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中国の春秋時代以降、華南からベトナム北部にかけて広く分布していた民族、またはその建てた国をさす名称。種族が多いため、百越(粤(えつ))とも総称されたが、比較的まとまった勢力として次のような集団があった。
(1)於越(おえつ) 「于越」あるいは単に「越」とも称する。会稽(かいけい)を中心とする春秋時代の一国で、勾践(こうせん)ののち国勢振るわず、紀元前334年楚(そ)に滅ぼされた。
(2)甌越(おうえつ) 於越の後で、漢初に現れ、浙江(せっこう)省甌江(おうこう)流域を中心とし、越東海または東甌とも称する。
(3)閩越(びんえつ) 漢代、福建省閩江(びんこう)流域を中心とし、東越とも称する。
(4)揚越(ようえつ) 漢代、揚州の南部と北部にあった。
(5)山越 於越、閩越、揚越の後裔(こうえい)で、三国時代の中心は江蘇(こうそ)省にあった。
(6)南越 秦(しん)末漢初、広州を中心として、中国人趙佗(ちょうだ)の建てた国。
(7)西甌 秦・漢時代、ベトナム北部にあった越族の一勢力。
(8)駱越(らくえつ) 雒越とも書き、北ベトナムのソン・コイ川デルタを中心とする越族最南のグループ。
以上の各集団は三国時代までに中国の領域内に吸収され、漢文化に同化されたが、最南の駱越のみが越族の伝統をかたくなに保存し、宋(そう)初に独立してのちも越(大瞿越(だくえつ)、大越(だいえつ)、越南)をもって国号とした。現在のベトナム人は、駱越と中国華南地区移民の混血によるものである。
[陳 荊 和]
中国、春秋戦国時代の国。浙江(せっこう)省北部に本拠を置く大国として、江蘇(こうそ)省の大国呉(ご)と対峙(たいじ)した。その呉を滅ぼした後は、勢力圏を浙江から江蘇・安徽(あんき)両省方面に伸ばした。新石器時代、青銅器時代を通して中原(ちゅうげん)とは異なる文化圏にあった。前6世紀、越王允常(いんじょう)のころ、強大化して呉と抗争するようになるが、その子勾践(こうせん)(在位前496~前467)は呉王夫差(ふさ)に会稽(かいけい)で敗れ、滅亡の淵に立たされた。一時隠忍した後、呉王夫差が北進したすきを突いて呉に攻め入り、やがてこれを滅ぼした(前473)。その余勢を駆って中原に覇を唱え、山東の斉(せい)の南辺を脅かしたが、前329年に楚(そ)の威王(いおう)に大破され、さらには楚の頃襄王(けいじょうおう)にも大破されて勢力が衰えた。その後山東の南に命脈を保ち、前257年、魯が楚に滅ぼされたころ、同じく楚に滅ぼされたらしい。
[平勢隆郎]
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古代の広域地名。高志,古志,古之とも書く。本州の日本海沿岸域北半,敦賀湾から津軽半島までを包括する。律令期以降の越前,加賀,能登,越中,越後,出羽に相当し,若狭,佐渡は含まれない。《日本書紀》の国生み神話の多くは,本州を意味する〈大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)〉とは別に〈越洲(こしのしま)〉を掲げており,かなり遅くまで畿内の王権とのつながりの薄い独立性の強い地域であったと考えられるが,507年には継体天皇を畿内に送り出したと伝承される。《古事記》の〈高志の八俣(やまた)の遠呂智(おろち)〉の伝承,《出雲国風土記》の〈高志の都都(つつ)の三埼(みさき)〉の国引きの伝承などが,山陰との深い結びつきを語り,《日本書紀》欽明天皇31年条の高句麗使着岸の記事などが,日本海の対岸諸地域との頻繁な交流を伝える。642年(皇極1)の百済大寺の造営に〈近江と越の丁(よほろ)〉が徴発されたとする《日本書紀》の記述は,越が畿内の王権の掌握下に置かれたことを示す,厳密な意味での初見記事である。7世紀末の国評制の施行によって,越前,越中,越後の3国に分立。712年(和銅5)に越後から出羽,718年(養老2)に越前から能登が分立し,823年(弘仁14)に越前から加賀が分出した。古代貴族の越に対する観念は,多くの山坂を隔てたかなたの土地を意味する〈科離(しなざか)る〉の枕詞に象徴されている。
執筆者:浅香 年木
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?~前334
浙江(せっこう)地方を支配した周代諸侯国の一つ。都は会稽(かいけい)。北隣の呉(江蘇地方)と争い,勾践(こうせん)のとき呉王夫差(ふさ)を滅ぼし(前473年),さらに北上して覇者となった。その後衰退し,前334年楚(そ)に滅ぼされた。越人は文身(いれずみ),断髪の風習があり,その後福建地方に拠った閩越(びんえつ),嶺南(れいなん)を支配した南越と同じく,華南,ベトナムに分布していた南方系民族(百越)の一派である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
高志・古志とも。北陸地域の古称。「日本書紀」神代巻の国生み段に「越洲」とあるのが初見。「こし」は都から坂を越えたむこうの意とする説などがあるが不明。三国・高志深江などの国造(くにのみやつこ)がおかれたとされ,大化の改新の直後には渟足(ぬたり)柵・磐舟(いわふね)柵を造営。斉明朝(655~661)に国守阿倍比羅夫(ひらふ)が渡島(わたりのしま)・津軽に遠征するなど,北方に広大な夷地をかかえる国であった。7世紀末に越前・越中・越後の3国に分割。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…山の鞍部を横切って山越えの道が通っているところをいう。
[峠という言葉]
峠という字は日本で作られたもので,道が山嶺を越えて上り下りするところからできた。…
…また秦の始皇帝も禹をまつって石碑を建てたという(秦望山という別称はこれによる)。この付近は古代の越国の中心で,杭州湾から江南全体を展望しうる会稽山はその象徴であった。秦・漢を通じても江南全体は会稽郡と呼ばれた。…
…現在の佐渡を除く新潟県に当たる。
【古代】
大化改新以後つくられた越(こし)国の蝦夷に接触している地域で,7世紀の半ば阿倍比羅夫が蝦夷経営に活躍し,渟足(ぬたり)柵,磐舟(いわふね)柵がつくられた。7世紀末に越は越前,越中,越後の3国に分かれた。…
…現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。
【古代】
北陸地方は古くは越(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。越は蝦夷経営の前進基地としての政治的役割をもち,589年に阿倍臣を北陸道に遣わし越等の諸国の境を視察させている。…
…
【古代】
北陸道に属する上国(《延喜式》)。北陸の地一帯は古くは越(こし)と総称されたが,律令国家の形成過程で越前,越中,越後の3国に分割された。その時期は明確ではないが,《日本書紀》持統6年(692)9月癸丑条に〈越前国司白蛾を献ず〉と見えるのが分割された国名の初見である。…
※「越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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