デジタル大辞泉 「ロス」の意味・読み・例文・類語
ロス(loss)
1 むだに費やすこと。損失。「
2 失うこと。喪失。「ペット
[類語]損する・割を食う・本が切れる・穴をあける・割が悪い・間尺に合わない・食い込む・足が出る・穴・大穴・丸損・マイナス・損失・損・損害・実害・赤字・被害・不利益・
アメリカン・ポップ・ミュージックを代表する女性シンガー。デトロイト出身。本名ダイアン・アールDiane Earle。1960年代は人気コーラス・グループ、シュープリームスのリード・ボーカリストとして活躍。その柔らかで女性的な声は、日本のテレビ・ドラマやCMでもよく耳にする。
1959年、地元の女の子の仲間と4人組のコーラス・グループ、ブライメッツを結成。グループはその後、地元のモータウン・レコードと契約し、3人組のシュープリームスとしてレコード・デビューすることになった。このときのメンバーは、ロスのほかにフローレンス・バラードFlorence Ballard(1943―1976)とメリー・ウィルソンMary Wilson(1944―2021)。シュープリームスは、新興レーベルのモータウンにあって、テンプテーションズやマーサ&ザ・バンデラスなどとともにアメリカのポップ・ミュージックを席巻(せっけん)した。
ロスは、逸材がそろっていたモータウンにあって格別に際だったボーカリストではなかった。シュープリームスのデビュー当時、リード・シンガーになるのはバラードだろうといわれており、また1960年代なかばにモータウンへ移籍してきたグラディス・ナイトGladys Knight(1944― )ともなると、実力としては後に「ソウルの女王」とよばれることになるアレサ・フランクリンに匹敵するほどの歌唱力の持ち主だった。しかしロスは、ほかの黒人女性歌手にはない個性をもっていた。彼女はゴスペル・ソング的にエネルギッシュに訴えかけるのではなく、あくまでソフトな歌手だった。この、白人主体のポップ・マーケットに充分に通用するロスの特質を見抜いたのはモータウン・レコード社主のベリー・ゴーディ・ジュニアBerry Gordy Jr.(1929― )で、はたして彼女を中心としたシュープリームスは社主のねらいどおり、「愛はどこへいったの」「ベイビー・ラブ」「ストップ! イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」「カム・シー・アバウト・ミー」などのビッグ・ヒットを連続して放つことになる。
1967年、グループはダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと名前を変え、さらにロスを中心にして動き出した。そして「ラブ・チャイルド」「またいつの日にか」のヒットを出したあと、1969年に彼女は独立しソロ・シンガーの道を進む。
「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(1970)から、大物シンガーへの道は着実だった。不朽のジャズ・シンガー、ビリー・ホリデーの生涯を描いた映画『奇妙な果実/ビリー・ホリデイ物語』(1972、シドニー・J・フューリーSidney J. Furie(1933― )監督)に主演したときは不評を買ったものの、1973年の「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」のさわやかな歌声はロスだけにしか出せない味わいだった。2作目の映画となる『マホガニー物語』(1975、ベリー・ゴーディ・ジュニア監督)からの「マホガニーのテーマ」は、当時の日本でもヒットしている。
1981年、ブルック・シールズBrooke Shields(1965― )主演の『エンドレス・ラブ』(1981、フランコ・ゼッフィレッリ監督)のテーマ・ソングを、同じポップ・マーケットでスターとなったライオネル・リッチーLionel Richie(1949― )とデュエットし評判になったころには、ファンの世代もかわり、彼女が1960年代に歴史的なグループに在籍していたことは二次的な情報でしかなくなっていた。その後、彼女はモータウンを離れるが、ドゥーワップ時代の名曲「ホワイ・ドゥ・フォールズ・フォール・イン・ラブ」や「ミラー、ミラー」などをカバーしヒットを重ねている。
[藤田 正]
アメリカのユダヤ系作家。ニュー・ジャージー州ニューアーク市にユダヤ系両親の下に生まれる。1954年バックネル大学卒業、1955年シカゴ大学の修士号取得。同大学で英語講師のかたわら雑誌に発表した短編小説を集めて出版した処女作品集『さようならコロンバス』(1959)が全米図書賞に選ばれ、文壇の寵児(ちょうじ)となり、続いて大作を発表する。ユダヤの男と非ユダヤの女の結婚生活の軋轢(あつれき)と崩壊、大学キャンパス内の教師たちの生活などを通して現代の生活、風俗を重層的に描いた最初の長編小説『自由を求めて』(1962)、夫を破滅させ自分も破滅する『ルーシィの哀(かな)しみ』(1967)、情愛深く口やかましい典型的なユダヤ的母親の影響から自立できない男の悲喜劇『ポートノイの不満』(1969)、ニクソン大統領を風刺した『われらのギャング』(1971)、1個の乳房に変身した男の話『乳房になった男』(1972)、野球を題材にアメリカの社会と文化を徹底的に風刺した『素晴らしいアメリカ野球』(1973)、自立した一個の男として女を愛することのできない男の悲劇を描く自伝的色彩の濃い『男としての我が人生』(1974)、そして『欲望学教授』(1977)と続いた。その後、作家修業時代を描いた『ゴースト・ライター』(1979)、花形作家時代の『解き放たれたザッカーマン』(1981)、中年期の『解剖学講義』(1983)という三部作を完成させた。この三部作は、1985年エピローグを追加して『縛られたザッカーマン』としてまとめられた。1980年代から1990年代にかけても、創作活動は活発である。『背信の日々』(1986)、『いつわり』(1990)、ノンフィクション『父の遺産』(1991。全米図書賞受賞)などがある。さらに、『シャイロック作戦』(1993)、『安息日劇場』(1995)、『アメリカ的牧歌』(1997)、『私は共産主義者と結婚した』(1998)も注目される。心理的洞察の深さ、風刺精神のしたたかさ、文体の芸術性で現代を代表する作家。
[大津栄一郎]
『青山南訳『われらのギャング』(1977・集英社)』▽『大津栄一郎訳『男としての我が人生』(1978・集英社)』▽『青山南訳『素晴らしいアメリカ作家』(1980・集英社)』▽『佐伯泰樹訳『欲望学教授』(1983・集英社)』▽『青山南訳『ゴースト・ライター』(1984・集英社)』▽『佐伯泰樹訳『解き放たれたザッカーマン』(1984・集英社)』▽『宮本陽吉訳『解剖学講義』(1986・集英社)』▽『宮本陽吉訳『背信の日々』(1993・集英社)』▽『宮本陽一郎訳『いつわり』(1993・集英社)』▽『柴田元幸訳『父の遺産』(1993・集英社)』▽『佐伯彰一訳『さようならコロンバス』』▽『斎藤忠行・平野信行訳『ルーシィの哀しみ』』▽『宮本陽吉訳『ポートノイの不満』』▽『大津栄一郎ほか訳『乳房になった男』』▽『中野好夫・常盤新平訳『素晴らしいアメリカ野球』(集英社文庫)』▽『岩元巌著『現代アメリカ作家の世界』(1988・リーベル出版)』
イギリスの海軍軍人、極地探検家。ロンドンに生まれ、12歳で候補生となり海軍に入る。叔父の海軍提督で北極探検家、ジョン・ロスSir John Ross(1777―1856)の下にあって航海や戦争に従事した。1818年叔父J・ロスと、同じく海軍提督、北極探検家のパリーSir William Edward Parry(1790―1855)の指揮する「北西航路」探究の北極航海に参加。このころより磁気測量、博物学調査に興味を覚える。1829~1833年、J・ロスとともにふたたび北西航路探究航海に出て、1831年ブーシアBoothia半島西に北磁極を発見した。1839~1843年の南極探検では、イギリス海軍よりエレバス号、テラー号による南極域の磁気測量を主目的とした探検隊長を命ぜられた。1841年、東経174度付近で北に開ける大きなロス海、ロス棚氷(たなごおり)を発見、また沿岸を測量して、ビクトリア・ランドと南極半島北端のイギリス領宣言を行った。また活火山を発見し、探検船の名をとってエレバス、テラーと命名した。これらの功により1844年サーの称号を授けられた。また、1848~1849年には北西航路探究で行方不明になったフランクリンSir John Franklin(1786―1847)捜索のための北極探検も行った。のちにスコット隊が発見したロス島も彼の名にちなむ。主著に『南方および南極地方の発見と探究の航海』A Voyage of Discovery and Research to Southern and Antarctic Regions(1847)がある。
[半澤正男]
アメリカの経済学者。ニューヨーク市生まれ。中学を中退し、コロンビア大学土曜クラスの学生となり、1971年に同大学を卒業(学位は応用数学「オペレーションズ・リサーチ」=OR:Operations Researchで取得)。スタンフォード大学で1973年にOR修士号、1974年に博士号(Ph.D.)を取得。イリノイ大学、ピッツバーグ大学、ハーバード大学教授を経て、2012年からスタンフォード大学教授。専門はゲーム理論、実験経済学、マッチング理論、マーケット・デザイン。
ロスは、異なる嗜好(しこう)をもつ経済主体どうしの組合せを研究するマッチング理論を実社会に応用し、臓器移植、研修医配属、学校選択などで効率的な制度設計(マーケット・デザイン)に成功したことで知られる。この業績により2012年のノーベル経済学賞を受賞した。マッチング理論を築いたロイド・シャープレーとの共同受賞である。
1960~1970年代にシャープレーが構築したマッチング理論を1980年代に実社会に適用。1984年の論文「The Evolution of The Labor Market for Medical Interns and Residents:A Case Study in Game Theory」で研修医のインターン先病院への割り振りにマッチング理論が使われていることを発見し、1999年の論文「The Redesign of THe Matching Market for American Physicians」で、より精緻(せいち)に制度を設計した。小中高校生の進学先の選択、臓器ドナーと患者の組合せなど、限られた資源をむだなく配分するマッチング理論を実社会に適用するブームの牽引(けんいん)役となった。こうした実証実験を通じ、市場が存在しなかったり、市場機能がうまく働かなかったりした場合でも、高効率・公平で不満を解消し、全体の効用(満足度)が高くなるように制度設計するマーケット・デザインを発展させた。著書に『フー・ゲッツ・ホワット――マッチメイキングとマーケットデザインの経済学』Who Gets What - and Why:The New Economics of Matchmaking and Market Design(2014)などがある。
[矢野 武 2021年5月21日]
アメリカの小説家。当時のオーストリア・ハンガリー帝国にユダヤ人の子として生まれたが、7歳のときに両親とともにアメリカに移住、ニューヨークのユダヤ人街で幼少年時代を過ごし、ニューヨーク・シティ・カレッジに学ぶ。事実上の自伝といってもいい『これを眠りと呼んで』Call It Sleep(1934)を発表する。妄想癖のある父、愛情細やかな母、ヘブライ語を教えるラビ教師といった人物が織り成す薄汚いニューヨーク・ゲットーの日常を、感受性豊かな少年の目を通して、叙情的かつ細密なリアリズムで描いている。ユダヤ人の方言であるイディッシュ語の会話を含めて、卑語、呪(のろ)いに至るまで忠実に再現され、意識の流れを思わせる内面描写を通して主人公の少年の精神の遍歴が活写されているこの作品は、1930年代の埋もれた傑作として、ケージンなど1960年代の著名な批評家、研究者から高く評価された。晩年の作者は、メーン州の片田舎(かたいなか)で鵞鳥(がちょう)の養殖や、数学教師などをして生活を維持するかたわら、『移りゆく景色』Shifting Landscapes(1987)といった随筆や、『激流の恵み』Mercy of a Rude Stream(1994)といった自伝小説を発表したが、文学的偉業は『これを眠りと呼んで』一作といっていい。なお、ボニー・リョンズBonnie Lyons(1944― )による『ヘンリー・ロス』論(1976)は一読に値する。
[金敷 力]
『柴田元幸著『生半可版 英米小説演習』(1998・研究社出版)』
アメリカの国際的ジャーナリスト。ハンガリー移民の子としてニューヨークに生まれ、コロンビア大学で修士号を得た。太平洋問題調査会の研究員を経て、第二次世界大戦中はアメリカ合衆国海軍大尉として対日諜報(ちょうほう)活動に携わる。1945年『日本のジレンマ』を発表、財閥と天皇制を温存して戦後日本の立て直しを図ろうとするアメリカ国務省やグルー元駐日大使を批判し、自由主義者や社会主義者などによる恒久的平和の確立を提唱した。戦後は『ネーション』誌の論説記者や『トロント・スター・ウィークリー』紙の特派員を務め、中東、極東、東南アジアの各地を訪問。ロンドンに居を移して以来、世界各地の新聞・雑誌に寄稿する一方、1984年からは『ニュー・ステーツマン』紙の政治問題特派員を務めた。
[鈴木ケイ]
『小山博也訳『日本のジレンマ』(1970・新興出版社)』
イギリスの熱帯病学者。インドのアルモラの生まれ。1875年にロンドンのセント・バーソロミュー病院医学校に入り、1881年に卒業。同年ふたたびインドへ渡り、インド軍医団に入る。1892年マラリア研究に着手し、1894年にカがマラリアの伝播(でんぱ)に関係があるというラブラン-マンソンの学説の研究を始め、ついにカの体内でのマラリア原虫の生活環を明確にした(1897~1898)。1899年リバプール熱帯医学校の一員として西アフリカへ渡り、マラリアを伝播するカがハマダラカであることをつきとめた。1902年、マラリアに関する一連の研究によりノーベル医学生理学賞を受けた。
[大鳥蘭三郎]
アメリカの社会学者。アメリカ社会学創成期の有力な一人。ジョンズ・ホプキンズ大学卒業後、スタンフォード、ネブラスカ、ウィスコンシン各大学教授を歴任。『社会学の基礎』(1897~1904)において、保守的ダーウィニズムを攻撃し、アメリカ社会の改良に役だとうとして社会理論の形成に努めた。従来の生物学的文脈のなかにあった有機体説を社会的・心理的文脈のもとに定義し直し、社会過程の分析に力を入れ、過去の文明と現代社会を説明するのに用いた。『社会統制論』(1901)では、外的統制ではなく、啓蒙(けいもう)と説得による統制を重要視し、世論や教育、あるいはまた芸術家による理想像の創造の役割を説いた。『社会心理学』(1908)は、この分野の古典の一つとされている。政治の民主主義化を説く革新主義運動の旗手の一人ではあったが、また、移民に反対し、自国民保護主義を訴え、アングロ・サクソンの優越性を主張する論客でもあった。
[佐藤 毅]
『高部勝太郎訳『社会心理学』(1917・磯部甲陽堂)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカの天文学者。1896年カリフォルニア大学を卒業後,ネバダ大学数学講師,航海暦局助手,カーネギー研究所研究員などを務め,この間S.ニューカムの指導で惑星や衛星の運動を研究した。1905年メリーランド州ゲゼルスバーグの国際緯度観測所長となり,従来緯度観測に用いられてきた天頂儀を改良してPZT(写真天頂筒)を発明した(1911)。ロスはこの新装置で14年10月までの450夜に6944個の星を写したが,翌年PZTが海軍天文台に移転したのを機に,コダック社の研究員となり,写真技術,レンズ設計などに携わった(1915-24)。24年ヤーキス天文台に入り,39年に引退したが,この間,星野写真を撮って昔のバーナードの星野写真と比較することによって,31年までに379個の変光星と869恒星の固有運動を発見した。なお,この間シカゴ大学助教授(1924-28),同教授(1929-39)でもあった。引退後も,コダック社での経験を生かして,ウィルソン山天文台でレンズの設計を続け,大反射望遠鏡のコマ収差修正装置やリック天文台の50cm天体写真儀の設計に携わるほか,ロスの設計した各種のレンズは天文学以外の分野でも使われた。
執筆者:堀 源一郎
イギリスの天文学者。本名ウィリアム・パーソンズ。アイルランドの貴族で父の死後ロス伯となる。1822年オックスフォード大学を卒業。1821-34年アイルランド選出の下院議員となり,45年には上院議員に選ばれた。1827年から望遠鏡の製作を手掛け,翌年には蒸気で動く金属鏡研磨機を発明したり,反射率の高い合金を見つけたりして苦心の末,39年に口径90cm,42年には口径180cmの当時世界最大の金属反射鏡を完成した。重量4tのこの巨大な鏡は,45年,パーソンズタウンの所有地に3年の歳月と1万2000ポンドの巨費をかけ,全長17mの鏡筒に装備された。巨大なために鏡筒の動きはおもに子午面内に限られ,そのうえ土地の天候が天体観測に向かないこともあって,大反射鏡の性能は十分に発揮できなかった。それでも観測開始の年には渦巻星雲を発見し,49年にM51を恒星に分解したのを皮切りに,多数の星雲が星の集団であることを示した。1848-54年ローヤル・ソサエティ会長を,62年からダブリン大学総長を務めた。
執筆者:堀 源一郎
デンマークの法哲学者。コペンハーゲン大学教授。法律学上の基本概念である権利,妥当性等の分析においてスウェーデンのA.ヘーガーシュトレームから出発し,それらが意味上の指示物semantic referenceをもたない形而上学概念であることをいったん受け入れるが,そのあとでそれらを科学的言語に再構成せんとする。すなわちロスは規範命題と存在命題との基本的相違を認めず,前者を後者に変換し,それと社会的事実との対応を求め,その有無によってその命題の真偽を決定せんとする。ロスのこの方法論はもはやウプサラ学派のそれではなく論理実証主義のそれであり,他方,権利や法の妥当性に関する命題を存在命題に改鋳し,それらに対応する事実を裁判所の判決,その予測に置く点で,彼は北欧リアリズム法学を離れてアメリカ・リアリズム法学に接近したといえる。主著は《法と正義》(1958),《指令と規範》(1968)。
執筆者:佐藤 節子
アメリカのユダヤ系作家。バックネル大学卒業後,シカゴ大学で修士号を取得。大学講師のかたわら発表した作品を集めた処女作品集で,ユダヤ人の文化的,宗教的,また世代間の摩擦・緊張を扱った《さようなら,コロンバス》(1959)により全米図書賞を得て新進作家となる。その後,ユダヤ人と非ユダヤ女との結婚生活の軋轢(あつれき),崩壊を扱った《自由を求めて》(1962),男を破滅させ,自分も破滅する《ルーシーの悲しみ》(1967),厳格で愛情の権化のようなユダヤ的母親の影響から自立しようとしてできない男の悲喜劇《ポートノイの不満》(1969),野球に託してアメリカ文化を痛烈に風刺した《すばらしいアメリカ野球》(1973),自伝的色彩の濃い,自立したおとなとして女を愛することのできない男の悲劇を描いた《男としてのわが人生》(1974)などを発表。鋭敏な心理描写と痛烈な風刺精神と粘り強い文体で,現代アメリカを代表する作家の一人である。
執筆者:大津 栄一郎
イギリスの極地探検家。ロンドンで生まれ,海軍士官となり18歳でおじのジョン・ロスJohn Ross(1777-1856)の北西航路探検に同行した。1819-33年北極海を5回探検し,31年には北磁極を発見した。39-43年南極探検に転じ,3回南極海を航海して南緯78°10′まで達し,ロス海,ビクトリア・ランドや活火山エレバスなどを発見した。その探検の成果は著書《南方および南極地方の発見と調査の航海》として47年に発表された。
執筆者:石山 洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…1950年南極観測基地ポルトー・フランセが主島に開設されて以降,断続的に観測隊が送り込まれている。諸島は南極大陸のクイーン・メリー・ランドの方向に延びるケルゲレン海台の北部に噴出した火山性のもので,主島の南部には活火山のロス山(1865m)がそびえ,中部には約600km2のクック氷河が広がり,沿岸には多数のフィヨルドがみられる。行政的には55年に編成されたフランス南方・南極領に含まれる。…
…天文緯度と恒星時の観測専用望遠鏡の一種。1911年アメリカのロスF.E.Ross(1874‐1966)によって原型が作られ,アメリカ海軍天文台で改良が重ねられた。鏡筒は直立して動かない。…
…天文緯度と恒星時の観測専用望遠鏡の一種。1911年アメリカのロスF.E.Ross(1874‐1966)によって原型が作られ,アメリカ海軍天文台で改良が重ねられた。鏡筒は直立して動かない。…
…グラスゴー大学で医学の学位を取得。ロスJ.C.Rossの南極探検に,軍医補兼博物学者として参加する(1839‐43)。その探検の植物報告書をまとめ,《南極植物誌》(1844‐47)などを公刊する。…
…
[地形,地質]
南極大陸はほぼ南極圏内にあり,それを大きく二分する南極横断山地Transantarctic Mountainsによって,東半球に属する古い大陸塊の東南極大陸(大南極もいう)と,地質年代がこれより新しい西南極大陸(小南極)とに分けられる。また太平洋側からはロス海,大西洋側からはウェッデル海が深く湾入している。西南極大陸からは南極半島が南アメリカ大陸方向に延びている。…
…グラスゴー大学で医学の学位を取得。ロスJ.C.Rossの南極探検に,軍医補兼博物学者として参加する(1839‐43)。その探検の植物報告書をまとめ,《南極植物誌》(1844‐47)などを公刊する。…
…18世紀に入ると政府主導の地理探査が始まり,南極を一周したイギリスのJ.クックは太平洋を北上しアラスカ西端に達した。1818年イギリスのロスJohn Ross(1777‐1856)は,バフィン湾から西へ続くランカスター海峡に入った。ロスは1829‐33年バフィン島の西のブーシア湾で2年越冬したが,甥の副隊長ジェームズ・クラーク・ロスJames Clark Ross(1800‐62,後年南極ロス海発見)は地磁気の専門家で,1831年に北磁極(北緯69.5゜,西経95゜)を発見した。…
※「ロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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