( 1 )幕末明治初期には、「文庫」「書院」「書庫」「書物庫」「書室」「便覧所(安中藩)」などの語が見える。明治一〇年(一八七七)代には、「書籍館(しょじゃくかん)」と呼ぶのが普通で、「図書館」が用いられるようになるのは明治二〇年代以降。
( 2 )当初、読みは「ずしょかん」「としょかん」の二通りがあり、もっぱら「としょかん」というようになるのは大正(一九一二‐)以後。
図書館は、図書その他の資料を収集・保存し、一般あるいは特定の利用者のため、閲覧、貸出し、参考調査(レファレンス)などのサービスを提供する機関である。この語は英語のライブラリーlibraryの訳語として、明治中期から使われ始める。それ以前には「文庫」「書籍館(しょじゃくかん)」などが使われていた。libraryには図書館のほかに、図書コレクション、叢書(そうしょ)の意味があり、ギリシア語語源の英語bibliothecaも同じであるが、日本語では図書を収集・保存する場所の意がとられた。
図書館の機能は時代とともに変遷している。現代の図書館が収蔵する資料は図書、雑誌に限らない。さまざまな種類の印刷資料のほか、利用者の需要に応じ、音の資料(レコード、録音テープ、CDなど)、目で見る資料(フィルム、写真など)、点字資料、CD-ROM、コンピュータ処理の電子データなどが対象になりうる。社会教育施設としての図書館は読書活動以外に、利用者の啓蒙(けいもう)と生涯学習のための種々の活動を行っている。児童のための読み聞かせ、障害者のためのサービスも重要な活動となっている。現代の図書館は、文献資料を中心にした各種情報要求にこたえ、資料検索の仕組みをコンピュータ化している。また、1館ごとの存在では十分に機能を発揮しえなくなり、図書館相互のネットワークおよび地域内や全国的なシステムづくりを行っており、さらにインターネットを通じて世界各国からの電子化した資料も利用できるようになっている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館の歴史は古く、文字文化の発生とともにある。古代オリエント、エジプト、中国、インドには古代の文献保存の方法と場所があった。古代の文献は国や地域によってその材料が異なり、保存法も違っていた。中国の竹簡(ちっかん)、木牘(もくとく)、メソポタミアの粘土板、エジプトのパピルス(ナイル河畔に多産の植物)、インドの貝多羅葉(ばいたらよう)(ヤシの葉)は古い文献時代の代表的材料であった。古代の文献保存所は、文書の保管所であったのか、書物の図書館であったのかさだかでなく、図書館の成立についてもまた不明な点が多い。ただし、寺院、王宮に結び付いて存在した点は認められる。アッシリアの古都ニネベ、バビロニアのニップール、ヒッタイト王国のボアズキョイの発掘では粘土板を集積した場所がみいだされている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
ヨーロッパではギリシアのヘレニズム文化の興隆、中国では漢の武帝あたりから、組織体としての図書館が記録にとどめられている。図書館としての機能をはっきり示す最古の大図書館はアレクサンドリア図書館であろう。プトレマイオス王朝(前4~前1世紀)の庇護(ひご)のもとに設立された学問所図書館で、ギリシア語写本をパピルスの姿で収集し、収集のためには、ギリシア本土から、あるいはこの地に寄港する船から写本を取り寄せて写し取っていた。紀元前47年にカエサルにより焼き払われたときには、70万の巻子(かんす)があったといわれている。図書館の管理に携わった8人の名前が知られているが、ゼノドトス、エラトステネス、ビザンティンのアリストファネスらは、当代有数の学者であった。図書館員は、最良の写本を選別する目をもち、テキストの校訂を行っていた。ヘブライ語などをギリシア語に翻訳するのも図書館員の仕事であった。カリマコスの編纂(へんさん)した『ピナケス』は、この図書館の蔵書目録というよりは、当時の著作の分類目録とされている。古代第二の図書館は、アレクサンドリアに対抗してアッタロス王朝のエウメネス2世(前2世紀)が学者を集め、王宮に建てたペルガモン(現、トルコ)の図書館であった。
古代ローマの図書館はアレクサンドリアの型に倣ったが、写本は職業としても成り立ち、写本取引は地中海全域に広がっていた。プリニウス(大)の『博物誌』Historiae Naturalisのように、文献コレクションをもとに書かれる本も現れた。政治家と軍人の実務社会であった古代ローマでは、彼らの権勢を示すためにつくられた個人図書館も多く、これらはある程度学者や市民にも公開されていた。東方に遠征する将軍は戦利品としてギリシア語文献を持ち帰っていた。カエサル自身も公開の図書館建設を企画したといわれ、アシニウス・ポリオGaius Asinius Pollio(前76―後5)の「自由のアトリエ」、文人キケロの蔵書は有名であった。初期キリスト教のコレクションは、紀元後3世紀初頭すでにエルサレムとカエサリアにあった。
西欧中世の図書館はキリスト教教会を中心に発達した。ローマ帝国の分裂により、東のビザンティン帝国と西のローマ帝国に新しい文明が栄えたが、ビザンティン帝国はギリシアの学問と文献収集の伝統を受け継ぎ、10世紀にわたりこれを保った。首都には三つの重要な図書館(帝室図書館、総司教図書館、帝室学問所図書館)があったが、古代の文献を保存し、東方世界に伝えた意義は大きい。ここはイスラム世界との接点であり、窓口でもあった。民族移動による混乱を終えた西ヨーロッパは、9世紀のカール大帝の統一により文化建設が実現する。大帝の「カロリング朝ルネサンス」は、宮廷図書館の設立、領土内各地の修道院・学校の建設、法規の集成を含み、小文字を取り入れた書体の改良から書写活動も進んだ。
中世を通じてもっとも発達した図書館は修道院・教会の図書館で、ここは書写室・書庫が接近した自家生産型の図書館であった。材料も羊皮紙に変わり、巻子から綴本(とじほん)への移行もみられた。13世紀からキリスト教中世が解体の方向に向かうと、修道院や教会の図書館は衰え、かわって世俗の文化の担い手が現れ、安価な書写材料としての紙が普及し、写本も商取引の対象となるにつれ、領主貴族の図書館、市会の図書館が出現する。百科事典の試みが相次ぐのは14世紀であり、愛書家や個人文庫の誕生もみられる。ロベール・ド・ソルボンRobert de Sorbon(1201―1274)によるパリの学寮設立は大学図書館の成立を促す。ここでは1289年に図書館ができ、14世紀なかばには1700冊が所蔵されていた。大学の設立と同時に図書館が付設される例も出てくる(ハイデルベルク、1386年)。大学図書館の蔵書は主題分類に従っていた。本は書見台に横たえられるか、そこに取り付けられた棚に並べられ、おのおの鎖で台か棚かにつながれていた。この姿は中世の領主図書館、修道院図書館にもみられるが、繰り返し利用されることを前提としていた。
イスラム世界の図書館は、口伝のコーランが集成され写本ができあがるころ(7世紀)から栄える。8世紀には紙が中国から伝来し、バグダードに製紙工場が完成する。11世紀アッバース朝では学術研究が栄えた。図書館は首長や文学・学術団体が宗教・歴史の知識を普及するために設けられた。10世紀バグダードの本の家(ダール・アル・クトゥブ)、知識の家(ダール・アル・ヒクマ)が知られ、イスラム寺院(モスク)には至る所に図書コレクションがみられた。アル・ナディームの分類体系は、中世から19世紀まで使われた。図書館の利用者は限られていたが、図書館は無料で開かれ、紙やインキが用意されており、貸出しも保証金があれば行われていた。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
ルネサンスと宗教改革、そして印刷術の発明で始まる西欧近代は図書館の基盤を築いた。人文主義時代のイタリアでは君公、学者のもとに、現在に残るコレクションが次々とつくられた。フィレンツェのメディチ家の司書ニッコロ・ニッコーリNiccolo Niccoli(1364―1437)は主家のため各地で写本を集めて回った。ルターによる宗教改革は、中世を支配したカトリックの基底を揺るがし、そのため旧教諸派、新教ともに教団、学問所を強化した。16世紀には大学も両派のものがドイツ各地でつくられた。これらの動きを支えたのはグーテンベルクによる印刷術である。写本にかわって印刷本は一般市民の手に届くようになり、大学はこぞって印刷所をもつようになった。印刷図書が写本を圧倒する16世紀にはドイツ各地で封建諸侯のもとに大型コレクションがつくられ始める(ハイデルベルクのパラティーナ図書館、ミュンヘン大公図書館、ウィーンとプロイセンの宮廷図書館)。それはドイツにおける図書文化の優越した地位に支えられていた。ここではフランクフルト(1564)とライプツィヒ(1594)に書籍見本市が始まっていた。コンラート・ゲスナーの『万有書誌』(1545)は図書館を中心に調べた写本の総目録である。
17世紀は、三十年戦争によりドイツの図書館が全体的に衰え、かわってフランスの図書館が決定的な影響力をもった。ヨーロッパ第一の文化国となっていたフランスは学術研究にも力を示し、アカデミー・フランセーズの成立(1635)、学術雑誌の刊行(『ジュルナール・デ・サバン』Journal des Sçavans, 1665)で他に先駆けた。この世紀のフランスの図書館で大きな影響力をもったのは王立図書館(ビブリオテーク・ド・ロア)であった。成立は16世紀初頭、フランソア1世の時代とされるが、法令による義務納本制を初めて施行し、国内全出版物を収集・保存できる国の中央図書館を実現させた。フランスの宰相マザラン卿(きょう)は司書ガブリエル・ノーデGabriel Naudé(1600―1653)の助力でマザラン図書館をつくったが、ノーデは徹底した収書方針を貫き、1643年、図書館を毎日一定時間開放する原則をたてた。ノーデの考えは『図書館建設に関する意見』Avis pour dresser une bibliothèque(1627)として著されている。イギリスの政治家トマス・ボドリーSir Thomas Bodley(1545―1613)も同じ時代に司書ジェームズThomas James(1573?―1629)の力を得て、母校オックスフォード大学の図書館を再建した。書籍商組合からの納本を受け、蔵書目録の印刷、公開利用も他に先だって行った。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
18世紀の図書館は、各国の民族意識の高揚と啓蒙(けいもう)思想の普及による、市民の読書の場への要求、利用に値する教養コレクションの成立などにより特徴づけられる。1759年開館の大英博物館は、性格と成立事情はあいまいであったが、その後、個人蔵書の寄贈・遺贈を受け入れ、図書館部門を急速に伸ばした。ロシアのエカチェリーナ2世は、ポーランド分割の機に獲得したコレクションや買い集めた蔵書をもとにペテルブルグの帝室公共図書館の準備を整えた。デンマーク、スペインの王立図書館も18世紀には再興の兆しを示している。大学の学術コレクションは、とくにドイツで、哲学者ライプニッツの理論により、そしてこれを実行したゲッティンゲン大学図書館により、発展の基盤を得た。ライプニッツの思想は、
(1)図書館では独創的な思想はすべて調和のとれた継続として集めるべきである
(2)図書館を支えるのは年度ごとのしっかりした予算である
(3)図書館の職務はこの貴重な財産が利用できるよう目録にとり、開館時間や自由な貸出しを広げることにある
と要約できよう。市民の間には自分たちの自己形成を目的とするクラブ図書館や会員制図書館がイギリス、アメリカにでき、ベンジャミン・フランクリンのフィラデルフィア図書館会社は1731年に設立されていた。また、イギリス各地の職工学校には市や慈善団体の資金でつくられた図書室があり、女性や子供の読書をもまかなっていた。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
19世紀のヨーロッパはフランス革命とナポレオン戦争で始まり、これらが図書館に及ぼした影響は大きかった。共和制の思想は各地に広まり、情報の伝達、各国の工業化に拍車がかけられた。フランスでは、革命で貴族・教会の財産は没収され、国立図書館(王立図書館から改称)は写本などの蔵書を増やし、『フランス書誌』という一国の図書全体の目録を目ざすものが発足する。ナポレオン戦争で国土を荒らされ、蔵書の多くを没収されたドイツ(とくにライン川左岸)の図書館は再建を迫られた。大学の10校以上が廃校となり、図書資料はほかに移されたり、分散されたりした。図書館の存在意義はここで改めて考え直され、1840年代にはドイツ図書館学を支える学者が輩出、専門誌『セラペウム』Serapeumも刊行されている。
イギリスでは産業革命後の国力の隆盛を受け、ビクトリア女王時代に大英博物館は美術品、図書資料ともに世界第一級となった。時の館長パニッツィSir Antonio Panizzi(1797―1879)による強力な収集方針、円型閲覧室と鉄骨の書庫導入の意義は大きい。しかし急速なコレクションの増加で、増築の手当てはつかず、大英博物館のその後の解体を招いている。19世紀後半には、市民のための真の図書館が成立し、図書館の数は増え、蔵書とその利用は近代的に組織化され、図書館員の養成も始まる。1850年イギリス議会を通過した「図書館法」は自治体に対し、地域住民のための図書館の義務設置を規定し、ここに、税金でまかなわれる無料公開の市民の図書館設立の基盤ができあがった。
アメリカでも同じ動きがおこり、州によっては法の制定がイギリスよりも早かった。この法による公共図書館は19世紀のうちに数を増やしたが、カーネギーによる建物と当初活動予算の援助は両国の運動を助けた。1876年フィラデルフィアの図書館大会を機に成立したアメリカ図書館協会は、急速に数を増した図書館員の共通問題解決の場であった。イギリスの図書館協会が翌1877年成立し、諸国はこれに続いた。1876年はデューイMelvil Dewey(1851―1931)が『十進(じっしん)分類法』(初版)を発表し、カッターCharles Ammi Cutter(1837―1903)が『辞書体目録規則』を発表した年でもあり、ここに図書館資料組織化(分類と目録)に共通の方法が現れた。各国の図書館協会から雑誌の刊行が相次ぎ、1887年にデューイが始めた学校教育による図書館員養成はしだいに諸国に定着していった。19世紀末から20世紀初頭にかけ、大型の目録刊行が目だった。
ベルギーのオトレPaul-Marie Ghislain Otlet(1868―1944)とラ・フォンテーヌは「あらゆる領域、すべての言語の資料」をカード形式の目録に集めたが、こうした作業はもはや個人の手には負えず、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で挫折(ざせつ)し、彼らの意図は文献検索の方向に引き継がれた。1900年までの蔵書を印刷形式で収録した『大英博物館図書館印刷目録』は代表的なもので、その後、大図書館の目録はどの図書館にとっても資料調査のための必須(ひっす)の参考書となった。
20世紀に入ると、1917年のロシア革命とともに社会主義社会の図書館が出現する。これは読書指導をたてまえとし、年次計画により発展を図る図書館である。非識字者の撲滅と教育の普及により、大衆図書館の数は増え、コルホーズ(集団農場)、工場にも図書館は行き渡っていく。しかし、1990年代に入って社会主義体制が崩壊したことにより、ロシアの図書館は厳しい時代を迎えている。旧ソビエト連邦を構成していた各共和国では、各国独自の言語をもちながらもロシア語で学術を発達させてきた「負の遺産」から抜け出すことが課題となった。
20世紀後半以降になると、これまで以上に、図書館は相互に協力しなければ十分なサービス活動を展開できないまでになってきた。1927年設立の国際図書館連盟International Federation of Library Associations and Institutions(IFLA(イフラ))を中心に国際間の協力も進んでいる。アメリカでは1926年発足のシカゴ大学図書館学科以降、大学院レベルの教育が始まり、図書館に関する学問的研究が進められている。第二次世界大戦以降の技術の進歩は図書館の目録情報のコンピュータ化を推し進めた。また、1990年以降、コンピュータとインターネットの普及により、ネットワーク社会に対応した電子図書館(デジタル・ライブラリー)サービスが各国で行われるようになり、研究開発が進められている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
古代から中国の王朝は記録の収集・保存に熱心であった。前代の遺書を収集し、目録を編纂(へんさん)し、歴史を編んでいるが、王朝が倒れると戦火で王室の保存庫は焼失、資料は散逸した。隋(ずい)代以降の官吏登用試験(科挙)は古典の知識を重んじていたため、図書の利用は古くからあった。反面、図書は「本来むやみに大ぜいの人に読ませるものではない」との考え方が支配的であった。秦(しん)の始皇帝は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で知られているが、すべての図書を焼いたわけではなかった。漢の武帝は最初の国立図書館の設立を考えたといわれている。東晋(とうしん)の元帝のとき、李充(りじゅう)(生没年不明)は四部分類を完成したが、この図書分類は清(しん)朝の『四庫全書(しこぜんしょ)』に至るまで使われた。歴代皇帝のうちには図書の収集に関心を示す者が多かったが、官立の図書館を建てたり、コレクションの公開利用を考えたりするには至らなかった。王族、高官、学者などの個人の文庫も多く、戦国時代からその例がみられる。読書人の私的蔵書は、宋(そう)代以後、太平に伴って経済力が増したころに有名なものがみられる。宋の李淑(りしゅく)(生没年不明)、宋敏求(そうびんきゅう)(1019―1079)などは、数万巻の蔵書をもっていたので、近くに移り住んだ読書家もいたという。明(みん)代には范(はん)氏の天一閣(てんいっかく)、毛氏の汲古閣(きゅうこかく)、清代では楊(よう)氏の海源閣、瞿(く)氏の鉄琴銅剣楼など、日本にも知られた個人文庫は多い。
近代的図書館の建設は清朝末期に始まり、教育の普及のため各省に図書館がつくられた。北京(ぺキン)図書館(中国国家図書館)は1912年に開館、1916年にはこの図書館への納本が定められた。公共図書館の規定も1915年に公布されたが、経費難で著しい発展はみられなかった。図書館員の養成は、1900年、アメリカのウッド女史Mary Elizabeth Wood(1861―1931)が武昌(ぶしょう/ウーチャン)の文華(ぶんか)大学で教職につき、人材育成に乗り出したときに始まる。図書館協会は1925年に成立、1936年には全国に5196の図書館があったという。抗日戦期には、延安を除き図書館活動は停滞を余儀なくされた。1949年の解放以後、図書館は当時のソ連の型に倣って着実に発展し、とくに農村図書館、労働組合図書館は数を増やした。1966年からの10年間は、文化大革命でふたたび発展は阻害された。とはいえ、北京大学図書館など、学術機関の図書館は豊富な蔵書量を誇っている。「改革開放」政策の進む現代中国の図書館では大図書館の建設が相次いでいる。北京図書館、上海(シャンハイ)図書館、天津(てんしん)図書館、浙江(せっこう)図書館の新館はいずれも高層の書庫棟をもつ近代建築で、コンピュータ利用による業務の機械化にも積極的である。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
古くからの印刷文化により知られる日本でも、個人の収集を除くと、利用をたてまえとした図書館は発達しなかった。律令(りつりょう)国家の官制に図書寮(ずしょりょう)という名称が出てくるが、独立した図書館ではなく、記録の編纂(へんさん)・保管の場であった。8世紀には個人でも書写・収集する例が現れ、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が自邸内につくった芸亭(うんてい)という文庫が知られる。875年(貞観17)宮廷文庫の冷泉院(れいぜいいん)が焼けた際、宇多(うだ)天皇の勅により藤原佐世(すけよ)は、中国渡来の書籍が日本にどれだけ保存されているかを調べて、『日本国見在(げんざい)書目録』に1万6790巻を収録した。国書の目録としては弘安(こうあん)・正応(しょうおう)年間(1278~1293)の成立とされる『本朝書籍(しょじゃく)目録』がもっとも古い。江戸時代以前の成立になる図書館としては足利(あしかが)学校と金沢(かねさわ)文庫が知られている。
足利学校は平安時代の歌人小野篁(たかむら)の創設との説があるが、実際には上杉憲実(のりざね)により再建され、知られるようになった。その最古の目録(享保(きょうほう)10年=1725)によると、漢籍を主とし蔵書は501部2895冊を数え、江戸時代を通じて庇護(ひご)されていた。金沢文庫は鎌倉時代の武家の創設にかかり、仏典、和漢の群書などの蔵書は2万冊を超え、横浜市に現存する。江戸時代には、徳川家康が林羅山(らざん)に命じ駿河(するが)城内に文庫をつくらせたが、これは尾張(おわり)の蓬左(ほうさ)文庫、水戸の彰考館文庫、紀州の南葵(なんき)文庫に分かれて受け継がれた。江戸城内には紅葉山(もみじやま)文庫(楓山(もみじやま)文庫)がつくられ、書物奉行(しょもつぶぎょう)がその管理にあたっていた。徳川綱吉(つなよし)は湯島の地に昌平坂(しょうへいざか)学問所をつくっている。加賀前田家は歴代書物愛好の藩主を得、その蔵書は1759年(宝暦9)の金沢(かなざわ)の大火で失われたが、今日なお10万冊の尊経閣(そんけいかく)文庫となっている。個人文庫も国学者塙保己一(はなわほきいち)の温故堂文庫などがあったが、これらは庶民の利用できる場ではなかった。幕末の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)では書物方がオランダ書をはじめとする洋書を研究していた。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
幕末から明治にかけて、福沢諭吉、市川清流(せいりゅう)(1824―?)、久米邦武(くめくにたけ)、金子堅太郎らの欧米図書館に関する報告と建言が相次いだ。政府は1872年(明治5)湯島の地に書籍館を設けた。この官立図書館はその後東京図書館と名称を改め、1885年には上野公園内に移り、1897年帝国図書館と改称された。一方、大学図書館は1886年東京帝国大学に図書館ができたのをきっかけに、京都が次ぎ、私立大学も慶応義塾大学、早稲田(わせだ)大学など、図書館を整え始めた。1899年「図書館令」の発布で、地方自治体は図書館を設置できることになり「閲覧料を徴集できる」性格のものではあったが、佐野友三郎(さのともさぶろう)(1864―1920)が秋田県で無料公開の原則をたてるなど、何人かの館長は欧米型の経営を実践していた。1892年、25人の図書館員により発足した日本文庫協会は1903年(明治36)私立大橋図書館(東京、九段靖国(やすくに)神社横)で第1回図書館事項講習会を開いた。司書の養成教育が整うのは、1921年(大正10)帝国図書館内に文部省図書館員教習所が開かれてからである。
第二次世界大戦後、図書館は急速に発展した。国立国会図書館の設立(1948)、「図書館法」の発布(1950)、大学設置基準に基づく国公私立大学の図書館付設により、図書館の数は飛躍的に伸びた。1948年(昭和23)の「国立国会図書館法」により成立した国立国会図書館はアメリカ議会図書館をモデルとしていたが、日本の国立図書館としての自覚のうえにたち、『日本全国書誌』の機械可読目録(MARC(マーク))化に成功した。また、2000年(平成12)には東京の上野公園内に国際子ども図書館が部分開館(全面開館は2002年)。2002年10月には関西に電子図書館機能を担う国立国会図書館関西館が開館した。都道府県立の公共図書館は、1950年の「図書館法」の制定で、数を増やして住民に身近な存在となった(2018年時点で3296館)。公共図書館は、地域の図書館としての存在意義をもつようになり、都道府県から中小都市に行き渡り、住民の要求は団地、市街地にも分館や移動図書館を実現させるに至っている。第二次世界大戦後急速に数を増やした大学図書館は、1960年代より蔵書を増やすとともに、大学相互協力の実現、市民への開放に取り組んでいる。大学図書館への書誌情報の提供という面では、国立情報学研究所(2000年4月学術情報センターが改組)が中心的な役割を果たしている。また、司書養成が大学の学部レベルで行われ、情報処理技術の方向を加えて、大学院レベルの研究に向かうようになってきた。
1954年に施行された小・中・高等学校などの学校図書館の規定に関する「学校図書館法」が1997年に改正され、これまで不備だった司書教諭の制度が見直された。司書教諭は、学校図書館の専門的職務を担うとされており、2003年度以降、12学級以上の規模のすべての学校に配置することが義務づけられた。また、2014年にも学校図書館法が改正され、翌2015年から学校司書の設置が法制化された。
第二次世界大戦後再建した日本図書館協会は、大会を通じて図書館員の連帯を強め、国際間の協力にも大きな役割を演じるようになった。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館は設立主体によって学校図書館、大学図書館、公共図書館、専門図書館と分けられてきたが、後に国立図書館という種類を加えて考えるようになった(「公共図書館」「学校図書館」「国立図書館」「専門図書館」の項参照)。ドイツのように大学図書館と市民の図書館が共通である場合もあり、前記の分類はあくまでも便宜的であるが、人間の成長・発達にしたがい、これらの型の図書館を利用できる。
公共図書館の児童部門を児童図書館ともいい、ほとんどの市町村立の図書館はこれを備えている。ほかに私的なコレクションを開放する家庭文庫が全国的に広まっている。子供のための図書館は、学齢前、小学校低学年、高学年、中・高校生と対象によって集める資料も異なり、設備(書架、机、椅子(いす))もサービスも対象により変えなければならない。また読み聞かせ、ストーリー・テリング、紙芝居、読書相談なども広く行き渡っている。
大学図書館は各大学に付属しており、大学の規模・歴史によってコレクションはさまざまである。蔵書数970万冊以上の東京大学図書館から3万冊程度の短期大学図書館までいろいろある。日本では国立大学と私立大学の格差(学生当りの蔵書数、同座席数など)が大きい。大学図書館は研究と教育のためのコレクションであり、学術雑誌、洋書が重視される。また雑誌は製本してとっておかねばならない。日本で外国の図書が自由に多く買えるようになったのは1960年代以降で、歴史の長い図書館を除いては、まだ基本書収集の段階のところが少なくない。とくに特殊言語となると、欧米の大学に比して日本のコレクションは貧弱である。しかし、どこで何を所蔵しているかが簡単にわかる総合目録が国立情報学研究所により書誌データベース(CiNii(サイニィ) Books)となっており、相互に利用できる仕組みも整ってきた。1980年代以降、大学図書館の多くが機械化に取り組み、また学生・研究者の利用のため、基本参考図書を手にとって見られるようにしているのが普通である。近年は、学修支援機能を重視したラーニングコモンズを設けるところも増えている。
専門図書館は、資料とそれに基づいたサービス活動が専門領域にわたるようになっているが、日本では欧米諸国にみられる専門中央図書館(アメリカの国立医学図書館、国立農学図書館、ドイツの経済中央図書館、科学技術中央図書館など)がほとんどなく、研究所や企業体の資料室を専門図書館と称しているのが実情である。こうした図書館は規模も小さく、資料を多く抱えられないで、調査・参考相談のための情報サービスが中心となるため、相互協力の必要がいっそう認識されている。このほか、特殊な資料、特定の利用者を対象とする音楽図書館、点字図書館、博物館図書室、病院図書館などがあるが、欧米諸国に比べてその実態は貧しいといっていい。アメリカではほかに、個人の寄付とか個人名を冠した図書館がある(ニューベリー図書館、ハンティントン図書館、ケネディ図書館など)。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館の機能は、資料の収集、保存、提供とこれに伴ういくつかのサービスにある。収集、保存は、国立国会図書館のように「文化財として」の日本の資料を網羅的に集めているところを別にすれば、一般には自館の設置目的すなわち利用対象によるので、収集、保存は利用者への提供のためにあるといえる。各館は資料選択の基準を定め、委員会などの体制を整えているが、公共図書館における漫画本や、また、モラルにかかわる問題があり、どこにでも通用する基準はありえない。収集する資料は図書・雑誌に限られていない。収集により図書館の資料は年ごとに確実に膨れ上がるという性格をもっているため、保存の場を確保することが現代の図書館の大きな課題であろう。一方、新築・増築は容易には考えられない。そこで、資料の有効な保管方法として移動式書架を取り入れたり、資料そのもののマイクロ化や電子化を図ったりするところもあるが、研究目的の図書館は別として、公共図書館ではその方法も大幅には採用できない。市町村立の中小公共図書館では、いかに有効に資料(どこでもとっている雑誌など)を廃棄処分にできるかを考えねばならないであろう。提供は図書館の中心機能であり、このために古い時代から資料の記述目録をつくってきたし、図書分類法も考えてきたわけである。
開架の公共図書館の出現に伴い、書架は利用者が自由に近づけるものとなり、無料公開の原則から本はだれでも借り出せるものとなってきた。本以外の資料(CD、DVDなど)も借りられるし、登録は簡単にできるようになっている。こうした現状にあって、図書館利用者へのサービス提供の拠りどころとして「図書館の自由に関する宣言」(1954年、1979年改訂。日本図書館協会)を採択し、次のことを確認した。「図書館は、基本的人権の一つとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」「この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し、実践する」「第一、図書館は資料収集の自由を有する」「第二、図書館は資料提供の自由を有する」「第三、図書館は利用者の秘密を守る」「第四、図書館はすべての検閲に反対する」。また、「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」などである。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館は独立した機関であることは少なく、学校、大学、地方公共団体、企業体などに付設されているか、所轄下にある。日本では「国立国会図書館法」(1948)、「図書館法」(1950年。公共図書館)、「学校図書館法」(1953)などにより設置されているが、外国では中央政府の直接管理下に大学図書館が置かれたり、州の直轄であったり、さまざまな形態をとっている。日本の公共図書館は各自治体の教育委員会がおもに所管しており、公共図書館の財政は各都道府県または市町村によって支えられている。
図書館の組織は規模により当然、異なる。日本の大学図書館でも歴史の古い大学では、中央館のほかに学部図書館などの分館がいくつかあるが、第二次世界大戦後発足の新制大学にあっては、キャンパスが複数でなければ中央館に絞られる場合が多い。公共図書館では、とくに都市部で、分館を構えて図書館サービスを行き渡らせているところが多い。都道府県立の図書館と、同じ市の市立図書館は役割が違うので、併存している。
図書館内部の組織も、図書館の大きさによって異なり、職務として整理部門、管理部門、サービス部門などがある。整理の仕事は資料の分類・目録を中心とするが、1980年代以降はほとんどがコンピュータ処理で行われている。管理は発注から受け入れが中心で、小図書館では1人ですべてを行う。サービスの仕事は貸出し・返却の窓口業務であるが、資料にかかわる参考質問や調査の援助を主とした参考業務(レファレンス・サービス)が現代の図書館では重視され、図書館活動の柱とみなすむきも多い。そしてここに有能な職員をつぎ込むところが多い。各図書館ではそれぞれスタッフ・マニュアルをつくっている。
閲覧室の管理は、図書館の規模、開館時間の規程によって形態に相違がある。大図書館、学術図書館では資料分野、種類によって階層や部屋を分けているところもある。公共図書館では一般に児童部門と成人部門を分けている。開館時間は利用者の便宜に対処するところが一般的で、大学では夜間と試験期の時間延長、公共図書館でも夜間開館への要望があり、実施しているところも多い。
近年、地方財政の悪化に伴い、図書館業務の外部への委託が行われるようになりつつある。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館はそれぞれ特定または不特定多数の自館の利用者のためにあるが、20世紀に入って、どの図書館も1館だけであらゆる資料を抱え込み、すべての情報要求にこたえられないことがわかってきた。地域的、全国的、さらには国際的な協力の仕組みが不可欠となっている。コンピュータによる情報検索技術はこれに大いに役だっている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
地域内の協力はとくに公共図書館において進んでいる。大都市では中央館といくつかの分館がネットワークを形成し、相互に資料を利用しあう仕組みが日本の大学図書館、公共図書館間でもみられる。イギリスのロンドンでは、各区のなかは図書館がオンラインでつながり、他館の資料探しができるとともに、毎日各館の間を定期便が回っている。区内に求めるものがないと、中央館からほかの区に問い合わせることができる。さらに、バーミンガムほかの都市で、公共・大学・企業体の図書館がすべて参加できるネットワークをつくっている。ドイツでは、州を中心に協力体制が組まれ、中心となる大図書館には州内図書館の蔵書を調べられる中央目録があり、ここが相互貸借の斡旋(あっせん)をしている。
全国的なネットワークには、国の中央図書館が国内全図書館の図書館となる形と、専門領域を同じくする図書館間の協力体制とがある。
日本でも国立大学図書館の間で共通利用証の発行が可能になったし、医学図書館間では相互利用の前提に立って、外国雑誌のうち特殊言語のものはどこかでかならず購入しておくという共同購入の方法も実現させている。学術雑誌については、文部科学省が国立大学図書館のうちから、理工学、医学・生物、農学、人文・社会科学各分野の外国雑誌センター館を設置し、多くの雑誌をとるよう援助するとともに、全国への複写サービスの中心としている。
コンピュータによる技術革新は、こうした協力を大きく前進させた。アメリカのオンライン・コンピュータ・ライブラリー・センター(OCLC)は全国的な情報検索・相互利用の新しい仕組みとして諸外国に影響を与えている。日本でも国立情報学研究所(旧、学術情報センター)が大学図書館の蔵書をデータベースとし、全国システム(CiNii Books)をつくりあげている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
国際図書館連盟(IFLA(イフラ))がその中心となる。この国際団体は、諸国の目録記述を標準化して、どの国でも他の国の資料を利用できる基礎づくりと、図書館資料の国際間における貸借の実現を目ざして活動している。イギリスはこれにこたえ、大英図書館の成立とともに、諸外国に先駆けて国外への貸出しを実践してきた。とはいえ、国によっては出版物の自由な流通が制限されており、郵送料受益者負担の実現には困難が伴い、この理想への取組みは今後の課題となろう。国際間の協力としては、スカンジナビア四国(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)が各国の特色を生かした分担収集と、相互利用のためにつくっているスカンジア計画、言語を同じくするラテンアメリカ諸国間の書誌協力といった地域的な実践例がある。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
以上は相互利用を中心とした図書館協力についてであるが、図書館間ではこのほかにさまざまな形態の協力を考え、実践してきている。共同収集をして資料を有効に集め、互いに保存し、利用しあう協力は、欧米諸国にその例がみられる。アメリカのファーミントン計画は、国内の大学・学術図書館約50館がそれぞれ分野を定めて外国の資料を分担収集するもので、1972年まで約25年間続けられた。当時、西ドイツの学術協会Deutsche Forschungsgemeinschaftが行った全大学への分担割当て援助は、第二次世界大戦後の図書館再建に大きな役割を果たした。現在、どの国においても、中央の網羅的な集中コレクションと、専門分化したコレクションの間のシステム化が必要とされている。
学術的な図書館ではとくに、蔵書のほとんどはつねに使われるわけではない。まれにしか使われない資料でも、研究のためには場所をとっておかねばならない。アメリカでは第二次世界大戦後、共同保管の仕組みをつくってこれに対処し、さまざまな実験を試みている。中西部インター・ライブラリー・センター、ニュー・イングランド寄託図書館はその最大の例であろう。
資料の交換・再配置の体制もアメリカ、イギリスではつくられている。アメリカ議会図書館内にある合衆国図書交換機構は、各図書館で不要な資料を集め、リストをつくり、必要とする図書館にその資料を無料で送る斡旋(あっせん)機関である。雑誌のバックナンバーもこの仕組みでそろえられる。
利用の前提としての「総合目録」は、図書館協力のための必須(ひっす)のツールである。アメリカでは、カナダを含めた3500館の蔵書が調べられる総合目録を議会図書館がつくっている。日本では、大学等が所蔵する学術雑誌の総合目録として、1953年(昭和28)文部省(現、文部科学省)編集により『学術雑誌総合目録』(冊子体)が創刊された。これにより雑誌については、どの号がどこにあるかがわかる。編集は、東京大学情報図書館学研究センター、学術情報センター、国立情報学研究所と変わっていき、1997年(平成9)からは目録のインターネット検索を可能としたサービスも開始された。冊子体は2000年(平成12)版(2001年刊行)を最後に終了し、現在は国立情報学研究所のインターネットによる検索サービスのみの対応となっている(CiNii Articles)。また、図書についても国立情報学研究所のシステム(CiNii Books)を利用できる。
図書館協力の面では、日本は遅れていたといえよう。しかし、その必要性が認められ、地域によっては公共図書館の協力システムが進んでいるところもあるが、組織的に縦割りの社会なので、横の連携を基礎とする協力関係には課題も多い。大図書館は小図書館への資料提供に終始するという格差の問題もあり、国有財産の管理という問題もいまだ完全には解決をみてはいない。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館の技術はコレクションを利用者の便宜のため、いかに組織化しておくかを中心に考えられ、分類と目録という方法を生み出した。19世紀以降、世界の図書館のほとんどが、西欧の図書館において発達したこれらの技法(図書分類法、目録法)を基本に運営されている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館の目録は、図書館資料の著者、書名、出版事項、形態などの書誌情報を記述し、カードまたは冊子体で提供してきた。そのため当然、一定の規則が必要となり、各国はそれぞれに目録規則をつくってきたが、1970年代以降、国際的な標準化の方向に進んでいる。
目録作業は各図書館の担当係が行ってきたが、同じ図書については同じ記述が便利であり、20世紀初めからアメリカ議会図書館が印刷カードを配布しだすと、これを利用するところが増えてきた。日本では国立国会図書館が日本の出版物の記述については責任を引き受け、『日本全国書誌』週刊版と印刷カードを刊行してきた。また、国立国会図書館は、1973年(昭和48)から国際逐次刊行物データ・システム(ISDS)の国内センターとなり、国内で発行されている雑誌・新聞などの逐次刊行物に識別のための国際標準逐次刊行物番号(ISSN)を与えるとともに、書誌情報を作成し、パリの国際センターに登録している。
1966年、アメリカ議会図書館はコンピュータによる書誌情報提供の技術を開発し(MARC(マーク):Machine Readable Cataloging、機械可読目録)、国立国会図書館も1981年にはJAPAN/MARC(ジャパン・マーク)を開発、目録情報はデータで提供されるようになった。
アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシアなどでは、法律により国内出版物が国立図書館にもれなく納本されるので、出版社の協力を得ることにより、出版物自体に国立図書館で作成した目録データを刷り込むこと(CIP:Cataloging in publication)が行われている。CIPには、著者、書名などのほかにその国で使われている標準的な分類記号などが含まれているから、各図書館ではCIPのなかにない出版事項、形態などを、受け入れた図書から補って目録を作成すればよい。CIPデータはMARCにも含まれている。日本では著者名や書名の読みが目録の排列と検索の手掛りになるので、著者名、書名の読みはある根拠に基づかなければならない。国立国会図書館では、そのための典拠ファイルをつくり公にしているが、出版物にそれらの読みを含めたCIPデータを記すまでには至っていない。洋書については、大学図書館ではアメリカその他のMARCを利用できるようになった。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
情報検索の技術が進み、雑誌記事などの索引はデータベースからコンピュータで引き出せ、さらにはオンラインでどこにいても利用できるようになった。語句索引はもとより、概念語からの検索、文献以外の情報のデータベース化も進んでいる。
図書館の電子化・コンピュータ化はあらゆる面にわたっている。発注リスト、入荷チェックはコンピュータで処理できるようになったし、資料の貸出し・返却はコンピュータで行っているところが大半である。窓口業務は期限延長や催促など、それぞれの館が決めた細かい規則に縛られるが、業務全体にわたるコンピュータ化は業務の効率化をもたらした。
文献の全テキストがコンピュータに内蔵されるようになり、全世界の情報がインターネットで利用できるようになって、電子図書館(デジタル・ライブラリー)の時代が到来した。日本の大学図書館でも、貴重書や学位論文、学術雑誌のデジタル化が一般化している。国立国会図書館でも、2002年(平成14)に開館した関西館が中心となって、同館所蔵資料の電子化とデータベース化を進めている(国立国会図書館デジタルコレクション)。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館は現在大きく変わりつつある。技術の変化は図書館の存在理由をも揺さぶり始めたといえる。この状況のもとで、旧来の司書養成は検討し直さねばならない。アメリカでは1930年代から、学部レベルの基礎の上に大学院で教育を始め、これが一般化した。博士課程では、図書を中心とした資料の収集、保存、提供を機能とする図書館の本質とその経営やサービスなどを対象とする図書館学library scienceの研究が多くの成果を生んだ。その後、図書館学は、図書館業務のコンピュータ化、情報処理の進展に伴い、情報学information scienceという分野を加えた図書館情報学library and information scienceとなった。ドイツでは博士号をもった専門分野の研究者を、学術図書館の主題専門図書館員として養成している。図書館員を支えるものは資料知識であり、サービス技術であるが、現代の図書館ではコンピュータをはじめとする機械技術の基礎知識、図書館の科学的管理運営の方法についても学習がなされねばならない。現場の職員の再研修も当面の課題となろう。図書館員の支えとなるべき図書館情報学は、図書館の原理、歴史から制度、技術にわたり研究されている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
図書館建築は歴史的には、収蔵する資料の材料形態によって大きく変化してきた。古代オリエントでは粘土板を重ねて置く穴蔵状の場所が発掘されているし、古代エジプトでは読書の図に壺(つぼ)状の容器がみられる。アレクサンドリア図書館ではパピルスの一枚巻子(かんす)を巻いて棚に並べたり、大きな甕(かめ)などに入れたりしていたと想像できる。綴本(とじほん)が成り立ってからは、本は平らに置かれたであろうし、表紙がつくようになると本は立てて並べることもできたが、いつ、こうした変化が出てきたのか正確にはわからない。東洋では、19世紀に至るまで本には厚表紙がなく、平らに置かれたので、西欧の書架型式は最近に至るまで発達をみなかった。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
古代から中世にかけての写本の時代、西ヨーロッパの図書館は書写室(スクリプトリウム)と収蔵庫(アルマリウム)からなり、両者は互いに接近していた例がスイスのザンクト・ガレン修道院にみられる。読書室については詳しいことはわかっていない。古代ローマの個人図書館からは、本のコレクションを誇示する目的が加わり、室内にギャラリーが巡らされるところもあった。書見台は8世紀ころから普及したといわれるが、次々と本を見られる回転車の様式は貴族的、趣味的なもので、どこにでもあったとは考えられない。本を書見台に鎖で結び付ける形式は13世紀ころの教会・修道院で始まったらしいが、保管と同時に繰り返しの利用を前提としていた。やがて本は複数で書見台に取り付けられ、書架付きの読書机が出現する。13世紀以降の大学図書館では、多数の写本が鎖で書架に結び付けられ、こうした書架(書見台が横板状に巡らされる)が次々に列をなして並ぶ姿がみられた。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
16世紀、写本にかわって印刷図書が普及するようになると、図書館の様式は根本的に変化する。王室・貴族の図書館にみられるコレクションの大型化であり、大学図書館に示される利用へ向けての移行である。スペインのエル・エスコリアル(エスコリアル宮殿)に典型的に示されるバロック様式の図書館は、当時の空間感覚を見せつけている。周囲の壁面全体にわたり高い天井に届くほど本棚がつくられ、そこにぎっしり本が並び、中央スペースにはなにも置かない、いわば大広間図書館であった。一般に図書館は小部屋から広いスペースに移っていくが、18世紀なかばに開館した大英博物館でもモンタギュー邸を使い、区分された部屋を収蔵庫や閲覧室にあてていた。
19世紀には情報が拡大され、産業社会の到来で教育が普及し、同時に民族意識が高まり、これらを受けて図書館コレクションは量的に建物を脅かすようになった。大英博物館では次々に増える寄贈・購入で、増築すらまにあわなくなる。1856年完成の円型閲覧室は、矩形(くけい)の建物の中庭を埋めたもので、館長パニッツィの発案であったという。当時ようやく使われだした鉄骨で書庫が組み立てられており、大閲覧室はドーム型で、天井からの採光であった。この様式はフランス国立図書館、アメリカ議会図書館に受け継がれる。パニッツィの発案はさらに、円型閲覧室周囲の壁面を基本書で埋め、参考コレクションの基礎をつくったこと、閲覧室の外側スペースをすべて鉄骨の書庫としたことに示されていた。閲覧スペースとは切り離された、天井の低い積層式の書庫ができあがった。パニッツィは手動式の移動書架まで考えていたというが、採用には至らなかった。ここまでくふうして場所の問題を解決しようとしたものの、大英博物館では、次の時期には新聞図書館を郊外に新築するなど、コレクションの分散化が始まっていた。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
1850年からの公共図書館の出現はそれまでの図書館とは別の様式を生んだ。開架方式の採用である。初めは棚を構えた半開架もあったが、本がなくなってしまうとの理事会の反対を押し切り、イギリスの図書館員ジェームズ・ダフ・ブラウンJames Duff Brown(1862―1914)らが実行し、しだいに普及していった。しかし文化遺産を扱う図書館員のなかには技術・設備の革新に対して慎重にならざるをえない者もいた。19世紀末、アメリカのカーネギーが公共図書館の援助を行ったとき、見取り図を提出させ、暖炉などの飾りはつけず、利用スペースに回すよう指導したといわれる。
20世紀の図書館はどこでも、ヨーロッパで発達した建築を受け継いでいた。第二次世界大戦以降、新しくできる図書館は現代的な建築様式でできている。薄暗い場ではなく、利用者はゆったりしたスペースで新聞・雑誌が閲覧できるし、CDを聞く場所も設けられている。一般に公共図書館では貸出しに重きを置き、勉強机は別に設置されるようになった。建物自体も周囲との調和が考えられ、新設の大学のキャンパスでは、図書館が中央の位置を占めるところも多い。図書館建築は特殊な配慮の要る建築様式と認められ、図書館員の経験を生かし、意見をいれて建築家が取り組むようになった。建築ならびに施設基準も整ってきた。また、公共図書館では、複合文化施設の一環として図書館が計画、建設される例が目だっている。閲覧机と椅子(いす)の広さ・高さ、照明、採光、室内温度には基準が適用され、カウンターその他は利用しやすいようくふうがなされるようになっている。
[藤野幸雄・野口武悟 2021年1月21日]
『ヨリス・フォルシュティウス他著、藤野幸雄訳『図書館史要説』(1980・日外アソシエーツ)』▽『石井敦・藤野幸雄編『図書館を育てた人々』全2巻(1983、1984・日本図書館協会)』▽『藤野幸雄著『現代の図書館――図書館概説』(1998・勉誠社)』▽『藤野幸雄著『図書館史・総説』(1999・勉誠出版)』
人類の知的所産である図書をはじめとする記録情報を収集・蓄積し,利用しやすい形に整序あるいは加工して,求めに応じて検索し,利用に供する社会的機関をいう。かつて日本では,〈文庫〉〈書籍館〉の名でも呼ばれたが,近年は情報のデータベースとしての役割も果たすところから〈情報センター〉とも呼ばれる。
〈図書〉という言葉は《易経》繫辞伝に〈河は図を出し,洛は書を出す,聖人これに則る〉とあるように河図洛書(かとらくしよ)を指す。すなわち,黄河と洛水に現れた竜馬と神亀の背上に見えた不思議な図形のことであり,聖人がこれを手本にしたという。また図書の語は地図および書籍の意でも使われた。なお,〈文献〉というとき,〈文〉の方は記録されたものを示し,〈献〉の方は賢に通ずで,賢人が頭に覚えている内容を指すという(《論語》)。一方,図書館を指す英語libraryの語源は木皮を意味するラテン語liberに由来し,英語bibliotheca,ドイツ語Bibliothek,フランス語bibliothèqueなどはギリシア語bibliothēkē(biblion(本)+thēkē(置場))に由来する。なおbiblionの語は,小アジアのパピルスの貿易港ビュブロスByblosからきており,これはBible(聖書)などの語源ともなっている。
以下,図書館の歴史を外国と日本に大別して概観し,あわせて日本の現況にもふれることにしたい。
19世紀の半ばになって,アッシリアのニネベの王宮跡が発掘され,楔形文字が記された大量の粘土板文書が出土した。いわゆるアッシュールバニパル王(在位,前668-前627)の図書館である。これに代表されるバビロニア,アッシリアの図書館は神殿や宮殿の中に位置し,コレクションには,当時の日常生活とりわけ商取引と宗教関係の記録や,英雄物語が含まれていた。粘土板は持ち運びには不便だが,滅びにくい素材であり,エジプトなどが利用したパピルスと対照的である。
ギリシアを含む地中海沿岸の古代の書字記録はパピルスによった。古代エジプトのエドフには太陽神ホルスの神殿内に〈パピルスの家〉と称される図書館があった。石に刻まれた目録から,そのコレクションの内容が天文学,占星術,宗教などに関するものであったことがわかる。また図書の管理には神官があたっていた。こうした神殿図書館のほかに王室図書館のあったことも知られている。しかし記録される文字が象形文字である間は,それがヒエログリフ(神聖文字)の名で呼ばれるように書字記録としては複雑で,いわゆる日常生活の記録には適しておらず,文字の使用は神官層に占有されざるをえなかった。
ギリシア人がそのリズミカルな音声を,フェニキア人の使う至便な原アルファベットで書き記すようになって,文字言葉による記録と思考が格段の発展をとげる。口頭による教授討論だけによるのではなく書字記録を活用する文化は,ギリシアでは前5世紀ごろにはじまっていたと考えられ,哲学者のうち最初の個人文庫をもったのは,アテナイに学園リュケイオンを開いたアリストテレスである。興味あることに,かつてアリストテレスに学んだことのあるアレクサンドロス大王のつくったエジプトのアレクサンドリアの町に,図書館づくりをプトレマイオス1世に進言したのは,アリストテレスの学友テオフラストスの弟子であるファレロンのデメトリオスであった。デメトリオスは,アリストテレスの文庫をモデルに,いやしくも国王の威光と名声を後世に残すには,図書館と博物館を建設するにしくはないと王に奏上したと伝えられる。ムセイオンと並んでこのアレクサンドリア図書館では学術の花が咲き,数学,天文学,文献学など多くの学問が栄え,アレクサンドリアはいわゆるヘレニズム文化の中心都市となった。後2世紀の医者ガレノスの述べるところによると,アレクサンドリアに入港するすべての船が積荷としてもつ書物のいっさいについてそのコピーをとらせ,原本をこの図書館に納めさせたという。コレクションはアリストテレスの文庫にならって,(1)詩,(2)歴史,(3)哲学,(4)修辞,(5)雑,に分類された。この分類の仕方は順序こそ違え,17世紀になってF.ベーコンが知識の分類にあげる3区分(哲学,歴史,詩)にほぼ対応する。
小アジアのペルガモンにもエウメネス2世の建てた図書館があったが,後年エジプト女王クレオパトラの歓心を買うため,ローマの将軍アントニウスがここの蔵書を彼女に与え,大量の本がアレクサンドリア図書館に入ったとの伝説が生まれた。学術文化の面で,ペルガモンと張り合ったアレクサンドリアの人々は,貴重な書字素材であるパピルスのペルガモンへの輸出を禁止した。よってペルガモンではパピルスに代わるパーチメント(羊皮紙)の使用に踏み切った。ちなみに英語のパーチメントparchmentはペルガムムPergamumという同地のラテン名に由来する。
ローマにみられる図書館のモデルは,アレクサンドリアよりもむしろマケドニアやペルガモンにあるといわれる。前168年ローマ人のピュドナの戦における決定的勝利によって,マケドニアの王室文庫はローマに移された。また同じころギリシア人学者のローマ来訪もあり,ローマではギリシアの学問に対する関心が活発になる。やがてたいていの教育あるローマ人は,ギリシア語,ラテン語の2ヵ国語を駆使できるようになった。キケロはこぼす,〈われわれローマ人はギリシアの学校へ行き,彼らの詩を読み,それを暗記する。それではじめて学者といわれるのだ〉と。前83年将軍スラがギリシア遠征から帰ってからあと(このときアリストテレスの文庫の一部を持ち帰ったとの伝承もある),ローマ人の間に個人文庫をつくる風が広まった。《博物誌》は,470余人の著作により,約3500の項目をあげていることからも,著者の大プリニウスはかなりの規模の個人文庫所有者であることがわかる。ローマ市には公共図書館が30館近くあったといわれ,アウグストゥス,トラヤヌスなどは図書館建設に熱心だった皇帝として知られる。
書物の形態が巻物から冊子本(コデックス)に変わるのは3世紀ころであるが,すでに1世紀ごろキリスト教徒は,この冊子本を採用していた。またアレクサンドリアの教理学校の長オリゲネスは,その地に図書館を建てている。3世紀になるとアレクサンドリアはキリスト教神学研究のメッカとなった。なお,《ウルガタ》として知られるラテン訳聖書を確定したヒエロニムスは,ローマに教皇図書館を建てるときの立役者となっている。
東ゴート族の王テオドリックに仕えたローマ人カッシオドルスは,アレクサンドリアのムセイオンをモデルに大学と図書館とを兼ねたようなものの建設を考えていた。しかしそれが実現するのは引退後の540年ころ,みずからウィウァリウムVivarium修道院を建て,これに図書館を併置したときであった。そこには写字室(スクリプトリウムscriptorium)が設けられ,ギリシア語の文献がラテン語に翻訳され,彼のおかげで古典的な学問が伝えられることになる。また529年ころベネディクトゥスはモンテ・カッシノに修道院をつくるとともに,いわゆる〈ベネディクトゥスの会則〉を定めたが,その中に読書や写本が日課として定められていた。このような修道院文化は,大陸から離れたイングランドやスコットランドでも営まれた。
800年に即位したカール大帝は,ヨーク出身の神学者アルクインを招き,トゥールの町に学校と写字施設を設け,写本のコピーをとらせた。いわゆるカロリング・ルネサンスはここに開花する。中世の教育機関としては,修道院のほかに,俗人にも開放された教会付属学校があった。イングランドのヨーク,カンタベリー,フランスのノートル・ダム,スペインのバルセロナなどがよく知られている。やがて中世も終り近くなるにつれて,教会はその知的活動を大学に移してゆく(13世紀)。フランスではソルボンRobert de Sorbonが,1250年自分の名を冠した個人文庫をみずからの設立になる学寮(パリ大学ソルボンヌ分校の前身)に付置している。89年の目録によると蔵書は1000冊余を数える。オックスフォード大学の場合,各カレッジに図書館のできるのは14世紀になってからのことである。
14,15世紀のイタリアでは,ラテン語古典が再発見され,またオスマン軍によって陥落したコンスタンティノープルからはギリシアの古典が流入してきた。そして実際に役立つ図書館が求められた。個人文庫はやがて,国立図書館や大学図書館へと発展する。
フランスでは14世紀のシャルル5世の個人文庫(蔵書数約1000冊)は,同6世,同8世,ルイ11世を経て,16世紀のフランソア1世の時代になると納本制度もとり入れられ,宮廷文庫として充実した。ルイ16世治下になると蔵書は倍増し,1692年以降,週2回は公衆にも開放される。すでにマザランの個人文庫の司書であったノーデGabriel Naudéは,1627年に図書館というものは書物を集めておくだけのものでなく,大いに研究に利用さるべきもので,科学者,研究者の〈実験室〉の性格をもつべきものであることを主張している。かくてフランス国立図書館(ビブリオテーク・ナシヨナル)は宗教改革,フランス革命を経て,修道院,貴族たちの図書館をも吸収して今日600万余の蔵書を擁している。
一方イギリスでは,15世紀に個人文庫ではじまったオックスフォード大学の図書館(復興に力のあったボドリーThomas Bodleyを記念してボドレーアン図書館と呼ばれる)も17世紀になって,書籍商との契約で納本図書館となり,今日,蔵書200万,写本4万の図書館に発展した。また大英博物館図書館も,王室をはじめ幾多の個人文庫の合併の上に成立し,蔵書650万余を数えるにいたった。
アメリカでは,1629年ピューリタンの一群がマサチューセッツの植民地へ62冊の小コレクションを持参して以来,ハーバード大学図書館が260冊の蔵書でスタートしている(1638)。これは宣教師ハーバードJohn Harverdの遺贈になるものであった。18世紀初頭以降はイギリス伝道協会の手で,教区図書館のため書物が送られた。また労働者がみずからの資力で維持し,自己啓発を図る組合図書館も次々と設立されるが,なかでもB.フランクリンが主導的役割を果たしたフィラデルフィア・ライブラリー・カンパニー(1731設立)は近代公共図書館の原型として高く評価される。
17世紀の後半から18世紀の終りまでは,自然と社会に対して人間の目が激しく注がれる時代であった。自然研究は,アカデミー・デ・シアンスやローヤル・ソサエティを生み,F.ベーコンの理念に基づく学者共同体が実現し,学術雑誌が発行され,発明・発見の優先権を学術雑誌上で競う形が成立する。このようなアカデミーの設立と知識の交流の実現には,みずからも有能な司書でもあったライプニッツの国際的活躍が特筆されよう。ベーコンが,人間の三つの心的能力である理性と記憶と想像力をもとに,知識を哲学,歴史,詩と3分類する書物を英語で書く(《学問の進歩》1605)。こうして人知の集大成を,ラテン語でなく自国語で行うという百科事典の時代が18世紀に訪れる。その成果がイギリスの《ブリタニカ百科事典》やフランスの《百科全書》であった。なお,ベーコンの知識分類は,後年アメリカ議会図書館の図書分類法に導入される。また18世紀における大衆文学の発生は,貸本屋を生み,産業革命は後に職工学校図書館を登場させ(1823年設立のグラスゴー職工学校図書館が特に有名),やがて有志による会員制図書館が成立して近代図書館への地ならしが行われる。
T.カーライルらを発起人とする会員制図書館ロンドン・ライブラリーの成立(1841)に遅れること9年にして,ようやくイギリスでは,公費支弁による公共図書館法の制定をみる(1850)。アメリカ最初の公共図書館ボストン市立図書館の成立は1854年のことである。しかし公共図書館の先進国イギリスやアメリカに,実際に公共図書館が開花するには,1880年代から1920年代へかけての,A.カーネギーによる図書館建築のための寄付行為が大きな刺激となった。満足に学校教育を受けないで成功したカーネギーにとって図書館は自分の学校であった。また実業界で金もうけのできるのは,とりもなおさず神から富を一時的にあずかっていることなので,その富は社会に何らかの形で還元しなければという思想,つまりフィランスロピーphilanthropy(慈善精神)が彼には働いていた。1930年の大恐慌のときにも図書館は見直され,図書館は〈市民の大学people's university〉と考えられるようになった。
日本の図書館史を考える場合,二大文化接触を抜きにしては考えられない。つまり古代における中国・朝鮮半島よりの大陸文化の移入と,幕末明治期における欧米文化との接触である。中国における紙の発明は通説によれば2世紀初頭とされるが,その製法は日本にも7世紀初めまでには伝わっていたと考えられ,同時に漢籍や仏典も請来された。875年(貞観17),宮廷の文庫冷泉院の焼失を機に反省がおこり,中国から渡来した本を確認するため宇多天皇の命で藤原佐世(すけよ)撰述による《日本国見在書目録(にほんこくげんざいしよもくろく)》がつくられる。さらに日中文化の接触にはまず漢字書(辞書)が必要だとされ昌住による《新撰字鏡》が成立する。このような気運のもとで,多くの図書を集め多くの人の閲覧に供するという狭義での図書館も誕生することになった。聖徳太子の夢殿,大宝令の規定に見える中務(なかつかさ)省の図書(ずしよ)寮,東大寺など大寺に付設された経蔵,さらには吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)など知識人の私的な文庫も広義の図書館と考えることができるが,一般には石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が奈良の地において,私邸に阿閦(あしゆく)寺を建立し,その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設け公開したものが日本における公開図書館の発祥とされる(8世紀後半)。また,菅原道真はその書斎文庫の紅梅殿(こうばいどの)を他人にも公開したといわれる。彼はまた《類聚(るいじゆう)国史》を撰しているが,これは,そのときまでに出た六国史それぞれの中から事項別に原文を抜粋し編集したもので,カード(短札)方式による知識情報の処理の最初の例ともいえる。この〈類聚〉という考え方こそ,後の塙保己一(はなわほきいち)の《群書類従》,明治政府の《古事類苑》などに通じる類書的発想,ひいては今日の情報管理の原則たる知りたい知識情報そのものへの接近を可能ならしめる工夫である索引,抄録の思想につながるものである。それはまた史料編纂所の大事業《大日本史料》編纂にも受け継がれている。やがてわれわれはより便利な漢和字書《和名類聚抄(わみようるいじゆしよう)》をもつが,これも一種の類書であった。
下っては,金沢(かねさわ)文庫と足利学校が日本図書館史上重要である。金沢文庫は13世紀後半,金沢実時によって創設された文庫で,とりわけ3代貞顕の集書努力により大いに充実した。金沢氏滅亡後は菩提寺である称名寺の管理にゆだねられた。旧金沢文庫所蔵本には国宝,重要文化財に指定された貴重書も少なくない。足利学校は,関東管領上杉憲実(のりざね)が15世紀半ばに一門の子弟のための教育機関として再興したもの。初代の庠主(しようしゆ)(校長)快元は易学の大家で,教育内容は儒学中心であったが,とりわけ周易を重んじ,部将たちに卜筮(ぼくぜい)をもって仕える者を養成したといわれる。後年徳川家康に仕える天海もここで修学している。蔵書は1725年の目録によると国書125冊に対し,漢籍2056冊,仏典714冊と記されている。なお家康は政権をとるや文教に意をいたし,いち早く9世庠主三要を招き伏見に学校を開かせている。
家康の文治主義は,江戸開幕後ただちに出版事業に反映した。とりわけ《貞観政要》などを翻刻させ,また《群書治要》を銅活字で印刷させた。いずれも政治上の手引書を求めたものであるが,とりわけ《群書治要》は,文字どおり中国の諸書の中から政治上必要な要文を書き抜き編集したもので,これも一種の類書といえよう。また家康は林羅山に命じて駿府(すんぷ)城内に文庫をつくらせた(駿河文庫)。のちにこの蔵書は3分されて尾張の蓬左(ほうさ)文庫,水戸の彰考館文庫,紀州の南葵(なんき)文庫となる。なお家康は江戸城内にも,1602年(慶長7),富士見亭文庫なるものをつくらせているが,のち場所を移して紅葉山(もみじやま)文庫となった。ここには書物奉行がおかれ,在任者には青木昆陽,近藤重蔵の名が見える。その蔵書は今日,一部は宮内庁書陵部,大部分は国立公文書館に移管されている。
このほか幕府の直轄学校昌平黌(しようへいこう)に文庫が併置され,紅葉山文庫の本も何度か移されている。各地の藩学付属の文庫,大名の個人文庫にも注目すべきものがある。前者では尾張の明倫堂,熊本の時習館,米沢の興譲館,鹿児島の造士館などが,後者では前田家の尊経閣文庫,蜂須賀家の阿波国文庫などが知られる。
以上のような漢籍中心の文庫が栄える一方,江戸時代も後期になると国書への関心が高まり,塙保己一の申出による中国の《漢魏叢書》をモデルにした国書の類集編纂に対して幕府は助成を行う。和学講談所の活動がここに始まる。塙自身書物の採訪を行い,書写して集めたものを温故堂文庫として整理保存した。その事業は《群書類従》の刊行として発展し,さらに明治維新を迎えるにいたり,これをもとに新政府は史料編纂所を設立して塙の素志を今日に継承している。
庶民レベルでは貸本屋の存在が見逃せない。盛時江戸市中に600以上を数えたという貸本屋は,庶民への豊かな情報提供源であり,教育機関でもあった。それには戸別訪問型と呉服屋のような店舗型とがあった。前者は主として稗史(はいし)小説類,実録もの(事件記事の筆写による速報)を武家・町屋に配った。後者には江戸の長門屋,名古屋の大惣などが知られており,いわば今日の公共図書館と学術図書館を兼ねるだけの蔵書をもっていた。なお民間の文庫としては,2世板坂卜斎の浅草文庫,仙台藩士青柳文蔵の青柳文庫などが名高い。
福沢諭吉は《西洋事情》で,西洋諸国の図書館,すなわち彼の表現によれば〈ビブリオテーキ〉の存在を紹介し,これが万人の利用に供されているさまに感服した。こうした刺激をうけて,1872年(明治5)政府は,旧昌平黌の地に書籍(しよじやく)館を設ける。74年これは浅草に移され浅草文庫として,閲覧料1日1銭で開館した後,80年に東京図書館と改称され,85年上野公園内に落ちついた(上野図書館)。96年帝国議会は,帝国図書館設立案を通過させ,翌年東京図書館を改組して帝国図書館設立の運びとなったが,ついに完成をみないまま1949年国立国会図書館へ吸収され,同館上野支部として旧態をとどめていた。2000年同館支部の国際子ども図書館となる。
他方,西欧の会員制図書館をモデルにしたような書籍会社こと〈リフラリーlibrary〉,すなわち集書会社設立計画がお目見えする。しかしこれは十分に実現せず,京都府設立の集書院ができ,その運営委託を集書会社が引きうける形をとったのみであった。利用者は少なく,1882年閉鎖された。そのほか東京に貸出しを本務とする大日本教育会図書館が90年,有料で開館する。のち市営となり市立神田図書館となった。これをモデルに各地にも図書館が付設される運びとなる。こうしたとき,92年,早くも図書館従事者の組織としての日本文庫協会(現在の日本図書館協会の前身)が設立される。やがて1903年には,前年設立されたばかりの私立大橋図書館を会場に,日本文庫協会主催で第1回図書館事項講習会が開催されている。日本における図書館学教育のスタートである。
イギリスに遅れること49年にして,1899年日本に図書館令が施行される。ただしその第7条に〈公立図書館ニ於テハ図書閲覧料ヲ徴収スルコトヲ得〉の条項がついていた。この解除は,1946年のアメリカの勧告を待ってやっと実現する。しかし秋田県立図書館と山口県立図書館の館長を歴任した佐野友三郎は,1902年にこの無料公開制を実施している。そのほか,巡回文庫の普及,児童室の設置,十進分類法の採用など,第2次大戦後日本が経験することになる重要課題はすでに彼によって実験ずみであったことは注目に値しよう。
図書館活動は戦後40年近い歳月を迎えてようやく,日本の生活文化の中に定着しつつある。明治以降の近代化,とりわけ殖産興業・富国強兵に急だった日本では,主として兵と職工を育てるため義務教育の普及,各種学校制度の拡充に意が注がれた。したがって,いきおい公共図書館活動の立遅れは長く続き,第2次大戦後といえども多くの人々の目が図書館に注がれるようになったのは,高度経済成長期を迎えてからといっても過言ではない。もちろん,1896年の片山潜による《太陽》誌上での嘆き,すなわち図書館の数の少ないこと,有料制,館外貸出しを行わないことに対する批判の声はすでにあった。また,1927年から43年にわたる青年図書館員連盟の活動のような,職場人の自覚による図書館業務についての技術面での研究改善努力などすぐれた活動がなかったわけではない。しかし実質的には,戦後18年目にして出た《中小都市における公共図書館の運営》(1963)によって初めて図書館と市民との直結をうたう声が大きく図書館活動に反映したのであり,これは〈利用のための図書館〉というイメージ形成に資すること大であった。この意味で公共図書館の役割は,図書館活動というもののアルファでありオメガであるといえよう。この精神は,大学図書館,専門図書館についても変わらない。
扱う資料とサービス対象との関係から図書館は公共,大学,専門,学校の各図書館に大別され,ほかに国立国会図書館その他がある。
(1)公共図書館 図書館法第2条によると,その機能は〈教育,調査,研究,レクリエーションに資するため〉の施設と規定されている。しかし所轄役所の窓口が依然として社会教育局(課)であるところに問題がないでもない。レクリエーションの項目の含まれているところから,図書館は単に社会教育を上から与える場ではなく,プールや公園など快適な環境づくりのための施設の一つという考えも芽生えている。したがって長い間論争の的でもあったフィクションもの(読物小説,軽読書材)を公共図書館に置くことの可否も,この項があることによって是認されるようになっている。府県立図書館は調査目的を主としたレファレンス図書館,市町村立図書館は貸出しを主体とする図書館というイメージが形成されつつある。とりわけ公共図書館利用者の半数以上が児童図書利用者であるところから,最近では児童図書サービスに重点が注がれるようになってきている。
(2)大学図書館 大学図書館はlibrary collegeという名称があるように,図書館が中心にあっての大学というイメージが西欧の場合強いのに対し,日本ではいまだにその名のとおり〈付属〉図書館という意識が強く,図書館あっての大学という観念が薄い。また学部図書館と大学院用図書館との区別もされていない。現在,国立,公立,私立を合わせて900館弱の大学図書館があるが,そのうち東京・京都両大学の図書館が歴史が古く,蔵書,職員も多い。
(3)専門図書館 アメリカの専門図書館協会では,〈知識を働かすようにすることputting knowledge to work〉というスローガンを掲げている。日本では専門図書館は昭和30年代から活動が本格化した。専門図書館協議会が設けられたのは1952年のことである。専門図書館の機能としては,専門的な情報資料を組織的に収集し,これを整備蓄積し,必要に応じて,できるだけ速く正確に提供するものであって,一般には会社,工場,研究所,調査機関などに所属するものである。また広く国立国会図書館をはじめ,立法,司法,行政の政府機関に付設されている専門資料室,企業体や特殊法人組織に設置されている図書館なども機能的には専門図書館の働きをする。専門図書館の扱う資料は学術雑誌,紀要などに掲載される論文内容が重視されるため,そのサービス業務はドキュメンテーション(情報管理)という名で呼ばれる場合が多い。海外ではこのような動向が著しく,たとえばアメリカ,マクミラン社の《国際社会科学百科事典》(1968)では,すでに〈図書館〉の項目は〈情報検索〉という大項目の中に包括される小見出しにすぎない。しかも情報がマイクロフィルムあるいは磁気テープの中に収められていく傾向にあるところから,図書館資料というよりデータベースとして取り扱われるようにさえなってきている。新聞社のモルグも専門図書館に数えられよう。今日,日本における専門図書館の数は2028である。
(4)学校図書館 学校図書館法第2条によって,小学校,中学校および高等学校においては,図書・視聴覚資料を収集,整理,保存し,これを児童または生徒および教員の利用に供することによって,学校の教育課程の展開に寄与するとともに,その健全な教養を育成することを目的として学校図書館が設けられている。しかし,司書教諭の配置が後退ぎみであるのと,資料不足,それに図書館利用がまだ授業時間割りの中に十分組み入れられていない点などからして,スローガンほどには機能していないのが実情であろう。学校図書館協議会は1950年に結成され60団体が参加している。
(5)国立国会図書館 日本の国立国会図書館は1948年,アメリカ議会図書館をモデルにして設立された。国立国会図書館法第24条および25条の規定にもとづき,国内刊行資料は網羅的に納本され,海外資料については,購入,国際交換,寄贈によって収集が図られている。96年現在の全蔵書数は約720万,職員は約820人をかかえている。全国書誌の編纂を行うが,機械可読目録(日本MARCシステムJapan Machine Readable Cataloging)の開発により,1977年版から編纂は機械化されている。
(6)その他 英語でアーカイブズarchives,ドイツ語でアルヒーフArchivなどと呼ばれる文書館,記録保管所も図書館の範疇に含まれる。日本では1971年に国立公文書館ができて以来,各都道府県にも公文書館の設置が進められている。そのほか東急文庫など特殊図書館の名で呼ばれる図書館も多い。
→出版 →本
執筆者:小野 泰博
図書館は人類の精神文化の蓄積場所として,古くから重視されてきた公共施設であるが,読書という個人的な営みを公的な空間の中に収容することで成り立つものであるだけに,その空間の発展は書籍の収蔵方式や閲覧形式の変化と深くかかわり,いわば建築と家具との微妙な接点に位置している。
粘土板文書を収蔵したアッシュールバニパル王の図書館(前7世紀,ニネベ)のような特殊なものを除けば,より広い範囲の学者・教師に開かれた図書館がつくられるようになるのは,ヘレニズム期以後であった。多くは宮殿や公共ホール,大浴場などの一隅に置かれ,有名なアレクサンドリア図書館は,学府ムセイオンとともに王宮内に併設されていたとも伝えられる。この時代の図書館は数室からなり,室内の壁のくぼみにパピルス巻物を収める棚を設け,ギャラリーをめぐらして2層とすることもあった。壁の基部などに彫像を置くための基壇があるほかは,特別の設備はない,長方形の広間形式が一般的であった。やがて帝政期ローマになると,円形や十字形など多彩なプラン(平面)のものが現れ,空間的にも意匠を凝らしたものがみられるようになる。ローマの図書館では,ギリシア語文献とラテン語文献とを2室に分けて収蔵する形式が一般的であった。
中世の西欧では,全般に書物が希少なこともあって,扉付きの本棚に書物をねかせて収蔵した。修道院では修道士の手で写本が行われていたため,本の戸棚を置く図書室と写字室(写本工房)は併設されることが多く,また8世紀ころからは書き物机の使用が普及し,戸棚と机が結びついたキャレルcarrelのような設備も考案される。本の使用がより頻繁な大学の図書館などでは,13世紀ころには戸棚が廃され,書見台に書物を鎖で固定しておく形式が一般的となった。しかしこれでは広い空間を必要とするため,やがて本を垂直に立てる書棚が現れるが,本は相変わらず鎖付きであったので,書棚と書見台を結びつけ,小さな囲われた閲覧空間をつくる形式が生まれる。17世紀ころまで大学の図書館のほとんどは,細長い部屋の両側に,こうした小さな囲いの並ぶ形式であった。
ルネサンス以降の建築家たちの課題は,こうした家具によりこま切れにされた図書館の空間を,さまざまな建築的手法により統一してゆくことであった。教会堂建築のように身廊と側廊に分け,両側廊に書棚の小囲いを並べ,身廊には書見台や彫刻を並べるとか,壮大な階段室を設けるなどの試みがみられた。その後,書棚を部屋の壁面に収めた広いホール状の図書室が現れ,天井のボールトには豪華な装飾を施し,中央部にドームを冠したり,建物全体を円形とするなどのさまざまな意匠を凝らした,バロック風の図書館ができ上がる。ここでは,むしろ書物は建築に特殊な威厳を添えるための要素として扱われていたといえる。啓蒙主義の時代には,図書館は欠くことのできない重要な施設と考えられるようになり,É.L.ブレーの王立図書館計画案(1784)のような空想的な巨大図書館が構想されるまでになる。こうした巨大図書館のイメージは,19世紀の大英博物館の円形閲覧室(S. スマーク設計,1856)やパリのビブリオテーク・ナシヨナル(H. ラブルースト設計,1868)などにうけつがれている。一方,蔵書数の増大に対処するため,書庫と閲覧室とを分離する方式が考案され(L. デラ・サンタ,1816),20世紀にはほぼ世界中の大図書館でこの方式が採用される。書庫内には鋼製積層書架やリフトが導入され,ときには目録と係員の手を通じてしか閲覧者が本に近づけないような図書館も現れた。現代の図書館は規模も目的もきわめて多様化しており,書籍だけではなくフィルムや写真,テープ,ビデオなども収蔵対象とされ,建築の内容はますます複雑化しており,人間と書物のための空間という,図書館本来の立脚点をどのようにとらえ直すかが問われているといえよう。
執筆者:福田 晴虔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
…小・中・高等学校および盲・聾・養護学校で児童生徒,教職員が学習や調査研究を行い,また読書欲や知的探究心を満たし教養を高めるため,図書や視聴覚資料などを集め整理して利用させる学校内の設備。単に本や部屋があるだけでなく,そこで行われる子どもや教師の教育活動,それを高める司書教諭や学校司書の活動,さらに図書館の管理運営や図書の収集整理などの作業を含んでいる。〈学校図書館法〉(〈学図法〉と略称。…
…
[活動の形態]
社会教育活動の形態は,施設による事業,団体による活動,大学など学校教育機関の開放,の三つに大きく分けられる。まず公民館,図書館,博物館などの場合,専門職員を配置して,施設・設備,図書,資料,展示物などの利用サービスの提供,市民大学,婦人講座,青年教室などの学習活動の主催,各種の研究集会や文化行事の開催,あるいはグループ活動の相談・助言にあたるなどの機能をはたしている。近年は,公立施設の運営や事業の企画・実施に住民参加をとり入れ,受動的な利用でなく,活動内容の自主的創造をめざす動きもすすんでおり,体育施設においても,指導サービスや自主グループ育成がこころみられているが,他方,青少年の団体活動訓練の場としての性格をもった青年の家,少年自然の家もある。…
…図書館の電子化は書誌情報(書誌記述)をコンピューター上に移植することから始められた。これまで書名・著者名から検索する書誌情報は,図書カードに記入されてカードボックスに収められていたが,この情報をコンピューターを利用してデータベース化することによって,迅速かつ多様な検索が可能になったのである。…
※「図書館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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