百科事典マイペディア 「北条氏」の意味・わかりやすい解説
北条氏【ほうじょううじ】
→関連項目安東氏|内管領|小田原征伐|小田原評定|葛西御厨|神奈川|鎌倉大番役|鎌倉時代|鎌倉幕府|川越城|国富荘|椋橋荘|相模国|侍所|執権政治|摂家将軍|高萩新宿|中河御厨|南部氏|二月騒動|新田氏|糠部|禰寝院|人吉荘|平井城|藤原頼経|宝治合戦|北条時行|松山(埼玉)|厩橋|御内人|源頼朝|横田荘
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関東の戦国大名。鎌倉期の北条氏に対して俗に後北条(ごほうじょう)氏ともいう。室町幕府の政所(まんどころ)執事伊勢(いせ)氏の一族で、初め伊勢氏を称す。駿河(するが)の今川氏に仕えていた伊勢新九郎長氏(しんくろうながうじ)(早雲(そううん))は、1491年(延徳3)、堀越公方(ほりこしくぼう)を滅ぼして伊豆国(いずのくに)を掌握し、韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)に移って自立する。関東管領(かんれい)上杉氏の勢力と戦いつつ、1495年(明応4)小田原(おだわら)城(神奈川県小田原市)を攻略して相模(さがみ)に進出。1516年(永正13)には新井(あらい)城(同三浦市)に三浦氏を滅ぼして相模一国を制圧。次の氏綱(うじつな)のとき北条氏を名のり、小田原を本城として江戸、河越(かわごえ)(埼玉県川越市)を攻略し、武蔵(むさし)南半を支配下に置いた。氏康(うじやす)の代には上杉氏を越後(えちご)に追って、北は上野(こうずけ)、東は下総(しもうさ)の一部にまで勢力を伸ばした。
この間、北条氏は虎の印判状を用いて新しい領国支配政策を次々と打ち出していった。まず早雲の代に始まった検地(けんち)を、新征服地に実施して農民の支配を強化し、年貢増徴を実現した。このためたび重なる戦災と相まって農民の生活が困窮し、年貢の免除や徳政の要求、農村からの欠落(かけおち)などが急増すると、今度はこれに徳政令の発布や大規模な税制改革で対応した。さらに農村の土豪(どごう)を積極的に家臣団に編成して所領を宛行(あてが)い、その貫高に応じた軍役を負担させ、軍事力の強化によって農民の抵抗を抑え込もうとした。また玉縄(たまなわ)(鎌倉市)、江戸、八王子(はちおうじ)(東京都)、鉢形(はちがた)(埼玉県大里郡寄居(よりい)町)などの重要な支城には重臣、一族を配置し、支城を単位とした強固な家臣団組織をつくりあげ、同時に軍事力の強化のために職人の編成や伝馬(てんま)制度の整備も積極的に進めた。次の氏政(うじまさ)、氏直(うじなお)もともに領国の拡大に努め、常陸(ひたち)、安房(あわ)、下野(しもつけ)北部を除く関東に支配を広げた。
北条氏は豊臣秀吉(とよとみひでよし)への臣従を潔しとせず、決戦準備を推し進め、上野北部で真田(さなだ)氏と紛争を起こし秀吉の停戦命令を無視、1590年(天正18)秀吉の大軍に攻められてついに滅亡した。氏康の子氏規(うじのり)の子孫が、河内国(かわちのくに)狭山(さやま)(大阪府大阪狭山市)1万1000石の大名となって明治維新に至る。5代の墓と画像が箱根湯本の早雲寺にある。
[池上裕子]
『牧野純一著『後北条氏民政史論』(1916・奉公会)』▽『佐脇栄智著『後北条氏の基礎研究』(1976・吉川弘文館)』▽『杉山博著『戦国大名後北条氏の研究』(1982・名著出版)』
鎌倉の北条氏。鎌倉幕府執権家。桓武平氏(かんむへいし)の子孫が、伊豆介(いずのすけ)として伊豆北条(現在の静岡県伊豆の国市韮山(にらやま)地区)に土着し、北条氏を称す。時政(ときまさ)の娘政子(まさこ)が、源頼朝(みなもとのよりとも)に嫁したことをきっかけに、1180年(治承4)の頼朝挙兵に従う。以後、時政は頼朝を助け、鎌倉幕府設立の功労者として重きをなした。頼朝の死(1199)後は、将軍の外祖父として権力を伸長し、同じく外戚(がいせき)の比企(ひき)氏を押さえ、2代将軍頼家(よりいえ)を廃して実朝(さねとも)を将軍とし、政所別当(まんどころべっとう)に就任、初代執権となった。その子義時(よしとき)は、実朝をも廃しようとした時政にかわり、2代執権となった。有力御家人(ごけにん)である侍所別当(さむらいどころべっとう)和田氏を討ち、侍所、政所両別当をも兼任し、幕府機構内における北条氏の地位を固めた。さらに承久(じょうきゅう)の乱(1221)で、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)軍を破り、幕府の覇権を樹立した。3代泰時(やすとき)は、評定衆(ひょうじょうしゅう)による合議制と、貞永式目(じょうえいしきもく)による法治主義を根幹とする執権政治を確立した。
一方、この時期は一門庶子家の分流がもっとも激しかったので、泰時の惣領(そうりょう)(得宗(とくそう))としての地位は非常に不安定であった。そのため泰時は得宗家公文所(くもんじょ)の設置、家令・家法の施行などにより、一門に対する惣領権(得宗権)の安定強化にも力を注いだ。得宗権は、名越(なごし)氏らの一門庶家を厳しく押さえていくなかで確立され、5代時頼(ときより)は御家人の雄族、三浦氏を倒し(宝治合戦(ほうじかっせん))、得宗専制を成立させた。8代時宗(ときむね)は、二度にわたる蒙古(もうこ)襲来を切り抜けた。9代貞時は、霜月(しもつき)騒動(1285)以降、幕政を握った内管領平頼綱を討ち得宗体制を強化し、一門と御内人(みうちびと)たちで軍事・交通の要衝を抑えながら、全国的に所領を広めた。
しかし、一門と一般御家人の対立をはじめ、さまざまな社会矛盾が露呈し、1333年(元弘3・正慶2)、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにより、得宗高時以下一門は、鎌倉東勝寺(鎌倉市葛西ヶ谷)に自刃し、鎌倉幕府とともに北条氏は滅亡した。その後、高時の遺児時行が北条氏の再興を図り挙兵した(中先代(なかせんだい)の乱)が、果たせずに終わった。
一門には、名越、大仏(おさらぎ)、赤橋(あかはし)、金沢(かねさわ)、伊具(いぐ)、佐介(さすけ)、極楽寺(ごくらくじ)など多くの諸氏がある。
[奥富敬之]
『奥富敬之著『鎌倉北條氏の基礎的研究』(1980・吉川弘文館)』▽『奥富敬之著『鎌倉北條一族』(1983・新人物往来社)』
鎌倉幕府の執権であった一族。その家督を〈北条九代〉という。桓武平氏の庶流で,940年(天慶3)平将門を討った平貞盛の曾孫直方(なおつね)を始祖とする。直方は1028年(長元1)に平忠常追討を命ぜられて関東に下ったが失敗。以後5代は諸系図の異同が多く判然としないが,直方の孫時方あるいは曾孫時家が伊豆北条に土着して,在庁官人となり北条を称したらしい。以降,〈時〉を代々の通字としている。
時家の子時政の娘政子が将軍源頼朝に嫁して,2代将軍頼家,3代将軍実朝を生んだので,将軍外戚の地位を得,勢力伸張の端緒になった。1203年(建仁3)時政は将軍頼家を廃して政所別当となり,その子義時は13年(建保1)和田義盛を倒して侍所別当を兼ね,執権政治への道を開き,21年(承久3)の承久の乱で幕府の覇権を樹立した。義時死後の24年(元仁1)に起こった伊賀氏の変で,北条氏の惣領権の弱さが暴露されたが,父義時の法名〈得宗〉を権威として,公文所,家令,家法などを始めた泰時の努力によって,やがて惣領権が確立した。嫡流の家督を得宗,所領を得宗領(御内所領,御内御領),被官を得宗被官(御内人(みうちびと),御内之仁)と呼ぶ風が成立し,時政の鎌倉名越の屋地を伝領した名越氏に不穏のことがあった以外には,一門諸氏への惣領支配権は確立したといえる。とくに金沢,極楽寺-赤橋の2流の得宗家への従属協力は顕著であった。泰時,時頼,時宗の施政は善政とたたえられたが,反面,梶原,比企,畠山,和田,三浦,安達など諸族の亡滅事件から陰険な陰謀一家と見られることになった。
モンゴル襲来前後には,諸国守護職の大半を占取し,所領は増大し,得宗被官も一定の政治勢力になっていた。泰時の権力は執権職に準拠していたが,時頼は執権辞任後も幕政を掌握していたので,権力の根拠は得宗という地位にあったものと考えられ,すでに〈得宗専制〉が成立していたとみなしうる。85年(弘安8)11月弘安合戦で安達氏を中心とした外様勢力が敗退したあとは,93年(永仁1)の平禅門(へいぜんもん)の乱以後の10年余をのぞくと,内管領平頼綱,長崎高綱・高資父子が幕政を壟断(ろうだん)し,わいろ,陰謀,讒言(ざんげん),弾圧,不正裁判が渦まく腐敗政治が敷かれ,そのことが反幕勢力の決起を促した。ついに1333年(元弘3)5月22日,新田義貞軍に攻められて,高時などの北条一門与党数百人は鎌倉東勝寺に自刃した。建武政権で規矩,糸田,佐々目などが北条与党の乱を各地で起こしたが,35年(建武2)に鎌倉を奪還した高時の遺児時行も,53年(正平8・文和2)足利尊氏に捕らわれ鎌倉竜ノ口で斬られた。北条一門には,前出のほか阿曾,甘縄,伊具,江間,大仏,刈田,後閑,桜田,佐介,塩田,種子島,田伏,東漸寺,常盤,普恩寺,松崎,阿曾沼などがある。
→後北条氏
執筆者:奥富 敬之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1鎌倉の北条氏。鎌倉幕府の執権を勤めた一族。桓武平氏の一流。時政(ときまさ)の父時方が伊豆介となり,伊豆国田方郡北条(現,静岡県伊豆の国市)に住んで北条氏を称したのに始まる。時政は,源頼朝の舅(しゅうと)として鎌倉幕府創設に活躍して勢力を伸ばし,初代執権となる。以後,代々執権となり,他の有力御家人を倒して幕府の実権を掌握。嫡流得宗家は,一門を連署,六波羅・鎮西両探題,評定衆,諸国守護など重職につけ,幕政を支配。名越(なごえ)・赤橋・金沢(かねざわ)・大仏(おさらぎ)の諸氏を分出。1333年(元弘3)元弘の乱で敗れ滅亡。
2小田原の北条氏。戦国大名。鎌倉幕府執権の北条氏と区別し後北条氏ともいう。始祖早雲(伊勢宗瑞(そうずい))は,1476年(文明8)今川家の内紛に乗じて台頭。91年(延徳3)伊豆国を平定,ついで相模国を征服した。小田原城を本拠とし,2代氏綱から北条氏に改め,5代に及び関東に勢力をふるったが,1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めにより滅亡。ただし,氏綱の孫氏規(うじのり)の子孫は江戸時代に河内国狭山藩主となり,維新後,子爵。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…島津荘は一円荘として深河院,財部院,多禰島があり,半不輸領(寄郡)として横河院,菱刈郡,串良院,鹿屋院,肝付郡,禰寝北俣,下大隅郡などがあった。地頭は島津荘が守護島津忠久,正八幡宮領は中原親能であったが,島津氏は1203年(建仁3)比企氏の乱の縁座で守護職とともに同職を失い,以後北条(名越)氏が鎌倉期を通じて所有した(守護職は一時千葉氏が所持)。正八幡宮領は領家の反対で地頭職が縮小され,やがてほとんど廃止された。…
…八幡宮の東隣が源氏の居館の跡で,最初の幕府所在地,その中央背後に頼朝墓がある。北条氏が執権をつとめた時代の幕府は若宮大路の東にあったが,今は住宅が立て込んでいる。頼朝墓の東には社歴の古い荏柄(えがら)天神,1869年(明治2)創建の鎌倉宮があり,その北には覚園寺,鎌倉宮の東には二階堂永福寺跡,瑞泉寺がある。…
…これは朝興の〈他国の凶徒〉論理に対抗して相武支配の正当性を主張するための改姓とみられる。この〈北条〉は鎌倉幕府の執権北条氏によるものであるが,その系図的結びつけは現在まだ明らかでない。したがって早雲以下5代を,鎌倉時代の北条氏と区別するために後北条氏と呼ぶ。…
…成立時期については,九州における聴訴権をもつ北条兼時,同時家が九州に下向した1293年(永仁1)説と,訴訟の裁断権をもつ北条(金沢(かねさわ))実政が初めて裁許状を発給した97年説がある。実政の後も北条(金沢)政顕(まさあき),北条(阿曾)随時(ゆきとき),北条(赤橋)英時(ひでとき)と北条氏一族が任命された(政顕と随時の間に政顕の子種時を入れるかどうかで意見が分かれている)。探題の下には,裁判裁決の迅速・公正をはかるために裁判事務を行う評定衆,引付(ひきつけ)衆,引付奉行人などの職員が置かれ,その機構は1300年(正安2)7月ごろ急速に整備された。…
…早雲は相模進出後も居城とし,1519年(永正16)に同地で没した。その子氏綱以降北条氏(後北条氏)の本拠は相模小田原城に移ったが,90年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐に際し,当城は山中城とともに小田原城防衛の最前線として重要性を再び増した。北条氏政の弟氏規以下3600の守備する同城に,3月29日から織田信雄ら4万余の豊臣方が攻撃。…
…そのため鎌倉幕府が成立すると,幕府=東国勢力の圧迫を受け,菊池氏は本領以外の大部分を奪われ,大友一族の詫磨氏などの入部を見ることになる。また広大な阿蘇本末社領については北条氏が預所兼地頭となり,球磨には遠江から相良(さがら)氏が,ややおくれて野原荘(荒尾市)には武蔵国御家人小代(しようだい)氏が地頭として入部した。 幕府を背景とする東国勢力の進出は,在地勢力との間に強い緊張関係をもたらすと同時に,新しい文化を生み出していった。…
…1247年(宝治1)6月,北条氏と三浦氏との間におこった合戦。三浦氏の乱ともいう。…
…幕府設置の職としては,このほかに北辺の津軽に蝦夷管領(えぞかんれい)というものがあった。津軽から北海道に居住する蝦夷(えぞ)(アイヌか)を統轄・支配するもので,津軽に多くの所領をもつ北条氏がその地位にあったが,現地にいる代官は被官の安藤氏(安東氏)であった。 しかし鎌倉時代の陸奥国の支配機構の根幹は,郡,荘,保を単位に任命された郡地頭である。…
※「北条氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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