熊野(読み)ユヤ

デジタル大辞泉 「熊野」の意味・読み・例文・類語

ゆや【熊野/湯谷】

謡曲。三番目物平宗盛の愛人熊野は、東国にいる重病の母を見舞うために帰国を願うが許されず、花見の供を命ぜられる。花見の宴で、母を案じる熊野の歌をきいた宗盛は哀れを感じて帰国を許す。
箏曲そうきょく。山田流。山田検校作曲。歌詞はの後半からとったもの。
三島由紀夫の戯曲。をモチーフとする1幕の近代劇。昭和34年(1959)「声」誌に発表。初演は昭和42年(1967)、堂本正樹の演出による。「近代能楽集」の作品の一つ。

くまの【熊野】

和歌山県の東牟婁ひがしむろ・西牟婁両郡および三重県の南牟婁・北牟婁両郡一帯の称。森林が多く、製材業が盛ん。古来、熊野三山信仰の地。
三重県南部の市。熊野灘に面する。中心の木本きのもとは製材業・漁業が盛ん。景勝地の鬼ヶ城がある。平成17年(2005)11月、紀和町と合併。人口2.0万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「熊野」の意味・読み・例文・類語

くまの【熊野】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 紀伊半島の南部、熊野川流域と熊野灘に面する一帯の地域名。三重・和歌山両県にまたがり、旧牟婁(むろ)郡域に相当。古代からの霊験の地で熊野三社や那智滝など名勝が多い。
      1. [初出の実例]「此の時熊野の高倉下〈此は人の名〉、一ふりの横刀(たち)(も)ちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて献りし時」(出典:古事記(712)中)
    2. [ 二 ] 三重県南部にある地名。熊野灘に面する。古くは熊野三山の神領地。木材の集散地として知られ、製材業、暖地園芸農業、漁業がさかん。鬼ケ城の奇勝を含む熊野浦、熊野川支流の北山川は吉野熊野国立公園の一部。那智黒を特産。昭和二九年(一九五四)市制。
    3. [ 三 ]くまのさんしゃ(熊野三社)」の略。
    4. [ 四 ] 京都府の北西端にあった郡。平成一六年(二〇〇四)京丹後市の成立で消滅。〔二十巻本和名抄(934頃)〕
    5. [ 五 ] 島根県松江市南部の地名。出雲国一の宮熊野神社がある。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙くまのずみ(熊野炭)」の略。
    1. [初出の実例]「かけ鯛をあげて熊野とぶちまける」(出典:雑俳・川柳評万句合‐明和七(1770)義一)

ゆや【熊野・湯谷】

  1. [ 一 ] 謡曲。三番目物。各流。作者未詳。「平家物語」による。平宗盛の寵愛をうけている熊野(ゆや)は、故郷遠江(とおとうみ)の母が病気なので暇を請うが許されず、かえって清水への花見の供をいいつけられる。酒宴が始まっても心の浮かぬ熊野は舞を舞うが、にわかに雨が降ってきて花を散らすのを見て、「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん」と和歌をよむ。これを聞いた宗盛は熊野の心を哀れに思い暇を与える。
  2. [ 二 ] 山田流箏曲。流祖山田検校の四代表曲(四つ物)の一つで、[ 一 ]の後半を圧縮した内容。能の気分を生かした語り物風。
  3. [ 三 ] 河東節。山彦河丈作曲。嘉永二年(一八四九)初演。[ 二 ]を元にした作曲。安政四年(一八五七)、「文の段」を増補し、「宗盛花見の段」と改名。
  4. [ 四 ] 長唄。三世杵屋六四郎(後名二世稀音家浄観)作曲。明治二七年(一八九四)作曲。[ 一 ]の宗盛の名乗りから始まる脚色。研精会派の専有曲。

くまの【熊野】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「熊野」の解説

熊野
くまの

熊野は紀伊半島南部の汎称であるが、境域は必ずしも明らかでない。古くは牟婁むろともよばれ、牟婁の地は近代、西牟婁にしむろ郡・東牟婁郡南牟婁郡北牟婁郡に分れ、現在和歌山・三重両県に属する。しかしいま奈良県吉野郡下北山村・上北山村も古くは熊野の内であったろうといわれる。

熊野はそのほとんどが山地で、複雑で険峻な峰と谷からなる。外界との交通は困難を極め、閉鎖的僻地として孤立した時代が長かった。この閉鎖性・孤立性は、この地域を宗教的聖地として神聖視させる結果となり、熊野は古代以来、現代まで日本の代表的霊場とされてきた。すなわち熊野三山を中心とする熊野修験道が成立し、「日本第一大霊験所」として、全国から熊野詣の道者が集まった。

〔熊野の名と熊野三山〕

「国造本紀」に景行天皇の時大阿斗足尼を熊野国造に定めたとあり、熊野は「熊野国」とよばれて「紀伊国」の外にあった。しかし孝徳天皇の時の国郡制定にあたって、紀伊国牟婁郡となった。神霊の隠れこもるところを「神奈備の御室みむろ(三室)などというので牟婁は「御室」を意味したと思われる。熊野という地名も「続風土記」が「熊はくまにて古茂累こもる義にして山川幽深、樹木蓊欝なるを以て名つくるなり」と説くように、「御室」と同義である。しかし熊(隈)は「日本書紀」(神代下)に、大己貴神が天孫に国土を奉献して「今我当に百足ももたらずの八十隈やそくまでに、隠去かくれなむ」といってついに死んだとあるように、死者の霊のこもるところでもある。このような地を「万葉集」では「隠国こもりく」ともよぶが、クマもコモも同義で、熊野は隠国にほかならなかった。ムロもクマ野も、この地域を神の国・霊の国とする観念からよばれた名で、死者の霊が熊野へ行くとか、熊野路では死んだ肉親の霊に会えるというような信仰を生んだ。

このような熊野信仰はすでに「日本書紀」(神代上)一書に「伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」とあるのにもみることができる。「熊野有馬村」は現三重県熊野市有馬ありま町で、ここの花のいわやを伊弉冉尊の陵とする伝承は古い。すなわち伊勢の天照大神の母神の墓が熊野にあるという伝承が、伊勢と熊野を一体とする信仰を生み、伊勢から熊野へ詣でる東熊野街道を開いたといえる。平安中期の紀行「いほぬし」は、熊野本宮から那智・新宮を巡り、花の窟から伊勢へ越えるが、そのころの花の窟には埋経が行われ、卒塔婆も立てられていたという。


熊野
くまのなだ

大王だいおう(現志摩郡大王町)から潮岬しおのみさき(現和歌山県)に至る海域。三重・和歌山の両県にまたがり、海岸線は一六〇キロに及び、三重県側は一二〇キロである。熊野市より南の七里御浜しちりみはまは直線の砂礫海岸をなすが、他はすべてリアス海岸で峻険な山が海に迫る。志摩郡および度会わたらい南勢なんせい町・南島なんとう町の海岸は伊勢志摩国立公園、尾鷲おわせ市以南の海岸は吉野熊野国立公園に含まれる。

縄文早期の頃海上交通路として利用され始めたと推定され、現名古屋市周辺で生産されたと考えられる土器が現尾鷲市内の向井むかいほか三遺跡で発見されており、熊野灘を舟で運ばれたものと思われる。「古今著聞集」によれば、正上座行快という弓の達人が三河から熊野へ渡航の途中に海賊に襲われたが、行快が乗っているとわかって退散したとあり、「此の辺の海賊は定めて熊野だちの奴原にてこそあるらめ」と記されている。「十寸穂の薄」に「船手の人を海賊衆といふ。盗賊の類とは聞えず」とあるが、熊野海賊は源平の戦には源氏に味方して勝利の主因となり、南北朝時代には南朝に心を寄せる者が多く、室町時代には八幡船で東支那海に現れ、朝鮮の役には多くの海賊衆が加わった。

尾鷲見聞闕疑集(尾鷲市立図書館蔵)に「元和寛永の頃より諸材木を仕出し江戸へ運送し、且炭薪類諸品諸廻船数帆を催し売買の利潤を得、浦辺は鯨鰹鰯を初め、其外諸魚を漁り是亦諸方へ積送り、山海の業年々に増長せり」とあり、ようやく廻船業の発達がみられる。


熊野
くまのなだ

紀伊半島南端、西牟婁にしむろ串本くしもと町の潮岬しおのみさきから東の太平洋に続く海域。和歌山・三重両県にわたる。「大日本地名辞書」に「凡紀伊の海洋は、南方は熊野浦にして、これを熊野洋また紀州灘という」とみえる。藤原宗忠は新宮から那智に向かう途中の海浜の様子を「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月二七日条に「南見白浪畳、遥見雲水茫々、是日域之南極也、望南面全無別島」と記す。熊野灘に面する海浜は熊野浦といわれ、おおよそ潮岬から三重県の志摩半島先端大王崎だいおうざきまでを含む。

熊野灘海岸は紀伊山地がそのまま海に臨んでリアス海岸に等しい岬と入江の交錯する景観を示しているが、同時に典型的な海岸段丘の発達がみられる。つまり隆起と沈降の地形が同時に現れている。志摩海岸がその典型であるが、潮岬やその東のおお島も一〇〇メートル前後の平坦な段丘で、しかも大島の海金剛うみこんごうに代表される四〇メートルもの海崖が切立ち、周辺には岩礁・暗礁が多く、景勝の地であるが、同時に航海の難所ともなっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊野」の意味・わかりやすい解説

熊野(紀伊半島)
くまの

紀伊半島南部、和歌山県の東牟婁(ひがしむろ)、西牟婁両郡と新宮(しんぐう)市、田辺(たなべ)市、三重県の南牟婁、北牟婁両郡と熊野、尾鷲(おわせ)両市をあわせた地域。つまり明治初期の廃藩置県以前は紀伊国牟婁郡であった地域の古い呼称である。紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国(きのくに)、南部は熊野国と称し、それぞれ国造(くにのみやつこ)が置かれていた。大化改新後、熊野国は牟婁郡と名称を改めて、紀伊国の一郡となったため、以来熊野という行政上の名称はなくなったが、その後も通称としてこの地域を熊野といっている。江戸時代には、現在の西牟婁郡、田辺市にあたる地域を口(くち)熊野、また東牟婁・南牟婁・北牟婁郡と新宮市、熊野市、尾鷲市の地域を奥熊野と称している。そのほか熊野川、熊野灘(なだ)の地名が現存しているが、それはこの地に熊野三山の神社があることにもよるであろう。また吉野熊野国立公園など新しい名称にも用いられている。

 熊野の地名の由来について『古事記』には、神武(じんむ)天皇が熊野村に到着したとき大熊に出会ったとあり、これを熊野の地名の起源とする説もあるが、これは採用できない。『紀伊続風土記(ふどき)』は「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以(もっ)て名づく」とする。谷の深い所は一般にイヤまたはユヤといい、これに祖谷または熊野の字をあてている。県内にも熊野と書いてユヤと読む地名の所が日高郡などにあるが、熊野の場合はこの字をのちにクマノと読むことになったのであろう。山深い所をさす地名であることは間違いない。

 熊野は熊野酸性岩の広がる第三紀の地層で、大塔山(おおとうさん)(1122メートル)を最高とする紀伊山地南部の壮年期の山地には、古座川(こざがわ)、熊野川など嵌入(かんにゅう)蛇行をなす深い谷が刻まれている。古座峡や熊野川の支流北山川(きたやまがわ)がつくる瀞峡(どろきょう)はその典型である。山地が海に迫る熊野灘海岸には、出入りの多い沈降海岸と同時に、海岸段丘や七里御浜(しちりみはま)の砂礫(されき)海岸、潮岬、宇久井(うぐい)、勝浦の陸繋島(りくけいとう)など隆起海岸の特徴もみられる。黒潮の影響を受ける熊野地方は、亜熱帯植物群落が各所にある南海型の気候で、山地部は年4000ミリメートルを超える多雨地帯である。海岸は台風の影響を受けることが多く、漁村では屋根を低くし、屋敷林や石垣を巡らした所が少なくない。

 三千六百峰といわれた熊野の山地にも、熊野三山への参詣(さんけい)路が古くから通っていた。修験道(しゅげんどう)に始まる大峰山(おおみねさん)や高野山(こうやさん)から、また十津(とつ)川や北山川の谷を伝い、あるいは伊勢(いせ)からの伊勢路や紀州海岸からの大辺路(おおへち)、中辺路(なかへち)などがそれである。なお、これら参詣道や熊野三山、高野山、吉野・大峯(おおみね)などは、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年(平成16)ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。現在海岸線を通るJR紀勢本線と国道42号、また国道311号、168号、169号などいずれも旧参詣路に沿っている。近世には廻船(かいせん)が熊野灘沿岸に寄港地を発達させたが、鉄道の発達とともに衰えている。熊野の産業は山林の木材と海岸の漁業が主で、近世は廻船によって運ばれ、新宮、尾鷲などの集散地が栄え、また古座、太地(たいじ)、九木(くき)の捕鯨は衰えたが、串本(くしもと)、勝浦、長島などは遠洋漁業根拠地となっている。

[小池洋一]



熊野(市)
くまの

三重県南部、熊野灘(なだ)に面した市。1954年(昭和29)木本(きのもと)町と荒坂(あらさか)、新鹿(あたしか)、泊(とまり)、有井(ありい)、神川(かみかわ)、五郷(いさと)、飛鳥(あすか)の7村が合併して市制施行。2005年(平成17)紀和町(きわちょう)と合併、市域を西南に広げた。市名は牟婁(むろ)郡が7世紀中ごろの大化改新以前熊野国とよばれ、木本は奥熊野の中心であったことによる。海岸は北半分は志摩半島から続く典型的なリアス海岸、南半分は七里御浜(みはま)とよばれる単調な隆起砂礫(されき)海岸をなしている。吉野熊野国立公園の一部で、両海岸の境に海食地形の景勝鬼ヶ城(おにがじょう)がある。背後は紀伊山地の大台ヶ原、大峰(おおみね)山系が迫って平地に乏しく、市域の87%は山林である。JR紀勢本線、国道42号が通じるが、1959年に紀勢東線と西線が結合するまでは和歌山側からの西線の終点で、三重県側からの鉄道の便がなかった。そのほか、熊野尾鷲道路、国道169号、309号、311号が通じる。江戸時代には紀州徳川家の和歌山藩と新宮(しんぐう)藩に属し、木本に代官所が置かれ、1876年(明治9)に三重県の所管となった歴史をもち、いまでも生活圏は和歌山県新宮市に近い。主要産業に紀州材で知られるスギ、ヒノキの林業と製材、二木島(にきしま)港、遊木(ゆき)港を本拠とする遠洋漁業、国営事業として造成された大規模柑橘(かんきつ)園、磯(いそ)釣りなどを含む観光産業がある。熊野古道伊勢路は世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」の一部となっている。有馬地区の花の窟(いわや)神社の綱(つな)かけ神事は県の無形民俗文化財に、鬼ヶ城と獅子(しし)岩は国の天然記念物・名勝に指定されている。旧紀和町地域にある瀞八丁(どろはっちょう)は国の特別名勝・天然記念物。8月に七里御浜の海岸で熊野大花大会が行われる。面積373.35平方キロメートル、人口1万5965(2020)。

[伊藤達雄]

『『熊野市史』(1983・熊野市)』



熊野(能)
ゆや

能の曲目。三番目、鬘(かずら)物。五流現行曲。喜多流は「湯谷」と表記。作者については金春禅竹(こんぱるぜんちく)、観世元雅(かんぜもとまさ)との説もあるが不明。『平家物語』巻十「海道下(かいどうくだり)」を典拠とする。「熊野、松風に米の飯」と、何度見ても飽きることのない春の名作として、秋の『松風』と並称される。平宗盛(むねもり)(ワキ)は、愛人の熊野が東国に病む老母のために帰国を願っているのを許さずにいる。母の使いの朝顔(ツレ)が上京し、母の手紙を読み上げて熊野(シテ)はいとまを請うが、宗盛は今年ばかりの花見の友と、清水(きよみず)寺への供を命ずる。牛車(ぎっしゃ)の作り物が出され、清水への花見の道中と京都の春景色が描写される。心重く花見の宴に連なる熊野は、促されて舞うが、おりからの村雨(むらさめ)に散る花びらを受けて歌を詠む。「いかにせん都の春も惜しけれど馴(な)れし東(あずま)の花や散るらん」。これに感動した宗盛は帰国を許し、熊野はいそいそと都をあとにする。

 後世への影響も大きく、山田流箏曲(そうきょく)、河東(かとう)節、長唄(ながうた)、うた沢にもとられ、それぞれ同題の作品がある。三島由紀夫作の舞踊曲としても6世中村歌右衛門(うたえもん)が上演しており、また三島由紀夫の『近代能楽集』の『熊野』は喜劇仕立ての作品となっている。1912年(明治45)に帝国劇場でユンケル作曲のオペラとして上演されたこともある。

[増田正造]



熊野(町)
くまの

広島県南西部、安芸(あき)郡の町。1918年(大正7)町制施行。吉備(きび)高原の標高200メートル前後に位置し、中央に小盆地が開ける。江戸末期に熊野出身の井上治平が広島藩の御用筆司から筆づくりを学び村民に伝えたことに始まる「熊野筆」の町として有名。全国生産の約8割を占め、伝統的工芸品に指定されている。毛筆のほか、画筆、化粧筆などもつくられ、海外へも輸出する。広島市や呉(くれ)市に近く、住宅団地の開発も進み人口も増加している。1990年広島熊野道路が開通した。面積33.76平方キロメートル、人口2万2834(2020)。

[北川建次]


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改訂新版 世界大百科事典 「熊野」の意味・わかりやすい解説

熊野 (ゆや)

《平家物語》巻十〈海道下〉に登場する遠江池田の宿(しゆく)の遊女の長の名。平重衡(しげひら)が捕らえられて関東に下る途中この宿に泊まり,その長の娘の侍従という女から歌を贈られるが,その女は,兄宗盛に召されたことのある海道一の歌人であった。これを原拠とし,その女の名を熊野とした能,およびこれに基づく近世邦楽がある。

(1)能 喜多流は〈湯谷〉と書く。三番目物鬘物(かつらもの)。作者不明。シテは熊野。遠江池田の宿の長の熊野は,平宗盛(ワキ)の側に仕えて,久しく都住いだった。ある日国元から侍女の朝顔(ツレ)が来て,老母の重病を伝える。熊野は宗盛に母の文を披露して暇を願う(〈文(ふみ)ノ段〉)。宗盛は許さず,かえって花見の供を命ずる。東山へ赴く花見の車の中から見ると,道行く人々はみな春の装いに色めき立っているが,熊野の心は重い(〈下歌(さげうた)・上歌(あげうた)・ロンギ〉)。東山では酒宴が始まり,熊野はしぶしぶ立って舞を舞う(〈クセ・中ノ舞(ちゆうのまい)〉)。そのうち村雨が降り出して花が散りかかるのを見ると,また母の命が思いやられ,熊野は涙ながらにその気持ちを詠んだ和歌を短冊にしたため宗盛に見せる。宗盛もさすがに哀れを催して帰国を許すので,熊野は飛び立つように東国へ急ぐ。

 文ノ段,車の道行き,舞,村雨の場面から短冊の段,帰国の喜びと見せ場が多い華麗な能で,主人公の哀れさもよく描けているので,昔も今も人気が高い。
執筆者:(2)山田流箏曲 山田検校作曲。奥の四つ物の一。能の,東山の清水(せいすい)寺に着いたクセの部分以下をとる。その直前のサシの部分も記されるが演奏されない。西沢一鳳の《皇都午睡》に,著者が山田検校のこの曲の演奏を聞きたがったことが記されている。

(3)河東節 9世十寸見河東および5世山彦河良作曲。1849年(嘉永2)初演。《宗盛花見の段》とも。詞章は(2)を借りる。57年(安政4)には,初世宇治紫文および宇治紫欣などの一中節宇治派と掛合で上演,そのとき増補された〈文の段〉の部分は,一中節のほうには残っている。

(4)長唄 3世杵屋(きねや)六四郎(2世稀音家(きねや)浄観)の1894年の作曲。全編ほぼ能に基づく。

(5)歌沢 田畑千壺作詞,歌沢美代吉作曲。大正期の作か。〈音羽嵐の夕しぶき,降るは涙か村雨か……〉と出て,〈花を見捨てて帰る雁がね〉と結ぶ。寅派で行われる。
執筆者:


熊野[市] (くまの)

三重県南部の市。2005年11月旧熊野市と紀和(きわ)町が合体して成立した。人口1万9662(2010)。

熊野市南西部の旧町。旧南牟婁(みなみむろ)郡所属。人口1742(2000)。南と西は熊野川と支流北山川を境として和歌山・奈良両県に接する。町域の大部分は紀伊山地に属する山地で,河川沿いのわずかな低地に集落がある。古くから鉱山が開発された地域で,当地の産金は慶長小判や桃山城,日光東照宮の造営に使われたという。昭和初期に一時採掘は中断されたが,1934年より石原産業が紀州鉱山として操業を再開し,第2次大戦中は銅,硫化鉄をおもに産出する鉱山として繁栄した。その後鉱脈が衰えたため78年に鉱山は閉鎖され,深刻な過疎化問題が起こっている。町の北西境を曲流する北山川の峡谷は瀞峡(どろきよう)として知られ,一帯は吉野熊野国立公園に含まれる。近年,湯ノ口に温泉が湧出した。
執筆者:

熊野市北東部の旧市。1954年木本(きのもと)町と荒坂,新鹿(あたしか),泊,有井,五郷(いさと),神川,飛鳥の7村が合体,市制。人口2万0898(2000)。市域の大部分は紀伊山地の山林だが,南東部は熊野灘に臨む。海岸線の北半はリアス海岸,南半は七里御浜(しちりみはま)と呼ばれる単調な砂礫(されき)海岸で,両者の接合部に中心市街地木本がある。かつて熊野三山の神領であったが,近世には紀州藩領となり,代官所がおかれた。1940年に紀勢西線が紀伊木本駅(現,熊野市駅)まで通じたため,和歌山,大阪との関係が深かったが,紀勢本線の全通(1959),国道42号線(熊野街道)矢ノ川(やのこ)新道の開通(1967)で,県中央との連絡が容易になった。良質の杉材,山腹斜面のミカン,沿岸の漁獲物が主産物で,那智黒石を原料とするすずり石,碁石も特産物である。吉野熊野国立公園に含まれ,市街地北東の隆起海食崖鬼ヶ城,砂防松林が続く七里御浜,その北部の獅子巌や伊弉冉(いざなみ)尊をまつる花窟(はなのいわや)神社,二木島の海中公園,奥瀞峡の七色ダムなどがみどころである。
執筆者:


熊野 (くまの)

紀伊半島南部一帯をいい,現在の和歌山,三重,奈良の3県にまたがる。紀伊国牟婁(むろ)郡(明治初年に東西南北の4郡に分割)がほとんどであるが,大和国吉野郡南部を含めることもあった。クマノとは霊魂の籠(こも)る地との意味があるらしく,早く《日本書紀》神代巻に,伊弉冉(いざなみ)尊が火神を生むとき灼(や)かれて死んだので,紀伊国の熊野に葬ったとある。やがてこの地に熊野三山と称される霊場が開かれると,神秘的な伝承が数多く発生し,死者の霊は遠隔の地からもこの熊野へ行くものだとか,熊野へ行けば死者の霊に会えるとかの信仰を生んだ(熊野信仰)。山岳が重畳し,交通きわめて不便であったにもかかわらず,熊野灘に臨む海岸美に,瀞(どろ)峡,那智滝などの景勝地や,湯ノ峰,湯ノ川などの温泉の存在も手伝って,熊野三山参詣のためにはるばる足を運ぶ人が,古代末期から中世にかけて増大した(熊野詣(くまのもうで))。三山とは本宮(ほんぐう),新宮,那智をさすが(熊野大社),いずれも小都市を形成し,なかでも熊野川河口にある新宮は交通の要地であり,ここには門前町と商工業の市街とが結びついて発展した。熊野川を下すいかだにより山間の木材が新宮に集められ,近世には木材の積出し港としても有力であった。紀伊はもともと〈木の国〉という命名から起こったのだが,なかでも雨の多い熊野の地は良質の木材の産地として名声を高めた。また中世には熊野水軍の活躍がこの地の海岸一帯にみられ,その統率者として田辺(現,和歌山県田辺市)の熊野別当が一時は優勢であった。近世に入って水軍はとだえ,代わって太地(たいじ)を中心とした捕鯨業が有力となり,その進んだ技術により近世日本の漁業の指導的地位に達したが,明治末には衰微した。現在は吉野熊野国立公園に含まれる。熊野の霊場とここへの参詣道は,2004年に〈紀伊山地の霊場と参詣道〉の一部として世界文化遺産に登録された。
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熊野[町] (くまの)

広島県南部,安芸郡の町。人口2万4533(2010)。吉備高原の山間地にあり,町の中央を瀬野川の支流熊野川が北流,二河(にこう)川が南流し,川沿いの沖積地に集落が発達している。耕地が乏しく,零細農家が多いため古くから農閑期には出稼ぎが盛んで,帰郷するとき奈良地方の筆や墨を仕入れて行商する者が多かった。伝統産業の熊野筆はそれを背景に1846年(弘化3)ころ広島藩の御用筆司や摂津有馬から製筆法を学んだのがはじまりと伝えられている。明治以降,学校教育の普及で筆の需要が増大し,現在では約100社の事業所があり,全国生産に占める割合は毛筆80%,画筆70%,工業用や化粧用のはけ70%に達し,海外へも輸出されている。近年,広島市のベッドタウンとして宅地化が進み,大規模団地が造成されている。
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百科事典マイペディア 「熊野」の意味・わかりやすい解説

熊野【くまの】

紀伊山脈中の山地帯と熊野灘沿岸地域。三重県北牟婁(むろ)・南牟婁郡と尾鷲(おわせ)・熊野2市,和歌山県東牟婁・西牟婁郡と新宮市にわたり,かつての紀伊国南部に当たる。狭義には熊野川流域と熊野三山をいい,古来熊野信仰で知られる。森林地帯のため近世以後林業が盛んとなり,近年は吉野熊野総合開発が進み,吉野熊野国立公園の主要部をなす観光地としても発展。
→関連項目天王寺普陀落山山伏渡辺津

熊野【ゆや】

能の曲目。鬘(かっら)物五流現行。湯谷とも書く。作者不明。故郷にいる病母への思いをいだきながら平宗盛の花見の宴に連なる美女熊野の心を描く。清水(きよみず)寺への牛車の景,哀愁を秘めた花下の舞,帰国を許されての喜びなど,場面の変化も美しく,古来《松風》と並ぶ人気曲である。山田検校の作曲の箏曲《熊野》は,この能の後半を採って歌詞としたもの。流祖作品中,最も位の重い奥の四曲(よつもの)の一つ。このほか,河東節・一中節・長唄などにも同名曲がある。

熊野[市]【くまの】

三重県南部の市。1954年市制。中心は熊野灘に臨み紀勢本線が通じる木本(きのもと)。市域は紀伊山地に属する山地を占め,80%が山林で木材を多産し,製材が盛ん。山腹でのミカン栽培,沿岸漁業も営む。碁石や硯に加工される那智黒を特産。鬼ヶ城,七里御浜,北山川流域は吉野熊野国立公園に属し,景勝地として知られる瀞峡(どろきょう)がある。2005年11月南牟婁郡紀和町を編入。373.35km2。1万9662人(2010)。

熊野[町]【くまの】

広島県南部,安芸(あき)郡の町。吉備(きび)高原の山間の盆地に位置する。藩政時代末期から熊野筆の産で知られ,毛筆,画筆の生産は全国のほとんどを占める。呉・広島両市に近く,近年宅地開発が盛ん。33.76km2。2万4533人(2010)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「熊野」の意味・わかりやすい解説

熊野
ゆや

(1) 能の曲名。「遊屋」「湯谷」とも書く。三番目物。作者未詳。平宗盛は遠江 (とおとうみ) の国池田の宿の長者熊野を都にとどめて寵愛する。母が病気のため熊野はいとまを請うが許されず,花見に連れ出される。花見の宴で舞った熊野は老母を思う和歌を詠み,それに感動して宗盛はいとまを与えた。『松風』とともに人気のある曲で,宗盛の館から今熊野への長い道行が珍しい。 (2) 山田流箏曲の曲名。奥歌曲。山田検校作曲。『小督』『葵の上』『長恨歌』とともに,四つ物の一つ。詞章は能の『熊野』のクセ以下の部分による。かつてはサシの部分を冒頭に付けていたが現行しない。合の手には鼓の手を取入れてあり,謡曲ふうの旋律もみられる。熊野と知盛の問答の歌い分け,緩急の変化など,はなやかな曲調に人気がある。箏は半岩戸調子から雲井調子。三弦は低二上りから三下り。なお,河東節的な節扱いも随所にみられる。このほか,(2) を移して作られた河東節や,長唄などがある。

熊野
くまの

紀伊半島南部,牟婁 (むろ) 地方の総称。古くは,熊野国といい,大化改新の際,紀伊国に属した。現在,和歌山,三重両県にまたがり,大塔山脈を境に,東を奥熊野,西は口熊野という。熊野本宮,新宮,那智の3社,いわゆる熊野三山は,元来,険路が多く,京都との関係が疎遠で,経済的に弱体であったが,これを補うため積極的な宣伝活動を始め,御師先達 (おしせんだつ) 制度などで,古代末期,院や貴族の参詣を得ることに成功し,中世には多数の武士を招き,「熊野詣で」といって,全国の代表的な参詣地となった。別当の勢力は強く,水軍をもち,熊野海賊の名をはせた。山中は温暖湿潤のため,良質の杉,ひのきを産し,木材は熊野川の水流を利用して新宮で集散される。

熊野
くまの

最上型重巡洋艦」のページをご覧ください。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「熊野」の解説

熊野
〔長唄〕
ゆや

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
作者
竹柴其水
演者
杵屋六四郎(3代)
初演
明治37.5(東京・明治座)

熊野
(別題)
ゆや

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
生人形花洛名所
初演
明治4.6(東京・中村座)

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世界大百科事典(旧版)内の熊野の言及

【紀伊国】より

…古来,良材を産し,素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子五十猛命(いたけるのみこと)が韓(から)より木種をもたらしこの国に播種したという《日本書紀》一書の所伝や,宮殿造営のための採材の忌部(いんべ)が住んだという《古語拾遺》の説は,木国の名の由来を物語るものである。その他記紀の伝える日前神の創祀神話,神武天皇の名草戸畔・丹敷戸畔の討伐や熊野上陸に関する説話などは,この国と大和政権との古い関係をうかがわせる。国造は紀伊・熊野の両国造があり,それぞれ紀直氏,熊野直氏を任じた。…

【熊野信仰】より

…和歌山県の熊野山(熊野三山,熊野三所と呼ぶことが多い)を中心とした民俗的信仰。熊野地方は近畿の南端に突出した山岳地帯であるが,ふもとには大河がうねって流れ,しかも洋々たる大海を見渡すことのできる地である。…

【権現】より

…蔵王は密教の仏尊だが当時すでに日本の山岳信仰と習合し神祇化されていたのである。院政期,上皇はじめ公家貴族の参詣で脚光をあびた熊野は早玉宮・結宮を合して両所権現,家津御子を入れて熊野三所権現と称し,眷属神である五所王子・四所宮を合して十二所権現とも呼んだ。加賀白山では奈良朝初め泰澄により霊場が開かれ,その主神を白山妙理権現と称し,伊豆箱根では同じころ僧満願が僧形・俗形・女形の神体を感得して三所権現と称し社にまつり走湯権現ともいわれ,日光山では勝道が平安朝に滝尾権現を感得し,日吉山王でも大宮・二宮・八王子・客人・十禅師・三宮・大行事等多数の祭神に一々権現号を付し,醍醐寺の鎮守清滝明神は密教の善女竜王にほかならないが,権現の名称で親しまれていた。…

【那智山】より

…和歌山県南東部,東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町にある山塊。熊野三山の一つである熊野那智大社(那智山権現)があり,那智山はこの大社の名称でもある。大雲取山(966m)を最高に,光ヶ峰(686m),妙法山(750m),烏帽子(えぼし)山(909m)などを含む那智川上流一帯の山塊で,表面はかなり浸食が進んで壮年期的な山地となり,年間降水量は3500mmを超える多雨地帯である。…

【補陀落渡海】より

…南方海上にあるという観音の浄土,補陀落世界へ往生しようとする信仰により,舟に乗って熊野那智山や四国足摺岬,室戸岬などから出帆すること。信仰のためとはいいながら,実在かどうか定かでない補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの音訳)に向かって決死の船出をするふしぎな宗教現象なので,古来なぞとされている。…

【米良氏】より

…熊野那智山の神職社僧として栄えた豪族で,代々那智実報院(実方院)を本拠とした。その祖は藤原実方中将といわれ,その子,僧泰救以来の熊野別当家の一門に属し,法橋範永を氏の祖とする。…

【池内友次郎】より

…パリ音楽院でフランスの伝統的な作曲法を身につけた池内は,ダンディやビュッセルの多くの音楽理論書を翻訳して日本に紹介するとともに,東京芸術大学音楽学部長時代には,同大学における和声学のカリキュラムを体系化し,またフランスのソルフェージュの教育法もカリキュラムに定着させた。代表作にソプラノと小オーケストラのための《熊野(ゆや)》(1942),《恋の重荷》(1974)がある。【船山 隆】。…

※「熊野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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