サロン(その他表記)salon

翻訳|salon

デジタル大辞泉 「サロン」の意味・読み・例文・類語

サロン(〈フランス〉salon)

洋風の客間。応接室。また、ホテル・客船などの談話室。サルーン。
ヨーロッパ、特にフランスで、上流階級の婦人が、その邸宅の客間で開いた社交的な集まり。
美術の展覧会。
美容や飲食などの接客を主とする業種・店舗につける語。「ビューティーサロン
[類語](1ロビー広間控え室休憩室待合室・談話室・ホールラウンジ/(2団体集団一団一行いっこうグループサークルパーティーチームクラブ

サロン(〈インドネシア〉saron)

インドネシアの打楽器。木製の台の上に青銅の板を木琴状に並べたもので、つちでたたいて奏する。音域により2~4種あり、ガムランの中で主旋律を受け持つ。

サロン(〈マレー〉sarong)

インドネシア・マレーシア・南インドなどで、男女ともに用いる幅広い筒状の腰衣。余った部分をひだに整えて腰にはさんで着用する。

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精選版 日本国語大辞典 「サロン」の意味・読み・例文・類語

サロン

  1. 〘 名詞 〙 ( [フランス語・英語] salon )
  2. 西洋風の邸宅の客間。応接間。談話室。
    1. [初出の実例]「各房の内、大なるは客座『シッチングルーム』仏にて『サロン』 寝室 ベットルーム〈略〉皆具す」(出典:米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉一)
  3. 客船の、主に上級の船客が共通に用いる、休憩、談話などのための大きな部屋。
    1. [初出の実例]「或時サローンに這入(はい)ったら」(出典:夢十夜(1908)〈夏目漱石〉第七夜)
  4. ヨーロッパ、特にフランスの上流社会で、邸宅の客間(サロン)で女性が主催して開いた、社交的な集まり。芸術・学問・政治などが論じられた。転じて、芸術家や学者などの集まりをいう。
    1. [初出の実例]「その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家達のサロンとなって」(出典:或る女(1919)〈有島武郎〉前)
  5. ( [フランス語] salon ) フランスの美術展、特にパリのサロン‐ドートンヌをいう。
    1. [初出の実例]「巴里に帰って初めてサロンに出品し」(出典:自然と人生(1900)〈徳富蘆花〉風景画家コロオ)
  6. 美容院や喫茶店、また洋風の酒場、バー、キャバレーなどの名として用いられる。
    1. [初出の実例]「『サロン春』といふ店へ入りたくて」(出典:鍵のかかる部屋(1954)〈三島由紀夫〉)

サロン

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] sarong 元来はマライ語で袋、筒の意 ) インドネシア、ポリネシア、マレーシア、スリランカ地方などの民族衣装。幅約一メートル、長さ三~四メートルの綿布または絹布を染色したもので、通常、腰に巻く。男女ともに着用する。〔紅毛雑話(1787)〕

サロン

  1. 〘 名詞 〙 ( [インドネシア語] saron ) 旋律打楽器の一つ。インドネシアの民族楽器で、青銅板を木琴状に並べ、一オクターブずつ四オクターブにわたる四つのサロンが一セットになっている。

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改訂新版 世界大百科事典 「サロン」の意味・わかりやすい解説

サロン
salon

フランスの近世住宅の中心をなす客間をいう。オテル形式の住宅では前庭(中庭)に設けられた入口を入り,前室を経て到達する。ほとんどの場合サロンは庭園に面しており,庭園に向かって張り出している場合も多い。家具調度も接客用に吟味されたものが用いられ,部屋の形は四角だけでなく,円形,多角形,楕円形などをなす場合がある。近世の住宅が居ごこちのよさを追求したところに生じた形式ということができ,中世住宅の大きな広間と現代住宅の応接間の中間の形式であり,時代的にも両者の中間期の産物である。フランス以外の諸国の住宅でも,同様の接客室をサロンと呼ぶことがある。
執筆者:

〈客間〉を意味する〈サロン〉は,やがてその客間で催される〈会合〉の意味になった。文人・学者を集めた文化サークルは中世にもあり,マルグリット・ド・ナバールの宮廷にもその例が見られるが,本来の意味でのサロンはイタリア起源で,17世紀にリヨンを経てパリに伝わったものである。それは,主として貴族や金持ちの妻が(未婚女性や男性の文人を中心とする場合もあるが)日を定めて客間を開放し,文化万般についての自由で洗練された会話を楽しみながら,食事をし,朗読を聞き,ときには音楽や軽演劇の鑑賞もするという,きわめてフランス的な集いであった。そこでは,美しく機知に富み優雅で上品な婦人を中心に,言葉を磨き趣味を養い,芸術,宗教,文学を論じたのである。さらに時事問題が取り上げられることもあり,時の政治に影響を及ぼすこともあった。このように,フランス語の特色である明晰性も,フランス文学の特徴といわれる社交性や〈会話の精神〉も,サロンの婦人たちを通じて維持されたといえよう。また時代精神の中に見られる諸要素(17世紀における科学革命とバロック精神,18世紀における啓蒙主義とロココ趣味など)を融合し,その接点となったのもサロンである。

 フランスでの起源は,宗教戦争(1562-98)の惨禍を忘れようとしたアンリ4世の宮廷にあるといわれるが,その背後にはルネサンス以後の我の自覚,自由検討の精神,女性の地位の向上などがうかがえよう。しかし,最初のサロンと称しうるのは,ランブイエ侯夫人カトリーヌ・ド・ビボンヌCatherine de Vivonne(1588-1665)が1610年ころルーブル宮殿の近くにあった自邸で開いたものである。リシュリュー,コンデ大公,コルネイユらを常連としたこのサロンは,約半世紀の間繁栄した。1629年に始まったコンラールValentin Conrart(1603-75)のサロンは,ボアロベールやシャプランの集会所となり,アカデミー・フランセーズ誕生(1635)の母体となった。フロンドの乱(1648-53)のころには政治サロンも開かれたが,以後はスキュデリー嬢のサロンを中心に,フランス語の洗練に主力が注がれた。それが行き過ぎ,あまりにも気取った表現が乱用されたので(このような気取りをプレシオジテpréciositéと呼ぶ),モリエールらの嘲笑を招く結果にもなった(《プレシューズ(才女気取り)》など)。この時期には,パリをまねた地方都市のサロンも多くなった。17世紀にはそのほか,ラ・ロシュフーコーの《箴言集》や,J.deラ・フォンテーヌの《寓話》を生み出したサブレ夫人のサロン,多少軽佻な趣があったスカロン夫人Mme.Scarron(1635-1719。のちのマントノン夫人marquise de Mantenon)のサロンなどがあり,17世紀末には自由思想家(リベルタン)たちを集めたニノン・ド・ランクロNinon de Lenclos(1620-1705)のサロンも出現した。

 ルイ14世が死んで(1715)摂政時代になると,〈古代人と近代人の優劣論争〉(新旧論争)などが行われたランベール夫人marquise de Lambert(1647-1733)のサロン(1710ころ-33),華やかな文学遊戯や奔放な風俗で名高いデュ・メーヌ公夫人duchesse du Maine(1676-1753)のサロン(パリ南郊のソーSceauxの邸で開かれた)などが現れる。18世紀のサロンは概して啓蒙思想家(フィロゾーフ)たちの集会場の観を呈する。それは新思想の温床であり,政治・宗教の批判,科学上の新発見などが話題の中心となる。アンビル元帥夫人やエギュイヨン夫人のサロン,ブフレール夫人を中心としたル・タンプルのサロン,オペラ上演の日に開かれたパレ・ロアイヤルのサロンなども思想家,政治家を集めたが,文学的にはタンサン夫人marquise de Tencin(1682-1749。ダランベールの母),デファン夫人(ルソー以前の古典派を代表する),レスピナス嬢(デファン夫人の下から分離独立して客をさらった,前期ロマン派の代表),ジョフラン夫人Mme.Geoffrin(1699-1777。〈サン・トノレ街の王国〉を築いた),デピネ夫人,キノー嬢らのサロンが有名である。彼女たちはおおむね進歩的なブルジョアジーの出身で,百科全書派(アンシクロペディスト)や美術家を保護した。18世紀後半にはドルバック男爵のサロン(百科全書派の中心地),エルベシウス夫人,リュクサンブール元帥夫人らのサロンがあり,革命直前にはシエイエス,コンドルセ,タレーランなども出入りしたネッケル夫人Mme.Necker(1739-94。財務長官の妻)のサロンがにぎわった。フランスでは,革命とナポレオン戦争を通じてサロンは凋落するが,そのころベルリンでは,ドロテーア・メンデルスゾーン(哲学者M.メンデルスゾーンの娘),ファルンハーゲン・フォン・エンゼRahel Varnhagen von Ense(1771-1833),ヘルツHenriette Julie Herz(1764-1847)など(いずれもユダヤ女性)のサロンが開かれ,ドイツ・ロマン主義の発生基盤を提供した。

 19世紀初頭フランスで再開されたサロンは,社会状況の変化のため影響力は減少したが,スイスのコペで開かれたスタール夫人(ネッケルの娘)のサロンなどはさまざまな国籍の文化人を集めた国際色豊かなものであった。この時期にはなおタリアン夫人,シュアール夫人,ジャンリス夫人らのサロンもあり,文学的にはシャトーブリアンらが訪れたルプランス・ド・ボーモン夫人のサロン(1800-03)が有名である。ロマン主義時代にはユゴーやノディエもサロンを開き,七月王政期にはジラルダン夫人のそれも知られるが,最後の文学サロンといわれたのはレカミエ夫人dame Récamier(1777-1849)のサロンである。第二帝政期になると,公女マティルドのサロン(フローベールゴンクール兄弟などが出席),プルタレス伯夫人のサロンなど貴族的サロンが再び現れ,第三共和政下ではジュリエット・アダン夫人,劇作家アルマン・ド・カイヤベなど作家自身の開くサロンが目だつようになる。文学サロンは現在も存在するが,内容は多様化し,規模は小さくなっている。
執筆者:

美術史の用語として,サロンはフランスの公の機関によって行われる定期的な展覧会をさす。しばしば〈官展〉と訳される。出品対象は絵画,彫刻,建築,素描,版画など。この名は,展覧会がルーブル宮殿の〈サロン・カレsalon carré(四角の間)〉で開かれたことに由来する。最初のサロンは,J.B.コルベールの発案によって王立アカデミーの主催で1667年に開かれ,以来2年ごとに行われたが,やがて不規則になり,1737年より再び隔年ないしは毎年開かれるようになった。出品者は17~18世紀を通じてアカデミーの会員か準会員,あるいは美術学校の教官に限られ,その範囲では自由に出品できたが,1748年より出品作の検閲が始まり,おもに道徳面でのチェックを行った。91年,フランス革命に伴う改革があり,出品者をアカデミー関係者に限るという条項を撤廃し,一時自由に出品できたが,その代りに98年より出品者の投票による審査員を設けた。19世紀になると審査員はアカデミーからの指名制になり,その規準は厳しく,保守的価値観に固執して,しばしばロマン派や写実主義の芸術家たちを排除した。これに対する巻返しも激しく,二月革命(1848)後のサロンは無審査とし,翌年から革命側に好意的な人々を審査員に選ぶなどしたが,ナポレオン3世の政権獲得とともに再び保守的傾向に戻った。1863年のサロンは5000点の応募に対し3000点を落選させるという厳しいものであった(前回は4000点入選)ため,ナポレオン3世の助言で落選展Salon des refusés(マネ,ピサロ,ファンタン・ラトゥールらが出品)が行われ,結果としてサロン批判の声を高めることとなった。74年にはサロン入選を果たせない若い世代が印象派展を企画し,81年にはフランス芸術家協会Société des artistes français,84年にはアンデパンダン展Salon de la Société des artistes indépendantsなど,次々に独立分派活動が発足した。20世紀になってからは個性の乏しい展覧会の一つとして存続するにすぎなくなった。

 サロンの出品作は1675年より目録に記載されているが,このほかに批評家たちが自分の批評を一種の案内のようにして売ったり,開催中に新聞・雑誌に掲載したことから,〈サロン批評critique des Salons〉というジャンルが形成された。これは観客への説明や啓蒙から,美学上の論争まで多岐にわたるが,著名なものにグリムFriedrich Melchior von Grimm,D.ディドロ,プランシュGustave Planche,T.トレ,C.ボードレール,T.ゴーティエ,ゴンクール兄弟によるものがある(美術批評)。

 サロンの果たした役割はおおよそ以下のとおりである。第1は,それまで個別に注文を受け制作していた芸術家が一定期間公の場に自分の最良の新作を発表でき,他の芸術家との交流,影響,対立意識が芽生え,比較されることで芸術家としての自覚が生まれたこと。第2に作品を購入できない庶民も含めて,人々に広く芸術に接する機会を与えたこと。第3にブルジョアジーの興隆と相まって,注文制作という枠が取り払われ,サロンの場が芸術家と顧客をつなぐ市場になっていったこと。第4にアカデミーを通じてサロンを支配することで,芸術の領域を政治的にコントロールするところとなり,為政者の目的がかなりの範囲で可能となったこと。これら諸点について,サロン批評はその問題点を明らかにし論争を展開したことで,その役割を評価しうる。他の各国においてもアカデミーがサロンを開き,日本では文展,帝展(官展)などがそれに当たる。
執筆者:


サロン
saron[ジヤワ]

ジャワのガムランの中で用いられる青銅製の旋律打楽器。サルンsarunとも呼ばれる。数枚の肉厚・長方形の青銅板の両端にそれぞれ孔をあけ,共鳴体である箱形の木の台に取り付けた支柱に差し込む。木または水牛の角でできた桴(ばち)で青銅板をたたく。よく通る力強い音色をもつ。中部ジャワの大編成のガムランでは,1オクターブずつ音高の違う大中小のサロンが用いられ,低音のものは定旋律を,高音のものは細かい修飾旋律を奏する。同種の楽器がバリではガンサ・ジョンコと呼ばれ,幾種類かのガムランに用いられてきたが,近年ではグンデルに取って代わられてきている。
執筆者:



サロン
sarong

東南アジアマレー半島からインドネシアにかけて男女に用いられる腰巻衣の一種。語源はマレー語で袋を意味するsārungに由来。長さ2~4m,幅1mの布の両端を縫い合わせ筒状にして体を入れ,あまった布をひだをとったり折り返したりして腰にはさみこんで着用する。同種のものをミャンマーではロンジーlongyi,タイではパーシンphâ sînなどと呼ぶが,素材,文様,着装法など国や民族で異なり,それぞれに特色がある。また,布を縫い合わせないで単に巻きつけて着るものにジャワ島のカイン・パンジャンkain panjang,タヒチ島のパレオpaléoなどがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サロン」の意味・わかりやすい解説

サロン(文化)
さろん
salon

本来は、客間を意味するフランス語で、イタリアのサローネsaloneから転化したもの。歴史的には、サロンとは、貴族やブルジョアの夫人が日を定めて客間を開放し、同好の人々を招き、文学・芸術・学問その他の文化全般について、自由に談話を楽しむ社交界の風習をいう。

[福井芳男]

文学

17世紀フランスで確立された、一つのタイプをもつ文学で、風習、文体などにさまざまの影響を与えた。

 ランブイエ夫人のサロンが非常に成功したのにつれて、17世紀中葉から後半にかけて、多くの女性が自邸にサロンを開き、貴族、上級ブルジョア層、文人たちがそこに出入りした。このサロンの流行が、ことば、風俗の洗練に尽くした功績は大きかった。著名なサロンで多くの詩人たちが自分の作品を読み、そこでの評判がその作品の成功・不成功を決することにもなった。しかも、サロンにおいて人を楽しませ、喜ばせる独自の文学がここで発達することとなったのである。たとえば、サロンの常連が各自中世の伝説騎士の名をとり、古語で手紙を交換する。あるいは古い詩形であるロンドーを復活させ、すべての詩人が競作することも流行した。こういった流行のほかにも、書簡、短くて軽い詩などに独特の軽妙さ、軽い皮肉、優雅さが盛り込まれる文学作品が支配的になった。ボアチュールがその代表的作家とみなされるが、このほかにもサラザンJean-François Sarasin(1615―54)、バンスラードIsaac de Benserade(1613?―91)などが名高かった。

 サロンの主人は女性であるゆえ、女主人やそこに集まる女性たちをたたえる恋愛詩が多いのは当然であるが、それも熱烈な、誠心を告げるといったたぐいのものではなく、気の利いた軽い詩句でなければならなかった。まじめなようで、しかも浮気な恋愛詩が好まれたのである。これが、中世以来受け継がれた恋愛詩、理想の女性にあこがれ、ただひたすら女性をたたえ、仕えるという恋愛詩の伝統から、フランスの詩を解放するのに大いに役だった。またサロンの人々に容易にわかることばを用いる必要から、衒学(げんがく)趣味を排し、新奇な表現を拒み、あまりにも奇異な隠喩(いんゆ)を捨て、わかりやすい優雅なフランス語をつくることに大いに貢献したといえる。ただ、狭いサークルでの会話、文章といった性格上、用語を洗練させたあまり、独特なことば遣いを流行させ(とくにスキュデリ嬢の周辺)、プレシューprecieux(気どった)とよばれる風潮をつくった。その反面、文学に扱う題材が、サロンでの小さな事件、前記の恋愛遊戯に限られて、政治、宗教あるいは深刻な哲学的問題などが排除されてしまったため、文学の次元が著しく狭くなってしまったことは否めない。しかしこのサロンで心理分析が進歩し、人間の行動を支える心理的メカニズムの解明が進んで、いわゆるモラリスト文学が発生したことは特記する必要があろう。ラ・ロシュフコーの『箴言(しんげん)集』はサブレ夫人Madame de Sablé(1599―1678)のサロンでできたもので、後のラ・ブリュイエールボーブナルグ、シャンフォールら著名なモラリストたちの作品はみなサロンで発表され、論じられ、サロン文学の一種といえよう。

 また17世紀末からサロンの女性たちの関心が科学的な問題に向かったので、フォントネルらがやさしく科学的諸問題の解説を行い、それが近代科学の浸透に役だち、18世紀のデファン夫人、タンサン夫人marquise de Tencin(1682―1749)らのサロンで啓蒙(けいもう)思想の諸作品が生まれたこと、ロマン派文学の胎動がスタール夫人、レカミエ夫人のサロンでつくられたことなどを考えると、狭い意味でのサロン文学の枠を越えて、フランス文学・思想の潮流のなかで演じたサロンの役割は大きかったのである。

[福井芳男]

美術

美術用語としてのサロンは、公募展、官展の意味で用いられる。17世紀、ルイ14世時代、王立美術アカデミーの設置を契機として開催されることとなったいわゆるル・サロン(官展)がその最初で、展覧会場としてルーブル宮の「サロン・カレ(方形の間)」があてられたためにこの名が一般化した。この展覧会は1667年第1回展を開催し、1675年まで隔年ごとに開催され、その後1699年、1704年の開催後は1725年まで中断する。その後、比較的頻繁に開催され、1737~48年は例年、48~91年は隔年展となっている。出品者はアカデミー会員および招待者に限られていたようであるが、18世紀にはしだいに出品数は増加して数百点を数え、訪問者も増加し、美術の批評と大衆化という両面で重要な役割を果たした。フランス革命後、出品は自由化され、そのかわりに審査制度が設けられた。しかし、その後の出品者の増加、審査に対する不満から、1863年には「落選展」Salon des Refusésが開かれ、1881年には政府およびアカデミーから独立したフランス国民美術協会による「サロン・ナショナル」が生まれる。さらに完全な出品の自由、審査の撤廃を趣旨とする「アンデパンダン展」Salon des Indépendantsが設立される。20世紀には「サロン・ドートンヌ」「サロン・ド・メ」など、そのほか多くのサロンが生まれた。

 サロンは本来官展として生まれたため、本質的に保守的、アカデミックであり、しばしばそれが在野の画派やそれを支持する批評との間に摩擦を生み、しばしば新しい優れた画家を無視する結果となったが、芸術家たちの熾烈(しれつ)な競合の場としても、多くの大衆への展示といった点でも、近代美術史のうえに果たした役割はきわめて大きい。さらに、次々に成立したサロンはそれぞれ特徴をもち、たとえばアンデパンダン展はスーラやアンリ・ルソーを、サロン・ドートンヌはフォーブの画家たちを、1939年創設の「サロン・デ・レアレリテ・ヌーベル」Salon des Réalités Nouvellesは非具象の画家たちを送り出すなど、それぞれの時代の新たな傾向を世に問う役割をも担った。

[中山公男]


サロン(打楽器)
さろん
saron

インドネシア、ジャワの旋律打楽器。装飾を施した木製の共鳴台の上に金属製(多くは青銅)の分厚い板を6~8枚、木琴状に並べたもの。木または角(つの)製の槌(つち)でたたき、打奏後、一方の手で板を押さえ消音しながら奏する。ガムランとよばれる打楽器を中心とした合奏のなかで、大小2~4種(音域の低い順に、サロン・ドゥムン、サロン・バルン、サロン・パヌルスなどとよぶ)が、それぞれスレンドロ音列用、ペロ音列用に調律され、2台1組(計4~8台)で使われ、主要旋律およびその分割装飾を受け持つ。調律には、板の裏面の両端または中央を削る。

[川口明子]



サロン(腰衣)
さろん
sarong

マレー半島からインドネシア諸島にかけて広く着用されている腰衣の一種。サロンはマレー語で「筒鞘(つつざや)」を意味する。普通、幅1メートル、長さ3メートルから4メートルほどの多彩な1枚の布で、脇(わき)にしわを寄せ、スカート風にウエストに巻き付けて用いる。地方によっては、筒形に縫い合わせたものを着用することもある。用布には、多彩な文様が織り出されたり染め出されたりした上質綿布、絹布が使われる。インドネシアではバティック(ジャワ更紗(さらさ))のサロンが特徴的。丈は腰で調節されるが、膝(ひざ)からくるぶしまでの間の長さが普通である。男女ともに用いられる。

[深井晃子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サロン」の意味・わかりやすい解説

サロン
Salon

フランス語で「客間」の意。
(1) 特にフランスで 17~18世紀に流行した,教養ある上流婦人の客間で催された社交的集会。フランスでは中世以来,サロンが政治や文学で重要な役割を果たしているが,イタリアの影響下にサロン文学が開花するのは 17世紀初め,ランブイエ侯爵夫人のサロンにおいてである。その後これをまねた数多くのサロンが起こり,アカデミー・フランセーズへと発展するものも現れた。サロンでは詩歌や恋愛や道徳が話題となり,文学作品もまずサロンで披露された。17世紀のサロンは当時の文学に優雅さや社交性を与えたが,行き過ぎて虚飾に傾いたことも否めない(→プレシオジテ)。18世紀になると思想的傾向を強く示すようになり,ベルナール・ル・ボビエ・ド・フォントネルボルテール,ドゥニ・ディドロなどが政治,宗教,科学を好んで論じ,啓蒙主義運動(→啓蒙思想)の温床となった。19世紀以後,文学に与える影響は小さくなったが,依然としてフランス文学の一大背景となっている。
(2) 美術分野で 17~18世紀の美術品の披露,鑑賞の場をさし,のち定期的に開催される展覧会をいうようになった。1667年にジャン=バティスト・コルベールの企画によって,パレ・ロワイヤルの中庭で一定期間,生存作家の作品を展観したのがこの意味でのサロンの始まりであり,最初のサロン・カタログは 1673年に出された。ルイ15世治下,1725~73年の間に,ルーブル宮殿のサロン・カレで 25回の展覧会を開催。この展覧会は,アカデミーに所属する作家のみが出品できる官展であった。18世紀後半には,1764年にドイツのライプチヒ,1768年にイギリスのロンドンなどヨーロッパ各地でサロンが開かれた。19世紀になるとほぼ毎年開催され,美術評論もサロン評という形式をとることが多かった。1881年に,ジュール・フェリーがサロンの審査に役所が介入することを廃止し,サロン出品者から選ばれた 90人の審査委員が作品審査をすることになり,サロン・デ・ザルチスト・フランセと称した(→アンデパンダン展)。今日パリで開催されるおもなサロンに,春季はサロン・デ・チュイルリー(1923創立),サロン・ド・メ(1945創立)など,秋季にはサロン・ドートンヌ(1903創立)などがある。(→フランス美術

サロン
saron

インドネシアのガムラン合奏音楽で主要旋律用に使われる楽器。木製の台の上に並べた板状の金属,木,あるいは竹を1本の槌 (つち) で打って鳴らす仕組みで,音域は1オクターブ。金属 (青銅) 製が最も一般的。ジャワ島のサロンには大中小3種あり,それぞれサロン・ドムン,サロン・バルン,サロン・リチェと呼ばれる。もっとも狭義のサロンはこのうちの中型のものである。演奏の困難さは右手の打奏を左手が音が変るたびに追いかけて素手で音板をはさんで押えて消音することにある。大中小が同時に奏されるとオクターブ重複になる。バリ島にはサロンはなく,サロンに似たガンサがある。

サロン
sarong

東南アジアのマレー半島からインドネシア諸島に及ぶ地域の民族服で,一種の腰布。幅約 1m,長さ2~4mの矩形の1枚の布を,脇にひだを寄せ,スカート状にウエストに巻きつけて着用する。カイン kainと呼ばれる下ばきが発達して,外衣になったものとされている。用布は多彩な織,染模様のある上質綿布。また日本では,サロン用として東南アジアに輸出する厚地の平織綿布を単にサロンと呼ぶ。

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百科事典マイペディア 「サロン」の意味・わかりやすい解説

サロン(社会)【サロン】

フランス語で客間。主に17―18世紀フランスで文学者,芸術家,上流婦人が優雅な会話を楽しんだ集まり,およびその場所をさす。さまざまな人士の出会いの場ともなり,古典主義文学や啓蒙思想をはぐくむ役割も果たした。ランブイエ夫人のサロンが最初といわれる。また,美術では1667年以来,王立アカデミーの展覧会がルーブル宮の〈サロン・カレ(四角の間)〉で主として催されたことから,毎年定期的に開かれる美術展をサロンと称するようになり,アカデミズムの牙城となった。サロン・ドートンヌサロン・ド・メなどがあり,単にサロンといえば官展をさす。
→関連項目アンデパンダン展新古典主義スキュデリースタール夫人マリボーロラン

サロン(楽器)【サロン】

インドネシアのガムラン用の旋律打楽器。金属琴。かまぼこ状の分厚い青銅板(6枚または7枚)が共鳴箱の上に金具で留めてあり,右手に持った木槌あるいは水牛の角製の小槌で打つ。高音,中音,低音用があり,それぞれにペロッ用とスレンドロ用がある。装飾旋律を奏する高音用以外は,ユニゾンで主旋律あるいはその分割旋律を奏する。
→関連項目鉄琴

サロン(衣服)【サロン】

インドネシアからマレー半島やフィリピンなどの男女が用いる腰布。マレー語のsarongは袋の意。長さ2〜4m,幅1m前後の布を筒状に縫い,これをスカートのようにはいて,余りをウエストのところでひだにたたみ腰にはさむ。布地は木綿が多く,多彩な模様が染めだされたバティックや絣(イカット)が用いられる。
→関連項目パレオ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「サロン」の解説

サロン
salon

フランスで特に17~18世紀に流行した社交団体。貴婦人を主催者として上流人士が会合し,洗練された会話,振舞いを追求して「プレシオジテ」と呼ばれる気取りの態度を生んだが,18世紀には啓蒙思想の温床となるなど,文学,学術,政治,思想などの多方面に影響を及ぼした。大革命後は衰退に向かい,ブルジョワジーの間では,貴族的なサロンに代わって,イギリスのクラブをまねた男性だけのサークルが普及した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「サロン」の解説

サロン
salon

17〜18世紀のフランス絶対王政下に流行した文化的社交の会
貴婦人邸に各界の名士や貴族が集まり,文学・芸術を論じ,政治を批判した。革命とナポレオン戦争を通じて凋落し,19世紀に再開されたものの影響力は減少した。

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世界大百科事典(旧版)内のサロンの言及

【美術展覧会】より

…ギルド主催の美術展覧会の形式は18世紀初めまで残っているが,ギルドの独占的で排他的な形式が束縛となってきて,フランスでは1667年にJ.B.コルベールがパリの王立絵画・彫刻アカデミー創立19周年記念にギルドとは離れた美術展覧会を開催し,その後もつづいて開かれた。ルイ15世(在位1715‐74)時代にルーブル宮殿の〈サロン・カレ(四角の間)〉で定期的に美術展覧会が開催されてからは,この展覧会は〈サロン〉と呼ばれ,現在もそう呼ばれている。ここでは出品はアカデミー会員(または準会員)の特権となっていたが,フランス革命の直後J.L.ダビッドの提案でこの特権は廃止されることになった。…

【ガンサ】より

…複数の男子がおのおの音高の違う楽器を持ってかけ合いで打ち鳴らして用いる。インドネシアのジャワ島とバリ島では,共鳴管を持つもの(グンデル),共鳴管を持たないもの(サロン)の両者を包括する青銅製打楽器の総称である。この種の楽器は,旋律打楽器を中心に編成される器楽合奏ガムランの骨格をなす。…

※「サロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

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