マーストリヒト条約(1993)により設立されたヨーロッパ地域統合体。略称EU。
EUは、加盟国からなる共同統治のシステムである。それは、国家なみの統治機構を備えるものの、国家ではなく、かといって国家と国家の集まりである通常の国際機関とも異なる。その独自のシステムを通じて、加盟国(民)は一国では達成しえない平和や繁栄や権力を共同で手にしてきたといえる。
理論的にいえば、EUは、主権国家システムを基調とする世界秩序に対する興味深い逸脱例として語られてきたが、その独自性とも相まって等身大の理解がむずかしく、主権や民主政のあり方が問われる論争的な存在であり続けている。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
EUは、連邦国家に比肩される統治機構の束をもつ。行政府としてヨーロッパ委員会(欧州委員会。本部はベルギーのブリュッセル)があり、基本的にその提案に基づき、加盟国政府を代表する閣僚理事会(事務局はブリュッセル)と民衆を代表するヨーロッパ議会(欧州議会。本議会所在地はフランスのストラスブール)とが共同で立法する。議会はもちろん、理事会においても多くの領域で多数決が採用されている。理事会のなかでも、政府の長で構成されるヨーロッパ理事会(欧州理事会)は、EU全体の政策の方向を左右し、主要人事においても指導的な役割を果たす。加えてヨーロッパ司法裁判所(EU裁判所とも。EUCJ、本部ルクセンブルク)が設置されており、EU法の最終的な判断者として統合にも大きな役割を果たしてきた。ほかにも、経営者団体や労働組合などの民間主体が集う経済社会評議会、地域や地方の指導者が集まる地域評議会などの諮問機関があり、意見表出の回路となっている。
これらの機構の権限は、基本となる条約(EU条約およびEU機能条約、2009年12月発効のリスボン条約)に基づいており、脱退の手続も規定され、その意味でEUも政府間合意に基づく国際機関の側面をもっている。ただし、たび重なる条約改正のたびにEUの権限は強化され、各国の拒否権は大きく制限されている。首脳たちは最低でも年4回は集まり、5億の民により選ばれた議会が立法を左右する。EUCJの判決が蓄積するにしたがい、EU法は加盟国のみならず個人や法人を直接に拘束してきた。またEU予算はいまや年間1601億ユーロ(2018年のコミットメントベースの数字、1ユーロ130円として約20兆円)に上っており、世界11位の経済体である韓国の年間政府予算に匹敵する。1998年末には為替(かわせ)レートを固定し、通貨までも統合し(ユーロ流通開始は2002年)、世界的にみて比類なき政治体となっているのも事実である。
EUの加盟国は、固定されたものではない。もともと1950年代当初のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)やヨーロッパ経済共同体(EEC)の発足時は6か国(フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国〈ベルギー、オランダ、ルクセンブルク〉)であったが、1973年に初めて新規加盟国のイギリス、デンマーク、アイルランドを迎えた。1981年にギリシア、1986年にスペイン、ポルトガル、1995年にスウェーデン、オーストリア、フィンランド、2004年には旧東欧などの10か国が一気に加わった。その後も2008年にルーマニア、ブルガリア、2013年にクロアチアが参加し、2019年初頭時点で28か国に上る。ただし、2016年にEU加盟の是非を問う国民投票で離脱派が多数を得たイギリスが、2019年にEUを脱退する見込みである(後述)。
わかりにくいことに、EUの加盟国はすべての政策に等しく参加するとは限らない。EUの基幹的な事業である単一通貨ユーロに参加しているEU加盟国は、2018年段階で19か国にとどまり、脱退見込みのイギリスだけでなく、スウェーデンやデンマーク、ポーランド、ハンガリーなどは圏外に留まる。同様に、人の自由移動をつかさどるシェンゲン協定に参加しているのは26か国で、イギリスやアイルランドなどは協定に参加していない一方、1972年と1994年の国民投票でEU非加盟を選んだノルウェーをはじめ、スイスやアイスランドなど非加盟国も協定参加国となっている。これらは、さらに統合を進めたいEU加盟国が、ときに域外の国を巻き込みながら、すべての加盟国の足並みがそろわなくとも前に進めるメカニズムが作動した事例でもある。けれども他方で、「どの統治機構がだれに責任を負うのか」といった市民に対する説明責任や、域外国にとってのわかりやすさに欠ける面がある。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
EUのカバーする政策領域は実に広く、ほぼ通例の国家がかかわるすべての統治分野に及ぶといってよい。その中核に位置するのが、緊密に統合された単一市場である。ここでは、モノ・ヒト・カネ・情報などが加盟国の領域を超えて円滑に流通し、それを妨げる加盟国単位の政策は基本的に禁止されている。日常的に単一市場を形成・監督するのは欧州委員会だが、最終的な判断を担う守護者はEUCJである。
単一市場を調和的に形成・発展させるため、さまざまな関連政策が統合されてきた。開発が困難であったり、過疎で苦しんでいたりする地域に対する地域政策から、格差に苦しむ層や世代に向けた社会政策まで、EUがカバーする政策領域は広がっている。また、ダンピングを防ぎ、単一市場を実質化するため、安全・環境基準から労働規制にいたるまで、多くのスタンダードが統一されているのもEUの特色の一つである。
のみならず、EUは、資本市場、ひいては通貨まで統一した珍しい地域統合体である。その成立経緯は歴史のセクションで後述するが、通貨政策を策定する主体として、制度上政治的介入から独立したヨーロッパ中央銀行(ECB)が1998年に設立された。一般に単一通貨の運営には、経済・財政における一定の収斂(しゅうれん)や規制が必要となるが、EUではECBをはじめ、欧州委員会、ユーロ圏首脳会議から財務相会合にいたるまで、多くの主体が関与している。
さらに、EUは人の移動という市民生活に直結する分野においても権能をもつ。すでに1976年からヨーロッパ共同体(EC)加盟国の警察・内務当局間の非公式な協力は始まっていたが、この分野における飛躍的な発展をもたらしたのは、シェンゲン協定である。これはもともと1985年に5か国だけで締結されたものであるが、1992年に本格的に改組され、1990年代なかばまでにほとんどの加盟国(その段階でイギリス、アイルランドを除く)が締約国になったのち、1997年に調印されたアムステルダム条約で正式にシェンゲン規則としてEUの一政策領域に組み込まれた。その結果、EUでは国境を越える人の移動はEU市民に認められた基本的自由となっており、これを保障するために、域内で警察・内務当局の協力が進み、1999年にはユーロポールEuropol(ヨーロッパ刑事警察機構、1991年設立合意、本部はオランダのハーグ)も本格的に活動を開始した。またこの自由化しゆく人の移動を裏づける市民権(EU市民権)が1992年のマーストリヒト条約で初めて法的に規定された。その後の条約改正、政策や判例の蓄積にしたがって、奨学金から年金・保険にいたるまで、市民生活に密接にかかわる分野においても国籍を理由とした差別の撤廃が進み、統合の影響があらゆるところに及んでいる。
さらに、いわゆるハイ・ポリティクスとよばれる外交安全保障分野においても、長い年月をかけて協力や統合が進んでいる。これについては、域外との関係のセクションで後述する。
いずれにしても、こうした制度的・政策的特色をもつEUは、きわめてまれな統合体といえる。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
この「統合(Integration)」という過程はいつ始まったのか。それ自体が論争的なテーマである。一方で、ローマ帝国やシャルルマーニュ帝国をEUの先駆けとして祭り上げる言説がある。他方で、EUが正式発足した1993年、あるいはその起源としてECSC発足の1952年を起点にする法制度的な議論がある。
もともと数学用語の「積分」を意味していたIntegrationが社会科学の術語になったきっかけは、19世紀末のH・スペンサーにある。彼は、さまざまな構成体が相互作用のなかで大きな単位へと収斂していく過程に、そのことばをあてた。
20世紀初頭の二つの世界大戦(とくに第一次世界大戦)は、それまで自意識として世界の中心にあったヨーロッパの没落を決定づけた。その結果、当時急激に勃興(ぼっこう)していたアメリカや、イデオロギー的な震源地であったソ連への対抗上、独仏の敵対的関係に終止符を打ち、中小国に分立していたヨーロッパがまとまることを志向する動きが顕在化した。オーストリアのクーデンホーフ・カレルギー伯爵やフランス首相ブリアンの構想がよく知られる。
もちろん第二次世界大戦の勃発はそうした動きが失敗に終わったことを意味するのであるが、この大戦中、戦後構想の一環として、アメリカがドイツを世界ならびにヨーロッパの一員として「統合」するアイデアを出していたのは注目に値する。戦後には、市場の統合や政策の共通化を目ざし、統一機構を設けるような制度化の気運が高まった。三つの主要な潮流をあげれば、一つは対独レジスタンスのなかから、戦後には各国民国家の再建でなくヨーロッパ連邦の立ちあげによってナショナリズムの止揚を訴える勢力(A・スピネッリAltiero Spinelli(1907―1986)が著名な例)。もう一つは、対独封じ込めを目ざし、ヨーロッパの政府間関係を整序するものであり、西欧同盟(西ヨーロッパ連合)や欧州評議会がそれにあたる。第三に、やや遅れて出てきたのが、分裂したドイツの西側を包摂し、西ヨーロッパの統合を図ろうとする動きである。この背後にあったのは米ソ冷戦である。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
結局、EUの制度的起源であるECSCが成立したのは、この最後の潮流の延長においてである。つまり、ソ連との体系的対立を見据えたアメリカが西ドイツの敵視をやめ、その支援を始めようとしたとたん、フランスがそれに対し仇敵(きゅうてき)がふたたび興隆するのではという危惧(きぐ)を覚え、西ドイツを自らのイニシアティブによって取り込む方向に動いたのが、シューマン・プラン(1950)であり、それがECSCにつながって戦後の「統合」の端緒をなした。アメリカはほぼ一貫してフランス主導の西欧統合をサポートした。
その過程と重なっていたのが、フランスの戦後経済再建である。戦後復興を企画庁長官として担ったJ・モネは、フランスで比較的競争力のある鉄鋼業を発展させるため石炭を必要としていたが、西ドイツにあるそれを、ヨーロッパの平和や和解の名目で共同管理のもとに置き、同時に西ドイツの経済的覇権を制御するメカニズムを構想したのである。主権国家としての国際社会への復帰を優先する西ドイツは、これを受け入れた。
シューマン・プランを打ち出した直後、朝鮮戦争が始まり、冷戦の激化とともに、アメリカ主導の西ドイツ再軍備が政治日程に上った。フランスは当然、仇敵の再軍備を憂慮した。それに対し、モネはヨーロッパ防衛共同体(EDC)を構想し、軍事的超国家機構によって西ドイツ軍をヨーロッパ軍のなかに解消しようと試みた。しかしこれは、その姉妹構想であるヨーロッパ政治共同体(EPC:European Political Community)構想とともに、1954年にフランス国民議会の承認を得られず、ついえた。
それでも残ったECSCは、のちのEEC、EC、EUにつながる制度的な大枠を設定した。それはまず、ドイツ、フランス、イタリアとベネルクス3国で構成され、1973年にイギリス、アイルランド、デンマークが当時のECに加盟するまで、この形のメンバーシップは続いた。また、高等機関という超国家的な制度が生まれ、権限は弱められたもののEEC以降の欧州委員会に引き継がれた。そのほかにも、議会や裁判所などの制度的萌芽(ほうが)がそこにみられた。
EDCが頓挫(とんざ)した影響は、統合の路線選択にもっとも鮮明に現れた。すなわち、いわゆるハイ・ポリティクスとしての軍事安全保障は長らく各国の専権事項とされ、その組織化は北大西洋条約機構(NATO(ナトー))が担った一方、市場統合や経済的な政策の共通化はEEC‐ECの枠組みのなかで追求された。1958年には計画を前倒しして関税同盟が完成し、1960~1970年代にかけて共通農業政策は充実していった。
ただし、統合の進め方に関しては、フランス大統領に就任したド・ゴールが条約で予定されていた多数決の導入に猛烈に反対し、1960年代なかば、自国代表団をほとんどのEEC意思決定機構から引き揚げた(空席政策)。これにしたがいEECは麻痺(まひ)し、実存的危機を迎えたが、結局、結果的に各国に拒否権を認める形となり、全会一致による決定が慣例化した。
この慣例が崩れたのは、それから四半世紀が経過した1980年代なかばのことである。1970年代には、すでに述べたメンバーの拡大、欧州理事会の制度化、欧州議会の直接選挙、外交政策の擦り合わせ、欧州市民の観念の推進など、それなりに統合や協力は進んだのだが、1980年代初頭までには、拡大したEC内における意思決定の困難が広く意識されるようになっていた。そこで、1987年に発効した単一ヨーロッパ議定書(単一欧州議定書)では、非関税障壁の撤廃を軸とする市場統合の完成に限定する形で多数決の導入を図り、それによって各国の拒否権に制約を設けた。その後、この多数決が他の分野でも使えるように拡張されていくことになる。また統合の加速にあわせて、しだいにECの予算も増加していった。
1989~1991年に冷戦が終結した際、勢いを取り戻したECは、一つの中心的な主体や場として重宝された。冷戦終結の一大争点はそれまで分断されていたドイツの統一であり、たとえば欧州委員長J・ドロールの率いていた欧州委員会は、その統一と(東ドイツの)EC編入を大いに助けたのである。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
冷戦は戦後ヨーロッパ統合の揺り籠でもあった。その終結は、いくつかの点で統合を根底から揺さぶった。もっとも重要なのは、戦後分裂し、その意味で弱体化させられていたドイツが統一するとき、それをどう制御するかという問題であった。ヨーロッパ統合の核心的な課題が再浮上したことになる。これに対しては、軍事的には、渋るソ連を説得し、統一ドイツを西側のNATO加盟国とすることで抑えた。また政治的には、マーストリヒト条約(批准1993年)により、ECをEUにアップグレードすることで、強力な統合枠組みにドイツを組み込み直そうとした。
この制御案の中心にあったのが、通貨統合プロジェクトである。のちにユーロとよばれる単一通貨のもとで、それまでドイツ連邦銀行が一方的に策定してきた通貨政策の形成を共通化し、フランスやイタリアが関与することで、ドイツの覇権を弱める余地をつくりだした。もちろん、市場統合の完成に伴って資本移動の自由化が進んだ結果、経済論理的に、為替を固定(通貨統合)するか、それとも加盟国次元で独立した金融政策を維持するか、選択を迫られていた(この問題群を「開放経済のトリレンマ」という)わけだが、政治的な必要が出そろって、ヨーロッパ次元で通貨統合を実施することが決まったのである。
変化したのはそれだけではない。冷戦期のヨーロッパは、長らくアメリカに後押しされ、西側にメンバーシップを限定させ、軍事安全保障はアメリカ主導のNATOにおおむねゆだねて、経済中心の統合を図ってきたのが実情であった。この両者は不可避的に影響を受けよう。まずメンバーシップは鉄のカーテンを越えて東側に不可避的に拡大した。1995年に旧中立国を中心に、2004、2007年にも旧東側諸国が、さらに2013年クロアチアもEUに加盟した。結果、この段階で28か国にまで版図は広がった。次に、アメリカとの関係、軍事安全保障上の役割分担が変化した。つまり、領土的防衛はあいかわらずNATO中心に行われていても、アメリカが冷戦後、ヨーロッパを含めた域外への関与から徐々に手を引くにしたがい、外交安全保障の領域にEUがせり出していくのは不可避であった。つまり、地理と機能の双方が冷戦後変化したのである。
他方、加盟国が大幅に増えた分、全会一致での決定は困難になり、多様性や遠心力も増す。それに対し、1997年アムステルダム条約、2001年ニース条約と制度改正が続き、意思決定の簡素化・合理化が図られた。さらに2004年、象徴的な意味で結束力を確保し、EUの権限を強め、民主的正統性を高めようと、EU憲法条約が締結された。これによりEUが、通貨に引き続き、国家にしかもちえない属性とされた憲法をもつことになるはずであった。しかしながら、翌2005年に行われたフランスとオランダの国民投票でそれは否決され、葬られた。結局、憲法という意匠は取り下げられ、実質的な改正条項を残したリスボン条約が2007年に締結され、2009年に批准が完了した。現在のEUは、この条約までの諸規定に基づき、運営されている。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
リスボン条約の発効から間もない2009年10月、ギリシアでは総選挙で政権が交代した。おりしも、2007年のサブプライムローン危機、とくに2008年のリーマン・ショック以降、ヨーロッパから資金が引き揚げられ、各地で信用問題が生じていた。そうしたなか、ギリシア新政権は、前政権が財政赤字を大幅に過少申告していたことを明らかにした。それをきっかけに、同年末ギリシア国債が暴落し、翌2010年初頭にはユーロ圏全体の信用問題に飛び火した。いわゆるユーロ危機である。これは、2010年から2012年の間、断続的に、また2015年のギリシアにおける急進左派政権の成立直後にも先鋭化し、幾度も市場をパニックに陥れ、EU統合の本丸を襲った。
ただし、この間、EU・ユーロ圏首脳は、ほぼ月に1回のペースで会合を重ね、ユーロの制度を強化していく。2010年5月に合意されたEFSF(ヨーロッパ金融安定ファシリティー)やEFSM(European Financial Stability Mechanism、ヨーロッパ金融安定化メカニズム)は、のちESM(ヨーロッパ安定メカニズム)に吸収され、2012年9月恒久化された。2012年3月には、財政条約がイギリスとチェコを除く25か国により締結された(2013年1月発効)。これにより均衡予算が法的に義務づけられ、未達成の場合には罰金をESMに支払い、均衡予算に向けた自動是正措置が発動されることになった。並行して、加盟国の財政政策を欧州委員会があらかじめ精査し、経済政策の提案を行うヨーロピアン・セメスターも導入された。さらに、銀行同盟の段階的形成がなされ、2014年11月に単一監督制度(SSM)、2016年から銀行破綻(はたん)処理もまた一元化された。最後に、2011年11月にECB総裁に就任したマリオ・ドラギが、大規模低利子の長期資金供給オペレーションを実施し、2012年7月末にはユーロを守るためには「なんでもする」と発言し、実質的にECBを最後の貸し手とすると宣言した。この間、ECBを中心にユーロ圏加盟国中央銀行の間で資金の融通が続けられたことも手伝って、しだいに信用不安は緩和され、ユーロは制度的に強化されたのである。
しかし、財政統合はままならず、単一通貨の制度は十全とはいいがたい。2015年には、ギリシアの政変を経由し、ふたたび危機に陥り、イタリアが同様に信用不安に陥るか注目され続けている。
さらに、ユーロ危機と並行して、2010年代のなかば、クリミアがロシアに編入され、東部ウクライナの紛争が続くウクライナ危機、100万人を超える難民が中近東から押し寄せた難民危機(ヨーロッパ難民危機)、パリやブリュッセルでのテロ事件、あるいはカタルーニャの独立宣言(カタルーニャ独立問題)など、複数の危機が生起・連動したことで、ヨーロッパ複合危機の様相を呈している。
そのなかでも統合史上有数の衝撃となったのが、2016年6月EUメンバーシップの是非を問うたイギリスの国民投票における離脱派の勝利である。このいわゆるブレグジットは、反移民(EU域内人口移動を含む)感情、主権・自決意識、そして労働者の疎外感が重なった結果といえよう。これは、イギリスがEUで初めて国として脱退することになるだけでなく、経済・財政・人口など規模さまざまな指標で10~15%の重みをもち、域内で珍しい実効的な軍事大国で、世界的な影響力や威信をもつ加盟国をEUが失うことを意味する。2017年3月、イギリス政府は正式に脱退の申請をEUに提出し、リスボン条約の規定に基づき、2019年3月にはEUから離脱する見込みであるが、イギリスとEUが市場から安全保障までどのような関係を取り結ぶのかについては、いまなおイギリス国内の対立が激しく、その行方は予断を許さない。
ブレグジットは、その前後から興隆を続けている、いわゆるポピュリズムの一例でもある。それは、中間層がやせ細り、アイデンティが動揺する状況を背景に、既存の(とりわけエリート支配)政治への不満が投票に反映された民主政の一形態であるが、しばしば虚偽の情報などを伴い、反多元主義の色彩を帯び、指導者への権限集中が強まるなど非自由主義的な傾きをもつ。
2017年5月には、開放経済、ヨーロッパ統合、多文化主義を正面から支持するマクロンがフランス大統領に就任し、そうした動きに待ったがかけられた。けれども、ポピュリズム勢力はドイツ、イタリア、オランダ、オーストリアなどで伸長し、西欧諸国の戦後民主政が拠ってたつ基盤を揺るがし続ける一方、ポーランドやハンガリーなど旧東欧のEU加盟国では権威主義への傾斜を強めている。EUに崩壊の気配は当面ないが、統合と連帯の基礎が内側からどこまで掘り崩されていくのか、注視が必要な状況である。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
EUの権限が強まるにしたがい、その正統性の問題が意識されるようになった。その支配が拠ってたつ基盤が問われたわけである。最大のきっかけは、1980年代なかばの単一欧州議定書で多数決が導入され、加盟国が立法過程における拒否権を喪失したことである。それまでは、ECの権限が増強されていたとはいえ、国民の側からすると、自国政府を拘束しておけば、ECの決定は制御できた。しかし、限定的な分野であれ多数決が導入されると、それはときに意味がなくなる。そうすると、加盟国を通じてではなく、EC/EUそれ自体の権力行使に直接正統性が問われることになるというわけである。
正統性とは、それによって権力が権威に転化する転轍(てんてつ)メカニズムである。たとえば伝統、カリスマ、合理性などを経由して、支配者による命令を受け手のなかで内的に正しいことと受容させ、それが命令であるというだけで従わせるものである。通常の民主国の場合、国民によって代表が選ばれ、その代表が支配するわけだが、その支配の正しさは選挙により担保される民主的な正統性による。
EC/EUは、その民主的正統性の問題に対し、欧州議会の権限を増強することでこたえようとした。1979年より欧州議会は直接民衆から選ばれるようになっていたが、立法・予算・人事など枢要な事柄において権限が限られ、おおむね諮問的な役割にとどまっていた。けれども、1980年代なかばの単一欧州議定書における欧州理事会と欧州議会との協力手続が、より画期的なことに1992年のマーストリヒト条約で共同決定が導入されて以降、条約改正のたびに立法や予算での権限が増強された。並行して、欧州委員長の選出過程でも議会関与が強められ、マーストリヒト条約では欧州理事会の指名する欧州委員長への不信任手続が明記され、投票数の3分の2の賛成かつ議員総数の過半数を占めることが必要となった。現行リスボン条約では、欧州理事会が議会選挙の結果を「考慮」し、議会との協議を経て、委員長候補者を欧州議会に提案し、欧州議会が選出することになっている。2014年の新欧州委員長選出の際には、議会多数が推薦するルクセンブルク元首相ユンケルJean-Claude Juncker(1954― )を欧州理事会の特定多数決によって選んだことで、条文の精神が生かされた。
ただし、こうした制度改正によって欧州議会、欧州委員会、ひいてはEU全体が民主的正統性を帯びているかというと、それはおぼつかない。というのも、EUに一つの選挙民は存在せず、欧州議会選挙の際には、国ごとに異なる選挙法のもとで、EUについてというよりも、それぞれの国民ごとの直近の関心(あるいは無関心)に従って投票しているのが実情だからである。議会自体の社会的基盤が弱く、その権能が強化されるにつれて投票率は低下する傾向にあり、問題は構造的といえる。また、EUの存在を否定的にとらえる勢力が欧州議会で議席をもつことで政治的な存在感を発揮し、民主的な場が反EUのプラットフォームになり、EUの拠ってたつ基盤を掘り崩すという皮肉な現象も、しばしばみられる。
結局EUは、「皆が決めたから従う」という民主的な正統性というよりも、いわば機能的な正統性に拠っている面が強い。つまり、「作動し、益をもたらしている(とおおむね思われている)限り、その存在根拠を問わない」という性格のものである。とりわけ、EUが一国でなしえないことを共同で可能にするとき、その存在意義は強含みとなる。逆に、通貨危機や難民危機のように、EUの機能不全が前面に出てくると、その正統性は揺らぐ。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
70年以上にもわたる統合の結果、EUは高度に制度化された共同統治機構を抱え、それなりに強大な権限を行使するようになった。地方や地域への分権も各地で進んだことも手伝い、結果として、いわゆる重層的な統治体制が出現し、EU、国家、地域・地方の間で統治権能を分有するようになっている。興味深いのは、そうした実態的な変容とともに、理念的な変化がみられることである。補完性原理はその代表例といえる。
もともと補完性原理は、ヨーロッパ思想史の長い伝統のなかで醸成されたもので、消極的な面と積極的な面の双方がある。一方でそれは、「より大きな集団は、より小さな集団(究極的には個人も含まれる)が自ら目的を達成できるときには、介入してはならない」という介入の限定の原理であり、他方で「大きな集団は、小さな集団が自ら目的を達成できないときには、介入しなければならない」という介入肯定の原理でもある。それが、EUと加盟国、ひいては地域・地方の関係に適用されることになる。
1992年に締結され、EUを設立したマーストリヒト条約は、前文において「補完性の原理に従って、できる限り市民に近いところで決定が行われ」るとうたったうえで、3条B(現在は微修正のうえリスボン条約5条2項)で「排他的権能に属さない分野においては、共同体は、補完性の原理に従い、加盟国によっては提案された行動の目的が十分達成されず、また、提案された行動の規模や効果の点からみて、共同体によってよりよく達成できる場合にのみ、また、その限りにおいて活動を行う」とした。これにより、通貨などの分野におけるEUへの権限増強が進むなか、規模や効果の点からそれを合理的と思われるものにとどめる一方、EU、国家、地域・地方などの重層的な権能分有を理念的に肯定した。それは、一定領域内における排他的権能を志向する主権原理とは異なる。補完性はEUが設立された瞬間に、いわば立憲原理として提示され、その主権原理と並行する形で、いまも維持されている。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
ヨーロッパ統合は、域内において平和と繁栄を確保し、域外に対して影響力を確保するプロセスである。冷戦初期にアメリカに後押しされて西欧で制度化が進んだ統合だが、ヨーロッパ側の意識のなかには多くの場合、アメリカとソ連双方への対抗が秘められていた。時代が進むにつれて、対抗したり影響力を投射したりする相手はアラブ諸国、日本、中国、ロシアなどさまざまに変化したが、ヨーロッパの中心性や優位性の維持は、統合の重要な目的であり続けている。
統合の歴史は、EC/EUがゆっくりと外交上のアクターとして認知されていく過程でもあった。端緒は、ECSCの時代にアメリカに援助や協力を求め、イギリスと連合協定を結んだところに求められよう。より実質的には、EECが設立され、1960年代に域内で農業共同体を形成し、しだいに関税同盟を完成させるにつれ、それらの権能を域外に対して代表する組織体として、通商交渉の主体とならざるを得なくなったことにある。1970年代には、ヨーロッパ政治協力という名のもとで外交当局間の交流や意見の擦り合わせが制度化され始め、またG7(先進7か国財務相・中央銀行総裁会議)等の国際的フォーラムにECの代表が参加するようになった。1980年代末の冷戦終結とともに、統一したドイツの突出を防ぎ、内向きになるアメリカを見越して、マーストリヒト条約でCFSP(共通外交・安全保障政策)、アムステルダム条約ではESDP(European Security and Defence Policy、ヨーロッパ安全保障・防衛政策。現、CSDP)が立ち上げられ、部分的に多数決が導入されるなど、発展してきた。これらを含め、条約改正のたびに、EUを中心とした統一的な主体としてヨーロッパが地域や世界に影響力を行使できるよう、改善が図られてきた。この間、外務省・防衛省・軍隊間の協力もいっそう緊密になってきており、他方でとくに予算関係の権限を経由して欧州議会の関与も増大した。
こうした基礎の上に、2009年にリスボン条約が発効し、EUは法人格を得、対外的にその理事会を代表する常任議長(大統領)職を設置し、そしてなによりもヨーロッパ対外活動庁(EEAS:European External Action Service)を立ち上げた(実働は2011年から)。これは、欧州委員会副委員長を兼ねるEU共通外交・安全保障上級代表により率いられ、世界各地に広がる加盟国の外交官ネットワークを束ね、EUの対外的統一性を図るものである。
現在その指揮のもとで行われている非軍事・軍事双方のミッションは、成立に先立って以前の制度枠で行われていたミッションや作戦も含め、2003年から2017年の間で計35件に上る。地理的にはアフガニスタンやイラクからコソボやウクライナ、あるいはコンゴ民主共和国にまで及び、約7000の人員がかかわった。
こうして、外交安全保障分野に権能と行動を拡張し、ひいては軍事分野においても一定の足掛りをつかんだEUであるが、その中心にあるのは、やはり経済と通商である。EECの時代からEUにいたるまで、世界最大級の経済規模(今では世界全体のGDPの2割ほど)を背景に、近隣と関税同盟(たとえばトルコと)、アフリカやカリブ海諸国とのパートナーシップ協定、旧EFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)諸国との間のヨーロッパ経済領域(EEA)などさまざまな提携を試み、関税交渉からスタンダードや規制のあり方にいたるまで、加盟国に有利になるよう、便宜を図ってきた。
21世紀になってからは、世界貿易機関(WTO)交渉が頓挫したこともあり、FTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)を積極的に結んでいる。南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))、メキシコ、オーストラリア、韓国、カナダなどとの協定がそれにあたる。
日本との関係は、1970年代から1980年代にかけて貿易摩擦で彩られていたが、1991年にハーグ協定を結び、定期的な首脳会談をはじめ、さまざまな協力・意見交換の場が設けられ、その10周年である2001年には、日本・EU協力に向けて行動計画がまとめられている。そうした実績のうえに、日本もまた、2018年にEUとEPA、SPA(戦略的パートナーシップ協定)を締結した(発効は2019年)。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
こうして歴史的に制度的な発展を遂げ、一定のプレゼンスと影響力を得てきたEUであるが、現在曲り角に直面している。それは、互いに関連する三重のものとして括(くく)れよう。一つには、ヨーロッパ統合の輪郭と目的が不明瞭になってきたことがあげられる。それは長らく冷戦という揺り籠の中で、比較的明瞭な外敵がおり、アメリカに後押しされつつ、西欧を中心に発展してきたが、冷戦後、敵味方も境界もぼやけ、いったいだれのために続けているのか、説明がむずかしくなっているのである。第二に、EUの権能が拡大した結果、その正統性が問題となっている。すでに述べたように、EUが民主的制御のもとにあるのかどうかが問われるようになって久しい。これに対する答えはまだ出ていないといってよい。最後に、民主的正統性という点ではEUよりはるかに強烈な基盤をもつ加盟国のレベルで、いわゆるポピュリズムが興隆している。その結果、排外、反移民、反多文化主義、反グローバル化、反エスタブリッシュメントとともに反EUを掲げる極右勢力が伸長している。
この最後の傾向は、ナショナリズムの根強さを裏づけるとともに、EUが拠ってたつ加盟国の民主政の劣化をももたらしている。これが、中長期的にEUのもつリベラルな原則と折り合いがつくのか、EU自体の存立にかかわるものなのか、まだわからない。明瞭にポピュリズムの傾きをもつEU離脱派がイギリス国民投票において勝利し、ほかの各地でも伸長し続けているということは、中心的な西欧諸国においても、ポピュリズム現象がEUの屋台骨を揺るがしうることを示したことになる。
さらにいえば、EU統合において、すでに主要加盟国の離脱という画期的な事態を迎え、一部の加盟国はEUの権能の分権化を求めてきていることから、右肩上がりの統合でつねにEUが強化され、紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらもやがて連邦国家の形成にいたるという神話は、もはや保ちえない。かわりに今後のEUのドラマの中心に座るのは、統合と分権(逆統合)や離脱との間の綱引きであり、その意味で、すでにポスト統合の時代に入ったといえよう。
[遠藤 乾 2019年1月21日]
『遠藤乾編『ヨーロッパ統合史』増補版(2014・名古屋大学出版会)』▽『中村民雄『EUとは何か――国家ではない未来の形』第2版(2016・信山社)』▽『遠藤乾著『欧州複合危機』(中公新書)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1992年2月7日に調印されたヨーロッパ連合条約(別称マーストリヒト条約)によって誕生したヨーロッパの地域統合機構。経済共同体としてのヨーロッパ共同体(EC),共通外交安全保障政策(CFSP),司法・内務協力(CJHA)の三つの柱からなる。EUと略称し,欧州連合ともいう。本部ブリュッセル。
加盟国はヨーロッパ共同体(EC)加盟12ヵ国に加え,1995年オーストリア,スウェーデン,フィンランドが加盟。2004年には中東欧など10ヵ国が加盟し,25ヵ国体制となった。立法機関に相当するヨーロッパ理事会(通称EU首脳会議),ヨーロッパ議会,閣僚理事会,行政機関に相当するヨーロッパ委員会,司法機関の相当する司法裁判所(所在地ルクセンブルク)など主要機関はECを引き継いだ。1999年1月,加盟15ヵ国中11ヵ国が参加するヨーロッパ経済通貨同盟(EMU)が発足し,新しい単一通貨〈ユーロEuro〉が誕生した(ギリシアが2001年参加。ユーロの紙幣・硬貨流通は2002年1月から)。ユーロの導入に先立ち,1998年ヨーロッパ中央銀行(ECB)が設立された(本部フランクフルト)。東欧や中欧へのEU拡大を前にニース条約が2001年に調印され,制度の改善が図られた(2003年発効)。2004年にはポーランド,チェコ,スロバキア,ハンガリー,スロベニア,エストニア,ラトビア,リトアニア,キプロス,マルタの10ヵ国,07年にはブルガリア,ルーマニアの2ヵ国が加盟し,EUは27ヵ国体制となった。2010年の拡大EUは総人口5億0250万人,域内総生産12兆2469億ユーロ(世界の約4分の1)。拡大EUを運営するための〈EU大統領〉〈EU外相〉職の新設などを盛り込んだ〈EU憲法条約〉が2004年採択されたが,翌05年フランス,オランダでの国民投票で否決された。07年リスボンでの首脳会議は〈EU憲法条約〉に代わる〈改革条約(リスボン条約)〉を採択,〈憲法〉という呼称は削除されることになり,リスボン条約は09年12月に発効した。
執筆者:編集部
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1993年に発効しマーストリヒト条約によって,ECを基盤にして成立したヨーロッパ統合機構。当初EC加盟国である12カ国が参加。95年にオーストリア,スウェーデン,フィンランドが加盟。旧来のEC,共通外交・安全保障政策,司法・内務協力を三つの柱とする。99年には統一通貨ユーロの導入が実現,2002年1月にはユーロの流通が開始された。また,2004年にバルト三国やチェコ,ハンガリー,ポーランド,スロヴァキア,スロヴェニア,キプロス,マルタの10カ国が,2007年1月にはブルガリア,ルーマニアが加盟するなど,EUは東方へ拡大している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…その後,イタリア,スペイン,ポルトガル,ギリシア,オーストリアが協定に加わった。なお,域内国境での検問廃止は,EU(ヨーロッパ連合)が1985年6月に採択した域内市場完成計画に内包された人の自由移動の一部であるが,イギリスの反対にあってEU全体のものとならなかった。 域内国境での検問廃止は,検問所をなくせばすむという単純なものではない。…
※「ヨーロッパ連合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新