遠江国(読み)トオトウミノクニ

デジタル大辞泉 「遠江国」の意味・読み・例文・類語

とおとうみ‐の‐くに〔とほたふみ‐〕【遠江国】

遠江

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日本歴史地名大系 「遠江国」の解説

遠江国
とおとうみのくに

現静岡県の西部を占め、東は駿河国、北は信濃国、西は三河国に接し、南は遠州灘に臨む。「和名抄」東急本に「止保太阿不三」の訓がある。

古代

〔国名の由来〕

国名は琵琶びわ湖=近淡海ちかつおうみに対して、浜名湖を遠淡海とおつおうみとよんだことによるとするのが一般的である。しかし遠江国の中心は現在の磐田市を中心とする磐田郡であって、浜名湖は遠江国の西の端であることから、磐田郡などのある磐田原台地の南に広がっていたおおの浦(現磐田市・福田町)という潟湖が遠淡海とよばれたとする説も有力である。また奈良時代の浜名湖は現在より面積がかなり小さく、南側は陸地になっていたらしい。これは大化前代の遠淡海国造の本拠地をどこに想定するかにもかかわるが、遠江国内の三国造のうち遠江国造だけが「古事記」に登場することからすれば、その本拠地は最大の前方後円墳が造られる磐田原台地である可能性が高く、その場合には大の浦が遠淡海とよばれ、国名の由来となったと考えられる。

〔遠江の国造〕

「古事記」神代巻にはアメノホヒの子、建比良鳥命に出雲国造・武蔵国造などと並べて遠江国造の祖だと注記するが、「国造本紀」には他に二国造が記されている。遠淡海国造は成務天皇の世に物部連の祖、「伊香色雄命」の児、印岐美命(いにきみのみこと)をもって国造に定め、久努(くの)国造は仲哀天皇の世に「伊香色男命」の孫、印播足尼をもって国造に定め、素賀(そが)国造は神武天皇の世に美志印命(うましいにのみこと)をもって国造に定めたと記されている。「国造本紀」の記述は史料的信憑性に問題があり、そのまま事実と認めることはできないが、その国造名は七世紀後半以前のある時期に実在したと推定できる。素賀国造は現掛川市領家りようけ高御所こうごしよなどの旧曾我そが村を本拠とすると考えられ、久努国造は現袋井市久能くのを中心とした原野谷はらのや川流域を領域としたと考えられる。遠淡海国造の本拠については、浜名湖北部の現引佐いなさ井伊谷いいのやとする説と現磐田市を中心とする磐田郡を考える説があるが、磐田原台地には松林山しようりんざん古墳以来、四、五世紀に古墳が集中すること、総社の淡海国玉おうみくにたま神社が現磐田市見付みつけにあることなどから、磐田市を想定する説が有力であろう。その場合には、国造の本拠地が律令国家の遠江国の中心へ継承されたことになる。ほかに浜名郡に英多あがた郷や式内社英多えた神社が存在することから浜名県(あがた)があったとしたり、麁玉あらたま郡の三宅みやけ郷や、引佐郡の式内社三宅神社の存在から、それぞれ屯倉が置かれていたことを推定する説がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「遠江国」の意味・わかりやすい解説

遠江国 (とおとうみのくに)

旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。

東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する国評制下の評として長田評,荒玉評・紀甲評(藤原宮木簡),淵評・駅評(伊場木簡)などが確認されている。令制下では国郡制施行当初の管郡は浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長田,磐田,周智(すち),佐益(のち佐野(さや)/(さの)),城飼(きこう),蓁原(はいばら)の10郡で,大国であったと推定されている。国府は磐田市見付,淡海国玉神社(総社)付近にあったとされ,また同市国府台には国分寺址(国指定史跡)がある。709年(和銅2)長田郡を分割して長上・長下の2郡とし,722年(養老6)佐益郡8郷を割いて山名郡を置き,また881年(元慶5)には磐田郡を割いて山香郡を置き,13郡に成長した。人口は奈良時代で8万1000人,平安中期で9万人と推定されている。719年(養老3)按察使(あぜち)が置かれると,遠江国司は駿河,伊豆,甲斐3国を管下においた。《正倉院文書》中に740年(天平12)の〈遠江国浜名郡輸租帳断簡〉があり,現在は湖底に水没した当時の水田が風害にあったようすや農民の家族構成などを知ることができる。災害はまた麁玉河(天竜川)の氾濫によってもしばしばもたらされ,761年(天平宝字5)の大決壊を修理した天宝堤は,今もそのなごりを浜北市にとどめている。遠江国を象徴する浜名湖には浜名橋がかけられ,884年(元慶8)には大規模な改作の行われたことが《日本三代実録》に見える。また浜名湖の〈引佐細江〉などは《万葉集》にみえ,伝空海作《遠江浜名淡海図》(漢文)には平安初期の姿が活写されている。平安時代の荘園として,関白藤原頼通領笠原荘,円勝寺領質侶(しどろ)荘などのほか,蒲御厨(かばのみくりや)をはじめとする伊勢神宮領が国内に多数置かれた点に特色がある。
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源頼朝は1180年(治承4)8月に伊豆で挙兵し,10月には富士川の戦で平氏軍を破り,遠江守護に安田義定を補任して,みずからは鎌倉に入った。しかし93年(建久4)義定は子義資の罪に縁坐して守護職を解かれた。その後は北条時房をはじめ時房一流(大仏(おさらぎ)氏)が守護職を代々相伝して鎌倉末に至った。なお鎌倉期遠江の在地領主(武士)としては浅羽氏相良氏,内田氏,横地氏,勝田氏(勝間田氏)らがいた。中世はいわゆる荘園公領制に基礎をおいた社会であったが,遠江は村櫛荘,原田荘,初倉荘池田荘,蒲御厨などの史料が豊富で,荘園公領制支配の具体的様相を知りうる荘園のほぼ東限をなしている。鎌倉中期以降,各地の荘園はしだいに地頭領主によって荘園諸職や得分が侵害され,地頭請や地頭天野氏の侵害をうけた山香荘にみられるような下地中分(したじちゆうぶん)が行われるようになった。

 南北朝内乱の時代の遠江は南朝方の有力な拠点の一つで,南朝方貴族の荘園が多く,とりわけ浜名湖北域に井伊氏がおり,宗良親王が井伊谷城へ入った。しかし北朝方の遠江守護今川範国らの活躍で諸城が落とされ,南朝方の抗戦も終わった。遠江国守護職は範国の後,一時仁木氏,千葉氏らにも変わるが,主として今川氏がおさえ,斯波義重から今川泰範,そして1419年(応永26)に斯波義淳が任ぜられて以降,室町期には斯波氏が世襲した。しかし斯波氏は越前,尾張の守護を兼ね,遠江を本拠としなかったため,今川貞世(了俊)や仲秋系の遠江今川氏の勢力が根強く残った。応仁・文明の乱では遠江守護斯波義廉が西軍に,駿河守護今川義忠が東軍に投じたため,遠江では国人領主層も含めて乱の渦中に巻き込まれた。なお遠江の国人領主には,室町幕府の奉公衆になったものも多い。荘園公領制はこの間村櫛荘や原田荘細谷郷にみられるごとく,南北朝期の半済(はんぜい)や室町期の年貢の代官請負制などを通じて,しだいに解体・形骸化していった。また農民層の成長も著しく,蒲御厨では代官排斥闘争や徳政一揆なども起こった。

今川氏による遠江侵攻は義忠の代にはじまる。義忠は1476年(文明8)斯波氏と結び反乱を起こした勝間田・横地氏を討伐した帰途,その残党のため討死した。これを継いだ氏親は,伯父伊勢新九郎(北条早雲)の援助をうけて遠江へ侵攻し,1508年(永正5)には遠江守護に任ぜられ,17年には引馬城を攻めて遠江における斯波氏の勢力を一掃した。氏親は領国内に検地を行い,寄親寄子制で家臣団を編成し,さらに《今川仮名目録》を制定するなど,領国支配体制の強化をはかった。こうして氏親以降,氏輝,義元,氏真の今川氏4代は戦国大名とよばれ,49年(天文18)に三河一国も支配下におさめた義元段階に,その領国支配は頂点に達した。しかし義元は桶狭間の戦で織田信長に討たれ,68年(永禄11)には徳川家康が遠江へ侵攻して翌年氏真の立てこもった掛川城を開城させ,今川氏は事実上滅亡した。

 家康は1570年(元亀1)に居城を浜松に移し,本格的に遠江の経営にのり出すが,この後10年余りにわたり,武田信玄・勝頼父子と,三方原や長篠の戦,高天神城や二俣城をめぐる攻防など,遠江を中心に抗争をくりかえした。82年(天正10)に武田氏が滅亡し,ついで信長が本能寺で討たれた後,家康は三河,遠江,駿河,甲斐,南信濃の5ヵ国を領有した。そして89年から翌年にかけて,五ヵ国総検地と七ヵ条定書の交付が行われ,小田原攻めに備えた領国内の農民支配体制,軍事体制の強化・整備がはかられた。なおこの総検地は,遠江に残された検地帳により,太閤検地とほぼ同内容のものであることがわかる。

すでに平安末には橋本宿,引間宿,池田宿,見附宿,懸川宿,菊川宿などの宿が設けられていたが,鎌倉幕府の成立により,京と鎌倉を結ぶ東海道の果たす役割が飛躍的に増大した。室町期から戦国期には,流通経済や交易のみならず,軍事行動のためにも,領国内の交通路の整備がはかられた。その一端は今川氏や,とくに徳川氏の天正年間(1573-92)の浜松宿中にあてた伝馬手形,池田や馬籠などの渡船場保護の定書,駿府~岡崎間の宿中に下した伝馬朱印状などからうかがうことができる。

 宗教的には,遠江では鴨江寺,尊永寺,西楽寺など,元来は真言宗の影響が強かった。しかし中世後期には,禅宗それも曹洞宗が大いに発展し,如仲天誾(じよちゆうてんぎん)の開いた森の大洞院や華蔵義曇の開いた引間の随縁精舎(普済寺の前身)などが教線拡大の一大拠点となった。臨済宗も,後醍醐天皇の皇子といわれる無文元選が奥山に方広寺を開くなど,相当の発展を示した。また中世以来民俗芸能の発達もみられた。藤守や小国神社の田遊(たあそび),西浦(にしうれ)の田楽など,豊作への予祝(よしゆく)神事として民衆の共感に支えられながら今に伝えられている。

徳川家康が豊臣秀吉の命により後北条氏滅亡後の関東へ転封したのは1590年(天正18)8月であった。そして遠江の諸城へは,いっせいに豊臣系の大名が配置された。すなわち浜松に堀尾吉晴12万石,掛川に山内一豊5万石,横須賀に渡瀬繁詮3万石,また久野に松下之綱が1万6000石で,それぞれ封ぜられた。これら豊臣系大名は太閤検地をはじめ新たな領国支配を進めるが,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で家康が勝利を収めるといずれも転封させられ,わずか10年でその支配を終えた。

 こうして翌1601年には幕藩体制下の新たな藩制が成立し,浜松藩は松平忠頼5万石,掛川藩は松平定勝3万石,横須賀藩は大須賀忠政6万石となった。久野藩は03年松平重綱が転封,さらに40年(寛永17)に北条氏重が転封して廃藩となった。また19年(元和5)に近藤秀用が1万石で入封して一時井伊谷(いいのや)藩が成立するが,一族5人に分知し,旗本五近藤となり,2年後には廃藩となった。さらに1710年(宝永7)には本多忠晴が1万5000石で入封して相良藩が成立,同藩は58年(宝暦8)に田沼意次が入封して大いに発展するが,その失脚とともに一時廃藩,その後再度田沼氏が入って幕末に至った。遠江の諸藩には徳川家門や譜代大名が主として任ぜられ,また幕閣に連なるものが多数でるなど,移動が激しかった。浜松藩はその典型で,天保改革の水野忠邦など5人の老中を出し,幕末まで藩主の転封がくりかえされた。掛川藩,横須賀藩も当初は同様であったが,前者は1746年(延享3)に太田資俊が,後者は1682年(天和2)に西尾忠成が入封し,以後はそれぞれ太田・西尾両氏で幕末に至った。遠江一国でみると,これら諸藩領はいずれも石高は10万石に満たない小藩であり,天領(幕府領)や旗本領,遠江以外の他藩の飛地などが多かった。たとえば阿多古,西手,奥山,犬居の4領などを含む北遠地方は,一時期徳川頼宣の駿府藩領となった以外は天領であり,遠州中泉代官・川井代官,信州駒場代官などの支配をうけた。とくに中泉代官所の支配地は一時三河,駿河から甲斐にまで及び,その後天保期には遠江,三河の6万石余であった。個々の村々についてみると,これら諸領主の相給支配になっている所も多かった。

農民支配の基礎となる検地は,徳川氏の五ヵ国総検地,豊臣系大名の太閤検地をうけて,幕藩体制成立初期の1604年(慶長9)に行われた遠州総検地,いわゆる〈辰之御縄〉が重要である。伊奈忠次が検地奉行となり,天領を中心に遠州一円に実施されたもので,南遠では石高,北遠では永高(永楽銭による高表示)となっているが,いずれにしてもこの検地によって近世村落の基礎が確定された。それゆえ慶長検地は古検とも称され,このときの検地帳は近世を通じて基本的な土地台帳としての役割を持ったため,今日でも各地にかなり残されている。その後とくに寛文・延宝期(1661-81)の検地を通じて,最終的に近世の村落体制ができあがった。

 近世の農村では大河川下流域の新田開発が進展したが,それには灌漑用水の整備が不可欠であった。1588年(天正16)に創設された寺谷用水は天竜川の一支流を開削したもので,これによって磐田郡一帯73ヵ村の用水が整備されたといわれている。また浜松地方には,文化年間(1804-18)に井組21ヵ村によって作られた下飯田用水組合などがある。農民にとって用水の確保は死活問題であり,各地で用水相論も頻発した。1853年(嘉永6)から翌年にかけて起こった仲井用水相論(井組5ヵ村と上山梨村との相論)などは関係史料が豊富で,相論の内容を詳細に伝えている。中期以降幕末にかけては,領主の収奪強化や飢饉などのため百姓一揆も各地で起こるが,遠江では支配体制をゆるがすような大規模な一揆は知られていない。しかし早くも1786年(天明6)には二俣で打毀が起こり,穀類や品物の買占め・売惜しみで物価高騰を招いたとされた商人たちが襲撃された。1823年(文政6)にはいわゆる文政茶一件が起こった。川根地方では早くから茶の栽培が行われていたが,1813年(文化10)に江戸で茶問屋の株仲間ができ,その下に川根組14名,駿府組29名の茶仲間が結成された。この茶仲間の流通の不正や横暴に対して,遠江と駿河113ヵ村の茶生産者が訴訟を起こしたのである。結果は提訴が却下され,首謀者に過料刑が科せられて終わったが,国を越えて農民たちが連合した意味は大きかった。そのほか46年(弘化3)の水野忠邦失脚・転封後に起こった浜松藩の1万人を超す百姓一揆,57年(安政4)に中泉代官所の新たな分一(ぶいち)税賦課などに反対する北遠73ヵ村の分一一揆,60年(万延1)の城下騒動,二俣騒動などがあった。

東海道は近世に入ってますます重要性を増した。幕府の公用・私用の便,とりわけ大名の参勤交代の大通行,一般の旅人や物資の継立輸送などのため,宿駅の整備,交通の安全確保が幕府にとって大きな課題となった。遠江にはいわゆる〈東海道五十三次〉のうち金谷日坂(につさか),掛川袋井見附,浜松,舞坂,新居白須賀の9宿があった。袋井はやや遅れるものの,おそらくは白須賀も含めて,他の宿駅は関ヶ原の戦の翌1601年(慶長6)に設置されており,幕府開設以前であることからも,東海道を重視した徳川氏の意欲がうかがわれる。また東海道の脇往還として,浜名湖の北部を通る本坂道(通称姫街道)があり,さらに秋葉山から水窪(みさくぼ)を通り,青崩峠を越えて伊那に至る信州街道(秋葉街道)も,地方道として重要であった。遠州からは魚や塩などの海産物,信州からは米や茶などがもたらされた。物資の輸送の面では,陸路よりも海上交通の果たした役割が大きい。伊那地方から切り出された榑木(くれき)は天竜川を下され,掛塚湊から駿府や江戸へ運ばれた。また遠江の湊は大坂~江戸間の海上輸送の中継港として発展し,近世前期までの横須賀湊,それに代わった後期の福田(ふくで)湊,田沼時代に拡張・整備された相良湊,勝間田川河口の川崎湊などが知られている。横須賀湊は1707年(宝永4)の大地震で使用不能になったもので,この宝永と1854年(安政1)の安政大地震とは,南遠地方に大きな被害をもたらした。

 特産物・主要産業としては,まず浜松地方の遠州木綿織物の発達があげられる。北遠山間部ではシイタケ栽培や茶の生産が進み,千頭(せんず)の御用材をはじめ,木材の産地としても知られている。また掛川の葛布,森町の古着,御前崎方面の甘藷や切干しなども有名である。

 宗教的には,中世に引き続き曹洞宗の勢力が大きく,とくに可睡斎(かすいさい)は1583年(天正11)に家康より三遠駿豆4ヵ国の曹洞宗僧録司を命ぜられ,近世に入って大僧録としての地位を確立した。秋葉山頂近くにある秋葉寺の三尺坊は鎮火・防火の神として崇敬を集め,とくに近世以降遠江を中心とする東海道筋に秋葉信仰が広まった。各地に秋葉講が結成され,秋葉供養塔,常夜灯も建てられた。また厄除観音で知られる法多山尊永寺も,遠州一円で庶民の信仰を集めた。このような庶民信仰の中で,とりわけ熱狂的なものとして伊勢への〈お蔭参り〉があり,とくに大規模なものは4度に及び,遠江からの参加者も多かった。幕末1867年(慶応3)の〈ええじゃないか〉騒動は三河にはじまったといわれるが,たちまち東海道筋に広がり,遠江でも8,9月ころに〈お札降り〉が各地で起こり,民衆の乱舞が続いた。この騒動の翌年に討幕運動が急速に進み,明治維新の成立をみた。この東征軍には遠州報国隊も従軍しており,その中心となって活動したのは浜松諏訪神社の杉浦大学など当地方の神官層であった。それには平田派の国学の影響も大きかったが,遠州の国学者としては浜松伊場村に生まれた賀茂真淵や,その門下で《遠江国風土記伝》を著した内山真竜(またつ)などが名高い。

 1868年(明治1)徳川家達の駿府入封により遠江のほとんどは駿府藩(のち静岡藩)となった。71年静岡県・堀江県が成立,のち浜松県を経て76年静岡県に合体する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「遠江国」の意味・わかりやすい解説

遠江国
とおとうみのくに

現在の静岡県西部に位置した旧国名。遠州(えんしゅう)。東は大井川を境に駿河(するが)国、西は三河(みかわ)国、北は信濃(しなの)国に接する。古くは遠淡海国造(とおつおうみくにのみやつこ)、素賀(すか)国造、久努(くど)国造の支配する国々があったが、大化改新(645)による国郡の制で統合され遠淡海国となり、のち遠江と書かれるようになったものである。琵琶(びわ)湖を近淡海(ちかつおうみ)と称したのに対し、浜名湖を遠淡海とよんだのが国名の由来である。『和名抄(わみょうしょう)』には、東の方から、蓁原(はいばら)(のち榛原)、城飼(きこう)、佐野(さや)、山名(やまな)、周智(しゅうち)、山香(やまか)、磐田(いわた)、長下(ながのしも)、長上(ながのかみ)、麁玉(あらたま)、引佐(いなさ)、敷智(ふち)、浜名の13郡を数え、郷数は96に及んでいる。なお、そのころの推定人口は8万1000人とされている。国府は現在の磐田市中泉(なかいずみ)の府八幡宮(ふはちまんぐう)付近と考えられている。平安後期から鎌倉期にかけて御厨(みくりや)および荘園(しょうえん)が生まれ、とくに浜名湖周辺には浜名神戸(かんべ)、尾奈(おな)御厨、都田(みやこだ)御厨などの伊勢(いせ)神領があり、松尾(まつお)社領池田荘、長講堂(ちょうこうどう)領山香荘、円勝寺領質侶(しとろ)荘など大きな荘園も多数分布していた。鎌倉期の守護は、初め安田義定(よしさだ)が任命されたが、その後は北条時房(ときふさ)、同朝直(ともなお)、大仏宣時(おさらぎのぶとき)、同貞直(さだなお)ら北条一族が相承した。南北朝期は南朝方の勢力が強い地域で、三嶽(みたけ)城に後醍醐(ごだいご)天皇の皇子宗良(むねなが)親王が入ったこともあった。南北朝期の守護は今川氏であったが、のち応永(おうえい)ごろからは斯波(しば)氏に世襲されるようになった。しかし、斯波氏は遠江以外にも尾張(おわり)、越前(えちぜん)の守護を兼ね、守護代甲斐(かい)氏も越前の守護代を兼ねていたことから、斯波氏の直接的支配の及ぶ所は少なく、横地(よこじ)、勝間田(かつまた)、狩野(かのう)、原(はら)、天野(あまの)氏ら国人(こくじん)領主の割拠するところとなった。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、今川氏が遠江に進出し始め、氏親(うじちか)のときには相良(さがら)荘、笠原(かさはら)荘において検地が行われている。しかし今川氏の時代も長くは続かず、1560年(永禄3)今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)の戦いで殺されてからは下り坂となり、やがて三河の徳川家康によって攻め取られてしまった。江戸時代の郡は、律令(りつりょう)制下の長下郡が消えて12郡となり、城飼郡が城東郡とよばれるようになった。家康の関東転封後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)(浜松12万石)、山内一豊(やまうちかずとよ)(掛川(かけがわ)5万石)、渡瀬繁詮(わたせしげあき)(横須賀(よこすか)3万石のち、有馬豊氏(ありまとようじ))、松下之綱(ゆきつな)(久能(くのう)1万6000石)といった豊臣(とよとみ)系大名が分割領有したが、関ヶ原の戦い後は徳川の譜代(ふだい)大名が入り、その後も譜代小藩の入れ替わりが激しくみられ、ほかに天領、旗本(はたもと)領などがあった。「天保郷帳(てんぽうごうちょう)」では石高(こくだか)は約40万石で、1094か町村を数えている。江戸期の特産品として、今日にそのままつながる三ヶ日(みっかび)のミカン、掛川の葛布(くずふ)、志戸呂(しとろ)の陶器、舞坂(まいさか)の海苔(のり)などのほか、茶、木綿などの商品作物栽培も盛んであった。1868年(慶応4)徳川家達(いえさと)が70万石で入封し、そのため遠江にあった諸藩はすべて関東へ転封された。また新たに堀江藩(大沢氏1万石)が成立し、71年の廃藩置県により、駿府(すんぷ)藩(69年静岡藩と改称)は静岡県、堀江藩は堀江県となり、同年、旧遠江国の地域は浜松県となり、さらに76年静岡県に合併された。

[小和田哲男]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「遠江国」の意味・わかりやすい解説

遠江国
とおとうみのくに

現在の静岡県の西部。東海道の一国。上国。国名は,京に近い琵琶湖が近淡海(ちかつあはうみ)であるのに対して浜名湖が遠淡海(とほつあはうみ)であることによるという。『旧事本紀』には遠淡海国造,久努国造(くぬのくにのみやつこ),素賀国造(そがのくにのみやつこ)がみえる。遠淡海国造は浜名郡,久努国造は山名郡,素賀国造は佐野郡をそれぞれ中心とする地方にあったとみられる。国府,国分寺は磐田市見付に置かれた(→遠江国分寺跡)。『延喜式』には浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長上,長下,磐田,山香,周智(すち),山名,佐野(さや),城飼(きかふ),蓁原(はいはら)の 13郡があり,『和名抄』には郷 94,田 1万3661町が記されている。鎌倉時代,治承4(1180)年以来守護であった安田義定が建久5(1194)年幕府に誅せられて以後,北条氏(大仏氏)が守護となった。南北朝時代には足利直義が領有したが,後醍醐天皇の皇子宗良親王が湖北の井伊谷城によってこれに対抗したこともあった。その後今川氏,仁木氏,千葉氏が守護となったが,正平7=文和1(1352)年以降今川氏が守護として戦国時代に及び,今川氏親,今川義元父子は駿河,遠江,三河を領して勢力をふるった。義元が永禄3(1560)年桶狭間の戦い織田信長に敗れたのちは徳川家康に支配された。さらに家康が江戸に入府すると代わって山内氏,堀尾氏が入国した。江戸時代には横須賀に西尾氏,浜松に井上氏,掛川に太田氏,のちに相良に田沼氏が封じられた。明治1(1868)年徳川家達が駿河,遠江 70万石を与えられたために諸藩は移封されたが,同 4年堀江県から浜松県となり,1876年静岡県に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典 「遠江国」の解説

とおとうみのくに【遠江国】

現在の静岡県西部を占めた旧国名。国名は、琵琶湖の「近淡海(ちかつおうみ)」に対する「遠淡海(とおつおうみ)」(浜名湖のこと)に由来。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の磐田(いわた)市におかれていた。平安時代後期から伊勢神宮御厨(みくりや)が多くおかれた。鎌倉時代は安田氏、北条(ほうじょう)氏守護南北朝時代から室町時代には今川氏斯波(しば)氏が守護となったが、今川氏の勢力が強く、駿河(するが)国(静岡県)・三河(みかわ)国(愛知県)を合わせて領有するようになった。1560年(永禄(えいろく)3)の桶狭間(おけはざま)の戦い以後は徳川家康(とくがわいえやす)の領有となった。江戸幕府は譜代4藩をおき、ほかに天領、旗本領などがあった。1871年(明治4)の廃藩置県で浜松県となったが、1876年(明治9)に静岡県に併合された。◇遠州(えんしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「遠江国」の意味・わかりやすい解説

遠江国【とおとうみのくに】

旧国名。遠州とも。東海道の一国。現在の静岡県の西半。古地名は遠淡海(とおつおうみ)で,もと淡水湖であった浜名湖をさした。《延喜式》に上国,13郡。中世の守護は安田・大仏(おさらぎ)氏らの後,今川氏が支配。近世は徳川家康領有後,おもに譜代大名を分封。→浜松藩
→関連項目池田荘蒲御厨静岡[県]中部地方初倉荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「遠江国」の解説

遠江国
とおとうみのくに

東海道の国。現在の静岡県西部。国名は現在の浜名湖を遠淡海(とおつあわうみ)とよんだことに由来。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では浜名(はまな)・敷智(ふち)・引佐(いなさ)・麁玉(あらたま)・長上(ながのかみ)・長下・豊田・磐田(いわた)・山香(やまか)・周智(すち)・山名・佐野・城飼(きこう)・蓁原(はいばら)の14郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は磐田郡(現,磐田市)におかれた。一宮は小国神社(現,森町)。「和名抄」所載田数は1万3611町余。「延喜式」では調に種々の綾や布帛,庸に韓櫃(からびつ)と糸があげられる。平安時代には多くの荘園や御厨(みくりや)が存在し,鎌倉時代には大仏(おさらぎ)氏が守護となり守護所は見附(現,磐田市)におかれた。南北朝期には今川氏が守護をつとめ,15世紀に斯波(しば)氏,その後再び今川氏となる。戦国後期に桶狭間(おけはざま)の戦で今川氏が敗れたのち,徳川家康が三河から浜松に移った。江戸時代には浜松・掛川・相良・横須賀などの藩領,幕領,旗本領があった。1871年(明治4)の廃藩置県ののち浜松県となり,76年静岡県に合併。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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