東福寺(読み)トウフクジ

デジタル大辞泉 「東福寺」の意味・読み・例文・類語

とうふく‐じ【東福寺】

京都市東山区にある臨済宗東福寺派の大本山。山号は慧日山。開創は嘉禎2年(1236)、開山は円爾、開基は九条道家京都五山の第四位。九条家の氏寺で、東大寺興福寺から1字ずつとって寺名とした。創建当初は、真言天台の三宗兼学。寺宝は無準師範像、宋版「太平御覧」など多数。また、三門は禅宗様としては日本最古で国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「東福寺」の意味・読み・例文・類語

とうふく‐じ【東福寺】

  1. 京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派の大本山。山号は慧日山。京都五山の第四位。嘉禎二年(一二三六)に九条道家が発願し、法性寺の跡に創建。開山は円爾弁円聖一国師)。東大寺と興福寺の各一字をとって寺名とした。公家や武家の保護をうけ栄えた。三門および無準師範像・無準師範墨跡は国宝。

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日本歴史地名大系 「東福寺」の解説

東福寺
とうふくじ

[現在地名]東山区本町十五丁目

東山連峰月輪つきのわ山山麓に位置する。南北に走る東大路ひがしおおじ通と東西の九条通の接合する辺りから南、広大な寺域に伽藍・塔頭が営まれている。山号恵日山、臨済宗東福寺派本山。本尊釈迦如来。かつて新大仏とも称された。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

根本檀越は九条道家、開基は聖一国師円爾弁円。「東福紀年録」によると、嘉禎二年(一二三六)四月、前関白道家は瑞夢によって建寺度僧の志を発し、一千四〇〇言に及ぶ発願文を作成、延応元年(一二三九)一月、越中国東条とうじよう河口かわぐち曾禰そね八代やしろ等の保を寺領と定め(「吾妻鏡」同年七月二五日条)、八月五日一堂を上棟した(百錬抄)。東福寺の称は、規模を奈良東大寺に次ぎ、教行を興福寺にとったとする(東福紀年録)。円爾弁円は宋より帰国後九州の崇福そうふく(現福岡市博多区)に住しており、寛元元年(一二四三)二月上洛、道家に招かれて禅を説き、深い帰依を得、東福寺第一世に請じられた(東福紀年録)。同年八月二二日、法性ほつしよう成就じようじゆ宮を東福寺の鎮守としたが(百錬抄)、同四年に至っても堂宇は完成せず、普門ふもん院を営み弁円の居所とした(東福紀年録)。建長四年(一二五二)二月二一日、道家は堂宇の完成をみぬまま死去し、毘沙門びしやもん光明峯こうみようぶ(現東山区)に葬られた(聖一国師年譜)。同七年六月二日堂宇がほぼなり、道家の息男前関白実経が東福寺供養を行い、円爾をして開堂させた(元亨釈書)

東福寺草創の趣意を建長二年一一月日の九条道家惣処分状(九条家文書)にみると、最澄の素願として「戒定恵の三門を受学せしめるべく、大小の顕密戒律をもつて惣体となし、真言止観の宗門をもつて専修となす」と述べる。また禅門・天台・真言の三法を兼ねるのを目途とし、円爾弁円を迎え中国宋朝の風儀に依拠することを定めている。東福寺は七堂伽藍を完備して禅宗寺院の体裁をととのえながら真言八祖像や、天台六祖像を掲げ、また道家の子息で天台座主を務めた慈源が検校になるなど、禅・密二業を兼修した。弘安三年(一二八〇)一〇月一七日、円爾弁円は東福寺内普門院で没(常楽院に没すとの伝あり、その地は普門院に同じ)、遺偈は東福寺に伝わる。応長元年(一三一一)わが国国師号初例の聖一国師号を賜った(元亨釈書)。優れた門弟も多く聖一派・東福寺派とよばれる。

〔罹災と修復・再建〕

東福寺は建立以後度々罹災しその都度修復、再建されている。おもなものをあげると、元応元年(一三一九)二月七日に罹災(武家年代記)、建武元年(一三三四)一月四日再び火災(皇代略記)、同三年八月二四日にも兵火にかかっている(皇年代私記)


東福寺
とうふくじ

[現在地名]玉川村南須釜 久保宿

大寺おおでら城跡のある小丘陵の南麓に位置する。最殿山文珠院と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来。薬師堂には空海作と伝えられる木造薬師如来立像と木造両脇侍像の日光・月光両菩薩像および十二神将像があり、いずれも県指定重要文化財となっている。伝承によると、空海が奥州巡錫の折、会津新橋につばし(日橋)の里(現磐梯町付近か)で一本の木から薬師三体を彫った。そのうち元木で刻んだ像を新橋に安置し、新橋の元木と称した。中木に彫った像は石亀いしがめの里(現石川町付近か)に安置し、中野大寺なかのおおでら中木なかきの薬師、裏木で彫った像は美濃国可児かにの里(現岐阜県御嵩町付近か)に安置し、可児大寺裏木かにおおでらうらきの薬師と名付けたという(玉川村史)


東福寺
とうふくじ

[現在地名]新居町浜名

浜名川の北、源太げんだ山の南麓に位置。瑠璃光山と号し、臨済宗方広寺派。本尊は薬師如来。建保五年(一二一七)運慶の開基と伝える。はじめ真言宗であったが、のちに臨済宗に改宗し、奥山方広おくやまほうこう(現引佐町)の末寺となる。現菊川きくがわ妙照みようしよう寺が所蔵する大般若経巻四九一・四九三・四九四の奥書に、永徳二年(一三八二)一〇月付で「遠江州補智郡笠子郷東福寺常住、釈慶周書」とある。また現湖西市古見こみの八幡神社が所蔵する鰐口の銘文には永禄九年(一五六六)一一月吉日付で「橋本東福寺」とみえる。天正一八年(一五九〇)五月四日の橋本之郷年貢目録写(東福寺文書)には東福寺居屋敷一千坪、東福寺領として中田一千九四〇歩などが記される。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]平内町小湊

国鉄東北本線小湊こみなと駅と国道四号の間、小湊市街の西にある。東方山と号し、曹洞宗、もと弘前常源じようげん寺末、本尊釈迦如来。開創は文禄四年(一五九五)、開山は常源寺三世陽山演磧。津軽実考(平内町史)によれば、当寺はあずま(現青森市)の麓にあった天台系の修験寺であったという。津軽氏による津軽統一前の当地の支配者である七戸隼人の戒名は「新華台官常徳院殿前高録宗慶遊山惣栄大居士」といわれ、天台宗系である。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]菊池市亘

わたるの北、城山しろやま台地の東側中腹にある。門前を築地ついじ井手が流れる。輪足山松林院と号し、天台宗。本尊千手観音。創建年代については諸説があり、「一統志」は和銅二年(七〇九)の建立、開山覚仏。延久四年(一〇七二)菊池則隆の再興と伝える。「国誌」は天慶元年(九三八)澄慶の開基と記し、盛時には三六坊が立並んだという。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]宿毛市桜町

宿毛市街地中央部の北の谷にある。臨済宗東福寺派に属し、山号南泉山、本尊釈迦如来。寺記(「南路志」所引)に「当寺草創之義年代久遠未詳、御入国後山内左衛門佐菩提寺に再興也、(中略)子息左衛門定氏・同源蔵節氏相続為檀越、累代住持仮具位耳、非長老和尚任故不足称開山、至寛文中以前永平一双嶺関和尚為開山也、(中略)此時節氏仏殿等新建立、毎歳以米八石余寄附仏殿修覆」とある。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]流山市鰭ヶ崎

ひれさきの北西部、江戸川を西に望む高台にある。守竜山証明院と号し、真言宗豊山派。石段を上った境内には仁王門・本堂・鐘楼・中門などがあり、中門には目を釘で打ちつけられた鴨の彫刻がある。本尊は薬師如来。寺伝によれば弘法大師の草創といい、平将門の乱では藤原秀郷が当寺に戦勝を祈願して効験があったと伝える。江戸時代には江戸護持ごじ院の末で寺領として鰭ヶ崎村内に朱印地高三〇石を与えられていた(寛政七年新義真言宗本末帳など)。かつては付近一三二ヵ寺を末寺とし、江戸中期には寺中に一院六坊があり、奥院として道心四人をもつ千仏堂もあった(寛保元年「鰭ヶ崎村郷差出帳」渡辺家文書)


東福寺
とうふくじ

[現在地名]守山市立入町

天台真盛宗の寺院で、医王山と号し、二体の薬師如来坐像を本尊とする。寺伝によれば、新川にいかわ神社の神宮寺であったといい、聖徳太子の創建にかかわり、立入たてり(西隆寺の前身)の金堂にあたると伝える。おか(現守山市)西隆せいりゆう寺に伝わる縁起には古代の益須やす寺に隣接していたと記され、仁安(一一六六―六九)の頃に後白河法皇が当地にさしかかり発病した際、比叡山の金光坊が七仏薬師の法を修し全快させたことから、七仏薬師を安置し、東福院仁安寺と称したという。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]玉造町浜

天台宗、瑠璃山薬王院と号し、本尊は薬師如来。寺伝によれば観応二年(一三五一)の創建で比叡山宝幢院主東範が関東下向の際に本尊薬師如来を奉持し、現在地に草庵を営み薬王山と称したという。元禄五年(一六九二)に典信が中興開基となり、寺号を東福寺とした。同一二年に徳川光圀が領内巡検の折、仏具・寺用具などを寄進し、翌一三年八月から常行会ならびに新市を取立て、新市を開くため表通りは幅七間半に広げられたと伝える。常行会期間の新市は西蓮寺さいれんじ市同様に賑ったといい、水戸周辺の商人も店を出し、水戸七軒しちけん町の井筒屋清蔵らが天保六年(一八三五)地主に出した証書(関口家文書)に「土地面六間、但シ市見世賃金三分宛」とある。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]西区赤門町二丁目

野毛のげ山の西南にある。高野山真言宗、光明山遍照院と号し、本尊聖観世音菩薩。「風土記稿」によれば、後嵯峨院の勅願所と伝えるが明証なしとし、太田道灌が中興開基とする。古くは海辺にあり、その旧地を元屋敷というと記す。天正一九年(一五九一)朱印地三石を与えられた(寛文朱印留)。寛永一〇年(一六三三)の関東古義真言宗本末帳(国立公文書館蔵)によれば末寺二四ヵ寺がある。


東福寺
とうふくじ

[現在地名]桜村松塚

真言宗豊山派、作蔵山延命院と号し、本尊は延命地蔵菩薩。寺伝によれば開基は乗海。建長年間(一二四九―五六)鎌倉の極楽ごくらく寺から移築したものという。「新編常陸国誌」によると享保一二年(一七二七)の鐘銘に「当山者、建長中、乗海和尚、択地造檀之勝壌、応永中、良専大徳、三宝興隆之道場也、爾来纏許多之星霜、荒蕪零落、然自元禄以降、継起廃絶、叢林吐輝、又鋳梵鐘」とあったという。

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改訂新版 世界大百科事典 「東福寺」の意味・わかりやすい解説

東福寺 (とうふくじ)

京都市東山区にある臨済宗東福寺派の本山。山号は恵日山(えにちさん)。開基は九条道家,開山は円爾弁円(えんにべんえん)(聖一(しよういち)国師)。京都五山の一つ。1236年(嘉禎2)関白九条道家は法性(ほつしよう)寺の近隣,月輪(つきのわ)の山荘に一寺の建立を発願し,39年(延応1)には仏殿建立に着手した。道家はこの寺を東大寺と興福寺に擬し,両寺から1字ずつをとって東福寺と命名した。そのころ,入宋(につそう)して径山(きんざん)の無準師範(ぶしゆんしばん)に参じ,その法を継いで帰国した弁円は,筑前で臨済禅を挙揚(こよう)していたが,道家は彼の名声を聞き,43年(寛元1)筑前崇福(そうふく)寺より招いて開山に請じた。ただし,弁円は入宋前,台密を学んで葉上流を相承していたから,彼の説く禅は禅教兼修であった。

 1255年(建長7),発願以来20年を経てようやく落慶開堂が行われたが,諸堂が完成したのは71年(文永8)のことであった。道家はすでに没していたが,この寺の建立は藤原氏の総力をあげての事業であった。創建の当初から,禅寺の七堂伽藍といわれる仏殿,法堂(はつとう),三門,僧堂,庫裏,浴室,東司(とうす)などが整備され,僧団組織も中国の叢林にならって,六知事六頭首(ちようす)の役位が定められるなど,一応禅寺の体裁が整っていた。しかし他方では,東西の回廊に真言八祖や天台六祖の画像をかかげ,灌頂堂にも金剛胎蔵の両界曼荼羅や真言八祖の画像をかかげ,阿弥陀堂には天台の供僧(くそう)を配するなど,密教的色彩も濃く,いわゆる台密禅三教兼修の道場であった。そのうえ,弁円以後の住持は聖一門派が一流相承する徒弟院(つちえん)の制を固く守り,渡来禅僧を住持に迎えることがなかったので,禅教兼修の風はかなりのちまで維持された。しかし,このような排他的住持制は,武家の圧迫するところとなり,幕府によってしばしば五山から除外されそうになったが,1386年(元中3・至徳3)ようやく五山第4位に定着した。

 当寺は他の五山のように全山炎上といった災厄に遭遇することなく,大伽藍の形態が明治初年まで維持されたので,〈東福寺の伽藍面(がらんづら)〉と呼ばれた。しかし,1881年の火災によって仏殿,法堂,方丈などの大建築物を焼失し,わずかに開山堂,三門,禅堂,東司,経蔵などが難を免れた。1934年に至って仏殿が再建されてようやく旧観に復した。盛時には塔頭(たつちゆう)・子院53を数えたが,現在は二十数院と末寺約350ヵ寺を擁している。方丈から開山堂に至る間の渓谷に架かる通天橋(つうてんきよう)は,初め春屋妙葩(しゆんおくみようは)の架橋になるといわれ,楓樹の名所となっている。
執筆者:

三門(国宝,室町時代)は五間三戸重層の建築で,上層は仏堂となって釈迦三尊,十六羅漢を安置する。建築手法は禅宗特有の禅宗様とならんで,組物の挿肘木(さしひじき)などに東大寺鎌倉再建時に用いられた大仏様(天竺様)が採用されている。禅宗(唐(から))様が成立していた室町期に,この三門が純粋の禅宗様によらなかった理由は,創建時に新大仏と呼ばれた当寺が,建築様式においても東大寺鎌倉再建の大仏様を模範にし,さらに再建時にもそれが踏襲されたことによると考えられ,日本建築史上に異彩を放つ。ほかに坐禅をする禅堂(重要文化財,室町時代),禅宗寺院の便所である東司(重要文化財,室町時代),浴室(重要文化財,1459)などがあり,ともに中世にさかのぼる遺構がそろっている点では禅宗寺院として唯一の例である。

 寺宝には開山弁円の将来品が多く,絹本著色《無準師範像》(国宝,南宋時代)は弁円の師の肖像画で,日本の頂相(ちんそう)に大きな影響を与え,ほかに書籍では宋版《太平御覧(たいへいぎよらん)》,宋刊本《義楚》6帖,《無準師範墨蹟》《禅院額字・牌字》が国宝。また伝雪舟筆《東福寺伽藍図》(重要文化財)は室町時代の東福寺を示す史料として貴重。塔頭の一つ,竜吟庵方丈(国宝,1387)は現存最古の塔頭方丈。広縁に蔀戸(しとみど)を用いて寝殿造風とし,中央の部屋の奥が板壁となって他の方丈のような仏壇にならない点などが,方丈建築の形成過程にあることを示している。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「東福寺」の意味・わかりやすい解説

東福寺【とうふくじ】

京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派の大本山。本尊釈迦如来。1236年聖一国師を開山として九条道家が創建。東大寺興福寺を範とした壮大な伽藍(がらん)で,数度の災害にあったが九条家をはじめ諸家の保護により復旧,三門,禅堂,東司(とうす)等室町期の建築を残す。《無準(ぶしゅん)師範像》はじめ美術品も多い。東福寺文書がある。
→関連項目太田荘大野荘(徳島)京都五山九条道家椋橋荘康尚蔗軒日録正徹彼杵荘東山[区]船木田荘碧山日録万寿寺妙喜庵明兆

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東福寺」の意味・わかりやすい解説

東福寺
とうふくじ

京都市東山区本町にある臨済(りんざい)宗東福寺派の大本山。山号は慧日(えにち)山。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。1236年(嘉禎2)九条道家の発願により法性寺(ほっしょうじ)跡に一堂が創建され、宋(そう)から帰国した聖一国師円爾弁円(しょういちこくしえんにべんえん)を開山に迎え、天台・真言(しんごん)・禅の三宗兼学の道場とした。七堂伽藍(がらん)の完成は道家死後3年たった1255年(建長7)で、東福寺の名は東大寺と興福寺から1字ずつをとった。のち京都五山の第四位に列せられ栄えたが、1319年(元応1)、1334年(建武1)、1336年(延元1・建武3)と相次ぐ火災によって焼亡した。1347年(正平2・貞和3)一条経通(つねみち)が仏殿を再興し、以後足利義持(あしかがよしもち)、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康らによって諸堂が重修された。1881年(明治14)方丈から失火して仏殿、法堂(はっとう)などを焼失、1890年再建に着手し、1934年(昭和9)4月に至ってようやくその落成をみた。現在、禅宗寺院最古の三門(国宝、室町時代)をはじめ、月下(げっか)門(1264~75)、禅堂(1347)、仁王門(1391)、浴室・東司(とうす)(ともに室町時代)などの建築物(以上、国重要文化財)があり、また無準師範(ぶじゅんしばん)画像(南宋(なんそう)代)や宋版『太平御覧(ぎょらん)』103冊、宋刊本『義楚(ぎそ)』6帖(じょう)12冊、無準師範墨蹟(ぼくせき)、禅院額字・牌字(以上、国宝)のほか、非常に多くの文化財を所蔵する。塔頭(たっちゅう)は中古以来53院あったが、明治以後合併され、現在は竜吟庵(りょうぎんあん)や栗棘庵(りっきょくあん)など25院が残る。寺域広大で、禅堂・経蔵と開山堂をつなぐ通天橋(つうてんきょう)は古来紅葉の名所として有名。

[平井俊榮]

『白石虎月編『東福寺誌』(1979・思文閣)』『『古寺巡礼 京都18 東福寺』(1977・淡交社)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東福寺」の解説

東福寺
とうふくじ

京都市東山区にある臨済宗東福寺派の本山。恵日山と号す。開山は聖一国師円爾(えんに)弁円,開基は九条道家。1236年(嘉禎2)4月に前関白道家が寺院建立を発願し,43年(寛元元)に円爾を第1世に招いた。55年(建長7)完成供養が行われた。寺名は東大寺と興福寺から一字ずつとり,規模は東大寺を,教業は興福寺を手本としたという。本尊の釈迦如来は高さが15mあり,新大仏と称された。建立後たびたび罹災したが,そのつど再建され現在に至る。「無準師範像」・宋版「太平御覧」・宋刊本「義楚六帖」ほかの国宝,「釈迦三尊」ほかの重文などが伝わる。三門は国宝,禅堂・鐘楼なども重文。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東福寺」の意味・わかりやすい解説

東福寺
とうふくじ

京都市東山区にある寺。臨済宗東福寺派の大本山。慧日山と号す。嘉禎2 (1236) 年九条道家の創立。円爾弁円を開山とし,京都五山の一つ。鎌倉時代末期に焼失し,室町時代に再建され,のち豊臣秀吉,徳川家光などが諸堂を修復した。 1881年仏殿,方丈,法堂などを焼失したが,漸次復興。焼失を免れた三門は国宝に指定されている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「東福寺」の解説

東福寺
とうふくじ

京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派の本山。京都五山の一つ
1235年九条道家の創建になり,一条・九条両家の廟所。開祖は円爾 (えんに) 。寺内には重要な文化財が多く,特にその三門は禅宗三門の現存最古のもので有名。

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事典 日本の地域遺産 「東福寺」の解説

東福寺

(京都府京都市東山区本町15-778)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「東福寺」の解説

東福寺

(京都府京都市東山区)
京都五山」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の東福寺の言及

【京都五山】より

鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…

【明兆】より

…室町初期の東福寺の画僧。淡路島に生まれ,若くして同地の安国寺に入り,大道一以(1289‐1370)の弟子となり,師より吉山(きつさん)明兆の道号と法諱(ほうき)を授けられた。…

【室町時代美術】より

…京,鎌倉所在の各五山寺院の伽藍は初期,中期に盛況を呈した。しかし今日では往時の面影をとどめているものはわずかに東福寺伽藍だけであり,三門,禅堂,東司(とうす),浴室の中世遺構が現存している。鎌倉円覚寺舎利殿,正福寺地蔵堂(東京都,1407ころ)の両者は方三間単層裳階(もこし)つき仏殿の典型で禅宗様の特徴を内外の各部にうかがえる。…

※「東福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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