デジタル大辞泉 「熊野」の意味・読み・例文・類語
ゆや【熊野/湯谷】
三島由紀夫の戯曲。をモチーフとする1幕の近代劇。昭和34年(1959)「声」誌に発表。初演は昭和42年(1967)、堂本正樹の演出による。「近代能楽集」の作品の一つ。
熊野は紀伊半島南部の汎称であるが、境域は必ずしも明らかでない。古くは
熊野はそのほとんどが山地で、複雑で険峻な峰と谷からなる。外界との交通は困難を極め、閉鎖的僻地として孤立した時代が長かった。この閉鎖性・孤立性は、この地域を宗教的聖地として神聖視させる結果となり、熊野は古代以来、現代まで日本の代表的霊場とされてきた。すなわち熊野三山を中心とする熊野修験道が成立し、「日本第一大霊験所」として、全国から熊野詣の道者が集まった。
「国造本紀」に景行天皇の時大阿斗足尼を熊野国造に定めたとあり、熊野は「熊野国」とよばれて「紀伊国」の外にあった。しかし孝徳天皇の時の国郡制定にあたって、紀伊国牟婁郡となった。神霊の隠れこもるところを「神奈備の
このような熊野信仰はすでに「日本書紀」(神代上)一書に「伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」とあるのにもみることができる。「熊野有馬村」は現三重県熊野市
縄文早期の頃海上交通路として利用され始めたと推定され、現名古屋市周辺で生産されたと考えられる土器が現尾鷲市内の
尾鷲見聞闕疑集(尾鷲市立図書館蔵)に「元和寛永の頃より諸材木を仕出し江戸へ運送し、且炭薪類諸品諸廻船数帆を催し売買の利潤を得、浦辺は鯨鰹鰯を初め、其外諸魚を漁り是亦諸方へ積送り、山海の業年々に増長せり」とあり、ようやく廻船業の発達がみられる。
紀伊半島南端、
熊野灘海岸は紀伊山地がそのまま海に臨んでリアス海岸に等しい岬と入江の交錯する景観を示しているが、同時に典型的な海岸段丘の発達がみられる。つまり隆起と沈降の地形が同時に現れている。志摩海岸がその典型であるが、潮岬やその東の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
紀伊半島南部、和歌山県の東牟婁(ひがしむろ)、西牟婁両郡と新宮(しんぐう)市、田辺(たなべ)市、三重県の南牟婁、北牟婁両郡と熊野、尾鷲(おわせ)両市をあわせた地域。つまり明治初期の廃藩置県以前は紀伊国牟婁郡であった地域の古い呼称である。紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国(きのくに)、南部は熊野国と称し、それぞれ国造(くにのみやつこ)が置かれていた。大化改新後、熊野国は牟婁郡と名称を改めて、紀伊国の一郡となったため、以来熊野という行政上の名称はなくなったが、その後も通称としてこの地域を熊野といっている。江戸時代には、現在の西牟婁郡、田辺市にあたる地域を口(くち)熊野、また東牟婁・南牟婁・北牟婁郡と新宮市、熊野市、尾鷲市の地域を奥熊野と称している。そのほか熊野川、熊野灘(なだ)の地名が現存しているが、それはこの地に熊野三山の神社があることにもよるであろう。また吉野熊野国立公園など新しい名称にも用いられている。
熊野の地名の由来について『古事記』には、神武(じんむ)天皇が熊野村に到着したとき大熊に出会ったとあり、これを熊野の地名の起源とする説もあるが、これは採用できない。『紀伊続風土記(ふどき)』は「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以(もっ)て名づく」とする。谷の深い所は一般にイヤまたはユヤといい、これに祖谷または熊野の字をあてている。県内にも熊野と書いてユヤと読む地名の所が日高郡などにあるが、熊野の場合はこの字をのちにクマノと読むことになったのであろう。山深い所をさす地名であることは間違いない。
熊野は熊野酸性岩の広がる第三紀の地層で、大塔山(おおとうさん)(1122メートル)を最高とする紀伊山地南部の壮年期の山地には、古座川(こざがわ)、熊野川など嵌入(かんにゅう)蛇行をなす深い谷が刻まれている。古座峡や熊野川の支流北山川(きたやまがわ)がつくる瀞峡(どろきょう)はその典型である。山地が海に迫る熊野灘海岸には、出入りの多い沈降海岸と同時に、海岸段丘や七里御浜(しちりみはま)の砂礫(されき)海岸、潮岬、宇久井(うぐい)、勝浦の陸繋島(りくけいとう)など隆起海岸の特徴もみられる。黒潮の影響を受ける熊野地方は、亜熱帯植物群落が各所にある南海型の気候で、山地部は年4000ミリメートルを超える多雨地帯である。海岸は台風の影響を受けることが多く、漁村では屋根を低くし、屋敷林や石垣を巡らした所が少なくない。
三千六百峰といわれた熊野の山地にも、熊野三山への参詣(さんけい)路が古くから通っていた。修験道(しゅげんどう)に始まる大峰山(おおみねさん)や高野山(こうやさん)から、また十津(とつ)川や北山川の谷を伝い、あるいは伊勢(いせ)からの伊勢路や紀州海岸からの大辺路(おおへち)、中辺路(なかへち)などがそれである。なお、これら参詣道や熊野三山、高野山、吉野・大峯(おおみね)などは、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年(平成16)ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。現在海岸線を通るJR紀勢本線と国道42号、また国道311号、168号、169号などいずれも旧参詣路に沿っている。近世には廻船(かいせん)が熊野灘沿岸に寄港地を発達させたが、鉄道の発達とともに衰えている。熊野の産業は山林の木材と海岸の漁業が主で、近世は廻船によって運ばれ、新宮、尾鷲などの集散地が栄え、また古座、太地(たいじ)、九木(くき)の捕鯨は衰えたが、串本(くしもと)、勝浦、長島などは遠洋漁業根拠地となっている。
[小池洋一]
三重県南部、熊野灘(なだ)に面した市。1954年(昭和29)木本(きのもと)町と荒坂(あらさか)、新鹿(あたしか)、泊(とまり)、有井(ありい)、神川(かみかわ)、五郷(いさと)、飛鳥(あすか)の7村が合併して市制施行。2005年(平成17)紀和町(きわちょう)と合併、市域を西南に広げた。市名は牟婁(むろ)郡が7世紀中ごろの大化改新以前熊野国とよばれ、木本は奥熊野の中心であったことによる。海岸は北半分は志摩半島から続く典型的なリアス海岸、南半分は七里御浜(みはま)とよばれる単調な隆起砂礫(されき)海岸をなしている。吉野熊野国立公園の一部で、両海岸の境に海食地形の景勝鬼ヶ城(おにがじょう)がある。背後は紀伊山地の大台ヶ原、大峰(おおみね)山系が迫って平地に乏しく、市域の87%は山林である。JR紀勢本線、国道42号が通じるが、1959年に紀勢東線と西線が結合するまでは和歌山側からの西線の終点で、三重県側からの鉄道の便がなかった。そのほか、熊野尾鷲道路、国道169号、309号、311号が通じる。江戸時代には紀州徳川家の和歌山藩と新宮(しんぐう)藩に属し、木本に代官所が置かれ、1876年(明治9)に三重県の所管となった歴史をもち、いまでも生活圏は和歌山県新宮市に近い。主要産業に紀州材で知られるスギ、ヒノキの林業と製材、二木島(にきしま)港、遊木(ゆき)港を本拠とする遠洋漁業、国営事業として造成された大規模柑橘(かんきつ)園、磯(いそ)釣りなどを含む観光産業がある。熊野古道伊勢路は世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」の一部となっている。有馬地区の花の窟(いわや)神社の綱(つな)かけ神事は県の無形民俗文化財に、鬼ヶ城と獅子(しし)岩は国の天然記念物・名勝に指定されている。旧紀和町地域にある瀞八丁(どろはっちょう)は国の特別名勝・天然記念物。8月に七里御浜の海岸で熊野大花大会が行われる。面積373.35平方キロメートル、人口1万5965(2020)。
[伊藤達雄]
『『熊野市史』(1983・熊野市)』
能の曲目。三番目、鬘(かずら)物。五流現行曲。喜多流は「湯谷」と表記。作者については金春禅竹(こんぱるぜんちく)、観世元雅(かんぜもとまさ)との説もあるが不明。『平家物語』巻十「海道下(かいどうくだり)」を典拠とする。「熊野、松風に米の飯」と、何度見ても飽きることのない春の名作として、秋の『松風』と並称される。平宗盛(むねもり)(ワキ)は、愛人の熊野が東国に病む老母のために帰国を願っているのを許さずにいる。母の使いの朝顔(ツレ)が上京し、母の手紙を読み上げて熊野(シテ)はいとまを請うが、宗盛は今年ばかりの花見の友と、清水(きよみず)寺への供を命ずる。牛車(ぎっしゃ)の作り物が出され、清水への花見の道中と京都の春景色が描写される。心重く花見の宴に連なる熊野は、促されて舞うが、おりからの村雨(むらさめ)に散る花びらを受けて歌を詠む。「いかにせん都の春も惜しけれど馴(な)れし東(あずま)の花や散るらん」。これに感動した宗盛は帰国を許し、熊野はいそいそと都をあとにする。
後世への影響も大きく、山田流箏曲(そうきょく)、河東(かとう)節、長唄(ながうた)、うた沢にもとられ、それぞれ同題の作品がある。三島由紀夫作の舞踊曲としても6世中村歌右衛門(うたえもん)が上演しており、また三島由紀夫の『近代能楽集』の『熊野』は喜劇仕立ての作品となっている。1912年(明治45)に帝国劇場でユンケル作曲のオペラとして上演されたこともある。
[増田正造]
広島県南西部、安芸(あき)郡の町。1918年(大正7)町制施行。吉備(きび)高原の標高200メートル前後に位置し、中央に小盆地が開ける。江戸末期に熊野出身の井上治平が広島藩の御用筆司から筆づくりを学び村民に伝えたことに始まる「熊野筆」の町として有名。全国生産の約8割を占め、伝統的工芸品に指定されている。毛筆のほか、画筆、化粧筆などもつくられ、海外へも輸出する。広島市や呉(くれ)市に近く、住宅団地の開発も進み人口も増加している。1990年広島熊野道路が開通した。面積33.76平方キロメートル、人口2万2834(2020)。
[北川建次]
《平家物語》巻十〈海道下〉に登場する遠江池田の宿(しゆく)の遊女の長の名。平重衡(しげひら)が捕らえられて関東に下る途中この宿に泊まり,その長の娘の侍従という女から歌を贈られるが,その女は,兄宗盛に召されたことのある海道一の歌人であった。これを原拠とし,その女の名を熊野とした能,およびこれに基づく近世邦楽がある。
(1)能 喜多流は〈湯谷〉と書く。三番目物。鬘物(かつらもの)。作者不明。シテは熊野。遠江池田の宿の長の熊野は,平宗盛(ワキ)の側に仕えて,久しく都住いだった。ある日国元から侍女の朝顔(ツレ)が来て,老母の重病を伝える。熊野は宗盛に母の文を披露して暇を願う(〈文(ふみ)ノ段〉)。宗盛は許さず,かえって花見の供を命ずる。東山へ赴く花見の車の中から見ると,道行く人々はみな春の装いに色めき立っているが,熊野の心は重い(〈下歌(さげうた)・上歌(あげうた)・ロンギ〉)。東山では酒宴が始まり,熊野はしぶしぶ立って舞を舞う(〈クセ・中ノ舞(ちゆうのまい)〉)。そのうち村雨が降り出して花が散りかかるのを見ると,また母の命が思いやられ,熊野は涙ながらにその気持ちを詠んだ和歌を短冊にしたため宗盛に見せる。宗盛もさすがに哀れを催して帰国を許すので,熊野は飛び立つように東国へ急ぐ。
文ノ段,車の道行き,舞,村雨の場面から短冊の段,帰国の喜びと見せ場が多い華麗な能で,主人公の哀れさもよく描けているので,昔も今も人気が高い。
執筆者:横道 万里雄(2)山田流箏曲 山田検校作曲。奥の四つ物の一。能の,東山の清水(せいすい)寺に着いたクセの部分以下をとる。その直前のサシの部分も記されるが演奏されない。西沢一鳳の《皇都午睡》に,著者が山田検校のこの曲の演奏を聞きたがったことが記されている。
(3)河東節 9世十寸見河東および5世山彦河良作曲。1849年(嘉永2)初演。《宗盛花見の段》とも。詞章は(2)を借りる。57年(安政4)には,初世宇治紫文および宇治紫欣などの一中節宇治派と掛合で上演,そのとき増補された〈文の段〉の部分は,一中節のほうには残っている。
(4)長唄 3世杵屋(きねや)六四郎(2世稀音家(きねや)浄観)の1894年の作曲。全編ほぼ能に基づく。
(5)歌沢 田畑千壺作詞,歌沢美代吉作曲。大正期の作か。〈音羽嵐の夕しぶき,降るは涙か村雨か……〉と出て,〈花を見捨てて帰る雁がね〉と結ぶ。寅派で行われる。
執筆者:平野 健次
三重県南部の市。2005年11月旧熊野市と紀和(きわ)町が合体して成立した。人口1万9662(2010)。
熊野市南西部の旧町。旧南牟婁(みなみむろ)郡所属。人口1742(2000)。南と西は熊野川と支流北山川を境として和歌山・奈良両県に接する。町域の大部分は紀伊山地に属する山地で,河川沿いのわずかな低地に集落がある。古くから鉱山が開発された地域で,当地の産金は慶長小判や桃山城,日光東照宮の造営に使われたという。昭和初期に一時採掘は中断されたが,1934年より石原産業が紀州鉱山として操業を再開し,第2次大戦中は銅,硫化鉄をおもに産出する鉱山として繁栄した。その後鉱脈が衰えたため78年に鉱山は閉鎖され,深刻な過疎化問題が起こっている。町の北西境を曲流する北山川の峡谷は瀞峡(どろきよう)として知られ,一帯は吉野熊野国立公園に含まれる。近年,湯ノ口に温泉が湧出した。
執筆者:上田 雅子
熊野市北東部の旧市。1954年木本(きのもと)町と荒坂,新鹿(あたしか),泊,有井,五郷(いさと),神川,飛鳥の7村が合体,市制。人口2万0898(2000)。市域の大部分は紀伊山地の山林だが,南東部は熊野灘に臨む。海岸線の北半はリアス海岸,南半は七里御浜(しちりみはま)と呼ばれる単調な砂礫(されき)海岸で,両者の接合部に中心市街地木本がある。かつて熊野三山の神領であったが,近世には紀州藩領となり,代官所がおかれた。1940年に紀勢西線が紀伊木本駅(現,熊野市駅)まで通じたため,和歌山,大阪との関係が深かったが,紀勢本線の全通(1959),国道42号線(熊野街道)矢ノ川(やのこ)新道の開通(1967)で,県中央との連絡が容易になった。良質の杉材,山腹斜面のミカン,沿岸の漁獲物が主産物で,那智黒石を原料とするすずり石,碁石も特産物である。吉野熊野国立公園に含まれ,市街地北東の隆起海食崖鬼ヶ城,砂防松林が続く七里御浜,その北部の獅子巌や伊弉冉(いざなみ)尊をまつる花窟(はなのいわや)神社,二木島の海中公園,奥瀞峡の七色ダムなどがみどころである。
執筆者:成田 孝三
紀伊半島南部一帯をいい,現在の和歌山,三重,奈良の3県にまたがる。紀伊国牟婁(むろ)郡(明治初年に東西南北の4郡に分割)がほとんどであるが,大和国吉野郡南部を含めることもあった。クマノとは霊魂の籠(こも)る地との意味があるらしく,早く《日本書紀》神代巻に,伊弉冉(いざなみ)尊が火神を生むとき灼(や)かれて死んだので,紀伊国の熊野に葬ったとある。やがてこの地に熊野三山と称される霊場が開かれると,神秘的な伝承が数多く発生し,死者の霊は遠隔の地からもこの熊野へ行くものだとか,熊野へ行けば死者の霊に会えるとかの信仰を生んだ(熊野信仰)。山岳が重畳し,交通きわめて不便であったにもかかわらず,熊野灘に臨む海岸美に,瀞(どろ)峡,那智滝などの景勝地や,湯ノ峰,湯ノ川などの温泉の存在も手伝って,熊野三山参詣のためにはるばる足を運ぶ人が,古代末期から中世にかけて増大した(熊野詣(くまのもうで))。三山とは本宮(ほんぐう),新宮,那智をさすが(熊野大社),いずれも小都市を形成し,なかでも熊野川河口にある新宮は交通の要地であり,ここには門前町と商工業の市街とが結びついて発展した。熊野川を下すいかだにより山間の木材が新宮に集められ,近世には木材の積出し港としても有力であった。紀伊はもともと〈木の国〉という命名から起こったのだが,なかでも雨の多い熊野の地は良質の木材の産地として名声を高めた。また中世には熊野水軍の活躍がこの地の海岸一帯にみられ,その統率者として田辺(現,和歌山県田辺市)の熊野別当が一時は優勢であった。近世に入って水軍はとだえ,代わって太地(たいじ)を中心とした捕鯨業が有力となり,その進んだ技術により近世日本の漁業の指導的地位に達したが,明治末には衰微した。現在は吉野熊野国立公園に含まれる。熊野の霊場とここへの参詣道は,2004年に〈紀伊山地の霊場と参詣道〉の一部として世界文化遺産に登録された。
執筆者:萩原 龍夫
広島県南部,安芸郡の町。人口2万4533(2010)。吉備高原の山間地にあり,町の中央を瀬野川の支流熊野川が北流,二河(にこう)川が南流し,川沿いの沖積地に集落が発達している。耕地が乏しく,零細農家が多いため古くから農閑期には出稼ぎが盛んで,帰郷するとき奈良地方の筆や墨を仕入れて行商する者が多かった。伝統産業の熊野筆はそれを背景に1846年(弘化3)ころ広島藩の御用筆司や摂津有馬から製筆法を学んだのがはじまりと伝えられている。明治以降,学校教育の普及で筆の需要が増大し,現在では約100社の事業所があり,全国生産に占める割合は毛筆80%,画筆70%,工業用や化粧用のはけ70%に達し,海外へも輸出されている。近年,広島市のベッドタウンとして宅地化が進み,大規模団地が造成されている。
執筆者:清水 康厚
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…古来,良材を産し,素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子五十猛命(いたけるのみこと)が韓(から)より木種をもたらしこの国に播種したという《日本書紀》一書の所伝や,宮殿造営のための採材の忌部(いんべ)が住んだという《古語拾遺》の説は,木国の名の由来を物語るものである。その他記紀の伝える日前神の創祀神話,神武天皇の名草戸畔・丹敷戸畔の討伐や熊野上陸に関する説話などは,この国と大和政権との古い関係をうかがわせる。国造は紀伊・熊野の両国造があり,それぞれ紀直氏,熊野直氏を任じた。…
…和歌山県の熊野山(熊野三山,熊野三所と呼ぶことが多い)を中心とした民俗的信仰。熊野地方は近畿の南端に突出した山岳地帯であるが,ふもとには大河がうねって流れ,しかも洋々たる大海を見渡すことのできる地である。…
…蔵王は密教の仏尊だが当時すでに日本の山岳信仰と習合し神祇化されていたのである。院政期,上皇はじめ公家貴族の参詣で脚光をあびた熊野は早玉宮・結宮を合して両所権現,家津御子を入れて熊野三所権現と称し,眷属神である五所王子・四所宮を合して十二所権現とも呼んだ。加賀白山では奈良朝初め泰澄により霊場が開かれ,その主神を白山妙理権現と称し,伊豆箱根では同じころ僧満願が僧形・俗形・女形の神体を感得して三所権現と称し社にまつり走湯権現ともいわれ,日光山では勝道が平安朝に滝尾権現を感得し,日吉山王でも大宮・二宮・八王子・客人・十禅師・三宮・大行事等多数の祭神に一々権現号を付し,醍醐寺の鎮守清滝明神は密教の善女竜王にほかならないが,権現の名称で親しまれていた。…
…和歌山県南東部,東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町にある山塊。熊野三山の一つである熊野那智大社(那智山権現)があり,那智山はこの大社の名称でもある。大雲取山(966m)を最高に,光ヶ峰(686m),妙法山(750m),烏帽子(えぼし)山(909m)などを含む那智川上流一帯の山塊で,表面はかなり浸食が進んで壮年期的な山地となり,年間降水量は3500mmを超える多雨地帯である。…
…南方海上にあるという観音の浄土,補陀落世界へ往生しようとする信仰により,舟に乗って熊野那智山や四国足摺岬,室戸岬などから出帆すること。信仰のためとはいいながら,実在かどうか定かでない補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの音訳)に向かって決死の船出をするふしぎな宗教現象なので,古来なぞとされている。…
…熊野那智山の神職社僧として栄えた豪族で,代々那智実報院(実方院)を本拠とした。その祖は藤原実方中将といわれ,その子,僧泰救以来の熊野別当家の一門に属し,法橋範永を氏の祖とする。…
…パリ音楽院でフランスの伝統的な作曲法を身につけた池内は,ダンディやビュッセルの多くの音楽理論書を翻訳して日本に紹介するとともに,東京芸術大学音楽学部長時代には,同大学における和声学のカリキュラムを体系化し,またフランスのソルフェージュの教育法もカリキュラムに定着させた。代表作にソプラノと小オーケストラのための《熊野(ゆや)》(1942),《恋の重荷》(1974)がある。【船山 隆】。…
※「熊野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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