白鳥神社(読み)しらとりじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「白鳥神社」の意味・読み・例文・類語

しらとり‐じんじゃ【白鳥神社】

  1. [ 一 ] 香川県東かがわ市にある神社。旧県社。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)白鳥伝説にちなむ古社で、仁徳天皇の代の創建と伝えられる。
  2. [ 二 ] 長崎県五島市玉之浦町玉之浦にある神社。旧県社。祭神は日本武尊。大宝二年(七〇二)の創建と伝えられる。歴代五島藩主の崇敬をうけた。
  3. [ 三 ] 宮崎県えびの市末永にある神社。旧県社。祭神は日本武尊。天暦~応和年間(九四七‐九六四)の創建と伝えられる。古くから軍神として崇敬された。白鳥権現社。

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日本歴史地名大系 「白鳥神社」の解説

白鳥神社
しろとりじんじや

[現在地名]白鳥町松原

新町しんまちに鎮座する。祭神日本武尊・二道入姫命・弟橘姫命。白鳥神社記(松平文庫蔵)によると、仁徳天皇の時代、一羽の白鳥が三里さんりの松原に飛来したが、それはかつて東征の帰途伊勢で没した日本武尊の霊が白鳥と化して西方に飛去ったものであった。そこで勅命により讃岐国造が神祠を建立したという。また「源平盛衰記」巻四四にも「日本武尊、終に崩じ給ふ、御年三十、白鶴と変じて西を指て飛去、讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ」とあり、屋島に向かう源義経に白鳥明神の霊験があったという。そのため武神としての信仰を集め、永らく八幡神を祀っていた。細川氏被官安富安芸守により再興されたともいわれ(御領分中宮由来)、天正年間(一五七三―九二)土佐勢の虎丸とらまる(現大内町)攻めで焼失したが、慶長一〇年(一六〇五)僧増乗が生駒一正の援助で再興、鶴内つるうち八幡宮と称したと伝える(「鶴内八幡宮縁起」別宮八幡神社蔵)。寛永国絵図にも「鶴内八幡」として松原の中に社殿が描かれている。寛永一七年(一六四〇)生駒氏改易時の社領二〇石で白鳥八幡ともいわれた(「国中寺社領高書上写」覚城院文書)

寛永一九年高松藩主として入部した松平頼重は、大内おおち郡総鎮守水主みずし神社(現大内町)に対する新しい神社勢力として当社を優遇、寛文四年(一六六四)京都吉田神社の祠官で吉田(唯一)神道流の卜部兼古(猪熊千倉)を神主として招いた。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]九重町田野 中尾山

崩平くえんひら(一二八八・四メートル)の南西、千町無田せんちようむたの北西、北方きたがた集落に鎮座する。日本武尊・品陀和気命を祀る。旧村社。「豊後国志」に白鳥祠とあり、白鳥伝説に言及している。創祀期は未詳であるが、江戸後期の田野村古伝集(甲斐家文書)によれば、古くは古宮の台にあったが移転、天正九年(一五八一)野火にあって焼失した。それより北方亀の甲かめのこうに移し、寛文一一年(一六七一)現在地の中尾山なかおやまに移転した。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]えびの市末永

白鳥山北の中腹にある。祭神は日本武尊。旧県社。古くは白鳥権現社・白鳥六所権現などと称し、別当は白鳥山満足まんぞく寺。創建について、日向国霧島に来た性空は、一日白鳥山に登って六観音ろくかんのん池の辺りで法華経を読誦していると、老翁が現れて日本武尊であると名乗り、白鳥と化してこの峰に永く住んでいたが師の読経苦行の徳に感じて身を現したと語った。性空はこの因縁により当社を創建し、白鳥権現を祀ったと伝える。日本武尊は熊襲退治のため当地に来たと伝えることから、飯野いいのや近郷では白鳥を殺すことを禁じたという(三国名勝図会)


白鳥神社
しろとりじんじや

[現在地名]石井町石井 石井

気延きのべ山の北麓、白鳥に鎮座する旧村社。祭神は日本武尊・息長田別命で、ほかに応神天皇・素盞嗚命・菅原道真・軻遇突知命を配祀する。「三代実録」貞観三年(八六一)三月六日条に阿波国白鳥神がみえ、正六位上から従五位下に進階している。同書元慶七年(八八三)一二月二日条にみえる阿波国従五位下の「白馬神」は白鳥神の誤りと考えられ、従五位上に昇叙している。承暦四年(一〇八〇)六月、白河天皇の不例(病)が諸神の過穢による祟りであると卜奏があり、白鳥神などに中祓が命じられた(同月一〇日「神祇官奏」朝野群載)


白鳥神社
しろとりじんじや

[現在地名]白鳥町白鳥

白鳥の北部に鎮座。祭神は伊弉冉尊・日本武尊。白山信仰の神社。白鳥神社由緒書によれば、仲哀天皇の時代、茫々たる広野の中に六戸の小家があった。一羽の巨大な白鳥が翼を茂林に休めていた。養老年中(七一七―七二四)白鳥が再来し、泰澄を先導して当地に至り、泰澄は当地に七堂伽藍を建立、白鳥寺とした。同時に白山頂上の伊弉冉尊を移し白鳥社を創立した。美濃国神名帳に郡上郡七社の一として載る「正六位上白鳥明神」に比定される。なお長滝ちようりゆう寺と白山神社の関係と同様、当社は白鳥寺と一体であった。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]八尾町三田

三田みた集落の西方に鎮座。「延喜式」神名帳婦負郡七座の一つに比定する説がある。祭神は日本武尊。旧郷社。「越中国式内等旧社記」に「白鳥峰麓鎮座、称白鳥明神」とあり、「神名帳考証」にも「今在寺町村」とあって、呉羽山くれはやま丘陵にある現富山市てら町の社を式内社としている。また「肯泉達録」「越中旧事記」は現婦中ふちゆう友坂ともさか熊野神社にあてる。だが「特選神名牒」や「越中宝鑑」などは三田の当社にあてる。「神名帳考証」などは「日本書紀」仲哀天皇元年閏一一月四日条を引き、天皇は白鳥と化して上天した父日本武尊を慕い越国から白鳥を献納したことから、この地に白鳥神社が勧請されたという。


白鳥神社
しろとりじんじや

[現在地名]作手村白鳥 宮下

現作手村内に広く分布する白鳥神社の本地宮とされ、日本武命のほか、忍穂耳命・熊野久須毘命・素盞嗚命・天津日子根命・菩茸命・活津日子根命・市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命を祀る。正徳三年(一七一三)の棟札によれば、天徳二年(九五八)に永井左右衛門によりこの地に移され、万寿二年(一〇二五)に牛頭天王・八王子を勧請合祀したという。元亀元年(一五七〇)武田氏の兵火にかかる。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]東広島市高屋町郷

高屋たかや盆地の南にそびえる白鳥山(四五三メートル)の山頂に鎮座。祭神は日本武尊を主神とする一〇神。旧郷社。縁起によると、日本武尊が死後白鳥となって飛翔し、当山頂まで来て姿を消したという。鎌倉時代の「安芸国神名帳」は白鳥明神を賀茂郡で最高の二位に列している。

平賀家旧記には天文一二年(一五四三)平賀弘保・隆宗が社殿を造営した旨の棟札写を収める。また同旧記の天正六年(一五七八)三月の白鳥社祭礼事書には、当社の三度の大祭のうち、九月九日の鳥居原御幸の神事に平賀弘保が干渉して古例をまげようとしたが、馬で当社に向かった弘保の使者桂孫太郎が転落死したため干渉をやめ、祭礼に名代として近習一人、家老一人を社参させることとし、積極的に祭礼を援助したと記す。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]君津市鹿野山 白鳥

鹿野かのう山の北東に屹立する白鳥の峰に鎮座。日本武尊を祀る。旧村社。石階二一六段を登り社頭に達し、北西を望めば富士・筑波および内海沿岸地方が視界に入る眺望絶佳の地。明応年中(一四九二―一五〇一)野火で社殿・旧記を烏有に帰し、創建など不詳。伝えによれば、日本武尊東征のとき当地で賊を平定したので、のち威徳を仰いで当社を創建し尊の霊を祀ったという。聖徳太子が鹿野山に仏閣を建立した際に当社を崇敬、東国の鎮守とした。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]東部町大字本海野字北屋敷

千曲川の北岸海野うんの宿の東入口にある。祭神は日本武尊。なお海野氏の祖と伝える貞元親王・善淵王・海野広道の三霊を合祀する。創立不詳。本海野もとうんの村の産土神。

「参考源平盛衰記」に木曾義仲が依田城挙兵のあと「信濃・上野両国ノ勢催集メ二千余騎ヲ相具シテ、白鳥川原ニ陣ヲトル」とみえる白鳥川原は、千曲川畔にある白鳥神社前の川原であろう。

上田城主仙石忠政の時社領没収、のち忠俊により三貫五〇〇文を寄進された。宝暦三年(一七五三)の「千曲之真砂」には「海野入口に白鳥社有、(中略)此社の前ニ茶屋かずかず有、例年八月十二日祭礼相撲有、近里群集す」とある。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]平生町大字佐賀 森ノ下

佐賀さがのほぼ中央、海岸寄り丘陵に鎮座。祭神は倭武尊・美屋受姫命。旧郷社。

社伝によれば景行天皇の時、和泉国大鳥郡大鳥おおとり神社(現堺市)より二神を勧請、祭祀したのに始まるという。「注進案」には「往古ハ有限大社ニ国君よりも資財を玉ハリ造営修覆被仰付候由、中古以来次第ニ衰廃仕候、天正十九年辛卯四月八日再造立、(中略)慶安五年、元禄四年再度再建有之、(中略)社地高山ニ風当り強く、宝永三年神殿拝殿共ニ造立仕、寛延元年大風ニ及大破候故、造営之刻先地遷座の義新成神告度々有之故、村民其旧地を穿見候ヘバ九尺四方之石櫃の中ニ左之通之器物有之候」と社史を記す。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]富山市寺町

寺町てらまち集落の中央に鎮座。旧村社。祭神日本武尊。「延喜式」神名帳にみえる婦負郡七座のうちの同名社に比定する説がある。呉羽山くれはやま丘陵の最高峰である通称じよう山を白鳥峰と称するのも当社に由来するといわれる。「日本書紀」仲哀天皇元年条に記される白鳥伝説にちなむと伝える。「朝野群載」承暦四年(一〇八〇)六月一〇日条、同書康和五年(一一〇三)同月日条に越中国白鳥神がみえる。


白鳥神社
しろとりじんじや

[現在地名]村田町村田 七小路

村田の市街地北端、あら川左岸の相山そうざん丘陵の小高い丘の南面にある。旧村社。祭神は日本武尊ほか七柱。「村田郷安永風土記」では白鳥社とあり、村鎮守。社地のある所は大宮おおみや山とよばれ、社殿・拝殿はいずれも南向きであった。また永享三年(一四三一)村田政重・久重父子寄進の鰐口があった。社伝によれば日本武尊東征の際に当地に滞陣、のちにその分霊を勧請したのが始まりという。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]長野市松代町西条

舞鶴山にあり、祭神は日本武尊を主神に真田家の始祖貞元親王、貞保親王と中興の祖真田信之を祀る。旧県社。

往古は小県ちいさがた郡海野村(現東部町)に鎮座。寛永元年(一六二四)真田家の松代移封の際、祈願所の開善寺とともに現在地に移し、社殿を再建し開善寺を別当とした。文化一〇年(一八一三)真田幸弘の志を継ぎ、幸専が社殿を改築、次の幸貫は祭神の白鳥大明神を四宮大明神と改め、嘉永五年(一八五二)再び白鳥大明神に復した。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]玉之浦町玉之浦郷

鬼岳おにだけ山に鎮座。古くは白鳥宮と称した。旧県社。祭神は日本武尊で、白鶴の飛来伝承がある。大宝二年(七〇二)の創建と伝え、延暦二三年(八〇四)には入唐のため渡海する最澄が海上の安全を祈願し、帰国後その無事を感謝して自ら十一面観音を刻んで安置したという。江戸時代は福江藩主の崇敬を受け、寛永一七年(一六四〇)三代藩主五島盛利が社地として鬼岳山を寄進、宝殿・拝殿を修造している。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]福島市飯坂町茂庭

中茂庭なかもにわに鎮座。旧村社。祭神日本武尊。建久三年(一一九二)茂庭氏の祖斎藤実良が茂庭の奥のすげ沼に住む大蛇を退治した際、日本武尊の化神である白鳥が現れこれを助けたといい、茂庭氏によって祀られたと伝える。現社殿は文政一三年(一八三〇)の建立。


白鳥神社
しらとりじんじや

[現在地名]東郷町諸輪 中市

諸輪集落の西端にある産土神で、祭神は日本武尊。文亀元年(一五〇一)熱田神宮禰宜大原七郎大夫の鎮座と伝えられ、「寛文覚書」に「明神当村禰宜七郎大夫持分」とあり、天保村絵図にも単に氏神とあるが、「徇行記」には「大原七郎大夫書上ニ、白鳥大明神祠末社八幡熊野権現、境内松山一町二反前々除、畠七畝十一歩禰宜ヤシキ村除、下田三畝同ジ、鎮座年歴不知」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「白鳥神社」の解説

白鳥神社

(愛知県岡崎市大和町字平野135-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積3,000【m2】

白鳥神社

(愛知県岡崎市大西2-14-5)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積2,600【m2】

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「白鳥神社」の解説

白鳥神社

(長野県東御市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

白鳥神社

(長野県長野市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の白鳥神社の言及

【鹿野山】より

…房総三山の一つで,房総丘陵の西端を占め,山頂からの九十九谷の眺望はすばらしい。南房総国定公園に属し,山頂に聖徳太子の創建という神野(じんや)寺と日本武尊を祭る白鳥神社がある。神野寺の本堂は五間四面,入母屋造で県文化財,宝物殿の表門は室町後期の建築で国の重要文化財。…

※「白鳥神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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