デジタル大辞泉 「裸」の意味・読み・例文・類語
はだか【裸】
2 覆いや飾りがなく、むき出しであること。「心付けを
3 包み隠しのないこと。「
4 財産・所持品などが全くないこと。無一物。無一文。「事業に失敗して
[補説]書名別項。→裸
[類語](1)
ら【裸】[漢字項目]
〈ラ〉衣服をつけず肌をむきだしにする。はだか。むきだし。「裸眼・裸出・裸体・裸婦・裸子植物/全裸・半裸・赤裸裸」
〈はだか〉「裸馬・裸一貫/丸裸」
[難読]
肌をあらわにむき出す意の〈はだあか(肌赤,膚明)〉がつまった〈はだか〉は,衣服を身につけない状態のことをいう。D.モリスは,人は他の霊長類や哺乳類のような毛皮がない〈裸のサルnaked ape〉であるというが,毛皮の代りに衣服をまとって寒を避け,危険を防ぎ,身を飾る。太古の人類には衣服がなかったが,現在もアフリカ,アジア熱帯地方には裸体で生活する民族がいる。ギリシア語ギュムノスgymnosは〈裸の〉という形容詞で,英語のgymnosperm(裸子植物)などに今も残っている。オリュンピア競技(オリンピック)を目ざす古代ギリシアの青年たちは,体育館(ギュムナシオンgymnasion)で一糸もまとわず体育訓練(ギュムナスティケgymnastikē)に励んだ。オリュンピアの観衆は競われる技と併せて出場する若者の裸体を楽しんだし,観ることを禁じられていた女性たちも像に残された優勝者の裸体美を楽しむことができた。
ゴーギャンのタヒチ紀行《ノア・ノア》は,タヒチの裸体民族は動物の場合と同様,ヨーロッパ人よりも男女の差異がはっきりしていないというが,衣服を着て日常を過ごす人々が裸体に接するときには,芸術的な審美感情よりも官能的な性の魅力を感じることが多い。これは裸に慣れていた古代ギリシアでも同じで,アテナイの彫刻家プラクシテレスが2体のアフロディテ像を彫り,1体は衣を着せ他の1体は裸体としたところ,コスの人々は裸の像を拒んで着衣の方が上品だからとこれを購入した。ところがクニドスの人々は喜んで裸体の像を選び,後にニコメデス王がいくら欲しがっても譲らなかったという(大プリニウス《博物誌》第36巻)。また古代ローマの人々は裸体の彫像や絵画ばかりか性器をかたどった室内装飾や日用品に囲まれて,性の楽しみをおおらかに享受していたから,公共浴場が混浴でもそのために風紀紊乱(びんらん)に拍車がかけられることはなかった。一方,カジュラーホやコナラクなどにある寺院の壁面に刻まれたおびただしい裸体像が示すように,ヒンドゥー教も裸身と性愛を関連させてこれらに寛容的である。仏教も裸を不浄視してはいない。
旧約聖書《創世記》は,禁断の木の実を食べたアダムとイブが裸を恥じるようになったと述べて,裸身への羞恥が最初の知恵であり,同時に原罪発覚の契機であるとする。一方,《雅歌》が歌う女体賛美は旧約全体を支配する裸の禁忌と矛盾している。父ノアの裸を見たハムはその子カナンまでもノアによってのろわれ,ほかの2人の子セムとヤペテは顔をそむけて父の裸を見ずに衣服を着せたためノアに祝福された(《創世記》)。また《レビ記》は,母,姉妹,兄弟の嫁,娘,息子の嫁などの裸を見ることは,父や兄弟などの裸を見るのと同じく悪事であると説く。着物の裾を顔までまくり上げれば恥があらわになるのである(《エレミア書》)。さらに新約聖書も肉欲につながるものを退けたので,ヨーロッパには中世まで裸を卑しみ忌む思想が支配することになった。I.クリュソストモスの《女と美について》や,クリュニー修道院2代院長オドーの《文集》にあるように,肉体の美はただ皮膚にのみあってその下には汚物しかない,汚物袋をなぜ抱きたがるのか,といわれては,公に裸を楽しむことは難しい。中世のキリスト教会は4種の裸体を認めていた。禁断の木の実を食べる前のアダムとイブやセバスティアヌスら殉教者や〈最後の審判〉の日に復活する人の姿などの〈自然な裸体nuditas naturalis〉,ヨブの貧しさやマグダラのマリアの悔悛を表して世俗的な財産がないことを示す〈現世における裸体nuditas temporalis〉,真理のような潔白さを表す〈純潔な裸体nuditas virtualis〉,異教の神々や悪魔の姿で示される〈罪悪の裸体nuditas criminalis〉がそれである。だが14世紀ごろにはこの4種の裸体が意味する範囲を越えた裸身が教会芸術の中にも見られるようになった。M.フィチーノなどフィレンツェの人文主義者たちは愛には神聖なものと地上的なものとの二相があり,神聖な愛は世俗的な財産への軽蔑を象徴する裸婦に体現されると考えた。ルネサンス期の教会はアンビバレントな態度をとり,トリエント公会議(1545-63)が特殊な例以外は教会芸術に裸を描くことを禁じて,ミケランジェロの《最後の審判》さえ塗りつぶしかねなかったのに,他方では教皇や各教会がパトロンとなって,画家や彫刻家たちにギリシアやローマの神々の裸体を自由に描かせ制作させていた。そして近代以降は裸身の美が公認されてきたが,マネの《草上の昼食》(1863)と《オランピア》(1865)は当時のサロンで物議をかもし,生活の中の女性の姿態を徹底して現実的に描く手法が以後の芸術家たちに衝撃的な影響を与えた。それは同時に,日常生活の中で裸身がもつ意味を考え直す端緒となった。
イスラムも裸体を戒める。女性は顔まで布で覆い,男も裸体をさらすことを避ける。ただし,アラビアにはイスラム伝播以前から古代ローマのような公共浴場ハンマームḥammāmがあって,そこで人々は異性愛や同性愛を楽しんでいたと思われる。今も残るトルコ式レスリングは,オリーブ油にまみれて裸体で争うもので,歴史的スポーツとして受け継がれている。一方,儒教が支配していたころの中国や朝鮮でも,人前で裸身を見せることを恥とした。道教も裸を異とし,きらびやかな天子の朝服も年中裸で暮らす国の人の眼を喜ばせはしないとか,面倒な行儀作法は裸の国では憎まれるなどのたとえに用いている(《抱朴子》外篇)。
裸についての日本人の考えは,かつて訪日した欧米の学者たちを驚かした。東京帝国大学医学部講師だったC.H.シュトラッツは《生活と芸術にあらわれた日本人のからだ》(1902)の中に〈日常生活における裸体〉という1章を設けて,屋内と屋外とを問わず,多くの生活場面で日本人の男女が天真爛漫に裸身をさらしていることを詳述している。褌(ふんどし)1本で走りまわった飛脚や人足,馬丁,駕籠(かご)かきの習俗は,明治時代の労働者に引き続き残っていたし,相撲は国技である。けれどもシュトラッツが特に驚いたのは,民衆舞踊〈ちょんきな〉を観たときで,少女たちが踊りながら脱衣して全裸となり,さらに続けて踊りながら着物を身につけて去った後,観衆がもっぱら舞踊のしぐさを評し合ったが,裸身については一言も触れなかったことだった。彼は1894年の京都美術展に出品された裸婦の絵に当時の人々が示した嫌悪も例にあげて,日本人が高い芸術的感覚をもちながらも,裸に対しては自然人の見地を固守し,裸体の美を理解していないと結論する。
結局,裸に対する態度は羞恥の感情と密接に関係しているものといえる。ある集団のある時期の文化や生活慣習がこれを羞恥とみなさない場では,裸はタブーとならない。北欧の人々が短い一時の陽光を裸身に浴びること,ヌーディスト・キャンプや浴場の中での裸,ヌード・モデルが職業として裸になることなどがその例である。逆に,アンデルセンの童話《裸の王様》や,夫の過酷な税の取立てを止めるため,約束どおり全裸で馬に乗った領主夫人に感謝して,村民が窓や扉を閉ざして彼女を見ず,1人だけのぞき見た男の眼は盲となったというピーピング・トムPeeping Tomの話は,場のタブーがあるからこそ意味をもつ。全裸で公共の場を駆け抜けるストリーキングstreakingは,それが初めて行われたという1974年以後もアメリカその他でときおりなされているが,いずれも何らかの罰を受けている。なお,医師の診察に際して患者が全裸になる習慣は日本にはない。
執筆者:池澤 康郎
明治維新をむかえ諸外国との交流が盛んになると,それまで意識にのぼらなかったものにも注意が払われるようになった。裸もその一つで,県令などで禁止する所もあったが,江戸時代には職人や人足などふだん裸で仕事をする者は多かったと思われるし,寝藁の中で裸で眠ることは広く行われていた。もちろん,場合にもよるが,男女混浴や裸は特別に猥雑なこととは見られず,あたりまえのこととして受けとられていたのである。
人はこの世に裸で生まれ,また裸で死ぬことは,産湯(うぶゆ)や湯灌(ゆかん)の風習をみてもわかる。この世と異界,日常と非日常,ケとハレといった異なった二つの世界や状態の間の移行に際しては,〈裸〉になり,原初の時に回帰するという習慣があるようである。古くは,天鈿女(あめのうずめ)命が天岩屋戸の前で神がかりして裸体をあらわにして八百万(やおよろず)の神々の笑いを招いたが,ここでは夜と昼,冬と春,暗と明との移行がなされている。また神事を行ったり神に参る際にも裸になって垢離(こり)を取ったり禊(みそぎ)を行い,身心ともに穢れを払って清浄なものにする。正月の元旦に一糸もまとわずに海で身を潔める村が志摩地方にあるが,小正月に夫婦が真っ裸になって四つばいで粟や稗の豊穣を祈る唱言をいいながら囲炉裏を3回まわる〈裸回り〉の風習は各地に分布している。旧年から新年への移行を裸の禊や儀礼を通して演じているのである。参加者が裸になって行う各地の裸祭(はだかまつり)も,年や季節の交替期になされ,しかも禊や年占(としうら)を目的としているものがきわめて多い。夏季の裸祭は,穢れや厄災を払う性質のものが多いが,冬季や農耕開始前の祭りは弱まった生命力の回復をはかるとともに豊穣を祈願したり福運がもたらされるように競技や年占を行うものが多い。裸でこうした祭を行うのは,生まれたままの始原的な状態に帰り新たな世界を創造するとともに,競技などを通して新旧の移行を儀礼的に演じるのである。豊穣をもたらす性的な所作も,元来は男と女という二原理の統合によって不二の聖なる状況を現出するものといえる。狩猟者や木樵(きこり)など山の民の間では,サゲフリマイとかクライドリといって,初参者が裸にされてイニシエーションの儀礼をうける風習がある。
また山女は裸であるという伝承もあるが,これはこの世と異なった世界に住む者のしるしとみることができる。この世と山,文化と自然,衣服と裸という対立がみられるのである。
執筆者:飯島 吉晴
ほとんど裸に近い姿で暮らしている民族は少なくないが,全裸で生活する場合はまれであって裸族と呼ばれている人々も何らかの衣装や装身具あるいは身体装飾を身につけている。したがってほとんどの社会において裸体は,装身した日常生活での姿と対立するゆえに,非日常性という象徴的意味を帯びやすい。衣服や装身は文化的な規範や社会的役割,地位の差異を表すのに対し,無装身の裸は規範からの逸脱や社会性の欠如とされる。アフリカ諸社会で,反社会的な妖術師の一般的なイメージは〈夜,裸で走る者〉である。しかし同時に,裸は,世俗的な汚れや地位の差別を払拭した,生まれたままの無垢の状態ともされる。礼拝や儀礼において裸体となることも多い。つまり,装身と対立する裸は,〈無作法な裸〉と〈無垢な裸体〉という二方向の象徴的意味をもつ。〈無作法な裸〉は文化の中で性や恥ずかしさの観念と結びついている。《創世記》のエデンにおけるアダムとイブの恥ずかしさを伴わない裸は,衣装や性を知る以前の〈無垢な自然〉を意味するが,エデン追放後の恥ずかしさを知った性的な裸は衣装で隠さねばならぬ〈無作法で野蛮な自然〉を意味する。いずれにしろ裸の状態は,装身という身体に刻印された文化的制度や性の制度化に対立する〈自然状態〉を意味している。
ほとんどの社会で裸は公衆の面前や日常的場面では隠さなければならないものであるが,儀礼や祭りなどの特定の状況において裸体となる習俗も多くの社会でみられる。アフリカのスワジ王国のインクワラと呼ばれる年の交替をしるす儀礼の中で,王は裸で人々の前に現れる。オーストラリアのムリンバ族の成年式では,成年になる少年たちは荒野でいっさいの衣装,装身具をとられる。さらにザンビアのヌデンブ族の首長の即位式において,首長に選ばれた者とその儀礼上の妻は,ぼろの腰布以外は身につけない。このような儀礼における裸について二とおりの解釈がある。一つは,成年式や即位式のような地位の変更を伴う儀礼では,地位を表象する衣装をとった裸の状態は,前の地位と新しい地位の間の境界状態を意味するという解釈であり,そこには白紙の状態としての〈無垢な裸体〉というイメージがある。もう一つの解釈は,王権儀礼や季節祭などでの裸は,放埒な性や野獣性と結びつき,文化の秩序を活性化する一時的な〈自然状態〉を表すというもので,そこには〈無作法な裸〉のイメージが含まれている。確かに儀礼の中の裸は,性的なものをむしろ解消しているものと性の放埒と結びつくものとに区別できるかもしれないが,同じ裸体がどちらともいえる場合もあり,無性的なものも過剰な性も,文化的秩序によって制度化された性からは同じように外れたものであって,つねに裸体は,聖フランシスコの裸体からポルノグラフィーの裸まで,方向は違っても文化の日常的秩序の外側にあるものといえよう。
執筆者:小田 亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…裸体で生きることが真の生き方だと考え実践する人びとの運動。裸体生活を重視する考えは,古代ギリシア・ローマにすでに存在していたが,ヨーロッパにおいて裸体をタブー視したのはキリスト教であった。…
…参加者が裸形になって行う祭り。裸は生まれたままの清浄無垢な姿とみられたから,神聖な行事を行ったり神と交渉するには最適のものとみられた。…
※「裸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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