コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ナポレオン[1世] ナポレオン

2件 の用語解説(ナポレオン[1世]の意味・用語解説を検索)

百科事典マイペディアの解説

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ナポレオン[1世]【Napoléon I】

1769‐1821
フランス第一帝政の皇帝。在位1804‐14。本名はナポレオンボナパルトN.Bonaparteコルシカアジャクシオの小貴族シャルル・ボナパルトとレティシアの次男として1769年8月15日に生まれた。フランス本土のブリエンヌ幼年学校,パリ兵学校で学び,85年砲兵少尉として地方都市に赴任したが,革命までは読書にすごし,たびたび帰郷していた。革命派に属しコルシカでも独立派のパーオリと対立し,一家はフランスに移住した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

世界大百科事典内のナポレオン[1世]の言及

【アンバリッド】より

…外部における2段のオーダー,タンブール(円胴)の位階的な構成はフランス古典主義建築のひとつの模範とされた。1840年この教会地下にナポレオンが葬られた。かつての廃兵院は現在,軍事博物館となっている。…

【エルバ[島]】より

…エトルリア人,次いでローマ人が征服したこの島は,中世にはピサ,ジェノバに相次いで領有され,さらにスペイン,トスカナ大公国,ナポリ王国等,周辺の強国が支配を争った。1802年にフランス領となり,14年フランス皇帝を退位したナポレオンはこの島を領地として与えられたが,翌年脱出してフランスに戻り,百日天下を実現した。15年ウィーン体制でトスカナ大公国の領有に帰し,60年イタリア王国に統合された。…

【言論統制】より

…しかし市民革命に対する反革命が行われ,あるいは貴族・地主ら保守階級が優勢だった国ではなお強い言論統制が続いた。フランスでは大革命の反逆児ナポレオンの言論統制はことに激しく,1800年にまず政論紙を13に制限し,新しい新聞の発行を禁止し,皇帝となった04年には共和派の新聞《ジュルナル・デ・デバ》に特別事前検閲を科し,題号を《ジュルナル・ド・ランピール(帝国新聞)》と変更させ,11年にはこれを国有にし,同時に地方新聞に1県1紙の新聞統合を行った。フランスの言論の自由はパリ・コミューンを経て第三共和政成立後,81年〈新聞の自由に関する法律〉が公布されてはじめて実現した。…

【コルビザール・デ・マレ】より

…シャンパーニュのドリクールに生まれる。パリのオテル・デューで医学を学び,シャリテ病院医員を経てコレージュ・ド・フランスの内科学教授となり,1807年ナポレオン1世の侍医になる。J.L.アウエンブルッガーが発明した打診法(1761)を再発見し,それを仏訳(1808)するとともに,補足改良して胸部疾患の診断に用いた。…

【サン・マルコ広場】より

…広場の歴史は最初期のパラッツォ・ドゥカーレと聖堂が創建された9世紀にさかのぼるが,現状に近い形をとったのは運河を埋め立てて拡張,整備が行われた12世紀中ごろである。12~15世紀にかけてパラッツォ・ドゥカーレの改修,再建を含む広場の整備が進み,ルネサンス時代にはコドゥッチMauro Coducciが旧行政館横に時計塔を,ベネチアの公共建築行政主任を務めたJ.サンソビーノがパラッツォ・ドゥカーレに向かいあうサン・マルコ図書館と鐘楼下の柱廊(ロジェッタ)を,スカモッツィが新行政館を建設し,19世紀初頭にナポレオンが改修したピアッツァ西辺(〈ナポレオンの翼〉)を除いてほぼ現状の姿が整った。広場の結節点に立つ鐘楼(高さ99m。…

【ジョゼフィーヌ】より

…ナポレオン1世の最初の妻。本名Marie‐Josèphe Rose Tascher de La Pagerie。…

【スイス】より


[フランス革命の影響と連邦国家体制への移行]
 フランス革命の平等理念はスイスにも影響を与え,スイス革命がおきた。この革命運動をナポレオンは軍事的に援助し,1798年に〈ヘルベティア共和国〉の樹立を促した。フランスの完全な中央集権国家体制をまねたこの体制は,スイスの伝統的な地域自立主義に合わず,直ちに内乱状況に陥り,崩壊した。…

【スペイン独立戦争】より

…ナポレオンの侵略に反対するスペインの戦争(1808‐14)。フランス軍が1808年3月マドリードに接近し,無能なスペイン王カルロス4世と王妃マリア・ルイサおよび大臣のM.ゴドイの政治に対する国内の不満が,3月17日のアランフエス暴動に引き続いて5月2日のマドリード民衆の蜂起を生んだ。…

【スミレ】より

… 春の花のほかに,スミレにはつつましいかれんな少女のイメージが強い。ナポレオン1世の最初の夫人ジョゼフィーヌもスミレを愛した。フランス革命で貴族の夫とともに獄につながれた彼女に釈放の知らせがきたのは,獄卒の娘がとどけたスミレの花束の後だった。…

【セント・ヘレナ[島]】より

…また帆船時代には寄航地として栄えたが,スエズ運河開通後は重要性を失った。1815年にナポレオンが流刑され,6年後にこの地で没したことは有名。34年に王室の直轄植民地となり,1922年にアセンション島,38年にトリスタン・ダ・クーニャ島,ゴフ島などを付属領域として加えた。…

【第一帝政】より

…1804‐14年にフランスのナポレオン1世が支配した帝国。国際的に承認されなかったため百日天下(1815年3~6月)の時期はここに加えない習慣である。…

【大陸封鎖】より

…ナポレオン1世が,敵国イギリスの国力に打撃を与えるために,みずからの支配するヨーロッパ大陸諸国とイギリス(およびその植民地)との間の交通や通商を全面的に禁止し,イギリスに対してヨーロッパ大陸の市場を閉鎖しようとした政策をいう。この大陸封鎖は,1806年のベルリン勅令と翌年のミラノ勅令によって命令されたものであるが,それに関連する諸政策を含めた総称として,大陸制度continental systemと呼ばれる場合もある。…

【ダビッド】より

…フランス新古典主義の代表的画家。フランス革命初期の数年間は熱烈な革命派として,ナポレオン台頭後はその主席画家として,革命およびナポレオン時代の諸事件の視覚的な記録を後世に残した。パリに生まれ,1766年,絵画における新古典主義様式の創始者の一人ビアンJ.Vienの弟子となる。…

【ナポリ王国】より

…穀物独占の廃止,関税の引下げ,ギルド規制の制限など自由主義的な経済政策が試みられたが,結局大貴族の特権を奪うことはできず,経済を立て直すことは不可能だった。フランス革命に際して,ナポリのブルボン家は革命政府に反対する立場をとりイギリスに呼応して参戦したが,ナポレオンのイタリア侵入によってシチリアへ亡命した(1799)。こうして成立したナポリ共和国(パルテノペーア共和国)はわずか6ヵ月しか続かず,ブルボン王家の復帰をみた。…

【ナポレオン戦争】より

…フランスの総裁政府(1795‐99)より第一帝政(1804‐14)の時期にかけて,ナポレオン1世が指揮した戦争。総裁政府のもとにあって指揮した第1イタリア遠征,エジプト遠征では単に総司令官であったが,第一執政(1799‐1804)就任後はナポレオンが政治と戦争の意志決定者であった。…

【贋金(偽金)】より

…1789年フランスで革命政府が発行した紙幣アッシニャは,反対派が多量の贋札をばらまいたこともあって,わずか7年後には廃棄されている。また1812年にはナポレオン1世がパリに設置した印刷機を使って贋札を作り,ロシア遠征用の軍需品を購入したという。アメリカでも開国以来贋金が横行し,贋造防止のために開発された細紋彫刻機械などを活用したにもかかわらず,1930年代には100万ドルに近い贋札が市場に現れる事態となった。…

【フランス革命】より

…18世紀末にフランスで生じた革命。1787年に王権に対する貴族の反抗で口火が切られ,89年から全社会層を巻き込む本格的な革命になり,絶対王政を倒して,立憲王政から共和政へとしだいに急進化したが,94年のテルミドールの反動ののち退潮に向かい,99年にナポレオンの政権掌握をもって終わる。単に政治上の変革であるにとどまらず,前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命であるので,世界史上,ブルジョア革命(市民革命)の代表的なものとされる。…

【ブリュメール18日】より

…1799年11月9日,フランスでナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒して権力を掌握したクーデタをいう。その日が,当時行われていた共和暦では共和第8年ブリュメール18日に当たるので,この名がある。…

【ボナパルト家】より

…フランス皇帝ナポレオンの出た家系。この家系は,16世紀にイタリアのフィレンツェからコルシカ島のアジャクシオの町に移住し,代々役人や聖職者を出していた。…

【モスクワ遠征】より

…ナポレオンによる1812年のロシアへの遠征。ロシアでは一般に祖国戦争Otechestvennaya voinaという。…

【ラス・カーズ】より

…南フランスのルベル市の小貴族の出身で,海軍将校となったが,1791年フランス革命を避けて亡命,92年にはコンデ公のもとでキブロン上陸作戦に参加し,イギリスに逃れた。1802年帰国して参事院請願委員をへてナポレオン皇帝侍従となり,男爵となった。15年ナポレオンが没落すると,その子を伴いセント・ヘレナ島に随行し,秘書としてナポレオンの口述を筆記した。…

【ローマ理念】より

… 一方,中世ラテン世界においては,普遍的秩序の象徴としてのローマ理念を担ったのはむしろローマ教皇であったが,フランクへのローマ帝国の委譲とみなされたカール大帝(シャルルマーニュ)の帝国や神聖ローマ帝国の建国もまた,実態はともあれ普遍的支配への主張であった。近代においてはローマ教皇から帝冠を受け,ルイ16世ではなくカール大帝の後継者を自認したナポレオン1世に,普遍的ローマ理念の影響が認められよう。他方,中世後期のイタリアでは,ローマ市住民を中心に民族主義的ローマ理念が生まれ,14世紀のコラ・ディ・リエンツォにおいて一つの頂点に達する。…

【若きウェルターの悩み】より

…それはセルバンテスの《ドン・キホーテ》,シェークスピアの《ハムレット》とならぶゲーテの偉大な文学的創造であり,生涯を通じて彼は〈ウェルターの詩人〉として有名であった。1808年10月2日,ゲーテがナポレオンにはじめて謁見したときも,《若きウェルターの悩み》が話題になり,この小説を7回読んだというナポレオンは,初版のある個所でウェルターの自殺が愛以外のモティーフで動機づけられているのは不自然だと指摘したといわれる。しかし《若きウェルターの悩み》には恋愛心理のほかに宗教的自然観および社会批判の要素があり,これら二つの要素は恋愛心理の要素に劣らず重要である。…

※「ナポレオン[1世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ナポレオン[1世]の関連キーワード第一帝政第二帝政タレーラン統領政府マルセイユ執政第一共和制第二共和制仏蘭西フランス窓

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone