明治大正時代美術(読み)めいじたいしょうじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「明治大正時代美術」の意味・わかりやすい解説

明治・大正時代美術 (めいじたいしょうじだいびじゅつ)

ここでは日本の近代美術を,明治から昭和初期までを通して概観する。しかし,すでに江戸時代後期からその胎動は始まっており,また高度に洗練された江戸時代美術の素地なくしては,明治維新以降の新たな展開もなしえなかったであろう。この観点から,その前史としての江戸美術に触れ,次いで西欧文明,西欧美術との出会いによって形成されてゆく明治美術の様相を見,明治40年代の印象派受容以降を大正美術として扱う。なお近・現代美術の動向の理解のため〈官展〉〈現代美術〉の項を,また明治・大正の建築の流れを理解するため〈近代建築〉の項を,あわせて参照されたい。

日本における西洋美術との接触は,1549年(天文18)イエズス会フランシスコ・ザビエルが油絵の聖母子像をたずさえて日本に来たときに始まる。しかしその流入は,1614年(慶長19)のキリスト教の禁止とともに中断し,1720年(享保5)洋書(宗教書を除く)の輸入が許されるとともに再び始まる。唯一の開港都市であった長崎を通じて,オランダ語による西洋自然科学,すなわち〈蘭学〉の書物が輸入され,そこに挿入されていた銅版画に,西洋美術の遠近法や明暗法による写実表現を見いだすこととなる。

 徳川幕藩体制下で制約を受けつつも,蘭学の勃興による自然科学の実証主義精神への目覚めが,日本の近代美術にとっても出発点となった。伝統的な日本画を学び,また描いていた平賀源内,司馬江漢,佐竹曙山,小田野直武,亜欧堂田善,円山応挙,渡辺崋山,葛飾北斎らが西洋画風の表現にとりくんでおり,これらの初期洋風画,円山派,浮世絵の一部には,西洋画の刺激が明らかに反映されている。

 蘭学はやがて,徳川幕府の権力を強化する学問,技術として公認される。1811年(文化8)蘭書の翻訳機関として蛮書和解御用(ばんしよわげごよう)が置かれる。56年(安政3)蕃書調所と改称し,翌年から川上冬崖が,ここで正式に西洋画の研究に着手することになる。冬崖は,61年(文久1)に画学局に拡大された西洋画研究の唯一の公的機関で,画学出役として指導者となった。冬崖はまた,蘭書や英書の絵画入門書を翻訳・研究するとともに,苦心惨憺して油絵具をみずから手製している。高橋由一がこの画学局に入ったのは,62年のことであった。

日本で最初の本格的な洋画家(油絵画家)となったのが,川上冬崖を師とした高橋由一である。彼はヨーロッパでルネサンス期に確立された遠近法と,ものの丸みをつける明暗法による,科学的な写実表現の迫真性に強くとらえられる。単色の銅版画や色彩の入った石版画によって,西洋画の迫真性を学びつつあった高橋が,本格的な洋画家になったのは,1866年(慶応2),横浜駐在の《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》のイギリス人挿絵記者C.ワーグマンに入門してからである。高橋はここで油絵,水彩画の実技指導を受ける。さらに76年新政府が西欧の科学技術摂取のために置いた工部大学校(東京大学工学部の前身)には,付属して工部美術学校が開設されたが,その主任教授として来日したイタリア人風景画家A.フォンタネージの教示を受けるようになって,高橋の画技は急速に進んだ。高橋はその代表作《鮭》《なまり節》(ともに1877)など,日常生活の身近な事物を題材として,また遠近法や明暗法をとり入れた《浅草遠望》(1878),《不忍池》(1880)などの風景画によって,写実主義を移植し,天絵楼(てんかいろう)画塾を開いて後進を指導した。一方,高橋の師川上冬崖や,横山松三郎(1838-84),国沢新九郎(1847-77)らも画塾を開いて,洋画研究の道を進めている(画学校)。

 日本で最初の正則の西洋画教育を行った工部美術学校からは,フォンタネージの薫陶のもとに浅井忠,五姓田(ごせだ)義松,小山正太郎,松岡寿(ひさし)(1862-1943),山本芳翠,中丸精十郎(1841-96),高橋(柳)源吉(1858-1913)ら明治中期を代表する洋画家が育った。フォンタネージはバルビゾン派の影響を受けた,イタリアでは一流の画家で,工部美術学校でもその画技と人格を敬愛されたが,78年脚気を病んでイタリアに帰る。やがて81年あたりから高まる伝統的な日本画の擁護運動は,西洋画(欧化)を排撃し日本画(国粋)を保存しようとする動きを呼んで,83年には工部美術学校も廃止されてしまい,洋画家はしばらく息をひそめることになる。

 明治以降における近代日本美術の展開は,この西洋志向の欧化(洋風)と,伝統改良の国粋(和風)という二つの行き方が生じ,これらが対立し,影響しあい,刺激しあって歴史をつくっていったことを特質とする。しかしこのことは,ひとり美術にとどまらず,今日に至るまで生活様式のうちに広く見られることである。

明治初年,欧化主義に押されて南画や浮世絵諸派の活動しか見られなかった伝統的な日本画壇は,明治10年代に入ると,国粋主義の風潮の高まりとともに復興の気運を見せる。東京大学講師E.F.フェノロサを中心に,その弟子岡倉天心,また狩野芳崖,橋本雅邦ら狩野派を軸とした新日本画創作の運動が進められる。1889年開校の東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)が日本画と木彫のみを教授し,西洋画と洋風彫塑の学科を設けなかったことにも,この国粋主義運動の強さをうかがえよう。翌年第2代校長として美校を率いることになった岡倉は,日本美術の伝統のうちに原点をすえ,橋本雅邦とともに日本画の近代化をはかろうとする実践的な指導者となる(芳崖は教授に推されながら,開校の前年死去する)。西洋画のように単に形象の真を描くのではなく,洋風の写実の方法をとり入れながら,日本美術の伝統的な性格である観念=理想を表現すべし,というのである。やがて内紛から美校を追われ,98年に日本美術院を創立した岡倉のもとには,美校時代の門下生,横山大観,下村観山,菱田春草らが岡倉の理想を実現しようと集まる。彼らは西洋画の造形方法である写実表現と正面から対決し,伝統的な線描を用いずに色彩のみによって濃淡の調子を整え,空気や光線を表現する新しい描法を生み出した。ただし,この新たな没線(もつせん)描法は揶揄をこめて朦朧(もうろう)体,縹緲(ひようびよう)体と呼ばれた。しかし日本美術院の新美術運動は京都の日本画家に大きな刺激を与え,菊池芳文(1862-1918),竹内栖鳳,山元春挙(1871-1933)らも西洋画の写生をとり入れ,日本美術院に呼応して新機運の打開に努めることとなる。また結城素明(1875-1957),平福百穂,島崎柳塢(りゆうう)(1856-1938)らは東京で无声会(むせいかい)を結成し(1900),西洋画の写生を研究して自然主義的な新しい日本画をもたらすことになる。

明治10年代の後半,洋画家たちは一時息をひそめたが,この間にヨーロッパに渡った山本芳翠(フランス),原田直次郎(ドイツ),松岡寿(イタリア)らが帰国し,洋画界の新しい活動力となる。彼らは1889年浅井忠,小山正太郎,本多錦吉郎(きんきちろう)(1850-1921。国沢新九郎の彰技堂に学んだ),曾山幸彦(そやまさちひこ)(1859-92),川村清雄(きよお)(1852-1934)らと最初の洋画家の団体である明治美術会を結成,展覧会を開いて洋画の積極的な啓蒙活動がくりひろげられることになる。このなかでは浅井忠がフォンタネージの画風をよく生かして,《春畝》(1889)や《収穫》(1890)のように田園風物詩的なすぐれた作品を生んで傑出している。またミュンヘンに留学してドイツ歴史画派のガブリエル・マックスに師事した原田直次郎は,確かな表現力によって次代を担うホープとして期待されたが,92年脊髄病に倒れて再び立たず(1899年37歳で夭折),彼に代わるように,93年黒田清輝がフランスから帰国する。

 ブーグロー,カバネルのアカデミストにつき,バスティアン・ルパージュの外光描写をとり入れた折衷様式の画家R.コランが黒田の師であった。黒田は帰国後,久米桂一郎(1866-1934)と天真道場を設立し,外光派の明るい写実主義の画風と,フランス・アカデミズムの基礎技術を伝え,96年にはようやく東京美術学校に増設された西洋画科の主任教授となる(助教授は岡田三郎助,藤島武二)。また明治美術会を脱し,フランスの明るく自由な画家社会を理想とする新しい絵画団体白馬会を結成,主宰する。黒田は美術学校と白馬会に拠って,藤島,岡田をはじめ,和田英作(1874-1959),湯浅一郎(1868-1931),白滝幾之助(1873-1959),長原孝太郎(止水。1864-1930),中沢弘光(1874-1964),北蓮蔵(きたれんぞう)(1876-1949),小林万吾(1870-1947)ら,明治後期の洋画壇を築いた多くの新人を育てた。これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた藤島武二と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した青木繁が傑出している。

 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874-1936),吉田博(1876-1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874-1941),中川八郎(1877-1922),河合新蔵(1867-1936),丸山晩霞(1867-1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。しかし07年文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風,すなわち美術学校と白馬会の画風が,日本のアカデミズムとして洋画界を支配するようになっていった。

彫刻の推移についても,絵画の場合と同じく欧化と国粋の強弱に応じて,西洋志向の彫塑と伝統改良の木彫という二つの道すじが展開している。明治初年の彫刻界は,江戸時代の流れをくむ仏師,宮彫師,人形師,根付師といった職人で占められていた。彼らは文明開化の欧化熱や,廃仏毀釈(きしやく)の中で神社仏閣の需要がなくなり,また大名の保護も失われて危機に陥った。ただ精緻な象牙彫刻(牙彫(げちよう))は貿易品として迎えられて活路を見いだし,石川光明(1852-1913),旭玉山(1848-1923),島村俊明(しゆんめい)(1853-96)のような名人が出る。

 一方,工部美術学校の彫刻教師としてV.ラグーザが1875年に迎えられ,本格的な洋風彫塑を初めて伝える。ラグーザは15年間同校にあって,その門下からは大熊氏広(1856-1934),藤田文蔵(1861-1934),小倉惣次郎(1843-1913),佐野昭(しよう)らが育った。彼らに加えて,81年から5年間ベネチアで学んだ長沼守敬(もりよし)が洋風彫塑の開拓者といえようが,国粋主義の伝統復興運動のさなかに設立された東京美術学校では,木彫だけが採用され,竹内久一(きゆういち)(1857-1916),高村光雲,石川光明,山田鬼斎(1864-1901)が登用された。93年に開かれたシカゴ万国博覧会には竹内の《伎芸天》,高村の《老猿》,石川の《白衣観音》が出品されたが,これらが明治期の木彫を代表する作品であった。

 一方,明治美術会には長沼守敬,菊地鋳太郎(1859-1944),大熊氏広が参加して彫塑部が置かれ,99年には岡倉らの去った東京美術学校に洋風彫塑の課程が置かれた。美術学校彫塑科の初代教授に長沼,まもなくそのあとを藤田文蔵が継ぎ,白井雨山(1864-1928),渡辺長男(1876-1952),武石弘三郎(1878-1963),高村光太郎らが育つ。彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。白馬会には菊地鋳太郎,小倉惣次郎が加わり,太平洋画会にはヨーロッパ留学から帰った新海(しんかい)竹太郎(1868-1927),北村四海(しかい)(1871-1927)が加わって後進を指導した。これらようやく盛んになりかけた洋風彫塑に対抗して,1907年,岡倉天心を会長とし,米原雲海(1869-1925),山崎朝雲(1867-1954),平櫛(ひらくし)田中らの新鋭木彫家6名による日本彫刻会が結成され,文展第3部には,木彫家,彫塑家が一堂に会することとなる。文展では審査員の新海竹太郎,受賞者の朝倉文夫が注目されたが,08年ロダンに師事して帰国したばかりの荻原守衛が,ロダン風の生命感にあふれた表現により識者の評価を集める。荻原は名作《女》(1910)を遺して夭折したが,戸張孤雁,中原悌二郎,堀進二(1890-1978),石井鶴三ら多くの後進に与えた刺激は大きかった。また高村光雲の長男光太郎は欧米に留学,ロダンに傾倒して09年に帰国し,《ロダンの言葉》を翻訳して,実作による荻原とともにロダン紹介に大きな役割を果たした。

日本に印象主義が移植されたのは,ようやく1910年前後に至ってのことである。フランスにおける印象派展は,すでに1886年第8回をもって幕を閉じていたが,日本におけるこの遅れは,一つには黒田清輝の外光主義がいち早くアカデミズムとして確立してしまったことによる。いま一つは,美術ジャーナリズムの未発達のため紹介されることが遅れたという事情もあげられよう。実際,印象派や後期印象派の画家たちを精力的に紹介したのは,美術雑誌ではなく,新しい文学雑誌《スバル》(1909創刊)や《白樺》(1910創刊)の論稿と挿入図版であった。これらは黒田流文展系アカデミズムの平面的な描写=外光主義にあきて,新しい方向を求めていた青年画家たちに強い影響を与えるようになった。このころ斎藤与里(より)(1885-1959),柳敬助(1881-1923),津田青楓(1880-1978),藤島武二,有島生馬,南薫造(くんぞう)(1883-1950),山下新太郎(1881-1966),石井柏亭(鶴三の実兄),斎藤豊作(とよさく)(1880-1951),高村光太郎らが,フランス印象派の手法をたずさえて次々に帰国している。そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。

こうした新しい雰囲気のなかで,印象派,後期印象派の最初の団体としてのろしを上げたのが,1912年に第1回展を開いたフュウザン会である。斎藤与里,高村光太郎,岸田劉生,木村荘八,万鉄五郎ら33名が参加したが,翌13年第2回展を開いた後,斎藤と岸田の対立から会は解散した。一方,文展内部でも,印象派や後期印象派の移植とともに,旧態依然の文展への不満がたかまって,前年の日本画部で採用されたのと同じく,洋画部の審査も画風の新旧による二科制とすべし,との要求が新人洋画家たちによって出される。この要求はアカデミズムの総帥黒田清輝によって一蹴され,日本画部の二科制も旧に復してしまうが,二科運動の名をそのままとって,反アカデミズム,反官設展をかかげる在野の美術団体二科会が結成された。芸術表現における画家の人格=自我の優越を主張する個性主義的な芸術は,まず二科会によって強力に実践されることになった。

 二科会は石井柏亭,津田青楓,梅原竜三郎,山下新太郎,有島生馬,斎藤豊作,坂本繁二郎,湯浅一郎(1868-1931),小杉未醒(放庵)を創立会員として,14年に発足した。またクールベやセザンヌに学んでフランスから帰った安井曾太郎が翌15年に参加し,《足を洗う女》(1913),《孔雀と女》(1914)などのすぐれた滞欧作によって多くの青年画家を吸引した。素描家,肖像画家としての安井とともに初期の二科会を代表するのは,ルノアールに師事した梅原竜三郎であった。梅原は《首飾り》や《ナルシス》(ともに1913)にうかがえる色彩家,裸婦の画家として魅力を放った。また坂本繁二郎は,東洋的な,浪漫的な心情を,光と影の色面に表現する独自の絵画世界をつくりだした。このほか二科会は,熊谷守一(もりかず)(1880-1977),正宗得三郎(1883-1962),中川紀元(きげん)(1892-1972),鍋井克之(1888-1969),小出楢重,国枝金三(1886-1943),黒田重太郎(1887-1970),林倭衛(しずえ)(1895-1945),硲(はざま)伊之助(1895-1977),関根正二,古賀春江,東郷青児(1897-1978)ら,大正・昭和期の洋画界をリードする数多くの新人を世に出している。

 二科会結成と同じ年,前年世を去った岡倉天心の一周忌を期して,日本画の横山大観,下村観山,木村武山(1876-1942),安田靫彦,今村紫紅に洋画の小杉放庵を加えて,開店休業状態になっていた日本美術院が,洋画部も新たに設けて再興されている。再興の宣言に,〈自由の天地〉で〈吾ら自己の芸術〉をめざすとうたい,大正デモクラシーやヒューマニズムの流れの中で,少数精鋭の団結により,個性尊重の精神をみなぎらせる精進を重ねた。再興日本美術院は小林古径,前田青邨,富田渓仙(1879-1936),中村岳陵,小川芋銭(うせん)(1868-1938),北野恒富(1880-1947),速水御舟,川端竜子,近藤浩一路(1884-1962),郷倉千靱(せんじん)(1892-1975),堅山南風(かたやまなんぷう)(1884-1980)ら,数多くの個性的な日本画家を生み出し,大正から昭和にかけての日本画界を支える中核となった。なお院展洋画部からは,二科展に出品した関根正二とともに,日本の青春ともいうべき大正期の象徴的存在である村山槐多が出ている。

 大正前期の洋画界を二科会と二分するほどの影響力をもったのが,岸田劉生と彼がリーダーとなって結成(1915)した草土社であった。《卓上静物》《鵠沼風景》《麗子像》や《お松像》にうかがえる,克明な写実の基礎に立って〈内なる美〉の世界を示した岸田の画業は,高橋由一の精進を継承する日本の近代が生んだ,借物ではない,自主的な写実主義の実践として重視すべきものである。岸田は草土社の同人木村荘八,中川一政(1893-1991),椿貞雄(1896-1957)とともに,22年結成の春陽会に加わる。

 一方,大正期の官設展=文展は,二科会,再興日本美術院,草土社の独立によって弱体となった。しかしそれにもかかわらず,依然として保守的なマンネリズムを続けていたため,それが特に目だつ日本画部に革新の声があがった。1916年,東京の鏑木清方,吉川霊華(きつかわれいか)(1875-1925),結城素明,平福百穂,松岡映丘と,美術雑誌《中央美術》(1915-36)の主宰者田口掬汀(1875-1943)が金鈴社を結成して改革を求めた。これに続いて18年には,京都市立絵画専門学校での竹内栖鳳門下から,土田麦遷,村上華岳,榊原紫峰,小野竹喬,野長瀬晩花(のながせばんか)(1889-1964)の5名が,栖鳳と中井宗太郎を顧問に国画創作協会を結成して独立し,後期印象派への関心のうちに,清新な作品を生み出すことになる。文展を離れて闘うことになったこの青年画家たちが,京都画壇に与えた刺激は小さなものではなく,彼らの出現によって栖鳳以降にきざしていた京都画壇の近代化への脱皮をうながすことになった。

 20年の第7回院展後,日本画部との感情的対立から日本美術院洋画部を解散した小杉放庵,森田恒友(つねとも)(1881-1933),山本鼎(かなえ)(1882-1946),倉田白羊(1881-1938),足立源一郎(1889-1973)らは,梅原竜三郎を加えて,22年春陽会を結成する。ほかに客員として,岸田劉生,木村荘八,中川一政,椿貞雄の草土社勢,院展系の石井鶴三,今関啓司,山崎省三,それに万鉄五郎が迎えられた。翌23年第1回展を開く(第2回展から会員・客員の別を廃止)。春陽会は,西洋の新風にすばやく対応する二科会の傾向に批判的で,むしろ東洋人としての自己を主張しようとする個性的な作家の集りであった。そうした特色を代表するのが小杉,岸田,万である。万は強烈な原色の大胆な使用によって,自然模倣の態度を捨て,《裸体美人》(1912),《日傘の裸婦》(1913)のような,自己・自我の主張をめざすフォービスムや,ものの形を基本的な幾何学的形に分解して再構成する《もたれて立つ人》(1917)のようなキュビスムを本格的に消化した日本で最初の作品を描いたが,春陽会にあっては文人画と油絵の融合をめざす表現主義風の試みに打ち込んだ。

 外光主義のマンネリズムに陥っていた文展は,1919年に保守的な体質を改善しようと,帝国美術院主催美術展,すなわち帝展に改組されたが,洋画部は在野の二科会,春陽会のような人材を生み出さなかった(帝国美術院)。有力画家として,日本画では菊池契月,上村松園,鏑木清方,松岡映丘,平福百穂らが,洋画では児島虎次郎(1881-1929),牧野虎雄(1890-1946),中村彝(つね),前田寛治らが頭角を現した。特に,美術学校にも学ばず,また長く胸を病んだ中村彝は,大正期の洋画を代表する一人に数えられ,《田中館博士の肖像》(1916),《エロシェンコ氏の像》(1920)のような,優れた肖像画を残している。

1923年の関東大震災によって,実質的に大正期は終わり,新しい時代,来たるべき昭和期に入ったとよくいわれる。美術界にも,震災後,新しい潮流が押し寄せてくる。ヨーロッパでは第1次世界大戦の荒廃の中から,あらゆる既成の表現を否定する,文学や美術における反抗運動,ダダが生まれた。これと同じように,震災による荒廃は,ダダ的な傾向を生む土壌となり,震災後の精神的な不安の時期を通じて,芸術の革命をめざす前衛芸術運動が急激に盛んとなる。それはまた,革命の芸術をめざす共産党系のプロレタリア芸術運動を呼び起こすことになる。前者のいわゆるアバンギャルドとして,在野からの未来派美術協会(1920),二科会の進歩派によるアクション(1922),村山知義を中心に構成主義を唱えたマヴォ(1923),さらにこれらを結集した三科造型美術協会(1924)などの前衛グループが興った。後者のプロレタリア芸術運動としては,造型(1925),造型美術家協会(1927),日本プロレタリア美術家同盟(1929)があげられる。しかし,それらが生み出した作品は,いずれも芸術作品として美術史に残るものは少なかった。

 こうした前衛的・革命的傾向の醸成のなかで,純粋芸術の立場から新しい造形を追究する新世代の画家たちがいた。彼らは関東大震災の前後にフランスへ留学し,いわゆるエコール・ド・パリの雰囲気のなかで20世紀の反自然主義的な近代絵画の洗礼を受け,大正末ころにあいついで帰国してくる。里見勝蔵(1895-1981),前田寛治,佐伯祐三らがそうであり,彼らは木下孝則(1895-1973),小島善太郎(1892-1984)と一九三〇年協会を結成する。26年の第1回展には,古賀春江,野口弥太郎(1899-1976),林武,林重義(1896-1944),川口軌外(きがい)(1892-1966),木下義謙(1898-1996),宮坂勝(1895-1953),中野和高(1896-1965),中山巍(たかし)(1893-1978),伊原宇三郎(1894-1976),福沢一郎,長谷川利行,靉光ら,昭和期に活躍する青年画家が多く集まった。しかし一九三〇年協会は第5回展をもって終わり,その継続ともいえる独立美術協会が結成されて,31年第1回展が開かれる。これらの人々はさまざまな個性的な画風を示したが,一般にはフォービスムの団体という印象を与えた。しかし,この〈フォービスム〉とは芸術理論としてのものではなく,印象主義による洋画が新鮮さを失って久しいこの時期にあって,新しい感覚と技術による近代絵画の移植が印象主義を克服したという意味で呼ばれたものであった。

江戸後期に庶民芸術として盛んであった浮世絵版画は,明治維新後,文明開化の新風俗を対象として錦絵や挿絵になお迎えられていた。しかし浮世絵師の感覚の古さは,しだいにマンネリズムの表現をくりかえし,日清戦争の戦争図あたりを掉尾(とうび)として衰微していった。1907年,太平洋画会系の洋画家石井柏亭,森田恒友,山本鼎らが,美術文芸雑誌《方寸》を発刊し,〈自画自刻自刷〉の創作版画を発表するようになった。これによって時代感覚にそった新しい版画芸術が生まれることとなり,このほかに画家では田辺至(1886-1968),彫刻家の戸張孤雁,版画家の織田一磨,恩地孝四郎,永瀬義郎,平塚運一,前川千帆(せんぱん)(1889-1960)ら,創作版画にたずさわる作家の大同団結が,18年の日本創作版画協会結成となった。これは31年日本版画協会へと発展し,今日の版画隆盛の起源となった。

大正期の彫刻は,文展・帝展の官設展と,在野の院展,二科展の鼎立で展開された。荻原守衛は帰国してまず太平洋画会に迎えられ,また夭折したこともあって,彼がロダンに学んだ生命感にみちた近代彫刻は官設展に根付かず,文展・帝展の主流は巧みな描写技術と主題主義であった。彫塑の朝倉文夫,建畠大夢(たてはたたいむ)(1880-1942),堀進二,池田勇八(1886-1963),大理石彫の北村四海らがあげられるが,これらのなかでは朝倉文夫が傑出しており,《墓守》(1910),《いづみ》(1914)のように,的確な自然主義の作品を残した。

 再興日本美術院には,平櫛田中,佐藤朝山(1888-1963),内藤伸(1882-1967),吉田白嶺(1871-1942)の4人の木彫家で彫刻部が新設された。荻原守衛の影響と近代彫刻の本質に迫ろうとの試みは,ここに拠った藤井浩祐(こうゆう)(1882-1958),戸張孤雁,石井鶴三,中原悌二郎,保田竜門(やすだりゆうもん)(1891-1965)らに現れて高い水準を示し,官展に対抗しうる力を発揮した。これらのなかでは中原悌二郎が《墓守老人》(1918),《若きカフカス人》(1919)のように,荻原守衛を最もよく受けついだ,生命感あふれる作品を生んだ。また1919年には二科会が,晩年のロダンの助手をつとめた藤川勇造を迎えて彫刻部を創設し,これに渡辺義知らが加わり,海外からもザツキン,アルキペンコらの出品が見られた。

 木彫では,官設展に沢田晴広(政広)(せいこう)(1894-1988),三木宗策(1891-1945),長谷川栄策(1890-1944)らの新人が台頭し,院展では佐藤朝山に師事した橋本平八(1897-1935)と平櫛田中が傑出している。岡倉天心の伝統的木彫復興の精神をくんだ平櫛田中は,《転生》(1920)のように天平や鎌倉の仏像彫刻を消化した傑作をつくった。彫塑を主としたが,近代彫刻の精神に立って木彫の本質的な性格をとらえた高村光太郎,石井鶴三も,すぐれた木彫作品を残している。

 大正末期の前衛芸術運動のなかで,キュビスムや構成主義的な立体造形も試みられている。浅野孟府(もうふ)がアクション展にアルキペンコの影響を受けた作品を出品し,また三科展には,ダダのオブジェ風の作品が現れたが,試みを超える展開を見せるまでには至らなかった。26年斎藤素巌(そがん)(1889-1974),日名子実三(ひなこじつぞう)(1893-1945)らは,建築と彫刻の結びつきを主張して構造社を結成する。また同年,国画創作協会に彫刻が加わったとき,ブールデルに学んで帰国した金子九平次(くへいじ)(1895-1968)が中心となったが,28年に同会が国画会に改組すると,高村光太郎,清水多嘉示(たかし)(1897-1981),高田博厚(ひろあつ)(1900-87)らが加わった。さらに,39年国画会彫刻部は解散するが,36年に結成された新制作派協会に,新進の本郷進,柳原義達,佐藤忠良(ちゆうりよう),舟越保武らが結集する。

 明治・大正期の美術を通観すると,一般史におけると同じく,たえず西欧文明からの刺激にさらされ,近代化(西欧化)の過程をたどったことが大きな性格として浮かんでくる。しかし,これは単なる伝統破壊と西欧の物真似として進んできたのではない。一方において伝統との融合ないし伝統改良の動きがつねに見られ,近代化(西欧化)はこの時期の日本人にとって,生命にもかかわる不可避の営みであった。そしてそれは,この時期の美術にも強くうかがえるのである。
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工芸史上の近代という時代区分を考えるとすれば,その出発点は大正期中ごろということになるだろう。明治期は,江戸の工芸が新しい社会的条件のもと,輸出商品として最後に大きく展開したときだった。これに対し,大正期中ごろ以降は,工芸制作においても知性の創造性が重んじられ,工芸が作者自身の個性を表現すべき対象として確立されていったときであった。

明治の工芸を特色づけたのは,政府や各府県,それに各地の地場産業自身による各種工芸振興策だった。それらは産業革命後の西洋近代において,工業製品が果たした役割にならって,工芸品を日本の工業立国を担うべき,輸出向け手工業製品とみなしたからである。こう性格づけられることによって,明治の工芸(〈美術工業〉と総称された)は活性化された。しかしその反面,作品からリアリティが失われてもいった。それというのも,上手(じようて)物の工芸品は,本来,美術品ともいうべき〈お道具〉と考えられてきたにもかかわらず,それが表向きにせよ工業製品とみなされたことで,工芸の性格が建前と本音とに分裂してしまったからである。このため,もともと〈お道具〉としての工芸が,同時代の生活のなかからくみあげていた生命力は,工業製品としての工芸には反映されえず,明治の工芸はその内面から衰弱していったといえる。

 各種工芸振興策のなかでもその中心は,1873年のウィーン万国博覧会参加の際,日本側の博覧会事務局副総裁であった佐野常民,彼とともにウィーンに派遣された御雇外国人ワグネル(G.ワーグナー)や納富介次郎(のうとみかいじろう)(1844-1918),そして技術伝習生たちによるものだった。彼らによって,美術工業育成の理論化,内国勧業博覧会創設の準備(勧業博覧会),各県の工業(芸)学校開設,工芸品製作輸出会社・起立工商会社の設立,個別な科学的製作技術の移植などが行われた。また,79年に佐野を中心にして竜池会(のちの日本美術協会)が結成され,87年に始まるその公募展は,工芸に関しては明治期を通じて新人の登竜門となっていった。

 明治初年,すでに蒔絵の柴田是真や彫金の加納夏雄は,名工として世に知られていたが,大多数の工芸職人たちはこうした工芸振興策をあしがかりとして頭角を現していった。彫金の海野勝珉(うんのしようみん),布目(ぬのめ)象嵌の鹿島一布(かしまいつぷ)(1828-1900),蒔絵の白山(しらやま)松哉,無線七宝の濤川(なみかわ)惣助,西陣織の伊達弥助(1844-92),そして陶工の〈歳寒三友〉とたとえられた宮川香山(1842-1916),竹本隼太(はやた)(1848-92),3代清風与平(せいふうよへい)(1851-1914)たちである。

1907年官設の展覧会として文部省美術展覧会(文展)が開設された。だが,工芸は出品を認められず,ここではっきりと,工芸における〈お道具〉という性格は否定された。13年から,工芸作品発表の場として,官設の農商務省図案及応用作品展覧会が開設されたが,これもその名称が示すとおり,応用芸術の考え方による工芸振興策であった。

 工芸においても美術と同様に,作者自身の個性が表現されるべきだと最初に主張したのは,東京美術学校や東京高等工業学校で学んできた若い工芸家たちだった。彼らがこう主張したのは,大正期の新しい文化的雰囲気に触発されて,作家としての自我意識に目覚めたからであったが,それはまた必然的に,工芸においても芸術的価値の重視を求めようとするものでもあった。この点で彼らの主張は,帝展(かつての文展)に工芸の出品を認めさせる運動の原動力ともなっていった。26年に,鋳金の高村豊周や内藤春治(はるじ)(1895-1979),彫金の北原千鹿(せんろく)(1887-1951),漆工の山崎覚太郎(1899-1984),染色の広川松五郎(1889-1952)らによって无型(むけい)が結成された。帝展に工芸部が設置された27年ころは彼らの活動も高揚し,この年,北原千鹿を中心にして,信田洋(のぶたひろし)(六平,1902-90),山脇洋二(1907-82)らの金工家が集まって工人社が結成された。また,京都でも1920年に楠部弥弌(くすべやいち)らによって,前衛的な作陶家集団赤土が結成されている。

 ただし彼らの作品は,当時すでに洋風の建築や室内装飾に移植されていたアール・デコや構成主義の様式に強く影響されていた。都会のモダンな生活が,彼らの作品スタイルの源泉だったのである。したがって個性の表現は,西洋の斬新な様式の受容にほとんど置きかえられていたのであって,作家自身の自律的な個性の表現は,第2次大戦後の工芸家たちまで課題として残されたといえよう。

 なお,大正期に大家として世評の高かった工芸家には,陶磁の板谷波山(いたやはざん)や鋳金の香取秀真(ほつま),漆工の赤塚自得(あかづかじとく)(1871-1936)らがいた。

帝展系の若い工芸家たちが,モダンな都会生活に適応しようとしたのとは反対に,同じころ,明治の工芸振興策が置きざりにしてきた民衆の日常雑器のなかにこそ美がある,と主張する民芸運動が興っている。帝展系工芸と民芸とは無縁だと思われがちだが,もともと両者は,明治の功利主義的精神が築いてきた近代日本文化に対する対蹠的反応だったといえる。

 運動の指導者だった柳宗悦は,1926年に富本憲吉,河井寛次郎,浜田庄司らの陶芸家と連名で,〈日本民芸美術館設立趣意書〉を発表して運動を思想的に方向づけ,27年に染織の青田五良(1898-1935),木工の黒田辰秋(たつあき)(1904-82)らと上賀茂民芸協団を結成して,その思想を実践に移した。イギリスの工芸家W.モリスの影響を受けていた柳の思想においては,かつての日常雑器に見られた美を基準にして,今日の生活用品を生産することが本来の目的だったからである。しかし,この協団は2年後に挫折し,以後,民芸運動は各地の民芸品の発見と保護がその中心的な活動になっていった。一方,民芸運動に共感した先の工芸家たちや染色の芹沢銈介らは,民具に示唆を受けた作品を制作し始めた。もっとも,作品のスタイルに民具のそれを選択したのは,彼らの作家としての自我意識であって,その点で,彼らもやはり近代の工芸家だったといえるだろう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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