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京都府南部、京都市の南東に接する市。宇治川が京都盆地に流出する谷口に位置する。1951年(昭和26)宇治町、東宇治町を中心に、槇島(まきしま)、小倉(おぐら)、大久保の3村が合併して市制施行。琵琶(びわ)湖に発する宇治川は市域の中央を流れ、市の北東部は標高300メートル前後の山地が占め、山麓(さんろく)には洪積台地が広がり、西半部は旧巨椋(おぐら)池の干拓地を含む低平な京都盆地床である。JR奈良線、京阪電鉄宇治線、近畿日本鉄道京都線、京都市営地下鉄東西線、国道24号、京滋バイパスが通ずる。奈良と京都を結ぶ交通路の宇治川渡河地点として早くから開け、古代の菟道(うじ)、『和名抄(わみょうしょう)』の宇治郷にあたり、架橋の由来を記した宇治橋造橋断碑(宇治橋断碑、国の重要文化財)が橋畔の橋寺(はしでら)(放生院(ほうじょういん))にある。平安時代には関白道長(みちなが)をはじめとする藤原一門の別荘が営まれた。平等院(びょうどういん)も、道長の別院をその子頼通(よりみち)が仏堂とし、平等院と名づけたものである。鎌倉時代の喫茶の発達に伴って700年の伝統を有する宇治茶は、おもに排水の良好な洪積台地に栽培され、茶園には直射日光を防ぐために覆いをかけている。2006年(平成18)の生産量は55.7トンであり、全国的にみるとそれほど多くはなく、しかも宅地の増加によって茶園は減少しつつあるが、玉露や挽茶(ひきちゃ)(抹茶(まっちゃ))の高級品の産地として質を重んじ続け名声を維持している。また江戸時代は34軒の「茶師」によって統轄され、今日でも茶問屋は宇治市に集まっている。そのほか野菜の栽培も盛んである。近代工業としては、良質で豊富な宇治川の水を利用して1926年(大正15)に日本レイヨンの工場が設けられた。現在のユニチカ宇治工場であり、松下電器(現、パナソニック)なども進出し、1964年(昭和39)には宇治川の天ヶ瀬(あまがせ)ダムも竣工(しゅんこう)し、産業都市としての発展もみられる。
1052年(永承7)に創建された平等院は今日、鳳凰(ほうおう)堂とよばれる阿弥陀(あみだ)堂(国宝)を残すのみだが、堂内に定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来(にょらい)坐像(国宝)をはじめ、壁画、扉画などに平安時代の浄土教美術の粋(すい)を尽くしている。宇治川右岸の五ケ庄(ごかしょう)には隠元(いんげん)禅師が開創した黄檗(おうばく)宗万福寺、菟道(とどう)には菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の陵墓と伝える前方後円墳と西国三十三所第10番札所の三室戸(みむろと)寺、宇治橋上流には清雅な曹洞(そうとう)宗の興聖(こうしょう)寺がある。宇治川左岸の白川(しらかわ)には平安時代の仏像を多く蔵する地蔵院や白山神社がある。そのほか平等院の近くには6月5日の奇祭で知られる県(あがた)神社や、平安時代の神社建築の様式をとどめる宇治上(うじがみ)神社(本殿と拝殿は国宝)などがある。平等院と宇治上神社は1994年(平成6)世界遺産の文化遺産として登録された。面積67.54平方キロメートル、人口17万9630(2020)。
[織田武雄]
『『宇治市史』全6巻(1973~1981・宇治市)』
和歌山城北側の武家屋敷地の地域名称。町人町の中心をなす
慶長五年(一六〇〇)浅野氏が入部し、城下町の大整備で城下に編入され、大手口防衛のために武家屋敷や寺院を配し、町人町と鷺森御坊門前町を内町として分離した。元和五年(一六一九)徳川氏入部以降はさらに武家屋敷が増え、寺町を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都府南部の市。1951年宇治町ほか1町3村が合体して市制。人口18万9609(2010)。市域は京都盆地東部の沖積低地,洪積台地とその東方の古生層の山地から成り,巨椋池(おぐらいけ)干拓地の一部を含む。中心市街の宇治は宇治川が京都盆地へ流れ出る谷口に位置する。景勝地で京都に近いため平安京貴族の別荘地となった。鎌倉末期に始まる宇治茶は,中近世を通じ貴族や武士の保護を受けて発展。幕末維新期に一時衰退したが,その後茶貿易への積極的参加,生産過程の近代化などによって活路を見いだした。現在も碾茶(てんちや),玉露のような高級茶に特色があるが,市制施行以後住宅地化が進み,市域内の茶園は減少している。輸送用機器,化学,電気機器などの近代工業も発達。国道24号線,JR奈良線,京阪宇治線,近鉄京都線が通ずる。平等院をはじめ黄檗山(おうばくさん)万福寺,三室戸(みむろど)寺,放生(ほうじよう)院など古社寺が多く,宇治川の天ヶ瀬ダムとともに観光客が多い。県(あがた)神社の県祭は暗夜の奇祭として知られる。
執筆者:浮田 典良
歴史地名としては宇遅,菟道などとも書く。応神天皇の皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が住んでいたところから生まれた地名という。古代政権の所在地である大和国から日本海側に向かういわゆる古北陸道(長岡・平安京以前の北陸道)が貫通して宇治川を渡河しており,交通の要衝であった。646年(大化2)に早くも僧道登による宇治橋架橋(宇治橋碑)が行われたのはそのためである。律令制下では山科盆地から宇治川左岸までの広い地域が宇治郡という行政区画になったが,ふつうに宇治といえば宇治橋周辺の地を称した。平安時代には京都の近郊として史上にしばしば見えており,とくに藤原頼通が父道長の別荘を寺として平等院と称したことは著名。軍事的にも重要な地であり,源平合戦,承久の乱などで争奪の対象となった(宇治川の戦)。
執筆者:井上 満郎 近世には茶業中心の在郷町となり,北流する宇治川の両岸に発展した谷口集落で,宇治郷とよぶ。右岸は宇治郡,左岸は久世郡に分かれるが,左岸の発展が著しく,久世郡宇治郷と一括されることが多い。豊臣秀吉が小倉堤(太閤堤)を築いて宇治を経由しない新大和街道を開き,槙島堤(宇治堤)によって宇治川を伏見城下に引き入れると,水陸交通の要衝は伏見に移った。徳川政権は宇治の茶業を保護し,1636年(寛永13)には屋地子の免除と年貢半減を令した。郷高は3698石余で,茶師頭取の上林家が江戸前半期には代官職を世襲した。町勢は,18世紀初頭の町数33,家数約1000,人数約5000が,19世紀初めには町数26,家数約500,人数約2000と衰退した。これは1698年(元禄11)の大火や1756年(宝暦6)の大水害など災害の影響もあるが,何よりも茶業の不振と宇治茶師の経済的破綻が主な要因であった。
執筆者:鎌田 道隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…伊勢神宮外宮鎮座地,またその鳥居前町。現在,内宮の鳥居前町宇治とともに三重県伊勢市の中心部。《止由気(とゆけ)宮儀式帳》《延喜式》は外宮の所在地を度会(わたらい)郡沼木(ぬき)郷山田原(やまだのはら)とし,12世紀には山田村,あるいは山田郷としても現れる。…
…また氷室(ひむろ)に貯蔵しておいた氷を,立夏の日に氷室開きをして,盛夏に用いることも一つの納涼であったろうが,これは限られた上流階級のことである。王朝時代の避暑地では宇治が有名であり,緑陰と川とに恵まれていたからであろう。宇治大納言源隆国が,この地の南泉坊に避暑して,道行く人から諸国話を聞いて《宇治拾遺物語》を作ったという話は,伝説であるがおもしろい。…
※「宇治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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