日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペイン史」の意味・わかりやすい解説
スペイン史
すぺいんし
スペイン史の特色と概観
スペインSpainとは英語であり、スペイン自体ではエスパーニャEspañaとよんでいる。この名前の起源Spãnは、フェニキア人が命名したものらしく、「ウサギの国」という意味か、あるいは「遠い国」の意味という二つの説がある。これがローマ人によってヒスパニアHispaniaとなり、さらにエスパーニャとなった。スペインとポルトガルとを含めた半島をイベリアIberiaとよんでいるが、この名はスペイン東部を流れるエブロ川に由来するという説がある。
ピレネー山脈の南はヨーロッパではない、といわれるほど、風土のうえではイベリア半島はアフリカに似ている。しかし、ローマ帝国の支配下にあり、ついでゲルマンの侵入を受けたスペインは、西ヨーロッパと共通の遺産をもっているといえる。そのなかの最大のものはキリスト教である。スペインの土地は800年近くにわたりイスラムに支配され、文化的にはイスラムの影響が大きいが、スペインの統一国家としての形成はイスラムとの対抗のなかに行われたのであり、スペインの民衆はヨーロッパ人として自己を意識している。
スペインの歴史の特徴は、近代化の歩みがきわめて遅いことである。スペインは大航海時代を生み出し、ハプスブルク王朝が「太陽の没することのない」広大な版図を誇ったように、世界に覇を唱えた時期もあったが、世界が近代に入ってからは国際政治の中心からは取り残されていた。近代資本主義の発展は遅れ、中産階級が西ヨーロッパ諸国のように力をもたず、社会が古い関係を清算できず、スペインの歴史を振り子のような動揺の連続にしている。久しくヨーロッパの周辺にとどまっていたスペインは、20世紀に至って社会の矛盾が爆発してスペイン内戦を惹起(じゃっき)し、その帰趨(きすう)は世界の注目を集めた。スペインの近代史において顕著なものは地方分離主義である。公的な国家としてのスペインに対して、個人が愛着をもつのはガリシアやアラゴンなどの小祖国である。この分離主義は、カタルーニャやバスクなど言語的あるいは民族的な相違をもつ地方では、反カスティーリャ的感情さらに反中央集権主義として現れている。今日なおバスク独立運動は依然として継続している。
スペインは、隣国ポルトガルとともに、20世紀において久しく独裁政権の下にあったが、ともに1970年代に民主化の歩みを始め、左翼政府が出現した。1982年成立したゴンサレス社会労働党政権の下、スペインの経済成長は著しく、1986年にはEC(ヨーロッパ共同体、現ヨーロッパ連合、EU)加盟が認められ、1992年にはバルセロナ・オリンピックやセビリア万国博が開かれてヨーロッパの一員としてのスペインの地位が確立した。しかし、長期政権にありがちな腐敗と経済不況を背景に社会労働党政権の優位は揺らぎ始め、1996年の総選挙では国民党が勝利を得て、同党のアスナール政権が誕生した。2000年の総選挙でも国民党は大勝したが、2004年の総選挙では社会労働党が勝ち、8年ぶりに政権を奪取した。
[斉藤 孝]
古代から国土の回復まで
先史時代・古代
イベリア半島はヨーロッパとアフリカとの通路にあたっており、さまざまな民族がこの地に居住したらしい。紀元前3000年代、アフリカからハム語族系のイベリア人が移住し、ついで前1000年ごろから中部ヨーロッパ方面のインド・ヨーロッパ系のケルト人が移住してきた。やがてイベリア半島の中部で両民族が混血し、これがスペイン民族の根幹をなすケルト・イベリア人となった。イベリア人、ケルト人の移住より前にピレネー山脈の北方にいた民族は、バスク人として今日まで続いている。バスク人をアルタミラ洞窟(どうくつ)の壁画を残した旧石器時代人の直系であるとみる説もある。
イベリア半島の地中海岸は、地中海の沿岸の諸民族との交通が開け、前1100年ころにはフェニキア人がカディスに商業基地を建設し、前6世紀にギリシア人がバレンシア周辺に植民市を建て、同じころカルタゴがバルセロナからカルタヘナに植民市を建てた。カルタゴは、さらにアンダルシア地方からスペイン中部にかけて侵入し、この地を支配した。前3世紀にローマとカルタゴとの間にポエニ戦争が起こり、敗れたカルタゴはローマ人によって追放され、スペインの地中海岸はローマの支配下に置かれた。前1世紀には、イベリア半島はローマの属州としてヒスパニアと呼ばれ、ヒスパニア・タラコネンシス、ルシタニア、ヒスパニア・バエティカの3州に分けて統治された。ローマの支配は500年も続き、ラテン語の普及が進んだ。地方によってラテン語がケルト語やイベリア語と混交する度合いが異なり、カタルーニャ語、カスティーリャ語、ポルトガル語が成立した。このうちカスティーリャ語が現在のスペイン語の基本をなしている。また、ローマ帝国の支配下でキリスト教が広まったことは重要な事実である。
[斉藤 孝]
西ゴート王国とイスラム帝国
ローマ帝国の衰退とともにゲルマン人の移住が始まった。紀元後409年、ゲルマン系のバンダル人、アラマン人、スエビ人が侵入し、続いて414年西ゴート人が侵入し、バンダル人をアフリカへ駆逐した。西ゴート人は西ゴート王国を建設して8世紀初めまでイベリア半島の大部分を支配し、スエビ人は北西部の山地にスエビ王国を建てた。西ゴート王朝は初めアリウス派のキリスト教であったが、カトリックの勢力が伸びた。
7世紀末、イスラムのアラビア人は北アフリカで大西洋岸に達し、711年、ジブラルタル海峡を渡ってアルヘシラス湾に上陸した。北アフリカのベルベル人のなかにはイスラム教に改宗するものが現れ、彼らはモロ人(ムーア人)とよばれた。アラビア人およびモロ人の集団は、8世紀初め西ゴート王国を滅ぼし、北部を残してイベリア半島を支配した。以後、王朝の交替はあったが、イスラムの支配が続き、同時にキリスト教徒のスペイン人による国土回復戦争(レコンキスタ)も始められた。コルドバを中心とするイスラムの支配は10世紀に最盛期を迎えた。レコンキスタの南進とともに、イスラムの中心地はグラナダに移った。このようなイスラム文化の跡は今日にもその姿を残している。
[斉藤 孝]
レコンキスタ
イスラムの支配に対するレコンキスタは、スペイン北部のアストゥリアスとピレネー地方を出発点として行われた。アストゥリアスには10世紀にレオン王国が成立し、またカスティーリャ王国がレオンから分離した。11世紀にはカスティーリャ王国がレオンを併合し、ナバラ王国からアラゴン王国が分離した。これら諸国の南進によってイスラム勢力は南に追われ、13世紀にはコルドバ、セビーリャがスペイン人の手に帰した。15世紀後半即位したカスティーリャ王国のイサベル女王とアラゴン王国のフェルナンド王の結婚(1469)によって、両国は統一された。この「カトリック両王」の下に1492年、イスラムの最後の根拠地グラナダは陥落し、レコンキスタは成功した。なお、レコンキスタの過程にスペインでは封建社会に移行し、ポルトガルはスペインから分離した。
[斉藤 孝]
黄金時代
大航海時代と植民地帝国
15世紀初め、ポルトガルの王子エンリケは商業的利益を求めて北アフリカのセウタを占領し、さらに大西洋の探検を奨励して、カナリア諸島はじめ大西洋の諸島を発見し、15世紀中葉には赤道近くのアフリカ西岸に達した。これに刺激されたスペインも海外探検に乗り出した。イサベル女王はコロンブスを援助して、コロンブスは1492年西インド諸島に到達した。この地理的探検は、ヨーロッパ歴史学では「地理上の発見」とよばれているが、日本の歴史学界では「大航海時代」とよぶようになっている。スペインは、ポルトガルと競合して、「新大陸」とよばれたアメリカに広大な領土を獲得し、貿易を王の統制下に置いて巨大な利益を得た。スペイン・ポルトガルの植民地経営は、航海・探検を進めた「コンキスタドレス」(征服者)に報奨として獲得地に対する全権を与える封建的な性格のものであり、先住民(インディオとよばれた)に対する虐待と収奪は惨憺(さんたん)たるものであった。とくに金・銀を採掘する鉱山業は莫大(ばくだい)な利益を生み、ヨーロッパへの金・銀の流入は、いわゆる価格革命を生み出した。カトリック両王の孫カルロス1世はハプスブルク家の血統を引き、神聖ローマ皇帝(皇帝としてはカール5世)となり、16世紀前半の40年間、スペインと植民地のほか、ネーデルラント(オランダ)、ブルゴーニュなどの領土を支配して「太陽の没することのない」帝国を誇った。カルロス1世は、コムニダーデスの乱を鎮圧してスペインに絶対主義体制を樹立し、毛織物工業などの経済発展を進めた。
[斉藤 孝]
黄金の世紀
16世紀中葉から17世紀の1680年代までは「黄金の世紀」とよばれている。最盛期は16世紀後半のフェリペ2世の時代であった。フェリペ2世はポルトガル王位の後継問題に介入してポルトガル王位を継ぎ、1640年までスペイン王がポルトガルを併合してポルトガル王を称した。フェリペ2世は1571年レパントの海戦にトルコを破ったが、これは同時にスペインの没落の始まりでもあった。前近代的関係の強いスペインの産業は、新たに発展しつつあったイギリス、オランダの近代的な産業の前に圧倒され始めた。ヨーロッパの宗教改革に対してスペインは、反宗教改革の本山となり、宗教裁判やユダヤ人・モロ人に対する迫害を進めた。このような迫害の結果、経済的基盤は大いに揺らぎ、労働力は激減した。さらに、スペインの支配に反対してオランダに独立運動が起こり、1579年にはオランダの7州が事実上独立した。1588年には、オランダの独立を支持するイギリスは、スペインとドーバー海峡で海戦を行ったが、スペインの「無敵艦隊」(アルマダ)は大敗し、制海権をイギリスに譲った。これがスペインの衰退を象徴する事件となった。こうして、「黄金の世紀」は、実はスペイン帝国の没落と社会の衰退過程となったが、文化史的には、演劇・文学・絵画などに華々しい隆盛をみた。セルバンテスやロペ・デ・ベガやエル・グレコなどが有名である。
[斉藤 孝]
ブルボン啓蒙絶対主義
フェリペ2世の死後、スペインの国際的地位は急速に低下した。1700年カルロス2世が没すると、フェリペ3世の血を引くフランスのルイ14世の孫がフェリペ5世として即位し、ブルボン王朝が始まった。これに対してイギリス・オランダ・オーストリアがフランス・スペインに開戦し、スペイン継承戦争(1701~14)が行われた。スペインはこの戦争に敗れ、領土を削減され、また国際的に孤立した。ブルボン王朝はいわゆる啓蒙(けいもう)絶対主義の政策をとり、産業・貿易に対する重商主義的統制を廃し、富農の育成や国立マニュファクチュアの設立などを試みたが、18世紀を通じてスペインは生産の衰退と人口の減少が目だち、新興中産階級の成長が弱かった。
[斉藤 孝]
ブルボン王朝と市民革命の挫折
ナポレオン1世とスペイン独立戦争
スペインのブルボン王家は、フランス革命で王制が打倒されるとフランスに敵対したが、バーゼルの和約(1795)を機にフランスと和解し、さらにナポレオンにくみした。しかし、1805年のトラファルガーの海戦でイギリスに敗れ、海軍を失った。1807年、ナポレオン軍がポルトガルに上陸すると、ポルトガルのブラガンサ王家は海外に亡命した。翌年、ナポレオンはスペインにも出兵し、ブルボン王家の内紛に乗じてカルロス4世を退位させ、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトをスペイン王とした。このころ、フランス軍占領下のマドリードで市民の反乱が起き、市街戦が始まった。ブルボン王家はナポレオンの前に壊滅したが、市民や農民はゲリラ戦によってナポレオンに抵抗した。スペイン語の「ゲリラ」ということばがこれから広まった。諸地域の抵抗組織は、1812年カディスに集まって国会(コルテス)を開き、主権在民をはじめとする自由主義的条項を取り入れたカディス憲法を制定した。しかし、この憲法は実施に至らなかった。これはスペインにおける民主主義革命の最初の試みである。ナポレオン軍に対する抵抗戦争は最後まで持続され、1814年、ナポレオンの没落とともにイベリア半島は解放された。
[斉藤 孝]
リエゴ革命
1814年フェルナンド7世が即位して、ウィーン体制の一環としてカトリック勢力の強化と王党派の復活に努める専制政治を始めた。これに対して、1820年リエゴ・デ・ヌニエス大尉がカディスの近辺で専制政治に反対する宣言を出した。これは、スペインにおける民主主義革命の試みであった。リエゴの宣言は、カディス憲法の復活を要求する軍隊・農民の支持を得て、コルドバからマドリードに革命運動が進んだ。これとともに、国会でもブルジョア急進派の主張によって封建的諸権利を廃止する法案が採択されたが、実現には至らなかった。このような革命運動の高揚に対して、ウィーン体制下のベロナ会議はフランス軍の派遣を決定し、1823年フランス軍のマドリード侵入によってリエゴの革命は失敗し、自由主義者は弾圧された。このリエゴ革命の間に中南米のスペイン植民地は相次いで独立した。
[斉藤 孝]
カルリスタ戦争
1833年フェルナンド7世の死に際して、王弟ドン・カルロスは政府の認めた異母妹イサベル2世の即位に反対して王位を要求し、これを機としてカルリスタ戦争が起きた。カルロスを支持するカルリスタは、保守的な貴族・僧侶(そうりょ)・農民であり、イサベル2世とその母后マリア・クリスティナを支持する勢力は、都市ブルジョアジー・自由主義的な地主であり、この内乱は、地方対都市、保守的教権主義対自由主義、バスク・ナバラの地方分離主義対中央集権主義という当時のスペイン社会の基本的対立を表していた。これは結局カルリスタの敗北に終わるが(1839)、マリア・クリスティナを支持する側にも内部分裂が相次いだ。
[斉藤 孝]
エスパルテロ政権
1840年、エスパルテロ将軍が都市の民衆と進歩派のインテリゲンチャなどの支持を受けて、クーデターによって政権を掌握した。エスパルテロは、マリア・クリスティナを摂政(せっしょう)の地位から追放し、独裁的な権力を振るったが、しだいに保守主義に傾き、やがて民衆の蜂起(ほうき)を機に失脚して、1843年イギリスに亡命した。エスパルテロのあと、ナルバエスがクーデターを起こして政権につき、保守的な政治を行った。1854年、オドンネルがクーデターを起こしたとき、帰国していたエスパルテロは首相の座に推され、ふたたび政権を掌握したが、1856年オドンネルに奪われた。エスパルテロ政権の時期にイギリス・フランスの資本を導入し、鉄道が敷かれ、カタルーニャに綿工業、バスクに鉄工業が盛んとなり、近代産業発展の基礎が据えられた。エスパルテロのあと、オドンネルとナルバエスの間に政権の争奪が行われたが、女王イサベル2世とナルバエス政権は自由主義者を弾圧するなど反動的な政策をとり、1868年の九月革命によってイサベルは亡命し、王位を奪われた。革命の主導権を握った自由主義者は「1869年憲法」を制定した。
[斉藤 孝]
第一共和国
イサベル2世を追放した革命の背後には、政治勢力として台頭しつつある労働者階級があった。19世紀のなかばごろから、フランスに隣接するカタルーニャにバクーニンのアナキズムが紹介され、やがてスペイン全土に広まり、アナキズムはスペイン労働運動の特色をなすに至った。1870年に第一インターナショナルのスペイン支部が創立され、主流派となったマルクス派は、まもなくバクーニン派を除名してアナキストと対立し、1882年社会労働党を結成した。その傘下に1888年労働者総同盟が成立し、アナキストとともに労働者階級を二分して掌握した。こうして分裂はしたが、労働運動は独自の勢力として政治の舞台に登場した。「1869年憲法」は、立憲君主制、普通選挙、国家と教会の分離などを規定した。君主の選出は難産し、ようやく1870年、君主としてイタリアからアマデオが迎えられたが、短命に終わり、1873年2月に退位した。ここで共和派が議会の多数を占め、共和国が宣言された。スペインは、大統領制下の連邦共和国となった。共和国に対してカルリスタやアナキストの反乱などが起こり、軍隊は共和国政府に反対した。軍隊のクーデターによって共和国は倒れ、アルフォンソ12世が即位し、王制が復活した(1874年12月)。このときの共和国を、1931年に成立する第二共和国に対して、第一共和国とよんでいる。
[斉藤 孝]
1898年の世代
ブルボン王朝の復活とともに、カルリスタ・労働運動・農民運動に対抗してブルジョア・地主・カトリック教会の妥協という勢力配置が定まり、王政復古の筋書きをつくったカノバス・デル・カスティーリョが九月革命の指導者マテオ・サガスタらの協力を得て政治体制を安定させようとした。この体制のなかで、カシキズモが発生した。カシキズモは、地方ボスであるカシケが民衆に対して恐喝や買収によって選挙を左右する仕組みであり、議会政治を民衆から遊離させるものであった。1898年、スペインの支配下にあったキューバに独立運動が起こり、これを助けたアメリカ合衆国はスペインと開戦した(アメリカ・スペイン戦争)。フィリピンにおいてもスペインの統治に反対して独立運動が展開し、アメリカはこの運動を助けた。スペイン海軍は敗退し、キューバやフィリピン支配の実権はアメリカに移り、独立運動はアメリカによって弾圧された。スペインは、キューバ、フィリピンおよびプエルト・リコを失い、植民地としてはモロッコの海岸地帯とアフリカ西方のいくつかの島などが残るのみとなった。このアメリカ・スペイン戦争の敗北は、スペインの没落と政治的・社会的腐敗を物語り、スペイン社会を革新することが必要であると考えられた。政府が混迷の淵(ふち)に沈んでいるのに比べて、「1898年の世代」とよばれる思想家・芸術家が登場し、社会改革の声をあげた。哲学者オルテガ・イ・ガセーやウナムーノ、作家ブラスコ・イバーニェスらが、ヨーロッパの発展に取り残されたスペイン社会に啓蒙(けいもう)の声をあげ、アルフォンソ体制の腐敗を批判した。
[斉藤 孝]
20世紀のスペイン
アルフォンソ体制
20世紀スペインは、19世紀の諸特質を持続していた。当時、スペインはヨーロッパの最後進国の一つであり、前近代的諸関係の下に複雑な社会問題を抱えていた。とくに深刻なものが、寄生的大土地所有の圧倒的な存在によって特色づけられる農業問題であった。また、カトリック教会は最大の地主であり、同時に金融・工業に投資し、国富の3分の1を専断していた。教育は教会の手に握られ、非識字者は国民の半数に上った。選挙はカシケによって左右されていた。アメリカ・スペイン戦争に敗北したのち、軍部はモロッコに目を向け、事実上、モロッコをフランスと分割した。軍部は国家主義的・好戦的な気分をもち、労働運動に対して敵意をもっており、政治面に介入するようになった。アルフォンソ13世(1886即位)は軍部との密接な関係のうえに成り立っていた。1909年、軍部はモロッコ戦争を開始し、これに反対する運動が労働者の間に起き、7月の「悲劇の一週間」においてバルセロナは内戦の様相を呈した。この間に反戦運動は反教会運動に転化し、教会の焼き打ちなどが頻発した。とくにアナキズムは労働運動とアンダルシアの農民運動において有力であり、反教会運動の中核となった。1910年「労働全国連合」がアナキズムにたつ労働組合として発足し、社会党系の「労働総同盟」とともにスペインの労働運動を二分するに至った。第一次世界大戦に際してスペインは中立を守り、経済発展の好機となった。労働者階級の数も増大し、戦後の労働運動の高揚の前提をなした。モロッコに対する植民地化が依然進行する間にベルベル人の指導者としてアブデル・クリムが現れ、1921年7月にモロッコ東部でスペイン軍を大敗させた。これに対する責任問題が議会で追及され、窮地に陥ったアルフォンソ13世は1923年プリモ・デ・リベラ将軍を首相に任命し、プリモ・デ・リベラはイタリアのファシズムを模倣した独裁政権を樹立した。世界恐慌下、プリモ政権は1930年に崩壊し、翌1931年4月、地方選挙を機に共和国が宣言され、アルフォンソ13世は国外に亡命した。
[斉藤 孝]
第二共和国
新しく成立した共和国を第二共和国とよんでいる。共和国政府は、労働運動の高揚、農民の土地改革の要求、カタルーニャやバスクの独立問題、軍隊の改革、教育の教会からの分離などの山積する問題に当面しており、教育問題やカタルーニャ自治についていちおうの成果をあげたが、土地改革の不徹底などによって右は大ブルジョア・貴族・地主・軍部・教会勢力、左は農民・アナキズム系労働者などが第二共和国に幻滅し、政情不安に陥った。1933年には王党派や教会勢力を背景として共和国に反対する右翼が総選挙によって政権を掌握し、これから「暗い二年間」とよばれる反動期に入った。1934年10月、教会勢力を基盤とする反共和国結社の入閣に反対して、労働者のゼネラル・ストライキが起き、とくにアストゥリアスの鉱山地帯では武力闘争にまで発展した。この「十月闘争」は軍部によって過酷に鎮圧された。この敗北を機として労働者陣営の統一が進み、1936年2月の総選挙で人民戦線の勝利をもたらした。
[斉藤 孝]
スペイン内戦
人民戦線は労働者・農民・中間層の提携を基礎とするものであり、これに対する右翼勢力の攻撃は、1936年7月に始まるスペイン内戦であった。内戦は長期化し、1939年3月のマドリード陥落によって人民戦線側の敗北に終わった。反乱軍の首領はフランコ将軍であり、内戦終了後はフランコの下にファシズム型の一党独裁国家が成立した。
[斉藤 孝]
フランコ時代
フランコ政権は、ドイツ、イタリアのファシズム陣営の支持を得て勝利をしたものであり、第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に際しては枢軸国側にくみすることが予想されたが、内戦後のスペインは経済的に疲弊しており、戦争には加わらなかった。しかし、枢軸側に好意的であり、独ソ戦においては約5万の兵力を対ソ攻撃に派遣した。戦局が枢軸側に不利になると、フランコはスペインの対外政策をしだいにアメリカに好意的な方向に切り換え、同時にその体制からファシズム色を薄めざるをえなくなった。それまでフランコ体制下で唯一の政党はファランヘ党であり、従来の労働組合は廃止され、民主主義は破壊され、イタリア型のファシズムに似た体制であった。第二次世界大戦後の1946年、国際連合は「フランコ・ファシスト政府」を国際連合に加盟させないことを決議した。
フランコ時代は40年続くが、この間にフランコはなし崩し的にファシズム体制を解消しようとし、冷戦に便乗して延命を図り、1955年国際連合に加盟を認められ、国際的孤立状態を脱した。フランコは、「国家元首継承法」によって、スペインは王国でありながら王がおらず、フランコは終身元首であり、後継者を指名できるという奇妙な政治体制を樹立した。1975年11月、フランコは死に、アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスが即位した。
[斉藤 孝]
現在のスペイン
1976年1月、国会は上下両院制となり、言論・結社の自由が認められた。1977年に41年ぶりの総選挙が行われ、民主中道連合と社会労働党が大きく伸びてフランコ派は支配的地位を失った。1978年新憲法が採択され、スペインは主権在民の立憲君主制国家としての体裁を整えた。1982年の総選挙によって社会労働党のフェリペ・ゴンサレス・マルケスが単独内閣を組織した。この政権の下、1986年スペインはヨーロッパ共同体(EC)に加入した(現在はヨーロッパ連合、EU)。ゴンサレス政権は1996年のアスナール政権の登場まで続いた。公式的な左翼色を脱したゴンサレス政権は民主主義の定着と高い経済成長の持続による国民の生活水準の改善に努め、1992年のバルセロナ・オリンピックの開催などスペインの国際的地位の向上にみるべき成果があった。しかし、長期政権にありがちな腐敗・汚職が露呈し、また失業率が増大した。1996年の総選挙では国民党が第一党となり、地方民族主義政党の協力を得て国民党のホセ・マリア・アスナールが政権を獲得した。国民党政権の政策も社会労働党政権の政策と基本的にはあまり変わらないが、行政改革を行い、公営企業の民営化を進めている。1999年スペインはEUの共通通貨ユーロを導入した。スペインは政治・経済・社会のさまざまな面でヨーロッパ化しつつある。アスナールは2000年の総選挙でも大勝、国民党単独内閣を成立させた。また、バスクの独立を求める過激派組織「バスク祖国と自由」には強硬路線を取り続けた。2003年のイラク戦争に際しては、フランスやドイツが反対するなか、アスナール政権はヨーロッパではもっとも早くアメリカ、イギリス軍の攻撃支持を表明、戦争終了後のイラクにも積極的に派兵した。しかし2004年3月にマドリードで死者200人近くを出す爆弾テロが発生、イスラム原理主義テロ組織、アルカイダの関与が疑われるなど世論が動くなか、同月に行われた総選挙ではイラク派兵反対を主張するスペイン社会労働党に敗れ、8年ぶりの政権交代となった。社会労働党のサパテロ書記長が、スペイン軍を撤退させることを表明、首相となり、イラクより撤兵した。
[斉藤 孝]
『J・ビセンス・ビーベス著、小林一宏訳『スペイン――歴史的省察』(1975・岩波書店)』▽『斉藤孝編『世界現代史23 スペイン・ポルトガル現代史』(1979・山川出版社)』▽『ヘンリー・カメン著、丹羽光男訳『スペイン――歴史と文化』(1983・東海大学出版会)』▽『野々山真輝帆著『スペインの紅いバラ――フランコからフェリーペへ』(1984・白水社)』▽『碇順治著『スペイン・静かなる革命――フランコから民主へ』(1990・彩流社)』▽『戸門一衛著『スペインの実験――社会労働党政権の12年』(1994・朝日新聞社)』▽『立石博高編『スペイン・ポルトガル史(新版世界各国史16)』(2000・山川出版社)』▽『高石博高・中塚次郎編『スペインにおける国家と地域 ナショナリズムの相克』(2002・国際書院)』▽『ピエール・ヴィラール著、藤田一成訳『スペイン史』(文庫クセジュ・白水社)』