室町時代美術(読み)むろまちじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「室町時代美術」の意味・わかりやすい解説

室町時代美術 (むろまちじだいびじゅつ)

足利尊氏が征夷大将軍に任じられた1338年(延元3・暦応1)から,室町幕府滅亡の1573年(天正1)までの間の美術をここでは扱う。鎌倉時代の美術が,平安時代の貴族趣味に代わるものをまだ明確には打ち出せなかったのに対し,室町時代には,足利将軍家の美的趣向や幕府の庇護下に育った禅林の文人趣味に主導され,独自の性格をもつ美術が発展した。宋・元・明の美術の摂取による新しい〈漢〉の美術と,〈和〉の伝統美術との並立,交流が,室町美術の性格をかたちづくり,一方で地方にひろがる鑑賞層の増加を反映した美術の庶民化の傾向も徐々に強まってゆく。以下,室町美術の諸相とその展開を,南北朝の合一された1392年(元中9・明徳3)と応仁の乱の起こった1467年(応仁1)によって,初期,中期,後期に3分して述べる。初期は,南北朝時代にあたり,室町美術の形成期であり,中期は,足利義満の北山文化に集約される室町美術の興隆期である。後期は,足利義政東山文化の時代から戦国の動乱が深まり,中世の終末にいたる室町美術の成熟・変成期である。

南北朝時代の美術は,鎌倉時代後半期にみられた新しい諸傾向を引き継いで,それをさらに明確化する時期といえる。奈良・平安時代以来の伝統的な手法による仏像彫刻や仏画は,質的にはもはや発展を止めるにいたった。この背景には,南都の〈旧仏教〉の停滞,〈新仏教〉が仏像彫刻より名号(みようごう)や形式的な阿弥陀画像を礼拝に用いたこと,足利幕府の支持した禅宗が,仏像彫刻や仏画をあまり重視しなかったことなどの事情があるが,中国において,宋代を境に,仏教美術が世俗化して発展を止めたことの反映もある。寺社に属する木仏師仏師),絵仏師が座の特権を世襲制によって保とうとしたことも,作風の形式化,保守化につながった。

 これに代わる新しい美術の展開の契機となったのは,禅宗とともに中国からもたらされた宋・元の美術様式である。建築では安楽寺八角三重塔(長野)にみられるような禅宗様(唐様)が宋風の異国調をただよわせ,伝統的な和様建築はこの禅宗様や大仏様(天竺様)をとり入れて,いわゆる折衷様を生みだした。彫刻では慶派,院派,円派が前代末から引き続いて活躍し,各地に多くの像を残している。それらは,宋風の和様化ともいうべき温和な作風を共通の特色としており,中期,後期の彫刻はその作風を踏襲した。前代末から行われた頂相(ちんそう)彫刻においても,この点は変わらない。

円覚寺に伝わる《仏日庵公物目録(ぶつじつあんくもつもくろく)》は,当時すでに日本にもたらされていた宋元画や彫漆の類の質量ともに豊富なことを物語る資料だが,輸入された唐物(からもの)の美術品,文房具の精緻さと異国的な美しさは,京在住の武将の華美を好む〈ばさら〉の気風を刺激し,唐物崇拝の風潮を高じさせた。唐物は,室礼(しつらい),すなわち儀式や行事・会合の折の室の荘厳(しようごん)(座敷飾)として用いられた。この唐物荘厳は,室町時代の美術の性格をつくりあげる上で大きな役割を果たしている。唐物を飾るための調度である押板(おしいた)や棚,出文机(だしふづくえ)は,のちに建物の主室の意匠として固定され,それが近世の書院造の特色となる。また,唐物は模倣され国産化された。鎌倉彫沈金(ちんきん),古瀬戸の灰釉,鉄釉陶器などがその例であるが,重要なのは,宋・元の唐絵の模倣・学習による国産唐絵(漢画)の普及である。黙庵霊淵,可翁,鉄舟徳済,無等周位(1346-69),良全ら初期の唐絵画家が学んだのは,中国禅僧の余技としての水墨道釈画,細密な頂相,浙江省の民間絵師による著色の羅漢画などさまざまだが,なかで水墨の技法の摂取が水墨画という新しい表現の分野を発足させた。黙庵や可翁の描く布袋図,寒山拾得図の生気ある表現には,元の禅僧におとらぬ墨戯の精神が発揮されている。夢窓疎石による天竜寺庭園や西芳寺洪隠山枯山水石組みもまた,平安時代以来の庭園の伝統に,新たな禅の精神の骨組みを加えたものである。

唐物趣味の流行に押されて,また宮廷や公家の経済的劣勢もあって,伝統的なやまと絵の分野は停滞したとみられているが,それは,障屛(しようへい)画の遺品が乏しいためであって,実際は新しい動きのあったことが,14世紀の絵巻の画中に描かれた障屛画などからうかがえる。古代以来の屛風の一扇ごとの縁が取り払われて,それが構図の統一を有利にしたことも推察できる。絵巻では,普及にともなう量産化が質の低下をまねいたとはいえ,《絵師草紙》(宮内庁)のような前代末の絵巻にあらわれていた親しみやすい表現の系譜を引いて,《遊行上人絵巻》(真光寺,1323)や《浦島明神縁起》(京都府与謝郡宇良神社)のように,定型を崩した手法でしかも新鮮な表現を示す作品もみられる。この傾向は,中期,後期における稚拙ではあるがはつらつとした御伽草子絵や奈良絵本の流行につながってゆく。

中期には,南朝を合一して全国支配をとげた義満から義持,義教へと受け継がれた足利将軍家の財力と,彼らの美術に寄せる深い関心を背景に,初期を通じて準備された諸要素が洗練の度を加えたかたちで花開いた。それは,平安時代の宮廷美術に代わる,新しい貴族趣味の美術としての側面をそなえている。義満が建てた北山殿の遺構である鹿苑寺の金閣(舎利殿,1398)は,それまでの住宅建築になかった三層の楼閣であり,禅宗寺院の影響が指摘されている。しかしながら,北山殿の主屋は寝殿であり,独立して建てられた会所は,唐物,唐絵の陳列場でもあった。当時の将軍邸における座敷飾の方式は,1437年(永享9)義教が後花園天皇の行幸を新造の室町殿に仰いだときの記録《室町殿行幸御餝記(おかざりき)》などによってうかがうことができる。また,《看聞日記》は,当時の宮廷で毎年行われた七夕法楽の花会の座敷飾を記録しているが,花瓶と唐物,やまと絵屛風と水墨画によって雑然と飾られた室のありさまは,枯淡のイメージからはほど遠い。それは,同じ《看聞日記》に豊富に記録される風流の作り物の,人目を驚かす華やかな趣向と呼応するものでもある。

五山の禅僧による水墨画は,この時期にさらに進展した。明兆は水墨による大幅の仏画と彩色の羅漢画を豊かな筆力で描き分け,ついで如拙,周文が将軍家の用命に応じて活躍した。彼らとその周辺の画僧が多く手がけた詩画軸は,将軍も加わって五山の僧の間に流行した詩会の産物で,それは当時の中国禅林に浸透していた文人趣味の移植されたものである。詩画軸の画は,小画面の挿図的なものとはいえ,その詩的情趣に富む表現は,中国山水画の日本的解釈としてすぐれている。周文はまた,水墨の障屛画の分野でも活躍した。周文の画風は,彼のあとを襲って将軍家の御用絵師となった小栗宗湛や,雪舟,阿弥派,岳翁蔵丘,祥啓らに幅広く受け継がれている。

1368年(正平23・応安1)の明の建国は,日本と大陸との交易に新しい局面をもたらした。1401年(応永8)義満は明との国交を開始し,以後1543年(天文12)までの間,遣明船の派遣は17度ほどに及び,多くの明の美術工芸品を新しい唐物として日本にもたらした。その影響は,義政の代のころから顕著にあらわれている。この間一方で,花鳥,花木を描いたやまと絵の金屛風,金扇が蒔絵(まきえ)とともに明や朝鮮の王室に日本の特産物としてしばしば進貢されている点も注目される。

 室町初期にはじまる能は,従来の伎楽面,舞楽面に代わる能面狂言面という新しい面の様式を生んだ。能面は,中期から後期にかけて,心理的陰影に富んだ余情美の表情をつくり出すが,これは世阿弥による夢幻能の象徴性と呼応する。一方,狂言面の奇怪で滑稽な表情は,《百鬼夜行絵巻》(真珠庵)その他の御伽草子絵巻に登場する鬼や妖怪たちの表情に通じるものであり,それらは室町時代美術の庶民的側面を示している。

東山文化

義政が晩年の隠遁生活のために造営した東山山荘(現在の慈照寺)は,幕府の権威の下降という状況のなかで,義満以来の足利将軍の貴族趣味を受け継ぎ,それをいっそう耽美的なものに仕上げる場でもあった。現存の観音殿(銀閣,1489)は,金閣を先例とし,西芳寺の舎利殿をも参考に設けられたものである。だが,北山殿の主屋であった寝殿がもはや建てられなかったことは,建築の様式が寝殿造から書院造へと移行する過程を示すものとされる。義政の起居する常御所(つねごしよ)や東求堂(とうぐどう)(持仏堂)の襖絵には,馬遠,牧谿,玉,李竜眠(李公麟)ら宋・元の名の〈筆様〉による唐絵が描かれ,一方,対面や会合の場である会所の諸室の襖には,納戸の漢画を除いて,やまと絵の名所絵,草花絵が描かれていた。漢画は小栗宗湛につづいて幕府の御用絵師となった狩野正信が描いたことが知られ,やまと絵は宮廷の絵所預(えどころあずかり)土佐光信が描いたと推測される。このように建物や室の用途によって漢画とやまと絵を描き分ける方式は,後期の狩野派が障壁画で試みた和漢の総合の前提となるものである。それらの建物に唐絵,唐物を飾る座敷飾の方式は,同朋衆として座敷飾を受け持った相阿弥の《君台観左右帳記》にくわしい。同朋衆のなかで作庭を行い,義政の信任厚かったのが河原者の善阿弥である。善阿弥とその子又四郎に代表される山水(せんずい)河原者の工夫によって,庭園の意匠はさらに洗練された。それは大仙院書院庭園(1513ころ)のように,狭い敷地に谷間の流れを象徴した石組みから,竜安寺方丈石庭のような抽象的構築のものにいたっている。

唐物の精巧さに刺激されて伝統的な工芸の分野も,中期から後期にかけ,技巧がいちだんと進んだ。金工では後藤祐乗(ゆうじよう)が刀剣の装飾に高肉彫の技巧をこらして義政の庇護を受け,その家系の仕事はのちに家彫と呼ばれて江戸時代にいたるまで武将の支持を得た。蒔絵は初期には松楓蒔絵手箱(熊野速玉大社)にみるように,のびやかなやまと絵的文様を特色としていたが,義政の時代には,文様・手法が細密化され,高蒔絵を用いモティーフを浮彫様にあらわしたり,岩に宋元画の筆法をうつしたり,入念な細工となっている。このような傾向は,義政の座敷飾が唐物に変化を与えるため蒔絵のような和物だけで一室を飾ることもあったのに関連する。塩山(しおのやま)蒔絵硯箱(東京国立博物館)や義政遺愛の春日山蒔絵硯箱(京都国立博物館)が,そうした精巧な蒔絵の典型である。《古今集》などの歌意や歌枕を図案化したものがこの時期の蒔絵文具に多く,それは当時の人の王朝文学に寄せる強い関心のあらわれでもある。義政に仕えた蒔絵師幸阿弥道長および五十嵐信斎の家系(幸阿弥家五十嵐家)は,金工の後藤家と同じく,以後,名家としてその権威を江戸時代まで保った。鎌倉時代以来の社寺絵所に属する木仏師,絵仏師などがもはや世襲による座の特権を維持できず,民間工房化してゆく一方で,これらの工匠の家系や,やまと絵における土佐派,漢画における狩野派のような新しい特権をもった家門が美術の各分野にあらわれるのは,後期美術の一つの特色である。また,後期においては,茶の湯の流行にともない,芦屋釜天明釜の意匠に工夫がこらされ,鑑賞に適するものになっている。

文明から明応(1469-1501)にかけてのころになると,障屛画の遺品もしだいにみられるようになる。伝曾我蛇足(じやそく)筆の真珠庵襖絵(1491),小栗宗継の養徳院襖絵(1490ころ)などがそれであり,周文筆と伝えられる一群の水墨山水図屛風もおよそこの時期の作である。これらのなかで,真珠庵の《山水図襖絵》は,周文の画風の最も良質な部分を受け継いだ傑作として名高い。やまと絵障屛画の遺品としては,伝土佐広周筆《花鳥図屛風》(サントリー美術館)が元・明花鳥画の影響を示して興味深く,《浜松図屛風》(里見家),《四季日月図屛風》(東京国立博物館),《日月(じつげつ)山水図屛風》(大阪金剛寺)など,後期のやまと絵景物図屛風のもついきいきとした情感は,やまと絵の伝統に新しい息吹を伝えるものとして注目される。

守護大名の勢力の台頭による地方文化の興隆が,美術の新しい創造に結びついた例としては,雪舟がまずあげられる。彼は相国寺で教育を受け,画を周文に学んで画才をあらわしたが,京都を離れて山口の大内氏のもとにおもむき,念願の渡明を果たした。帰国してからも再び京都に戻ることなく,《秋冬山水図》(東京国立博物館)や《山水長巻》(毛利家)のような,その力強く意志的な画風を地方で独自に大成させた。雪舟によって日本の水墨画は中国の水墨画の核心に迫ることができたといえよう。雪舟はまた,《天橋立図》(京都国立博物館)のような日本の実景を画題にした傑作を残し,一方で,明代花鳥画の手法をとり入れた装飾的な花鳥図屛風に新しい分野をひらいている。戦国時代の武将は高い教養をもち,画をたしなむものも少なくなかった。山田道安,土岐洞文らがその中で知られるが,常陸の城主として生まれ,出家して画僧となった雪村もまた戦国武将画家のひとりといえよう。彼は小田原で関東画壇に接した以外には中央との接触をもたず,東北南部の風土の中で特異な作風を発展させた。《風濤図》(野村美術館)にみるような力動感に満ちた表現には,激動する中世末社会の地方のエネルギーが託されている。

再び京都の画壇に目を移せば,相阿弥は,将軍家のコレクションにある牧谿の作風の深い理解のなかから大仙院襖絵(1513ころ)の山水画にみるような,墨の微妙な階調と余白を生かした詩情豊かな山水画風をつくり出している。狩野正信の子狩野元信もまた,将軍家の御用絵師の立場を利用して宋・元・明の絵画を幅広く学び取り,真(馬遠様),行(牧谿様),草(玉様)の三体にわたる装飾的秩序をそなえた明解な画風を完成させた。大仙院《花鳥図襖絵》は,真体の,霊雲院《花鳥図襖絵》(1543ころ)は行体の,それぞれ代表的な作例である。元信はまた,土佐派と姻戚関係を結ぶことによって,やまと絵の装飾画法を自己のものとし,晩年には両者の統合による力強い構成と華やかな装飾性を兼ね備えた障屛画の新しい様式をめざしている。水墨画の移入以来長くつづいた漢画とやまと絵の二元的な並立のみぞが,義政時代からしだいに埋められる方向にむかい,元信にいたって一元化されたわけである。

 それと並行して,茶の湯の分野でも,宗祇のいう〈和漢の境をまぎらかす〉立場から,従来の唐物数寄を反省し,備前焼や信楽焼の和物のもつ〈ひえかれた〉素朴な味わいに目を向けるようになった。このような後期における和と漢の両要素の抱合をもとにして,次の桃山美術が開花する。

 染織の分野は,日常生活に用いたものが残らないこともあって実態はつかみにくいが,明の金襴(きんらん),緞子(どんす),間道(かんとう),印金,錦や,南蛮貿易によるモール,更紗などは唐織物として珍重され特権層が着用したが,元亀年間(1570-73)のころから国産品もみられるようになった。中世と近世との境にあたるこの時期は,唐織物の刺激によって伝統的な染織文様にめざましい変化が起こった時期でもあり,桃山染織を特色づける非対称の大胆な文様の原形はこのころつくられたと考えられる。上杉神社に伝わる伝上杉謙信・景勝所用の鎧下着や陣羽織,胴服などの斬新な意匠は,そのことを示す貴重な遺品である。多色の練染に墨や朱の描絵を加えたいわゆる辻が花染も,室町末に流行した。1566年(永禄9)岐阜県郡上郡白山神社に奉納された〈白地花鳥肩裾模様辻が花染小袖〉(小袖)が,当時の辻が花の清楚な美しさを伝えている。
禅宗美術
執筆者:

前述の初期,中期,後期の区分に基づいて室町時代の建築を概説する。

足利尊氏・直義兄弟は禅宗のうち臨済宗を庇護し,国ごとに安国寺の設置,利生塔の造立を意図し,さらに五山を頂点に十刹・諸山の各住持位次を定め,禅寺の官寺化と中央集権的制度を発足させた。この五山官寺制度の下で国内各地に禅寺がつくられ,地方文化の振興に禅寺が大きい影響を与えた。禅寺は中国禅寺の風儀を移植することを理想とし,伽藍の構成や建築の様式に中国風を採用した禅寺特有のものを生み,他宗仏寺とのあいだの相違を著しく目だたせた。この特徴のある建築様式を禅宗様(唐様)と呼び,その構造と意匠の手法は在来の伝統様式=和様よりも発達した一面をそなえていたため,禅宗様の普及にともなって和様を刺激し,その改良工夫に大きく寄与した。

 禅宗様建築の遺構は室町時代の全期を通じて各地に分布しており,造立年次の相違による変化は少なく,およそ均質であるところに特色を見ることができる。京,鎌倉所在の各五山寺院の伽藍は初期,中期に盛況を呈した。しかし今日では往時の面影をとどめているものはわずかに東福寺伽藍だけであり,三門,禅堂,東司(とうす),浴室の中世遺構が現存している。鎌倉円覚寺舎利殿,正福寺地蔵堂(東京都,1407ころ)の両者は方三間単層裳階(もこし)つき仏殿の典型で禅宗様の特徴を内外の各部にうかがえる。これより規模の小さい方三間単層仏殿遺構は安国寺釈迦堂(広島),天恩寺仏殿(愛知),普済寺仏殿(京都),常徳寺円通堂(香川),祥雲寺観音堂(愛媛),そして酬恩庵本堂(京都)などがある。また,安楽寺八角三重塔(長野),安国寺経蔵(岐阜)は禅宗様からなる特異な遺構であり,不動院金堂(広島)は五山の方五間単層裳階つき仏殿の規模に準ずるもので,屋内架構手法がいっそう発達している。禅寺では伽藍の周辺に塔頭(たつちゆう)群が営まれていて景観を特徴づけている。塔頭は禅僧寂後の祭享施設で塔所と昭堂を中心に客殿,庫裏(くり),僧堂,寮舎から構成されていた。京,鎌倉の五山の盛時には多数の塔頭が造立されたが,近世に整理されて遺構は少ない。円覚寺正続院昭堂(舎利殿を兼ねる),建長寺西来院昭堂,岐阜永保寺開山堂(祀堂,合の間,礼堂),京都妙心寺開山堂昭堂,東福寺竜吟庵方丈,大徳寺の大仙院,竜源院,興臨院,瑞峯院,聚光院各客殿(本堂)が著名である。

 禅宗以外の仏寺では,鎌倉時代にひきつづいて,密教寺院の地方発展の傾向がつづき,多くの堂塔が造立され遺構も多い。本堂遺構のうち,規模の大きい七間堂が鎌倉時代よりも多く造立され,近畿地方に集中している。延暦寺釈迦堂,常楽寺本堂,金剛輪寺本堂,善水寺本堂は滋賀県湖東地区に所在し,前期に集中していて,いずれも和様の伝統を保守している。観心寺金堂(大阪,前期),鶴林寺本堂,朝光寺本堂(ともに兵庫,中期)は和様を基調に禅宗様,大仏様(天竺様)の構造・意匠を加え,折衷様の発達した代表例である。同じ傾向は五間堂,三間堂にも見られ,この時代の建築を特徴づけている。本堂に組み合わせた塔の遺構も多いが,三重塔は中・後期,多宝塔は後期に遺構が増加している。これらの塔にも和様の伝統を踏襲した常楽寺三重塔(滋賀,中期)のほかに,折衷様の向上寺三重塔(広島,中期),三明寺三重塔(愛知,後期)がある。多宝塔では根来寺多宝塔(和歌山,後期)が大塔の規模と形式を伝える唯一の遺構であり,和様の伝統を保持している。また,密蔵院多宝塔(愛知,前期)や法道寺多宝塔(大阪,前期)では禅宗様を加え異彩を放っている。

神社は保守的性格が強く,本殿形式も古代に成立した基本形を踏襲したものが多く,前期の遺構ではなお古風をとどめているが,地域によって中期以降の遺構には本殿外観を華美によそおう装飾手段が導入され,逐次発達する経過をあとづけできる。また,本殿に新形式を採用し,あるいは幣殿,拝殿と組み合わせた複合社殿に特徴をつくるものが多い。錦織(にしごおり)神社本殿(大阪,前期),中山神社本殿(岡山,後期)は新形式を採用し,住吉神社本殿(山口,前期)は連棟形式のもの,建水分(たけみくまり)神社本殿(大阪,前期)は春日造本殿を中殿とし,二間社流造の左・右殿を組み合わせている。また,吉備津神社本殿(岡山,中期)は巨大規模を誇り,比翼入母屋造の比類のない屋根でおおわれ,前面にたつ拝殿も裳階を付し,禅宗様手法で終始している。

平安時代に成立した寝殿造は室町時代の初・中期の公家住宅になお踏襲されていたが,この時期の寝殿造は公家の格式・体面を保持するための家作故実の性格が強く,故実どおりの規模と体裁をそなえた住宅は公家の特定の家に限られ,しだいに消滅・減少の傾向にあった。初期の末に新造された足利義満の室町殿は寝殿,二棟廊(ふたむねろう),中門廊,中門,車宿,随身所,侍所から構成され,公家の伝統,故実を踏襲しており,義満以降の歴代将軍が代替りごとに新造した本邸の先例になった。また,室町殿の同じ邸内に営まれた園池と庭間建築は会所,泉殿,観音殿,持仏堂,禅室,山上亭,舟舎からなり,禅寺の風を模倣した特色のあるもので,義満の北山殿では規模が拡大され三層殿閣の舎利殿(金閣)や二階会所殿などが造立され偉観を出現させた。会所は公武の文芸・社交の会合のための専用建築であり,屋内座敷を中国輸入の唐絵,唐物道具で飾っていた。これら中国文物の愛玩は禅寺に早く発生し,当代の初期に公武の社会に浸透した。そして茶,花,歌の生活芸術の展開と歩調をそろえて唐様飾は住宅屋内の装飾手法として新流行を生んだ。すなわち,唐絵を掛け,具足を飾る押板,具足置物を飾る違棚,文房具を飾る付書院が一つの座敷に集中し組み合わせて会所座敷の主室を飾ったが,この座敷飾は中期以降に住宅の新しい装飾要素として採用され,書院造を特徴づけるようになった。寝殿造の形骸化とは別に日常の生活空間の分離・専用化の傾向は中世を通じて推進され,内外の建具装置の改良と発達によって屋内を大小の空間に分割し,畳を敷き詰め,天井を張り,壁や障子を座敷絵で飾るなどの手法が発達した。これらに上記の座敷飾要素が加わって成立したのが書院造であり,応仁の乱直前の中期は書院造の発生段階に位置する。乱後に足利義政が新造した東山殿の遺構に観音殿(銀閣)と東求堂があり,後者の屋内東北隅に位置する四畳半の書院(同仁斎)は書院造の初期的形式をとどめる古い遺構である。また,義政の小川殿や東山殿の諸座敷の飾りを範例に座敷飾の方式が成立し,秘伝書の写本が流布されるようになるのも後期の末であり,書院造の定型成立を助成した。なお,戦国期の混乱と喧騒を避けて一時的な平和と静寂の場が歓迎され,会所座敷を小空間に集約凝縮して数寄の小座敷,茶の湯座敷が出現しており,これが近世初頭に成立した草庵風小間茶室の祖形とみなされる。
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