平安時代とは、8世紀末784年(延暦3)の長岡京遷都から、12世紀末の鎌倉幕府創始(諸説があるが、ここでは1185年の平氏滅亡、源頼朝(よりとも)の守護・地頭(じとう)設置とする)までの約400年間をいう。この時代は、古代から中世への移行期であり、古代律令(りつりょう)国家支配が崩壊してから武士の政権の基盤が形成される時代、日本で封建制が形成される時代として早くから注目されてきた。この時代には公地公民の律令国家支配が崩れて、11~12世紀にしだいに中世荘園(しょうえん)制が形成されてくるが、これは中世村落が形成されてくる社会的動向に基づく。そしてそれら荘園公領を「一所懸命」の地とする武士が勢力を強めてきて、12世紀後期には平氏が中央政界で権勢を振るうに至り、次の鎌倉時代を迎える社会的実体ができる。
文化の面では、大陸文化を模倣・吸収してきたなかからようやく国風(こくふう)文化とよばれるような文化が諸分野で出現したが、10世紀末から11世紀初頭にかけて王朝文学の花が開いたのもその代表的な一例である。
さて政治の面では、藤原北家(ほっけ)が勢力を強めて10世紀後期には摂関(せっかん)時代を迎えたが、11世紀後期には後三条(ごさんじょう)天皇が即位して摂関家の勢力が下降し、白河(しらかわ)上皇が院政を開始してから院の専制が続いたが、12世紀後期には平氏が中央政界で権勢を振るう、という筋で叙述されるのが普通である。もちろん摂関家から院へという線が政治史上重要であることはいうまでもないが、その線だけから政治史全体を解釈しようとして、律令国家支配が衰退して地方政治が荒廃したという説明をすると、ではそのような衰退・荒廃のなかからなにゆえに王朝文化の花が開くのか、と問われるのである。摂関家から院へという線と並行して、平安時代に国家支配の制度や政策がどのように変化していったかという研究が進められているが、それらを総合した政治史を組み立てなければならない。9世紀に律令国家支配が行き詰まると、10世紀初頭に新たな国家体制へ転換した(これを「王朝国家」という)。律令国家支配が平安時代を通じて衰退し続けたのではなく、王朝国家に転換して国家支配を維持していたのである。摂関時代の摂関家の権勢も王朝国家支配に立脚していたのであり、また武士の台頭も王朝国家の地方政治によって裏づけられていたことを見逃してはならない。
[坂本賞三]
政治史は国家の政策と不可分である。ところで平安時代には支配体制の変更を伴う政策の転換が二度あったが、それはかならずしも政界主導者の交替と関係がないので、ここでは国家支配体制の転換でもって時期区分を行う。平安時代は、9世紀は前代に引き続いて律令(りつりょう)国家体制だが、10世紀初頭に王朝国家体制に転換した。この王朝国家体制をいつまでと考えるかについては二つの見解がある。一つは12世紀末の鎌倉幕府創始(これを中世国家の始まりとする)までとし、11世紀40年代を境として前期王朝国家と後期王朝国家とに分ける見解である。もう一つは、11世紀中期までを王朝国家とし、以後を中世国家とする見解である。ここでは前者によることとする。
[坂本賞三]
(10世紀初頭まで)桓武(かんむ)天皇は784年(延暦3)長岡に都を遷(うつ)し、794年に平安京に遷都した。こうして天武(てんむ)系の平城京を去った桓武天皇の政治は、律令国家期の画期をなすと評価できる歴史的意義をもつものであった。長岡京では朝堂院と内裏(だいり)とが分離されていたが、それは、それまで天皇が官人を把握して政務を行う方式がとられていたのが、天皇は内裏にいて、全官人を統轄する太政官(だいじょうかん)を通じて政務をみるという方式にかわったことを示している。また律令国家成立当時の中央政界の有力貴族が8世紀末には没落していく一方、桓武朝に新興氏族が参議に登用されたことに示されるように、氏族の存在形態がかわりつつあった動向のなかで桓武朝の意義が注目される。800年には全国的規模で班田が行われたが、全国的な班田はこれが最後で、9世紀にはもはや全国一斉の定期的な班田はみられず、国ごとに散発的に行われたにすぎない。これは、律令国家支配の基本にある戸籍計帳に基づく個別人身支配が無実化したことに基本的原因がある。が、桓武朝からあとも9世紀前期の間、律令制の基本的枠組みのなかで、現状に対応しながら律令国家支配を強めようという国政的努力がなされた。9世紀の国政史の画期となるのは承和(じょうわ)年間(834~848)である。承和年間に国ごとに課丁数が固定された事例がみられるが、これは、もはや実際に課丁の実数によって人頭税を徴収することが不可能になったので、国ごとに固定した課丁数だけの収取を確保しようとした政策の表れである。それは国司に中央貢進物を請け負わせたことを意味するが、なお中央政府は律令制中央集権支配原則を固守していた点で後述の王朝国家体制への転換と区別され、宇多(うだ)天皇の寛平(かんぴょう)年間(889~898)の国政や、それに続く醍醐(だいご)天皇初期の左大臣藤原時平(ときひら)主導による律令制振興の試みはその表れである。
藤原北家(ほっけ)台頭の基礎を築いた冬嗣(ふゆつぐ)は810年(弘仁1)に蔵人頭(くろうどのとう)となってからあと左大臣まで昇進した。その子良房(よしふさ)は、9歳で即位した清和(せいわ)天皇の事実上の摂政(せっしょう)を行っていたと考えられるが、866年(貞観8)に摂政とされた。良房の養子基経(もとつね)は、光孝(こうこう)天皇が即位すると事実上の関白とされ、次の宇多天皇のもとでも関白となった。また承和年間以降、公卿(くぎょう)のなかで藤原氏と源氏とが圧倒的多数を占める傾向が強まっていくのであるが、この現象は承和年間以降の国司請負政策とも関連する面があるであろう。
外交では、838年(承和5)の遣唐使が最後のものとなり、894年(寛平6)の遣唐使派遣は菅原道真(すがわらのみちざね)の上表によって中止された。このころ唐は衰亡しており(907滅亡)、またすでに大陸から商船が来航していたことがその背後にあったのである。
[坂本賞三]
(10世紀初頭~11世紀40年代)902年(延喜2)の左大臣藤原時平主導による律令制振興の試みが失敗してからあと、おそらく忠平(ただひら)が兄時平の跡を継いでから、律令国家の支配原則をかえる新しい国家体制=王朝国家体制への転換が行われた。かくて出発した前期王朝国家では、中央政府は国司(9世紀ごろから守(かみ)に権限と責任とが集中して「受領(ずりょう)」とよばれるようになる)に任国内支配を委任して、中央政府から諸国国内の行政についてもはや指令を出さなくなった。ただし重大な問題が生ずると中央政府は官使を派遣した。国司は任国内支配を委任されたかわりに、国ごとに定められた量の中央貢進物を進納しなければならなかった。このような新体制になると、中央政府は前代のような諸国国内に立ち入った行政を行わなくなり、公卿もただ諸国の国司から裁決を仰ぐため申請してきたものを審議するだけになった。かつては、摂関時代の公卿たちが国政に関心を向けずもっぱら朝廷の行事を先例どおりに行うことだけに専心しているのは政治の退廃であり、このような退廃の下で地方政治は荒廃したと説明されるのが常であったが、そうではなく、王朝国家では前代に比べて中央の国政の事務量が激減した結果なのであり、新体制下で国家支配は維持されていた。したがって、939年(天慶2)に東西で相次いで反乱に突入した平将門(まさかど)の乱と藤原純友(すみとも)の乱に対してともに鎮圧させることができたのであった。他方、任国内支配を委任された国司はその権限によって巨富を蓄えたのである。
このような中央政界では藤原氏と源氏とが公卿のほとんどを独占し、醍醐・村上(むらかみ)両天皇の時期には摂政・関白が置かれなかったが藤原氏の権勢は揺るがなかった。967年(康保4)に冷泉(れいぜい)天皇が即位すると藤原実頼(さねより)が関白となり、以後ほぼ摂政・関白が常置されていって世にいう摂関時代となった。なかでも995年(長徳1)に藤原道長が内覧となってから1027年(万寿4)に道長が死去するまでの間は摂関時代の最盛期であったが、この最盛期を中心にした前後のころ、988年(永延2)尾張(おわり)国の郡司・百姓らが尾張守藤原元命(もとなが)を訴えて都に上ったような国司苛政(かせい)上訴事件が20余ばかり史料上にみいだされる。その裏面には在地勢力の台頭があり、その動きが国司の支配を崩しつつあったのである。
この時期には、外国商船が日本に来航するには一定の年数を隔てなければならないという年紀の法が存在していたが、この年紀の法は延喜(えんぎ)年間(901~923)に定められた。またいつごろ定められたものかは不明だが、わが国の人々が政府の許可なく海外に渡航してはならないという禁令が行われていた。なお1019年(寛仁3)に刀伊(とい)の賊船が対馬(つしま)・壱岐(いき)に来襲した。
[坂本賞三]
(11世紀40年代~12世紀末)関白頼通(よりみち)がまだ中央政界で権勢を保っていた11世紀40年代に、前期王朝国家体制から後期王朝国家体制への転換が行われた。後期王朝国家では、諸国国内の行政組織や制度が大幅に変更され、新興の在地勢力(これが中世の武士となる)が、新たな行政単位となった郡・郷などの郡司・郷司に任命された。このように新行政単位として出現した郡・郷・保・村などが、このあと中世を通じて所領となっていくのであり、それが荘園(しょうえん)領主の領有に入ると荘園になったので、中世の荘園の基になるものはここに実体を現してきたといってよい。1040年(長久1)の荘園整理令から始まる平安後期荘園整理令は、この中世荘園の実体が現れてきた社会情勢に対応するものであった。
1068年(治暦4)藤原氏を外戚(がいせき)としない後三条(ごさんじょう)天皇が即位し、その前年に藤原頼通は関白を辞した。1069年(延久1)の延久(えんきゅう)の荘園整理令は長久(ちょうきゅう)の荘園整理令(1040)以来の系譜を引くものであったが、記録荘園券契所が設けられて荘園の公験(くげん)を審査した。後三条天皇の時代には贄人(にえびと)を供御人(くごにん)として再組織するなど天皇家私経済の制度が整えられたほか、延久宣旨枡(せんじます)の制定などが行われた。
1086年(応徳3)白河(しらかわ)院政が開始された。白河院政期の三天皇(堀河(ほりかわ)、鳥羽(とば)、崇徳(すとく))はいずれも幼少で即位しており、院が幼少の天皇にかわって実質的に国政を裁断することが恒常化し、重要な公卿評定も院御所で行われるようになったが、その裏には、太政官機構の重要な職にある人々の多くが院司や院殿上人(いんのてんじょうびと)などになって、院と結び付く関係になっていたということがあった。白河院が崩じたあと鳥羽院政となり、1156年(保元1)に鳥羽院が崩じた直後に保元(ほうげん)の乱が生じ、乱で勝利した後白河(ごしらかわ)天皇は保元新制を出したが、まもなく後白河院政に入り、荘園制の進展に伴う緊張した政治情勢の下で国政における院の専制が強まった。
1159年(平治1)の平治(へいじ)の乱のあと急速に平清盛(きよもり)が中央政界で地位を高めてきて、67年(仁安2)清盛は太政大臣となった。清盛の妻時子の妹滋子(しげこ)(のち建春門院)は後白河上皇の皇子を産んでいたが、この皇子が即位して高倉(たかくら)天皇となった。また清盛の娘徳子(のち建礼門院)が高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)となって産んだ皇子が安徳(あんとく)天皇である。このように平氏一門は全盛期を迎えたのだが、『平家物語』(吾身栄花(わがみのえいが))に「惣(そう)じて一門の公卿十六人、殿上人三十余人」とあるのは延べ人数であって、一時点でこのようなことがあったわけではない。また「平家知行(ちぎょう)の国三十余箇国、既に半国にこえたり」という状態になったのは1179年(治承3)11月のクーデター以後であった。一方、急速に中央政界で権勢を強めてきた平氏に対して反平氏の動きがおこり、77年に院近臣による平氏打倒の陰謀が摘発され(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)、また後白河法皇や摂関家の側から反平氏の策動があったのに対して、79年11月清盛は関白を交替させ、さらに後白河法皇を幽閉した。平氏政権とはこのクーデター以後をいう。これに対して寺院勢力が団結して対抗し、1180年に以仁(もちひと)王が挙兵した。これを鎮圧した清盛は福原遷都を強行したが、8月に源頼朝(よりとも)が東国で挙兵した。こうして反平氏の軍が各地で起こるなかで、12月に平重衡(しげひら)の軍は南都を焼き討ちし、東大寺、興福寺をはじめとする諸寺堂舎は焼失してしまった。この直前に清盛は後白河法皇の幽閉を解いたが、もはや平氏は孤立しており、翌81年(養和1)閏(うるう)2月清盛は病死した。83年(寿永2)源義仲(よしなか)の軍が京都に迫って平氏一門は西国へ落ちて行った。義仲はまもなく京都で孤立し、84年(元暦1)源範頼(のりより)・義経(よしつね)の軍に敗れたあと、源氏の軍は一ノ谷で平氏を破り、85年(文治1)屋島から敗走した平氏は壇ノ浦で滅亡した。
後期王朝国家期に入っても大陸との外交関係は前期と変わりはなかったが、12世紀ごろからわが国と宋(そう)との直接貿易が盛んになってきた。わが国の商業が発達してくると宋銭や唐銭が流入するようになり、12世紀末には政府が禁令を発しても銭貨の流通を止めることはできなかった。西国に勢力をもっていた平清盛はこの実情を知っていたので、積極的に対宋貿易に乗り出した。清盛の時代には瀬戸内海の海賊を支配下に置き、清盛が厳島(いつくしま)神社を信仰したことから上皇や貴族たちの厳島参詣(さんけい)が流行したのも瀬戸内海航行が保証されていたからであったが、清盛は1170年(嘉応2)に宋船を大輪田泊(おおわだのとまり)に来航させ、以後、大輪田泊の大修築工事を行って、宋船の来航による貿易が活発になった。それまでわが国に来航した外国船は大宰府(だざいふ)管内で止められる定めであったから、貴族たちは宋船の大輪田泊来航に驚いた。このころにはわが国の造船・航海技術も進んできたので、大陸貿易はいっそう盛んになった。
[坂本賞三]
『日本霊異記(りょういき)』に収められた8世紀ごろの一説話に、財産の内容として「奴婢(ぬひ)」「馬牛」が記されていたのが、12世紀前期に成った『今昔(こんじゃく)物語集』に収められた同じ説話では、財産の内容が「領シケル田畠」「仕(つかえ)ケル従者」と改められている。このことは平安時代400年間の経済的変化を示す一例である。11世紀から12世紀に荘園(しょうえん)制が展開するのは、田畠を領し従者をもつことが最重視される社会になるとともに中世村落が形成されてきた歴史的動向に基づくのである。
[坂本賞三]
平安時代初期の9世紀には奴婢や馬牛などの動産で富が代表されていたが、9世紀後期には富豪の輩(ともがら)の経済的活動が律令(りつりょう)国家支配の大きな障害となっていた。彼ら富豪の輩は稲や銭などを周辺の農民に私出挙(しすいこ)し、また周辺農民の調庸納入をかわりに請け負い、富豪の輩の営田を耕作する農民の賦役をもって元本と利息分とにあて、こうして自らの勢力範囲をつくりあげていた。彼ら富豪の輩は9世紀後期には王臣家と結び付いて、王臣家の権威で国郡に租税を納めなかった。律令国家はこの王臣家荘に対する禁令を繰り返し発した。藤原時平(ときひら)主導の902年(延喜2)の律令制振興策に含まれた延喜(えんぎ)の荘園整理令もその一つである。王朝国家体制への転換によって諸国国内に「名(みょう)」という徴税単位が設けられたが、そこでは富豪の輩の勢力範囲も「名」とされ、国衙(こくが)支配下に位置づけられることになった。
[坂本賞三]
前期王朝国家期の社会的動向として注目されるのは、主として先進地域でみられた臨時雑役(ぞうやく)免除荘園の激増と、全国的にみられた領域開発の動きである。まず臨時雑役免除荘園の激増であるが、王朝国家の税制体系は官物(かんもつ)と臨時雑役とからなり、臨時雑役は国司が免除しうるものであった。畿内(きない)・近国の在地集団は国郡から賦課されてくる臨時雑役を免れるため、ある一つの権門勢家・寺社と身分関係を結び、そこへの奉仕を口実に国司に対して臨時雑役の免除を要求し獲得したが、臨時雑役は田地について賦課・免除されていたので、こうして臨時雑役が免除された田地も荘園の一つであった。11世紀中期には、和泉(いずみ)国(大阪府南部)の大多数、丹波(たんば)国(京都府、兵庫県)の過半数が臨時雑役免除とされていた。このように臨時雑役免除の荘園は、在地の集団が能動的に臨時雑役を免れるための方策をとった結果であって、ここで臨時雑役免除とされた田地は彼ら在地集団が耕作している公田・墾田であり、その墾田は彼らが集団として身分関係を結んだ権門寺社に寄進していたものと考えられる。その後さらにその権門寺社が本来受給すべき国家的給付の代替として官物も免除されるようになると、臨時雑役免除の荘園であったものが一円領有の荘園となる。中世の畿内・近国の権門寺社領荘園の多くはこのようにして成立したものであり、一般的に在地領主をもたないタイプの荘園であった。
また10世紀末から11世紀にかけて全国的に荒廃田や未開地の開発が進められた結果、中世で所領といわれたものの原型が出現してきた。前期王朝国家体制下では「名(みょう)」制度に規制されて開発田を領域として所有することができなかったが、新興の在地勢力を先頭に集まった農民たちは荒廃田や未開地を開発し、名目的に摂関家に寄進しその威を借りるなどして国郡司の介入を実力で排除していた。そしてこのような新開発地に公田耕作農民が流入したため既存公田が荒廃し、国司は荒廃公田対策に苦しむようになった。11世紀40年代に行われた後期王朝国家体制への転換によって新興在地勢力の領域が公認されたのは、この新興在地勢力を先頭とした新開発の動きを非合法のままで抑圧しようとすれば、もはや国司の任国内支配が維持できなくなったからである。かくて新興在地勢力は、その開発地を新たな行政単位として公認されてその郡司・郷司に補任(ぶにん)され、一転して国衙支配の一端に位置づけられることになった。彼ら新興在地勢力が中世の武士となっていくのだが、武士たちはこのように郡司・郷司に任命されることによって所領内部の支配を固めることができたのであり、平安末期に武士が台頭してくる基盤はここにあったのである。またこのように新たな郡・郷・保などの行政単位が設定された裏には中世的な村落が形成されつつあったことがあり、これら新行政単位が中世荘園の基となるのであった。
[坂本賞三]
新興在地勢力が郡司・郷司に任命された新行政単位は、その郡司・郷司ら在地領主の立場からいえば所領というわけであるが、その所領内の農民たちは、一般的には在地領主に身分的に従属しない独立的存在であった。在地領主は身分的に従属する所従や下人を多く従えていたが、百姓に対して身分的にはもともと対等であった。ただ彼らは郡司・郷司に任ぜられて国衙行政権をもつがゆえに、その行政単位のなかで百姓たちに公権力で臨むことができた。だからもともと在地領主の支配基盤はあまり強いものではなく、領域内外に存在する同質の在地有力者に郡司・郷司の職を奪われる危険性をもっていた。所定の官物・雑役を国衙に進納できなかったならば国司から所職を改替されてしまうのである。国衙に対する職務を勤めている限り彼らがもつ郡司・郷司の職を子孫に相伝することができたが、その内実は危険に満ちたものであった。
このような中世的所領の構造はそのまま荘園の構造に通ずるものであり、荘園となると彼ら在地領主は荘官(在地荘官の最高責任者は一般に下司(げし)とよばれた)となったが、やはり同様に改替される危険に脅かされていた。荘園の内部で「名(みょう)」という固定的な徴税組織が出現してくるのはほぼ11世紀末から12世紀にかけてのころであるが、それは、かつて前期王朝国家の諸国国内で「名」という徴税単位が設定されていたのを、荘園の内部で模倣したのであり、ここに出現した荘園内の「名」は中世後期に至るまで固定するのが常であった。
荘園や公領諸所領の存在形態には地域差がある。たとえば11世紀中期以降の新しい国内行政単位のあり方でも、中部地方東半部から関東・東北地方にかけては郡が基本であり、中部地方西半部から西では郷が行政単位になる性格が強い(郡が行政単位となっていても、その内部で郷の存在が失われていない)。一般に先進地域の荘公所領では在地領主が存在せず根本住人といわれる有力農民たちが村落内を主導するタイプが多く、辺境地域では公権力をもつ在地領主が一族を領域内の各地に配置して強力な支配を行うタイプが多い。一般的には在地領主の下に、在村地主や、名主・在家である平百姓がいて、この在村地主や平百姓が「住人」とよばれて村落構成の中核をなし、彼らも若干の所従・下人を従えていた。平百姓の下位に位置する小(こ)百姓は不安定な小農民であった。ただしこれらの村落内身分は固定的ではなく流動的なものがあった。中世的所領が出現して荘園制が展開していく過程で、在地領主が領域内の支配基盤を強化するため、平百姓を身分的に従属させようとした。平百姓たちはその在地領主の動きに反発し、両者の対立が次の鎌倉時代を通じて社会問題となっていく。
[坂本賞三]
農業においては二毛作が12世紀に行われていた。12世紀初期に伊勢(いせ)国(三重県)で水田の裏作に麦を植えていたことを示す史料があり、農民の生活の向上を促進したものと思われる。平安後期には商工業の発展の跡がうかがわれ、権門寺社が商工業者を従えるようになっていた。11世紀中期には諸官衙や王臣家の召使い・雑色人(ぞうしきにん)たちが私機を構えて綾(あや)や錦(にしき)を織り、私利をむさぼっているので、これを停止するよう禁令が出されている。「座」の初見は、1092年(寛治6)の史料にみえる山城(やましろ)国(京都府中・南部)の八瀬(やせ)里における村落の座の事例である。この八瀬里の座は青蓮(しょうれん)院の支配下で、おそらく駕輿丁(かよちょう)を奉仕して臨時雑役免除の特権を得ながら、生業としては薪(たきぎ)売りをしていたものと思われる。また荘園内に、荘園領主が必要とする特定目的に奉仕する手工業者のための給田が設けられた事例が12世紀ごろからみえ始める。これらは荘園領主のために奉仕した事例だが、この背後には商工業の発展が推測されるのであり、平安末期にわが国で銭貨の流通が盛行した事実はそれを裏づける。わが国では皇朝十二銭の鋳造が958年(天徳2)の乾元大宝(けんげんたいほう)を最後として、以後は行われなかった。が、11世紀ごろから宋(そう)銭や唐銭が輸入され始め、1179年(治承3)には、近ごろ天下の上下にわたって銭の病がはやっている、と記されるに至った(『百練抄(ひゃくれんしょう)』)。
[坂本賞三]
菅原道真(すがわらのみちざね)が讃岐守(さぬきのかみ)として赴任した886年(仁和2)から4年間に、彼が讃岐国(香川県)の人々の暮らしを同情してつくった「寒早(かんそう)十首」(『菅家文草(かんけぶんそう)』巻3)に次のようなものがある。租税を免れるため本貫(ほんがん)の地を離れて他国に流浪する浮浪人は、かえって逃れ先で税を責め取られている。鹿(しか)の皮の着物も破れ、円形茅葺(かやぶ)きの家一間を住まいとし、子を背負い妻を連れて物ごいに歩いている。賃船を生業とする人はまったく土地ももたず、風波の激しい日にも棹(さお)を操っているが、彼らの望みはただ雇われる機会が多いことだけである。漁業を生業とする人は釣り糸が切れないかと心配しながら魚を釣り、それを売って租税にあてるので、天気や風向きばかりが気がかりである。塩を売る人は海水を煮る仕事に命をすり減らしている。讃岐の風土は製塩に適してはいるが、豪族が利益を独占するので、人々は港で官人に何度も事情を訴えている。国の薬草園で働く人々は賦役として薬草を弁別する作業に従事しているが、わずかの量でも欠けると鞭(むち)で打たれる。ここには農業以外の生業で暮らす人々のありさまも記されていて興味深いが、浮浪人に対する取締りはこの時期までのことであった。「田堵(たと)(田刀)」という用語は平安時代にだけみられたものであるが、その史料的初見は859年(貞観1)の元興寺(がんごうじ)領近江(おうみ)国(滋賀県)愛智荘(えちのしょう)検田帳である。そこでは元興寺から遣わされた田使(でんし)が、田刀ら農民が元興寺田として登録されていた田を他領としてしまい、元興寺に地子(じし)を納めていないことを追及する。田刀とは耕作農民のなかで彼らを代表する立場の者をいうが、田使の追及に対し在地の実情に即して巧みに反論し、田使がようやく寺田を回復するまで10年余りを要したのであった。11世紀には一般に「田堵」と記されているが、それは農業経営に熟達している者という意味である。土地の慣習に詳しい代表者格の者を「旧老田堵」と称した例もあるが、また国から国へと渡り歩きながらその農業経営技術で荘田経営を請け負っている実例もみられる。
平安時代には百姓が国司の非法を訴えることも多かった。もともと国司は国家の地方行政を現地で執り行う強大な権限をもっているのだが、百姓の側にも国司の不正を中央に訴える権利が認められていた。9世紀初期弘仁(こうにん)年間(810~824)に伊賀国(三重県北西部)百姓がそれを行った実例があるが、9世紀末から10世紀初めにかけて国司を訴える動きが高まっていたことが三善清行(みよしきよゆき)の『意見封事十二箇条』に記されている。その一例として、834年(承和1)から翌年にかけて佐渡国(新潟県)の百姓が、国司が余利を求めて旧館を捨てて新館をつくったり、海浜山沢の利をひとりむさぼるなどをあげて訴えている。次の高まりが10世紀後期から11世紀前期の時期にみられたことは前述した(「政治・外交」参照)。これら諸国の百姓が国司を訴えた事件の高揚期がいずれも国家支配体制転換の直前であったことは注目される。そして両時期とも百姓の上訴によって国司たちが大きな打撃を受けていたのであった。
945年(天慶8)京では東西の国々から諸神が入京するという噂(うわさ)が広まっていた。その神の名は志多羅(しだら)神とか小藺笠(こいがさ)神とか八面神とかいわれていた。7月末になって志多羅神と号する神輿(しんよ)三前(まえ)が数百人の人々に担がれて摂津(大阪府、兵庫県)の河辺(かわのべ)郡から豊島(てしま)郡に入ってきた。その神輿は、菅原道真の霊を祀(まつ)った自在天神の額がかかったものと、宇佐春王(うさはるおう)三子と、住吉神との三前であった。そこへ道俗男女貴賤(きせん)老少を問わず群衆が集まってきて昼夜を分かたず踊り狂った。そして歌舞のなかを神輿は東方の島下(しまのしも)郡へと向かったが、この間に新たに神輿三前が加わったようで、群衆の数も数千、数万と増大して山崎郷に至り、さらに石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に入って大群衆が奉幣し歌舞した。この間、群衆は志多羅の神の名を詠み込んだ歌をうたっていたが、それは農民の祝い歌であって、その文言の一部分は田遊(たあそび)の歌として現在までも伝えられている。このようなことは1012年(長和1)にもあり、鎮西(ちんぜい)から設楽(しだら)神が上洛(じょうらく)している。かような現象は、それまでの地域的・封鎖的な信仰を破って、広く一般民衆の信仰へと拡大したものであり、また「荒田開かむ」などという歌詞は、そのころ農村の主導的地位にあった田堵たちの積極的な動きを表現したものであった。
先述した菅原道真の「寒早十首」のなかに漁業を生業とする人々を描いたものがある。彼ら海民のなかには、あるいは天皇に御贄(みにえ)を貢進する供御人(くごにん)となったり、あるいは諸社の神人(じにん)となって奉仕するかわりに特権を保護されている者もあったが、彼らは田畑をもつことなく、海上で生業を営んでいた。ところが11世紀後期ごろから、これら海民のなかで、定着して田畑をも耕作するもの、漁獲物の交易によって商業を行うもの、船による輸送に重点を置くものなどが分化してくる。このことは社会的分業が発達してきたことの現れであった。
[坂本賞三]
大陸文化の吸収・消化に努めてきた日本では、9世紀にはその度が進み、大陸文化形式による文化的表現を行うようになってきた。最澄(さいちょう)と空海(くうかい)は同時に入唐(にっとう)し、最澄は天台宗を伝え、空海は真言密教を学んで帰国し真言宗を開いた。天台宗も密教の色彩を濃くしていき、鎮護国家と現世利益(りやく)の秘密修法を国家的・政治的な要請によって修し盛行したが、その後、王朝国家体制に転換した10世紀ごろからは、貴族の個人的要請によって貴族の日常生活のなかに入っていくようになるのである。一方、仏教は9世紀には本格的に地方に浸透してゆくようになり、地方における造寺・造仏は一段と盛んになった。神仏習合の動きがこの時期に顕著になるのは、旧来の共同体が解体に向かって、仏教が民衆のなかに浸透しつつある過程でみられるもので、それに伴って神の観念も変化して神に人格的な性格が現れ、祖先神として歴史上の人物を祀(まつ)ることもみられるようになった。9世紀には、漢文学や法典その他で日本の人々が著作を出すようになってくる。9世紀前期には、漢文学の教養は「文章は経国の大業」として『凌雲(りょううん)集』『文華秀麗(ぶんかしゅうれい)集』『経国集』らの勅撰(ちょくせん)漢詩文集が編纂(へんさん)され、法律関係では、養老令(ようろうりょう)の解釈を国家的に統一した『令義解(りょうのぎげ)』が出された。9世紀後期には『田氏(でんし)家集』『紀家(きけ)集』『菅家文草(かんけぶんそう)』『菅家後集(こうしゅう)』など私家漢詩文集が出され、漢文学の形式をとりながら日本人の感情を表現する日本漢文学の作品が現れてきた。また一時は漢文学隆盛の陰になっていた和歌も9世紀後期には表面に現れてきて六歌仙が出た。仏像彫刻の面では、奈良時代と変わってこの時期には一木造が主流となり、また密教の流行に伴って密教的な彫刻が現れ、曼荼羅(まんだら)が作成されたが、そこには密教絵画の技法がみられた。書では空海、嵯峨(さが)天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)の「平安の三筆」が出た。
[坂本賞三]
10世紀ごろから世に国風(こくふう)文化といわれるような日本の風土や人々の感情から生み出された文化が各分野で現れてくるが、長い間大陸文化を摂取してきて、これを自らのものとして駆使するに至ったことを示す。10世紀の初め唐が滅亡し、ついで朝鮮半島でも新羅(しらぎ)にかわって高麗(こうらい)が建国したが、このような政治情勢のもとで大陸から文化的な強い影響を受けることがなかったことも関係があったであろう。仮名の成立は国風文化の形成を象徴するものである。もともと漢文は日本の言語と関係のない文章表現であったが、その漢字を使って日本の言語を表現する手法はすでに万葉仮名として使われていた。この手法の延長線上で字形がくふうされてきたのである。片仮名は仏典などの漢字を読む際に便宜的に使われ始めていた。また万葉仮名を記すにあたって漢字を草体に崩した草(そう)仮名が使われ始めていたが、両者ともしだいに整理され、草仮名の系が平仮名になって、10世紀初期には仮名が成立した。905年(延喜5)に撰上された最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が仮名で記されていたことは、仮名が勅撰集に用いられたということで歴史的意義をもつものであった。以後「三代集」と称されるような勅撰和歌集が相次いで撰進され、自由な文章表現ができることから私的な場で日常的に使われるようになっていった。それに伴って『竹取物語』『伊勢(いせ)物語』『大和(やまと)物語』などの物語が著されてきたが、ここでは私的世界の細かい感情が、和歌の表現と違ってストーリーとして構成された物語という形式で表現されたのであった。摂関時代に現れた『枕草子(まくらのそうし)』『源氏物語』は文学の最高級の作品とされている。このころも漢文が公的な地位を占めていたのであるが、漢詩と和歌とが同じ場で詠まれるようになり、また朗詠が流行するなかで、漢詩とその趣(おもむき)にあった和歌とをあわせ載せた『和漢朗詠集』が撰された。この時期の書では三蹟(さんせき)といわれた小野道風(おののとうふう)、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり)が出て、行成の草仮名の書など国風の趣を強めた。
建築では日本の風土に適した構造の寝殿造ができて、そのための装飾として内部に置かれた障子や屏風(びょうぶ)には、日本の題材を描いた大和絵(やまとえ)が現れてきた。仏教では、密教の修法(しゅほう)が王朝世界で行われる一方で、天台教学のなかから生まれた浄土教が流行した。10世紀に空也(くうや)が京の市井で念仏を説いたが、10世紀末に源信(げんしん)が著した『往生(おうじょう)要集』は僧侶(そうりょ)や貴族たちの間で広く読まれて浄土教の社会的流布に大きな役割を果たした。11世紀に政治的・社会的不安が深刻化してくると末法思想が僧侶のみならず貴族や地方の人々にも広まり、1052年(永承7)に末法に入るという説が絶望感をあおった。かくて極楽(ごくらく)浄土への願望が強まり、貴族たちは阿弥陀(あみだ)堂をつくって極楽浄土を現出しようとし、それが彼らの日常生活の場として使われるまでになったが、そこにみられた絵画や彫刻などで浄土教芸術が展開した。藤原頼通(よりみち)がつくった宇治の平等院鳳凰(ほうおう)堂は当時のおもかげを伝えるもので、堂内の阿弥陀如来(にょらい)像は定朝(じょうちょう)の作であって、このころ完成されてきた寄木(よせぎ)造の手法によるものである。寄木造によって、一木造ではできない大型の仏像をつくることが可能になり、また仏師の集団が組織されて、分業によって製作することができるようになった。
[坂本賞三]
後期王朝国家体制への転換は諸国で新興在地勢力が台頭してきた結果であるが、それは、既存の国家支配秩序に安住していた貴族にもはや昔日の夢を追うことはできないことを告げ知らせたものであった。院政期ごろには、王朝貴族文化の世界に地方社会への関心がみられるようになるとともに、文化が地方に及んでいった。『栄花(えいが)物語』の正編は長元(ちょうげん)(1028~37)ごろの成立と考えられているが、続編や『大鏡(おおかがみ)』の成立は摂関時代より後の成立と推定されている。ここでは摂関家の全盛が物語で叙述されており、急激な社会情勢の変化のなかで歴史を回顧する貴族たちの意識が観取される。一方、台頭してきた武士の世界を述べた『陸奥話記(むつわき)』や、『日本霊異記(りょういき)』の系譜を引きながらも新たに武士や庶民たちの社会の題材を加えた『今昔(こんじゃく)物語集』が現れ、後白河(ごしらかわ)法皇の編著である『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には広い地域の広範な階層の人々の今様(いまよう)歌謡群が収められている。院政期に京の文化が地方に及んでいったことを示す好例として次のようなものがある。奥州平泉の中尊寺金色(こんじき)堂は、この地方を支配した藤原氏三代の栄耀(えいよう)のさまをいまにしのばせるものである。また西においては豊後(ぶんご)国富貴(ふき)寺の阿弥陀堂がある。安芸(あき)国厳島(いつくしま)神社は、平氏の熱烈な信仰を受けたことから、平氏全盛期に上皇や貴族の厳島参詣(さんけい)が流行し、急速に歴史上にクローズアップされてきた。同社に伝えられてきた平家納経は豪華な装飾経で、平氏一門全盛期の栄華と平安文化の絢爛(けんらん)さをしのばせる。
[坂本賞三]
『『岩波講座 日本歴史4 古代4』『岩波講座 日本歴史4 古代4(新版)』(1962、1976・岩波書店)』▽『土田直鎮著『日本の歴史5 王朝の貴族』(1965・中央公論社)』▽『坂本賞三著『日本の歴史6 摂関時代』(1974・小学館)』▽『稲垣泰彦・戸田芳実編『日本民衆の歴史2 土一揆と内乱』(1974・三省堂)』
日本史の時代呼称の一つ。8世紀末から12世紀末に至る400年間を政権の所在地平安京によって名づけたもの。その始期および終期については,いろいろな考え方が可能であるが,政治の画期に重点をおくと,平安京を開いた桓武天皇の即位の年,781年(天応1)を始点とし,平氏滅亡,守護・地頭設置,朝廷改革により,源頼朝が鎌倉政権を確立した1185年(文治1)を終点とするのが穏当であろう。さらにこの400年は,10世紀初頭の醍醐天皇の治世と,11世紀後半に入った後三条天皇の治世とを境として,前期・中期・後期に分けられるが,またおもに社会経済史的な観点から,前期と中期の境を古代史上の画期とし,中期・後期を古代末期と称することもあり,別に中期以降あるいは後期を中世に入れる見解もある。
まずこの時代の国内政治の推移を概観すると,称徳女帝の治下,皇位をめぐる暗闘と仏教政治により,律令支配体制は動揺し,これに危機感をいだいた律令官僚貴族藤原氏は,女帝の死去を機に,政局の転換を図った。藤原氏は天智天皇の皇孫光仁天皇を擁立し,皇統は天武系より天智系に移って,朝政刷新の気運が朝廷の内外にみなぎった。10年余の光仁朝の後を継いだ桓武天皇は,引き続いて仏教政治の払拭と律令政治の振興に努めたが,さらに旧体制からの脱却を決定づけるため,新都経営に着手した。すなわち長岡京の造営であり,さらに多少の曲折を経て,794年(延暦13)の平安遷都に実を結んだ。また前代以来の蝦夷の反乱に対し,天皇は坂上田村麻呂を登用して積極的な征戦と鎮定策を講じ,以後長く大規模な蝦夷の反乱は跡を絶つに至った。しかし長期にわたった造都と征夷が,財政と民生を圧迫したことは否定できず,桓武天皇の没後即位した平城天皇は,財政の緊縮と民政の振興に鋭意努力した。ただその反桓武朝的な政治姿勢が,譲位後にかかわらず,平城遷都を嵯峨天皇に強要するに及び,いわゆる薬子の変を引き起こし,平城上皇は落飾出家して政界から引退せざるをえなくなった。
この騒動を克服した嵯峨は,以後30年にわたり天皇あるいは上皇として宮廷に君臨し,平安宮を〈万代の宮〉と宣言して,平安王朝の基盤を確立した。嵯峨朝に始まる格式(きやくしき)と儀式の編纂は,中国生れの律令と儀制を日本の風土になじませ,やがて公家法と有職故実(ゆうそくこじつ)の世界に引き継がれた。また新設の蔵人所(くろうどどころ)と検非違使(けびいし)は,後世まで永く重要な機能を果たし,貴族政権に大きな地位を占めた。一方,嵯峨天皇の腹心として活躍した藤原冬嗣は,廟堂における北家藤原氏の優位を確立し,冬嗣の後を継いだ良房は,承和の変を機として,伴氏,橘氏等を朝廷から排除し,冬嗣の外孫文徳天皇を皇位につけることに成功した。ついで良房は人臣最初の太政大臣に任命され,その外孫清和天皇が幼少で即位するや,事実上執政の権を握り,さらに866年(貞観8)応天門の変を機に摂政の詔をこうむり,藤原摂関制へ道を開いた。
しかしその道は必ずしも平坦ではなく,宇多天皇の強烈な抵抗にあい,醍醐天皇の親政の意欲の前に,しばらく足ぶみせざるをえなかった。宇多天皇は生母班子女王とともに,藤原氏の後宮支配を抑制する一方,橘広相,菅原道真らを登用して藤原氏の専権を防ごうとし,醍醐天皇は諸政の刷新に熱意をもやした。ただ〈延喜の治〉とたたえられた治績も,格式や国史の編纂などに律令政治の最後の花を咲かせたのにとどまり,有名な荘園整理令も,これを境として中央政府の地方支配を後退させた。醍醐の没後まもなく起きた平将門の乱と藤原純友の乱は,朝廷に大きな衝撃を与えたが,これを〈承平・天慶(てんぎよう)の乱〉と名づけて,歴史の転換の標識とするのも理由なしとしない。946年(天慶9)即位した村上天皇は,朱雀朝以来の関白藤原忠平が没すると,摂関を置かず,忠平の2子実頼・師輔兄弟を左右大臣に配し,醍醐皇子重明親王や源高明を重用し,それらの協調の上に20年に及ぶ宮廷の平和と安定をもたらし,後世〈天暦(てんりやく)の治〉とうたわれる治世を現出した。しかしその間,忠平の妹である母后穏子,師輔の女皇后安子の後宮支配はいよいよ強まり,藤原氏全盛への地ならしが着実に進められた。また960年(天徳4)の内裏焼亡は,天皇に大きな挫折感を味わわせたばかりでなく,朝廷の矮小化の糸口を開くものとなった。
村上天皇についで即位した冷泉天皇は病弱のため,実頼が関白となって摂関制は再出発したが,師輔の後継者たちは,左大臣源高明を前途の障害になるとみて,969年(安和2)安和(あんな)の変を起こして高明を失脚させた。こうして他氏排斥に終止符をうった藤原氏は,やがて摂関の座をめぐって骨肉の争いを展開した。そして一時は兄兼通のもとに雌伏していた兼家が,兼通の没後,機をとらえて花山天皇出家事件を演出し,外孫の一条天皇を位につけ,待望の摂政の座についた。しかも兼家は右大臣を辞して,初めて無官の摂政となり,摂政を太政大臣以下三公の上に立つ最高至上の地位に押しあげた。ついで兼家の没後,摂関の座はその子道隆・道兼・道長および道隆の子伊周の間で激しく争われたが,結局は道長が最後の勝利をおさめて政権を握った。もっとも道長は,外孫後一条天皇の即位後短期間摂政に就任するまで,一条・三条両朝においては摂政にも関白にも任ぜられず,内覧宣下をうけた左大臣の地位にとどまった。しかしその地位は,関白に准ずる輔弼(ほひつ)の臣と,公事執行の権を握る一上(いちのかみ)の座を併せもつものであり,時人から摂政・関白に異ならずと評された。たしかに幼帝の代行者である摂政と,成人天皇を補佐する関白とは,制度上異なるところはあるが,摂関政治は,摂政ないし関白が朝廷を掌握し,主導する政治形態であるから,実際政治のうえでは両者の間に決定的な差異はなく,道長の例はその証左ともなる。道長は頼通に摂政を譲った後も,〈大殿〉と呼ばれて政治の実権を握り,政局の安定が続いた。それを支えたのは,道長の女子たちによって後宮を独占し,天皇をも一家のうちにとりこんだ外戚体制にほかならない。しかし外戚体制は,危険な両刃の剣でもある。道長の後を継いだ頼通・教通らは女子に恵まれず,ついに外戚の地位を維持することに失敗し,1027年(万寿4)道長が没すると,摂関家の勢威は急速に下降線をたどった。
そして1068年(治暦4)即位した後三条天皇は,宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であった。その治世はわずか5年足らずであったが,天皇が強力におし進めた新政は,歴史の流れを大きく変えることになった。荘園整理令と記録荘園券契所の設置,宣旨斗の制定,皇室経済の再編と充実などがそれである。しかもこの新政は,権門勢家の上に立つ天皇の全国支配権を強く印象づけることになった。これを受け継いだ白河天皇親政期においても,朝廷は引き続き天皇を中心として回転し,院政成立の素地を作った。
いわゆる院政は,白河天皇のいだいた皇位継承の構図を実現することを目的とした譲位が契機となって始まったが,さらに1107年(嘉承2)堀河天皇の没後,幼少の鳥羽天皇が践祚するや,白河上皇の執政はいよいよ本格化し,常態化した。しかし院政といっても,特別の執政機関があったわけではなく,上皇は旧来の政治機構の背後にあって,それに指示と裁断を与え国政を動かしたのである。その上皇の耳目となり,手足となって活躍したのが,当時〈院近臣〉といわれた中・下級廷臣である。そして律令軍制が崩壊したなかで,武士を院の北面に伺候させるという形で掌握し,政権の支えとしたのは院政の大きな特色であり,これを巧みに利用して急速に台頭したのが平氏である。伊勢の中小武士団の首領にすぎなかった平正盛は,所領寄進などを媒介として白河上皇に結びつき,その子忠盛は北面の武士の統率者の地位を獲得し,さらに鳥羽院政下では有力な院近臣の一員にまでのし上がった。これに対し,源氏は義家没後の内紛や,その後継者為義の政治的才能の貧困により,平氏に勝るとも劣らない武力を持ちながら,中央政界においては劣勢を余儀なくされた。一方,貴族社会では,専制的な上皇の執政のもとで,旧来の慣行は無視され,秩序は乱れ,ついには恣意的な皇位継承が皇室や摂関家の内紛をよび起こし,武士を引きこんで抗争するまでに至った。
1156年(保元1)の保元の乱がそれで,騒乱は半日で終わったが,平安京創設以来初めての市中の合戦は,世人に大きな衝撃を与えた。この乱によって,武士の政治的立場は飛躍的に高まり,ことに源氏が為義・義朝父子の相克により大きな損傷を受けたのに対し,平氏は清盛を筆頭にして一族が朝廷に進出し,さらに平治の乱(1159)によって,源氏の勢力を都から一掃し,中央・地方の軍事権を掌握した。ただ清盛は独自の武家政権の樹立を志向せず,みずから太政大臣にのぼったのをはじめ,一門を朝廷の要職に配し,さらに女子の徳子を高倉天皇の皇后とし,外孫安徳天皇を位につけるなど,かつての藤原氏と同様の手法をもって政権の掌握を図った。この公家の外被をまとった武家政権に対し,危機感を強めた旧勢力は,おのずから後白河上皇のもとに結集し,なかでも強大な武力を誇る南都北嶺の寺社勢力は,反平氏的行動を強めていった。平安後期に入って,寺院の俗界進出,所領拡張運動は激化し,その尖兵として活動した僧兵の横行には,院政政権も手を焼き,源・平両氏の武力をもって鎮圧するほかなかった。しかし王法・仏法の守護を標榜する寺社勢力が,新興武士勢力の政権に危機感を高めたのは当然である。ことに万代の王城を捨てて摂津福原に遷都した清盛の行動は,彼らの反平氏運動に拍車をかけた。源頼朝をはじめ各地の源氏は,好機到来とみて兵を挙げ,1181年(養和1)清盛が没すると,その2年後には早くも平氏は都から追い落とされて西海に浮かび,85年(文治1)壇ノ浦の合戦に敗れて滅亡し,頼朝の鎌倉政権が確立するに至ったのである。
この時代の社会経済の動向は,一言でいえば律令的土地制度の崩壊と,それを背景とした武士勢力の台頭であろう。律令的土地制度の根幹は,いうまでもなく班田制であるが,口分田の班給は,800年(延暦19)の班田を最後として急速に廃退し,それに伴って調庸の欠負未進も常態化した。桓武天皇は勘解由使(かげゆし)を新設し,交替式を編纂して,国司の施政を督励したが,班田制の維持は年を追って困難になった。一方,貴族・社寺および富裕農民の土地兼併はますます進展し,皇室もこれに対抗して後院領以下の勅旨田を盛んに設定したため,公田はいよいよ減少して輸租の減退を招いた。また班田制と表裏をなす戸籍制度も崩壊し,課役の逃避が常態となった。さらに中央官司も財政の窮乏に苦しみ,その公用を支えるため,879年(元慶3)畿内5ヵ国に4000町の官田を設置し,ついでそれを諸司に配分したので,大蔵省などを中心とする財政の中央集権制が崩れ,さらに諸司が個別に領有する諸司田が広範に成立した。
そこで政府は,902年(延喜2)一連の荘園整理令を発し,国司の権限を強化し,荘園の増大を防ぐとともに,国司の検田によって国衙の基準国図に公田を登録し,公田の維持と租庸調の徴収を国司に義務づけた。しかしこれは中央政府が地方支配を国司に委任したことをも意味し,政府の統治力は地方から大きく後退することになり,以後地方の治安の乱れが慢性化する一因にもなった。またこの整理令は,一面では既設荘園の公認ともなり,国衙公田と荘園が併存する体制のもとで,富裕農民はいちだんと力をたくわえていった。彼らは国衙や荘園領主に官物・年貢を完納するかぎりにおいて,耕作権と下地進止権を保持し,空閑地や荒廃田の開墾に努めて治田を増やし,開発領主から武士への道を歩んでいった。また貴族社会においては,摂関政治の進展に伴い,公卿などの朝廷の上層部は,北家藤原氏や賜姓源氏に独占され,上流貴族と中・下流貴族の間の断層が深まって,階層分化が進んだ。
たび重なる荘園整理令にもかかわらず,権門勢家への荘園の寄進はいよいよ盛んになったが,律令俸禄制も頼りにならず,荘園の寄進にあずかることも少ない中・下級官人は,家学・家業を身につけて官司機構に足場を固める一方,実収の多い国司=受領(ずりよう)の地位の獲得に狂奔した。徴税請負人と化した受領は,一定の官物を中央に納めると,さらに収奪をほしいままにして私財をたくわえ,それを中央における活躍の支えとし,人事権を握る権門に財力奉仕して地位の維持を図り,任地の行政は在庁官人にまかせてかえりみなかった。こうして地方政治はますます荒廃し,在地豪族が随所に横行した。1027年(万寿4)ころから数年にわたって房総地方を荒らしまわった平忠常もその一人であり,奥羽の地も前九年・後三年の両役を経て,事実上奥州藤原氏の支配地域と化した。これら東国・奥羽の騒乱を鎮定したのは,頼信・頼義・義家の3代にわたる源氏で,この征戦を通じて源氏と東国武士との間には強固な主従関係が結ばれた。東国の有力な豪族は,広大な私領を開発し,在庁官人となって国衙機構に重要な地位を占め,強大な武力を擁する者が少なくなかった。彼らに棟梁として擁立された源氏が,近畿・西国の中小武士団を従える平氏に最終的に打ち勝った要因は,源・平両氏の率いる武士団の内容の差にあったともいえる。
この時代の初期は,唐風文化の最盛期といわれるが,前代以来中国から輸入された文物も,ようやく日本人になじみ,自前の漢詩文を創作する力を育てた。嵯峨天皇を中心とする宮廷では,《凌雲集》以下の漢詩集が相ついで勅撰され,唐礼を土台として《儀式》が編纂され,宮城の殿門も唐風の佳号がつけられた。また令制の大学では経書を講授する明経道を中心としたが,漢詩文の盛行を背景として,紀伝道が重んぜられるようになり,紀伝道中心の文章院が設立され,さらに藤原氏の勧学院のように,有力氏族の子弟教育機関も設けられた。中期に入って,和文・和歌の全盛期においても,漢詩文は廷臣必須の教養として重視されたが,その間,紀伝道は菅原氏・大江氏等の,明経道は清原氏・中原氏等の家学となり,学問専業化の道を開いた。
一方,和文・和歌は,9世紀末までに完成したかな文字の普及により,飛躍的な発展をとげた。905年(延喜5)《古今和歌集》が勅撰されてから,勅撰漢詩集に代わって勅撰和歌集がつぎつぎに撰集されたが,ことに《古今集》の仮名の序文は,和文が公式の場で認められたものとして,その意味は大きい。また仮名が女文字といわれた風潮と,藤原氏の外戚体制を背景として,後宮の女房を中心とする女流作家が輩出し,《源氏物語》《枕草子》などの名作を生み出した。しかし藤原摂関勢力の後退は,摂関家と後宮を活躍の場としてきた女房たちにも暗い影を落とし,よき昔をなつかしむ方向にむかわせた。道長の栄華をしのぶ《栄華物語》がその口火を切り,《大鏡》以下の〈鏡もの〉がこれに続いた。また同じころ,《今昔物語集》をはじめとする説話集が世に現れ,浄土信仰の盛行を反映して,往生談がその重要な部分を占めるとともに,地方や社会の下層からも多くの話が集められ,貴族の関心が広がっていく傾向を物語っている。その文体もかなの和文から漢文読み下しに近いかな交り文へ移り,さらにリズミカルな和漢混淆体の軍記物を生み出した。
つぎに目を宗教に転ずると,この時代の初め,入唐僧最澄および空海によって開かれた天台・真言二宗は,仏教界に新風を吹き込んだ。二宗は比叡山の延暦寺と高野山の金剛峯寺を拠点としたため,前代の南都仏教に対し,山岳仏教ともいわれるが,一面では祈禱を主とする密教の行法をもって,宮廷・貴族の精神生活に深く入りこんだ。しかし中期に入ると,天台僧徒の間に浄土思想がたかまり,《往生要集》を著して浄土信仰を説いた源信や,市中に阿弥陀念仏の功徳をとなえた〈市聖(いちのひじり)〉空也らの活動は,貴賤上下に大きな反響をよびおこした。さらに後期に入ると,1052年(永承7)を末法の初年とする末法思想が,災害や騒乱の頻発によって拍車をかけられ,人心は新しい救い,新しい仏教の出現を待ち望んだ。
また生活文化の面においても,この時代は民族文化の土台をきずき,その形成に大きく貢献した。朝廷の儀服は,唐風の礼服・朝服から,和様化した束帯・衣冠に移り,さらに着ごこちよい直衣(のうし)・狩衣が平常服となった。平安宮も大極殿以下朝堂院の殿舎は,瓦葺き・石畳の唐風宮殿であったが,居住区の内裏の殿舎は,檜皮(ひわだ)葺きに床板張の和風建築であった。これに系譜を引く貴族の邸宅は,寝殿を中心にして,前栽や築山,あるいは池を配し,自然を豊かに取り入れた寝殿造が普及し,屋内は障子や屛風で間仕切りして,大和絵がそれらを飾った。
朝廷・貴族の年中行事も,唐風の強い令制の節日(せちにち)行事に日本の季節と風土が影響してしだいに姿を変え,さらに民間の習俗も取り入れられた反面,宮中の追儺(ついな)が民間の〈鬼やらい〉になったように,宮廷から民間に流布した行事もあり,上下相応じて民俗をはぐくんだ。ことに平安末期には,庶民の遊芸であった田楽や今様が宮廷社会でもてはやされ,そこにも次代の文化のいぶきを感じとることができる。
蝦夷征討も一段落した804年(延暦23),桓武天皇は二十数年ぶりに遣唐使を派遣し,これに同行した最澄と空海が,帰朝後それぞれ新仏教を興したことはよく知られている。ついで838年(承和5),また遣唐使が発遣されたが,この2度の遣唐使が持ち帰った唐の文物が,唐風文化の興隆に拍車をかけたことはいうまでもない。その後894年(寛平6),宇多天皇は菅原道真を遣唐大使に任命したが,道真の上奏によって派遣を停止したため,承和の使節が最後の遣唐使となった。遣唐使停廃の理由としては,航海の危険や唐国内の騒乱などが考えられるが,一面では唐や新羅の商船の来航がますます盛んになり,それによる文物の流入や僧侶の渡航も絶えず,遣唐使を派遣する必要が減退したことも確かである。また新羅の北,唐の東に接する渤海は,唐と新羅に対抗するため,奈良時代からしばしば使節を日本に送って親交を求めてきたが,8世紀後半には,朝貢に名をかりた交易の利を目ざして頻繁に来航するようになった。
ところが10世紀に入ると,日本の歴史が大きな転換を経験するのと時を同じくして,東アジアでも各地に変動が起きた。まず中国では,907年唐が滅んで五代十国の乱世に突入し,926年には契丹が渤海を滅ぼして遼を建て,935年には高麗が新羅に代わって朝鮮半島を統一した。ついで960年に建国した宋は,979年ようやく中国統一に成功した。この間,動乱の余波として,新羅の辺民がしばしば対馬や北九州を侵したので,日本は辺境の防備を厳にするとともに,対外交渉にいちだんと消極的になった。しかし大陸の情勢が安定した10世紀後半には,宋の商船の来航と日本僧の入宋が盛んになり,ことに11世紀後半には,北方の遼の圧迫に苦しむ宋の神宗が,国書を贈って積極的に対日接近を図り,日宋貿易もますます活発になった。その後1127年,宋は女真族の金に追われて南遷し,南宋として再建されたが,12世紀後半に入ると,平清盛の貿易振興政策によって,再び日宋貿易が盛んになった。日本から砂金,水銀や漆器,屛風,扇子などの工芸品,さらに刀剣類が輸出され,かの地で名声を博したことはよく知られている。中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。
こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐・対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。その際,高麗は北走する賊船を迎え撃ち,多数の日本人捕虜を救出して九州に送り返してきた。日本と高麗との間には公式の国交はなかったものの,かの元寇に至るまでは,終始友好的な関係が続いたのである。
→院政 →古代社会 →摂関政治 →律令制
執筆者:橋本 義彦
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日本史上の時代区分。平安京(京都)が実質的な政治権力の所在地であった時代の意味で,8世紀末から12世紀末に至る約400年間をさす。その始めは一般には桓武天皇による平安遷都の年,794年(延暦13)とされるが,長岡遷都の784年,桓武即位の781年(天応元)とする主張もある。その終りについても,源頼朝(よりとも)が挙兵した1180年(治承4)の前年までとする主張や,平氏が滅亡した1185年(文治元)までとする主張などがある。
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