普門寺(読み)フモンジ

デジタル大辞泉 「普門寺」の意味・読み・例文・類語

ふもん‐じ【普門寺】

茨城県つくば市にある真言宗豊山派の寺。山号は、慈眼山。開創は元亨3年(1323)、開山は乗海、開基は小田治久。小田氏の祈願所。

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精選版 日本国語大辞典 「普門寺」の意味・読み・例文・類語

ふもん‐じ【普門寺】

  1. 茨城県つくば市にある真言宗豊山派の寺。山号は慈眼山。三光院と号する。元亨三年(一三二三)創建。開山は円月房乗海。

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日本歴史地名大系 「普門寺」の解説

普門寺
ふもんじ

[現在地名]高槻市富田町四丁目

本照ほんしよう寺の裏手にあり、隣接する三輪みわ神社はもと当寺の鎮守社。臨済宗、山号慈雲山、本尊釈迦如来。寺伝によると明徳元年(一三九〇)僧説巌の草創で鎌倉建長けんちよう寺末であった。当寺は出家した細川晴元が入寺したことで知られる。晴元は永禄四年(一五六一)五月、三好長慶により近江朽木くつき谷に潜居していたのを迎えられたもので、「足利季世記」には同年五月六日、「細川晴元入道一清ヲ三好ヨリ御迎ヲ奉リテ、摂州富田庄普門寺エ入被申、則富田庄ヲ御知行有ヘキ由ニテ御馳走アリケリ」とみえる。堂宇を造営し、寺領として一七四石を寄進したという。晴元は同六年三月一日当寺で病没、境内に晴元の墓と伝える宝篋印塔がある。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]豊橋市雲谷町 ナベ山

市域東方、遠江国境近くの丘陵に囲まれる。雲谷山と号し、高野山真言宗。本尊聖観世音菩薩。三河七御堂の一。天文三年(一五三四)権大僧都信慶・権律師賢盛編の船形山普門寺梧桐岡院開闢縁起(当寺蔵)によれば、神亀四年(七二七)行基開闢の霊場という。嘉応年中(一一六九―七一)一山全焼したが、直ちに再興し、建久元年(一一九〇)源頼朝上洛の途次当寺に止宿と伝える。寺蔵の大般若経第三六六巻には、大治二年(一一二七)五月五日書了と銘して「勧進僧明伊」の名がみえる。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]陸前高田市米崎町

地竹沢じたけさわの高地にある。海岸山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。宝暦一一年(一七六一)の「気仙風土草」には享禄元年(一五二八)充察開基とあり、一説に仁治二年(一二四一)栄西の弟子記外の開基で、明応三年(一四九四)如幻の中興開山、檀那は米ヶ崎よねがさき城主千葉宗綱とも記す。また寺伝によれば、記外を迎え中山なかやま館主金馬之介安倍貞俊が開いたもので、当初は海寄りの新山にあったが、永正年間(一五〇四―二一)大興だいこう(現稗貫郡石鳥谷町)一〇世如幻充察が現在地に再興したという。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]筑波町神郡

神郡かんごおり山西麓に所在。北条ほうじようより筑波山に至る参詣路から本堂に通じる寺道がある。慈眼山三光院と称し真言宗豊山派。本尊は伝源信作阿弥陀如来。鎌倉中期頃までは志筑山と号し、天台宗であったともいわれるが確証はない。元亨三年(一三二三)真言宗醍醐派実勝流の乗海が入山したといわれ、小田氏の外護を得て寺構を整備した。五世慶珍の代(明徳―応永)には小田氏を大檀越に迎え、現土浦市の大聖だいしよう寺・法泉ほうせん寺、現新治にいはり出島でじま村の南円なんえん寺とともに小田氏領真言宗四ヵ寺に数えられた。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]平戸市木ヶ津町

みず岳の南東麓にある。善山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。室町幕府六代将軍足利義教との結び付きがあった松浦是興(天叟)が創立したと伝える。義教から肥前守に任じられた天叟は義の字を与えられるが、嘉吉の乱で義教が謀殺されると天叟は剃髪して出家、義教の菩提を弔うために平戸勝尾かつお岳の中腹に堂宇を建立、義教の法号にちなみ善山普門寺としたという。のち天叟はに隠居所を設けて住し、文明二年(一四七〇)没するが、隠居所は妙幢みようとう寺・松林しようりん寺・竜瑞りゆうずい寺と寺号を変えて明治初年まで法灯を継承。御法号付(松浦史料博物館蔵)にも松浦家二一代天叟公が文明二年に死に「紐指村木勝」を葬所にしたと記される。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]赤穂市尾崎

千種ちくさ川左岸の赤穂八幡宮に隣接し、みや山に立地。天台宗、明王山と号し、本尊は千手観音。昭和三一年(一九五六)に同宗長安寺と合併して加里屋かりや地区から現在地に移ったが、往昔は両寺とも山岳修験の寺で加里屋村の山岳にあったと伝える。宝永元年(一七〇四)の加里屋町絵図によると普門寺は橋本はしもと町の妙慶みようけい寺の前に、長安寺はしん町筋の高光こうこう寺の西にあり、江戸時代はそれぞれ姫路街道・備前街道の関所的役割をもっていたようである。享保二年(一七一七)の寺院開基(田淵家文書)には両寺とも慶長二年(一五九七)建立とあることから、このときに城下町へ下りたと考えられる。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]上三川町上三川 上町

上三川城跡の北西にある。天台宗。木上山妙覚院と号し、もと長沼宗光ながぬまそうこう(現芳賀郡二宮町)の末。本尊は十一面観音で、元禄三年(一六九〇)一七代住持宝海の発願、京都の七条大仏師大内蔵江の作。文明五年(一四七三)上三川越中守綱親の開基、開山は信俊と伝える。信俊は同一一年に護摩儀軌見聞(叡山文庫)を当寺で筆写している。信俊にかかわる事績は比叡山延暦寺や日光輪王寺などに論議書として残り、活発な教学活動がうかがえる。「天台宗全書」のうちの「宗要抄上三川」六巻があり、原本を所蔵する。慶長二年(一五九七)上三川城の落城とともに堂塔が衰退したが、その後当地を兼領した烏山藩主成田泰親(長忠)が堂宇を修繕し、慶長八年寺領二〇石と屋敷一ヵ所を寄進した(「成田泰親寄進状」普門寺文書)


普門寺
ふもんじ

[現在地名]常陸太田市岡田町

真言宗豊山派で円満山と号する。本尊は大日如来。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)に「高拾七石四斗九升八合、六反田村六蔵寺末寺、円満山無量寿院普門寺(中略)寛正三歳霜月三日俊意開山当卯迄弐百弐年、御目見仕候末寺五ケ寺門徒十七ケ寺旦那五百弐拾三人」と記される。「新編常陸国誌」によると真言宗醍醐だいご報恩院末で、承安年間(一一七一―七五)文覚の開山、俊意を寛政三年(一七九一)中興の開山とし、同八年報恩院末となったとあるが、寛政は寛正(一四六〇―六六)の誤りと思われる。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]藤枝市本郷

しろ(三八〇・五メートル)南麓の瀬戸せと川とその支流たき川に挟まれた地にある。慈光山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は聖観音。天文五年(一五三六)今川義元の異母兄の良真(遍照光寺殿玄広恵探大徳居士)によって開かれたと伝える。天文年間には真言宗高山こうざん寺の末寺で普門庵と称し、本郷ほんごうかめさわにあったという(駿河記)。永禄三年(一五六〇)一〇月一六日の今川氏真判物(普門寺文書)によると、領主によって押領されていた高山寺領がこのとき新たに寄進されたが、同寺領のうち上成二貫四〇〇文分の田地が普門庵に付せられた。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]福井市南山町

みなみ山の南山麓にある。補陀洛山と号し、曹洞宗。本尊観音菩薩。福井城下孝顕こうけん寺末であった。開基の空念が廻国修行の際、肥前国長崎で求めた中国補陀洛山観音を本尊とし、福井藩主の帰依を受け、宝永七年(一七一〇)福井城下南端の赤坂あかさか町に寺地を寄進されて観音堂を建立した。享保三年(一七一八)赤坂の寺地の代りに法華宗真常しんじよう寺破却後の跡地を替地として与えられ、現在地に移転させられた。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]中区大手町三丁目

八屋山と号し、曹洞宗。本尊は正観音。開山は城下国泰こくたい寺三世十岫。「知新集」所収の「宝永七年秘記」には古くは高田郡吉田よしだ(現吉田町)にあったが、可部かべ(現安佐北区)から沼田ぬまた打越うちこし(現西区)に移され、毛利輝元のとき城下広瀬ひろせ村に、福島正則の元和四年(一六一八)現在地に移ったとある。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]大江町字南有路

矢津やづ谷の西方にある。円通山と号し、曹洞宗、本尊十一面観音。文亀元年(一五〇一)大化智心の創建と伝える(加佐郡誌)。旧語集に次のように記され、矢津谷にあった円通えんつう寺の本尊を当寺に安置したこと、山号は円通寺に、寺名は観音経(普門品)にちなんだことが知られる。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]山岡町下手向 荒木

荒木あらきにあり、竜雲山と号し曹洞宗。本尊十一面観音。寺伝によれば、寛永三年(一六二六)の開山と伝える。初住の田翁公は慶長一〇年(一六〇五)没とされるので、開山以前に庵寺があったと思われる。二代快翁慶闇は承応三年(一六五四)没。五代和光拈調がいずこかへ去った後は無住となり荒果てた。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]師勝町六ッ師 中屋敷

慈雲山と号し日蓮宗。本尊法華題目木塔。応永元年(一三九四)の創建とする。実成じつじよう(現海部郡甚目寺町)の二世日長が、まず長栄ちようえい寺を営み、次いで当寺を草創し開山となったという。天文一六年(一五四七)大樹院日法が中興し、元禄年間(一六八八―一七〇四)に堂宇を再建し、享和年間(一八〇一―〇四)と天保年間(一八三〇―四四)に堂宇の修築を行ったが、明治二四年(一八九一)の濃尾震災で、山門・番神堂のほかは倒壊(徇行記、西春日井郡誌)


普門寺
ふもんじ

[現在地名]西春町西之保 中屋敷

甘露山と号し、曹洞宗。本尊十一面観世音菩薩。「雑志」所引の「尾州府志」は享禄三年(一五三〇)心菴専首座の創建と記すが、「西春日井郡誌」は正保二年(一六四五)の創建で、専公(心菴か)を開基、正眼しようげん(現小牧市)の一八世南陽嫩寿を開山とする。もと平僧地であったが、天保八年(一八三七)良要の代に法地となった。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]下北山村大字下池原

池原いけはら集落のほぼ中央にある。補陀落山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。「寺院明細帳」の本文に「開山覚雄和尚」、付箋には明治五年(一八七二)調べとして「開山是的寛永元甲子年創立」とある。覚雄・是的は現三重県鳥羽市の常安じようあん寺住職。


普門寺
ふもんじ

[現在地名]大府市横根町 石丸

海雲山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観世音菩薩、開基創建は元和年間(一六一五―二四)といい、開祖は雪山寿盛。明和七年(一七七〇)の由来記によると、白鳳元年の頃、夜ごと波間に怪物が現れ、遠近の里人は恐れ、海辺の往来は全く絶えた。壬申の二月一一日夜、その怪物から白雲の虹をかけたように当山地へと連なった。

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事典 日本の地域遺産 「普門寺」の解説

普門寺(景粛堂・常盤蔵・石燈籠群・庭園・石畳と八十段)

(長崎県平戸市木ヶ津町)
景観資産〔長崎県〕」指定の地域遺産。
平戸市の中部にある藩主ゆかりの寺院。1本の大杉だけを材料とした「景粛堂」、砂岩の切石で築かれた「常盤蔵」、数10基の石灯籠が並ぶ墓地などがある。平戸市指定史跡

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「普門寺」の解説

普門寺

岩手県陸前高田市にある寺院。曹洞宗。山号は海岸山。1241年、栄西の弟子記外による開基と伝わるが異説もある。2011年の東日本大震災後の犠牲者の慰霊のために制作された五百羅漢像がある。

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世界大百科事典(旧版)内の普門寺の言及

【椿[温泉]】より

…40℃の単純泉で,加熱して浴する。江戸前期,当地普門(ふもん)寺の僧が,シラサギがこの湯で傷をいやすのをみて,鷺の湯と名付けたのがはじめという。一時期は普門寺の寺湯であった。…

※「普門寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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