲に摂取してきた俗楽の方である。古代の胡楽,近代の洋楽などの受入れは,楽理,楽曲や楽器においても,巧みに中国的な取捨選択,改良,発展を行い,中国化してきた。その過程で伝統は墨守せず,改革することでこそ継承できるという観念が育った。雅楽すら前朝の祖先礼賛音楽はそのまま使えないし,戦乱で失われることもあって,容易には伝統を保てない。まして俗楽は大衆が相手だから,時流に応じることを強いられ,楽曲や楽器はその特徴,利点を残し,著しい改変をしても必死で淘汰されまいとする。そのため,古典の保存は難しく,ときに目前の流行のみにとらわれたり,技術偏重の危険もはらんでいる。そのかわり,名人とか権威者を安住させず,つねに新鮮な音楽的探究,楽器の演奏技法の可能性の追究などの先進的精神を旺盛にもっている。
歴史
ほぼ4期に大別できる。第1期は先史時代から晋朝(4世紀)までの固有音楽時代。第2期は唐朝(9世紀)までの歌舞音楽中心,胡楽との融合時代。第3期は清朝(19世紀)までの語り物と劇楽(戯曲音楽)の物語音楽中心,民族音楽発展時代。第4期は現在に至る大衆音楽の芸術化,洋楽との融合時代である。
第1期
中国固有の楽器が出そろう時期で,分類法が考案されるほどの豊富な種類をもち,それによって楽理も整っていった。まず吹奏楽器としては,現存最古の陶製で1孔の塤(けん)がある。前4000年ころとされるが,以後,孔をふやして,殷代後期の前14~前12世紀には5孔塤となり,すでに1オクターブ中の11半音が吹き出せた。また縦笛やそれを組んだ排簫(はいしよう),前5世紀以前には横笛も使われ,和音を出す笙も同時に広く用いられていた。弦楽器は25弦で琴柱(ことじ)のある瑟(しつ)と,琴柱のない琴(きん),また打奏の筑(ちく)も史書にはみえる。後世,琴は7弦を定型とするが,馬王堆漢墓出土の漢制七弦琴以前は,5弦,10弦など不定であったらしい。瑟,琴,筑より後に出現した箏(そう)など,第1期の弦楽器は,いずれも奏者の前に置いて弾くものが主体で,リュート属のものは,第1期の末期にようやく発達する。打楽器には,木製雅楽器の柷(しゆく),敔(ぎよ),土製の缶(ふ)のほかに,石製の磬(けい),それと多様な青銅製の鐘(しよう),および各種太鼓の類があり,文献にも素材ばかりでなく,大きさ,用途,形態,組合せなどの異なる数多くの名称があげられていて,いかに古代中国人が打楽器を好んだかが分かる。鐘と磬は殷代後期に3個一組として,音高順にならべる編鐘,編磬の祖型ができ,周朝に入って(前12世紀)しだいに数を増した。とくに編鐘は鐘の中央部と脇の2ヵ所から3度関係の2音を出すことで,さらに音をふやし,基準音楽器と旋律打楽器をかねて,非常に重視された。前5世紀中葉には,65個一組という大規模なものが出現し,5オクターブ余の音域をもつにいたった。編鐘とよく合奏に使われた編磬も3オクターブをそなえていた。こうした楽器の発展と,礼楽の〈和〉の思想による雅楽合奏などから,基準音高,絶対音,移調などの観念が自然にはぐくまれた。高低8度の差を示す文字や,当時すでに5音音階が支配的であったから,6音音階,7音音階などの半音階名を示す変化音文字も使用された。
ところで,朝廷や諸侯はおのおの楽師をかかえ,それを養成する機関をもって,典礼や饗宴で演奏させていたが,民間にも多数の音楽家がいた。とくに戦国期(前5~前3世紀)になると,衛の王豹(おうひよう)や斉の綿駒(めんく)といった歌手,琴家の伯牙(はくが)など古典に名をとどめるものもおり,趙の女性楽人のように,全国を回る旅芸人が活躍するようになる。この第1期の後期に入ると(前2世紀),漢朝で大規模な雅楽が行われた。他方,宮廷俗楽の楽府(がふ)の風が,紀元後には貴族の間に広まり,盛んに家伎を養い,優れた人材を奪いあって,歌舞奏楽をさせた。この流行には,前3世紀に初めて出現したリュート属の楽器から阮咸(げんかん)を生んだこと,今の形に近い箏が成立したこと,琴が勘所をつけて琴楽が発達したこと,そしてこれらに,笛,排簫,笙などを加えて,歌舞音楽〈相和歌〉とそれに次ぐ〈清商楽〉の中心的伴奏楽器となり,器楽を充実させたことが寄与している。嵆康(けいこう)は著名な〈声に哀楽なきの論〉を発表し(3世紀),儒家の功利的楽論を批判して,音楽の独自性を強調した。この背景には,儒家思想の動揺だけでなく,上述のような俗楽の隆盛と,北朝に胡楽が流行し,中国固有の音楽に変化を迫ってきたという状況があった。
第2期
胡楽が全国に広まって,しかも前述の漢以来の楽舞を圧倒していく。日本の雅楽にも残る《抜頭(ばとう)》《蘭陵王(らんりようおう)》等の仮面舞楽はこの期に行われた。さらに,梨形曲頸の四弦琵琶や,ハープ属の箜篌(くご),それに篳篥(ひちりき)や,シンバル,ゴング類,および羯鼓(かつこ)をはじめとする太鼓類など,多くの胡楽器が定着し,奏楽に不可欠の重要な楽器となった。またそれらを演奏する西域楽人が,宮廷に入って為政者の愛護を受け,高い官職についたり,隋朝の白明達(はくめいたつ)のように楽師の長になった者もいる。こうした既成の俗楽や胡楽の影響をうけた新俗楽に加えての,胡楽楽舞の大流行の時潮に抗して,隋の文帝は七部に規制した(581)が,のちには逆に九部,十部とふえた(十部伎)。そして唐の玄宗期(8世紀)に至って,立坐二部伎,十四楽を数え,有名な教坊,梨園の数千に及ぶ楽人舞人により上演され,極点に達した(燕楽)。その間,隋朝では鄭訳(ていやく)らが胡楽楽理を中国のものに合わせようと,十二律の全半音に7音音階のすべてを組み合わせた八十四調の理論を提出した。唐朝になって,その中から俗楽二十八調として実用に供した。また多数の胡楽曲を改称して漢語名にするなど,胡楽と中国俗楽の融合はさらに進んで,しだいに中国化がはかられ,それまでの胡楽は中国音楽に組み込まれていった。
この第2期では,固有の楽器に胡楽器,さらには方響といった新楽器を入れ,しかも楽器の大小,弦数,素材,用途,ばちの使用の有無などによって,おのおの名称がつけられ,段安節の《楽府雑録》(9世紀末)には,唐代楽器約300種とある。これら多種の楽器により,大規模で個性豊かな歌舞が盛んであったが,同時に独唱,独奏も大曲と同じく転調,移調などに妙をみせ,詩や逸話ものこっているほど流行した。唐代には,近世の記譜法の中心となる,管楽器の孔名に由来する音高譜〈工尺譜〉と,文章譜から改良された琴の手法譜〈減字譜〉が登場した。このように,歌舞楽曲以外に,楽理,楽曲,楽譜など優れた水準にあって,日本などにも影響を与えた唐朝音楽も,みずから羯鼓を打ち指揮をとった玄宗の後は,急速に凋落(ちようらく)し,音楽の主要な場は民間に移っていった。
第3期
六朝時代から,貴族などが,抱えきれなくなった楽人を寺院に入れたため,寺院は民間音楽の中心となっていた。また,そこでは大衆を相手に,転読,讃唄(さんばい)などの仏教歌唱形式をもって説経僧が講釈をしていたが,これが徐々に芸能化して庶民の関心を集めた。これが唐朝に俗講となり,9世紀中葉には異常な人気を博して,語り物の端緒となった。それに,隋朝以来の俗謡から出た〈曲子(きよくし)〉が唐朝で流行し,詩人たちも作詞を試みるうちに,その固定旋律に文字をあてはめる歌曲作詞法が定着し,これが語り物音楽を盛んにさせる原因ともなった。長編の話に〈節〉を新たにつけるのは大変だが,既成の曲から物語の内容に合う旋律を選び,それを組み合わせていけばよかったからである。ただし,既成旋律の組合せには,しだいに一定の規則が形成される。こうした物語音楽の歌唱形式を〈聯曲体(れんきよくたい)〉という。
さて宋朝に入ると,宮廷で科白を混じえた演劇音楽〈戯曲音楽〉が行われていたが,同時に開封,杭州に代表される都市の繁栄で庶民文化が開花し,瓦子(がし)を舞台に,笛と太鼓に拍板などで伴奏する語り物が評判をとっていた。その種類には,一調式の数曲で編成した〈鼓子詞〉や,複数調式の楽曲を組み合わせた〈諸宮調〉などがある。これら語り物の組歌形式は,芝居の方でも採用された。宋朝の南方で形成された戯曲〈南戯〉,元朝(13~14世紀)の〈元曲〉(〈雑劇〉の〈劇曲〉と歌曲の〈散曲〉),明朝(14~17世紀)の〈崑曲〉から,〈高腔〉系の祖型で同じく明朝の〈弋陽腔(よくようこう)〉まで,いずれも組歌形式の聯曲体に属す。この聯曲体も,〈南戯〉より南方で用いられた南曲の5音音階によるものと,元曲など北曲の7音音階を主とするものがある。また曲調は,南曲がゆるやかで婉転としているのに対し,北曲は豪放,激昂といわれる。この2種が13世紀末より並用されるようになり,南曲を基本に北曲をとり入れ発展したのが〈崑曲〉である。さらに,南北両曲とも,組歌の編成法には規則があるが,なかで比較的自由な南方の〈弋陽腔〉は,民歌も採用し,さらに歌やせりふを挿入する〈滾調(こんちよう)〉や,打楽器だけの伴奏,主唱者にコーラスをつけるという〈崑曲〉とは別の特徴をもって,各地に広まった。これらの劇種は,本来,既成旋律の配合と作詞で新作するもので,歌詞のすばらしさ,言葉の抑揚や響き,それに音進行の結合の妙により,いかに感動的に耳に快く伝えるかに主眼をおいた。この聯曲体に対し,〈板腔体〉とよばれる,字句の数がほぼ固定し,簡単な旋律をもとにリズム型によって変奏する〈梆子(ほうし)〉系戯曲が,17世紀に現れた。これは歌唱者を固定旋律から解放して,旋律にくふうを凝らすことを可能にし,同時に鮮明な拍節感の魅力もあいまって,全国各地の物語音楽に大きな影響を与え,北方地方劇や,漢劇,川劇,京劇などで広く用いられている。中国の伝統戯曲音楽の歌唱形式は,ほぼこの聯曲体か,板腔体と,これらの兼用したもので構成されている。
この第3期の重要な楽器は,多く物語音楽と密接な関係がある。まず宋朝以来,語り物の伴奏として活躍していた笛は,元曲から崑曲に至って〈曲笛〉となり,梆子音楽でも高音の〈梆笛〉として重要な役割を果たした。それに,元朝には,唐朝に起こった擦弦楽器が,竹製から馬尾の弓を用いて胡弓となり,三弦も流行して,8世紀中葉より手で弾きフレットを増した琵琶とともに,南北の語り物や戯曲音楽の主要伴奏楽器となる。さらに明朝に伝来したチャルメラと揚琴も,物語音楽伴奏楽器として受け入れられた。これら吹奏,弾奏,擦奏の諸楽器に,銅鑼(どら),シンバル,拍板,太鼓類の打奏楽器が合わさって,近世器楽様式を形成した。それらは,多く物語音楽を素材としながら,独奏のほか,北方の〈吹歌〉〈鼓楽〉,南方の〈糸竹〉〈吹打〉など,民間器楽合奏として発展していった。他方,琴楽は宋以降,左手技法をさらに複雑にし,琴歌,琴曲とも民間音楽として独自の発展をとげ,明朝以来,とくに読書人階層に広まって諸流派を形成した。今日まで,各朝で刊行された658曲が伝わっている。これら琴曲譜は,唐朝より記譜法に大差なく,しかも古譜がそのまま残っており,唐朝以後の2000余りの旋律をおさめる《九宮大成南北詞宮譜》(1746)より,成立年代がはるかに早期である点で,古楽を知るには価値が高いともいえる。
第4期
13世紀に西洋の楽器が到来し,《律呂正義》(1713)に五線譜なども見えるように洋楽の伝来は早かったが,実際に摂取し使用するのは20世紀に入ってからのことである。大都市で洋楽教育が行われ,同時に流行音楽やジャズが欧米から入って,中国製洋楽歌謡がはやり,伝統音楽は圧倒されていった。この時期にあって,盲人音楽家の阿炳(あへい)で知られる華彦鈞(かげんきん)(1893-1950)は,胡弓曲《二泉映月》,琵琶曲《大浪淘沙》などの名作を残し,劉天華(りゆうてんか)(1895-1932)は洋楽的手法をとり入れ,胡弓曲《空山鳥語》《病中吟》,琵琶曲《歌華引》などで新技法を見せる一方,〈国楽改進社〉を結成し後進を指導し,《音楽雑誌》を出版して啓蒙活動にも努力した。これに対して,冼星海(しようせいかい),聶耳(じようじ)などの洋楽作曲家は,おのおの《黄河》や《前進歌》など,抗日戦争,革命のなかで,民衆のエネルギーを表現した。呂驥(りよき)(1907-2005)らは,1930年代より,民間音楽の採集,整理,研究,改作に尽くした。
これら先人の業績は,新中国成立(1949)後も,創作,演奏,研究,教育などすべての面で継承,発展がなされた。文化大革命期は京劇を中心に,現代の題材を,伝統物語音楽の旋律型の自由な結合や,新旋律の創作,他の地方の物語音楽の採用,洋楽の大胆な導入などの方法により表現しようとして,技術面で興味深い試みもなされた。文革後,洋楽作品の演奏が再び許可され,海外との交流も盛んになって,優秀な人材を留学させるなど,レベル向上につとめている。また民族音楽も演奏ばかりでなく,映画音楽などを含む創作,楽器の改良,新楽器の創作,古代楽器の復元など活発になされ,青少年の啓蒙にも力を入れている。
さらに現在,中国音楽研究所などを中心に,考古資料の整理,少数民族音楽の調査,古譜や古楽器の研究が進み,民間音楽の発掘とともに,創作に刺激を与えると同時に,文献との照合による音楽史のきめ細かい見直しがなされ,成果をあげつつある。
執筆者:吉川 良和
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報