静岡(県)(読み)しずおか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「静岡(県)」の意味・わかりやすい解説

静岡(県)
しずおか

中部地方南東部の太平洋岸に位置する県。伊豆(いず)、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)の3国から成立。南端の御前崎(おまえざき)から北端の赤石(あかいし)山脈間ノ岳(あいのたけ)までの南北約118キロメートル、伊豆半島東岸から愛知県境までの東西約155キロメートルであり、面積7777.35平方キロメートルを占めている。県名は、賤機(しずはた)山にちなんで静岡藩と改称した藩名による。県庁所在地は静岡市。

 古来、関東と関西とを結ぶ交通路の通過地に由来する回廊性を現在でも脱皮できず、都市化や工業化の進んだ東海道メガロポリスの谷間の区域にあたる。また富士山や赤石山脈とその前衛の山地が海に迫り、沿岸部の台地や低地が帯状に連続する地形的条件もこの回廊性を規定しているといえる。江戸初期に整備された東海道五十三次のうち22宿が県内に含まれ、その街道筋を中心に都市や生産が集中し、その東西交流を基本に地域性が形成されてきた。また、東西二大文化圏の接触・漸移地域であり、浜名湖周辺がその境界とも考えられてきた。現在では行政や経済的には名古屋との結合も強くなり、中部圏に位置づけられるが、南北方向の交通体系が遅れ、その一体性は欠けている。

 東西に延びる県域は、南流する諸河川によって分断されるが、富士川と大井川を境として東部、中部、西部に3区分できる。生活圏もほぼこの区分に一致してまとまり、沼津(ぬまづ)と富士を核にする東駿河湾(岳南(がくなん))地域、清水(しみず)と静岡を核とする静清地域、大井川以西はやや分散する核をもつが、浜松はその中心となる。伊豆半島は独自性をもつ特異な存在であるが、南伊豆は下田(しもだ)、東伊豆は伊東や熱海(あたみ)、西伊豆は三島(みしま)や沼津との結び付きが強い。

 人口は、2020年(令和2)時点で363万3202人である。明治初期には90万、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)には155万、200万人を超えたのは1940年(昭和15)で、2005年(平成17)の国勢調査では379万2377人を数えた。1920年から2005年の間に約2.4倍になったことになる。産業別人口構成では第一次、第二次、第三次ともいずれも全国平均値に近い値をもつ。人口は東海道沿線に集中して増加率も高いが、伊豆や北部山間地域の減少傾向は継続している。2020年10月時点で21市5郡12町からなる。

[北川光雄]

自然

地形

地形や地質の構成は複雑で、地域差も大きく自然景観の博物館ともいえる。そのような特色を形成した要因として、第一は、本州の中央部を南北に横断する地溝帯のフォッサマグナの変動帯に位置し、地殻運動、火山活動、活断層や地震の発生の多いことがあげられる。第二は、フォッサマグナ西縁にあたる糸魚川‐静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)と中央構造線という二つの重要な地質構造上の境界が県内を通過し、水系や山系を規制している。第三は、海岸地帯から日本最高の富士山、赤石山脈の山岳地帯までの高度差が大きく、波浪、河川、雪や氷など各地に対応した営力が作用してきた。第四は、豊富な降水量が狩野川(かのがわ)、富士川、安倍川(あべかわ)、大井川、天竜川など急流河川に流出し、上流の峡谷や穿入(せんにゅう)蛇行、下流部に田方(たがた)平野や静岡平野などの扇状地や三角州を形成させた。第五は、沿岸部の隆起運動により牧ノ原(まきのはら)、磐田原(いわたはら)、三方原(みかたはら)の各台地、小笠(おがさ)山、日本平の各丘陵地が発達し、海岸沿いの砂丘を形成するもととなった。このような地形的特色は、美しい自然の造形を示し、重要な観光資源を提供している。

 自然公園には、雄大な富士山と温泉地帯の伊豆半島、さらに箱根の一部を含んだ広い地域で、四季を通して美しい景観をみせてくれる富士箱根伊豆国立公園や、赤石山脈に属する聖(ひじり)岳、赤石岳、荒川岳、塩見岳など重厚な山々が連なり登山愛好家のあこがれの的となっている南アルプス国立公園、さらに、佐久間(さくま)、秋葉の両ダムと天竜渓谷の自然がこよなく調和して美しく、とくに初夏の新緑と秋の紅葉がみごとな天竜奥三河(おくみかわ)国定公園がある。また、県立自然公園には浜名湖、日本平・三保松原(みほのまつばら)、奥大井、御前崎遠州灘(なだ)の4か所がある。

[北川光雄]

気候

本県は温暖・多雨の東海気候型を呈し、ミカンや茶など暖地性植物の栽培の条件を備えている。しかし垂直的には、日本最高地点の富士山頂の寒冷な気候から、太平洋岸の黒潮に洗われる沿岸部までの比高の大きさが気候にも反映している。たとえば富士山頂の年平均気温は零下6.2℃、御前崎16.4℃で、その較差は22.6℃となる。南伊豆は無霜地帯となっており、静岡など沿岸部の積雪も珍しい現象となっている。しかし、遠州灘沿いは冬の季節風がからっ風として吹き、防風林をもつ集落景観や海岸砂丘の発達にも関係している。降水量は梅雨と台風の時期にピークをもつ太平洋岸式気候の特色をもち、県域の年平均は約2300ミリメートルに達する(1981~2010年平均)。この豊富な水資源は電源開発や森林資源の育成の背景となったが、気象災害も多く、狩野川台風(1958)など土地条件と相まって大きな被害を与えた。

[北川光雄]

歴史

先史・古代

浜名湖の北、三ヶ日(みっかび)町只木(ただき)(現、浜松市)から9500~7500年前の縄文時代の人骨とされる三ヶ日人、浜北市根堅(ねがた)(現、浜松市)の石灰岩採掘場から更新世(洪積世)末期の人骨とされる浜北人が発見されている。東部の愛鷹山麓(あしたかさんろく)から北伊豆、中部の日本平、西部の磐田原(いわたはら)で旧石器時代遺跡が発見され、県内には日本でも早くから人類が住んだことがわかる。休場遺跡(やすみばいせき)(沼津市)は国指定史跡で、日本の細石器文化の代表的遺跡である。縄文時代の遺跡は県内各地に分布し、前半期の遺跡は富士・愛鷹山麓、北伊豆に、後半期の遺跡は大井川流域から浜名湖周辺に目だつ。袋井(ふくろい)、磐田、浜松にかけては貝塚がみられ、浜松市の蜆塚遺跡(しじみづかいせき)(国指定史跡)は貝塚を伴う集落遺跡として有名。狩猟、採集、漁労の場は広がり、墓や装身具に変化がみられるようになった。弥生(やよい)時代は稲作と金属器の普及をみ、木製農耕具は著しく発達した。登呂遺跡(とろいせき)(特別史跡)からは木製の鍬(くわ)や田下駄(たげた)が出土し、水路・暗渠(あんきょ)を備えた水田跡は、稲作技術の高水準を示している。沼津市の沢田遺跡、伊豆の国市の山木遺跡でも水田跡が発見され、県内各地に登呂のようなムラが営まれた。静岡県は銅鐸(どうたく)文化圏の東限で、出土は遠州に限られる。型式は三遠式で近畿式と異なる特徴をもち、独自の文化を育てていたことが知られる。

 県下には大小多数の古墳が8世紀まで築造された。磐田市の銚子塚(ちょうしづか)古墳(国指定史跡)、松林山(しょうりんざん)古墳、静岡市の谷津山(やつやま)古墳はそれぞれ全長100メートルを超す大型で、松林山古墳は東日本の代表的古式古墳で竪穴(たてあな)式石室をもつ。古墳や副葬品から、被葬者は地方の有力豪族あるいはクニの首長の地位の者で、大和(やまと)政権とのつながりが考えられる。古墳の分布から『国造本紀(こくぞうほんぎ)』の6か国が比定され、遠淡海(とおつおうみ)国は浜名湖周辺、久努国は磐田・袋井、素賀国は掛川(かけがわ)・小笠(おがさ)地方、廬原(いおはら)国は静岡・清水、珠流河(するが)国は沼津・富士、伊豆国はそのまま伊豆とされている。大化改新を契機として遠江国(とおとうみのくに)、駿河国(するがのくに)が成立し、680年(天武天皇9)それまで駿河国に属した田方・賀茂(かも)2郡をもって伊豆国が分置された。以後、県下は3国となり、国府は、遠江が現在の磐田市、駿河が静岡市、伊豆が伊豆の国市(のち三島市)に置かれた。『万葉集』には阿倍の市(あべのいち)が詠まれ、駿河国府付近は市が立ってにぎわった。伊場遺跡(いばいせき)出土の木簡(もっかん)などは、この地に郡衙(ぐんが)や栗原(くりはら)駅が置かれたことを推定させる。

 平安中期以降、駿遠豆3国にも権門・寺社の荘園(しょうえん)が成立した。その数は100を超すが、遠江に多く、池田荘、原田荘、村櫛(むらくし)荘などは有名。県内には蒲(かば)御厨など伊勢(いせ)神宮の御厨も多い。これらの荘園を足掛りに各地に武士が発生した。

[川崎文昭]

中世

各地の武士は1180年(治承4)平家追討の兵をあげた伊豆の源頼朝(よりとも)に結集、鎌倉幕府を支えた。遠江では横地(よこち)、勝間田(かつまた)、浅羽(あさば)、相良(さがら)氏ら、駿河では長田(おさだ)、岡部、吉香(きっか)、矢部氏ら、伊豆では北条、狩野(かの)、工藤(くどう)、伊東、天野氏らの武士が活躍した。鎌倉時代、伊豆・駿河両国は関(かん)八州とともに源氏の有力な基盤であり、北条執権時代も同様であった。

 南北朝内乱期になると足利尊氏(あしかがたかうじ)の鎌倉争奪に今川範国(のりくに)は功績をあげ、遠江守護となり、駿河守護を兼ねた。駿河・遠江の南朝勢力と激しく対立し、駿府(すんぷ)に守護所を置いたのは1411年(応永18)今川範政(のりまさ)(1364―1433)の代であった。室町末期の応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のころ、遠江守護は三管領(かんれい)の一の斯波義廉(しばよしかど)であった。義廉は京都在住が多く、遠江には有力国人が割拠した。駿河守護今川義忠(よしただ)(1436―1476)は遠江を攻略、しだいに有力国人を勢力下に置いた。その後、今川氏親(うじちか)は北条早雲(そううん)の支援を受けて義忠没後の今川家の家督を継ぎ、検地を施行し、分国法『今川仮名目録(かなもくろく)』を制定。戦国大名今川氏の基盤を築いた。今川義元(よしもと)のとき、領国は駿河・遠江・三河から尾張(おわり)の一部までも組み込み、最大版図を築いた。義元は『仮名目録追加』21か条を制定、相模(さがみ)の北条氏、甲斐(かい)の武田氏と三国同盟を結び、1560年(永禄3)には2万5000の大軍を率いて尾張に侵攻したが、途中、桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長の奇襲を受けて死去した。氏真(うじざね)の代には武田信玄(しんげん)、松平元康(もとやす)(徳川家康)の侵攻を受け、伊豆は北条氏康が勢力をもち、今川氏は衰退した。その後、家康は駿遠豆3か国を地盤、背景として天下を掌握した。

[川崎文昭]

近世

徳川家康は1607年(慶長12)将軍職を秀忠(ひでただ)に譲って駿府に移り住むことになった。以来、約10年間ここに住み、幕府の大御所(おおごしょ)として政治の実質的権限を掌握していた。家康が在城した駿府は政治・経済・外交・文化の中心となり、人口10万の大都市であった。関ヶ原の戦い後、駿遠両国は小藩分立支配となったが、徳川頼宣(よりのぶ)、ついで徳川忠長(ただなが)の支配となり、1632年(寛永9)忠長改易後はふたたび小藩分立支配となった。沼津、小島(おじま)、田中、相良、掛川、横須賀(よこすか)、浜松の諸藩が置かれ、18世紀前半までめまぐるしく藩主が交替した。天領支配には三島、沼津、蒲原(かんばら)、駿府、島田の代官があたった。代官はしだいに整理統合されて韮山代官が伊豆、駿府代官が駿河、中泉代官(なかいずみだいかん)が遠江の天領を支配するようになった。

 1601年(慶長6)東海道の宿駅が設けられ、県下には三島宿から白須賀(しらすか)宿まで五十三次のうち22宿が置かれた。新居(あらい)には関所が置かれ、出女(でおんな)の監視は厳しく、富士、安倍、大井、天竜川などには江戸防衛のため架橋が禁じられた。大井川徒渉制度は元禄(げんろく)年間(1688~1704)ごろ整い、水深による川越賃銭が整うのは享保(きょうほう)年間(1716~1736)である。海上交通では駿府の外港清水湊(みなと)をはじめ、掛塚(かけつか)、相良が発展、江戸―大坂間の風待ち港として下田湊があった。富士川舟運も開かれ、甲州からの米、甲州への塩がおもな荷物として運ばれた。新田開発も盛んとなり、17世紀後半までに富士川下流に加島5000石が開かれ、箱根用水は富士裾野(すその)を潤し、大井川、安倍川下流に代官見立(みたて)新田、町人請負新田が開かれた。近世中後期になると生産力の上昇、商品流通も活発となり、階層分化も激しくなって封建的危機は深まっていった。各地に百姓一揆(いっき)、打毀(うちこわし)が発生。御厨一揆、田中藩・小島藩の百姓一揆、駿府・清水の打毀、「文政(ぶんせい)茶一件」(1824)などは代表的なものである。幕末には、伊豆の下田は開国の舞台となり脚光を浴びた。

[川崎文昭]

近・現代

幕末・明治維新の過程で、県内の諸藩は房総へ移され、徳川家達(いえさと)が70万石で家臣多数を抱えて駿府に入り、府中藩が成立した。藩では殖産興業、士族授産を図った。牧ノ原茶園の開墾はその代表的なものである。1869年(明治2)府中藩は不忠に通じると静岡藩に改め、1871年の廃藩置県によって静岡県が成立した。同時に、1868年当時、韮山代官支配地は韮山県となっていたが、1871年足柄県(あしがらけん)に属した。また堀江藩(1868年立藩)は堀江県となった。1871年旧遠江国は浜松県となり、堀江県は浜松県に編入された。1876年4月、足柄県が廃止され旧伊豆国は静岡県に合併、8月には浜松県が廃止されて静岡県に合併された。その結果、旧駿遠豆3国にまたがる静岡県が成立をみた。なお、伊豆七島は静岡県であったが、1878年に東京府に移管された。

 1875年松崎製糸場が設立され、伊豆西海岸一帯より繭が集荷され、松崎繭は県下の新繭相場の標準となった。1877年には静岡水落(みずおち)町に県立製糸所ができた。1879年清水港波止場が築造され海港の一歩を踏み出し、県下各地の茶は移輸出されて外貨獲得に貢献した。1883年静岡―清水間に電信が開通、1889年には東海道線が全通し、東京―熱海間の公衆電話が開通した。また、1895年には熱海に県下最初の電灯がともった。1885年山葉寅楠(やまはとらくす)がオルガンをつくり、1894年福田(ふくで)にコール天織が始まり、1896年豊田佐吉(とよださきち)(湖西市の生まれ)が木鉄混製動力織機を発明し、浜松地方の楽器・織物業の発展の基礎をつくった。富士地方でも近世の駿河半紙の伝統をもとに近代的パルプ工場・製紙工業が発達した。1899年清水港は開港場となり、茶・ミカンが輸出され、翌年県農事試験場、1903年(明治36)新居(あらい)に水産試験場が設立され、1904年には金原(きんばら)疎水財団設立などがあり、農漁業の発展が図られた。1919年(大正8)駿豆鉄道(すんずてつどう)の全線電化、遠州軌道会社が設立され、近代化は著しく進むことになった。

 政治的には1876年浜松県民会が開かれ、明治10年代には演説結社、政治結社が県下各地に組織され、岡田良一郎(1839―1915)、前島豊太郎(とよたろう)(1835―1900)、荒川高俊(たかとし)(1856―1889)らが自由民権運動に活躍した。1885年伊豆で借金党が活動を強め、翌年には静岡事件が起こった。1918年米騒動は県下各地に広がり、労働争議、小作争議も引き続き頻発した。十五年戦争に入ると労働運動、農民運動も抑圧され、浜松、静岡、清水、沼津市などの悲惨な空襲を経て終戦を迎えた。

 第二次世界大戦後、電源開発と食糧増産が図られ、佐久間ダム井川ダム(いかわだむ)、畑薙ダム(はたなぎだむ)などが完成して、水資源の多目的開発と土地利用の高度化が図られた。また、国鉄(現、JR)飯田(いいだ)線の付け替え工事によって山間地域の開発が進んだ。高度経済成長期には臨海工業地帯の形成が進み、新幹線、東名高速道路の建設など交通体系が整備され、県下各地に工場が進出、農地の宅地化も著しく、御前崎港大井川港、田子浦(たごのうら)港、清水港の港湾整備も顕著であった。一方、急速な開発は公害を生み出し、各地に住民運動がおこり、健康で文化的な環境で生活する願いは強まっていった。1954年(昭和29)ビキニ沖で水爆実験の死の灰を浴びた焼津(やいづ)港所属の第五福竜丸乗組員久保山愛吉(あいきち)(1914―1954)の死を契機におこった原水爆禁止運動は根強く続けられている。平和を願う活動と生活向上と環境を守る運動は静岡県でも着実に広く、深くなっている。

[川崎文昭]

産業

静岡県の就業者数は212万5000人で、本県人口の56.1%を占めている。これを産業別に分類すると、第一次産業に4.9%、第二次産業に36.5%、第三次産業に58.1%の人々が従事している(2002)。個々の産業についてみると、製造業がもっとも多く、27.7%を占め本県の重要産業となっている。かつては農業県であったが農業は1965年の20.8%以来、1975年に11.5%、1995年に5.6%、2002年には4.5%と後退が著しい。しかし、茶とミカンは本県の代表的産物で、茶は全国第1位、ミカンは第3位を占めている。

[北川光雄]

農業

耕地は総面積の10.4%(2003)を占め、温暖な気候や消費市場にも恵まれて、古くから商業的園芸農業、施設利用型農業が発達した。水田率は33.4%(2003)である。また、土地条件に対応した栽培景観にも特色がある。沖積低地の水田や、野菜や果物のハウス園芸、洪積台地の野菜や茶園、山麓や山腹傾斜地にみられる茶園や果樹園の柑橘(かんきつ)、海岸の砂地利用の野菜や施設園芸、海岸斜面の花卉(かき)、イチゴ、柑橘など、自然条件の反映としての栽培地が形成されてきた。

 特産である荒茶の生産は全国の44.5%(2003)を占め日本一である。栽培の歴史も古いが、幕末の横浜開港以来、その輸出は急増して開園も続き、牧ノ原や三方原の開拓が進んだ。大井川筋の川根茶、安倍川筋の本山(ほんやま)茶などは山間で産する高級茶として知られる。温州(うんしゅう)ミカンの栽培は明治初期からで、現在は静岡市周辺、浜名湖周辺、伊豆西海岸などがその主産地となっている。しかし、新興産地の増大、過剰生産、貿易自由化などの影響で生産は停滞し、収穫量は全国の11.4%(2003)で愛媛県、和歌山県に次ぎ第3位。静岡ミカンは酸味が強いが貯蔵の効く特性をもち、加工用としても消費される。

 県内各地にみられる施設園芸農業は、ハウス内の温度や湿度を調整しながら各種の品目が栽培されている。天竜川下流域から遠州地方のメロン、久能(くのう)海岸や狩野川下流平野のイチゴ、静岡市三保(みほ)半島を主とするトマトやキュウリの促成・抑制栽培、南伊豆のカーネーションなどの花卉栽培などは全国的に比率も高い。また最近は、イチゴ狩り、ミカン狩り、茶摘み民宿など観光農業も発達した。食生活の変化や、流通体系の変遷に伴い畜産の生産増大が顕著であり、ブロイラー、鶏卵、養豚などが主である。乳牛の飼育も古くは丹那(たんな)盆地で始められた。富士西麓朝霧(あさぎり)高原の酪農は、大規模な牧草地や放牧地をもっている。

[北川光雄]

林業

森林面積は総面積の約64%を占め、民有林は82%、国有林18%(2000)である。温暖な気候と豊富な降水量に恵まれ、天竜川流域のスギ、ヒノキの美林は全国的にも知られる。かつては筏流し(いかだながし)による送流、古くは榑木(くれき)(山出しの板材)の産地でもあり、集散地の河港も発達し、二俣(ふたまた)や河口の掛塚(かけつか)湊は有名であった。金原明善(きんばらめいぜん)の治山治水事業に伴う植林も知られ、浜松市天竜区龍山(たつやま)町瀬尻(せじり)にその保護林がある。大井川上流域も伐採や搬出が進み、林道も赤石山脈奥深く開設され、谷口の島田市は製材や木材加工工業が発達した。支流寸又川(すまたがわ)源流部は原生自然環境保全地域に指定され、モミ、ツガ、ナラなどの自然林も広い。伊豆天城(あまぎ)の山林は、特定の樹種については伐採が制限され、スギ、ヒノキの植林も進行した。伊豆はかつては薪炭(しんたん)産地として炭焼きが多かったが、シイタケの栽培にかわり、狩野川やその支流大見(おおみ)川の上流ではワサビ田も渓流に分布する。

[北川光雄]

水産業

相模灘(さがみなだ)、駿河湾、遠州灘に面し、各種の海岸地形をもつ静岡県は海の幸に恵まれる水産県でもある。カツオ一本釣り漁業の伝統をもとに、漁船の大型化と動力化は漁場を南方に拡大し、焼津(やいづ)や御前崎は遠洋漁業の基地となった。第二次世界大戦後は南太平洋やインド洋へと漁場を開拓し、マグロ延縄(はえなわ)漁業により漁獲量は増大した。しかし、資源の確保、操業海域の規制などの国際的問題、流通機構の変化や需給の変動などで遠洋漁業は後退をしている。

 駿河湾から沖合いは石花海(せのうみ)、金州(きんす)、銭州(ぜんず)などの好漁場をもち、カツオ、マグロ、イワシ、サバなどの漁獲量が多く、棒受(ぼううけ)網、揚繰(あぐり)網、定置網など漁法も多様である。駿河湾のサクラエビ、遠州灘のシラスは特産であり、伊豆海岸ではテングサ、アワビ、サザエなどの貝や藻類の採取がみられる。また、水産加工業も発達し、かつお節類、練り製品、干物、缶詰などが焼津、清水、沼津で生産される。

 養殖業も盛んであり、明治中ごろに浜名湖南部に始まったウナギの養殖は名高い。大正中ごろに大井川下流の水田を転換した養鰻池(ようまんいけ)が吉田町を中心に開かれ、生産量では浜名湖周辺をしのいでいる。最近のボイラー加温によるハウス養殖は飼育期間を短縮させ、合理化を進めた。浜名湖岸にはスッポンの養殖もみられるし、富士宮では湧水(わきみず)によるニジマスの養殖がある。海面養殖として内浦湾のハマチ、浜名湖のカキ、ノリなどがある。

[北川光雄]

鉱業

古くから伊豆の金鉱の採掘が進み、縄地金山(なわじきんざん)(河津町・下田市)や土肥金山(といきんざん)は名高く、安倍川上流や井川の金山も知られた。伊豆市にあった持越(もちこし)鉱山は、かつては清越(せいこし)鉱山の鉱石を原料としたが、産業廃棄物から金や銀を再生する精錬工程に変化した。天竜川流域の久根(くね)、峰ノ沢は硫化鉱、銅鉱を産したが昭和40年代に閉山した。西伊豆の宇久須(うぐす)で採取される珪石(けいせき)はガラスの原料として重要である。

[北川光雄]

工業

静岡県は京浜と中京の工業地帯の中間に位置したために工業の近代化は遅れ、第一次産業と結合した伝統的な地場産業を中心に地域的に特色ある工業生産活動がみられた。しかし第二次世界大戦中の疎開工場をもとに戦後は重化学工業化が進み、電源開発、交通港湾など流通体系の整備、工業整備特別地域の指定などを契機にして発展し、2002年(平成14)には全事業所の製品出荷額等(16兆3068億円)が全国で第3位の工業県となった。

 東部の東駿河湾工業地域は、化学・機械・金属工業を主とする三島沼津地区、製紙・パルプを主とする岳南地区に分けられる。富士川流域には伝統的な駿河半紙の製造がみられたが、明治中期より原木や水資源を立地条件に機械製紙が発達した。1958年の田子浦港着工は、臨海部に豊富な地下水をもとに化学繊維・食品工業などを誘致したが、紙・パルプが中心で輸入原料に依存し、用水は富士川を水源とする工業用水道でも供給されている。

 中部は静岡と清水を中心に静清工業地域とよばれる。清水港周辺の臨海部にはアルミナ、造船、合板、精油などの工場が集中する。茶の輸出港として発展した清水は国際拠点港湾であり、興津埠頭(おきつふとう)はコンテナの基地となっている。静岡は伝統的な在来工業が中心であり、鏡台、漆器、雛具(ひなぐ)、家具、下駄(現在はサンダルに移行)など木漆関係の製品が多く、小規模家内工業で生産されている。ミカン、茶、魚類を原料に食品加工業も重要で、輸出用缶詰も生産されている。

 浜松を中心とする西遠工業地域は、遠州織物の伝統を背景に浜松の綿織物、磐田(いわた)の別珍(べっちん)、コール天など繊維工業に特色がある。明治中期に始まった楽器も重要で、ピアノの生産比率は非常に高い。戦後は紡績機械工業からの転換も加えて、輸送用機械器具の生産が発達し、ヤマハ、ホンダ、スズキなどは関連産業を集積させ、自動二輪車および原動機付自転車の出荷が多い。

[北川光雄]

開発

1950年(昭和25)国土総合開発法の制定は、電源開発と食糧増産を柱に水系別の開発方式で進行した。天竜東三河地区はその指定地となり、天竜川中流に佐久間、秋葉などの多目的ダムが建設され、発電のほか豊川(とよがわ)、三方原両用水の農業、生活用水などの給水も目的とした。大井川上流には発電用の井川、畑薙(はたなぎ)ダムが建設され、多目的の長島ダムも完成し、2003年度から運用開始されている。1960年代の県の総合開発計画は重化学工業化を目ざして三島沼津地区にコンビナートの誘致を図ったが、環境破壊批判のうちに挫折(ざせつ)した。工業整備特別地域の指定(1964)を受けた東駿河湾地区は田子浦港を中心に岳南工業地区が形成されたが、ヘドロ公害や地下水障害が発生し、東駿河湾工業用水道の敷設や諸規制で防止に努めた。浜松地区はテクノポリス(高度技術工業集積地域)の指定(1984)を受け、浜北リサーチパーク、テクノランド細江など研究開発企業の育成、都市居住環境の整備もあわせて新しい型の地域開発が進行している。

[北川光雄]

交通

交通体系をみると、東海道の回廊にふさわしく陸上交通の主要幹線が東西に並行して通過し大動脈を形成している。JRは1889年(明治22)に全線開通した東海道本線を軸に、伊豆東海岸の伊東線、1934年(昭和9)丹那(たんな)トンネル開通までは東海道本線であった御殿場線(ごてんばせん)、富士と甲府を結ぶ身延線(みのぶせん)、北遠の一部を飯田線(いいだせん)が通過する。東海道本線の迂回(うかい)路としての二俣(ふたまた)線は天竜浜名湖鉄道となった。1964年に開業した東海道新幹線は県内に熱海、三島、新富士、静岡、掛川、浜松の6駅をもち輸送量も増大している。民鉄は伊豆急行、伊豆箱根鉄道、岳南鉄道、静岡鉄道、大井川鉄道、遠州鉄道、天竜浜名湖鉄道などの路線がある。1969年に全線開通した東名高速道路が県内を横断し、交通量の増大に伴い、新東名高速道路も一部区間を除き開通している。国道には1号、52号、135号、136号、138号、139号、150号、152号などがあり、伊豆スカイライン、表富士周遊道路(富士山スカイライン)などの観光道路の密度も高い。また、2009年(平成21)富士山静岡空港が牧ノ原台地に開港した。

[北川光雄]

社会・文化

教育文化

応仁(おうにん)の乱(1467~1477)前後から三条西実澄(さねずみ)(のちの実枝(さねき)。1511―1579)、山科言継(やましなときつぐ)ら多くの公卿(くぎょう)が今川氏を訪れ、駿府に京都文化を伝えた。宗祇(そうぎ)、宗長(そうちょう)は京都と駿府を往来し、連歌(れんが)や築庭に優れた文化をこの地方にもたらした。徳川家康の駿府在城時には、駿府は政治、経済、貿易、文化の中心地であり、家康により駿府文庫が設けられ、『群書治要(ちよう)』などが出版された。江戸時代、県下は上方(かみがた)と江戸を結ぶ文化の接点にあり、多彩な文化を育てた。島田宿の塚本如舟(つかもとじょしゅう)を中心に島田連が形成され、蕉風(しょうふう)の俳諧(はいかい)が盛んであった。遠江では賀茂真淵(かもまぶち)を生み、多数の弟子を育て、国学の地方的拠点であった。駿府とその近辺では桑原藤泰(くわばらとうたい)(1767―1832)や山梨稲川(とうせん)(1771―1826)が地誌編纂(へんさん)や漢詩、音韻学に優れた業績をあげた。伊豆は江戸に近く、本因坊丈和(じょうわ)(1787―1847)、行司式守(しきもり)伊之助(蝸牛(かぎゅう)。1743―1823)、歌舞伎(かぶき)俳優市川小団次(こだんじ)を輩出させた。また、駿東郡下には近世後半には多くの寺子屋が生まれ、庶民教育が盛んとなった。封建的危機が深まると県内諸藩に藩校が設立された。沼津藩明親(めいしん)館、田中藩日知館、掛川藩徳造(とくぞう)書院、浜松藩経誼(きょうぎ)館(のち克明(こくめい)館)などである。徳川家達(いえさと)の駿府移封により、府中(静岡)学問所、沼津兵学校が開かれた。府中学問所には津田真道(まみち)、西周(あまね)、中村正直(まさなお)ら当代一流の教授陣が俊秀を育て、外国人教師クラークEdward Warren Clark(1849―1907)は青年に大きな感化を与えた。中村正直は『西国立志編』を駿府で出版し、大きな影響をもたらした。

 学制発布により小学校が設立され、1880年(明治13)までに沼津、韮山(にらやま)、浜松、掛川中学校が設立され、私立豆陽(とうよう)学校(現、下田高校)が開かれた。他方、1869年杉山村(現、静岡市)で青年夜学が報徳運動の指導者片平信明(のぶあき)(1830―1898)によって設けられ、明治30年代の実業補習学校の先鞭(せんべん)となった。1901年(明治34)静岡漆器の伝統工芸の後進育成を目的として静岡漆工学校ができ(1912年廃校)、1918年(大正7)静岡と浜松に工業学校が設立され、工業教育が本格的な出発をした。1896年西伊豆町田子の実業補習学校に水産科が置かれ、翌年舞阪(まいさか)町立水産学校、1921年焼津(やいづ)町立水産学校が設立された。1922年静岡高校、浜松工業高校が開校、第二次世界大戦後には国立静岡大学に統合された。師範学校は1875年静岡に、1906年静岡女子師範、ついで1915年に浜松師範が開設され、いずれも国立静岡大学に統合された。1951年(昭和26)県立女子短大、1953年県立薬科大が開校したが、県立大学は1987年には統合して新しく静岡県立大学となった。2013年(平成25)現在、国立大学に静岡大学、浜松医科大学、総合研究大学院大学、県立大学に静岡県立大学、静岡文化芸術大学があり、私立大学は常葉(とこは)大学、浜松学院大学など13校(学部のみ、大学院のみを含む)がある。短期大学が公立1校、私立5校、高等専門学校が1校。美術館、資料館、博物館は各地に漸次増えつつあり、県立美術館が1986年に開館した。マスコミでは『静岡新聞』、静岡放送、テレビ静岡、静岡朝日テレビ、静岡第一テレビ、静岡エフエム放送などがある。

[川崎文昭]

生活文化

静岡県は東西に長く、南北に高低の差が大きい。気候風土は多様性に富み、生活文化もおのずから地域性に富む。黒潮洗う沿岸と伊豆半島沿岸には漁労を生業とする漁村が、富士、安倍、大井、天竜、狩野川などの大中河川の下流部には稲作と園芸を主とする農村が、北部山地には林業と雑穀栽培を生業とする山村が開かれている。年中行事と作り物からみると、富士川と大井川を境として民俗文化圏の境界ができる。東部は師走朔日(しわすさくじつ)にボタモチをつくって川の神を祀(まつ)る。中部は霜月晦日(みそか)にミソカモチ、ツボモチを神棚に供える。西部は五月節供に長男誕生の祝いの凧揚(たこあ)げを行うが、中・東部にはない。正月の作り物は、東部はケズリモノ、中部はダイノコ、西部はニュウギをつくり、これは稲掛けの名称、東部のウシ、中部のハンデ、西部のハザと重なる。安倍奥、北遠の山村ではかつては制約の多い土地利用の関係で焼畑を行い、日常はもっぱら雑穀を食し、米食は正月や物日に限り、ハレの日に食した。1日5回食事をし、アサジャ、アサメシ、ヒルメシ、ヨウジャ、ユウハンなどと称し、山仕事にはメンパをもっていった。山仕事の服装はカルサン、モモヒキ、脛(すね)に紺地のハバキをあて、上はシャツを着た。寒くなればハンテン、ドウギを重ねた。女は第二次世界大戦後モンペをはく。住居は北遠に釜屋造(かまやづくり)がみられ、山梨県境の富士宮方面にかぶと造が特徴的である。駿河湾最奥の沼津市沿岸、伊豆半島の漁村は複雑な地形、大小の浦があり、回遊してくるマグロ、カツオを浦に追い込む漁法が盛んであった。いまでもイルカの追込み漁は有名であるが、近年はあまり行われていない。漁業、とりわけ追込み漁は数隻の漁船が魚見の統率に従って協同労働をなし、組織的に行わねばならない。そのため、人々の結び付きは日常生活において強く、若者組の結束は固く、伊豆西海岸には若者組制度が発達した。また、伊豆半島沿岸部にはササゲバチと称し、頭上に桶(おけ)をのせて運ぶ頭上運搬法があり、山間・平地部の背負って運ぶ方法と異なる様式を残している。東西を結ぶ東海道沿いにはかつては城下町、宿場町が栄えた。ここでは古代以来、都と東国、京都と鎌倉、上方と江戸という政治・文化の中間に位置し、東西都市文化の影響を受け独自の文化を育てにくかったとされ、しばしば回廊性文化と称される。しかし、東西文化を受容、咀嚼(そしゃく)して優れた文化をつくりだした。

 民俗芸能では新春早々から各地で豊作祈願の祭りが行われ、ひよんどり、田遊(たあそび)、田楽(でんがく)などとよばれる。浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町西浦(にしうれ)の田楽は旧正月18日の夜半から翌朝にかけて五穀豊穣(ほうじょう)・養蚕繁栄を予祝する代表的な民俗芸能で、焼津(やいづ)市藤守(ふじもり)の田遊とともに国指定重要無形民俗文化財に指定されている。浜松市北区引佐(いなさ)町渋川寺野、同町川名にひよんどり(国指定重要無形民俗文化財)、藤枝市滝沢の田遊(国選択無形民俗文化財)があり、森町小国(おくに)神社、袋井市法多山(はったさん)尊永(そんえい)寺の田遊も有名。なお、森町小国神社や天宮(あめのみや)神社の舞楽は国指定重要無形民俗文化財。三嶋大社のお田打ちは農耕過程を演じ、古い田遊の形式を伝えている。4月に入ると御殿場(ごてんば)市沼田の子之(ねの)神社で湯立神楽(ゆだてかぐら)が行われ、伊豆西岸の沼津市大瀬(おせ)崎では大漁踊が催される。単調だが優美な踊りの最後は勇壮な鯨突きの歌で締めくくられる。また海上安全、豊漁祈願の熱海市来宮(きのみや)神社では鹿島(かしま)踊(7月)が行われる。焼津(やいづ)神社の荒祭(8月)は神輿(みこし)渡御が豪勢で、相良(さがら)の御船(おふね)神事は樽廻船(たるかいせん)を模した御船を操り、神輿の先駆けをする。盆行事は浜松市北区滝沢町の放歌(ほうか)踊、同市呉松(くれまつ)の大念仏、静岡市葵(あおい)区平野(ひらの)・有東木(うとうぎ)では古式の盆踊(国選択無形民俗文化財)、川根本町では徳山の盆踊(国指定重要無形民俗文化財)を伝え、南伊豆町妻良(めら)では盆踊に江戸風の口説きもやったが、現在口説きは廃絶している。10月、浜松市北区引佐町横尾では農村歌舞伎が村をあげて行われる。街道の祭りとして島田市の帯祭、輦台渡(れんだいわたし)、浜松市北区細江町の姫様道中があり、幕末の開港ゆかりの下田市の黒船祭など近年盛ん。奇祭としては磐田(いわた)市見付(みつけ)天神の裸祭、御前崎(おまえざき)市桜ヶ池のお櫃納(ひつおさめ)がある。なお、5月の浜松市の大凧揚げ(おおたこあげ)は長男誕生を祝う祭りとして始められ、全国から多数の観客を集めて勇壮に行われる。

 文化財は豊富で水準は高い。西部には古刹(こさつ)が多く、重要文化財の建造物が、中部では今川氏、徳川氏ゆかりの庭や久能山(くのうざん)東照宮所蔵の武具・什器(じゅうき)、日蓮(にちれん)宗関係の絵画があり、東部には源氏、北条氏ゆかりの寺に優れた彫刻が目だつ。特別史跡に弥生(やよい)時代の農耕文化として著名な登呂(とろ)遺跡(静岡市)のほか、磐田市の遠江国分寺跡、湖西市の新居関所跡(あらいせきしょあと)がある。国指定史跡には浜松市の蜆塚(しじみづか)遺跡、磐田市の銚子塚(ちょうしづか)古墳、新豊院山古墳群、掛川市の和田岡古墳群、静岡市の賤機山(しずはたやま)古墳、片山廃寺跡、富士市の浅間(せんげん)古墳、三島市の伊豆国分寺塔跡、山中城跡(三島市・函南(かんなみ)町)、島田宿大井川川越遺跡、下田市の玉泉(ぎょくせん)寺、了仙(りょうせん)寺、伊豆の国市の韮山(にらやま)反射炉などがある。史跡・名勝に宗長(そうちょう)(連歌師)ゆかりの柴屋(さいおく)寺庭園がある。建造物では油山(ゆざん)寺、尊永(そんえい)寺、方広(ほうこう)寺などの三重塔、山門、仁王門、七尊菩薩(ぼさつ)堂などがあり、一部が国宝に指定されている久能山東照宮のほか、掛川城御殿、智満(ちまん)寺本堂、大石(たいせき)寺五重塔、富士山本宮浅間大社本殿、韮山の江川邸など国指定重要文化財も多い。久能山東照宮社殿(本殿、石の間、拝殿)は国宝に指定されている。近代のものに旧岩科(いわしな)学校校舎がある。重要文化財の民家も目だつ。大石寺、西山本門寺などの日蓮上人(しょうにん)自筆の書や、また白隠(はくいん)の禅画、江川坦庵(たんなん)の作品や渡辺崋山(かざん)の弟子たちの絵画が目だつ。彫刻では鎌倉時代の運慶の作品が願成就院(がんじょうじゅいん)(伊豆の国市)、天神(てんじん)神社(下田市)、修禅(しゅぜん)寺に残されている。能面や舞楽面(浜松市西区雄踏(ゆうとう)町・息(おき)神社)、錫杖(しゃくじょう)(静岡市・鉄舟(てっしゅう)寺)、国宝梅蒔絵(うめまきえ)手箱(三嶋大社)など優れた工芸も多い。聖武(しょうむ)天皇勅書(牧之原市・平田(へいでん)寺)、久能寺経(鉄舟寺)は国宝に指定されている。

[川崎文昭]

伝説

代表的なものに三保松原(みほのまつばら)の「羽衣伝説(はごろもでんせつ)」がある。漁夫が松の枝にかけてある羽衣を拾い、そのゆかりで天女と夫婦になる。天女はのちに産土神(うぶすながみ)、御穂(みほ)神社に祀(まつ)られたという。羽衣伝説は全国に分布しているが、この型は箸墓(はしはか)・三輪山(みわやま)伝説などと同じ信仰に基づくといわれている。曽我八幡宮(そがはちまんぐう)(富士市)は、父河津三郎(かわづさぶろう)(1145―1176)の仇(あだ)、工藤祐経(すけつね)を討った「曽我兄弟」を祀る。付近には曽我のかくれ岩、首洗いの念力水など、この伝説ゆかりの地が多い。伊豆は河津三郎の出身地で、仇討(あだうち)の発端となった暗殺の場所、三郎の血塚がある。曽我兄弟の墓は各地に存在する。その理由は明らかではないが、兄弟を弔って回国した大磯(おおいそ)の虎女との因縁や、兄弟の亡魂を恐れる御霊(ごりょう)信仰にかかわりがあろう。草薙(くさなぎ)神社(静岡市)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を用いて危難を脱したという伝説地にある。御神体の剣はのちに熱田(あつた)神宮に移されたという。その周辺に尊ゆかりの遺跡が多い。フジの古木で知られる磐田市の千手(せんじゅ)堂は、手越長者(てごしのちょうじゃ)の娘の「千寿の前(せんじゅのまえ)」を祀る。源氏の虜囚(りょしゅう)となった平重衡(しげひら)とかりそめの恋を語った美女で、重衡が斬罪(ざんざい)に処せられたあと尼になり、菩提(ぼだい)を弔ったという。佐鳴(さなる)湖の東方に「刀洗い池」の跡がある。武田方に内通したと疑われて、徳川家康の室の築山殿(つきやまどの)が、織田信長の命によって誅(ちゅう)せられた地と伝える。磐田市見付(みつけ)の矢奈比賣(やなひめ)神社は「しっぺい太郎」という義犬伝説で有名である。

[武田静澄]

『静岡県社会文化史編集委員会編『静岡県社会文化史』上下(1954、1955・県勢研究会)』『『静岡県の文化財』1~5・総集編(1959~1969・静岡県)』『田中勝雄著『静岡県芸能史』(1961・静岡県郷土芸能保存会)』『『静岡県の百年』(1968・静岡県)』『若林淳之著『静岡県の歴史』(1970・山川出版社)』『青野寿吉・尾留川正平編『日本地誌11』(1972・二宮書店)』『『静岡大百科事典』(1978・静岡新聞社)』『武田静澄・吉田知子著『日本の伝説30 静岡の伝説』(1978・角川書店)』『小和田哲男・本多隆成著『静岡県の歴史 中世編』(1978・静岡新聞社)』『原口清・海野福寿著『静岡県の歴史 近代現代編』(1979・静岡新聞社)』『新静岡風土記刊行会編『静岡県の歴史と風土』(1981・創土社)』『『角川日本地名大辞典22 静岡県』(1982・角川書店)』『『ふるさと伝説の旅5 中部 山の息吹き』(1983・小学館)』『若林淳之著『静岡県の歴史 近世編』(1984・静岡新聞社)』『静岡新聞社編『静岡県の昭和史』(1989・静岡新聞社)』『『静岡県史』資料編1~25、通史編1~7、別編1~3(1989~1998・静岡県)』『静岡新聞社編『静岡県の海』(1990・静岡新聞社)』『『新版 静岡県の歴史散歩』(1992・山川出版社)』『中野正大著『静岡県の地域イメージ』(1995・静岡新聞社)』『加田勝利著『静岡県の山』(1996・山と渓谷社)』『『日本歴史地名大系22 静岡県の地名』(2000・平凡社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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