龍泉寺(読み)りゅうせんじ

精選版 日本国語大辞典 「龍泉寺」の意味・読み・例文・類語

りゅうせん‐じ【龍泉寺】

[一] 東京都台東区龍泉にある真言宗智山派の寺。山号は東光山。天慶年間(九三八‐九四七)の創建と伝えられる。中興開山は深盛。
[二] 愛知県名古屋市守山区にある天台宗の寺。山号は松洞山。本尊の馬頭観世音菩薩は尾張四観音の一つ。延暦年間(七八二‐八〇六)最澄の創建と伝えられる。
[三] 大阪府富田林市にある高野山真言宗の寺。山号は牛頭山。推古天皇二年(五九四蘇我馬子の創建と伝えられる。のち空海が再興。
[四] 大阪市中央区谷町にある浄土真宗本願寺派の寺。

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日本歴史地名大系 「龍泉寺」の解説

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]松阪市愛宕町

愛宕山上福院と号し、高野山真言宗。本尊愛宕権現。近世は京都嵯峨大覚寺末。現在、別堂として愛染堂・行者堂・荼枳尼天堂がある。「権輿雑集」に引く寺伝に「応仁文明ノ比マテ、当国一志郡滝野川ノ山中ニ、弘法ノ開基ト謂伝ル伽藍アリケル、愛宕ノ社モ其所ノ鎮守タリト」とみえる。現在当寺が所蔵する古文書のうち、最も古い文明一一年(一四七九)七月二五日付北畠政具御教書には、

<資料は省略されています>

とあり、宛名が滝野河下坊、安堵されているのが一志郡中村上庄中坊供僧職および坊領である。現在、中村なかむら川中流域に滝之川たきのがわ(一志郡嬉野町)の地名があり、同名の河川がその東方より流れ出して中村川に合流している。かつてこの滝之川に一寺院があり、その塔頭の一に下坊が存在したものであろう。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]大田原市山の手二丁目

蛇尾さび川右岸丘陵西麓にある。龍頭山不動院と号し、真言宗智山派。本尊は大聖不動明王。近世は宇都宮能延のうえん寺末。寺伝によれば初め小林こばやし(現中田原)に創建され、明応三年(一四九四)大俵(大田原)康清が水口みなくちに館を構える際、当寺を移し同家の菩提寺祈願寺とした。天文一四年(一五四五)大田原城築城により三の丸地先に寺地を与えられ、移転したという。以後大田原家祈願寺および城中仏事諸関係指図寺となり、寺領一〇〇石を与えられたという(明治一八年「寺院調書」阿久津モト文書)。慶応元年(一八六五)五月には藩主が当寺で駱駝を、九月には虎を観賞した(「大田原史料」大田原市教育委員会蔵)

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]武生市深草一丁目

太平山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「帰鴈記」に次のように記す。

<資料は省略されています>

応安元年(一三六八)能登総持そうじ寺の二世峨山の弟子通幻寂霊を開山に招き、越前国守藤原義清を根本檀越として創建されたという。通幻の門下からは、了庵慧明・石屋真梁・一径永就・天鷹祖祐・普済善救(現福井市禅林寺開山)・天真自性(現福井県今庄町慈眼寺開山)・不見明見(現武生市興禅寺開山)・天徳曇貞(現同市宗生寺開山)・芳庵祖巌(現同市願成寺開山)・量外聖寿の十哲を輩出し、その末流は全国に数百寺を数えた。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]熊谷市三ヶ尻

国道一四〇号バイパスの北に位置する。真言宗豊山派、少間山観音院と号し、本尊は不動明王。開山は心海(風土記稿)。享保八年(一七二三)京都仁和寺西院流の印信(龍泉寺文書)が当寺の信証に与えられ、翌年大覚寺宮から同人に色衣許可が認められている(「大覚寺宮令旨」同文書)。同一六年には大和長谷はせ(現奈良県桜井市)小池こいけ坊恵海から法談所の許可がなされ(「小池坊法談許可状」同文書)、寺格を整えた。上州榛名はるな山別当心地しんち院との交流があり、代参・講にかかわる史料が多く所蔵されている。寛政七年(一七九五)の新義真言宗本末帳でははり谷弘光やこうこう(現岡部町)の末寺。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]浜松市飯田町

稲荷山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。現広沢ひろさわ一丁目の普済ふさい寺末であった。地元では「いなりやま」と通称される。享徳三年(一四五四)かば御厨飯田いいだ郷の龍泉庵主能満禅師大義倫が建立したという(浜名郡誌)。大永五年(一五二五)閏一一月二三日の瀬名氏貞判物(龍泉寺文書)には「蒲東方之内稲荷山龍泉寺領」とみえ、前年の検地増分も含めて寺領が寄進された。天文一〇年(一五四一)に田地一町が安堵された(永禄一一年一一月二八日「今川氏真判物」同文書)。慶長八年(一六〇三)徳川家康から蒲東方飯田郷のうち三〇石が寄進され(同年九月一九日「徳川家康寺領寄付朱印状写」同文書)、幕末に至った。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]神辺町川北

古城こじよう(紅葉山)の東方、帰り谷かえりだににあり、曹洞宗、山号新宮山、本尊千手観音。

「備陽六郡志」は「古往竜興寺と号す、福山竜興寺の末寺なり」とし、往昔、利山道器居士なる人物が川南かわみなみ会下が窪えげがくぼに祖堂を開基として建立、福島氏時代、神辺城の城代であった福島丹波が現在地に移したという。つづけて、水野氏入部のとき「三州より泉竜寺を被召連、当寺を宿坊とす」とあり、福山城へ移る際、寺も移して慈雲山竜興寺と号したという。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]高千穂町上野

竜泉寺にある。集雲山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「高千穂庄神跡明細記」に、「正安元己亥年草創、開山後鳥羽院第三ノ皇子出家寒山(寒厳カ)禅師と云、入唐経山寺ニ至ル、帰朝の後肥後国大慈寺を建立後に此村ニ来り給ひ当寺を建立あり、祭主ハ三田井越前守大神親武公也」とあるが、三田井親武は戦国期の領主であり、正安元年(一二九九)とは年代が異なる。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]山田町織笠

旧浜街道の傍ら、字下霊堂しもれいどうにある。松巌山と号し曹洞宗で、本尊釈迦如来。江戸時代には瑞雲ずいうん(現宮古市)の末寺で、報恩ほうおん(現盛岡市)の支配下にあった(邦内郷村志)。寺伝によればもとは永徳えいとく(現胆沢郡金ヶ崎町)の末寺で、同寺の法嗣六哲の一人天山が、師道愛の命を奉じ布教伝道のため各地遍歴の途中、織笠おりかさ村に至った際、当時立神たてがみ館の館主であった織笠左馬亮保定はその徳風を慕って四隣の薫化正法の招提を請い、永享一一年(一四三九)当寺を建立、天山を開基とし瑞雲山龍泉寺と号したという。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]二本松市二伊滝

畠山氏本城跡の西北西に位置し、永松山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寛正四年(一四六三)畠山政泰が開基したと伝え、畠山高国・国氏の菩提所であった。江戸時代には末寺二一ヵ寺を擁した旧安達郡内の名刹(積達大概録)。当寺の所在地は旧字を西谷にしたにといい、二本松城の西郭にあたり眺望もよく軍事的にも重要な位置を占めた。寛永一四年(一六三七)二本松藩主加藤明利から成田なりた村内で二五石を給せられた(松藩捜古)。同二〇年に入部した丹羽光重もこれを安堵している(職例秘要)。境内に観音堂があり、その本尊である木造聖観音菩薩立像は県指定重要文化財

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]弘前市新町

弘前城跡西方、誓願せいがん寺境内地続きの同寺山門の右手前、専求せんぐ院の東向いにある。諸光山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀仏。もと誓願寺末寺。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によれば、寛永三年(一六二六)頃創立されたとあり、開山は順蓮社良故竜呑。開基は不詳。「新撰陸奥国誌」は開山竜呑を誓願寺二代住職無角の弟子とし、開基を亀甲かめのこう町の彦兵衛とする。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]三原市小泉町

小泉こいずみ町の東南部にある白滝しらたき山の頂上にあり、白滝山と号し曹洞宗。本尊十一面観音。もとは真言宗で寺伝では行基の開基という。南北朝初期に沼田小早川氏一族の小泉氏の氏寺となり、文和二年(一三五三)二月の小泉氏平龍泉寺置文(「豊田郡誌」所収)に、親敲が仏殿を修造し僧坊を建立して禅宗(臨済宗)に改宗したとある。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]日南町上石見

石見いわみ川の右岸、旧山根やまね村の小高い丘の中腹に辻堂のように建つ無住の寺。宗派や開基・開山は不明。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に「禅大龍山龍泉寺古寺」、「伯耆志」に「観音堂 村中山下にあり大蔵山龍泉寺と云ひし古刹と云へり」とある。奥日野札第一八番札所であった。本尊と思われる県指定文化財の十一面観音立像を秘仏として安置する。伝承によれば、石見川を隔てた城殿山じようでんやまにあった廃寺から当寺に移したものという(日南町誌)

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]成羽町下原 白谷

真言宗善通寺派に属し、山号は栖隆山。本尊聖観音。寺伝によると天平四年(七三二)行基の開山と伝え、大同年間(八〇六―八一〇)弘法大師巡錫の際、本尊を刻彫・安置したという。その後火災などで荒廃、寺運は衰退したが、元弘三年(一三三三)に呆仁が入山し中興。寛政二年(一七九〇)伽藍を焼失したが、二三世全遍が敷地を愛宕あたご山山麓から現在地へ移し再建した。境内の元亨四年(一三二四)銘の石造方柱碑は県指定重要文化財。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]田辺市元町

海雲山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。田辺藩古記録(宇井文書)所収の寛文六年(一六六六)の田辺領寺院書上によれば、草創時期は不明だがもと江川えがわ洲崎すざき(現田辺市)にあり、慶長一二年(一六〇七)当地に移転したといい、田辺町大帳の慶長一〇年の項に「龍泉寺、太夫ケ原何地なるか未だ考へずより移す」とあって、洲崎へも移転したものであったことがわかる。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]天川村大字洞川

洞川どろがわ集落のほぼ中央、大峰登山口にある。大峯山と号し、真言宗醍醐派。本尊は弥勒菩薩役行者が八大竜王尊を祀り、修験道中興の祖聖宝によって再興されたと伝える。大峯入峯の行者が水行ののち、八大竜王に道中安全を祈る行所であった。かつては本堂・護摩堂・弁天堂など多くの堂宇が並んでいたが、昭和二一年(一九四六)の大火で竜王堂のみ残して焼失。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]小樽市祝津二丁目

曹洞宗。祝津山と号する。本尊は釈迦如来。明治九年(一八七六)祝津しゆくつ村の有志が松前法幢ほうどう寺の梶宜州を嘱請、葬儀取扱所とすることが許された。宜州は布教のほか寺子屋を開くなどしたが、また梅の墨画を得意としたことから梅和尚とよばれた。寺内にアイヌの墓地もあったという。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]小浜市新保

新保しんぼ集落の北西谷間にある。曹洞宗。本尊聖観音。天文一〇年(一五四一)新保山城主武田元度(信高)の創建と伝える(若州管内社寺由緒記)。当寺には信高の跡をついだ信方が末寺久源きゆうげん(新保村)に与えた知行宛行状や、敦賀の廻船問屋飴屋治左衛門を通して、松前藩祖が信高の長男太郎であるかどうかを問合せた書状などが残る。

龍泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]東吉野村大字鷲家

鷲家わしか集落の東方に位置する。瑞応山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。永禄元年(一五五八)竜厳の開基で、元亀元年(一五七〇)慶田けいでん(現奈良県桜井市)の高僧順察を迎えて開山。

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デジタル大辞泉プラス 「龍泉寺」の解説

龍泉寺

愛知県名古屋市にある天台宗の寺院。山号は松洞山、院号は大行院。本尊は馬頭観音。延暦年間、最澄による創建と伝わる。仁王門は国の重要文化財に指定。名古屋城の鎮護、尾張四観音のひとつ。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「龍泉寺」の解説

龍泉寺

(兵庫県神戸市灘区)
灘百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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