日本歴史地名大系 「浄光寺」の解説
浄光寺
じようこうじ
突出した台地上、中世の館跡に位置し、東側に
寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によれば寺領一九・一五三石、末寺九ヵ寺、脇房五ヵ寺、百姓旦那七七二人、侍旦那一二人で、開基は建保二年(一二一四)とあり、貞応元年(一二二二)佐竹刑部左衛門より永一〇貫文の寺領寄進、当寺一一代唯性のとき、
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
寺伝ではもと天台宗とあり、寛正五年(一四六四)蓮如の弟子釈意真が中島郷に
浄光寺
じようこうじ
江戸時代城下町であった
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
大願山成就院と号し、
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
室町時代中期、真宗高田派の中興真慧の伊勢国教化に際して、その門弟誓祐が当寺に入って中勢地区における高田派教団の拠点となったようで、真慧の代表的な自筆書状や法語類が当寺に蔵される。真慧没後、高田派教団は応真・尭恵派と真智派とに分れて争ったが、当寺は応真・尭恵方の有力寺院であった。
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
浄光寺
じようこうじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報