アメリカの映画監督。アトランタ生まれ。本名はシェルトン・ジャクソン・リーShelton Jackson Leeで、「スパイク」は教師であった母親が赤ん坊のころにつけたニックネームである。父親は著名なジャズ・ミュージシャン兼作曲家ビル・リーBill Lee(1928―2023)で、彼の仕事の関係からシカゴを経て、ニューヨークのブルックリンへと転居、スパイクはこの町をホームタウンとして成長する。祖父や父の出身校であるアトランタの黒人大学モアハウス大学時代に映画製作を始め、卒業後にニューヨーク大学映画学科に入学。1980年に1年生の彼が製作・監督した最初の短編『ジ・アンサー』The Answerは、南部側を正当化する視点から南北戦争を扱い、人種問題への態度で非難されてきたD・W・グリフィス監督の『国民の創生』(1915)のリメイクのために雇われた黒人の脚本家の物語であった。卒業製作である『ジョーズ・バーバー・ショップ』(1983)が、学生アカデミー賞やスイスのロカルノ映画祭で銅賞に輝くなど高い評価を受け、続く初の商業映画『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』(1985)で、カンヌ国際映画祭新人賞、インディペンデント・スピリット・アワーズ処女作品賞、ロサンゼルス映画批評家協会の新世代賞などを受賞。同時期にいくつか生まれたインディペンデント映画の代表的な作品の一本に数えられるばかりか、その後に広がりをみせた若いアフロ・アメリカン監督による映画の新たな潮流の旗手として注目を集めた。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』は、3人の男性の間を渡り歩く黒人の若い女性を主人公とする。性描写もかなり存在するが、登場人物がカメラ=観客に向かって語りかける場面や、時系列を入り組ませて綴(つづ)られるストーリー展開など、アーティスティックな実験や卓越した構成力が、この作品を安手のポルノ映画と似て非なるものにしている。リーの戦略は、「黒人=性への関心が強い」といった性にかかわる黒人への人種的偏見をあえて逆利用し、洗練されたスタイルで再呈示することにある。そこで黒人女性はある意味で男性を選択しうる能動的な主体として位置づけられ、3名の黒人ボーイフレンドを三者三様の(これも戯画化された)ステレオタイプに設定することで、黒人男性の一様ではない多様性およびそれと裏腹に互いにいがみ合い、足の引っ張り合いに終始する彼らの偏狭さを浮き彫りにする。そうした視点は、続くモアハウス大学での自身の体験を背景にした『スクールデイズ』(1988)でも継承され、南部の「黒人大学」を舞台に展開される党派争いを、古典的なミュージカルの要素も交えて描き、ひとくくりに「黒人」と総称されがちな黒人の若者間に横たわる対立と多様性を描きだした。しかし、リーの政治的な立場が一躍クローズアップされ、その是非をめぐってさまざまな議論が巻き起こったのは、長編第三作の『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)においてのことである。
物語の舞台は、黒人とプエルトリカンが住人の大半を占めるブルックリンの一画。ラジオ・カセットレコーダーからヒップ・ホップ音楽を大音量で鳴り響かせながら街を歩く黒人男性が警官に殺害されたことをきっかけに、黒人たちのフラストレーションが爆発、イタリア人経営のピザ屋を発火点に暴動の広がる過程が、うだるような暑さにみまわれたストリートの24時間のできごととしてつづられる。映画をめぐる議論は、映画監督がラストの暴動を肯定的にとらえたか否か、との問題に収斂(しゅうれん)され、その問題に対する回答として、映画のラストに、暴力を徹底して否定したマーチン・ルーサー・キングのことばと、自衛や権力を倒すために暴力も辞さない立場を鮮明にしたマルコム・エックスのことばが字幕で並置された。ただし、問題含みの内容ながら作品としての完成度の高さや力強さは疑うべくもなく、アカデミー賞で2部門、ゴールデン・グローブ賞で4部門のノミネートを受け、ロセンゼルスとシカゴで映画批評家協会最優秀監督賞を受賞。その後、1960年代以来の黒人の政治運動におけるキングとマルコム・エックスの対立について、リーははっきりと後者に加担する映画を撮る。それが、1960年代に活躍し、道なかばにして暗殺されたカリスマ的な黒人活動家の生涯を描く大作『マルコムX』(1992)である。このプロジェクトについては、黒人監督である自分が監督するべきだ、と主張し続けてきたリーが望みどおり監督の座を射止め、これまでにない規模の予算も獲得、自ら先頭にたって周到な宣伝戦略も展開させた。冒頭のタイトルバックには、1992年の「ロス暴動」の引き金になった「ロドニー・キング事件」(白人警官による黒人のロドニー・キングRodney King(1965―2012)に対する集団暴行事件)の映像が燃える星条旗とともに画面に現れ、ラストには監獄から釈放されたネルソン・マンデラが登場。リーのマルコム・エックス再評価の企ては、過去の歴史上の偉人としての位置づけを目ざすものではなく、いまなお解決からほど遠い状況にある人種問題の再考を観客に促すためのものであった。
優れたミュージシャンであった父親を尊敬しつつ、彼に欠けていた経済感覚こそ、とりわけアフロ・アメリカンの表現者の今後にとって必要で、芸術家は企業家でもあるべきだ、との持論をリーはもつ。『マルコムX』の宣伝活動もそうした文脈でとらえられるべきで、彼の広範囲に及ぶ活動についても同様である。映画以外にも、多くのアーティストのミュージック・ビデオの製作・監督を手がけ、ナイキやアメリカン・エクスプレスなどの世界的な大企業のテレビCMでも成功を収めている。ドキュメンタリー作品も数多く発表。長編劇映画としては、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの傷跡も生々しいニューヨークを舞台にした『25時』(2002)で、主要キャストに黒人を含まない物語を重厚なタッチで演出、映画監督としての成熟を印象づけた。
[北小路隆志]
ジョーズ・バーバー・ショップ Joe's Bed-Stuy Barbershop : We Cut Heads(1983)
シーズ・ガッタ・ハヴ・イット She's Gotta Have It(1985)
スクール・デイズ School Daze(1988)
ドゥ・ザ・ライト・シング Do the Right Thing(1989)
モ’・ベター・ブルース Mo' Better Blues(1990)
ジャングル・フィーバー Jungle Fever(1991)
マルコムX Malcolm X(1992)
クルックリン Crooklyn(1994)
クロッカーズ Clockers(1995)
キング・オブ・フィルム 巨匠たちの60秒 Lumière et Compagnie(1995)
ガール6 Girl 6(1996)
ゲット・オン・ザ・バス Get on the Bus(1996)
ラストゲーム He Got Game(1998)
サマー・オブ・サム Summer of Sam(1999)
キング・オブ・コメディ The Original Kings of Comedy (2000)
10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス~「ゴアVSブッシュ」 Ten Minutes Older : The Trumpet - We Wuz Robbed(2002)
25時 25th Hour(2002)
セレブの種 She Hate Me(2004)
それでも生きる子供たちへ~「アメリカのイエスの子ら」 All the Invisible Children - Jesus Children of America(2005)
インサイド・マン Inside Man(2006)
セントアンナの奇跡 Miracle at St. Anna(2008)
『田中アリサ訳『スパイク・リーの軌跡』(1993・マガジンハウス)』▽『ジェフ・アンドリュー著、鹿田昌美訳『インディーズ監督 10人の肖像――もうひとつのハリウッド・ドリーム』(1999・キネマ旬報社)』
アメリカの実験物理学者。ニューヨーク市郊外の町ライで生まれる。10代のころは気象学に興味をもったが、父親の書棚でみつけた『神秘の宇宙』という本で物理学のおもしろさを知った。1948年にハーバード大学に進学して物理学を専攻し、1952年に卒業。アメリカ陸軍に入隊したが、そこで知り合ったコネティカット大学の大学院生をつうじてヘリウムの「超流動」という研究分野に出会う。1954年にコネティカット大学に入学して修士号、1955年エール大学に進学し1959年に博士号を取得した。1959年コーネル大学に職を得て、低温物理学研究所の立ち上げにかかわり、1968年に教授となる。
1972年にこの研究所で、ヘリウム3という物質を絶対零度(-273.15℃)のぎりぎり近くまで冷却したときに「超流動」という現象が現れることを発見した。ふつうの物質はニュートンの運動法則に従うが、超流動状態の物質は、ミクロの現象についての量子力学の理論に従う。超流動状態のヘリウムをコップに入れると、ヘリウムはコップの壁を伝って外に流れ出すという不思議な現象がおきる。ヘリウム3の超流動を発見した業績で、同じ研究グループにいたR・リチャードソン、発見のときには指導中の大学院生だったD・オシェロフとともに、1996年のノーベル物理学賞を受賞した。
[馬場錬成]
アメリカの化学者。中国名は李遠哲(リーユアンツェー)。当時、日本領であった台湾の新竹(しんちく/シンチュー)に生まれる。国立台湾大学を1959年に卒業、国立精華大学に進み、1961年修士号を取得した。翌1962年渡米して、カリフォルニア大学バークリー校に入り、1965年に化学博士号を取得した。ハーバード大学博士研究員を経て、1968年にシカゴ大学助教授となり、1971年準教授、1973年教授に昇格した。1974年カリフォルニア大学の教授に転じたが、同年にアメリカの市民権を獲得している。1994年台湾に戻り、アカデミア・シニカの総裁に就任した。なお1986年(昭和61)には招待研究者として来日、また日本語も堪能である。
リーは優れた化学実験家であり、カリフォルニア大学の大学院時代から化学反応の動力学的研究に着手、分子線(分子ビーム)交差法に注目していた。その後ハーバード大学でD・R・ハーシュバックの研究室に参加、分子線を利用して化学反応の基本となる素過程を観測するための共同研究を開始した。リーは分子線交差装置の改良に取り組み、従来の装置が一部の分子(アルカリ金属など)のみに有効であったものを、すべての分子に対し有効な装置を開発した。1986年に「化学反応の素過程の動力学的研究」に貢献したとして、ハーシュバックとともにノーベル化学賞を受賞、同様の研究を行ったJ・C・ポランニーも同時に受賞した。
[編集部 2018年12月13日]
アメリカのポピュラー歌手、ソングライター。ノース・ダコタ州ジェームズタウン生まれ。本名ノーマ・デロリス・エグストロームNorma Deloris Egstrom。高校時代からラジオ放送に出演。17歳から歌手として生活する。1941年シカゴのホテルでスウィング王ベニー・グッドマンに認められて彼の楽団に参加。43年ギター奏者のデイブ・バーバーDave Barbour(1912―65)と結婚して一時引退(52年離婚)。45年に復帰。48年にバーバーとの共作『マニャーナ』Mañanaがミリオンセラーを記録した。50年代以降は映画にも出演して活躍、55年の映画『皆殺しのトランペット』Pete Kelly's Bluesでアカデミー助演女優賞にノミネートされた。同年のディズニー映画『わんわん物語』Lady and the Trampでは挿入歌『美しき夜』Bella Notteなどを書き、声の出演も行った。69年のヒット曲『イズ・ザット・オール・ゼア・イズ』Is That All There Is?でグラミー賞最優秀コンテンポラリー女性歌唱賞を受賞。89年に自叙伝『ミス・ペギー・リー』Miss Peggy Lee : An Autobiographyを出版。92年まで録音を続け、95年グラミー賞特別功労賞を受賞した。ジャズとポップス双方の名歌手として知られ、作詞・作曲も多く手がけた。代表的な作品、歌唱に『ブラック・コーヒー』『ミス・ワンダフル』『ジョニー・ギター』などがある。
[青木 啓]
『FM東京セレクト・ジャズ・ワークショップ制作グループ・日本たばこ産業アド企画室編『名演!Jazz Standards』(1989・講談社)』
イギリスの映画監督。イングランド中西部のサルファッド生まれ。即興を多用する独自の演出法で、人物の心理や感情を繊細に描くのを得意とする。俳優、演出家として舞台を経験したあと、1971年、『ブリーク・モーメント』で監督デビュー。その後、舞台やテレビを中心に活動し、『五月のナッツ』(1976)、『アビゲイルのパーティ』(1977)など人物の性格を鋭く風刺したコミカルなテレビ・ドラマで喝采(かっさい)を博す。1988年、『ハイ・ホープス』で映画に復帰。以後『ネイキッド』(1993年、カンヌ国際映画祭監督賞)、『秘密と嘘』(1996年、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)、『トプシー・ターヴィー』(1999)、『ヴェラ・ドレイク』(2004年、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『家族の庭』(2010)と、しだいに円熟の度を加えながら次々に秀作を発表している。
[宮本高晴]
ブリーク・モーメント Bleak Moments(1971)
ハイ・ホープス High Hopes(1988)
ライフ・イズ・スイート Life Is Sweet(1990)
ネイキッド Naked(1993)
秘密と嘘 Secrets & Lies(1996)
キャリア・ガールズ Career Girls(1997)
トプシー・ターヴィー Topsy-Turvy(1999)
人生は、時々晴れ All or Nothing(2002)
ヴェラ・ドレイク Vera Drake(2004)
ハッピー・ゴー・ラッキー Happy-Go-Lucky(2008)
家族の庭 Another Year(2010)
ノルウェーの数学者。1865年クリスティアニア(現、オスロ)大学を卒業、1869年ドイツ、フランスに留学し、クラインと友人となり共同で幾何学を研究した。1886年からライプツィヒ大学、1898年からクリスティアニア大学の教授であった。
リーは、1873年ごろから、一点の周りの回転の全体や空間における運動の全体のような、いくつかの実数の組(パラメータ)によって定まる解析的変換のつくる群の一般論の研究を始め、三つの基本定理を証明して、このような変換群とその引き起こす無限小変換(ベクトル場)の間の関係を確立した。この思想は現代のリー群論として受け継がれている。彼の理論は、エンゲルFriedrich Engel(1861―1941)と共著で『変換群の理論』(全3巻)として出版された。また、リーは、自由可動性に基づくユークリッド(または非ユークリッド)幾何学の基礎づけの研究で、ロバチェフスキー賞を受賞している。ほかに球幾何学に関する研究も有名である。全7冊からなる全集がある。
[杉浦光夫]
イギリス、アメリカの映画・舞台女優。インドのダージリンに生まれる。パリのコメディ・フランセーズとロンドンの王立演劇学校に学び、ロンドンの舞台に立ち、イギリス映画に出演した。弁護士と結婚後、妻あるローレンス・オリビエと恋に落ち、彼を追ってハリウッドへ行ったとき、『風と共に去りぬ』(1939)の主役スカーレット・オハラにスカウトされ、アカデミー主演女優賞に輝いた。『哀愁』(1940)、『アンナ・カレニナ』(1948)などでも、たぐいまれな美貌(びぼう)と確かな演技力をみせ、『欲望という名の電車』(1951)でふたたびアカデミー賞を獲得した。ブロードウェーの舞台では『十二夜』と『トバリッチ』が著名。オリビエとは1940年に結婚、59年に離婚。54歳で肺結核のため、ロンドンで死亡した。
[日野康一]
『アン・エドワーズ著、清水俊二訳『ヴィヴィアン・リー』(1980・文春文庫)』
アメリカの軍人。バージニア生まれ。1829年、ウェスト・ポイントの士官学校を卒業。メキシコ戦争などに従軍ののち、52年同校の校長に就任。59年には、奴隷解放を要求してハーパーズ・フェリーを襲撃したジョン・ブラウンらの武装蜂起(ほうき)鎮圧の指揮をとる。南北戦争勃発(ぼっぱつ)(1861)と同時に、リンカーン大統領の強い懇請を振り切って南部の大義に殉ずべく南部連合軍に身を投じた。劣勢な南軍を指揮して果敢に戦い、65年南軍総司令官となったが、結局同年4月9日、アポマトックスにおいて北軍のグラント将軍のもとに降服することを余儀なくされた。ここに南北戦争は終結した。彼はその悲劇的経歴のゆえに、単に南部のみならずアメリカの国民的英雄となった。
[長田豊臣]
ノルウェーの小説家。海軍士官を志したが、近視のため文学に転じ、故郷のノールランド地方に取材した『幻視者』(1870)が処女作。『三本マストの未来号』(1872)、『水先案内とその妻』(1874)、『前進!』(1882)などの海洋小説でまず名声を得たが、後期の家庭生活を描いた『生の奴隷』(1883)、『ギリエの家族』(1883)、『司令官の娘たち』(1886)などでは、恵まれざる人々に対する深い理解と同情が、落ち着いた簡素な筆致の背景に流れていて、近代小説の得がたい古典として、しり上がりに名声を高めた。イプセン、ビョルンソンらとともにノルウェー文学の全盛期を築いた一人。
[山室 静]
ノルウェーの政治家。1919~1922年労働党書記、1922~1935年労働組合総同盟法律顧問、1937~1949年国会議員。1935~1939年法相、1939~1940年商相。ドイツ軍のノルウェー侵攻後の1940年4月、ロンドンに亡命したノルウェー政府の外相に就任。戦時下、英米ソの協調に努めた功績を認められ、1946年初代国連事務総長に就任。朝鮮戦争で国連軍出動を強いられ、再任に際しソ連の拒否権発動を受けた。任期を延長して留任したのち1953年辞任。1955~1963年オスロ市長を務めた。
[大島美穂]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
李遠哲.台湾の物理化学者.台湾国立大学を卒業し,国立清華大学で修士号を取得して助手となる.その後,カリフォルニア大学バークレー校大学院に入学し,1965年電子励起アルカリ原子の化学イオン化過程の研究で学位を取得し,大学に残りイオン分子反応散乱実験の研究を開始する.1967年ハーバード大学でD.R. Herschbach(ハーシュバック)の博士研究員となり,質量分析計を用いた交差分子線実験装置を開発し,アルカリ原子以外の中性分子線による実験を可能にした.シカゴ大学教授を経て,1974年カリフォルニア大学バークレー校の教授となり,有機化合物と酸素やフッ素原子の交差分子線実験で,燃焼や大気化学反応素過程を研究した.1994年台湾に戻り中央研究院院長となる.化学素過程のダイナミクス研究で,1986年D.R. Herschbach(ハーシュバック),J.C. Polanyi(ポラーニ)とともにノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
ノルウェーの数学者。牧師の子として生まれ,クリスティアニア(現,オスロ)大学に学んだ。プリュッカーの著作に感動して数学の研究を始め,1869年にベルリンに留学してF.クラインと親交を結び,翌年にはいっしょにパリに出て群論などの新知識を得た。72年に母校の教授となり,86年にライプチヒ大学に移ったが,死の前年に再び母校の教授に復帰した。偏微分方程式の解の間の変換についての研究を契機として,連続変換群という概念を得,これに関する理論をつくるとともに,それを幾何学の基礎や偏微分方程式の研究に応用した。この理論は20世紀に入ってからE.カルタンやH.ワイルらによって完備され,現在ではリー群論と呼ばれている。
執筆者:中岡 稔
靴下編機の発明者,牧師。イギリス生れで,ケンブリッジ大学の出身。1589年靴下編機を発明。当時は織物と並んで編物による衣料品が常用されており,リーの発明は従来の手編みに大きな変革を与えた。この編機の基本原理は今日の編機と同じで,ひげ針とシンカーとによって編んでいくものである。この発明は労働者の生活をおびやかすものと非難され,リーはイギリスを去りフランスのルーアンで,アンリ4世の保護下に事業を始める。しかしアンリ4世の死後,イギリスにおけると同様の非難を受け,事業を放棄してパリへ移住し,その地で没した。
執筆者:奥山 修平
ノルウェーの政治家。国連初代事務総長(1946-53)。司法官試験をパスしたのちノルウェー労働党書記,労働者全国組織の法律顧問。1935年成立の労働党・農民党連立政権に最年少の法務大臣として入閣。1940年ナチス・ドイツの侵略に対する抵抗に参加したのちロンドン亡命政権に参加し,H.コートに代わって外相(1941-46)。戦後の挙国内閣でも外相となり,東西の懸橋役を務め,初代国連事務総長に選出された。
執筆者:熊野 聰
アメリカの南北戦争における南部連合の将軍。バージニア出身。1829年ウェスト・ポイント陸軍士官学校を2番で卒業,後年校長を務めた。対メキシコ戦争に従軍。南北戦争勃発とともに南軍に身を投じ,62年北バージニア軍団司令官となり,勇猛果敢,知略に富む戦術で北軍を苦しめた。戦争末期に南部連合陸軍総司令官。65年4月9日バージニア州アポマトックスでグラント将軍に降伏。戦後はワシントン大学学長に就任し,南部子弟の教育に努めた。
執筆者:井出 義光
アメリカの政治家。バージニアに生まれ,イギリスで教育を受ける。バージニアの名門リー家の出身で,弟アーサーとともに独立革命期のバージニアの指導者の一人。1776年5月大陸会議の代議員として,植民地間の連合機関の結成,対仏同盟の形成とあわせてアメリカ植民地の独立を提案した。連邦憲法の制定に際しては,憲法案の批准に反対するアンチ・フェデラリストの指導者としてパンフレット《連邦の農民からの手紙》を著し,論陣を張った。
執筆者:五十嵐 武士
ノルウェー近代文学の代表的小説家。木材業破産のあと,おもにドレスデンとパリに住み,小説で身を立てた。第1作《幻視者》(1870)は北国を舞台にした現実と非現実の境を漂う恋物語で一躍文名を高めた。思想的に保守派で,問題小説を書いてもつねに神秘的本性が姿を現す。《イリエの家族》(1883)は山村に住む女の愛のない結婚を拒否した顚末を描いた作品。2巻の物語集《トロル》(1891,92)では魂の深層をえぐった。
執筆者:毛利 三彌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1807~70
南北戦争当時のアメリカ連合国(南部連邦)の将軍。ヴァージニア戦線の南部軍を率いて果敢な作戦により合衆国軍を苦しめ,1865年には敗色濃い南部軍の総司令官となったが,まもなく力尽きて降伏した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…大陸会議も76年5月各植民地に新政府設立を勧告し,バージニアなど新憲法を制定し始めた。そのとき,バージニア代表のリチャード・H.リーは独立,外国との同盟,独立諸邦間の連合の3決議案を大陸会議に提出,独立についてはまだ同意できない植民地もあったので3週間審議を延期,7月2日に訓令待ちのニューヨークを除く全植民地の賛成で独立の決議が採択された。ついで7月4日に独立の理由を公にしたいわゆる独立宣言が採択され,アメリカ諸植民地はここに,イギリス本国との紐帯を切ったのである。…
…1863年7月1日から3日にわたり,ペンシルベニア州のゲティスバーグGettysburg付近で行われた。北軍の指揮官ミードGeorge G.Meade将軍(1815‐72)が南軍のリーRobert Edward Lee将軍(1807‐70)指揮下の部隊を迎え撃った。北軍が新式の施条銃と野砲を組み合わせて組織的な防御を準備したのに対して,南軍がそれらの射撃効果を軽視して,その防御陣地に対して真正面から横一線の隊形で攻撃前進したため失敗した。…
…この墓地はかつてのカスティス・プランテーション(J.P.カスティスは初代大統領G.ワシントンの継子)の一部であり,1864年に開設された。墓地のある丘の上方には,南北戦争時の南軍の将軍R.E.リーの記念館があるが,これはリーがカスティスの孫にあたるメアリーと結婚して住んでいた邸宅である。【菅野 峰明】。…
…1863年7月1日から3日にわたり,ペンシルベニア州のゲティスバーグGettysburg付近で行われた。北軍の指揮官ミードGeorge G.Meade将軍(1815‐72)が南軍のリーRobert Edward Lee将軍(1807‐70)指揮下の部隊を迎え撃った。北軍が新式の施条銃と野砲を組み合わせて組織的な防御を準備したのに対して,南軍がそれらの射撃効果を軽視して,その防御陣地に対して真正面から横一線の隊形で攻撃前進したため失敗した。…
… 1850年代に入ると,南北両地域の対立を増す事件が相次いだ。悲惨な南部奴隷の姿を描いた52年の《アンクル・トムの小屋》の出版,新領地での南北両派の衝突を招いた54年のカンザス・ネブラスカ法,奴隷制支持派に有利な57年のドレッド・スコット事件判決,59年奴隷のいっせい蜂起を計画したジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃,そして最後に60年の大統領選挙で奴隷制反対の共和党のリンカンが当選すると南部諸州は連邦から脱退,アメリカ南部連合を結成した。南部連合に加わったサウス・カロライナ州は州内にあった連邦サムター要塞を包囲し,これに対してリンカンは救援を決定,それを機に61年4月12日南軍が要塞砲撃を開始したことによって,南北戦争が始まった(図)。…
…1527年,フランスに編靴下組合が設立され,16世紀後半になると,ドイツやイギリスでも絹の編靴下が貴族に用いられた。88年,イギリスの牧師リーWilliam Leeがヒゲ針を用いた靴下編機を発明し,翌年にはさらに1インチ20ゲージ(後述)のフルファッション(成型編)絹靴下編機に発展した。1775年にクランがトリコットの母体である経編(たてあみ)機を案出,1849年にはM.タウンゼンドが,今日でもメリヤス編機のほとんどを占めているベラ針を発明し,イギリスはメリヤス王国となった。…
…家庭用の手編機と工業用編機(メリヤス編機)の2種類がある。1589年にイギリスのW.リーによって発明された足踏み靴下編機が最初のものである。家庭用の手編機は手編みをすばやく行うために考案されたもので,日本では1924年萩原まさによりガーター編機(針を1列に並べた板2枚を使用して編む日本独自の手編機)が発明された。…
…1527年,フランスに編靴下組合が設立され,16世紀後半になると,ドイツやイギリスでも絹の編靴下が貴族に用いられた。88年,イギリスの牧師リーWilliam Leeがヒゲ針を用いた靴下編機を発明し,翌年にはさらに1インチ20ゲージ(後述)のフルファッション(成型編)絹靴下編機に発展した。1775年にクランがトリコットの母体である経編(たてあみ)機を案出,1849年にはM.タウンゼンドが,今日でもメリヤス編機のほとんどを占めているベラ針を発明し,イギリスはメリヤス王国となった。…
…色や柄の異なるものを片方ずつはくことが,ミ・パルティmi‐partiと呼ばれて流行した。16世紀にブリーチズというゆったりしたズボンがあらわれると,下から見える脚部にひざまでの長さの靴下をはくようになり,17世紀以後,男女とも用いた。靴下を留めるのにはガーターと呼ばれるひもを用いた。…
…48年に,経営難のRKO(アールケーオー)映画の撮影所と劇場チェーンを900万ドルで手にいれて全権を握り,不可解な政策を強行。低コストで良質の作品を世に送ったことで知られる製作部長ドーリ・シャリー以下,会社を支えてきたスタッフを辞任させ,かつてはハリウッドの〈メジャー〉であったRKOを〈不毛地帯〉にし,ジェーン・ラッセルの魅力をさらに〈拡大〉するためにカラー・3D(立体)映画《フランス航路》(1954),シネマスコープ最初の海洋活劇《海底の黄金》(1955)を,さらにもう1人の女優,ジャネット・リーJanet Leigh(1927‐ )を売り出すためにジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督,ジョン・ウェイン主演による反共映画《ジェット・パイロット》(1950年に完成したが,ヒューズが追加撮影して再編集したため公開は57年になった)などが赤字をかさね,55年にはRKOをゼネラル・テレラジオ社に売却(これによってヒューズは1000万ドルの利益を得たといわれる),映画界とのつながりを絶った。 ヒューズは,46年,自分で設計した空中撮影偵察飛行機のテスト飛行で重傷を負ってから人が変わって世間から〈自己隔離〉をはじめ,1800万ドルの政府融資を取りつけ,5年の歳月を費やして設計建造した大型木造飛行艇が47年に完成したが使いものにならず,その件で上院の調査委員会に証人として出席したのが公に姿を見せた最後であるといわれる。…
…すなわち彼らはユークリッド幾何学の中に非ユークリッド幾何学の模型をつくり,ユークリッド幾何学が矛盾を含まぬかぎり,非ユークリッド幾何学も矛盾を含まない論理体系であることを示した。なお,B.リーマンは1854年に,直線の長さは有限で,2直線はつねに2点で交わるような幾何学を構成し,クラインはこれを少しく変更して2直線はつねに1点で交わるという幾何学を構成した。この非ユークリッド幾何学を楕円幾何学と呼ぶのに対し,先に述べた非ユークリッド幾何学を双曲幾何学と呼ぶ。…
※「リー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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