熊野(読み)くまの

  • 紀伊半島

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紀伊半島南部、和歌山県の東牟婁(ひがしむろ)、西牟婁両郡と新宮(しんぐう)市、田辺(たなべ)市、三重県の南牟婁、北牟婁両郡と熊野、尾鷲(おわせ)両市をあわせた地域。つまり明治初期の廃藩置県以前は紀伊国牟婁郡であった地域の古い呼称である。紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国(きのくに)、南部は熊野国と称し、それぞれ国造(くにのみやつこ)が置かれていた。大化改新後、熊野国は牟婁郡と名称を改めて、紀伊国の一郡となったため、以来熊野という行政上の名称はなくなったが、その後も通称としてこの地域を熊野といっている。江戸時代には、現在の西牟婁郡、田辺市にあたる地域を口(くち)熊野、また東牟婁・南牟婁・北牟婁郡と新宮市、熊野市、尾鷲市の地域を奥熊野と称している。そのほか熊野川、熊野灘(なだ)の地名が現存しているが、それはこの地に熊野三山の神社があることにもよるであろう。また吉野熊野国立公園など新しい名称にも用いられている。
 熊野の地名の由来について『古事記』には、神武(じんむ)天皇が熊野村に到着したとき大熊に出会ったとあり、これを熊野の地名の起源とする説もあるが、これは採用できない。『紀伊続風土記(ふどき)』は「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以(もっ)て名づく」とする。谷の深い所は一般にイヤまたはユヤといい、これに祖谷または熊野の字をあてている。県内にも熊野と書いてユヤと読む地名の所が日高郡などにあるが、熊野の場合はこの字をのちにクマノと読むことになったのであろう。山深い所をさす地名であることは間違いない。
 熊野は熊野酸性岩の広がる第三紀の地層で、大塔山(おおとうさん)(1122メートル)を最高とする紀伊山地南部の壮年期の山地には、古座川(こざがわ)、熊野川など嵌入(かんにゅう)蛇行をなす深い谷が刻まれている。古座峡や熊野川の支流北山川(きたやまがわ)がつくる瀞峡(どろきょう)はその典型である。山地が海に迫る熊野灘海岸には、出入りの多い沈降海岸と同時に、海岸段丘や七里御浜(しちりみはま)の砂礫(されき)海岸、潮岬、宇久井(うぐい)、勝浦の陸繋島(りくけいとう)など隆起海岸の特徴もみられる。黒潮の影響を受ける熊野地方は、亜熱帯植物群落が各所にある南海型の気候で、山地部は年4000ミリメートルを超える多雨地帯である。海岸は台風の影響を受けることが多く、漁村では屋根を低くし、屋敷林や石垣を巡らした所が少なくない。
 三千六百峰といわれた熊野の山地にも、熊野三山への参詣(さんけい)路が古くから通っていた。修験道(しゅげんどう)に始まる大峰山(おおみねさん)や高野山(こうやさん)から、また十津(とつ)川や北山川の谷を伝い、あるいは伊勢(いせ)からの伊勢路や紀州海岸からの大辺路(おおへち)、中辺路(なかへち)などがそれである。なお、これら参詣道や熊野三山、高野山、吉野・大峯(おおみね)などは、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年(平成16)ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。現在海岸線を通るJR紀勢本線と国道42号、また国道311号、168号、169号などいずれも旧参詣路に沿っている。近世には廻船(かいせん)が熊野灘沿岸に寄港地を発達させたが、鉄道の発達とともに衰えている。熊野の産業は山林の木材と海岸の漁業が主で、近世は廻船によって運ばれ、新宮、尾鷲などの集散地が栄え、また古座、太地(たいじ)、九木(くき)の捕鯨は衰えたが、串本(くしもと)、勝浦、長島などは遠洋漁業根拠地となっている。[小池洋一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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