浄光寺(読み)じようこうじ

日本歴史地名大系 「浄光寺」の解説

浄光寺
じようこうじ

[現在地名]那珂湊市館山

突出した台地上、中世の館跡に位置し、東側に名平洞なへいどうがある。衆宝山無量光院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。親鸞聖人二十四輩の第二一。建暦二年(一二一二)唯仏房の開基と伝え、初め枝川えだかわ(現勝田市枝川)に創建。二十四輩名位之事(「真宗全書」常楽寺伝)の康永三年(一三四四)に「唯仏御房跡鏡願兄弟 常州吉田郡エタカワ」とある。

寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によれば寺領一九・一五三石、末寺九ヵ寺、脇房五ヵ寺、百姓旦那七七二人、侍旦那一二人で、開基は建保二年(一二一四)とあり、貞応元年(一二二二)佐竹刑部左衛門より永一〇貫文の寺領寄進、当寺一一代唯性のとき、みなと村へ寺を移して江戸但馬守より永一五貫文の寺領寄進、一四代唯空のとき佐竹義宣より永二〇貫文の寺領寄進があり、慶安元年(一六四八)朱印一〇石となった。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]日光市匠町

西にし町地区の南西隈、大谷だいや川北岸にある。還源山妙覚院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来と地蔵菩薩。寛永一七年(一六四〇)に浄光坊と往生おうじよう院が合併して成立した。「堂社建立記」や「日光山志」によれば、浄光坊はもとは山内仏岩さんないほとけいわにあった日光山本坊光明こうみよう院の六供僧の一。応永年間(一三九四―一四二八)光明院断絶後善女神ぜんによじ(現本町・安川町辺り)へ移転した。往生院は勝道を荼毘に付した場所に建てられた寺で、日光山総坊の墓所。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]葛飾区東四つ木一丁目

荒川放水路左岸に位置。青竜山と号し、天台宗。本尊は薬師如来で、木下川きねがわ薬師などとよばれた。嘉祥二年(八四九)に結ばれた草庵に始まるという。縁起によれば、延暦七年(七八八)自ら彫刻した薬師如来像を近江比叡山に安置した最澄は、さらに東国の教化を願い再び薬師如来像の製作にとりかかった。途中神霊のお告げがあり、未完の像を下野国に帰国する大慈だいじ(現栃木県岩舟町)の僧広智に託した。関東に下った広智は嘉祥二年木下川で唱翁と名乗る老人に出会い、請われるままに像を唱翁の草庵に安置した。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]岡崎市中島町 本町

中島なかじま地籍南東部の中島道と広田こうた川との中間に位置する。真宗大谷派に属し、良永山と号し、本尊は阿弥陀如来。野寺のでら(現安城市)本証ほんしよう寺末であった。

寺伝ではもと天台宗とあり、寛正五年(一四六四)蓮如の弟子釈意真が中島郷に安楽あんらく寺を再建し、蓮如から授けられた六字名号と阿弥陀仏画像および祖父石川政康から伝えられた親鸞絵像を安置するという。明応六年(一四九七)四月二八日銘の実如からの本証寺末寺方便法身像裏書がある。永禄六年(一五六三)三河一向一揆では「中島安楽寺に会シて戦守ヲ謀ル」(六ッ美村誌)とあるように門徒の拠点となるが、焼失し宝物の一部は崇福そうふく寺に移ると伝える。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]山形市八日町二丁目

江戸時代城下町であった八日ようか町の羽州街道南側にある。本眷山と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。花の浄光寺として知られる。会津若松妙法みようほう寺の五世日満が毘沙門天を奉じ、城下南方吉原に草庵を結んだのに始まると伝える。最上義光が父義守の病平癒祈祷を日満に命じ、天正六年(一五七八)病平癒の報恩のため八日町に一〇〇間四方の寺地を与え、堂宇を寄進して妙法山法華ほつけ寺と号した。山形地方に日蓮宗が弘通した初めとされる。最上氏時代城下絵図では同町南部に法華寺と記され、広大な寺地が描かれる。寛永七年(一六三〇)には身延山久遠くおん(現山梨県南巨摩郡身延町)直末となって普光山本眷寺と改号、同一三年保科正之が入部すると信州高遠たかとお(現長野県上伊那郡高遠町)の浄光寺日遵を迎え、本眷山浄光寺とした。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]柳井市大字平郡 河内

平郡へいぐん島東浦の河内こうちにあり、浄土真宗本願寺派。河内山と号し、本尊阿弥陀如来。

「注進案」によれば、天文年中(一五三二―五五)に神代兵庫頭が平郡島へ移り、摂州あまさき(現尼崎市)の廻船から蓮如染筆の六字の名号を得て真宗に帰依、その子真西が寺を創建したという。蓮如染筆の六字の名号は火除御名号と伝え、火災の難を逃れるとの伝承がある。近世には末寺として大島郡安下庄あげのしよう(現橘町)安楽あんらく寺と同郡戸田へた(現大島町)照林しようりん寺の二ヵ寺があった。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]東松山市下青鳥

大願山成就院と号し、下青鳥しもおおどりの北西部に位置する。天台宗。本尊は地蔵菩薩。正徳四年(一七一四)に記された大願山浄光寺略縁起(寺蔵)によれば、仁治元年(一二四〇)に比叡山の僧覚詮が持仏の地蔵菩薩像を本尊として一宇を草創し、青鳥山延命えんめい寺と名付けたのが当寺の始まりという。宝治二年(一二四八)には後深草院の勅願所となり、山号を大悲願山、院号を成就院、寺号を浄瑠璃光寺と改め、以後鎮護国家の霊場として栄え、門中三八ヵ寺を有していた。しかし、慶長五年(一六〇〇)閏二月二三日に落雷により堂宇等をことごとく焼失したと伝える。栃木県日光市輪王りんのう寺が所蔵する応永三年(一三九六)一〇月一八日の一日頓写大般若経の巻第二二四奥書によると同巻は「下青鳥郷悲願山浄光寺」において書写されている。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]芦原町轟木

轟木とどろき集落の東部にある。高木山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、開基宗忍は三河の人で安田三郎と称し、初め吉田よしだ藤島ふじしま(現福井市)に一宇を建立したのに始まるという。当寺蔵の方便法身像裏書に「大谷本□□ 延徳三年辛亥九月廿日 越前国吉田郡藤島 高木常光寺 願主性忍」とあるから、四代性忍の延徳三年(一四九一)頃、すでに寺院化していたことがわかる。加越一向一揆の時には和田本覚わだほんがく寺、超勝ちようしよう(現福井市)らとともに活躍したという。天正三年(一五七五)八月、織田信長が越前一向一揆を平定した際、信長が誅殺した一向宗坊主のなかに「高木之浄光」の名が心月寺本「朝倉始末記」にみえる。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]河芸町北黒田 御絵堂

北黒田きたくろだ集落の南端、丘陵上にある。真宗高田派。本尊阿弥陀如来は鎌倉時代の作。山号を大徳山というのは、もと大徳だいとく寺という真言宗寺院であったためといい、当寺寺地の小字名を「ごえどう」(御影堂か)、当寺の背後の地を「えまどう」(絵馬堂か)というのもその名残と考えられており、当寺境内に「永仁元年」と刻銘のある石製品残欠と塚とがある。

室町時代中期、真宗高田派の中興真慧の伊勢国教化に際して、その門弟誓祐が当寺に入って中勢地区における高田派教団の拠点となったようで、真慧の代表的な自筆書状や法語類が当寺に蔵される。真慧没後、高田派教団は応真・尭恵派と真智派とに分れて争ったが、当寺は応真・尭恵方の有力寺院であった。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]東和町土沢

土沢つちざわの町裏北西の高台に所在。鳩峯山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺蔵の記録によれば開基は江刺重恒(法号明叟浄光)、文禄元年(一五九二)重恒が没した折、茶湯料として一〇石を寄進された。開山は慶長一七年(一六一二)に没した二子ふたご(現北上市)永明えいめい寺三世一枝宗曇という。しかし江刺重恒・重隆の二代は、田瀬たせ寺沢てらさわ興禅こうぜん院を墓所としており、江刺家が当寺を創建し菩提寺とするのは、同年に土沢城主として入封した後とみられる。寺号は盛岡藩士江刺家初代の重恒の法名をとり浄光寺と称したと考えられる。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]福井市石橋町

西畑山と号し、真宗大谷派。開基浄了(寛永三年没)が、近郷の西畑にしばた村に道場を開き、延宝二年(一六七四)現在地に移った。寛永一四年(一六三七)の一身田専修寺文書に「浄光寺浄慶」とあるから、二代目浄慶のときに寺号を許されたと思われる。当寺には「浜三郷浦々志衆中」宛の本願寺教如の書状があり、今度石山本願寺(大坂御坊)が滅亡寸前になったところ、私(教如)が織田信長と戦うという決意が異義なく踏襲されました。ところが、雑賀さいが(現和歌山市)から父顕如の書状および使節が遣わされ、石山本願寺に協力するなとの命令が国々在々所々へ出されたということです。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]津島市片町

延享五年(一七四八)の村絵図には天王てんのう川の東堤下の片側の町並にあり、境内の東に小池があって、その北に善福ぜんぷく寺、東に西福さいふく寺が接している。現在は埋立てられて浄光寺の墓地になっている。日月山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来立像。

慶長一一年(一六〇六)僧教念が本願寺の教如光寿に帰依して草庵を結んだのが初めで、貞享元年(一六八四)二世信教の時寺号を許可されて浄光寺と称した(徇行記)


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]小布施町雁田字清水端

雁田かりた集落の南部。雁田山西の山麓字薬師入やくしいりの崖錐端にある。真言宗蓮生れんしよう寺(現須坂市日滝ひたき)末である。本尊薬師如来。

縁起には、「空海の弟子悦導が薬師堂を建立。天喜年中朝原上人が修理、浄光寺開山となり、室町時代城主山門某再建」と伝える。現在の薬師堂(重要文化財)は昭和二一―二二年(一九四六―四七)根本修理が行われ、その際発見された巻斗の墨書銘から、応永一五年(一四〇八)の建立と判明。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]会津若松市宝町

小田おだ町の東端より北に続く通りの東側にある。法紹山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来。もとは信州高遠たかとお(現長野県高遠町)にあって長遠ちようえん寺と称したが、寛永一二年(一六三五)のちの会津藩初代藩主保科正之の実母をこの寺に葬り、浄光院殿法紹日恵大姉と号した。翌一三年正之が出羽国山形に移封した際、長遠寺を同地の本春寺に移らせ、両寺を統一して浄光寺と命名した。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]市川市大野町三丁目

下総台地上、戦国時代の大野おおの城に近い字中郷なかごうにある。大野山多聞坊と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼陀羅。創建の経緯は不明だが、当寺が所在した中世の大野郷は日蓮宗の信者が多く(本土寺過去帳)、また貞和五年(一三四九)・延文六年(一三六一)などの題目板碑も残されていて、草創はこの頃にさかのぼるか。「本土寺過去帳」によると寛正四年(一四六三)一一月二六日に没している「多ママ坊日億」がみえ、当寺の前身とも考えられる。俗に乳無仁王尊とよばれる乳のない仁王像があることで知られた。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]常陸太田市塙町

市街地の中心部高台の東側にある。多賀山地に対し、東に海を望み眺望がよい。時宗で、引接山大善院と号する。本尊は阿弥陀如来。

寺伝によると正中元年(一三二四)太田城主佐竹貞義が亡母の菩提のため他阿呑海に請うて開山したという。呑海は相模国出身で、相模の無量むりよう寺、京都七条道場金光こんこう寺に住み、元応元年(一三一九)第四代遊行上人となって遊歴し布教に努め、時宗中興の祖といわれる。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]川上村 森平

川上川左岸の矢柱やばしらにあり、大慈山と号し曹洞宗。本尊阿弥陀如来。川上村では当初村内に寺がなかったため、苗木藩領坂下さかした(現坂下町)長昌ちようしよう寺に依頼して請印していたが、他領で不便でもあり、寛文五年(一六六五)宗門改の規則が改正されたため、阿弥陀堂を整備し、同七年浄光庵を建立し、長昌寺住職の大尭を開山とした。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]神辺町道上

かめ山の西北にあり、清曜山と号し本尊阿弥陀如来、浄土真宗本願寺派。「福山志料」に「光照寺末寺、モト禅宗ニテ浄禅ト云モノ開基ス、ソレヨリ九代慶善ヨリ今ノ宗トナル」とあり、「西備名区」も開基を浄禅とし、「九世慶禅法師と云は小林氏ニ三谿村木上城主金尾遠江守の家老たりしが、承久の乱に金尾京方にて没落し、家老小林左京亮此寺に入て隠れ住む、其比此寺に住職なかりしかば、小林氏僧となり明光上人の化導に従ひ一向宗に改め、本尊薬師如来を後堂に移し、阿弥陀仏を安置し住職す」と記す。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]高富町高富

高富の北の丘陵地近くにあり、柏林山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。創建年月は不詳。初め真言宗であったが、元禄四年(一六九一)真宗に改宗したという(山県郡志)。寺内には文化一二年(一八一五)寺子屋習貫しゆうかん(初め時習堂)が開設され、明治六年(一八七三)閉堂。


浄光寺
じようこうじ

[現在地名]上山市鶴脛町

軽井沢かるいざわにあり、湯出山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。天正一六年(一五八八)上山城主里見越後により建立され、城光寺と称した(上山見聞随筆)。寛永五年(一六二八)土岐頼行入部とともに、城の字を差支えありとして浄光寺に改めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「浄光寺」の解説

浄光寺

長野県上高井郡小布施町にある寺院。真言宗豊山派。本尊は薬師如来。1408年に建立された薬師堂は、茅葺き屋根の入母屋造りで国の重要文化財に指定。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「浄光寺」の解説

浄光寺

(長野県上高井郡小布施町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浄光寺の言及

【平郡島】より

…漁業はタイ,スズキの一本釣りや平郡ダコが有名。浄光寺の本尊木造薬師如来座像は鎌倉期の作。【三浦 肇】。…

※「浄光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android