ナポレオン(1世)(読み)なぽれおん(英語表記)Napoléon Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ナポレオン(1世)
なぽれおん
Napolon
(1769―1821)

フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、15)。本名ナポレオン・ボナパルトNapolon Bonaparte。[井上幸治]

生い立ち

コルシカ島は14世紀以来、イタリアのジェノバ領であったが、18世紀初期から住民は独立運動を開始し、同世紀中ごろから運動はパオリPascal Paoli(1725―1807)に指導された。ボナパルト家(イタリア語ブオナパルテBuonaparte)は16世紀コルシカに移住し、西部のアジャクシオ(アヤッチオ)の小貴族地主となり、ナポレオンの父シャルル・ボナパルトCharles Bonaparte(1746―85)はレティツィア・ラモリーノと結婚し、パオリの民族独立運動に参加していた。しかし、ジェノバがコルシカをフランスに譲渡したため、島民はフランス軍に抵抗し、1768年には敗北した。その翌年8月15日、シャルルの次男としてナポレオンが生まれた。
 父はフランスに帰順したため、1779年、国王の給費を受けてナポレオンを本土のブリエンヌ兵学校に送り、84年にはパリ士官学校に進学させた。このときナポレオンの成績は137人中42番である。85年砲兵少尉としてバランスに赴任し、オソンに転勤した。学生時代に彼のコルシカ訛(なま)りはからかわれ、家族、郷土に対する狭い意識が強く、ときに野性的な闘志をむき出しにしたが、陰気で内向的な側面が強かった。任官してからも当時の思想書や歴史、地理の読書を唯一の楽しみにした。貴族社会の生活意識に触れず、読書のなかで可能な未来を描いた点に当時の常識を超えた人間的基盤が形成された。85年父のシャルルが死亡し、ナポレオンは家族への配慮と愛郷心から絶えず帰郷していた。[井上幸治]

フランス革命

1789年に革命が起こると、ナポレオンはコルシカで国民兵として活躍したが、独立派のパオリと対立し、93年一家をあげてマルセイユに移住し、ここで初めて狭い愛郷心を脱して、「革命フランス」に運命を託した。ジャコバン派の主張を支持し、『ボケールの夜食』というパンフレットを発表した。列強が革命に攻勢をかけると、イギリス・スペイン艦隊の閉鎖するトゥーロン港を砲撃をもって解放し、ロベスピエールの推薦で旅団長となった。しかし、ロベスピエール派の没落したいわゆる「テルミドールの反動」(1794)後、ロベスピエール派として一時投獄され、それから失意の日を送るうち、95年、新憲法制定を機にパリ王党派のバンデミエールの反乱が起こった。休職中のナポレオンは、このときバラスPaul Franois Jean Nicolas, vicomte de Barras(1755―1829)に抜擢(ばってき)されて戦闘を指揮し、2日間でこれを鎮定した。96年3月、バラスの愛人だったジョゼフィーヌと結婚し、27歳の彼はイタリア遠征軍司令官に任命された。この軍隊はもともとイタリアにおけるオーストリア軍牽制(けんせい)の目的で編成されたもので、装備も規律も悪かったが、1年間の連戦の間に、モンテノッテ、ミレシモ、モンドビ、ロディ、アルコレ、リボリなどで勝利を収め、97年カンポ・フォルミオ条約を結び、チザルピーナ共和国を創設して、フランスの自然国境外の地を確保した。晩年に彼の語るところによれば、このイタリア戦争こそ軍事的・政治的天分を自覚させ、果てしない野心を抱かせたのである。コルシカという環境は、現実に妥協しない割り切った行動を育て、彼の的確な判断は可能と不可能を見通し、機会をけっして逃さなかった。シャトーブリアンは彼を「行動の詩人」とよび、ゲーテは戦いの「半神」とよんだ。
 ナポレオンの出現によって、それまで防衛的であった革命戦争は侵略戦争に変質しようとしていた。当時、総裁政府部内にも対英戦略としてインド航路を遮断するためにエジプト遠征が考えられており、この作戦も帰国後まもないナポレオンにゆだねられた。彼は1798年5月にトゥーロンを出発、アレクサンドリアに上陸し、「ピラミッドの戦い」(1798)で勝利を収めたものの、フランス艦隊はアブキール湾でイギリス艦隊により壊滅された。フランス軍は一時シリアまで進出したが、このときナポレオンはエジプトに学術調査団を伴い、調査団は多くの学問的業績をあげて、エジプト学の基礎を築いた。彼は、ヨーロッパに第二対仏大同盟が結成されたのを知り、軍を残し99年10月フランスに帰国した。総裁政府はブルジョア勢力と保守勢力に挟まれて政治的安定を欠き、総裁シエイエスらは政体変革のため軍事力を必要とし、同年11月9日、ナポレオンと結託して議会にクーデターをかけた。この日は革命暦のブリュメール18日であり、ここにフランス革命期は終結したのである。[井上幸治]

第一執政から皇帝へ

1799年の憲法制定の段階からナポレオンは政治の指導権を握り、革命の社会的成果を保証するブルジョア的社会の安定を守るために強力な政府を志向している。その意味で彼は革命の収拾者たろうとし、そこで軍事的独裁体制を樹立する。それがまたフランス社会の政治的課題でもあった。立法機関は四院に分割され、第一執政の行政権が強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化した。しかしあくまで革命の創出した市民社会の原理を維持するために、1800年から民法典編纂(へんさん)を始め、04年にこれを発布した。すなわちナポレオン法典である。一方、ナポレオンにとって戦争は政治の延長であり、自己の権力維持が戦勝と名誉にかかることを自覚していた。1800年オーストリア軍に対して第二イタリア戦争を起こし、マレンゴの戦勝によってリュネビル条約を結び、ローマ教皇と宗教協約を成立させたが、マレンゴの一戦は国内にくすぶる反ナポレオン運動を制圧した。02年、イギリスとアミアン条約を結び、終身執政となり、スイス、ドイツ諸侯に支配の手を伸ばし、国内では王党派を弾圧し、04年5月、皇帝に推戴され、イタリア王を兼ね、同年12月2日、ノートルダムで戴冠式を行った。第一帝政の開始である。[井上幸治]

ヨーロッパ征服

大陸諸国は、革命の影響、フランスの経済進出を防止するために、ナポレオンと戦わなければならなかった。しかしその軍隊はなお封建的に編成され、革命の創出した近代的な大国民軍に対抗できなかった。イギリスは、大陸市場を自国の国民産業のために確保する点で、ヨーロッパ諸国と対仏同盟を結ぶというのがナポレオン帝政期の置かれた国際関係である。アミアン条約がイギリスによって破られ、1805年第三対仏大同盟が成立すると、ナポレオンは対英戦略としてイギリス本土上陸作戦を計画、ブーローニュを中心に「大陸軍」を結集した。しかし、オーストリア軍が動き出したためウルムの会戦でこれを破ったものの、トラファルガー沖でフランス艦隊はイギリスのネルソンに破られ、かくてナポレオンの上陸作戦は放棄された。一方、ロシアおよびオーストリア皇帝の両軍は合流しようとしていたので、ナポレオンは快進撃を続けてウィーンを占領し、同年12月アウステルリッツのいわゆる「三帝会戦」で会心の勝利を収めた。また、ドイツに対しても高圧政策を続け、06年には16の領邦をライン同盟に結成して、長い歴史をもつ神聖ローマ帝国を解体した。この措置により、プロイセンはフランスに攻撃的となり、第四対仏大同盟のきっかけをつくった。ナポレオンは幾たびか同盟軍を破り、同年10月下旬にはベルリンに入城した。さらにロシア軍を追ってポーランドに入り、のちにワルシャワ大公国を設立し、07年ロシアとティルジット条約を結んだ。
 1806年11月、ナポレオンは大陸封鎖を号令するベルリン勅令を発した。それは、イギリスの産業製品、植民地物産を輸入する大陸市場を閉鎖する目的で発布されたもので、いわば対英戦略の最後の手段であった。以後彼の軍事的、政治的課題はこの大陸体制を維持することにあるが、大陸封鎖は本来イギリスを起点とする北から南への経済流通を、フランス帝国から東への流れに変えようとするもので、大陸の農業国にしても工業地帯にしてもフランスの犠牲となるために、初めから矛盾をもっていた。封鎖政策を破ったポルトガルに対する遠征は、スペイン占領、ついでスペイン独立戦争(半島戦争、1808~14)に発展し、09年第五対仏大同盟に対してはオーストリアに遠征し、幾たびかの会戦ののち講和した。この間ナポレオンの身辺をみると、世襲帝制を志向してジョゼフィーヌと離婚し(1809)、10年オーストリア皇帝フランツ1世の娘マリ・ルイーズと結婚した。[井上幸治]

没落

1806年から10年にかけて、この間フランス帝国は全盛期を迎え、国内的には経済成長を続け、本来88の県の数も100を超え、ライン川左岸からイタリア北部までを覆うに至り、130県に達した。ナポレオンも40歳前後になると、容貌(ようぼう)は太って鉛色になり、身体には脂肪がつき、青年期の張り詰めた緊張と精悍(せいかん)さを失った。宮廷は旧制度の華やかさを帯び、貴族制も復活し、身辺を追従者が取り巻いた。彼は、征服地には家族や血縁関係のある部将を元首につけ、いわゆる家族体制をつくりあげた。残るものはフランスの同盟国であったが、その一つロシアは1810年末から反仏態度をとり、ナポレオンは国内経済の不況から出兵を延ばしていたが、12年6月、ロシア遠征に出発した。同盟国軍を合して50万を超える軍隊は途中で戦いつつ、9月モスクワに達した。ナポレオンはロシアの焦土作戦に対してなすことなく、10月退却を開始し、遠征は惨たる結果に終わった。13年、スペイン、ロシア、とくにプロイセンにおいてナポレオン独裁に対する民族意識が目覚め、国内改革に取り組むことになり、第六対仏大同盟が民族解放のために結成された。ドイツは、ライプツィヒにおける解放戦争に勝利を収め、14年1月、同盟軍はフランスに侵入し、パリも開城して、4月ついにナポレオンは退位、エルバ島に流された。そのあとブルボン朝のルイ18世の王政復古が行われたが、革命によって得たものを失うことを恐れるブルジョア、農民は、15年3月、エルバから脱出、帰国したナポレオンを歓迎した。しかし、ウィーン会議中の列国はこれに対して出兵し、同年6月、ワーテルローの戦いでナポレオンは敗れ(百日天下)、イギリス艦により南大西洋上のセント・ヘレナ島に流された。随行者数名は彼の口述によって多くの覚書、日記をつくり、21年5月5日ナポレオンは死去したが、その残影は長くフランス社会に生き続けた。[井上幸治]
『井上幸治著『ナポレオン』(岩波新書) ▽アンリ・カルヴェ著、井上幸治訳『ナポレオン』(白水社・文庫クセジュ) ▽ジャン・リュカ・デュブルトン他著、日高達太郎訳『世界伝記双書4 ナポレオン』(1983・小学館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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