松江(読み)マツエ

デジタル大辞泉 「松江」の意味・読み・例文・類語

まつえ【松江】

島根県北東部の市。県庁所在地宍道湖しんじこ中海なかうみにはさまれる。近世は松平氏の城下町。八雲塗・瑪瑙めのう細工を特産。平成17年(2005)3月、八束やつか郡7町村と合併、平成23年(2011)8月に東出雲町を編入。人口20.6万(2012)。

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精選版 日本国語大辞典 「松江」の意味・読み・例文・類語

まつえ【松江】

  1. 島根県北東部にある地名。県庁所在地。宍道湖と中海との間にはさまれ、大橋川で南北に分断される。江戸時代は松平氏一八万六千石の城下町として栄えた。めのう細工や八雲塗などの伝統的な手工業がある。昭和二六年(一九五一)国際文化観光都市に指定。明治二二年(一八八九)市制。

しょう‐こう‥カウ【松江】

  1. [ 一 ] 中国、呉淞(ウースン)江の異称。
  2. [ 二 ] 中国、上海市南西部の県。蘇州と並ぶ中国有数の農業地帯。

まつえ【松江】

  1. 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「松江」の意味・わかりやすい解説

松江[市] (まつえ)

島根県北部にある市で県庁所在都市。2005年3月旧松江市と鹿島(かしま),島根(しまね),宍道(しんじ),玉湯(たまゆ),美保関(みほのせき),八束(やつか)の6町および八雲(やくも)村が合体して成立した。人口19万4258(2010)。11年8月に東出雲(ひがしいずも)町を編入。

松江市北西部の旧町。旧八束郡所属。人口8414(2000)。島根半島の中央部に位置し,北は日本海に臨み,南は旧松江市に接する。日本海に注ぐ佐陀川の河口にある中心集落の恵曇(えとも)は,東部の御津(みつ)とともに漁業集落として発展し,魚市場や冷凍設備があり,県東部の漁業中心地になっている。かまぼこや缶詰の製造など水産加工業が盛んで,鮮魚行商の従事者が多い。宍道(しんじ)湖と日本海を結ぶ佐陀川は1788年(天明8)排水や灌漑用水として開削されたもので,舟運により松江と結ばれていた。日本海に面した輪谷地区に1974年中国電力の島根原子力発電所が完成した。佐太神社は旧暦10月の〈神在(かんあり)月〉に全国から出雲に集まる神々の宿泊地と伝えられる。縄文時代の佐太講武貝塚(史),弥生時代の志谷奥遺跡古浦遺跡がある。

松江市北部の旧町。旧八束郡所属。1969年町制。人口4447(2000)。島根半島北端に位置し,日本海に臨む。急傾斜地が多く耕地は少ないが,良港に恵まれ漁業が産業の中心である。中心地の加賀(かか)は帆船の風待港として古くから開け,江戸時代は松江藩の藩港となり,当地で産するハゼ,アブラギリなどを保管する木実蔵が設けられていた。現在は一本釣り,定置網などの漁業が盛んで,ワカメの養殖も行われる。屈曲に富む海岸部は大山隠岐国立公園の一部で,加賀ノ潜戸(かかのくけど)(名・天),築島の岩脈(天),多古の七ッ穴(天)など景勝地が多い。

松江市南西端の旧町。旧八束郡所属。人口9489(2000)。宍道湖の南西端にあり,南部の山地から流れる来待(きまち)川と佐々布川が北流して宍道湖へ注ぐ。中心地の宍道は古代は山陰道の宍道駅の所在地とされ,江戸時代は宿場町として栄えた。宍道湖の港町としても発展したが,鉄道の発達によりさびれた。米作,酪農,シイタケ栽培が盛んで,繊維,機械器具,木工などの工場も立地する。宍道湖のシジミは良質で,京阪神へ出荷される。来待地区では伝統工芸品に指定された来待石灯籠の生産が行われる。江戸中期の本陣建築である木幡(こわた)家住宅(重要文化財)や伊志見一里塚(史)がある。東西にJR山陰本線,国道9号線,南北にJR木次(きすき)線,国道54号線が通じる。

松江市南西部の旧町。旧八束郡所属。人口6114(2000)。宍道湖に面し,東は旧松江市に接する温泉の町。玉湯川の中流にある玉造温泉は奈良時代以前の発見とされる古い温泉で,出雲大社などに近いため四季を通じて多くの観光客が訪れる。玉湯川河口部の宍道湖畔には玉造温泉から引湯した新玉造温泉がある。花仙山一帯はメノウの産地として知られ,布志名(ふじな)には布志名焼の窯元がある。国指定史跡の出雲玉作跡は日本を代表する玉作遺跡で,出土品は玉作湯神社に収められている。古墳も多く,徳連場古墳,岩屋寺跡古墳は国の史跡に指定されている。宍道湖に沿ってJR山陰本線,国道9号線が通じる。

松江市南東部北寄りの旧町。旧八束郡所属。人口1万4355(2010)。中海南岸に位置し,西は旧松江市,東は安来市に接する。古くから開けた地で,京羅木山や星上山から流れ出す意東川,意宇川が形成する沖積平野には,条里制の遺構が多く残る。かまぼこの産地として知られる中心地の揖屋(いや)には農機具メーカーの工場があり,町の主産業となっている。農業では野菜栽培が行われ,特産に干し柿,苗木などがある。中海の干拓地では野菜や花卉などの栽培が行われる。旧松江市と米子市の通勤圏にあり,住宅地化が進んでいる。JR山陰本線,国道9号線が通じる。
執筆者:

松江市中央部にある旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口15万2616(2000)。市街地は島根半島の南側,宍道湖中海にはさまれた松江平野に位置し,東流する大橋川によって北の末次(橋北)と南の白潟(しらかた)(橋南)に二分されている。江戸時代初期に堀尾吉晴が北部の亀田山に築城し,京極氏を経て松平氏の城下町として繁栄した。明治維新後,松江に県庁が置かれて県の政治・経済・文化の中心となり,1908年宍道湖の南岸に山陰本線,28年北岸に一畑(いちばた)電鉄が開通して市街地が拡大した。また周辺町村を編入したため,市域も北は島根半島中部から南は忌部(いんべ)付近まで広がった。市街地の南北は松江大橋のほか新大橋,宍道湖大橋などによって結ばれ,城山周辺の士族屋敷が官公庁街や住宅地に,旧町屋が商店街となった。伝統産業では松平治郷(不昧(ふまい)公)以来の楽山(らくざん)焼,和菓子のほか目だったものはなく,明治期に八雲塗が始められた。近代工業では昭和初期に片倉製糸工場が松江駅の東側に,また第2次大戦後は自動車,ミシンなどの工場が国道9号線沿いに立地し,1966年中海地区が新産業都市に指定されて以後,市周辺に工業団地が数ヵ所造成された。しかし県内で占める比重は,事業所数では10.4%(1995年以下同),出荷額では8.7%と低くしかも零細である。他方第3次産業は市の就業人口の75%を占め,年間商品販売額では卸売業は県合計の47%,小売業は24%を占めるなど広い商圏をもっている。しかし近年郊外型大型店の出店ラッシュに見舞われ商店街の空洞化は著しく,都心の百貨店さえ駅前に移転せざるを得なくなってきている。市周辺の都市化は南部台地の宅地化から,北部丘陵地の開発に比重を移してきている。

 松江市は第2次大戦の戦災を受けず開発も急速には進まなかったため,武家屋敷の並ぶ町並みや内濠,外濠の役を果たした水路などが城下町の面影を残しており,1951年国際文化観光都市に指定された。出雲国分寺跡(史),風土記の丘,松江城跡(史),不昧公の好みになる茶室菅田(かんでん)庵(史・名),L.ハーン小泉八雲)の旧居(史)など史跡が多く,大橋川北岸には松江温泉(ボウ硝泉,76℃)がある。
執筆者:

出雲国の城下町。出雲・隠岐両国で24万石を所領にした堀尾吉晴は,出雲国の中心に位置する松江を城地に選んで,1607年(慶長12)から築城にかかるとともに城下町をつくった。領主は34年(寛永11)京極氏,38年松平氏に代わり,以後江戸時代を通じて支配した。松江の地名は開府以前にも見えるが,城主となった吉晴が,中国浙江省松江府の景観に似ているという春竜和尚の説をいれて,城地の末次と,大橋川をはさんだ対岸の白潟を中心にした城下町一帯を,広域地名で松江と呼ぶことにした。

 城下町は,松江城を中心にして,南東の堀川に囲まれた殿町と母衣(ほろ)町が内山下で,諸役所や一族重臣の屋敷が並び,その東に侍屋敷の北田町と南田町を配置した。城の西側は,御花畑の濠の外側に内中原町と藪ノ町の侍屋敷を置き,その西の外中原町には徒(かち)以下を住まわせた。京橋川の南が商工業者の末次16町で,南側は宍道湖と大橋川に面している。大橋を渡ったところも商人町で,白潟10町が,南の足軽居住地区である雑賀(さいか)町までのびており,寺町には30ヵ寺が集められた。末次の茶町,苧(お)町,紙屋町などは,関係品目を扱う問屋が多かったため町名になったといわれ,本町の京店(きようみせ)は,京都の絹布や小間物類を商売する免許の地で,ここの商店街は店のひさしを長くして雨降りにも雨具なしで歩けたという。末次の東部は職人町で,灯心町,紙屋町,八百屋町,魚町,漁師町,綿屋町,鍛冶町,桶屋町,材木町などがあった。白潟では,大橋に通ずる南北の本町と天神町が商人町であり,大橋の南詰の八軒屋町には,船改めの渡海場があり,他国問屋で旅人宿を兼ねた8軒の問屋があった。旅人宿はここだけで,大橋の北では宿泊を許されなかった。人口は,1761年(宝暦11)には家中1万5019人,町人1万3545人,計2万8564人,1838年(天保9)で家中1万5567人,町人2万0506人,計3万6073人である。物産には木綿,蠟,朝鮮人参などがあった。
松江藩
執筆者:

松江市北東端の旧町で,島根半島東端に位置する。旧八束郡所属。人口6781(2000)。南の美保湾に面する美保関港は天然の良港で,古くから日本海側の要港であり,また〈えびす様〉として全国の信仰を集める美保神社の門前町としても発展した。1902年水産会社が創立され,京阪方面への水産物の販路を開いたが,明治末の山陰本線の開通(京都から出雲市まで)など陸上交通の発達により,港は地元漁業の基地にすぎなくなった。民謡《関の五本松》で知られる五本松公園は港の背後の丘の上にある。72年に対岸の鳥取県境港市と結ぶ境水道大橋が完成した。日本海に臨む北岸の片江は,大正中期の機船底引網漁業の片江船団発祥の地で,町役場はここにある。
執筆者:

古代・中世には出雲国島根郡美保郷の一部。古くから日本海海上交通の要港,また漁港として栄えたが,中世になって海関が置かれ,美保関の名が起こった。美保関の明確な史料上の初見は,中世末期の1467年(応仁1)のことである(《海東諸国紀》)が,海関の設置および美保関という名称の成立は鎌倉末期~南北朝期ごろまでさかのぼると推定される。後鳥羽上皇,後醍醐天皇が隠岐に流された際の渡航地はいずれもこの美保関で,《梅松論》《太平記》などには〈美保津〉〈三尾の湊〉などと記されている。海上交通の発達とともにその重要性を高め,朝鮮との交易港としても重視された。出雲守護代尼子氏が美保関の関銭押領を契機に戦国大名に成長していったことはよく知られ,近世には西廻海運の風待港となった。
執筆者:

松江市南東部南寄りの旧村。旧八束郡所属。人口6844(2000)。旧松江市の南に接し,中央を北流する意宇川に桑並川,東岩坂川などが合流する。意宇川上流にある熊野大社は《出雲国風土記》にみえる古社で,出雲大社と並び称された。戦国期には尼子氏の居城月山(がつさん)城(現,安来市)への要路にあたり,熊野大社南方にあった熊野城は,毛利氏の侵攻により落城した。江戸時代には松江藩の奨励もあって,熊野地区での茶の栽培や東岩坂の別所地区での和紙製造が盛んで,別所では現在も手すき和紙生産が行われ,出雲民芸紙として知られる。村域の約6割が林野で,木材やシイタケなどを産するが,旧松江市に近いため兼業農家が増え,ベッドタウン化も進んでいる。熊野大社で毎年10月15日に行われる鑽火(きりび)/(さんか)祭は,新嘗祭の神火をきり出す火鑽臼と火鑽杵を出雲大社に送り出す神事であるが,亀太夫と称する神職が出雲大社側に難癖をつけ押し問答をする珍しいもので,亀太夫神事とも呼ばれる。
執筆者:

松江市東部の旧町。旧八束郡所属。人口4584(2000)。中海中央部にある大根島と江島を町域とし,ヤクヨウニンジンとボタンの栽培で知られる。1980年中海干拓によって松江市,境港市への陸路交通が可能になった。
大根島
執筆者:


松江 (しょうこう)
Sōng jiāng

中国,上海市南西部の県。人口50万(1995)。黄浦江の上流にある。長江(揚子江)デルタの伸長とともに後漢から三国にかけて開発がすすめられ,唐代に近隣県の地を併せて華亭県として独立した。元代には府が置かれ,明に松江と改名した。太湖東部の平野のほぼ中央にあって農産物に恵まれ,唐・宋のころより,蘇州とともに〈財賦の淵藪〉と称され,第一の穀倉地帯として名があった。元代には特に綿花栽培が盛んで,明・清時代も全国の紡績業の中心として,蘇州と並んで栄えた都市であった。その生産力を背景に,元末には張士誠がここを根拠地として明の朱元璋に抵抗した。明代には倭寇の跳梁が激しく,清末にも太平天国軍と清朝軍の戦闘地となった。文化財としては唐代の経幢(きようどう),宋代の興聖寺方塔などがあり,経幢は上海市内で最も古い建造物である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松江」の意味・わかりやすい解説

松江(市)
まつえ

島根県北東部にある市。県庁所在地。宍道湖(しんじこ)の東半分を取り囲み、東は中海(なかうみ)に接する。1889年(明治22)市制施行。1934年(昭和9)津田村、1939年朝酌(あさくみ)、川津の2村、1948年(昭和23)法吉(ほっき)村、1950年竹矢(ちくや)、乃木(のぎ)の2村、1951年忌部(いんべ)村と大庭(おおば)村の大部分、1953年生馬(いくま)、持田(もちだ)の2村、1955年古江(ふるえ)、本庄(ほんじょう)の2村、1960年大野、秋鹿(あいか)の2村を編入。2005年(平成17)鹿島(かしま)、島根、美保関(みほのせき)、玉湯(たまゆ)、宍道、八束(やつか)の6町および八雲村(やくもむら)と合併。2011年八束郡東出雲町を編入。2018年、中核市に移行。面積572.99平方キロメートル、人口20万3616(2020)。

 市名は『雲陽(うんよう)大数録』(江戸中期刊)によれば「松江ト府名ヲ付ル事、円成寺開山春竜和尚(おしょう)ノ作ナリ、唐土ノ松江鱸(ズンゴウすずき)魚ト蓴菜(じゅんさい)ト有ルカ故名産トス、今城府モ其(ソレ)松江ニ似タレバ、松江ト称スト云々」とあり、スズキ、ジュンサイを産し、湖江に面し風光明媚(ふうこうめいび)で中国の松江(しょうこう)に似たところから、近世初期、松江に本拠を定めた堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって松江と命名されたといわれる。中国山地と島根半島の間は宍道地溝帯とよばれる低地で古くは入り海であったが、ここに流入する斐伊川(ひいがわ)などの河川の沖積作用や、弓ヶ浜半島の形成によって潟湖(せきこ)の宍道湖、中海が生じた。市域は島根半島の東半分を占め、中海にある大根島(だいこんじま)と江島(えしま)を含み、さらに南は中国山地に及ぶ。市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川の流域に広がる。JR山陰本線、国道9号が宍道湖、中海の南岸を並走するほか、国道54号、431号、432号、485号、山陰自動車道、一畑(いちばた)電車北松江線が通じ、山陰自動車道宍道ジャンクションで松江自動車道と連結する。

[江村幹雄]

歴史

松江市南部の意宇川(いうがわ)流域には方墳が多く、山代二子塚(やましろふたごづか)(国の史跡)は全長90メートルを超える、出雲(いずも)地方最大規模の古墳である。このほか、一帯には岡田山古墳、安部谷古墳(ともに国の史跡)などの古墳が集中する。出雲国の国庁も意宇川沿いの大草郷に置かれた(出雲国府跡の名称で国の史跡)。1968年からの発掘調査で国庁跡の位置や規模が確認された。国庁の北方には出雲国分寺跡や道路(天平古道)があり、条里遺構もみられ、古代出雲の中心であったことをうかがわせる。地域の一部は「八雲立つ風土記(ふどき)の丘」として整備されている。八雲町地区には旧石器時代の空山(そらやま)遺跡、鹿島町地区に佐太(さだ)講武貝塚(国の史跡)があり、玉湯町玉造の出雲玉作(いずもたまつくり)跡(国の史跡)周辺には古墳が多く、史跡公園となっている。

 戦国時代末期には尼子(あまご)氏の勢力を一掃した毛利氏がこの地を支配したが、関ヶ原の戦い後の1600年(慶長5)堀尾吉晴が出雲、隠岐(おき)2国24万石に封じられ、富田(とだ)城(安来(やすぎ)市広瀬町富田)から松江へ本拠を移し、亀田(かめだ)山に築城し、城下町を形成した。松江城(国の史跡)の天守閣は桃山初期の特徴を残し国の重要文化財に指定されている。堀尾氏は3代で断絶し、その後入封した京極(きょうごく)氏も3年で断絶、1638年(寛永15)松平直政(なおまさ)が信州松本から18万6000石で入り、以後明治維新まで続いた。松江は城下町としての遺構がよく残り、とくに城北の塩見縄手(しおみなわて)は内堀に沿って武家屋敷が続き、往年のおもかげをよく伝えている。1951年には国際文化観光都市に指定された。

[江村幹雄]

産業

県の行政、文化の中心である松江市は消費都市的傾向が強い。商業は2004年で商店数、従業者数、販売額とも県内でもっとも多く、商圏は鳥取県にも及ぶ。農業は米作のほか、野菜、果樹、茶などの栽培が行われる。漁業は宍道湖や中海の内水面漁業、日本海での沿岸漁業のほか、鹿島町恵曇(えとも)漁港を基地とする沖合漁船団の乗組員も多い。美保関にも片江や千酌(ちくみ)などの良港があり、片江は機船底引網漁業の発祥地でもある。1964年中海地区新産業都市の指定でその中核となったが、工業は振るわない。1929年設立の片倉製糸(現、片倉工業)や、松江松下電器(現、パナソニックエレクトロニックデバイスジャパン)のほかは中小の企業が多い。そのため、松江湖南テクノパーク、鉄工団地、朝日ヒルズ工業団地、東出雲工業団地「タウン中海」や、先端技術の集積を目ざすソフトビジネスパーク島根などをつくり、工業振興に努めている。伝統工業には、めのう細工、八雲塗、出雲石灯籠(いずもいしどうろう)などがある。

[江村幹雄]

文化・観光

松江藩7代藩主の松平治郷(はるさと)は不昧(ふまい)と号し、茶人として知られた。その流儀不昧流はいまも市内で広く行われる。不昧公ゆかりの菅田庵(かんでんあん)(国史跡・名勝)の茶室菅田庵と向月亭(こうげつてい)は国指定重要文化財。小泉八雲(やくも)(ラフカディオ・ハーン)は1890年(明治23)から1年余の間松江中学で教鞭(きょうべん)をとるかたわら、『知られざる日本の面影』などで松江の風土を広く世界に紹介した。塩見縄手の旧居は国指定史跡で、隣接して小泉八雲記念館がある。このほか国指定重要文化財に神魂(かもす)神社本殿(国宝)など、国指定史跡に出雲国山代郷正倉跡などがある。また、県立美術館、松江郷土館、くにびきメッセ、安部榮四郎記念館などの文化施設もつくられている。日本海沿岸の加賀ノ潜戸(かがのくけど)(国名勝・天然記念物)や美保ノ北浦(国名勝)は大山隠岐(だいせんおき)国立公園の一部、玉湯川沿いには玉造温泉がある。なお、中海と宍道湖は2005年(平成17)に、ラムサール条約登録湿地となった。

 年中行事では、城山稲荷(いなり)神社で12年に一度行われる船神事のホウランエンヤや、江戸時代に始まるといわれる鼕(どう)行列、佐太神社の佐陀神能(重要無形民俗文化財)、美保神社の青柴垣神事や諸手船(もろたぶね)神事などが有名。

[江村幹雄]

『『新修松江市誌』(1962・松江市)』『『松江市誌』(1989・松江市)』



松江
しょうこう / ソンチヤン

中国東部、上海(シャンハイ)市に属する市轄区。上海市の南西部に位置し黄浦江(こうほこう)に沿う。人口59万5378(2013)。元代の松江府治で、1914年松江県となり、1958年江蘇(こうそ)省から上海市に編入された。1998年同市の市轄区となった。上海の近郊農業地帯の一中心地で、米(二期作)、綿花、小麦、ナタネ(アブラナ)を産するほか、養豚、淡水養魚、野菜栽培が行われる。機械、紡績、冶金、化学、食品加工などの工場が立地する。滬杭(ここう)線によって上海の中心部や杭州(こうしゅう)と連絡し、上海の衛星都市の一つとして機能している。宋(そう)代に建立された興聖教寺塔(方塔)がある。

[船越昭生・編集部 2017年4月18日]

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日本歴史地名大系 「松江」の解説

松江
まつえ

[現在地名]碧南市松江町・相生町

つるさきの北に位置する大浜おおはま村の枝郷。延宝二年(一六七四)から人が居住し始め、元禄一一年(一六九八)戸数三二を数え(村絵図)、正徳元年(一七一一)秋葉あきば社が創建された。松江の船着場として発展し、秋葉社の棟札に

<資料は省略されています>

と記す。延宝四年、近江国栗太くりた高野たかのつじ(現滋賀県栗太郡栗東町)から国松十兵衛が移住、鋳物師として梵鐘・仏具・鍋釜など鋳物業の祖となった。代官屋敷跡があり、前屋敷まえやしきの地名が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「松江」の意味・わかりやすい解説

松江[市]【まつえ】

島根県東部の市。1889年市制。県庁所在地。宍道(しんじ)湖中海にはさまれた松江平野および島根半島東部,宍道湖南岸一帯を占める。宍道湖東岸の中心市街は近世初期には小漁村であったが,1607年堀尾吉晴が亀田山に城を築き,1638年松平氏が封じられて以後城下町として発展。市街中央を大橋川が流れ,城下町の面影が残る。1908年山陰本線開通後,周辺農山漁村の経済・文化の中心となった。雑賀(さいか)町の木工業,母衣(ほろ),中原両町の和菓子,楽山焼,八雲塗など伝統工業のほか,1966年の新産業都市指定以降は工業団地が造成され,電気機械,事務機器などの工場が立地し,近年は産業の高度化が図られている。JR山陰本線,木次線,一畑電車,山陰自動車道,国道9号線が通じる。出雲国分寺跡(史跡),松江城,ラフカディオ・ハーン旧宅,菅田庵(かんでんあん)などの史跡,島根大学がある。2005年に中海,宍道湖がラムサール条約登録湿地となる。2005年3月八束郡鹿島町,島根町,美保関町,玉湯町,宍道町,八束町,八雲村を,2011年8月八束郡東出雲町を編入。572.99km2。20万8613人(2010)。
→関連項目島根[県]島根大学伯備線

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旺文社世界史事典 三訂版 「松江」の解説

松江
しょうこう
Sōngjiāng

中国江蘇省南東部,上海の南西部にある都市
唐代に華亭県を置き,元代にこの地域を松江(三江の1つ)府と改称。農業が栄え,中国随一の綿業地帯。明・清代には蘇州とともに重きをなした。「松江の鱸 (すずき) 」は古来より有名だが,現在は衰微。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松江」の解説

松江 しょうこう

本間松江(ほんま-しょうこう)

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事典・日本の観光資源 「松江」の解説

松江

(島根県松江市)
日本十二景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松江の言及

【松江[市]】より

…人口14万7416(1995)。市街地は島根半島の南側,宍道(しんじ)湖中海にはさまれた松江平野に位置し,東流する大橋川によって北の末次(橋北)と南の白潟(しらかた)(橋南)に二分されている。江戸時代初期に堀尾吉晴が北部の亀田山に築城し,京極氏を経て松平氏の城下町として繁栄した。…

【綿織物】より

…他方華南では,伝来が古くて紡織技術も進んでいたけれども,綿花の産量が少ないため綿布生産も少なく,やはり商品化はあまり進んでいなかった。このように事情の異なる南北の境界に当たる長江下流の松江府を中心として,商品生産としての綿織物が明代に発展した。 松江では元代に海南島から進んだ紡織技術が伝えられ,ある程度の商品生産が行われていたが,明代になって重税・重租に苦しむ零細農家の副業としての綿織物が急速に普及した。…

※「松江」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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