ドイツの化学者。ボン近郊のオイスキルヘンに生まれる。父は有能な企業家で息子を跡継ぎにしようとしたが、そのもくろみはうまくいかず、息子は1871年ボン大学に入学、ケクレの講義を聞いた。翌1872年ストラスブール(シュトラスブルク)大学に移りバイヤーの下で化学を学び、1874年学位をとった。翌1875年バイヤーとともにミュンヘン大学へ移り、1879年員外教授、1882年エルランゲン大学教授、1885年ウュルツブルク大学教授を経て、1892年ベルリン大学化学教授になり、1902年糖類とプリン類の合成でノーベル化学賞を受賞した。第一次世界大戦中、3人の息子のうち長男を除いて2人までを失った(生き残った長男のヘルマンHermann Otto Laurenz Fischer(1888―1960)はのちに有名な有機化学者になった)が、化学製品生産と食糧供給委員会の長としてドイツの化学資源の組織化に活躍し、戦後、化学教育の再編や研究施設の充実に努力した。
生体構成物質の構造の解明と合成が生涯にわたるフィッシャーの研究テーマであり、彼が現代の天然物化学の基礎を確立した。最初の論文は、彼自身が発見したフェニルヒドラジン誘導体に関するもので、これは後の研究において何度か中心的役割を果たすことになった。1878年までにフェニルヒドラジンそのものを合成し構造式を確立、1884年にはカルボニル基に対する試薬としてのフェニルヒドラジンの有用性(結晶性のヒドラゾンの生成)を発見、とくに、糖類ではカルボニル基に隣接するヒドロキシ基とも反応して結晶性のオサゾンを生成するため、後の糖類の構造研究上不可欠の試薬となった。フィッシャーの学位論文は色素と染料の化学に関するものであったが、これを拡張して、従弟(いとこ)のオットーOtto Phillip Fischer(1852―1932)とともにローズアニリン系色素の構造を研究し、これらがトリフェニルメタン誘導体であることを明らかにした。フィッシャーは、1881年尿酸とその誘導体の研究を始め、1914年のヌクレオチドの最初の合成に至るまでに、わずかな先行研究しかなかったプリン類の化学をほとんど独力で開拓した。1900年までに、プリン類の母体たるプリン(フィッシャーの命名)をはじめ、約130の誘導体の構造決定と合成を行っている。生化学上重要なものの多いプリン類は、ドイツの製薬界からも注目されて、薬理作用をもついくつかのプリン誘導体がフィッシャーの合成法で工業化された。
1884年、糖質の研究を始め、1891年までにファント・ホッフの立体化学理論から予想されたグルコースの16の立体異性体の立体配置を実験的に確定した。この実験技法を用いて多くの天然糖の構造決定と天然にない糖の合成を行い、1893年には最初のグリコシドを合成し、その環状構造を示唆した。また糖発酵の研究から有名な酵素作用の鍵と鍵穴モデル(かぎとかぎあなもでる)を提出した(1894)。1899年カフェインの全合成を行い、さらに同年タンパク質の研究を始め、おもにアミノ酸の分離と合成(プロリン、セリン、バリンなど)、ポリペプチド合成の研究をした。1916年に約100のポリペプチドの合成研究をまとめた。ベルリンの彼の教室に留学した日本人には鈴木梅太郎、朝比奈泰彦(あさひなやすひこ)らがいる。
[梶 雅範]
『桑田智訳『エミール・フィッシャーの自叙伝――思い出より』(1963・広川書店)』
ドイツの彫刻(青銅鋳造)家の一族。15世紀後半から16世紀前半にかけてニュルンベルクで活躍し、その有力メンバーは3世代にわたっている。
(1)ヘルマン Hermann V. der Ä.(1429ころ―88)フィッシャー家の開祖。1453年ニュルンベルクに鋳造所をつくる。後期ゴシック様式によるウィッテンベルク市聖堂の洗礼盤(1457)のほかいくつかの墓碑が現存する。
(2)ペーター Peter V. der Ä.(1460ころ―1529)ヘルマンの子。フィッシャー家の代表的存在で、クラフト、シュトスと並ぶ当代の重要な彫刻家。1487年工房を継ぐ。1488年聖セバルドゥス教会の聖遺物入れを受注、この仕事は1507年から1519年にかけて息子たちと共同で完成された。この間バンベルク、マクデブルク、ブレスラウ、ポーゼンに多くの墓碑を制作する。
1512年アウクスブルクの聖アンネン教会礼拝堂の格子細工(完成せず)、同年皇帝マクシミリアンからインスブルックの墓碑のためにアーサー王とテオドリクス王の等身大の像を注文され、1513年に完成。彼の力強い作風はドイツのルネサンスに開拓者的な影響力をもつが、その好作例に通称「枝を折る人」(1490。ミュンヘン、バイエルン国立美術館)の小像がある。彼には5人の息子があり、それぞれ彫像制作に関与したが、次の3人が知られる。
(3)ヘルマン2世 Hermann V. der J.(1486ころ―1517)父の助手として働き、1515年イタリアに留学したが、若くして世を去った。
(4)ペーター2世 Peter V. der J.(1487―1528)パドバに滞在して彫刻家のリッチョAndrea Riccio(1470―1532)の影響を受けたと推定される。ウィッテンベルクのフリードリヒ賢明王の墓の制作によって、1527年真鍮(しんちゅう)鋳造のマイスターとなる。代表作はニュルンベルクの聖セバルドゥスの墓(1507~19)。
(5)ハンス Hans V.(1489ころ―1550)1530年に父の工房を受け継ぎ、盛期ルネサンス様式で制作した。
[野村太郎]
イギリスの統計学者。ロンドンの郊外に生まれる。ケンブリッジ大学で学び、数学および物理学(とくに統計力学、量子論)を専攻。卒業後、会社勤務、学校教師を経て、ロンドン郊外のロザムステッド農事試験場に統計家として勤務し、研究に従事。そこでの研究活動により、実験計画法を創案し、推測統計学の基礎を築いた。1929年には王立協会会員となり、その後、1933年に記述統計学の導入者であるK・ピアソンの後を継いでロンドン大学の教授となり、さらに1943年には母校ケンブリッジ大学の教授となった。
彼の最大の業績は、それまでのピアソン流の記述統計学を改革し、統計母集団のもつ特性を、それから抽出したいくつかの標本に基づいて推計し、あるいはその特性に関する仮説を検定する推測統計学の基礎を確立したことである。その推定論、仮説検定論は、その後、J・ネイマン、ピアソンEgon Sharpe Pearson(1895―1980)(K・ピアソンの子)、A・ワルドらによって発展させられたが、とくに前二者との間では、推論方式に関しての論争が有名である。
[高島 忠]
アメリカの生化学者。中国の上海(シャンハイ)でスイス人の両親より生まれる。1939年スイスのジュネーブ大学入学。1947年同大学で化学の博士号を取得。1953年まで同大学で講師を勤める。酵素学を学ぶためにアメリカに拠点を移し、同年ワシントン大学助教授、1961年より同大学教授。1990年に名誉教授となる。
学生時代にブタ膵臓(すいぞう)の酵素アミラーゼを精製、結晶化する。ワシントン大学に移ってすぐに、グリコーゲンの加リン酸分解酵素(フォスフォリラーゼ)についてE・クレブスとの共同研究を始める。彼らは、初めてフォスフォリラーゼを単離精製、結晶化することに成功した。さらに、筋肉組織でグリコーゲンからエネルギーを取り出す際には、フォスフォリラーゼがリン酸化を受けることが必要で、この酵素の機能がリン酸を着脱する2種類の酵素(リン酸化酵素と脱リン酸化酵素)により調節されていることを明らかにした。その後、多くの機能タンパク質がリン酸化、脱リン酸化機構によりその働きを制御されていることが明らかとなった。これらの功績により、クレブスとともに1992年のノーベル医学生理学賞を受賞した。
[馬場錬成 2018年10月19日]
アメリカの経済学者、統計学者。ニューヨーク州出身。エール大学に学び、数学、物理学を専攻し、ヨーロッパに留学後、1893年に母校の数学の助教授となったが、1895年に経済学の助教授にかわり、1898年以降教授(~1935)。計量経済学の創始者の一人でもあり、1932年に計量経済学会の初代会長を務めた。
経済分析に数学的手法を導入することにより、近代経済理論の開拓者の地位を占めるが、とくに貨幣理論に優れた業績を残し、物価問題の分析および対策について実践的貢献をし、大恐慌時の1930年代には大統領のブレーンに加わり、ニューディール政策の立案にも関与した。彼の業績のうち、『貨幣の購買力』The Purchasing Power of Money(1911)のなかで展開された貨幣数量説は、フィッシャーの交換方程式としてとくに有名である。また、『物価指数の作成』The Making of Index Numbers(1922)においてなされた物価指数に関する研究では、今日でも「フィッシャーの理想算式」として知られている指数公式が示されている。
[高島 忠 2018年10月19日]
ドイツの化学者。ミュンヘン工科大学の物理学教授カール・フィッシャーKarl T. Fischer(1871―1953)の息子としてミュンヘン近郊に生まれる。1949年ミュンヘン工科大学を卒業。1952年博士号を取得した。1957年ミュンヘン大学の教授となり、1964年にはミュンヘン工科大学の無機化学部門の主任教授になる。1957年ゲッティンゲン科学アカデミーの化学賞、1959年ドイツ化学会のアルフレッド・ストック・メモリアル賞を受賞している。1972年にはミュンヘン大学の名誉博士号を受けた。
炭化水素と遷移金属の反応のメカニズムの理論的研究を進め、フェロセンの構造として、環状分子によって金属分子が挟まれたサンドイッチ化合物の概念を提唱するなど、有機錯体化学分野で先駆的かつ重要な成果をあげた。1973年に同じような研究を続けていたウィルキンソンとともにノーベル化学賞を受賞した。
[編集部]
ドイツの有機化学者。ローザンヌ大学とマールブルク大学で化学と医学を学び、ミュンヘン大学で医学の学位を取得。E・フィッシャーの助手、ミュンヘンで生理学講師、インスブルック大学、ウィーン大学教授などを経て1921年よりミュンヘン工科大学有機化学教授。血液や胆汁の色素、葉緑素などの研究を行い、これらがピロール環を含むポルフィリンやその類縁物質であることを明らかにし、ピロール誘導体の研究をして、これを基礎に関連化合物を多く合成した。とくに1929年には血色素のヘミンの合成を完成してその構造を確定し、それによって1930年ノーベル化学賞を受賞。ほかに胆汁色素ビリルビンの合成、クロロフィル(葉緑素)の正しい構造式の提出などの業績がある。第二次世界大戦末期に自殺した。
[梶 雅範]
ドイツの化学技術者。ミュンヘン、ギーセン、パリ、ライプツィヒで電気化学を学び1904年よりベルリンの化学研究所に勤め、1911年よりシャルロッテンブルク工業大学の電気化学教授、加圧下での電気化学反応の研究で著名となる。1914年にカイザー・ウィルヘルム協会(現、マックス・プランク協会)が新設した石炭化学研究所の所長に就任し、一酸化炭素への水素添加による石油合成に取り組む。トロプシュHans Tropsch(1889―1935)とともにこの石油合成法のいちおうの工業化に成功したのは1923年である。製造されたガソリンの品質は悪かったが、ジントールとよばれ、ベルギウス法とともに、第二次世界大戦下のドイツにとって貴重な液体燃料を生産した。
[加藤邦興]
ドイツの哲学史家。イエナおよびハイデルベルク大学教授。ヘーゲル派の思想家であったが、カントに立ち返った研究で有名である。彼の『近代哲学史』10巻(1852~1877)は人間精神の自己認識の発展という視点で描かれている。同じく哲学史家としても有名なウィンデルバントは彼の弟子である。哲学的にはカントとヘーゲルを仲介しようとする考え方を示したが、ショーペンハウアーの影響を受けた著作も残している。
[佐藤和夫 2015年3月19日]
『玉井茂他訳『ヘーゲルの生涯』(1976/新装版・1987・勁草書房)』▽『岸本晴彦他訳『ヘーゲルの論理学・自然科学』(1983・勁草書房)』▽『将積茂他訳『ヘーゲルの精神哲学・歴史哲学』(1984・勁草書房)』
哺乳(ほにゅう)綱食肉目イタチ科の動物。大形のテンで、カナダとアメリカ合衆国北部の森林にすむ。体長50~90センチメートル、尾長25~50センチメートルで、雌はやや小さい。毛色は黒褐色で、前頭部から頭頂部は淡色、腹面は濃色である。腰から腹に白斑(はくはん)をもつものもある。習性はテンと共通であるが、樹上よりも地上にいることが多く、ことに水辺でとらえられるのでフィッシャー(漁夫の意)とよばれたが、実際の食物は80%まで小形哺乳類、とくにリス類であり、ほかには小鳥、昆虫、果実などで、魚はほとんど食べない。ただし、水泳は巧みである。日中は岩陰や朽ち木の洞にいて、夜に活動する。3~5月ごろ交尾するが、胎児の着床は翌年の1~3月まで遅れ、出産まで約1年を要する。毛皮はアメリカテンよりも劣るが、かなり高価で、カナダでは年間1万枚程度取引されている。アメリカ合衆国ではかつてはより南部まで分布していたが、現在では北部の限られた地域にしか生息しない。
[朝日 稔]
ドイツの後期バロック様式を代表する建築家。オーバープファルツのブルクレンゲンフェルトに生まれ、1721年以降アルトバイエルンおよびシュワーベン地方で32の教会と23の修道院建築に携わった。外観は簡素であるが、内部空間は各室の動的な配列によって本堂を中心に統一ある律動的な空間をつくりだしているのがその特徴。また内部装飾では彫刻家フォイヒトマイヤー(1709/10―72)や画家アサムらの協力により化粧しっくい装飾や壁画による明るい空間を現出した。ミュンヘンで没。ツウィーファルテン、オットーボイレン、ロット・アム・インの各修道院会堂が代表的な作例である。
[野村太郎]
スイスのピアノ奏者。生地バーゼルの音楽院で学んだのちベルリンに留学、バッハからロマン派に至るドイツ音楽をレパートリーとして独奏活動に入る。1926年リューベック音楽協会の、28年ミュンヘン・バッハ協会の指揮者になって指揮活動も始め、ベルリンにフィッシャー室内管弦楽団を組織、ヨーロッパ各地に演奏旅行をして名声を高めた。31年A・シュナーベルの後任としてベルリン音楽大学教授となる。42年スイスに帰国、ルツェルン音楽祭の主要メンバーとして活動した。豊かな情感と確固たる構成力の結び付いた独特のバッハ、モーツァルトを聞かせた。チューリヒに没。
[岩井宏之]
アメリカの経済学者。イェール大学で物理学と数学を専攻し,初めは数学者であったが経済学に興味をもち専門を変えている。1898-1935年イェール大学経済学教授。経済学の研究に数学的および統計的分析法を本格的に導入した先駆者である。しかし著作で活動した分野は広く,人口学,公衆衛生,健康法に及び,また便利なカードファイル法を発明し,事業として成功させている。また国際計量経済学会(現,エコノメトリック・ソサエティ)の創設者の一人であり,初代会長を務めた(〈計量経済学〉の項参照)。
経済学で重要な貢献をした分野は計量的分析の導入のほか,資本理論,利子論,貨幣理論(物価の理論),物価指数論等である。資本理論においては,有用な財またはその集合を資本ストックと呼び,これから企業活動や消費活動を通じて流れ出る所得(利潤)や満足(効用)の将来にわたる流れの現在割引価値が,その資本ストックの現在資本価値であることを明確にした。より一般的には,人々の将来に対する予想が現在を左右するという経済現象の重要な側面を強調した先駆者の一人である。貨幣理論では貨幣数量説を物価または貨幣の購買力の理論として再構成し,精密化した。すなわち,より精密な貨幣数量方程式(交換方程式)MV+M′V′=PTを用いて精密化した。ここでMは紙幣や硬貨からなる通貨,M′は銀行預金などの預金通貨,V,V′はそれぞれの流通速度,Pは物価,Tは取引量である。さらに名目利子は実質利子と予想インフレ率との和であって,好況期に高くなり,不況期に低くなることを強調した。これらは現代の新貨幣数量説(マネタリズム)の基礎となっている。このほか貨幣の価値(物価)を安定させるため,100%準備通貨やスタンプ紙幣など多くの政策提言も行った。また物価指数の研究においても有名で,〈フィッシャーの理想算式〉を発明している。主著《価値と価格の理論の数学的研究》(1892)。
執筆者:鬼塚 雄丞
ドイツの有機化学者。ボン近郊のオイスキルヘンの生れで,商人の子。ボン大学でF.A.ケクレに,普仏戦争でドイツ領になったばかりのシュトラスブルク(現,ストラスブール)でJ.F.W.A.vonバイヤーに化学を学ぶ。1875年バイヤーとともにミュンヘン大学に移り私講師を勤め,79年より助教授,82年エルランゲン大学教授,85年ビュルツブルク大学教授,92年ベルリン大学教授。彼の研究は,有機化学の手法を生体を構成する重要物質に対して適用するものだった。研究は,生涯にわたり重要な試薬となったフェニルヒドラジンの発見(1875)に始まった。この物質の誘導体合成とその構造研究ならびにトリフェニルメタン系染料の研究が初期のしごとである。1881年に尿酸とその関連化合物の研究を始め,1914年の最初のヌクレオチド合成に至るまでに,核酸の重要構成成分であるプリン(フィッシャーの命名)誘導体の化学を築いた。1884年に糖研究も始め,先のフェニルヒドラジンが糖と結晶性誘導体を生成することを発見し,これが糖の構造決定におおいに役だった。91年までに,J.H.ファント・ホフとJ.A.ル・ベルの炭素正四面体説(1874)から予想される,グルコース(ブドウ糖)の立体異性体の構造を合成的に確定し,糖化学の基礎をつくった。以上のプリンと糖の合成研究により,1902年ノーベル化学賞を受賞。1899年からはタンパク質とアミノ酸研究にも着手し,とくに1907年には18のアミノ酸残基よりなるポリペプチドを合成した。ドイツ化学工業界との関係も密接で,医薬品合成法と多くの人材を研究室から提供した。第1次大戦中は,資源・食糧問題の解決に活躍し,戦後復興にも努力した。なお,鈴木梅太郎をはじめ,彼の研究室に学んだ日本人化学者は多い。
執筆者:梶 雅範
イギリスの統計学者,遺伝学者。ケンブリッジ大学卒業後,ロザムステッド農事試験場の技師となる。のちロンドン大学,ケンブリッジ大学の教授を歴任し,引退後オーストラリアで死去。フィッシャーの業績は四つの分野にわたる。第1は統計的推測とくに推定(統計的推定)の基礎理論の建設で,最尤(さいゆう)推定法の導入とその大標本のもとでの有効性の証明,推定量の効率の尺度としての情報量の定義,推測確率の概念の導入などがある。第2は統計量の標本分布に関連し,処女論文における相関係数の精密標本分布の導出をはじめ,偏相関係数,Z分布,分散共分散行列の固有根の分布などを求めた。第3は統計的実験計画法の創出で,ロザムステッドにおける経験にもとづき,実験誤差を含む条件のもとでの実験の計画およびデータの解析法を確立した。実験の計画における局所管理,確率化,繰返しの三つの原則を立て,またデータの解析における分散分析法を発案した。第4は集団遺伝学における数学的方法の確立で,メンデルの遺伝法則にダーウィン的進化論を結びつける数学的理論を構築した。彼の貢献は多岐にわたり,かつ独創性に富み,真に現代統計学の建設者ということができるが,彼の性格的な面もあって,ピアソン父子,J.ネーマンらと多くの激しい論争を交えた。
執筆者:竹内 啓
ドイツの化学者。フライブルクの生れ。1911年シャルロッテンブルク工業大学教授となり,13年ルール地方のカイザー・ウィルヘルム協会の石炭研究所長に就任した。23年トロプシュHans Tropsch(1889-1935)とともに,一酸化炭素と水素とから常圧の下で炭化水素を合成する,いわゆるフィッシャー・トロプシュ合成法に成功し,26年にこれを発表した。この合成法は〈フィッシャー法〉とも呼ばれ,とくに,第2次大戦前後にドイツ,日本,フランスなどで工業化され,人造石油工業の一環として石炭からの液体燃料の製造に重要な役割を果たした。主著に《石炭学論文集成》全12巻(1915-36)がある。
執筆者:矢木 哲雄
イギリスのカトリック教会の聖職者,ロチェスター司教,聖人。ケンブリッジで教育を受け,1504年総長就任。ヘンリー8世の祖母マーガレット・ボーフォートに進言して,ケンブリッジに二つのカレッジを,またオックスフォード,ケンブリッジ両大学に神学講座を開設させた。他方,エラスムスをケンブリッジに招聘するなど,人文主義の普及にも努めた。ヘンリー8世の離婚問題が生ずると王妃キャサリンを支持して離婚に反対したためロンドン塔に収監され,王位継承法(1534)の前文にある教皇至上権の否定に反対したため,35年6月22日,大逆罪で断首刑に処せられた。1935年教皇ピウス11世によって聖人に列せられた。
執筆者:八代 崇
ドイツの有機化学者。ローザンヌ,マールブルク両大学で医学と化学を学び,1904年ベルリン大学でE.フィッシャーの助手,10年ミュンヘン大学教授,21年ミュンヘン工科大学教授。彼の最大の成果は,血色素中のヘミンの構造決定とその合成である。ピロール誘導体からポルフィリン環をつくり,15種のヘミン異性体を合成し,30年にノーベル化学賞を受けた。その後,植物の葉緑素の研究に進み,それが中心にマグネシウムをもつポルフィリン核誘導体であることを示し,その構造を完全に解明した。第2次大戦でミュンヘン爆撃のため研究室が破壊され,絶望して自殺した。
執筆者:渡辺 健一
オーストリアの作家で共産主義者。グラーツで哲学を学び作家活動に入る。当初オーストリア社会民主党員で,1927-34年,党中央機関紙《アルバイター・ツァイトゥング》の編集にたずさわる。34年,オーストリア共産党に入党。同年プラハに亡命。その後,ソ連に渡り,コミンテルンのオーストリア共産党の代表となる。45年帰国。45-59年,党中央委員。69年,チェコスロバキア共産党の改革路線を支持し,党から除名された。回想録《回想と反省Erinnerungen und Reflexionen》(1969。邦訳あり)などの著作がある。
執筆者:酒井 晨史
ドイツの美学者。1837年来教壇に立ち,チュービンゲン,チューリヒなどの大学教授。48年の革命時にはフランクフルト国民議会の議員として政治にも参与した。ヘーゲル左派と交わりつつヘーゲル美学の体系整備をはかる大部の《美学》全6巻(1846-57)を著し,美的範疇論にも卓説を残している(《崇高と滑稽》1837)。だが思潮が観念論から実証科学へ移ろうとする時代であり,《美学》完成後ほどなくこれをみずから退けて,現実を扱う哲学は自然科学にもとづかなければならぬという自覚の上に,すすんで次代の心理学的美学への模索をはじめた。
執筆者:細井 雄介
スイスのピアノ奏者。バーゼルとベルリンで研鑽を積む。ベルリンのシュテルン音楽院で教え,1931年ベルリン高等音楽学校教授に迎えられた。また独奏者,室内楽奏者として華々しく活躍。指揮者としても1928-32年ミュンヘン・バッハ協会を指揮した後,ベルリンで18世紀の演奏実践の再興を目ざした室内楽団を組織,ヨーロッパ各地を演奏旅行した。42年本拠をスイスに移した。ロマン主義的な柔らかく,温かい演奏を特徴とし,モーツァルトやベートーベンを得意とした。
執筆者:西原 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの有機化学者.1871年ボン大学に入学,翌年シュトラスブルク大学に移り,1874年J.F.W.A. Baeyer(バイヤー)のもとで学位を取得.翌年Baeyerとともにミュンヘン大学へ移り,1879年員外教授,1882年エルランゲン大学教授,1885年ビュルツブルク大学教授を経て,1892年ベルリン大学化学教授を歴任した.フェニルヒドラジン誘導体について研究をはじめ,1878年合成に成功し構造式を確立した.1884年にはカルボニル基に対する試薬としてのフェニルヒドラジンの有用性(結晶性のヒドラゾンの生成)を発見,後年,糖類の構造研究上不可欠の試薬となった.1881年尿酸とその誘導体の研究をはじめ,1914年ヌクレオチドの最初の合成に至るまでに,プリン類の化学をほとんど独力で開拓した.1884年糖質の研究をはじめ,1891年までに,J.H.van't Hoff(ファントホッフ)の立体化学理論から予想されたグルコースの16の立体異性体の立体配置を実験的に確定し,多くの天然糖の構造決定と非天然糖の合成を行った.1894年糖発酵の研究から有名な酵素作用の鍵と鍵穴モデルを提出.1899年にはタンパク質の研究をはじめ,おもにアミノ酸の分離と合成,ポリペプチド合成の研究を行った.1902年糖類とプリン類の合成でノーベル化学賞を受賞.化学製品生産と食糧供給委員会の会長としてドイツの化学資源の組織化に活躍し,戦後,化学教育の再編や研究施設の充実に努力した.ベルリンのかれの教室に留学した日本人には鈴木梅太郎,朝比奈泰彦らがいる.
ドイツの有機化学者.ローザンヌ大学とマールブルク大学で医学と化学を学び,1904年化学博士号を,1908年医学博士号を取得.ベルリン化学研究所のE.H. Fischer(フィッシャー)のもとで助手を務めた後,1916年インスブルク大学教授,1918年ウィーン大学教授,1921年H. Wieland(ウィーラント)の後任としてミュンヘン工科大学教授となる.血液や胆汁,葉の色素などの生物学的に重要な分子を研究し,ヘモグロビン分子中の非タンパク質部分であるヘミンの構造決定やクロロフィルの構造決定により,1930年ノーベル化学賞を受賞.1944年ビリルビンを合成.第二次世界大戦末期に戦禍で研究所が破壊され,研究の前途を絶望して自殺した.
ドイツの無機化学者および有機金属化学者.1949年ミュンヘン工科大学卒業後,同大学無機化学科のW. Hieberのもとで助手を務め,1952年博士号を取得.その後,ミュンヘン工科大学講師,研究のためのアメリカ滞在,ミュンヘン大学教授を経て,1964年ミュンヘン工科大学の無機化学科教授となった.フェロセンの構造が,二つの五員環の間に鉄イオンがはさまった構造(いわゆるサンドイッチ構造)であることを,X線回折測定によりG. Wilkinson(ウィルキンソン)とは独立に確認した.また,1967年には,最初のクロム錯体(フィッシャー型カルベン錯体)を合成し,有機金属化学へ大きく貢献した.こうした功績により,1973年Wilkinsonとともにノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…配位説は20世紀に開花した錯体化学への道を開いた。E.フィッシャーは糖類の構造の解明に際して炭素正四面体説をよりどころにした。糖類でのみごとな成功によって炭素正四面体説は疑う余地のないものとなった。…
… 光学異性を説明するために提案された炭素の正四面体説は,その誕生に際しては,A.W.H.コルベのような有力な化学者の反対を受けたが,しだいに積み上げられていく実験事実によって反論しがたいものとなっていった。とくに19世紀末E.フィッシャーが糖の立体異性を炭素正四面体説で説明するのに成功して炭素正四面体説の強い支えとなった。 20世紀に入るとA.ウェルナーの配位理論によって,金属錯体でも分子不斉による光学異性の存在することが主張された。…
…ジエチルバルビツール酸ともいい,鎮静・催眠薬として用いられる長期間作用型の催眠薬である。1903年E.フィッシャーが工業的製造法を発明し,メーリングJoseph Mering(1849‐1908)が催眠効力を認めてベロナールVeronalと名づけた。フランスではジエチルマロニル尿素という。…
…一酸化炭素の水素化反応によって液体の炭化水素燃料を合成する方法。1920年代の初め,ドイツのF.フィッシャーとトロプシュHans Tropsch(1889‐1935)によって発明されたので,F‐T合成法(フィッシャー=トロプシュ法)とも呼ばれる。石炭をガス化して一酸化炭素と水素からなる合成ガスに変えたのち,この方法で液体燃料を合成することができるので,石炭の間接液化法として位置づけることができる。…
…他方,取引の総価値額は,その経済において一定期間に行われる個々の商品の取引額の和であるが,それは個々の取引数量に,取引される商品の価格を掛けたものの総和である。この関係をI.フィッシャーの有名な交換方程式に従って示せば,MV=PTとなる。ここで,Mは貨幣量(名目残高。…
…
[さまざまな資本の概念]
生産の技術上の要件であるさまざまなもののうち資本概念に含められるべきものの範囲を特定しようとする試みから,この概念のさまざまな定義が生じる。I.フィッシャーは,効用の発生が所得の発生であるという観点に立ってこの概念を最も広い意味にとらえる。それは,効用発生の源泉となるすべてのものの蓄積である。…
…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…
…この集団が有限であることに起因する機会的な遺伝子頻度の変化を機会的浮動という。この結果,小さい集団では対立遺伝子の片方が消失し,遺伝子の固定が起こりやすく,これが変異の減退をもたらし,進化の上で重要な意味をもつということはすでにハーゲドールンA.L.Hagedornら(1921)によって指摘され,R.A.フィッシャー,ライトS.Wrightにより理論的に研究された。特にライトは1931年以後遺伝子頻度の機会的変動の進化における役割を明らかにし,後にその重要性が多くの生物学者に認識されるようになると,ライト効果Wright effectという言葉まで同義語として用いられるようになった。…
…L.ネールは48年フェリ磁性の研究,49年,51年には熱残留磁化の研究を相次いで発表し,理論的な基礎を築き,52年イギリスのブラケットP.M.S.Blackettは非常に弱い磁化まで測定できる高感度無定位磁力計を作りあげた。さらに53年R.A.フィッシャーは測定値のばらつきの程度の統計的な解析方法を示した。これ以後古地磁気研究は活発に行われるようになり,地球上のあらゆる地域が調べられた。…
…また理論的にも,整数論,置換群論,環論,有限幾何学,グラフ理論,符号理論,組合せ理論など多くの数学の分野と互いに接触をもつ分野に成長している。 実験の場に確率モデルを導入するため,実験計画法の創始者R.A.フィッシャーは1920年代に,反復,無作為化,局所管理の3原則を提唱,誤差の推定と管理を可能にし,モデルの下で実際に解析する手法として分散分析法を確立し,実験計画における統計的方法の重要性を力説した。 実験計画法の基礎においているデータの確率モデルは線形モデルである。…
…とくにピアソンは大標本理論を中心として相関,回帰分析,検定,推定の方法を作り出した。20世紀に入って小標本についての精密標本理論がW.S.ゴセットおよびとくにR.A.フィッシャーによって建設され,さらにネーマンJerzy Neyman(1894‐ ),ピアソンEgon Sharpe Pearson(1895‐1980),ワルドAbraham Wald(1902‐50)らによって統計的推測理論は精密化された。またフィッシャーはロザムステッドの農事試験場の経験のなかから統計的実験計画法を作り出した。…
※「フィッシャー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加