人や物を乗せて水上を渡る乗物。これが一般的な定義であるが,現在では水面下を行動する潜水船や,空気圧によって水面上を浮上して走行するエアクッション船もあり,これらも広く船に含めている。慣例では,大型のものには〈船〉,ごく小さいものには〈舟〉を用いるのがふつうである。なお,法規上は〈船舶〉という語が使われる。
ごく初期の舟には,大別して三つの構造様式がある。それは(1)丸木舟,(2)いかだ,(3)動物の革(皮)の舟である。丸木舟は大きい丸太をくり抜き,両端をとがらせて作るため〈くり舟dugout〉とも呼ばれる。いかだは細い丸太,ときには竹や水草の茎などを束ねて舟の形にする。革舟は動物の革を縫い合わせて舟の形にし,内側から木の枝や動物の骨などの枠組みで形を支える。古い時代の人々は,まず材料入手の問題,そして舟を使う環境などに応じてこれらを適当に使い分けたようである。そして文化が進むにつれてもっと大きい舟が必要になり,それぞれの構造様式が発達し,変形し,入り交じって,現在われわれの知っている船の構造ができ上がってきた。例えば有名なバイキングの船は,薄い木板を鉄釘で縫い合わせて船の形を作り,後から木材の肋骨を入れて補強しているが,このバイキング船の構造には,革舟の影響が色濃く残っている。
現在記録に残っている最古の船はエジプトのナイル川の舟とされている。古代エジプト人はパピルスを束ねていかだにし,両端をとがらせながら水面上にもち上げて流麗な曲線の船型を作った。大型化に伴って材料は木材になったが,船型の基本は変わらなかった。エジプトは大きい木の育たない土地だったから,多数の小さい木材を接ぎ合わせて船を作った。前3000年ころからエジプト人は東地中海を航海するようになり,フェニキア(現在のレバノン地方)から杉材を輸入して大型船を作ったが,構造様式はあまり変わらず,他の地方の船とは異なっている。推進方法は初めは櫂(パドル)でこぎ手は前を向いているが,新王朝の大型船では橈(オール)になる。前4000年ころの絵ですでに帆らしいものが認められるが,後世のものはりっぱな横帆をもっている。舵の進化もよくわかる。
エジプトに続いて古代世界に登場する船はクレタ人の船である。前3000年ころ,クレタ島をはじめ,エーゲ海の島々に文明が栄えたが,彼らの船はギリシア本土と往来していたし,またエジプトの船との接触も始まっていた。残念なことにクレタにはエジプトのような詳しい船の絵が残っていないが,後世に大きい影響を与える船の二つの類型,〈長い船〉と〈丸い船〉はクレタに始まったと考えられている。
長い船は細長くて高速に適し,オールでこぐ。積載能力は低く,船首に衝角(ラム)をもつことが多い。おもに戦争に使う。丸い船は幅が広く帆走に適し,速くはないが長い距離を小人数で航海できる。積載能力も高く,貿易に使う。
エジプト,クレタに続いて東地中海の主役となったフェニキア人もこの二つのタイプの船で活躍した。彼らは史上有数の航海民族で地中海全域はもとより,ジブラルタルを通って北海方面,またアフリカ西岸を遠く南下し,一方では紅海からアフリカ東岸にも航跡を残している。後にカルタゴを中心とする北アフリカ地方を本拠にローマと覇権を争って敗れ去るまで2000年に及ぶ海上活動の歴史をもつ。フェニキアの船についても資料は乏しく,構造,艤装(ぎそう)の詳細については想像の域をでない。しかし前600年ころからフェニキアの後を追って海に乗り出したギリシア,それを引き継いだローマの船については絵画その他の資料がある。これらの資料からフェニキアの船も含めて,紀元前の数世紀の間,古代の地中海で活動していた貿易船や軍船の姿を知ることができる。海戦用の〈長い船〉は大型になり,必要な推進力を得るためオールを上下何段にも並べる二段橈船bireme,三段橈船triremeなどのいわゆるガレー船が発達した。これらの軍船は1本マストと横帆をもち,順風には帆走したが,戦闘中はもっぱらオールを使った。敵に体当りして沈めるための水中衝角を例外なくもっているが,おもな戦闘方法は弓矢と接舷斬込みで陸戦を水上に移した形であった。
商業貿易用の〈丸い船〉も大型になり,船体構造も基本的には現在の木造船に近い強固なものになった。1本マストに横帆の帆装が一般的であったが,船首に補助帆を展ずるくふうもすでに見られる。オールをもたずもっぱら帆走に頼ったのは商船として当然である。おおぜいのこぎ手とその食料を積めば貨物は積めず経済的に成り立たない。こうしてクレタ人に始まるとされる長い船と丸い船の設計思想は古代地中海で確立された。
この時代,地中海の船は他の世界と比べて決定的に進んでいた。北ヨーロッパやイギリスの島では革舟か丸木舟で湖や川,湾を渡ったり漁をしたりする程度であったし,中国ではおそらくいかだから発達したと思われる箱形の舟,サンパンが川や沿岸で使われていたが,後世のジャンクのように本格的な船ではなかった。日本ではまだ原始的な単材丸木舟の時代であったし,世界の他の地方でも要するに小舟の域をでていなかったといってよい。その後も1000年あまりの間,各地の船はほぼ独立に,徐々に発達を続けることになる。技術の交流が起こり,構造や艤装の混血が目だってくるには14~15世紀まで待たねばならない。
このような流れの中で重要な役割を演ずるのは北欧の船である。北方ゲルマン人やアングロ・サクソン人は丸木舟と革舟を使ったが,とくに彼らの革舟は相当大型で帆装をもつところまで発達したようである。西暦紀元前後からスカンジナビア地方に現れる独特の構造の木造船はこの革舟の子孫ではないかと考えられている。古代地中海の船の外板は縁と縁を突き合わせて張るが,これら北欧の船の外板は縁と縁を少しずつ重ねて釘で縫いつけてある。肋骨は船の形ができた後で入れている。この構造はまったく独特なもので,その基本が革舟に類似していることは確かである。この構造の自然の結果として北欧の船は船首と船尾が同じ形にとがったダブルエンダーdouble-ender型になる。このことはすでにローマ人の記録に見えるから,北欧人たちはこの構造の木造船を前200-前100年ころにはもうもっていたのであろう。1000年の後,全欧州の海辺をふるえ上がらせたバイキングの異様に美しい船,いわゆるバイキング船はこの直系である。片玄十数本のオールを備え,また1本マストに横帆を展ずる。右玄船尾にある刀のような形の舵で操縦した。この船の航海能力はたいしたもので,長さ24m,幅5.1mのゴクスタッド船を復元建造した船は,ノルウェーのベルゲンからカナダのニューファンドランドまでの大西洋を28日間で走破したという(1893)。
バイキングの時代(9~10世紀)から400年ほどの間,イギリスを含む北ヨーロッパの船はまだしばらく独自の発達を続ける。船型の大型化とともにオールは姿を消しもっぱら帆走に頼ることになり,船の深さも大きくなる。軍船では船首と船尾にやぐらがつく。外板は重ね張りが続く。13世紀のハンザ同盟諸都市で貿易に使ったハンザ・コグ(コッゲ)もこの系統に属するが,この船は人類が作り出した最初の本格的な航洋貿易船の一つに数えられる。1962年,ブレーメンのウェーゼル川に沈んでいたコグの実物が発見された。莫大な労力を費やして復元・保存され,その船型,構造などが明らかになった。このコグは1380年ころの建造で長さ23.5m,幅7.6m,深さ4.1m,現在の総トン数にして約130トンくらいになる。がんじょうな船梁と固定甲板は重要な進歩である。1本マストに1枚の横帆は変わらないが,帆面積はバイキング船より大きい。長さはバイキング船と変わらないが,幅と深さが著しく増えて帆走商船,すなわち丸い船に変貌したことがわかる。注目すべき変化は船尾中心線に金具で取りつけた舵で,それまでは地中海の船も北欧の船も船尾玄側に流す形式の舵を使っていた。北欧は右玄1本で地中海は両玄各1本の差はあるが,どちらも櫂で操縦したなごりであって,船尾中央に固定する舵を思いつくのに人類は何千年も費やしたわけである。このほうが扱いやすく,また強いから明らかに優れている。舵の導入に伴って北欧船の一つの特長だった前後対称の船型が変わり,船首船尾の区別がはっきりしてきている。
ところでバイキングが活躍した9~10世紀のころには西方世界のほかに,中国を中心とする東アジアやアラブ文化圏でも西方に匹敵するくらい,あるいはそれに勝るほど発達した船がすでに存在していたことに注目したい。アラブの船はその地理的・文化的背景から考えて,エジプト,クレタにはじまる古代地中海の進歩した船の影響を受けたことは疑う余地がない。しかし歴史の〈失われた鎖の輪〉--未知の部分--をいくつか経て現れてくるアラブの船は船型,帆装ともに古代地中海の船とは一変したものになっている。いずれにしてもアラブの商船隊はハンザ同盟に先立つこと数百年の時代,すでに東アフリカからインドにかけて活発な貿易を行っており,6世紀の終りころには東南アジアから南中国に達している。当時の彼らの船についてはよくわかっていないが,その貿易が広州や福建地方に居留地を作るくらい本格的なものであったこと,また当時としては画期的な長い航路であったことを考えると,少なくともハンザ・コグに匹敵する程度の船はもっていたであろう。
そしてアラブ商船との交易が中国の海運活動を引き起こしたことはよく知られており,唐代後期の9世紀のころには東南アジアから朝鮮半島,日本などで唐の商船は活発な貿易を行うようになった。すでに遣唐使の記録から推察されるように,7世紀には中国や朝鮮半島には当時の日本よりはるかに優れた大型船建造の技術があった。しかしそれはおそらくサンパンを基本とする北方系の箱形構造船であり,前述のアラブ船の影響を受けて,より航洋性の高い南方中国系の帆船ができ上がるのは8~9世紀のことではないだろうか。次の宋代になると書かれた記録があり,また1973年に福建省で12世紀と推定される実物が発見されたので船型,構造がかなりよくわかってきた。この例では長さ約35m,幅10m,喫水3mで総トン数は約300トン,同時代のハンザ・コグの2倍程度になる。船底はV型で波切りや帆走性能がよい。構造が中国独特のもので多数の横隔壁と厚い外板を基本とする。一方,当時の記録によると舵は船尾に取りつけられ,帆はすでに現代のジャンクのような縦帆を使っていたようである。なお,船尾中央に取りつける舵はすでに1世紀ころの広州の墳墓から発見されたサンパン型の船の模型に見られる。西方世界の舵の使用に先立つこと1000年以上も前のことになる。
日本の船はよく知られているように丸木舟で始まった。出土品は縄文時代前期までさかのぼることができるから相当古い歴史をもっている。紀元前後の弥生時代には丸木舟を縦に二つ接いで大型にするくふうが見られるようになり,鉄器の使用で工作の程度がよくなる。4~6世紀の古墳時代には朝鮮半島との往来が盛んになり,船も玄側に板を接ぎ足した準構造船--丸木船からふつうの木構造船への移行過程--になってより大型になる。
8~9世紀,遣唐使の後期に入って大陸型の大型船の建造技術が一時導入されたが定着せず,奈良,平安,鎌倉時代を通じて15世紀初頭まで日本の船は一部に丸木船の構造を残した準構造船であったと考えられている。推進方法はまだ櫓(ろ)に依存する程度が大きく,本格的な航海の可能な帆装をもつのはもっと後世のことになる。公正にみても,同時期の西方世界や中国,アラブ両文化圏の船と比べるとかなりおくれている。
一方,西欧,アラブ,東アジア三つの文化圏の船はすでに見てきたように12~13世紀のころにはおおよそ同程度の発達段階にあったといってよいであろう。大きい相違は西方世界の船はその後大きい発展を遂げたが,他の二つの文化圏ではそれほど進歩しなかったことである。そして西方の船の歴史は多くの研究によってかなりその全容を明らかにできるが,他の二者については失われた鎖の輪があまりに多い。
14世紀から15世紀にかけて西方世界の船は大きい転換期を迎える。それまで独自の発達を続けてきた地中海の船と北欧の船の間に技術交流と混血が起こり,新しい型の航洋帆船が生まれ,ヨーロッパ人が世界の海を制する基礎ができてくる。12~13世紀,1本マストの横帆船に乗って地中海に入ってきた北欧人たちは,そこの船がみなまったく見慣れない帆を張っているのを見てそれをラテン帆(ラテンセール)と呼んだ。それは大きな三角帆で,その斜辺はマストにつるした長い棒(ヤード)で支える。2本マストが基本で,前のマストは著しく前に傾いている。この帆は中国のジャンク帆と並んで,人類が作り出した最初の縦帆であった。縦帆は横風や前よりの風を受ける帆走に適するので,横帆よりもずっと広い範囲の風向に適応できる。この帆は古代地中海ではまったく見られず,ローマ帝国衰退後の数世紀にわたる間に地中海に普及していたものである。その分布は地中海,紅海,アフリカ東岸,ペルシア湾からインド,インドネシア方面に及んでおり,それが7~8世紀のイスラム勢力圏と一致するので,この帆はアラブ人の発明であろうといわれている。
9世紀に興り,10世紀から14世紀にかけて商業的にも軍事的にも地中海を制することになるイタリアの海洋都市国家,ベネチアやジェノバなどの船ももっぱらラテン帆を使った。船体のほうは古代地中海の伝統に従って軍事目的の長い船(ガレー船)と貿易用の丸い船があったが,火器の発達に伴って積載量の大きい丸い船を海上要塞のように使ったり,一方,積載量は少し減らしても機動力の高い貿易船としてオールを多数備えた商業ガレー船も多用された。これらの船はそれを所有する都市国家の勢力拡大とともに大型化し,設計・建造の技術もおおいに発達した。フランスのマルセイユ,スペインのバルセロナもイタリアの都市国家群に伍するようになり,地中海におけるヨーロッパ人の勢力が復活した。これに関して十字軍の遠征が大きい役割を果たしたことはよく知られている。なお,この時代になると羅針盤(コンパス)の使用が一般化してきたようである。中国船は12世紀ころからコンパスを使っていたから,これがおそらくアラブの商船の手を経て地中海にもたらされたのであろう。
今やハンザ・コグに代表される北方系の航洋商船と,これら地中海のラテン帆を展ずる敏しょうな船との間に技術交流が起こる機は熟した。地中海の船は船尾舵と横帆を北方から学んだ。もっとも横帆は古代地中海の帆でもあったわけだが,安定した順風の続く長い航海と,それに加えて荒天を追手帆走で逃げ切る場合の長所が再認識されたのであろう。一方北の船はラテン帆と,平張りの外板を南からとり入れた。船が大型化しがんじょうな構造になった今,もはや重ね張りは適さない。またラテン帆と横帆の組合せは両方の長所を生かすことができる。
キャラック(カラック)と呼ばれた船はこうして生まれた新しい船の典型である。平張り外板の丸い船体に船尾舵を備え,船の中央の大きいマストに横帆を張り,船尾近くのもう1本のマストにラテン帆を張る。まもなく3本目のマストを船首寄りに設け,これに横帆を張るようになる。15世紀後半の帆装の変化は非常に早く,1492年にスペインを出帆したコロンブスのサンタ・マリア号は100トン足らずの小型キャラックと推定されているが,それでも上記の3枚のほかに船首から斜め前方に突出したバウスプリットの下に小型の横帆(スプリットセール)を張り,またメーンマストの上にも小型の横帆(トップスル)を張っている。
こうして15世紀末には3本マストとバウスプリットを備える全装帆船full-rigged shipの基本ができたわけで,今後これが西方世界の帆船の主流を占めることになる。
この生まれたての3本マストの航洋帆船が,その後わずか20年ほどの間に成し遂げた偉業はほとんど信じがたいくらいである。1492年のコロンブスの新大陸発見に続いて,98年にはバスコ・ダ・ガマがアフリカ南端(喜望峰)をまわってインドに達し,1515年にはそれに続くポルトガルの船隊が東南アジアに着く。そして1519-22年にはついにマゼランの船隊が地球を西回りに一周してスペインに帰ってきている。全装帆船とはいってもわずか100~200トン,帆装も後世のクリッパーや現在の練習帆船とは比べものにならない粗末なもので,よくこれだけのことができたものと感嘆させられる。しかしそれだけに犠牲も大きく,例えば5隻の船に280人が乗って出発したマゼランの船隊が副将エルカノに率いられて帰国したときには船はただ1隻になり,生き残った隊員はわずかに18人であった。
16世紀と17世紀は,15世紀後半の大転換期に続く量的拡大と改良の時代であった。船型の大型化とともに帆の数が増し,トップスルは大きくなって推進の主役になり,次々と新しい帆がくふうされた。今や海外に大きな市場を手に入れ,そこへの航路を開拓したヨーロッパ諸国は競って貿易の利をもとめ,なわばり争いも熾烈(しれつ)であった。積載量の大きい航洋商船と強力な軍艦が求められ,その必要にこたえてヨーロッパの船は発達を続けた。この時代の代表的帆船はガレオンと呼ばれ,キャラックの延長上にあるがキャラックより細長く,また船尾のラテン帆のマストが2本のものが多い。
大砲が海戦の主要武器になったので軍艦も積載能力が重要になった。多くの大砲と弾薬を積んで行動するには帆船が適している。地中海やバルト海東部では極限まで発達した大型の手こぎ軍艦が大砲を積んで17世紀まで残ったが,大勢は明らかに〈長い船〉の時代の終りを示していた。帆走軍艦に比べて砲力が問題にならないからである。
同じ16~17世紀のころ,短い期間ではあったが日本人が南中国から東南アジアに進出した時期があり,日本の船の歴史のうえで特異な光を放つ船が現れる。朱印船は政府の発行する貿易公認状(朱印状)をもつ船のことで,この制度の始まる17世紀初頭のころは中国の船を買ったり,そっくりまねて作る例が多かったと考えられている。当時の日本の船はようやく準構造船の域を脱して幅の広い厚板を組み立てる箱形構造船になり,帆装も2本マストに小型の横帆を張る遣明船や,秀吉の朝鮮出兵に動員された船の程度にはなっていたが,まだフィリピンや東南アジアへの渡海をするには不十分だった。しかし1630年代になると技術は相当に発達したらしく,現存する数枚の絵馬から判断して当時としては画期的な船を作るようになっていた可能性が高い。いずれにしてもこの絵のような中国,西洋,日本の船の混血した航洋帆船が日本船主の資本で運航されたことは確かである。
3本マストにバウスプリット,スプリットセールと船尾のラテン帆は,キャラックに始まる全装帆船そのものであり,前のマストと中央のマストの頂部に張るトップスルもそうである。大きい相違はこの2本のマストに張る大帆で,これがおもな帆と考えられるが,これが中国ジャンク型の縦帆になっている。帆装としては原型のキャラックより使いやすいであろう。船体は全体としては中国式に見えるが船尾はキャラックに近く,また船首水面近くに設けた張出し船楼はキャラックにも中国船にもないもので同時代の日本の軍船の船首の矢倉によく似ている。ある推定によると総トン数は数百トンと見積もられており,同時期の南蛮諸国の船に匹敵する。しかし35年および36年の鎖国令はすべてをかき消してしまった。続く江戸時代に沿岸海運の担い手となる弁財(べざい)型帆船(いわゆる千石船)はそれまでの日本の船の延長上にあり,船体,帆装ともこの進歩した朱印船の痕跡はまったく認められない。
→和船
千石船がその日本的な姿を津々浦々に浮かべ,日本で初めて広く普及した帆走商船として江戸時代の経済の動脈となっていたころ,西方世界の船は質,量ともに驚くべき発展を遂げていた。わずか300年ほどの間に西欧の船は決定的に世界をリードするに至り,同時に彼らが経済的,政治的に世界を制することになった。
15世紀に現れた3本マストの全装帆船は,16,17世紀と順調に拡大と改良を続け,18世紀にほぼ完成の域に達する。船の装飾のうえでは史上もっとも華麗な時代でみごとな船尾装飾や船首像が姸(けん)を競った。主力艦は10kgくらいの砲弾を発射する大砲を75~100門備え,総トン数は1500~2000トン,艦隊を組んで行動したので戦列艦とも呼ばれる。ネルソン提督のビクトリー号はその代表で現在も保存されている。帆装も進歩し,船首には能率のよい三角帆(ジブ)を数枚展じ,船尾のラテン帆はガフセールに変わり,その上に横帆を張る。マストの間の三角帆(ステースル)も広く使われ,また軽風時にトップスルを横に延長する形のスタッディングセールもくふうされた。
戦列艦より砲力は劣るけれども高速で航海能力の高いフリゲート艦は重要な補助艦で,通商破壊やその防御,哨戒などに活躍した。トン数は戦列艦の半分程度,帆装形式はほとんど変わらない。
18世紀の代表的な航洋商船は東インド貿易船と西インド貿易船であろう。イギリス,オランダをはじめ各国ともこれらの船で貿易の利を求め,植民地を経営した。船型,帆装とも基本的には軍艦と同じで,事実かなりの大砲も積んでいた。東インド方面には600~1000トン程度,西インドには300~400トン級がよく使われている。フリゲート艦の大砲を減らし,積荷を多くしたものと考えてよい。
一方,この時代になると沿岸海運や漁業などに使う比較的小型の帆船もおおいに発達した。風上へもよく切り上がり,小回りの効く縦帆がこれらの船には適しているので,この系統の帆装もよく使われた。北米植民地東海岸で生まれたといわれるスクーナーはその代表で,19世紀半ばには沿岸海運や漁業用などに世界的に普及している。明治初年に日本に導入された西洋型帆船も主としてスクーナーで,弁財型やその他の日本土着の船と混血しながら,昭和10年代までは広く使われていた。いわゆる機帆船はその子孫である。
19世紀は帆船最後の栄光の時代であった。産業革命による経済構造の変化は19世紀中葉に至って爆発的な商工業の膨張と原料や製品の大量輸送をもたらした。汽船はすでに19世紀初頭から川や運河などでは使われ始めていたが,まだ広い海を渡るのは無理であった。そこでこの世界規模の大量輸送にこたえるべく帆船の大型化と技術革新が始まり,クリッパーに代表されるような史上例を見ない高性能の大型商業帆船が続々と建造された。鉄の肋骨を使って船体は軽くなり,船型も従来の全装帆船に比べてずっと細長くなった。大型化に伴って帆の数が増え,現在の練習帆船に見るような近代的帆装ができ上がってくる。
一方,汽船の発達も急速であった。1843年には総トン数3400トンのグレート・ブリテン号がスクリュープロペラで大西洋を渡った。70年代にはボイラーの蒸気圧を上げるとともに,2本,後には3本のシリンダーで次々に蒸気を膨張させて動力を得る多段膨張機関が現れて汽船の能率が向上した。旅客や郵便,高価な製品などは順次に汽船で運ばれるようになっていく。ちょうど20世紀後半の航空機の役割に似ている。そして帆船の急速な近代化はこの汽船の追上げによるところも大きかったといわれる。1869年のスエズ運河開通は極東航路帆船にとっては致命的な打撃であって,ちょうどこのころ,長年の鎖国から目覚めた日本が航洋商業帆船を作ろうとしなかったのはおそらくこの理由であろう。しかし世界的に見ればまだ貿易の主力はむしろ帆船であって,86年の統計によると帆船総トン数合計約1200万トン,隻数1万余に対して汽船合計約1000万トンであった。
軍艦のほうは新興のアメリカ合衆国が蒸気機関使用に先進的で,浦賀へきたペリーの艦隊も機帆併用であった。当時の日本も咸臨丸や開陽に見られるように機帆併用の新式艦で後を追った。しかし世界的に蒸気軍艦の優位が理解されたのは1853-56年のクリミア戦争で,その後の発展は急速であった。1870年前後には帆をもたず,回転式の砲塔と装甲を備えた軍艦が現れる。
こうして20世紀は蒸気船,続いて蒸気タービンとディーゼルエンジンの時代となる。
→汽船 →軍艦 →帆船
執筆者:野本 謙作
船はその用途により大きく3種類に分けられる。一つは旅客や貨物の輸送にあたるものでこれを商船と呼び,さらにその主目的によって客船と貨物船に分けられる。二つ目は海上での作業を目的とする船で特殊船と呼び,漁業に従事する漁船,土木作業・港内支援を行う種々の作業船などが含まれる。最近では海底油田掘削をはじめとする海洋開発を目的にさまざまな船が作られている。もう一つは軍事目的に使用される船で軍艦と呼ばれる。ごく一部の例外を除き,これらの船は水の浮力により支えられている。これが船の最大の特徴であって,ここに交通機関としての長所もあれば短所も存在するのである。
物体を水の中に入れると浮力が働き,物体はそれがおしのけた水の重さだけ軽くなる。水面に浮かんでいるものは何であっても,その状態では作用している重力と浮力とは大きさが等しく向きは互いに反対で,ちょうどつりあった状態になっている。浮かんでいる木片をある力でおさえると木片は少し沈み,それだけ浮力が増加してバランスを保つ。全没状態にまでおしこむともはや浮力の増加分はないため,木片はおしこむ力をゆるめないかぎり水底まで沈んでしまう。
船に働く重力の中心を重心,浮力の中心を浮心というが,ふつうの船の場合図1-aのように重心Gは浮心Bより上方にある。なんらかの外力により船が傾斜した場合,重心は移動しないが,浮心はおしのけた水の中心であるため図1-bのようにBからB′へ移動し,船を直立状態に戻そうとするモーメントが働く。これを復原力と呼んでいる。図1-bにおいて,浮力の作用線と船体中心線との交点Mは傾斜角があまり大きくならない限り一定の位置になる。この点をメタセンターという。メタセンターは船の外形によってのみ決まる点であり,同一喫水状態では不変である。メタセンターが重心より上にあれば,傾斜角が小さい限り復原力が働き船は直立状態に戻る。一方,重心の位置は船の構造,貨物の積み方によってかなり変わる。重量物を船の上部に積み,重心GがメタセンターMの上方にくると,図1-cに示すように重力と浮力による傾斜モーメントは船をますます傾斜させる方向に働き,船は直立を保てなくなる。
傾斜角が大きくなると浮力の作用線はメタセンターを通らなくなる。しかしこの場合も復原モーメントが浮心の移動によって生ずることには変わりなく,図1-bに示す偶力のてこと重力または浮力との積による復原モーメントをもつ。船の傾斜角θに対してこのてこの長さの変化を示す図を復原てこ曲線という(図2)。復原てこが0となる角度を復原性範囲と呼び,この角度をこえて傾斜させると船は転覆する。ふつうの船ではこの角度は60~90度,航洋クルーザーでは120度程度である。特殊な救助艇では倒立状態でも復原力がある。一般船では,復原性範囲の限界にいたる前にどこかの開口部が没水し,そこから浸水して復原力を失うため,復原性範囲まで安全ということにはならない。
潜水船の場合,船が全没しているため上に述べたような浮心移動は起こらない。したがって,直立を保つためには重心を浮心より下におく必要がある。バラストタンクへの注排水によって潜水,浮上を行い,細かい深度の調整には潜舵と横舵を用いる。
水中翼船は浮力の代りに水中翼に生ずる揚力によって船の重量を支える。水面貫通型の水中翼をもつ場合,船が傾斜すれば傾斜した側の水中翼面積が反対側より大きくなるため復原力を生ずる。全没型水中翼の場合はこのような働きはなく本質的に不安定で,復原力は翼の自動制御により保っているが,翼が水面を貫通していないため,波の影響を受けにくい利点がある。
エアクッション船は,船底に空気を送りこみ,その部分の空気の圧力により船の重量を支えている。水中翼船が翼に集中して重量を支持するのに対し,船底の全面積で支持し,しかも空気の漏れは周辺からのみであるため大型化しやすい。ドーバー海峡では,乗客500人と乗用車50台を積む大型エアクッション船が就航している。
水の中を船がある速度で航走するとき,船は水からの抵抗を受ける。この抵抗にうちかって走るためにそれと同じ強さの推進力をなんらかの装置で発生させる必要がある。
船の抵抗のおもな成分として摩擦抵抗と造波抵抗がある。また船の形が悪い場合には渦を発生し大きな抵抗となる。この渦の発生による抵抗を造渦抵抗と呼んで区別していたこともあるが,現在の船では流線形の採用などによって渦を発生させないようにしており,造渦抵抗は他の二つの抵抗に比べれば無視できる程度に小さい。
摩擦抵抗は固体どうしの摩擦とは異なり,固体である船と周囲の水との間で発生する。船体に接した水は粘性により船と同じ速度で移動し,船から少し離れたところの水は静止している。したがって,船が走ることによってその周辺の水にある速度分布を与えることになり,水の粒子間の速度の差が摩擦を発生させる。船に生ずる摩擦抵抗はその表面積と速度のほぼ2乗に比例した大きさとなる。船体表面の状態も大きな影響があり,表面が汚れてくると摩擦抵抗が増え,1年間続けて航海すると燃料消費が10%近く増えることもある。このため,1年1回はドックに入り表面清掃とペイントの塗り直しを行う。最近では高性能のペイントが開発され,数年間ドック入りをしなくともつねに良好な表面状態を維持することも可能になってきた。
造波抵抗は船が走るときに波を発生し,その波が遠くまで伝わることにより,運動エネルギーが散逸するために生ずる抵抗である。平均的な性質としては速度の4乗に比例し,したがって高速船になるほど造波抵抗の成分が大きくなる。波が発生するのは主として船首部分と船尾部分であり,そのときの波長は船の速度によって決まる。したがって,波長と船の長さとの関連で船首波と船尾波の干渉が起きるため,遠方に伝わる波は強め合ったり弱め合う。その結果,造波抵抗と速度の関係は,4乗に比例する平均線のまわりに大きく変動する。この性質は船型設計上重要で,船首にバルブをつけて(球状船首という)船首波と逆位相の波を発生させることによる造波抵抗の低減が広く行われている。また最近では船の各部から発生する波を互いにうまく干渉させ,計画した速力において造波抵抗を極端に小さくさせる手法も確立されている。
波は水面上に発生するものであるため,ある程度の深度を航行する潜水船には造波抵抗は生じない。しかし,潜水することにより浸水表面積が増加するため摩擦抵抗は増える。摩擦抵抗増加分と造波抵抗減少分が相殺する速力は大型船で30ノット以上の領域となる。
推進装置としては現在ほとんどの船がスクリュープロペラを採用している。プロペラの翼面はねじ面の一部を形成しており,これを機関により回転させる。ねじのピッチ速度より遅い速度でスリップしながらプロペラが水の中を前進するときプロペラ翼面に揚力を生じ,これが船を前進させるための推進力となる。理論上は,プロペラによる流体の加速が少ないほどプロペラ効率は高くなる。したがって条件が許す限り,できるだけ大きな直径のプロペラを低回転数で駆動し,プロペラ円内の単位面積当りの推力発生をできるだけ小さくすることが望ましい。
タグボートや大型タンカーではこの単位面積当りの発生推力が大きくなる。このような船ではプロペラ効率向上のためダクト付きプロペラを用いることもある。
キャビテーション防止も舶用プロペラでは重要な課題である。プロペラ翼面に発生する揚力は負圧による部分が主であるが,圧力が低下して水の蒸気圧に近づくとキャビテーションが発生し,効率の低下のほか振動,騒音を発生し,極端な場合壊食によりプロペラ自体を破損してしまう。防止法としては回転数を低く設定することのほか,翼の弦長を長くして,揚力発生の負圧が翼面の一部に集中しないようにすることが行われている。飛行機に比べ船のプロペラ翼の幅が広いのもこのためである。特殊目的のプロペラとしては,空中プロペラ,ウォータージェット推進が主として水深の浅いところを航行する船に使われるほか,タグボートに使われる操作性に優れたフォイトシュナイダープロペラなどがある。
プロペラ駆動用の機関としては,ディーゼルエンジン,蒸気タービン,ガスタービンなどがある。またこれらの機関により発電機を駆動し,発生した電気で電動機を介してプロペラを駆動する電気推進も,砕氷船などのとくに操作性が重視される船に使われることがある。従来大出力機関には蒸気タービンを使うのがふつうであったが,現在では高出力機関の開発によりほとんどの船がディーゼルエンジンを採用している。プロペラ回転数が低いため,駆動方式には低速機関にプロペラを直結する方式と,中高速の機関を減速機を介して結合する方式とがある。低速ディーゼルエンジンは船独特のものであり,毎分100回転以下のものが使われる。速力制御には機関の回転数そのものを変える方法がふつうであるが,回転数を一定にしておいて,プロペラ翼面の角度を変える可変ピッチプロペラを採用する船も増えている。
→船型 →プロペラ
船の構造用材料としては鋼がもっとも一般的であるが,小型船では強化プラスチック(FRP)が多い。一部にはアルミニウム合金が使われ,特殊な例としてはフェロセメントの船もある。木材は入手が困難となったためほとんど使われなくなった。内部構造にはガスキャリア用に低温用材料としてステンレス鋼やアルミ合金,石油製品を運ぶプロダクトキャリアやケミカルタンカーにはタンク用材料として特殊合金が使われている。
船の基本構造は,船底,外板,甲板により船の外形を形づくり,その中を何枚かの隔壁によって仕切って作られている。これらはそれぞれ肋板,肋骨,梁と呼ぶ骨組みによって補強されている。隔壁は強度部材としての重要な役割のほか,水密構造になっていれば,衝突時に外板が破れた場合も浸水を一部分にくいとめることにより,船を沈没から守る役割も果たせる。船首および船尾の隔壁の前後は船の縦方向の傾斜の調整(トリミング)を行うタンクになっており,ピークタンクと呼んでいる。このタンクに注排水をすることにより,前・後部の喫水調整を行う。一部の船を除き船底は二重底構造とするのがふつうである。二重底にすることにより座礁時の安全向上を図ることができる。また二重底内はタンク構造になっており,燃料タンク,清水タンク,バラストタンクなどに使用される。バラストタンクは空荷状態のとき海水を注入して喫水を深くするために用いる。喫水が浅すぎると安定性を損なうほか,波の中で船首部が水面をたたき(スラミング現象),船体損傷に至ることも多い。空荷状態でさらに嵐が激しくなった場合など,船倉の一部にも注水して喫水をさらに深くするよう設計された船もある。この場合,隔壁構造にはそのための補強が必要である。
外板は通常の船では1枚であるが,危険物運搬船では耐衝突の二重構造とする場合もある。甲板は船の目的により2層,3層とする場合がある。最上層の甲板は重要な強度部材であり,また荒天時には波の打ちこみから船を守る役割も果たす。波の打ちこみを防ぐため前・後部では中央部より高くなっているが,これをシアーと呼ぶ。また断面で見ても船体中心線では船側より甲板を高くし水はけをよくしている。これをキャンバーという。甲板上には船楼および甲板室を設け,操舵室,居住区,倉庫などにあてている。
船の強度は横強度(部分構造強度,局部強度ともいう)と縦強度(全体強度)の両観点からの検討を行う。小型船の場合,横強度を満足する船は縦強度も十分満足するが,大型船になるほど縦強度の検討が重要となる。
横強度は船の断面構造についてその強度を検討するもので,肋骨と肋骨の間隔を一つの単位として,4本の棒材で組み上げられた1個の枠組みとして計算を行う。棒材の強度は肋骨と外板あるいは梁と甲板によって受けもたれ,この計算によって肋骨や梁の寸法あるいは外板や甲板の板厚が求められる。断面構造に働く力としては,水圧と荷物による荷重がある。水圧はその断面の喫水のみにより定まり,荷物にはよらない。船全体は先に述べたとおり重力と浮力がつりあった状態になっているが,部分的な各断面それぞれについてこの状態が実現されているわけではない。波の中では変動圧力が静水圧に加算され,喫水が深くなるにつれて要求される強度はよりきびしくなる。強度上許される喫水あるいは構造設計の基準となる喫水を寸法喫水と呼んでいる。
縦強度は船全体を縦方向に見た場合の強度である。横強度で述べたように,船の各断面においては重力と浮力がつりあっているわけではない。静水中においてもこのアンバランスにより船全体に大きなモーメントが加わる可能性がある。たとえば,船の前・後部に重い荷物を積み中央部を空にすると極端な場合船が折れ曲がる危険さえある。荷物の積みつけに注意した場合でも,波の中では大きなモーメントを受け,船体中央部に波の山がきた場合は上に曲げられ,波の谷がきた場合は下に曲げられる。縦強度としては,許容できる荷物積みつけのアンバランス量と波による曲げモーメントの大きさについて基準を設定し,先に決めた横強度による寸法がその基準を満足するか否かの検討を行う。満足しない場合,甲板や船底構造の補強,さらには船の深さを大きくとるなどの対策により,横強度計算で決めた寸法を修正する。
→船体強度 →船体構造
船を実際に機能させるためにはこれまで述べた船体と機関のみでは不十分で,その船の目的に応じた艤装を行う必要がある。おもな装置には,操舵・航海装置,係船装置,荷役装置,救命設備,防火設備などがある。人間が居住しているのでおよそ生活に関連した設備としてあらゆるものが含まれると考えてよい。
係船装置は停泊中船をつなぎとめておくための装置である。陸上交通機関は停止時ブレーキをかけておくだけで静止摩擦により位置を保持できるが,船の場合静止摩擦はなく,わずかな風や潮流により簡単に流されてしまう。係船方法には岸壁係船,ブイ係船,錨泊(びようはく)の方法がある。前2者は繊維索,ワイヤロープを用い,ムアリングウインチにより操作を行う。錨泊は錨と錨鎖(びようさ)によって行う。係船装置の容量は通常15m/sの風,1m/s以下の潮流という条件の下で決定され,したがって,台風の接近などによりこれを上回る外力条件が予想されるときは港を離れなければならないこともある。
航海装置としては位置測定装置,方位測定装置,時計,速力計が必要である。航海に先立ち航海計画を立案し,それに従って操船を行うが,ときどき位置を測定し,あとはどの方向へどのような速力で何時間走ったかということから自船の位置を推測しながら計画を実現していく。位置の測定は地文航法,天文航法があり最近では電波航法および衛星航法が主流となってきた。方位測定にはジャイロコンパスまたは磁気コンパスが使われている。航法装置の発達により,自動航海も夢ではなくなりつつあるが,このためには,機関の信頼性を向上し故障発生をできるだけ少なくすることのほか,衝突予防装置,座礁予防装置の開発などが必要である。
貨物船にとって荷役装置はとくに重要である。いくら高速性能を誇る船でも荷役に時間がかかれば何の価値もない。デリック式荷役装置が古くから使われているが,デッキクレーンをもつ船も増えている。最近の大きな特徴は船の専用化である。船とともに岸壁も専用化し,いっさいの荷役を陸側で受け持つ傾向がますます強まっている。この場合,船には荷役装置はまったく設置されない。コンテナーヤード,製鉄所の専用岸壁などに置かれたクレーンがその代表である。コンテナークレーンは2分間に1回のペースで荷役を行い,鉄鉱石や石炭の専用岸壁の大型クレーンは毎時4000tをこえる荷役能力をもっている。
液体貨物を運ぶタンカーは貨物の特殊な性格からポンプによる荷役が専用化されている。積荷は陸上のポンプによるが,揚荷は船側のポンプによって行う。揚荷を陸側からしようとすれば真空ポンプにならざるを得ず,揚荷の水頭に限度があるからである。液体荷役の場合,配管さえあれば岸壁を必要としないことも大きな特徴である。大型タンカーの場合,沖合にブイあるいはドルフィンのみを建設し岸壁なしの荷役を行っている。粉体の固形物の場合,気体あるいは液体とそれを混合して流体のような荷役ができる。穀物は気体輸送で荷役をすることが多く,最近では石炭と水とを混合したスラリー荷役の大規模な計画が行われている。
→係留 →港湾荷役
1967年イングランド南西沖で座礁し,原油約7万tが流出したトリー・キャニオン号事件,78年イギリス海峡で発生し原油約22万tが流出したアモコ・カジス号事件などに見られたように,大型タンカーが事故を起こし積荷を海上に流出させると,大規模な環境破壊を生ずる。このような大事故に対しては有効な対策はなく,事故の未然防止以外にはない。大事故は別としても,日常業務の中での油あるいは危険物の流出防止に大きな関心が払われている。かつてタンカーは空荷航海時には貨油タンクにバラスト水を積み,積荷時にはそのタンクから油まじりの水を排出していた。タンク清掃に使用した水もそのまますてていた。これらが原因で世界中の海が廃油ボールで汚染されたが,専用バラストタンクの設置義務,水にかえて原油でタンクを洗浄する方法の開発,油水分離器の設置義務などの対策により改善が行われている。
→海洋汚染
造船所で船が進水した状態では,ちょうどたらいを水につけたときと同じで,ほとんど船全体が水面上に浮いている。機関その他の艤装品が積みこまれるに従い,しだいに喫水は深くなるが,そのときどきの船の重量と船がおしのけた水の重さ(=浮力)はつねに等しい。完成時の船の重量を軽荷重量という。軽荷状態の船に貨物や燃料を積むと,その重力だけ喫水が増して浮力が増加してバランスを保つ。長さ150m,幅20m程度の船を例にとると,この関係は約20tの貨物増に対し約1cmの喫水増となる。船には安全上最大の喫水が定められており,その状態を満載状態という。満載状態でおしのけた水の重さ(=満載排水量)と軽荷重量の差がその船に積みこめる貨物,燃料その他の重量である。これを重量トンと呼び,主として貨物船の積載能力の表現として用いている。軍艦などのように軽荷時と満載時とで喫水の差が少ない船は全備状態での排水量で船の大きさを表現する。これを排水トンという。
船の大きさの表現として総トンという測度がよく使われるが,これは重量ではなく船の全容積の表現である。総トンは客船に使われるほか,あらゆる船の登録上の基準としても用いられる。
→船舶トン数
執筆者:小山 健夫
船以前のもっとも単純な形態といえるのが浮きである。川を渡るときなどに,木切れ,革袋,ひょうたんなどを利用する。たとえば,ニューギニア北部では,未加工の木の幹にまたがって櫂でこぐ方法が用いられている。古代メソポタミアでは,動物の革袋にすがって泳ぐようすが粘土板のレリーフに描かれている。この種の革袋の浮きは今日でも東ヨーロッパ,西アジア,中央アジアで広く見られ,とくに遊牧民は,移動の途中で増水した川を渡る際に,家畜の革袋を盛んに利用する。ひょうたんの浮きは,韓国の済州島の海女たちが使っている。南インドでは,壺を浮きにして,これにまたがって沼地で漁をすることがある。
次に簡単な構造をもった舟として,いかだがあげられる。人や物を乗せて流れを下ったり,人が泳ぎながらおしたりするのがもっとも基本的な形態であるが,さらに目的に応じてさお,櫂,櫓,帆などを併用する。伐採した木材をいかだに組んで運ぶ方法はしばしば見られる。ベトナムや台湾では,前方をそり上がらせた竹筏(テッパイ)が漁船として海上で用いられている。また,いくつかの葦の束を舟形に束ね合わせて作るいかだすなわち葦舟は,古代エジプトで用いられていたが,今日でもアフリカや南北アメリカ大陸で幅広く使用されている。
皮舟もまた,伝統的な形態の舟である。皮舟とは,柳などの枝で骨組みを組んで外側に獣皮をかぶせたものをいう。皮舟の代表的なものの一つが,イギリスやアイルランドの河川で用いられているようなコラクルcoracleと呼ばれる舟であるが,似た形の皮舟は古代メソポタミアでもすでに知られていた。このほか,エスキモーのウミヤック,カヤックなども皮舟の一種である。ウミヤックはボート型で,おもに運搬や漁などに用いられ,エスキモーのほかにも,シベリアのチュクチ,コリヤーク,カムチャダール,ヤクートなどの民族が利用している。一方,カヤックは,ウミヤックよりも小型で,甲板はこぎ手のすわる席のところだけ丸く空けてあるほかは,全体が獣皮で覆われている。エスキモーはカヤックに乗って漁労や海獣狩猟を行うが,これは氷の割れ目をぬって音をたてずに獲物に接近したり,すばやく追跡したりするのにカヤックが優れた性能を発揮するからである。このほか,皮舟には,獣皮でなくカバなどの樹皮を用いて作るものもある。
1本の木をくりぬいて作る丸木舟も各地に分布している。丸木舟の造船技術の特色の一つに,東南アジアなどに見られるような,舟の横幅をおし広げる方法がある。原材をくりぬいて舟の形を整えたのち,舟の内側を水でぬらして水分をしみ込ませ,外側を火で暖めながら幅を広げていくのである。ミャンマー南部メルギー諸島のモーケン族は,この方法で丸木舟を作っているが,彼らは舟を家族ごとの住居として,海上を漂泊しながら1年の大半を過ごすという独特な生活形態を守っている。丸木舟を基礎として,それにアウトリッガーをとりつけた舟が,インド洋,東南アジア,太平洋などの各地で数多く見られる。アウトリッガーとは,舟の本体から張り出した腕木のことで,下部には浮き木(フロート)が取りつけられる。地域によって,アウトリッガーを舟の片側につけるところと,両側につけるところがあるが,いずれも舟の安定性を高めるのに役だっている。
水の上の移動を可能にする船の発達は,人々の生活に大きな変化をもたらしてきたが,なかでも,遠距離の航行に耐える遠洋航海用の船の発達は,古代からさまざまな民族や文化の交流に重要な役割を果たしてきた。とくに,多島海の広がる東南アジア,太平洋地域への民族および文化の移動は,船と航海術の発達を抜きにしては語れない。たとえば,紀元前にインド亜大陸で開花したインド文明は,しだいに東南アジアにまで波及していったが,これは内陸の山岳地帯を越えて伝播したものではなく,海上を通って運ばれたものであった。前1世紀ころから,南インドの東海岸にすむタミル族の商人たちは,大きな横帆を備えた帆船でベンガル湾を横断して,マレー半島,スマトラ島,インドシナ半島南部の海岸に進出し,いくつもの拠点を設けて商業活動を行うようになった。その結果,先進的なインド文明がさまざまな形で東南アジアにもたらされたのである。その影響はとくに,1~2世紀ころ東南アジア各地に成立したいくつかの国家における思想,制度,農業技術,土木技術などにきわめて強くあらわれている。
太平洋の島々への民族移動もまた,船と航海術の発達と深くかかわっている。なかでも前3000年~前2500年ころに始まったアウストロネシア語系の人々の移動は重要である。彼らはもともと,中国大陸からインドシナ半島にかけての沿岸地方に住んでいた海洋民であると思われるが,しだいに太平洋へ進出しはじめ,フィリピンからミクロネシア,インドネシア,メラネシアへと拡大していった。そして,これらの地域の先住民に根栽農業(イモ作農業)をもたらしつつ,前1500年ころには東部メラネシアにまで達し,さらに前1200年ころにはトンガに達した。そして300年ころからは,トンガを拠点としてポリネシア各地への大規模な民族移動が始まり,1000年ころまでに,北はハワイ諸島,南はニュージーランド,東はイースター島に至る広大な範囲に広がっていったのである。ポリネシアには,大型の竜骨をもつ板あわせカヌーや,このカヌーを2隻横に並べて接ぎあわせた大型のダブルカヌーなどがあり,遠洋航海に適したこれらの船が,ポリネシア人の移住に重要な役割を果たしていたことは想像にかたくない。そして彼らが優れた航海術を背景にして島々に急速に進出していったことにより,ポリネシア全域は,言語,神話,社会制度,物質文化などあらゆる方面にわたって驚くほどの均質性をもつに至ったのである。
伝統的な造船の儀礼は,世界各地でさまざまな形式で行われてきた。たとえばハワイ諸島では,祭司が祭壇の前で眠っている間にみた夢に基づいて船の材料にふさわしい木を選ぶことから始まり,木をきる前には豚,ココナツ,魚などの供物が祈りとともに神々にささげられ,さらに造船の全工程にわたって儀礼が行われるのである。また,ニューギニアやアフリカなどでは,造船や進水に伴って人身供犠が行われることがしばしばあった。伝統的な造船儀礼は精霊崇拝と結びついていることが多い。ポリネシアでは,船は材料となる木の精霊と関係があるとされ,造船儀礼にもその観念が反映されている。ハーベー諸島では,船を建造するときに歌う歌は,もとは木の精霊に呼びかけるものであったという。サモアでは,木をきる前,船の作りはじめ,および造船の重要な段階ごとに,その木が生えていた木立ちの精霊をなだめる儀礼が行われる。アフリカでも,造船や進水式の際に精霊に供犠がささげられるが,この精霊も船の材料となる樹木と結びついている。大きな船の精霊は木の精霊であるとされ,それは材木,とくに船の竜骨となる部分に宿ると考えられている。アフリカ南部にすむバンツー系のバロンガ族では,船の材料となる木をきる前に,その木の生えている森に埋葬された祖先の霊魂に供物をささげる。船と結びついた木の精霊が,ここでは死者の霊と関連している。死んだ祖先の精霊に対する信仰が造船儀礼と結びついた例はメラネシアでも見られる。ニューヘブリデス諸島のアンブリム島では,船を作る際と完成した後とに儀礼が行われるが,この儀礼のなかで人々は,祖先の船大工たちの霊魂を呼び出して,彼らに船を守ってくれるように頼み,豚を殺して供物としてささげるのである。メラネシアの宗教は,祖霊信仰が基礎となっており,造船の際のこのような祖霊崇拝も,その影響を受けているものと思われる。
執筆者:清水 純
船はまず庇護を与える安息所という象徴的意味を有し,世界や大地,国家などがこれに比定されたり,魂を宿す人体や子を宿す女性が船として表されたりする。〈ノアの方舟〉はその代表例の一つである。また,キリスト教ではしばしば教会を船にたとえ,その身廊をネーブnaveと呼ぶのはラテン語のnavis(船)に由来する。
一方,船による航海は,意識の変容や人格の発展などにおける別の心理状態への移行,前進,救済などを意味し,死と再生による歓喜や至福,超越などを示す象徴と考えられていることが多い。世界各地で,海の彼方には他界や彼岸があり,神々や死者,または霊魂が住む所と信じられており,舟は他界への導き役や墓地の象徴ともされる。日本で古代から中世に語られたうつぼ舟などもこの例といえる。これに関連して春の農耕祭や新年には,海の彼方からや,川をさかのぼり,船に乗った使者が訪れて,幸運や災難をもたらすという考え方も普遍的に存在する。中国や日本で信じられている海の彼方にあるという蓬萊の島や補陀落渡海(ふだらくとかい),長寿や永遠の生命の象徴である高砂の翁と媼(おうな),新年の初夢とかかわる七福神を乗せた宝船の信仰や,お盆に祖霊を祭った後の灯籠流しなどは,そのような観念を反映した具体例といえよう。船に乗った不思議な使者を祝う祭礼は,ヨーロッパの各地にも見られる。
ギリシア神話のオデュッセウスの旅は典型的な航海神話で,航海による苦難とその超克によってもたらされる至福を意味するが,西欧のルネサンス期には,これと反対に,目的地をもたない航海として,俗世間の快楽の追求の寓意である〈愚者の船〉が裸女や酔いしれる人々の姿を伴って表現された。死と再世を示すものでは,北アメリカ・インディアンの民話に,夕方,太陽が西の海にのまれて,夜の間を魚の腹中で過ごし,朝になると東の海岸に打ちあげられて新たな力を得て再生し,東の空から昇るという太陽を主題としたものがある。古代エジプトでも,太陽神ラーは太陽船に乗って昼は東から西へ,夜はヌート神の体内もしくは冥界を西から東へと航行すると信じられていた。スイスの心理学者のC.G.ユングは,これを〈夜の航海〉の主題とよんで,海に象徴される無意識への退行と意識の再生による心理の変容過程を示すものと考えた。大魚にのまれて三日三晩海を航海した旧約聖書のヨナの話も同様な意味をもつものであろう。エジプトやアッシリアには,死者を乗せて航海する船の描画があるが,これも死と再生または永遠の生命を象徴するものと考えられる。船の中央にある帆柱を〈生命の樹〉とし,霊魂の上昇,超越,救済を意味するという説もある。
執筆者:秋山 さと子+荒俣 宏
ここでは,鋼材を用い,蒸気機関を利用した船舶を建造する近代造船業の世界の歴史についてふれる。日本の造船業については〈造船業〉の項目を参照されたい。近代造船業が産業として自立するようになったのは19世紀末のイギリスにおいてで,以来イギリスは,1950年代半ばに日本に追いつかれ,追い越されるまで,世界の造船業のトップにあった。まず,19世紀末以降の世界の造船業の動向を進水量のピークとボトムについてみると,図3のようになる。1919年,43年,58年と突出したピークがあるが,これはそれぞれ,第1次世界大戦,第2次世界大戦の影響,それに戦後の世界経済の回復と成長の過程における現象によるものである。第2次大戦前の平時における造船業は1913年に333万総トンに達した後,ほぼ横ばいに推移した。一方ボトムをみると,世界恐慌(1890,1900,1907,1920,1929)の循環に対応して,造船業も循環していることがわかる。とくに大恐慌(1929-35)のときには,そのボトム(1933)はもっとも深く,造船量も48万総トンでしかなかった。
19世紀末から1950年代半ばまで,第1次,第2次の両大戦の異常時を除き,イギリスは世界の造船業のトップの座を保持した。しかし,世界の造船量におけるイギリスのシェアをみると,1892-95年の平均は80.0%であったが,第1次大戦前後には50%を切り,第2次大戦後には16.6%(1956-60平均)に低下していった。その造船量は,1892年の110万総トンから1920年には205万総トンに達したが,以降この水準を回復することなく,むしろ低下の傾向にある。産業革命発祥の地であり当時の唯一の近代工業国であったイギリスが,近代造船業の強力な先発国となり,トップの座を占めえたのは当然であった。しかし,すでに1890年代からドイツとアメリカの造船業はイギリスの脅威となっていた。例えば,アメリカのC.G.カーティスのタービンの改良(1896),ドイツのR.ディーゼルのディーゼル機関の発明(1897)は動力機関の発達に多大の貢献をし,これら両国の造船業の技術水準の高さを示すものであった。
ドイツは,近代造船業においては後発国であったが,経営者,労働者の能力不足を優れた新設備と秀でた新技術で補い,イギリス造船業の最強の競争者となった。1892年の造船量は6万4000総トン(世界の造船量のシェア4.7%)であったが,第1次大戦後の1922年には52万総トン(同シェア21.1%)に達した。その後この水準を回復したのは第2次大戦後の52年であったが,以降着実に伸び58年には142万総トン(同シェア15.3%)に達し,イギリスを超えるに至った。
アメリカに近代造船業が誕生したのは1893年であったが,そのときの造船量は6万2000総トン(世界の造船量のシェア6.1%)とドイツに匹敵するものであった。しかし,当時世界の造船業のトップであったイギリスは,アメリカの造船業は自国海運業向けのものであって,輸出市場における競争者とはみなさなかった。この判断は正しかった。確かに,第1次大戦直後の1919年には,303万総トン(同シェア42.2%),20年には407万総トン(同シェア69.5%),21年には247万総トン(同シェア56.7%),第2次大戦時の43年には,1157万総トン(同シェア83.4%),44年には933万総トン(同シェア83.7%),45年には596万総トン(同シェア83.0%)と,異常時にはドイツはもちろんイギリスさえも上回る圧倒的な造船能力を実現しうることを示した。だが,平常時においてかつてはドイツに肩を並べるほどであったが,しだいにフランス,イタリア,オランダ,スウェーデンなどと同水準になった。
1892年当時,ドイツに次ぐ造船量を記録したのがノルウェーの2万4000総トン(同シェア1.8%)であった。同時に,スウェーデン,デンマーク,フランス,イタリア,オランダ,スペインでも近代造船業は開始された。その後,フランス,イタリア,オランダ,スウェーデンの造船業の伸びは着実で,第1次大戦を境としてノルウェーは遅れをとるようになり,第2次大戦後はこの傾向がより明りょうになった。そして,1956年には,日本が174万総トンの造船量となり,イギリスを抜き世界のトップの地位へ進出し,以後それを守り続けている。
執筆者:米沢 義衛
法律においては船舶という語を用いるのが普通である。ふね,船舶を一般的に定義した法律はない。そこで,広義の船舶の意義は,社会通念によって,人または物を運搬する目的で水を航行する用に供しうる能力があり一定の構造を有するもの,とでもいうことになる。この場合,水とは,水上のほか水中も含む。ホバークラフト(エアクッション艇)や水中翼船は,船と認めうるが,飛行船や宇宙船は,船と呼ばれていても,現在の社会通念ではまだ,ここにいう船舶とはいえない。筏は,それを構成する木材自体の運搬を目的とするものであるから船舶ではない。船の形をしていても,場所的移動をしない灯台船や水上倉庫などは船舶ではない。また,池の底に敷設されたレールの上を動く遊覧船も船舶とはいえない。
このように社会通念ないし常識によって船舶と認められるもののうち,個々の法律が,それぞれの法規整の目的と必要性によって,それぞれの規定の適用上,船舶の範囲を限定しているものが,狭義の船舶である。たとえば,船舶の航行に関する行政上の基本法である船舶法(1899公布)は,推進器を有しない浚渫船(しゆんせつせん)を船舶と認めていない(船舶法施行細則2条)。しかし,海上における船舶の衝突を予防し,船舶交通の安全を図ることを目的としている海上衝突予防法(1977公布)では,船舶とは,水上輸送の用に供する船舟類(水上航空機を含む)をいい(海上衝突予防法3条1項),やや範囲が広い。また,船舶職員として船舶に乗り組ますべき者の資格を定めるための船舶職員法(1951公布)では,櫓櫂船(ろかいせん)や係留船,被曳艀(ひえいはしけ),そのほか長さ1.5m未満で推進機関の出力が2馬力未満のものなどは,船舶に含まない(船舶職員法2条1項,同法施行規則2条2項)。企業法である商法では,商行為をなす目的をもって航海の用に供するもの(商法684条1項)すなわち,航海船たる商行為船だけが船舶である。航海船とは,平水区域(船舶安全法施行規則1条6項)を除いた航行区域を航行する船舶をいう。そこで,たとえ商行為船であっても,平水区域のみを航行する船舶(平水船,内水船)と櫓櫂船(商法684条2項)は,商法上の船舶ではない。ところが,船舶法35条が,商行為以外の目的で航海の用に供する船舶(公用船は除く--35条但書)に,商法を準用しているので,商法の適用ないし準用のある船舶の範囲は,それだけ広がっている。
船舶は,法律上は物すなわち動産(民法85,86条参照)であり,権利の客体である。しかし実際には種々の規定によって不動産的取扱いをうけ,また,人に類似した取扱いをうけている。不動産的取扱いとは,船舶に登記制度(商法686条,船舶登記規則参照)や登録制度があり(船舶法5条1項),抵当権の設定も認められること(商法848条),また船舶に対する強制執行(民事執行法112条以下)や競売(189,181~187条)は,不動産に類するか,またはこれと同一の方法によっていることなどに現れている。そして船舶は,人と同じように,名称(船舶法7条),国籍(1条)を有し,人の住所に相当する船籍港(4条)をもつ。船舶の名称は,船首両玄の外部および船尾外部の見やすい場所に標示することが義務づけられており,その変更には,管海官庁の許可がいる(8条)。また,なるべくその末尾に〈丸〉の字を付すことになっている(船舶法取扱手続1条)。
船舶の国籍(船籍)は,国際法や行政法,また国際私法のうえで重要な意義をもつ。国籍取得の要件について,立法例は,国民の所有,国民の製造,国民の乗組を種々に組み合わせているが,日本は,国民の所有だけを要件としている(船舶法1条)。船舶所有者は,船籍港を定め(4条),登記(商法686条),登録(船舶法5条1項)したのちに,船舶国籍証書を受有することになる(船舶法5条2項,船舶法施行細則30条)。日本国籍を取得することにより,日本船舶と外国船舶との区別を生ずる。日本船舶は,日本国旗掲揚権(船舶法2条),不開港場への寄港権(3条),沿岸貿易に従事する権利(3条)をもつ。船籍港は,船舶所有者が,自己の船舶の登記・登録をなし,船舶国籍証書を請い受ける地である。日本船舶の所有者は,日本に船籍港を定めることを要し(4条1項),それは,船舶の航行しうる水面に接した市町村にかぎり,原則として当該船舶所有者の住所にこれを定める(船舶法施行細則3条)。そして,船尾外部に市町村(または都)の名称により標示する(船舶法7条,船舶法施行細則44条)。
前述のように,船舶は,物であり権利の客体である。船舶所有権が取得される原因は,一般の動産とほぼ同様である。ただし,公法上,捕獲・没収(船舶法22,23条)など特殊なものもある。私法上の取得原因は,造船契約,譲渡,相続,合併などのほか,海商法上の保険委付(商法833条)がある。なお,船舶は,動産ではあるが不動産的取扱いをうけていることもあり,即時取得(民法192条)の適用はないものと解されている。
船舶所有権の譲渡は,当事者の合意(特別な方式は必要としない)のみによってなしうる。そして,登記船についての所有権の移転は,その登記をなし,かつ船舶国籍証書にこれを記載しないと,第三者に対抗できない(商法687条)。また,財産権としての船舶は,海上企業を営む者にとって,資金調達のために重要な担保物となる。すなわち,船舶が航海を継続するために求めた経済的(借財,必需品の調達など)または労務上(救助,水先案内,曳船など)の援助を提供した債権者たちは,その船舶の上に先取(さきどり)特権を有する。これが,船舶先取特権の制度である(842~847条)。さらに,船舶金融の必要性から,法は,登記した船舶について,抵当権の目的とすることを認めている(848条1項)。これが船舶抵当権制度である。
船舶は,法令上の取扱いの相違に応じてさまざまに分類できる。
(1)商船と非商船 商法上,商行為をなす目的をもって航海の用に供するものが船舶とされている(商法684条1項)ことからくる分類である。(2)航海船と内水船 その船舶の航行区域が,湖川・港湾を除いた海上であるか,湖川・港湾(内水)であるかによる分類である。(3)公用船と私船 公用に供するか否かによる分類である。(4)外航船と内航船 国際航海,国内航海のいずれに従事するかによる分類である。また,国際海上物品運送法が適用される(国際海上物品運送法1条参照)運送に従事するか否かにもかかわる。(5)汽船と帆船 機械力をもって運航する装置を有する船舶は,蒸気を用いるか否かにかかわらず汽船とされる(船舶法施行細則1条2項)。また,主として帆をもって運航する装置をもつ船舶は,機関を有していても帆船とされる(1条3項)。(6)貨物船と旅客船 12人を超える旅客定員を有する船舶が,旅客船であり(船舶安全法4条1項1号参照),貨物を運ぶことを目的とし,旅客は12名以下しか乗せないのが貨物船である。(7)登記船と不登記船 総トン数20トン以上の船舶(商法686条2項)で登記をうけた船舶が登記船で,それ以外は不登記船である。
執筆者:佐藤 幸夫
船は国際法上,公船(政府船舶),私船(商船),軍艦に分類される。
公船とは,軍艦以外の船舶で政府が所有または用船し,もっぱら公の用務に使用するものをいい,政府船舶ともいう。政府所有船舶であっても,純然たる商業目的に用いられるものは私船(商船)と同じに扱われる。公船は,外国の内水にあるときも,原則として旗国(船舶の国籍国)の管轄権の下にあり,外国の差押え,抑留を受けない。
私船とは,広義には軍艦および公船を除いた船舶をいう。狭義の商船とは,営業として海上輸送に従事する航洋船をさすが,商業目的に用いられる政府所有船舶も商船と同じに扱われる。私船は,すべて国籍を有し,これを証する国籍証書を備え国旗を掲揚しなければ,外国の港に寄港できない。船舶と旗国との間には真正な関連が存在しなければならない(1958年〈公海に関する条約〉5条)とされるが,便宜置籍船はいっこうに減少していない。私船は,公海上ではもっぱら,また外国領水内において船内で発生した事件で沿岸国や外国船に影響を及ぼさない場合にも,旗国の管轄権の下にゆだねられている。私船には,外国領海内の無害通航権が認められる。
軍艦とは,一国の海軍に属し,軍艦たる外部標識を掲げ,政府により任命された士官の指揮の下に,海軍の紀律に服する乗組員が配置されている船舶をいう。軍艦には,平時外国領海での無害通航権が認められているかははっきりしていないが,ひとたび領水に入ることを認められた軍艦は,治外法権や不可侵権を認められる。1982年の国連海洋法条約では,すべての船舶が国際海峡において通過通航権を認められることになった(38条)。
執筆者:西井 正弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…帆に風を受けて走る船。6000年をこえる船の歴史を通じて帆船はその中心的存在であったし,19世紀後半の急成長する工業と世界貿易を支えた動脈も近代的な大型商業帆船であった。この時期は旅客と郵便物,生鮮食料などの輸送を中心に汽船の優位が確立されてきた時代に当たるが,それでも1886年の全世界の汽船船腹約1000万総トンに対し帆船は1200万総トン(いずれも100トン以上の船のみ。ロイド船級協会統計による)にのぼり,貨物輸送の主力は帆船であったことがわかる。…
…造船業とは,文字どおり船を造る産業である。船は,目的別には,軍艦,商船,特殊船に分けられる。このなかでも,造船業のおもな対象となるのは商船である。商船は,運賃収入・用船料収入を目的とする旅客輸送船・貨物輸送船に大別される。いずれにせよ,船は,ある地点からある地点への人や物の移動に用いられる輸送機関である。したがって,景気等経済の動きに伴う旅客移動・貨物流動量の変動,および自動車,飛行機など他の輸送手段の発達が,商船そのものへの需要,ひいては造船業への発注量を左右する。…
…帆に風を受けて走る船。6000年をこえる船の歴史を通じて帆船はその中心的存在であったし,19世紀後半の急成長する工業と世界貿易を支えた動脈も近代的な大型商業帆船であった。この時期は旅客と郵便物,生鮮食料などの輸送を中心に汽船の優位が確立されてきた時代に当たるが,それでも1886年の全世界の汽船船腹約1000万総トンに対し帆船は1200万総トン(いずれも100トン以上の船のみ。ロイド船級協会統計による)にのぼり,貨物輸送の主力は帆船であったことがわかる。…
…洋船,中国船,中近東諸国の船,赤道海域諸国の丸木舟(カヌー)や葦舟などのいずれとも異なる,日本の固有在来の船の総称というのが一応の定義(広義)である。 しかし,〈和船〉とはきわめて漠然とした用語で,いつごろから用いられるようになったのかも明確ではない。現存史料による限り,〈百済船(くだらぶね)〉〈唐船(からふね)〉〈宋船〉〈暹羅船(シヤムせん)〉〈南蛮船〉などの対語としての〈倭船〉ないし〈和船〉なる文字は,少なくとも幕末前には見当たらない。…
※「舟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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