ナポレオン(英語表記)Napoléon

デジタル大辞泉 「ナポレオン」の意味・読み・例文・類語

ナポレオン(Napoléon)

フランス皇帝。
(~ Bonaparte)(1世)[1769~1821]在位1804~1814、1815。コルシカ島の生まれ。砲兵将校としてフランス革命に参加。イタリア派遣軍司令官として勝利を得、1799年のクーデターで執政、1804年皇帝となる。ヨーロッパを征服したが、対英封鎖に失敗、ロシア遠征にも失敗。1814年退位してエルバ島に流される。翌年帰国し、皇帝に復したがワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に流されて没した。ナポレオン法典の編纂、教育制度の設立など、近代化に功績を残した。
[補説]「奈破崙」とも書く。
(Charles Louis ~ Bonaparte)(3世)[1808~1873]在位1852~1870。おい。1848年に大統領。1851年クーデターで議会を解散。翌年、憲法を制定して皇帝となり第二帝政を開く。1870年普仏戦争に敗れて退位、英国に亡命。ルイ=ナポレオン。
フランス映画ガンスの監督・脚本による白黒の無声映画。の半生を描く。3台のカメラで撮影した映像を三つのスクリーンで上映する「トリプルエクラン」という手法で撮影された。1927年に撮影済み部分のみで初公開された後、オリジナルフィルムの多くが散逸。その後ケビン=ブラウンローにより収集・復元されたフィルムの配給権をフランシス=コッポラ監督が買い取り、フルオーケストラの音楽をつけ、1981年に公開した。

ブランデーを貯蔵年数で等級に分ける場合の、最高級の称。
トランプゲームの一。中の一人がナポレオンとなって副官を指名し、他の者は連合軍となって対抗し合い、取り札の多いほうが勝ちとなる。
サクランボウの一品種。
ナポレオン1世が鋳造させた20フラン金貨。

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精選版 日本国語大辞典 「ナポレオン」の意味・読み・例文・類語

ナポレオン

  1. ( Napoléon )
  2. [ 1 ]
    1. [ 一 ] ( Napoléon I, Napoléon Bonaparte ━ボナパルト ) 一世。フランス皇帝(在位一八〇四‐一五)。コルシカ生まれ。砲兵将校としてフランス革命に参加後頭角をあらわし、一七九九年第一執政に就任、軍事独裁の道を開く。新憲法を制定し、ナポレオン法典の編修、諸制度の改革を行ない、さらに一八〇四年帝位につき第一帝政を樹立した。ついでヨーロッパを征服したが、対英大陸封鎖および一二年のロシア遠征に失敗し一四年退位。エルバ島に流された。一五年帰国、いわゆる「百日天下」を実現したが、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に流されて没した。(一七六九‐一八二一
    2. [ 二 ] ( Napoléon III , Charles Louis Napoléon Bonaparte シャルル=ルイ━ボナパルト ) 三世。フランス皇帝(在位一八五二‐七〇)。ナポレオン一世の甥。第一帝政崩壊後亡命、二月革命後帰国、大統領に当選。五二年帝位につき第二帝政を樹立。クリミア戦争、イタリア出兵など対外政策を推進。メキシコ遠征に失敗し、七〇年、普仏戦争に敗れて退位、イギリスに亡命して没した。(一八〇八‐七三
  3. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. トランプゲームの一種。ナポレオン軍と連合軍が、とった絵札の数を競うもの。前者が宣言した枚数以上とれば勝ち、とれない時は後者の勝ちとなる。
      1. [初出の実例]「これは『ナポレオン(といふトランプの遊び方の名)の始まり』といふ意味で」(出典:春興倫敦子(1935)〈福原麟太郎〉クリスマス前後)
    2. ナポレオン一世が鋳造させた二〇フラン金貨。
    3. ナポレオンぼう(━帽)」の略。
      1. [初出の実例]「夏帽子は『ナポレオン』」(出典:東京風俗志(1899‐1902)〈平出鏗二郎〉中)
    4. ブランデーの、貯蔵年数によって付けた等級の、最高級のものをいう。
      1. [初出の実例]「コニャックのナポレオンにかぎらず」(出典:白頭吟(1957)〈石川淳〉二)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナポレオン」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン(1世)
なぽれおん
Napoléon Ⅰ
(1769―1821)

フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、15)。本名ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparte。

[井上幸治]

生い立ち

コルシカ島は14世紀以来、イタリアのジェノバ領であったが、18世紀初期から住民は独立運動を開始し、同世紀中ごろから運動はパオリPascal Paoli(1725―1807)に指導された。ボナパルト家(イタリア語ブオナパルテBuonaparte)は16世紀コルシカに移住し、西部のアジャクシオ(アヤッチオ)の小貴族地主となり、ナポレオンの父シャルル・ボナパルトCharles Bonaparte(1746―85)はレティツィア・ラモリーノと結婚し、パオリの民族独立運動に参加していた。しかし、ジェノバがコルシカをフランスに譲渡したため、島民はフランス軍に抵抗し、1768年には敗北した。その翌年8月15日、シャルルの次男としてナポレオンが生まれた。

 父はフランスに帰順したため、1779年、国王の給費を受けてナポレオンを本土のブリエンヌ兵学校に送り、84年にはパリ士官学校に進学させた。このときナポレオンの成績は137人中42番である。85年砲兵少尉としてバランスに赴任し、オソンに転勤した。学生時代に彼のコルシカ訛(なま)りはからかわれ、家族、郷土に対する狭い意識が強く、ときに野性的な闘志をむき出しにしたが、陰気で内向的な側面が強かった。任官してからも当時の思想書や歴史、地理の読書を唯一の楽しみにした。貴族社会の生活意識に触れず、読書のなかで可能な未来を描いた点に当時の常識を超えた人間的基盤が形成された。85年父のシャルルが死亡し、ナポレオンは家族への配慮と愛郷心から絶えず帰郷していた。

[井上幸治]

フランス革命

1789年に革命が起こると、ナポレオンはコルシカで国民兵として活躍したが、独立派のパオリと対立し、93年一家をあげてマルセイユに移住し、ここで初めて狭い愛郷心を脱して、「革命フランス」に運命を託した。ジャコバン派の主張を支持し、『ボケールの夜食』というパンフレットを発表した。列強が革命に攻勢をかけると、イギリス・スペイン艦隊の閉鎖するトゥーロン港を砲撃をもって解放し、ロベスピエールの推薦で旅団長となった。しかし、ロベスピエール派の没落したいわゆる「テルミドールの反動」(1794)後、ロベスピエール派として一時投獄され、それから失意の日を送るうち、95年、新憲法制定を機にパリ王党派のバンデミエールの反乱が起こった。休職中のナポレオンは、このときバラスPaul François Jean Nicolas, vicomte de Barras(1755―1829)に抜擢(ばってき)されて戦闘を指揮し、2日間でこれを鎮定した。96年3月、バラスの愛人だったジョゼフィーヌと結婚し、27歳の彼はイタリア遠征軍司令官に任命された。この軍隊はもともとイタリアにおけるオーストリア軍牽制(けんせい)の目的で編成されたもので、装備も規律も悪かったが、1年間の連戦の間に、モンテノッテ、ミレシモ、モンドビ、ロディ、アルコレ、リボリなどで勝利を収め、97年カンポ・フォルミオ条約を結び、チザルピーナ共和国を創設して、フランスの自然国境外の地を確保した。晩年に彼の語るところによれば、このイタリア戦争こそ軍事的・政治的天分を自覚させ、果てしない野心を抱かせたのである。コルシカという環境は、現実に妥協しない割り切った行動を育て、彼の的確な判断は可能と不可能を見通し、機会をけっして逃さなかった。シャトーブリアンは彼を「行動の詩人」とよび、ゲーテは戦いの「半神」とよんだ。

 ナポレオンの出現によって、それまで防衛的であった革命戦争は侵略戦争に変質しようとしていた。当時、総裁政府部内にも対英戦略としてインド航路を遮断するためにエジプト遠征が考えられており、この作戦も帰国後まもないナポレオンにゆだねられた。彼は1798年5月にトゥーロンを出発、アレクサンドリアに上陸し、「ピラミッドの戦い」(1798)で勝利を収めたものの、フランス艦隊はアブキール湾でイギリス艦隊により壊滅された。フランス軍は一時シリアまで進出したが、このときナポレオンはエジプトに学術調査団を伴い、調査団は多くの学問的業績をあげて、エジプト学の基礎を築いた。彼は、ヨーロッパに第二対仏大同盟が結成されたのを知り、軍を残し99年10月フランスに帰国した。総裁政府はブルジョア勢力と保守勢力に挟まれて政治的安定を欠き、総裁シエイエスらは政体変革のため軍事力を必要とし、同年11月9日、ナポレオンと結託して議会にクーデターをかけた。この日は革命暦のブリュメール18日であり、ここにフランス革命期は終結したのである。

[井上幸治]

第一執政から皇帝へ

1799年の憲法制定の段階からナポレオンは政治の指導権を握り、革命の社会的成果を保証するブルジョア的社会の安定を守るために強力な政府を志向している。その意味で彼は革命の収拾者たろうとし、そこで軍事的独裁体制を樹立する。それがまたフランス社会の政治的課題でもあった。立法機関は四院に分割され、第一執政の行政権が強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化した。しかしあくまで革命の創出した市民社会の原理を維持するために、1800年から民法典編纂(へんさん)を始め、04年にこれを発布した。すなわちナポレオン法典である。一方、ナポレオンにとって戦争は政治の延長であり、自己の権力維持が戦勝と名誉にかかることを自覚していた。1800年オーストリア軍に対して第二イタリア戦争を起こし、マレンゴの戦勝によってリュネビル条約を結び、ローマ教皇と宗教協約を成立させたが、マレンゴの一戦は国内にくすぶる反ナポレオン運動を制圧した。02年、イギリスとアミアン条約を結び、終身執政となり、スイス、ドイツ諸侯に支配の手を伸ばし、国内では王党派を弾圧し、04年5月、皇帝に推戴され、イタリア王を兼ね、同年12月2日、ノートルダムで戴冠式を行った。第一帝政の開始である。

[井上幸治]

ヨーロッパ征服

大陸諸国は、革命の影響、フランスの経済進出を防止するために、ナポレオンと戦わなければならなかった。しかしその軍隊はなお封建的に編成され、革命の創出した近代的な大国民軍に対抗できなかった。イギリスは、大陸市場を自国の国民産業のために確保する点で、ヨーロッパ諸国と対仏同盟を結ぶというのがナポレオン帝政期の置かれた国際関係である。アミアン条約がイギリスによって破られ、1805年第三対仏大同盟が成立すると、ナポレオンは対英戦略としてイギリス本土上陸作戦を計画、ブーローニュを中心に「大陸軍」を結集した。しかし、オーストリア軍が動き出したためウルムの会戦でこれを破ったものの、トラファルガー沖でフランス艦隊はイギリスのネルソンに破られ、かくてナポレオンの上陸作戦は放棄された。一方、ロシアおよびオーストリア皇帝の両軍は合流しようとしていたので、ナポレオンは快進撃を続けてウィーンを占領し、同年12月アウステルリッツのいわゆる「三帝会戦」で会心の勝利を収めた。また、ドイツに対しても高圧政策を続け、06年には16の領邦をライン同盟に結成して、長い歴史をもつ神聖ローマ帝国を解体した。この措置により、プロイセンはフランスに攻撃的となり、第四対仏大同盟のきっかけをつくった。ナポレオンは幾たびか同盟軍を破り、同年10月下旬にはベルリンに入城した。さらにロシア軍を追ってポーランドに入り、のちにワルシャワ大公国を設立し、07年ロシアとティルジット条約を結んだ。

 1806年11月、ナポレオンは大陸封鎖を号令するベルリン勅令を発した。それは、イギリスの産業製品、植民地物産を輸入する大陸市場を閉鎖する目的で発布されたもので、いわば対英戦略の最後の手段であった。以後彼の軍事的、政治的課題はこの大陸体制を維持することにあるが、大陸封鎖は本来イギリスを起点とする北から南への経済流通を、フランス帝国から東への流れに変えようとするもので、大陸の農業国にしても工業地帯にしてもフランスの犠牲となるために、初めから矛盾をもっていた。封鎖政策を破ったポルトガルに対する遠征は、スペイン占領、ついでスペイン独立戦争(半島戦争、1808~14)に発展し、09年第五対仏大同盟に対してはオーストリアに遠征し、幾たびかの会戦ののち講和した。この間ナポレオンの身辺をみると、世襲帝制を志向してジョゼフィーヌと離婚し(1809)、10年オーストリア皇帝フランツ1世の娘マリ・ルイーズと結婚した。

[井上幸治]

没落

1806年から10年にかけて、この間フランス帝国は全盛期を迎え、国内的には経済成長を続け、本来88の県の数も100を超え、ライン川左岸からイタリア北部までを覆うに至り、130県に達した。ナポレオンも40歳前後になると、容貌(ようぼう)は太って鉛色になり、身体には脂肪がつき、青年期の張り詰めた緊張と精悍(せいかん)さを失った。宮廷は旧制度の華やかさを帯び、貴族制も復活し、身辺を追従者が取り巻いた。彼は、征服地には家族や血縁関係のある部将を元首につけ、いわゆる家族体制をつくりあげた。残るものはフランスの同盟国であったが、その一つロシアは1810年末から反仏態度をとり、ナポレオンは国内経済の不況から出兵を延ばしていたが、12年6月、ロシア遠征に出発した。同盟国軍を合して50万を超える軍隊は途中で戦いつつ、9月モスクワに達した。ナポレオンはロシアの焦土作戦に対してなすことなく、10月退却を開始し、遠征は惨たる結果に終わった。13年、スペイン、ロシア、とくにプロイセンにおいてナポレオン独裁に対する民族意識が目覚め、国内改革に取り組むことになり、第六対仏大同盟が民族解放のために結成された。ドイツは、ライプツィヒにおける解放戦争に勝利を収め、14年1月、同盟軍はフランスに侵入し、パリも開城して、4月ついにナポレオンは退位、エルバ島に流された。そのあとブルボン朝のルイ18世の王政復古が行われたが、革命によって得たものを失うことを恐れるブルジョア、農民は、15年3月、エルバから脱出、帰国したナポレオンを歓迎した。しかし、ウィーン会議中の列国はこれに対して出兵し、同年6月、ワーテルローの戦いでナポレオンは敗れ(百日天下)、イギリス艦により南大西洋上のセント・ヘレナ島に流された。随行者数名は彼の口述によって多くの覚書、日記をつくり、21年5月5日ナポレオンは死去したが、その残影は長くフランス社会に生き続けた。

[井上幸治]

『井上幸治著『ナポレオン』(岩波新書)』『アンリ・カルヴェ著、井上幸治訳『ナポレオン』(白水社・文庫クセジュ)』『ジャン・リュカ・デュブルトン他著、日高達太郎訳『世界伝記双書4 ナポレオン』(1983・小学館)』


ナポレオン(3世)
なぽれおん
Napoléon Ⅲ (Charles Louis Napoléon Bonaparte)
(1808―1873)

フランス皇帝(在位1852~70)。ナポレオン1世の弟、オランダ王ルイ・ボナパルトの第3子として生まれ、ルイ・ナポレオンとよばれた。ナポレオン1世の没落後、少年にして外国での亡命生活を余儀なくされた。家庭教師ル・バの革命思想の影響もあって、1831年にイタリアでカルボナリ党の運動に加わった。32年にウィーンで亡命生活を送っていたナポレオン2世が結核で死去すると、ルイ・ナポレオンは事実上の帝位継承権者となった。そしてこの年、帝国の再興という野心を秘めて『政治の空想』を著した。ナポレオン伝説を背景にして、36年にストラスブールで私兵を従えて決起した。これはあっけなく失敗し、ブラジルへ追放された。そこからイギリスに逃れ、39年に『ナポレオンの諸理念』を発表し、年末にナポレオン1世の遺骸(いがい)がフランスに帰還する40年の8月、ブローニュで再度決起した。これも失敗し、無期懲役に処せられてアム城塞(じょうさい)に投獄された。獄中でサン・シモン主義を学び、44年に『貧困の絶滅』を著した。その2年後に石工を装って脱獄し、ロンドンに逃れた。

 1848年の二月革命は、年来の野心実現のきっかけとなった。8月の国民議会補欠選挙で選出され、注目を浴びながら政界に登場した。12月には大統領選挙があった。革命の恐怖におびえる秩序派や王党派は、国民に人気のあるルイ・ナポレオンを推し、圧勝した。しかしルイ・ナポレオンには、保守反動派の思惑を超えた野心があった。51年12月にクーデターを起こし、議会を解散し、反対勢力を弾圧したうえで、国民に信を問うた。翌年11月にふたたび国民投票に訴えて圧倒的多数の支持を得、ナポレオン3世として帝位につき、ここに帝国を再興した。その翌年スペインの貴族ウジェニー・ド・モンティホと結婚し、以後2人の館は華やかな社交の舞台となった。

 第二帝政は、権威帝政、自由帝政、議会帝政の3時期に分けられる。それは、批判を許さず服従のみを求める皇帝権力の独裁から、しだいに議会の権限の拡張、言論や集会・結社の自由の拡大を許していった過程であり、また政策の矛盾をかかえて自由主義的反対勢力に譲歩を重ねていった過程でもあった。第二帝政の一つの特色は、世界経済の飛躍的発展のなかで工業、金融、貿易、都市開発などの部門で著しい発展を享受した点にあった。そこに皇帝が大多数の国民の支持を得続けることができた主要な基礎があった。もう一つの特色は、軍事侵略を主とした対外政策にあった。クリミア戦争に加わり、イタリア遠征を行って、ヨーロッパの国際秩序に挑戦した。またアフリカ、東南アジアで植民地化を推進し、さらにメキシコまでも軍隊を送って支配領域の拡大を図った。しかしこのような対外膨張政策は、富国強兵策を推進していたプロイセンとの軍事的対決へと帰結した。1870年7月にプロイセン・フランス戦争が始まった。そして9月セダン(スダン)の戦いに敗れ、捕虜となってウィルヘルムスヘーエWilhelmshöheに送られた。71年1月の休戦条約のあと、すでにウジェニーが逃れていたイギリスに渡り、2年後の73年1月9日、再興を夢みながらケント州のチズルハーストで持病の膀胱(ぼうこう)結石で死去した。

[本池 立]


ナポレオン(映画)
なぽれおん
Napoléon

フランス映画。1927年作品。『鉄路の白薔薇(ばら)』(1927)で知られるフランスのアベル・ガンス監督が、D・W・グリフィスの『国民の創生』(1915)に影響を受けてつくった歴史大作。当初はナポレオンの全生涯を描く全6部の映画が企画されたが、資金不足もあってイタリア征服までの第1部のみ映画化された。サイレント末期のモンタージュ技法を駆使した迫力ある画面構成で、最後の部分には3面スクリーンを使った。主演はアルベール・デュードネAlbert Dieudonné(1889―1976)。1927年にパリのオペラ座で、アルチュール・オネゲルの音楽により5600メートル(4時間10分)のバージョンが初公開された。その後1935年の音声バージョンなど、監督の手で複数のバージョンがつくられた。1980年にイギリスの映画史家ケヴィン・ブラウンロウKevin Brownlow(1938― )が5時間近いバージョンを復元し、フランシス・F・コッポラが再編集した後、父カーマイン・コッポラCarmine Coppola(1910―1991)作曲による音楽を生演奏でつけてニューヨークほか各地で上映した。これは日本でも1982年(昭和57)に上映された。

[古賀 太]


ナポレオン(ブランデー)
なぽれおん
Napoleon

ブランデーの貯蔵年数の古いものにつける表示記号。フランス皇帝ナポレオン1世に待望の男子が生まれた1811年はブドウの豊作で、優良なワイン、ブランデーが得られたため、その名が高級ブランデーの呼称となったという。現在コニャックの品質表示にこの称があり、法律的には5年以上の貯蔵を義務づけているが、商習慣では熟成と品質の目安として30~40年間貯蔵のブランデーを一部混和した品質優良なものという意味で用いている。原産地呼称法では、アルメニャックにもこの呼称がある。ほかのブランデーにもナポレオンの表示があるが、これは国が保証するものではなく、個々の企業が製品の目安としているものである。

[原 昌道]


ナポレオン(2世)
なぽれおん
Napoléon Ⅱ
(1811―1832)

ナポレオン1世とマリ・ルイーズとの子。誕生以来、ローマ王とよばれた。1815年6月の父の退位にあたり、ナポレオン2世を称したが、即位は実現しなかった。母の実家、オーストリアの宮廷で育てられ、18年ライヒスタット公となる。聡明(そうめい)で感受性に富み、周囲より敬愛されたが、結核のため早世。遺体はウィーンのハプスブルク家墓所にあったが、1940年12月、ヒトラーによって、パリにあるナポレオン1世の墓所に移された。

[山上正太郎]

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百科事典マイペディア 「ナポレオン」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン[1世]【ナポレオン】

フランス皇帝。コルシカ島のイタリア系地主ボナパルトBonaparte家出身。砲兵士官となったが,山岳派支持の小冊子を発表して逮捕された。1795年バンデミエールの反乱を鎮圧して再起し,総裁政府によりイタリア遠征軍司令官に任命されて手腕を発揮。1799年エジプト遠征から帰国後,ブリュメール18日のクーデタにより総裁政府を倒し自ら第一執政となり軍事独裁への端緒を開いた。その後イタリア,オーストリアを征服,王党派や共和派を弾圧して1804年皇帝となった(第一帝政)。この間ナポレオン法典の制定,教育制度の再建,宗教協約(コンコルダート)の締結などを行った。さらにナポレオン戦争を遂行して全ヨーロッパの制覇を図り,大陸封鎖の勅命を発して英国に対抗。しかしスペイン侵略(スペイン独立戦争)とモスクワ遠征に失敗,解放戦争に敗れて1814年退位,エルバ島に流された。翌年再起したがワーテルローの戦に敗れ(百日天下),セント・ヘレナ島に流されて没した。
→関連項目アウステルリッツ会戦アンバリッドイデオロギーイデオロジストウードンエトアール凱旋門エルバ[島]カール[大公]カンポ・フォルミオの和約グロコルシカ[島]シエイエス執政政府ジョゼフィーヌシンプロン[峠]スタール夫人セント・ヘレナ[島]1812年序曲第一共和政対仏大同盟ダビッドチザルピノティルジット条約トゥサン・ルベルチュールトラファルガーの海戦ナポレオン[3世]フラン(通貨)フランスフランス革命フランス銀行プレスブルクの和約ボナパルティズムボナパルト[家]マリー・ルイズミラノ勅令ライン同盟

ナポレオン[3世]【ナポレオン】

フランス皇帝。ナポレオン1世の甥。ルイ・ナポレオンと称し,フルネームはシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト。1848年二月革命に際し亡命先から帰国して大統領に就任。1851年クーデタと人民投票により10年任期の大統領,1852年皇帝(第二帝政)となり,1860年までの専制支配時代に対外膨張と産業資本の利益擁護政策を推進した。その後メキシコ干渉(1861年−1867年)の失敗等により第二帝政は危機に瀕する。1871年普仏戦争に敗北して退位,英国に亡命して没。→ボナパルティズム
→関連項目カベニャックカルノーセダンの戦第二共和政バレスビアリッツの密約フランスボナパルトボナパルト[家]マクシミリアンメリメ

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改訂新版 世界大百科事典 「ナポレオン」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン
Napoléon

1927年製作のフランス映画。《戦争と平和》(1919),《鉄路の白薔薇》(1923)に次いでアベル・ガンス監督がサイレント映画史に残した傑作として知られ,〈映画的効果の百科事典〉〈サイレント映画に可能なことのすべてを陳列して見せた絢爛豪華な大展覧会〉(ケビン・ブラウンロー評)とまでいわれるように,すばやく,たたきこむように短いカットをつないでスピード感を出す〈フラッシュ・カッティング〉や分割画面,あるいは軽量カメラを馬の背や振子にくくりつけての撮影等々,文字どおりあらゆる映画的技法が〈光の交響楽〉をつくりあげている。さらに3台のカメラで撮影した映像を3面のスクリーンに映写する〈ポリビジョン〉(または〈トリプル・エクラン(三面スクリーン)〉)と命名された映写方式がこの映画のためにガンス自身によって考案され,あるときは一つのイメージが三つの画面にひろがり,またあるときは三つのスクリーンに別々のイメージが映し出され,ラストのイタリア出撃のシーンをはじめ,いくつかのシーンで用いられて圧倒的なスペクタクル効果を上げた。

 しかし,《ナポレオン》と同年にアメリカでは《ジャズ・シンガー》(1927)が公開され,それとともに映画はトーキー時代に突入し,大スクリーン方式への投資は顧みられず,そのため《ナポレオン》はほとんど完全な形で上映されることがなく(アメリカでは上映時間5時間のこの巨編が1時間20分に短縮され,スタンダード版に焼き直されて公開されただけであり,日本でも17.5ミリ版が公開されたにすぎなかった),興行的には惨敗した。ガンスは1934年にステレオ音響によるサウンド版《ナポレオン》を製作,44年,55年,71年にも新しいシーンや台詞や音響を付け加えた改変版を製作した。80年に,前出の映画史家・映画作家ケビン・ブラウンローKevin Brownlowがガンス自身の協力を得て,オリジナル版に近づけた4時間の版を復元,ラスト20分間の〈ポリビジョン〉方式による映写も含んだこの復元版が,フランシス・コッポラの配給でオーケストラの生演奏を伴った〈フィルム・イベント〉として81年から世界中で公開され,その真価があらためて評価された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナポレオン」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン
Napoleon

ナップ Napともいわれ,2~6人でプレーする,1人対残り全員の対抗戦のカードゲーム。配り手はジョーカーを除く 52枚のカードを左隣から順に1枚ずつ各人に5枚配る。配り手の左隣から順に各自1巡1組として何組取るかを宣言 (ビッド) する。ビッドしたくない場合はパスする。1度パスまたはビッドした人は2度ビッドできない。だれもビッドしなかったときは配り手が少くとも1組をビッドし,他の人は2組以上のビッドしかできない。5組のビッド,つまり全部取るというビッドを「ナップ」と呼ぶ。ビッドに勝った人が最初にカードを打出し,そのカードのマークが切り札になる。1巡して打出されたのと同じマークまたは切り札で,A,K,Q,J,10,9,…2の順で最も高いカードを出した人が勝ち,次の打出しをする。ビッドしただけの組数が取れたらビッドした人の勝ち,少なければ他の人の勝ちになる。勝ったらビッド分だけ他の人がマイナスになる。ナップをビッドして取れたら他の人はマイナス 10点になり,取れなかったら5点ずつ相手に払う。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

飲み物がわかる辞典 「ナポレオン」の解説

ナポレオン【Napoléon(フランス)】


ブランデーの熟成期間の長いものに表示する等級の一つ。統一の基準はなく、熟成期間は製造所ごとにことなる。コニャックではブレンドする原酒のうち最も若いものでも7年以上、アルマニャックでは6年以上のものと定められている。◇等級には熟成の浅い順に「VO」「VSO」「VSOP」「ナポレオン」「XO」がある。ナポレオンに待望の男子が誕生した1811年はぶどうの作柄がよく、この年のブランデーに製造元各社が「ナポレオン」と表示したことから、後に長期間の熟成を経たものをいうようになったと伝えられる。

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デジタル大辞泉プラス 「ナポレオン」の解説

ナポレオン〔映画:1927年〕

1927年公開のフランス映画。原題《Napoléon》。ナポレオン・ボナパルトの前半生を“トリプル・エクラン”と呼ばれる3台の映写機を用いた映像で描く超大作。監督:アベル・ガンス、出演:アルベール・デュードネ、ジナ・マネス、アレクサンドル・クービッキーほか。オリジナルは5時間超の無声映画だが、フランシス・フォード・コッポラ総指揮により約4時間のフルオーケストラ版として再編集されたものが、1981年に公開された。

ナポレオン〔果物〕

サクランボの品種のひとつ。ヨーロッパで古くから栽培されていた品種で、日本には明治時代にアメリカ経由で導入された。果実の大きさは7グラム前後、果皮は帯赤黄斑、果肉はクリーム色、肉質は硬めで加工にも向く。糖度は14%前後、果汁が豊富で甘みと酸味のバランスがよい。国内の主な産地は山形県、青森県、山梨県など。

ナポレオン〔映画:1954年〕

1954年製作のフランス映画。原題《Napoléon》。ナポレオン・ボナパルトの半生を描く歴史スペクタクル。監督:サッシャ・ギトリ、出演:ダニエル・ジェラン、レイモン・ペルグラン、ミシェル・モルガン、ダニエル・ダリューほか。

ナポレオン

2023年製作のアメリカ映画。原題《Napoleon》。監督:リドリー・スコット。出演:ホアキン・フェニックス、バネッサ・カービーほか。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナポレオン」の解説

ナポレオン

ナポレオン1世

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栄養・生化学辞典 「ナポレオン」の解説

ナポレオン

 貯蔵年数の長いブランデーにつける名称.

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世界大百科事典(旧版)内のナポレオンの言及

【サクランボ(桜坊)】より

…主産地は山形県で,日本のオウトウ栽培面積の60%以上を占めている。主要品種には日ノ出,ジャブレー,佐藤錦,高砂,ナポレオン(イラスト)などがある。自家不和合性ならびに他家不和合性があるので,結実確保のため交配和合性品種を受粉樹として混植する必要がある。…

【映画】より

…しかし,シネオラマもオムニ・マックスもラテーナ・マジカも,結局は1回性のイベントとして映画の進歩には直接寄与できぬままに終わっているのが実情である。またマルチスクリーン方式は,開発当初,単一スクリーンという従来の常識的観念から映画を解き放ち,多数スクリーンを動的に駆使することによって,もっとも複雑かつ高次の時間的空間的モンタージュが可能となる未来の映画形式を予告するものとして大きな感銘を与え,劇場用商業映画にもすぐ手法的にとり入れられたが,それは結局単一のスクリーンを2面,3面に分割するという方式でしかなく,その意味でのマルチスクリーンは,すでにサイレント時代から,アベル・ガンスの《ナポレオン》(1927)などで試みられていたものである(ちなみに《ナポレオン》は,いわゆる〈トリプル・エクラン〉すなわち3面のスクリーンを並べて3台の映写機で映写することによって,画面を拡大し映像を多重化するという最初の試みに成功した映画でもあった)。
〔映画産業のしくみ〕

[映画企業]
 映画産業,あるいは映画事業と同義だが,日本では〈企業〉がもっともよく使われ,〈企業内監督〉(映画会社と契約している映画監督)というようないい方がある。…

【ガンス】より

…パリに生まれパリで死去。《戦争と平和》(1919),《鉄路の白薔薇》(1923),《ナポレオン》(1927)の3巨編でサイレント映画の歴史に不滅の足跡を残し,〈映画におけるビクトル・ユゴー〉とも〈ヨーロッパのD.W.グリフィス〉とも呼ばれた。《戦争と平和》《鉄路の白薔薇》では32コマ(サイレント映写で2秒)から1コマまでの極端に短く刻んだカットを編集してせん光のような効果を出し,〈観客と映画とが一体となって興奮する一種発作的感情の激発〉(飯島正)をあおる〈フラッシュ・カッティング〉の技法を創始した。…

※「ナポレオン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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