翻訳|heart
イギリス出身の経済学者。ロンドン生まれ。1969年にイギリスのケンブリッジ大学キングスカレッジを卒業し(数学学士号)、1972年にイギリスのウォーリック大学で修士号、1974年にアメリカのプリンストン大学で博士号を取得した。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスやマサチューセッツ工科大学で教鞭(きょうべん)をとった後、1993年にハーバード大学教授につき、2000~2003年には同大学経済学部長を務めた。2016年、契約理論の分析モデルを確立した功績で、マサチューセッツ工科大学教授のベント・ホルムストロームとノーベル経済学賞を共同受賞した。専門は契約理論、企業理論、コーポレート・ファイナンス、法と経済学などである。
ハートはあらゆる事態を想定した契約を結ぶことはできないという「不完備契約incomplete contract」の分野で、予測不能なことが起きた際は、その対策を決める決定権や、決定権と密接な関係にある資産所有権が重要であることを理論的に明示した。そのうえで、決定権限や資産所有権をいかに配分するのが望ましいかを理論的に分析するモデルを導入。これを企業の買収・合併(M&A)やアウトソーシング、企業の資金調達方法や議決権の決定、企業不祥事などの企業統治(コーポレートガバナンス)、公営企業の民営化、破綻(はたん)法などの法律、政党の意思決定や投票制度などの政治学などに応用し、問題を精密に分析できるようにした。代表的な著書に『Firms, Contracts, and Financial Structure』(邦訳『企業 契約 金融構造』)がある。
[矢野 武 2017年3月21日]
『オリバー・ハート著、鳥居昭夫訳『企業 契約 金融構造』(2010・慶応義塾大学出版会)』
イギリス外交官。中国名は赫徳(ハート)。2月20日北アイルランドのポートアダウンで、酒造業を営むヘンリー・ハートの長男として生まれる。ベルファストのクイーンズ・カレッジ在学中に、学長クラレンドン伯爵は外務大臣の任にあり、当時香港(ホンコン)総督バウリングが唱導する、中国・日本に強力な領事業務を確立すべしという提案を受け、優秀な学生の選抜を試みた。このとき抜擢(ばってき)されて、1854年香港に派遣され、貿易監督庁に勤務した。その後、イギリスの寧波(ニンポー)領事館の通訳官、広東(カントン)領事館の補佐官、アロー戦争時、広州の連合軍司令部の書記官を務めた。1859年3月広東領事館の通訳官に復帰し、6月には、新設された広東海関の副税務司となった。1863年初代総税務司レイの後を引き継ぎ、1908年に至るまで総税務司として北京(ペキン)にあり、海関業務の拡充のみならず、中国の行政・財政の近代化、さらに対外交渉の仲介などにおいて、重要な役割を果たした。総理衙門(がもん)に付設された同文館(外国語学校)の運営にもあたり、また、1875年には北京および上海(シャンハイ)海関・鎮江(ちんこう)海関に郵政部を付設し、総郵務司を兼任した。1875年の中英芝罘(チーフー)協定、1885年の清仏(しんふつ)戦争、1895年の日清戦争賠償金問題、1900年の義和団事件などにおいて中国と列国との交渉の斡旋(あっせん)を行っている。彼は「局外旁観(ぼうかん)論」「海関金単位採用」「幣制改革案」を論じ、中国の統一と安定を目ざす漸進的改革論を示している。
1908年4月、1年間の休暇を与えられて帰国したが健康状態が悪化し、1911年9月20日、総税務司に在職のままバッキンガムシャーのマーローで永眠した。清朝滅亡の3週間前であった。
[浜下武志]
アメリカの映画俳優、監督。ニューヨーク郊外の生まれ。出演作の多くは自らが監督も兼ねている。舞台俳優から50歳で映画にデビューするが、まもなく孤独感ただよう演技で西部劇スターの先駆的存在となる。また、アメリカ先住民を出演させ、セットや衣装を入念に再現することを主張、西部劇にリアリズムを導入した。俳優としての代表作に『鬼火ロウドン』(1918)、『人生の関所』(1920)、『二挺拳銃(にちょうけんじゅう)』(1923)、『曠原(こうげん)の志士』(1925)などがある。
[奥村 賢 2022年6月22日]
地獄の迎火 Hell's Hinges(1916)
沈黙の人 The Silent Man(1917)
鬼火ロウドン ‘Blue Blazes’ Rawden(1918)
曠原の志士(キング・バゴットとの共同監督) Tumbleweeds(1925)
アメリカの劇作家、演出家。彼の原作にG・S・コーフマンが加筆した『生涯に一度』(1930)で成功を収め、このコンビによる風刺喜劇『それを持っては行かれない』(1936。ピュリッツァー賞受賞)、ミュージカル台本『私は身を正したい』(1937)、『晩さんにきた男』(1939)など秀作が続いた。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の演出も手がけ、単独作もあるが、『生涯に一度』上演に至るまでを描いた自伝『第一幕』(1959)は続編を期待されるほど好評であった。
[森 康尚]
『内村直也訳『晩さんにきた男』(『現代世界戯曲選集9 アメリカ篇2』所収・1954・白水社)』
アメリカの作家。ニューヨーク州オルバニーの生まれ。父親の死後カリフォルニアに移住し、さまざまな職業を体験したのち、ジャーナリズム界に入り、1868年雑誌『オーバーランド・マンスリー』の創刊に加わり、彼自身も短編『ロアリング・キャンプの福の神』(1868)を発表して圧倒的な人気を博した。続いて『ポーカー・フラットの追放者』(1869)、『テネシーの相棒』(1869)などを矢つぎばやに世に出して、一躍時代の寵児(ちょうじ)となった。ついで東部のニューヨークに出て、同じような作品を発表し続けたが、過去の栄光はついに戻らず、筆を折るようにしてヨーロッパの各領事館に勤めたのち、ロンドンで客死。彼の作品では初期の短編がもつ、社会からのけ者にされた賭博(とばく)師や荒くれ者たちの、怨念(おんねん)を超えた人間的な強さ優しさがみなぎる作品が最上であり、擬古的な文体ではあるが、地方色文学の先駆けとして名高い。
[亀山照夫]
イギリスの外交官,清国の総税務司。中国名は赫徳。北アイルランドのアルスター生れ。1853年ベルファストのクイーンズ・カレッジを卒業,翌年無試験推薦によって中国通訳生となり香港に赴く。寧波(ニンポー),広州で通訳官として勤務しながら外交実務を学ぶうち,1859年(咸豊9)両広総督・労崇光の推薦によって広東海関の副税務司となる。61年に総税務司のH.N.レイが賜暇で帰国すると,フィッツロイとともに代行を命ぜられ,まもなくレイが失脚したため1863年に第2代総税務司に就任した。外国人の管理する海関(洋関)の責任者であり,同時に清国に忠誠を誓う官吏でもあるという半独立的な地位を利用して,レイはヨーロッパ的な能率と正直さを洋関に確立すべく努力し,独裁的な権限をふるった。一方,ハートはその協調的な性格と政治的洞察力により中国要人から深い人間的信頼をかちとり,非公式に中国政府の政治顧問に等しい役割を果たす結果となった。ビクトリア朝風の進歩の信奉者であるハートは,強い中国の創出とそのイギリスとの協調を理想としたが,内外に反対者も多く,しだいに李鴻章と対立するようになった。1906年(光緒32),事前の了解なしに総税務司の職は新設の税務処の管理下におかれ,職権は縮小された。08年,ハートは賜暇帰国し,11年,総税務司に在職のままバッキンガムシャーで死去した。
執筆者:春名 徹
現代の英米系文化圏の法哲学を代表する学者の一人。オックスフォード大学卒業後,法廷弁護士,母校の哲学講師を経て同大学法理学教授(1952-68)。彼の法哲学の特質は,当時同校で支配的であったいわゆる日常言語学派の分析哲学の手法を分析法理学に導入し,伝統的な命令説(法を命令の一種とする考え方)よりも法現実に忠実な法理論の構築を試みたことにある。彼は,言葉の意味とはその指示対象であるとする説を排し,意味を言葉の日常的用法とその背景に見いだすことによって,権利・責任等の法的概念の実体化・物象化的解釈をしりぞけた。その主著《法の概念》(1961)では,上記の分析手法を法秩序全体に及ぼし,おおむね法実証主義的観点からルール概念を中心としたユニークな法体系論を展開した。一方,彼はイギリスに伝統的な自由主義の見地から,刑法における責任原理の廃棄や法による道徳の強制といった傾向に反対する。この道徳的立場と彼の哲学的・法理論的立場との関係をめぐる諸問題は多面的に論じられ,法哲学全般にわたって重要な成果をもたらす契機となった。
執筆者:森際 康友
アメリカの小説家。本名Francis Brett Harte。ニューヨーク州オルバニーでユダヤ人を父に生まれたが,家庭的に恵まれず,1854年には金鉱発見でわきたつ西部カリフォルニアに赴き,さまざまな職業を経て,新聞記者,雑誌編集者となった。そのかたわら,金鉱地帯の荒くれ男や,娼婦,博徒たちの人間味と純情さを,すぐれた技巧とペーソスを用いて描いた短編を発表し,爆発的な人気を呼んだ。そうした短編は代表作《ロアリング・キャンプのラック》(1870)に収録されている。71年,東部の代表的な雑誌《アトランティック・マンスリー》に年収1万ドルの高給で迎えられたが,期待された活躍はみられず,78年以降は文壇を離れて,プロシア,スコットランド駐在領事を務め,晩年はロンドンで暮らした。一時は,マーク・トウェーンをもしのぐ西部の人気作家であり,ビアス,オー・ヘンリーと並ぶ短編の名手であったが,現在では,西部の〈地方色(ローカル・カラー)〉文学の一面を示す通俗作家としてしか評価されなくなった。
執筆者:渡辺 利雄
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1835~1911
イギリスの外交官,清国の海関総税務司。1854年から寧波(ニンポー),広東の領事館勤務をへて,59年,清国海関の勤務に転じ,63年総税務司に就任,1911年まで在任した。海関行政のほか,清国の外交・財政方面にも貢献するところが大きかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…1パックのカードは幾種類かのマークに分類され,それぞれのマークのひとそろいをスートと呼ぶ。スペード,ハート,ダイヤ,クラブの4スートからなる1パック52枚のカードが国際的に通用し,スタンダード・パックとされているが,これはフランスを起源にしたものである。スペインでは40枚のパック,ドイツ,フランスでは32枚のパックがいまでも販売されている。…
…分析法学は,オースティン以後,W.マークビー,T.E.ホランド,F.ポロック,J.W.サーモンドらによって受け継がれ,H.J.S.メーンに始まる歴史法学と並んでイギリスの二大法思潮の一翼を形成するに至ったが,主権者命令説は,分析法学派の潮流のなかで批判され,修正・変貌の過程をたどる。20世紀の後半のH.L.A.ハートの法理論は,オックスフォード学派の哲学を基盤とするものであるが,分析法学の系譜を継ぐものとして,しばしば現代分析法(理)学と呼ばれている。しかし,ハートも法命令説は否定している。…
…天津条約では外国人税務司を全開港場に置くことが約され,同年上海欽差大臣何桂清(1816‐62)は,イギリスの関税委員であったレイHoratio Nelson Layを初代総税務司に任命し,1861年に総理衙門が設立されると,恭親王は改めてレイを総税務司に任命した。63年にはハートRobert Hartが2代目総税務司に就任した。65年(同治4)に事務所が上海から北京に移されたが,彼は1907年(光緒33)に引退するまで,海関行政のみならず,清朝政府の外国借款を仲介するなど外交手腕を発揮した。…
…天津条約では外国人税務司を全開港場に置くことが約され,同年上海欽差大臣何桂清(1816‐62)は,イギリスの関税委員であったレイHoratio Nelson Layを初代総税務司に任命し,1861年に総理衙門が設立されると,恭親王は改めてレイを総税務司に任命した。63年にはハートRobert Hartが2代目総税務司に就任した。65年(同治4)に事務所が上海から北京に移されたが,彼は1907年(光緒33)に引退するまで,海関行政のみならず,清朝政府の外国借款を仲介するなど外交手腕を発揮した。…
※「ハート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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