〈京都・山城寺院神社大事典〉
聖宝没後は、直弟子観賢に引継がれ、観賢は「醍醐寺新要録」に「御影堂三間四面、延喜十一年観賢僧正建立之、延喜十二年トモ見タリ」とある、聖宝御影を安置する御影堂を建立した。
足利尊氏が後醍醐天皇追善のために創建したと伝え、当寺所蔵の醍醐寺并末寺略伝に
とある。ただし寺額の花押は義詮ではなく義教のものとされる。「丹波志」は、
と記す。また「横山硯」によれば、足利尊氏が京都で敗北、三光国師を伴って丹波路へ落ち延びる途中、船井郡
その後、尊氏は弟直義をこの地へ遣わし普請奉行として建築に着手した。
真言宗豊山派で、山号は神護山。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市伏見(ふしみ)区醍醐伽藍(がらん)町にある真言(しんごん)宗醍醐派の総本山。深雪(しんせつ)山または笠取山と号する。本尊は薬師如来(にょらい)。笠取山全山が寺域で、山上を上(かみ)醍醐、麓(ふもと)を下(しも)醍醐といい、上下醍醐に八十余棟の堂塔が配置されている。貞観(じょうがん)年間(859~877)理源(りげん)大師聖宝(しょうぼう)が山上に草庵(そうあん)を建てたのが始まりで、続いて准胝(じゅんてい)堂、如意輪(にょいりん)堂が建立された。さらに904年(延喜4)山下に釈迦(しゃか)堂、907年(延喜7)山上に薬師堂と五大堂が聖宝に帰依(きえ)した醍醐天皇によって建立され、定額寺(じょうがくじ)となった。919年、座主三綱(ざすさんごう)が置かれ、観賢(かんけん)が第1世座主に補任(ぶにん)された。続いて朱雀(すざく)天皇は949年(天暦3)法華三昧(ほっけざんまい)堂を建立し、村上(むらかみ)天皇は醍醐天皇追福のため952年(天暦6)五重塔を建立するなど寺運隆盛に向かい、その後の諸天皇も当寺に帰依し、大伽藍の完成をみるに至った。永久(えいきゅう)年間(1113~18)第14世勝覚のとき三宝院(さんぼういん)が建立され、ついで理性(りしょう)・金剛王(こんごうおう)・無量寿(むりょうじゅ)・報恩(ほうおん)の四院も建ち、醍醐五門跡と称された。以来多くの学僧が入山し、盛時には醍醐全山の伽藍坊舎甍(いらか)を並べた壮大さであった。初めは五門跡の高僧が交替で当寺の座主を務めたが、黒衣の宰相(さいそう)とよばれた満済(まんさい)が、応永(おうえい)年間(1394~1428)三宝院門跡となり、足利(あしかが)氏の信任を得て寺門の興隆に尽くして以来、三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるのが通例となった。1470年(文明2)、兵火によって五重塔を残しことごとく焼失したが、時の座主義演(ぎえん)が豊臣(とよとみ)秀吉の帰依を受けて再興し、1598年(慶長3)に秀吉は醍醐の花見を催すなどして旧観を取り戻した。江戸時代には徳川氏も当寺を保護し、寺領を寄進した。また当寺は三宝院を中心として修験道(しゅげんどう)当山派の本拠地とされてきたが、明治維新後、修験道が廃止され、醍醐寺は真言宗に帰入された。
[眞柴弘宗]
上醍醐には、当寺最初の堂である准胝観音(かんのん)堂(現堂は1968年の再建)があり、本尊准胝観音が安置され、西国三十三所第11番札所として著名である。薬師堂(国宝)は1121年(保安2)再建のものであるが、平安時代の気風を伝え、会理僧都(えりそうず)作と伝える本尊薬師如来および両脇侍(きょうじ)像(ともに国宝)が安置されている。また1434年(永享6)に再建の一山の鎮守清滝宮(せいろうぐう)拝殿(国宝)と本殿(国重要文化財)があり、ほかに五大明王を祀(まつ)る五大堂、如意輪堂、開山堂などがある。仏に供える水をくむ醍醐水閼伽井(あかい)があり、醍醐寺の名のおこりともいう。
下醍醐は、総門を入ると桜並木があり、仁王門に至る。この道の左右に三宝院、宝聚(ほうじゅ)院(霊宝館)がある。仁王門の奥が下醍醐の伽藍で、五重塔、金堂(いずれも国宝)などがある。五重塔は京都における現存最古の建築。初層塔内には壁画17面(国宝)があり、両界曼荼羅(まんだら)図、真言八祖像、唐草文(からくさもん)などが、心柱囲板(かこいいた)、連子窓(れんじまど)裏板、腰羽目板、天井や梁(はり)に描かれており、近年の解体修理で四天柱と扉にも絵があることが確認された。金堂は創建の位置に1600年(慶長5)豊臣氏が和歌山県満願寺の堂を移したもので、本尊薬師三尊像は国重要文化財。ほかに御影(みえい)堂、清滝権現(ごんげん)堂、女人堂などがある。
現存する塔頭(たっちゅう)寺院には三宝院、報恩院、理性(りしょう)院、光台(こうだい)院、無量寿院、金剛王院、岳西(がくさい)院、成身(じょうしん)院などがある。三宝院の現在の殿舎は1598年に起工され、表書院(国宝)、玄関、勅使の間、秋草の間、葵(あおい)の間、宸殿(しんでん)、庫裡(くり)、純浄観、護摩堂(以上、国重要文化財)よりなる。表書院を中心に各渡廊でつながれ、各室の壁、ふすまなどは彩色画が描かれ、奥書院(寝殿)上段の間の違い棚は醍醐棚とよばれる桃山時代の遺構。庭園は特別名勝・史跡指定の名園。1994年(平成6)、醍醐寺は世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[眞柴弘宗]
紙本着色絵因果経、絹本着色五大尊像、同閻魔(えんま)天像、同文殊渡海(もんじゅとかい)図などの国宝のほか、紙本墨画密教図像39点、大日金輪(こんりん)像、仁王経(にんのうきょう)曼荼羅図などの絵画、金銅仏具などの工芸品、彫刻など国重要文化財は非常に多い。また三宝院には絹本着色訶梨帝母(かりていも)像(国宝)がある。宝物の多くは現在宝聚院に収蔵されている。おもな年中行事に五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)(2月23日)、太閤(たいこう)花見(4月第2日曜)がある。
[眞柴弘宗]
『『古寺巡礼 京都3 醍醐寺』(1976・淡交社)』▽『浜田隆編『醍醐寺と仁和寺・大覚寺』(『日本古寺美術全集14』1982・集英社)』
京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。深雪山と号する。874年(貞観16)に聖宝(しようぼう)が創建。のちに上醍醐と呼ばれるようになった笠取山の山頂に,如意輪・准胝両観音を安置する堂宇を建てたことに始まるとされる。当時笠取山の西麓一帯に住みついていた宮道氏は,その娘が藤原高藤の妻となり,その間に生まれた胤子が醍醐天皇の母となったために,勢力を増した。醍醐寺の創建と発展は,宮道氏と関係があるものと思われる。907年(延喜7)山頂の小さな寺は醍醐天皇の勅願寺となった。聖宝の没後,門弟の観賢が初代の座主となり,やがて笠取山のふもとに下醍醐の大伽藍の造営が始まった。952年(天暦6)に落成した五重塔は,京都府に現存する最古の建築として知られている。醍醐寺は,東大寺と密接なつながりをもって発展し,東密小野流の中心,三論宗の教学の拠点として重んぜられた。平安時代末には白河上皇の帰依を受けて勝覚,勝賢らが活動し,鎌倉時代の初めには重源が宋版一切経を施入するなど,仏教の新しい動きも受けいれ,深賢,親快らの学僧を出した。大寺院となった上下の醍醐寺には,三宝院,報恩院をはじめ多数の塔頭(たつちゆう)があったが,室町時代初頭に三宝院門跡で座主となった賢俊,満済は,足利氏の厚い帰依を受けて寺勢の発展に尽くした。その後,応仁の乱の兵火で伽藍のほとんどを焼失,寺領も失ったが,近世初頭の座主として名高い義演が豊臣秀吉の援助によって三宝院を再興し,荒廃していた境内を復興した。秀吉が醍醐寺で盛大な花見の宴や茶会を開いたことは広く知られている。
醍醐寺は早くから修験道の中心となっていたが,室町時代には当山派修験道の拠点として,本山派の聖護院と勢力を競うようになった。明治時代には仏教界の混乱のなかで動揺したが,1900年に真言宗醍醐派として独立,また神仏分離によって壊滅状態に陥っていた修験道の復興の中心となって現在に至っている。現在,三宝院門跡が醍醐寺座主の地位につき,醍醐派管長を兼ねて,850余の同派寺院を率いている。
醍醐寺は,建築,庭園,彫刻,絵画,典籍,古文書など数々の寺宝を有する文化財の寺であり,参観者も多いが,上醍醐の准胝観音は西国三十三所第11番の札所として参詣者を集め,2月の〈五大力さん〉,4月の清滝大権現例祭,豊太閤花見行列,6月の大峰花供入峰をはじめとする数々の行事を通じて信仰の中心として知られ,修験系統の数多くの講組織の活動も盛んである。
執筆者:大隅 和雄
下醍醐の伽藍では五重塔(952,国宝)が唯一創建当初のもので,本瓦葺き。総高の3分の1を占める相輪,均衡のとれた屋根逓減率,太い木割など安定感のある外観をもつ。初重内部に描かれた両界曼荼羅図をはじめとする壁画は,平安時代絵画史上の好資料である。金堂(国宝)は紀州湯浅から移建して1600年(慶長5)に竣工したもので,平安末期の様式をよく残しており,当時の遺構のうちではもっとも大規模なものである。上醍醐伽藍中最古の建物は薬師堂(1124,国宝)で,内陣の蟇股は時代の特色をよく表し,本尊薬師三尊像(国宝)も量感豊かな一木造の平安仏。清滝宮(せいろうぐう)拝殿(1434,国宝)は急斜面に建つ懸造で,住宅風の外観をもつ。寺宝類は多く,絵画では日本に現存する4巻中もっとも優れた《過去現在因果経(絵因果経,報恩院本)》(奈良時代),《五大尊像》(平安後期~鎌倉初期),《閻魔天像(えんまてんぞう)》《文殊渡海図》(ともに鎌倉時代)などの国宝があるが,39点に及ぶ白描の《密教図像》(平安後期~鎌倉,重要文化財)は,密教図像研究上,欠くことのできない貴重な資料である。書跡では伝弘法大師筆〈狸毛筆奉献表〉などが国宝である。
執筆者:谷 直樹
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京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。深雪山と号す。874年(貞観16)聖宝(しょうぼう)が笠取山上(上醍醐)に堂宇をたてたことに始まる。907年(延喜7)醍醐天皇の御願寺となった。山麓(下醍醐)に伽藍の建設が進められ,952年(天暦6)五重塔(国宝)が完成。平安後期には東密小野流の拠点となり,白河上皇らの帰依をうけて大寺院に発展した。三宝院・理性院など多数の子院が建立される一方,当山派修験の道場としても勢力を拡大した。しかし応仁・文明の乱の兵火をうけて衰退。豊臣秀吉の庇護を得た義演により復興された。上醍醐の本尊薬師如来三尊像をはじめ「絵因果経」「文殊渡海図」(いずれも国宝)など多数の寺宝を蔵する。境内は国史跡。
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…安土桃山時代の僧。醍醐寺座主,三宝院門跡。東寺長者を兼ねる。…
…鎌倉末~南北朝初期の僧侶。第65代醍醐寺座主,菩提寺僧正と号す。権大納言日野俊光の子で,三宝院賢助を師として出家。…
…京都市伏見区にある醍醐寺の子院。修験道当山派の本山でもあり,室町時代以降醍醐寺全山の中心として重んぜられた。…
…醍醐寺が創建された平安初期から1608年(慶長13)ころまでの醍醐寺関係の史料を類聚編纂した書。全22巻。…
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