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イタリア史 イタリアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イタリア史
イタリアし

476年西ローマ帝国の滅亡後,568~569年にランゴバルド族が北イタリアへ侵入,王国を建設した。この事件をもって中世の始まりとされているが,ランゴバルド王国そのものは 774年にフランク王国のカルル1世 (大帝) に倒された。11世紀以後イタリアは神聖ローマ皇帝と教皇の争いの場になるが,この間に北部と中部の諸都市は都市自治権を得て経済的繁栄をもたらした。これに対してシチリア島を含んだ南部では,ノルマン朝ホーエンシュタウフェン朝のもとで集権的国家体制がつくられ,のちの南北の社会構造の違いを生み出した。ルネサンス文化の開花の時期を経て,イタリアはヨーロッパ諸王朝の争奪の場とされ,スペインとオーストリアの影響が強まった。18世紀末にはフランス革命の刺激を受けて統一と共和制の樹立を目指すジャコビーノ革命が各地で生じた。しかしナポレオン1世の登場によってシチリアを除く全土がナポレオン体制のもとに組み込まれた。1815年以降,再び分裂諸国家の状態に復するが,独立と統一を求めるリソルジメント運動が強まり,1859~60年の対オーストリア独立戦争やジュゼッペ・ガリバルディのシチリア遠征などを通じて国家統一が達成され,1861年にイタリア王国の成立をみた。しかし統一国家の基盤は弱体であった。その後,オーストリアからベネトを奪回し,1870年の普仏戦争で,フランス軍がローマを引き揚げたのに乗じてローマを教皇より奪って首都とし,ここにイタリア統一を完成。1882年三国同盟を結び,列強とともに植民地争奪戦に加わったが,第1次世界大戦に際しては,未回復の地 (→イタリア・イレデンタ) を獲得するために三国同盟を破棄し,同盟国側に対して宣戦。しかし大戦後の戦果に対する不満,経済不安,労働問題,政党間の対立により社会状況が悪化,1922年「ローマ進軍」を組織したベニート・ムッソリーニファシスト党が政権を奪取した。ムッソリーニはドイツにくみして第2次世界大戦に参戦したが,1943年連合軍のシチリア上陸に直面して敗色濃厚となり解任された。代わったピエトロ・バドリオ将軍がイタリアの無条件降伏と対ドイツへの宣戦布告を行なった。1945年4月イタリアは解放され,1947年共和国憲法が制定された(1948施行)。共和国成立後キリスト教民主党の主導のもとに高度成長期を迎えたが,政情は不安定な様相を呈し,1960年代には中道左派政権の成立をみた。1970年代にはイタリア共産党(のちに左翼民主党)が躍進したが,1980年代には社会党が進出,中道左派連立内閣が続いた。しかし,政財界の大物を巻き込んだ汚職,マフィアとの癒着が 1992年に発覚し,既存政党への国民の不信が高まり,新選挙法による 1994年の総選挙では右派連合が勝利した。その後 1990年代後半から 21世紀初頭にかけては,右派,左派連合による内閣が比較的短期間で交代する状態が続いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア史
いたりあし

本項では、イタリアの通史として古代から今日までの歴史を概説するが、古代ローマ時代に関しては、別に「ローマ史」が立項されているので、詳しくはそれを参照されたい。[清水廣一郎]

イタリア史の特色と時代区分

イタリア半島は地中海に架けられた橋であり、歴史上、つねにヨーロッパとレバント(イタリア以東の地中海沿岸地方)、アフリカとを結ぶ役割を果たしてきた。したがって、その歴史は商業的、都市的性格が濃厚である。換言すれば、イタリア半島において形成された文化は、西ヨーロッパ的な性格をもつと同時に、地中海諸地域との共通性をもっているのである。もう一つの特徴は、権力の分裂状態である。イタリア半島が一つの政治的共同体となったのは、ローマ時代と1861年の国家統一以降のことである。したがって、半島の諸地域はそれぞれ独自の個性をもっている。とくに南部と北部とのコントラストが大きい。ローマ時代あるいはそれ以前において先進地帯であった南部は、12~13世紀にノルマン朝、ホーエンシュタウフェン朝のもとで独特の優れた文化を築いたが、北部の都市国家群の成長とポー川流域の農業発達に対して後れをとり、やがてスペイン支配のもとで停滞し、産業革命以後、後進化した。このような多様性と地域間の著しい不均衡がイタリア史の特徴といえる。
 歴史上の画期としては、ランゴバルド人の侵入(568~569)と国家統一の達成とが重要である。前者は、西ローマ帝国の遺産を受け継いだ東ゴート王国が解体し、ローマ的伝統とゲルマン的伝統の融合のうえに、新しい中世文化が形成される契機となった事件である。これ以後、中世初期、コムーネ時代、プリンチパートprincipato制(君主制)の時代(ルネサンスの時代)と続き、16世紀以降、スペインがイタリアの大部分を支配するようになる。スペイン継承戦争以後オーストリアの勢力が侵出し、やがてそれにかわるナポレオン1世の支配下でフランス革命の成果が直接イタリアに持ち込まれたが、彼の没落後ウィーン会議に基づき、北イタリアにオーストリア支配が復活し、南イタリアには両シチリア王国が生まれた。これに対して、イタリア諸国の自立性を回復し、国家統一を実現しようとする運動(リソルジメント)が、サボイア王家の主導のもとに1861年に達成された。ここに初めて真の意味におけるイタリア史のページが開くことになる。統一以降においては、ファシズムの台頭と政権掌握、没落、レジスタンス運動、ならびに共和国の成立が重要な画期である。[清水廣一郎]

古代


ローマ以前
イタリア半島には旧石器時代から人が住んでいた。新石器時代、金石併用時代の住民は古代地中海人種と考えられている。サルデーニャ島には巨石文化が存在した。紀元前1700年ごろに始まった青銅器時代にはアペニン文化、ポー文化が成立した。後者は、新たに移住してきたインド・ヨーロッパ語族のものと考える人が多い。湖畔や沼地に杭(くい)を打ち、その上に家を建てたり、平地に高床式住居(テラマーレ式住居)を建てたりした。火葬の習慣、馬の使用など、従来の地中海人種とは違った性格の文化が認められる。インド・ヨーロッパ語族の移住は、鉄器時代に入るとさらに活発になり、前10世紀末~前6世紀にはエミリアとトスカナにビッラノーバ文化が成立した。家屋型の骨壺(こつつぼ)がその特徴とされている。
 前8世紀中ごろからシチリア島および半島南部にギリシア人の植民が始まり、シラクーザ(シラクサ)、タラント、ナポリなどの都市が建設され、ギリシア文化が移植された。これらの都市は経済的にも発展し、なかでもシラクーザは強大な海上勢力となった。ギリシア人が移住した地域は、前2世紀ごろになるとマグナ・グラエキアと総称されるようになった。一方、シチリア西部とサルデーニャには、前7世紀にフェニキア人が進出した。また、中部イタリアにはエトルリア人(エトルスキ)が勢力を拡大した。彼らは都市国家を組織し、アーチを用いた建築物を建てたり、大規模な土木工事を行うなど、後のローマに大きな影響を与えた。彼らは非インド・ヨーロッパ系と考えられているが、起源や移住経路は不明である。その言語はギリシア文字で記されているが、まだ解読されていない。エトルリア人の支配地域の南に、イタリキ人に属するラテン人、サビニ人、ウンブリ人などが居住していた。[清水廣一郎]
ローマ時代
前7、6世紀ごろ、テベレ川下流に定住していたラテン人、サビニ人がしだいに台頭し、エトルリア人との交易を行いながら、集合して共同体を形成した。これがローマの起源である。彼らは初めのうちエトルリア人の支配下にあったと考えられているが、前6世紀末にはエトルスキ系の王を追放して共和政を敷き、勢力を拡大した。前4世紀には北方からのケルト人の侵入と略奪によって大きな損害を受けたが、まもなく復興し、中部イタリアのエトルリア人やイタリキ系諸民族を制圧した。さらに南イタリアのギリシア植民都市との戦いに勝って前270年ごろに半島の大部分を支配した。前3世紀末にはカルタゴとの前後3回にわたる戦争(ポエニ戦争)に勝ち、北イタリアや東地中海に支配を拡大して、前2世紀には地中海の支配者となった。その後、社会的対立、ローマと同盟市との対立が激化して内乱状態になったが、前1世紀中葉カエサルが権力を掌握した。前27年にオクタウィアヌス(アウグストゥス)による元首政(帝政)が始まり、後2世紀初めに最大の版図に達した。ローマ支配下の地中海諸地域では、パックス・ロマーナ(ローマの平和)といわれる状態が成立し、ローマ法、キリスト教、ラテン語およびギリシア語の普及が、人々を結び付けた。港や道路網の整備によって人の往来や交易が活発化し、ブリタニア、パンノニア、ダキアなど遠方の属州との結び付きも強化された。しかし、このように巨大化した帝国のまとまりを維持し続けることは困難であり、やがて衰退が始まった。395年、帝国はコンスタンティノープルとローマの両皇帝によって分割統治が行われるようになり、西の皇帝は476年にゲルマン人傭兵(ようへい)隊長オドアケルによって廃位された。[清水廣一郎]

中世


中世の開始
476年「西ローマ皇帝」が廃位されたのち、イタリアは法的には「東ローマ皇帝」(ビザンティン皇帝)の支配下に入った。本来、帝国の支配権は不可分のものとされており、オドアケル自身そのことをよく承知していた。5世紀末にイタリアに入り、ラベンナを都とする国家をつくった東ゴート人の場合も、「東ローマ皇帝」の宗主権を認めていた。ローマの行政制度が存続し、古代地中海文明の伝統は維持されていた。東ローマ皇帝ユスティニアヌスはゴート戦争によってイタリアに対する実質的な支配を達成しようとしたが、568年のランゴバルド人の侵入と建国によって、その計画は達成できなかった。北イタリアと、中部、南部の一部はランゴバルド領に、他は「東ローマ」領に分割された。この時期から中世に入るとするのが通説である。ランゴバルド人の影響によって土地所有関係や法慣行に大きな変化が生じたと考えられている。[清水廣一郎]
カロリング朝
754年イタリアに進出したカロリング家のピピンはラベンナなどをランゴバルドから奪い、教皇に贈った(756)。これが教皇領の基礎となった。さらに、その子カールはランゴバルド王国を滅ぼし(774)、800年にはローマで皇帝の冠を受けた(カール大帝)。これによって、西側に「東ローマ皇帝」に対抗する皇帝が出現するとともに、イタリアの歴史はドイツに結び付けられることになった。イタリアにおけるカロリング王家の断絶(887)後、この結び付きは一時緩んだが、オットー1世(大帝)の「神聖ローマ皇帝」即位(962)によって、ふたたび強化された。[清水廣一郎]
商業と都市の発達
地理的条件に恵まれたイタリア半島では、中世初期の経済的衰退期にも遠距離交易が存続し、多くの都市は政治的、経済的中心としての機能を維持していた。11世紀にはヨーロッパの経済的発展に伴って地中海貿易は活発化し、ベネチア、ジェノバ、ピサなどが成長し、ミラノなどの内陸都市が続いた。十字軍によって地中海東岸にキリスト教国家が建設されたため、イタリア商人たちの商業圏はさらに拡大した。都市人口が増大し、騎士その他の土地所有者が都市の大商人層と結び付いて自治都市(コムーネ)成立の中心となった。シュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)がイタリアに進出したとき、北イタリア諸都市はロンバルディア同盟を結成してこれを破り、コンスタンツの平和条約(1183)によって大幅な自治権を皇帝に承認させた。こうして成立したコムーネは、やがて教皇派(グェルフ党)と皇帝派(ギベリン党)とに分かれて互いに激しく争った。また13世紀中葉には、従来政治から排除されていた商工業者層が台頭し、市民団体(ポポロ)を結成して都市政治に進出した。[清水廣一郎]
南イタリア
シチリア島や、イタリア半島南部は、9世紀にイスラム勢力の支配下に入っていたが、11世紀に南下したノルマン騎士によって征服された。征服初期の指導者はロベルト・グイスカルドであったが、その甥(おい)ルッジェーロ2世Ruggero (在位1130~1154)によってシチリアと半島南部が統一され、シチリア王国が誕生した(1130)。王位はその後、婚姻関係によってシュタウフェン家のものとなり、フリードリヒ2世(1197、シチリア王即位)がイスラム、ノルマン時代の伝統を受け継ぎつつ強力な集権的国家の建設を推進した。シチリア王国の確立によって、南イタリアでは自治都市の発展が阻害され、貴族、大土地所有者層の優越する社会が形成された。フリードリヒの死後、フランスのシャルル・ダンジューが王位を得たが、13世紀末にはシチリア島だけはアラゴン王国の支配下に入った。さらに15世紀中葉には半島南部もアラゴンの支配するところとなった。[清水廣一郎]
ルネサンス
フリードリヒ2世の死後、皇帝位は事実上空位となり、フランスの影響力が増大し、やがて教皇の座もアビニョンに移った(1309~1377)。この結果、都市や君主の間の抗争が激化し、有力な国家が周辺の小国家を併呑(へいどん)することになった。不断の戦争状態にある都市では、自治都市の体制(共和制)を維持することが困難になり、特定の有力者が権力を掌握するシニョリーアsignoria制が拡大した。彼らはやがて公や侯の称号を獲得し、世襲的な国家を形成するようになる(プリンチパート制)。15世紀後半に共和制を維持しえたのは、ベネチア、ジェノバ、フィレンツェなど少数の大商業都市であった。しかも、フィレンツェは事実上メディチ家の支配下にあった。このような政治的抗争のなかで15世紀にはルネサンス文化が開花した。すなわち、都市経済の発展、ビザンティン帝国やイスラム諸地域に保存されていた古代ギリシアの哲学や自然科学、アラビアの医学、天文学などの優れた文化との接触、商人の現実的、合理的意識などを基盤として新しい市民文化が形成され、そのなかからやがてギリシア・ローマの文化の重要性を発見し、その復興を主張する知識人の運動が生まれた。都市相互の対抗意識や、君主の美術家、学者に対する保護もその発展に大きな役割を果たした。とくに1454年にミラノとベネチアとの間でローディの和が締結され、それにフィレンツェ、ナポリ(シチリア王国)、教皇領を加えた五大国の間でいちおうの政治的均衡状態が成立した時期に、新しい文化がイタリア各地に普及した。ペトラルカ、サルターティなどのローマ古典研究、フィチーノの新プラトン派哲学、ドナテッロ、マサッチョ、ブルネレスキなど遠近法や古典様式の研究に基づく彫刻、絵画、さらにラファエッロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロの理想主義的美術などは、広くヨーロッパ諸国に大きな影響を与えることになった。[清水廣一郎]
外国勢力の進出
1494年フランスのシャルル8世が、アラゴンによって併合された南イタリアに対する継承権を主張して南下した。これは、ミラノ公位をねらうルドビコ(イル・モロ)の招きに応じたもので、結局イタリア諸国の抗争が原因であった。この遠征は失敗に終わったとはいえ、イタリアが外国勢力の戦場となる道を開いた。また、アレキサンデル6世、ユリウス2世のもとで教皇領(教皇領国家)がイタリアの政治を動かす重要な勢力となった。1521年から1544年まで皇帝カール5世(ハプスブルク家)とフランス王フランソア1世(バロア家)との間で戦われたイタリア戦争によって、イタリア諸国の独立は失われた。この戦いはカール5世の勝利に終わり、1559年のカトー・カンブレジ条約によって、ハプスブルク・スペインがイタリアの多くを支配するようになった。新航路の発見によって地中海貿易の比重が相対的に低下し、イタリアが東方との貿易を独占することは不可能となった。ベネチアの海外植民地の多くがオスマン・トルコ帝国によって奪われる一方で、フランス、オランダ、イギリスの地中海進出が始まった。また、商工業活動の沈滞、市民の地主化、封建制の再建が進行していった。[清水廣一郎]
サボイア公国の台頭
イタリア諸国が沈滞しているなかでサボイア公国だけは地位を確保し、しだいにフランスのサボア(サボイア)からピエモンテに重心を移しつつあった。スペイン継承戦争後のユトレヒト条約(1713)によって、オーストリアがスペインにかわってイタリアを支配するようになったとき、サボイア公はシチリアを得てシチリア王を称することになった。しかし、1720年にはオーストリアの要求によってこれをサルデーニャと交換させられ、以後サルデーニャ王となった。一方、南イタリアはスペインのブルボン家のものとなり、ロンバルディアはオーストリアに、トスカナはメディチ家にかわってマリア・テレジアの夫ロートリンゲン公に統治されることになった。
 18世紀の後半には啓蒙(けいもう)思想の影響がイタリアに及び、これらの支配者によって上からの改革が試みられた。とくにロンバルディアやトスカナでは、財政改革、教会特権の制限、交易の自由化、裁判制度の改革などが行われたが、十分な成果は得られなかった。ナポリでも、教会に対抗して国王権力を強化する試みが行われた。[清水廣一郎]

近代


フランス革命の影響
1789年のフランス革命は、啓蒙(けいもう)君主による上からの諸改革に飽き足らなかったイタリア人の間に大きな反響を引き起こした。とりわけジャコビーノとよばれたイタリアのジャコバン主義者は各地でクラブをつくり革命思想の宣伝に乗り出した。1792年春フランスが対オーストリア戦争を開始すると、ビットリオ・アメデオ3世は他のイタリア諸国に対仏連合への参加を呼びかけたが、ナポリ王国を除いて応じる国はなかった。同年9月サルデーニャ王国のオーストリア側への参戦はフランス軍の侵入を招き、サボイアとニッツァを奪われた。ナポレオンの指揮するフランス軍は、1796年春以後オーストリア・サルデーニャ連合軍およびブルボン軍に対する一連の輝かしい勝利を通じてイタリアの大部分を征服し、北・中部にチザルピーナ共和国(1797)、南部にパルテノペア共和国(1799)を樹立した。ナポレオン軍侵入以前からフランス軍の進出はジャコビーノの動きを活発にしていたが、その影響は狭い知識人の間に限られ、大衆には及ばなかった。農民大衆は、ジャコビーノのうちに共同体の権利を横領する土地ブルジョアジーの代表を見て取り、この革新的運動に敵意さえ抱いた。この敵意はナポレオン支配下のイタリアで反動に利用され、反フランス、反革命の動きが各地で起こったが、とくに南部ではサンフェディスティ(聖なる信仰の徒)とよばれる反革命武装団が猛威を振るった。[重岡保郎]
ナポレオン体制
ナポレオンのエジプト遠征中、ロシア・オーストリア連合軍は1799年3月、反攻を開始し、ブルボン軍もこれに加わったためイタリアにおける力関係は一変した。しかし、エジプトから帰国したナポレオンは、クーデターに訴えて第一執政に就任すると、ふたたびイタリア征服に乗り出した。彼はマレンゴの決戦でオーストリア軍を破り、またたくまにイタリア半島を制圧した。至る所で封建制が廃止され、フランス民法典、近代的行政、軍制改革、宗教の自由、公教育などが導入された。半島はイタリア王国とナポリ王国およびフランス直轄領の三つの部分に統合されたうえ、生産設備と社会関係が近代化されたため、産業は発達し、ブルジョアジーは強化された。1805年以後のナポレオン体制下のイタリアで、もっとも先進的階層のなかから民族統一への意識が芽生え始めた。しかし人口の圧倒的多数を占めた農民は、教皇の流刑、徴兵制、重税、ブルジョアに有利な土地改革など、体制のとった諸政策に不満だった。[重岡保郎]
旧制復古とカルボナリ党
ウィーン会議は1815年6月イタリアの新体制を決定した。ロンバルディアとベネトはオーストリアのもとでロンバルド・ベネト王国を構成し、オーストリアの支配を免れたサルデーニャ王国はリグリアを併合して領土を拡張した。このほかモデナとパルマの両公国、トスカナ大公国、教皇領国家、両シチリア王国(シチリア島とナポリを中心とする半島南部とを領有)があった。トスカナとパルマを除く国々で旧制度が復活し、同時にイタリアは直接間接にオーストリアの支配下に置かれることになった。ブルジョアジーは、この復古体制と闘うために「カルボナリ党」(炭焼党)のようなナポレオン体制下に生まれた秘密結社を利用した。自由主義や共和主義の知識人を結集した秘密結社の土壌は大学、とくに軍隊であった。軍隊にはナポレオン時代の制度と人材がより多く残っていたからである。彼らは1820~1821年にナポリとピエモンテで、また1831年にはパルマや教皇領国家で、軍隊を中心とする立憲革命を起こし、部分的には成功したが、いずれも最後はオーストリア軍の武力介入によって鎮圧された。[重岡保郎]
マッツィーニと青年イタリア党
カルボナリ党の失敗から学んで新しい運動を起こしたのがマッツィーニである。彼は1831年マルセイユで「青年イタリア」という革命組織を結成したが、その目標は、イタリアをオーストリアと専制君主の支配から解放し、民主的共和国によって民族統一を達成することであった。彼はその目標達成の方法として民衆蜂起(ほうき)を考えたが、彼の民衆概念はあいまいで、かつ狭小だった。農地法に反対だった彼は、革命が依拠すべき人民から農民を排除したのである。青年イタリア党は1833年から、彼がロンドンに亡命する1837年まで、北イタリアの各地で繰り返し蜂起を試みたが、すべて無残な失敗に終わった。亡命中、労働運動の重要性に気づいたマッツィーニは、1840年代に入って、労働者の組織化と青年イタリア党の再建とを結び付けようとしたが、イタリアで当時起こり始めた労働運動は共済組合的運動で、彼の期待にこたえるものではなかった。1844年6月に再建組織の一員であるバンディエーラ兄弟Bandiera, Attilio(1810―1844)、Emilio(1819―1844)らを死に追いやった無謀な南イタリア遠征は、青年イタリア党に対する世論の批判を強め、民心を穏和自由主義へ導く結果になった。[重岡保郎]
1848~1849年
1830年代の産業の振興と、教育、文化の普及に伴うブルジョア的世論の形成を背景に穏和革新派が台頭してきたが、これは伝統の再評価のうえに漸次的進歩を求める愛国的自由主義運動であり、マッツィーニの統一主義に対して連邦主義を唱えた。この連邦主義の中心に教皇を据えようとしたのがジョベルティであり、それに世俗君主を構想したのがバルボなどである。1846年に登場したピウス9世は、教皇領に諸改革を導入し、ジョベルティの予告した覚醒(かくせい)教皇の到来として国民に歓迎された。その結果、諸国で革新的気運が起こり、これは憲法を要求する民衆運動に燃え上がり、やがて反オーストリアの解放運動に発展しようとしていた。1848年、パリの二月革命に続くウィーンの革命のニュースがミラノに届くと、市民は反乱を起こしてオーストリア軍を市から駆逐し、解放運動の口火を切った。各地に反乱が起こり、ベネチアでは共和政が樹立され、イタリア全域で立憲革命が成功したかにみえた。全イタリアで反オーストリアの機運が高まると、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは対オーストリア戦争に踏み切り、教皇をはじめ諸国の君主もこれを支持して正規軍を派遣した。しかし、この民族戦線は教皇の脱落とともにまもなく破綻(はたん)し、翌年春、共和主義者の援助を排して単独で戦ったサルデーニャ軍は3月末には休戦を余儀なくされ、王は退位した。マッツィーニら共和主義者が樹立したローマとベネチアの両共和国も1849年夏までに崩壊し、かくて第一次独立戦争はイタリアの敗北に終わった。[重岡保郎]
カブールと外交政策
ロンバルド・ベネトはオーストリアの軍政下に置かれ、他の諸国にも旧体制が復活した。サルデーニャ王国だけが「1848年革命」の成果である自由憲法を保持したので、政治的迫害を受けた各地の愛国者がこの国に亡命し、この国を中心とする統一事業に協力することになる。1852年にこの国の首相になったカブールは穏和革新派出身の自由主義者であったが、1848年革命の経験から、民衆革命を排する現実的方法として、外交と世論を通じて独立を達成しようと考えた。そのため一連の諸改革を断行して国政を固める一方、クリミア戦争に派兵して英仏の好意を確保しようとした。1856年のパリ講和会議に自ら出席して、オーストリア支配からのイタリア解放の正当性を国際的世論に印象づけることに成功した。1858年7月プロンビエールの密約でナポレオン3世の援助を確保したカブールは、翌年春、対オーストリア戦争、すなわち第二次独立戦争を開始し、サルデーニャ・フランス連合軍はまたたくまにロンバルディアの大半を制圧した。しかし強大な王国が北イタリアに形成されることを恐れたナポレオン3世は、7月、単独でオーストリアと休戦条約を結んだ。カブールは一時は憤激したものの、結局フランスにサボイアとニッツァを割譲する代償として、中部イタリアのピエモンテへの併合をナポレオンに認めさせることに成功した。すでに中部諸地域では革命が起こり、穏和革新派によってピエモンテへの併合の世論が準備されていた。中部イタリアの併合は1860年3月、住民投票により実現された。なお、ロンバルディアのピエモンテ帰属は1859年11月の国際会議で決定された。[重岡保郎]
ガリバルディとイタリアの統一
マッツィーニらは、イタリア統一運動(リソルジメント)がもっぱら外交政策に基づくサルデーニャ王国の膨張として進められることに不満をもち、独自の運動を展開しようと努めた。とりわけニッツァ選出の議員であったガリバルディは、外国に頼るカブールのやり方に激しく抗議し、イタリアは独力で解放されねばならないと考えた。そしてブルボン政権に対する反乱が続いていたシチリア島に、1860年5月、彼は義勇軍「千人隊」を率いて遠征し、貧農を解放戦争に動員することによって同島のブルボン支配を一掃し、さらに本土に侵攻して9月にはナポリに入城した。彼の計画では、さらに北上してローマやベネトを解放し、制憲議会を開いて新しい政体のあり方を決める予定だった。義勇軍のローマ侵入がフランスの介入を引き起こすことを恐れたカブールは、ナポレオン3世の許可を得て、ビットリオ・エマヌエレ王とピエモンテ軍を、急拠教皇領を横切って南下させ、義勇軍の進路を遮断した。ガリバルディは人民による解放戦争の継続を断念し、王の軍に協力してブルボン軍を撃破した。1860年秋、南部と中部(マルケとウンブリアなど)は住民投票でピエモンテへの併合が決定した。こうしてカブールの指導のもとに自由主義者と共和主義者の協力により図らずも統一が達成されることになり、1861年3月イタリア王国が誕生した。その後1866年にベネト、1870年にローマを獲得して、イタリアの統一は完成した。[重岡保郎]
右派と左派
1861年6月のカブールの死後、1896年まで統一国家の支配の座についたのは、穏和自由主義者からなる右派と、かつてマッツィーニの周囲に結集した共和主義者および民主主義者の系譜を引く左派とであった。1876年まで続いた右派の時代は、国家の基礎の確立期であった。ブルボン勢力などの旧支配者は、南部の農民やカトリック教徒を組織して統一国家に対する抵抗を続けた。右派政府は、南部の農民匪賊(ひぞく)に対して正規軍を長期間投入して鎮圧に努めなければならなかったし、1870年9月には軍隊によるローマ侵攻が断行された。ピウス9世と教会は統一国家を認めようとしなかっただけでなく、カトリック教徒に国政に参加すべきでないと教えた。このように国家と社会の矛盾、対立は王国の発足以来明白で、かつ深刻であるうえ、有権者は人口の2%にしか達しなかった。このような社会を統合するために右派政府は、いきおい地方自治を排した中央集権体制を設けざるをえない。経済の面では関税統一を目ざして北部の自由貿易制度が全国に適用されたため、南部の工業は大打撃を被った。またピエモンテの税制は間接税の割合が大きく、貧民に負担がかかるものであったが、それが一律に全国に適用された。右派政権は、貧困地域である南部やシチリアからの収奪により、また外資導入によって、北部工業化の基礎条件である道路、鉄道、通信施設などを建設した。
 1876年春のデプレーティス内閣の発足をもって左派の時代が始まる。左派の政策目標は選挙制度と地方行政の改善、税制と教育制度の改革などで、1880年代初期にはほとんど実現されたが、不徹底なものが多く、製粉税の廃止(1878)にしても他の増税によって相殺される面があって、従来の右派の政策に比べてとくに民主的であったわけではない。しかし有権者の枠を広げるとともに、とくに南部の中小ブルジョアを体制に編入し、国家の政治的基礎を広げたことは確かである。1880年代の農業と工業の危機に直面した左派政権は、1887年以降、保護関税制を導入して、北部の農・工業と、南部の大土地所有経営とを保護育成する措置をとった。これは社会的には北部の資本主義と南部の半封建制を結び付け、二重構造を宿命づける結果になった。[重岡保郎]
クリスピと権力政治
1887年に首相になったクリスピは、左派の路線をいちおう継承したが、デプレーティスにみられない権力政治の追求者であった。ビスマルクを崇拝した彼は、最初の内閣で中央集権を強める行政改革を行ったが、その政治の特徴は外交政策に端的に表れる。1882年にデプレーティスはドイツ、オーストリアと三国同盟を結んだ。同時にチュニジアとアッサブへの植民地政策を進めたが、膨張主義的ではなかった。クリスピは組閣後まもなく三国同盟を更新する一方、反フランスを対外政策の基調に据え、またアフリカでは植民地膨張政策をとった。翌年、彼はフランスとの間に関税戦争を引き起こすが、これは南部とシチリアの果実栽培業者に大打撃を与え、南部からの移民増大の因となる。1890年代に入ると彼の膨張主義はますます露骨になり、1893年にはエチオピア侵略を断行した。しかし1896年イタリア軍はアドワで大敗を喫したため、クリスピは失脚した。その後、右派の政治家によるクリスピ路線が続く。穀物不作や輸出減退によるパンの値上げに端を発した1898年の民衆暴動が全国的に拡大し始めると、政府は弾圧を強行し、その権力政治を法制化しようとしたため、社会党を含む左翼と立憲左派の共同反撃を招き、右派政権の退陣とともに、1901年、左派のザナルデッリ内閣が誕生した。[重岡保郎]
ジョリッティ主義と第一次世界大戦
ザナルデッリ内閣の内相を務めたジョリッティは1903年以来、第一次世界大戦前夜まで、短期間を除いて政権を保持した。ジョリッティ主義といわれる彼の統治の基礎は、ブルジョアジーに勤労者の要求を認めさせ、社会主義者には改良主義を受け入れさせることにより、ブルジョアジーと社会主義勢力とを和解・協力させる都市ブロックである。そしてこの進歩的都市勢力と後進的南部との均衡のうえに議会政治を運営した。しかし20世紀初頭の好景気を背景に推進されたこの均衡は、1907年以後崩れ始めた。経済的危機と独占の形成により都市ブロックが解体し始め、1912年には社会党内で革命的非妥協派が指導権を握ったからである。同年ジョリッティはリビア戦争の勝利と普通選挙権の導入により、翌1913年にはカトリックとの同盟によって、失われた均衡を取り戻そうと努めたが成功せず、1914年春辞任した。19世紀末からジョリッティ時代にかけて、第一次世界大戦へのイタリアの参戦を促す諸要素が一斉に胚胎(はいたい)している。すなわち、大工業の発展と国内市場の行き詰まり、国土回復主義、祖国復帰運動(イタリア・イレデンタ)、革命的サンジカリズムと国家主義および両者の接近、未来主義運動と「声」の文化運動などである。
 ソレルの思想的影響を受けた社会党指導者ムッソリーニは1914年秋、参戦論を唱えて党を追われると『イタリア人民』紙を創刊して参戦運動に加わったが、このころから参戦運動は急激に高まった。ジョリッティの後を継いだサランドラは国家主義的な保守主義者で、大戦初期には中立を守ったが、1915年春には議会に諮ることなく協商国側とロンドン秘密条約を結んだ。この条約は協商国側への参戦の代償として、トレンティーノ、トリエステ、ダルマチアなどのイタリアへの割譲を約束するものであった。政府は、中立勢力が圧倒的多数を占める議会に、議会外の参戦派の圧力を加えて参戦決議を強行した。その後、戦況はオーストリア軍のイタリア侵入とカポレットの大敗によって困難な局面を迎えたが、1918年10月のビットリオ・ベネトの大勝によって終戦を飾ることができた。[重岡保郎]

現代


第一次世界大戦後の危機とファシズムの台頭
数百万の兵士を4年にわたって動員した第一次世界大戦は、イタリア社会の停滞的な深部を揺り動かし、国家との矛盾をあらわにすることによって、戦後の政治的、社会的激動の諸因を準備する。他方、中立論と参戦論との対立は戦後も尾を引き、社会的矛盾を強めた。1919年のパリ講和会議は、ロンドン条約が約束したダルマチアのイタリア帰属を認めず、国家主義的世論を激高させ、フィウーメの占領も起こった。戦債とインフレに起因する増税に反発した国民各層は、それぞれの要求を掲げて立ち上がった。農村を代表する人民党と都市を代表する社会党は、比例代表制の導入によりともに大衆政党として大躍進を遂げ、旧支配政党は無力化し、左右の暴力的大衆運動の前に自由主義国家は瓦解(がかい)に瀕(ひん)した。この危機の時期に政局を担当したジョリッティは、戦前の統治方式を再現すべく議会勢力の再編成を目ざして、ファシストの暴力を選挙戦に利用するマキャベリズムをあえてした。1921年5月のこの選挙後、組閣に失敗したジョリッティの後を受けて政局を担当したボノーミとファクタは、ともにジョリッティと同様な態度をとったので、ファシズムは国家権力の暗黙の保護のもとに急速に膨張した。このような自由主義国家の危機のなかで1922年10月、ナポリをはじめ各地からローマに結集したファシストの総動員(ローマ進軍)に対して、ファクタは戒厳令の署名を国王に求めたが、王はそれを拒否してムッソリーニに組閣を命じた。[重岡保郎]
ファシズム体制
社共両党を除くほとんどすべての政党の支持のもとに連立政府を発足させたムッソリーニは、新選挙法の導入により下院におけるファシスト勢力の飛躍的増大を図る一方、大評議会や義勇軍の設置、国家主義者との合同によって党の掌握に努めた。1924年のマッテオッティ議員の暗殺を機に反政府運動が一斉に起こると、ムッソリーニとファシスト党は、王や教会、大資本など支配層の支持のもとに、いっさいの合法的装いを捨てる独裁政治への道を突き進む。1925年から1929年までに完成された独裁体制は、あらゆる市民的自由の抑圧を伴う権力の国家への集中体制であるとともに、その国家はムッソリーニの個人的独裁の道具でもあった。体制はすでに、労働者階級の国家への統合(1926)、協調組合主義の導入(1927)、教会とのラテラン協定締結(1929)を実現することにより、国民とりわけ中小ブルジョアの支持を得ていたが、1930年代後半にナチズムと結び付くに至って体制内部に亀裂(きれつ)を生じた。[重岡保郎]
第二次世界大戦
1920年代からベルサイユ体制に対する修正的意図をもっていたムッソリーニは、1935年10月エチオピア侵略に乗り出し、国際的世論の非難に対抗するためナチスとの提携に傾く。この傾向はスペイン内戦への共同介入(1936年7月)によってさらに強められ、独伊鋼鉄同盟(1939年5月)に帰結した。この軍事同盟は、軍備の整わないイタリアを第二次世界大戦に参戦させる(1940年6月)とともに、ナチズムへの従属を決定的にする。イタリア軍はギリシアでもアフリカでも敗戦を重ね、ドイツ軍の荷物になっていた。1942年末、北イタリアは最初の爆撃を受けたが、翌1943年春、北部の労働者は大規模なストライキを敢行した。同年7月、連合軍のシチリア上陸後まもなく、王と軍部および一部のファシストの間で計画されていたクーデターが起こり、ムッソリーニ政権は崩壊した。新たに成立したバドリオ政府は、ファシスト組織の解散と政治犯の釈放を行う一方、連合国に降伏(1943年9月)し、まもなく連合軍占領地域に逃亡した。ドイツ軍に救出されたムッソリーニはコモ湖畔のサロにファシスト共和国を興した。すでに再建されていた反ファシスト諸党は、この時期から本格的なレジスタンス活動を開始する。南部から連合軍が北上するのに対応して、ドイツ軍占領地域でレジスタンスは活発になり、ミラノ、トリノなど北部の主要都市はパルチザンの手で解放された。1945年4月、逃走中のムッソリーニはパルチザンに捕らえられ、愛人とともに処刑された。[重岡保郎]
第二次世界大戦後
1945年5月に始まる戦後史は、大きく四つの時期に分けることができる。レジスタンスの延長として国民的統一が存在した第1期は1948年5月まで続く。激動のこの時期に王制が国民投票で否決されて第一次共和制が成立した(1946年6月)。第四次デ・ガスペリ内閣の成立で第2期が始まるが、1963年まで続くこの第2期に経済的基礎が再建、復興され、1950年代末から「奇跡」といわれる高度成長期を迎えた。1945年末以来カトリックを代表するキリスト教民主党が与党の中心になったが、第2期に彼らは、それまで与党であった社会党と共産党を排して中道諸党との連立政権を選んだ。デ・ガスペリはブルジョアジーと中間層と農民を政府の周りに結集しようとしたから、彼の中道政治は本質的に反労働者的傾向を帯びることになった。この傾向はデ・ガスペリの死後さらに強まり、中道右派の路線が成立する。
 第3期は1963年末の社会党の入閣とともに始まる中道左派政権の時代である。この時期にキリスト教民主党は保守的な自由党や極右勢力を排して社会党をパートナーに選ぶ場合が圧倒的に多くなる。それは労働者勢力を新たに体制に統合しようとする試みでもある。
 そして、第4期は比例代表制に基づく第一共和制が終わり、小選挙区に基づく第二共和制が始まる1993年4月18日以降である。[重岡保郎]
中道左派政権と腐敗政治
第三期の中道左派政権の事業のうち、1970年までに実現された電力産業の国有化、農業改革、離婚法は重要である。また1950年に分裂した労働戦線は1969年に統一に向かうが、これは1968年から始まった学生、労働者の反体制的闘争(「熱い秋」)の産物であった。この学生や労働者の闘争エネルギーをくみ上げ、誘導することに成功したイタリア共産党は強大になり、キリスト教民主党に迫る野党第一党に成長した。1970年代に激化する経済的、政治的危機のなかで、解体に瀕した体制を支える義務を意識する共産党書記長ベルリングエルは、1973年にカトリックとの協力を意味する「歴史的妥協」を提案し、入閣の意思を示唆した。1976年6月の総選挙における共産党の大躍進は、この保革大連合の構想を現実的な問題にしたかにみえたが、1978年に入ってアメリカ合衆国の圧力と、過激派による前首相モーロの暗殺がその実現を阻む結果になった。モーロはキリスト教民主党内においてこの構想を積極的に受け入れる指導者だったのである。1979年1月以来、共産党は政府に対する閣外協力を放棄し、反政府の立場に戻ったが、同年5月の総選挙で著しい後退を示した。その後1983年6月の総選挙では、従来つねに35%以上の得票率を堅持してきたキリスト教民主党が首位を守ったとはいえ32%台に落ち込む一方、極右党を含めた保守、中道諸党が進出した。ネオファシズムの「イタリア社会運動」は王党派と組んで南部で大幅に議席を増やした。キリスト教民主党の敗因は、1970年代以来の慢性的経済危機に対する無策と、構造的ともいえる腐敗政治にあった。
 イタリアで最初に社会党の首相を務めたのが同党書記長のクラクシである。キリスト教民主党の退潮、共産党の野党化に乗じて、彼は社会党を保守・中道諸党の盟主として連立政権内の第二党に押しあげ、1983年8月に社会党主導の内閣を実現した。失業とインフレ激化の元凶とされた物価スライド制賃金の改正に着手し、1985年2月にインフレ抑制法である聖バレンタイン法を制定した。共産党と労働総同盟の同法反対を6月の国民投票でしりぞけた政府は、その財政政策によりハイパー(超)インフレ収束に成功した。実績をあげたうえ、共産党撃退で支配層の格別の信頼をえたクラクシ首相は国営機関や公共企業の管理権に関してキリスト教民主党とほぼ対等の利権を党のために要求しはじめた。社会党はこれらの利権を獲得するにつれてキリスト教民主党と同じ悪習に染まっていった。最大の悪習は南部の貧困層を公金支出によって手なずけるクリエンテリズモ(恩恵を与えるかわりに投票してもらう慣行)であるが、キリスト教民主党の場合には、さらにマフィアなどの犯罪組織との結託の悪習が加わる。1987年3月戦後最長の内閣が倒れて首相を辞任した後も、クラクシはアンドレオッティなどのキリスト教民主党首脳とともに歴代政府をとりしきる黒幕的存在であり続けた。1987年から1992年までキリスト教民主党が政権に帰り咲くが、それはもっぱらクリエンテリズモの南部票田に支えられた腐敗政権でしかなかった。しかも公金の財源である赤字国債も1992年には底をついたといわれる。[重岡保郎]
第一共和制の崩壊
1992年2月以来、政・官・財総ぐるみの汚職に対する検察当局の摘発は旧体制の激変をもたらした。大部分の政党が関係していたが、とくにキリスト教民主党と社会党に汚職が集中したのは、交替のない長期政権は必然的に腐敗する道理から当然であった。汚職の摘発は選挙結果にただちに反映する。1992年4月の総選挙で中北部では有権者は大政党にすべて背を向けた。その結果、北部同盟が躍進した。同党は地方自治と連邦主義を掲げて1980年代初めから登場した党である。北部同盟が体現していたのは「反党」であった。多くの人々はこの党の理論や政策に同意したのではなく、伝統的大政党に対する反発からこの党に投票したといえよう。北部同盟に次いで得票したのが左翼民主党だった。これは1991年2月に共産党が分裂した際、多数派が結成した新党である。
 旧体制の変化を促進した要因として選挙制度の改革が挙げられる。比例代表制はつねに同じ結果を招いた。1948年以来すべての選挙で1位がキリスト教民主党で、2位に共産党、3位が社会党である。1988年にキリスト教民主党の下院議員セーニMario Segni(1939― )は選挙制度の改革運動をおこした。彼は比例代表制が政治システム停滞の原因と考え、選挙改革案を国民投票にかける準備を進めた。左翼民主党は結党直後からこの運動を援助した。1993年4月に一連の国民投票により両院の選挙法改正案(小選挙区制と比例代表制の併用)などが可決された。
 1993年の6月と11月に行われた新選挙法に基づく地方選挙は政界地図を一変する結果をもたらした。いずれの選挙でもキリスト教民主党と社会党が汚職とマフィア疑惑で落ちこみ、とくに11月の市長選では壊滅的打撃をうけたのに対して、左翼民主党を軸とする左翼連合が全国的に優位にたち、北部を拠点とする北部同盟が対抗する第二の勢力として浮上した。なお、冷戦構造の崩壊という国際的要素がキリスト教民主党の没落を促進したことはいうまでもない。比例代表制に基づく共和制と小選挙区に基づく共和制の分岐点は選挙法改正案が可決された1993年4月18日である。この日を境に第一共和制と第二共和制とに時代区分するのが通説となっている。[重岡保郎]
第二共和制の開幕
1993年4月19日以後が第四期であり、第二共和制の始まりである。第二共和制の最初の総選挙は1994年3月に行われた。「メディアの帝王」とよばれるベルルスコーニの保守新党「フォルツァ・イタリア」が北部同盟および「イタリア社会運動」などと連携した右派連合が左翼民主党を軸とする左派連合に勝利し、戦後最右翼のベルルスコーニ内閣が誕生した。しかし同内閣は内部分裂と首相自身の汚職とにより年末には総辞職に追いこまれた。第二共和制の二度目の総選挙は1996年4月に行われ「オリーブの木」と命名された中道左派連合が右派連合に勝利し、元産業復興公社総裁のプロディが首相になった。経済学者のプロディは1996年に国内総生産の7%近くあった財政赤字を1997年には3%以下に削減し、イタリアのヨーロッパ連合(EU)通貨統合(EMU)加盟を確実にした。1998年10月新年度予算案をめぐり、プロディ政権の閣外協力団体である共産党再建派が福祉削減の理由で反対にまわり、プロディは内閣信任投票に敗れて辞任し、左翼民主党書記長のダレーマMassimo D'alema(1949― )が後任首相に選ばれた。ダレーマはEMU加盟国に課せられた安定化協定を守るため緊縮財政に取り組んだが、2000年4月の統一地方選挙で敗北した責任をとり辞任、国庫・予算・経済企画相で元首相のアマートGiuliano Amato(1938― )が首相となった。しかし翌2001年5月の総選挙で元首相ベルルスコーニが率いる中道右派連合「自由の家」が与党を破って勝利し、同年ベルルスコーニ内閣が発足した。ベルルスコーニ内閣(第二次、第三次)は2006年まで続いたが、同年4月の総選挙で元首相のプロディを中心とした中道左派連合に僅差(きんさ)で敗北し、5月にはプロディ内閣が発足した。2008年4月、与党の連立崩壊のため行われた上下両院選挙では右派連合が両院で過半数の議席を獲得し、ベルルスコーニが四度目の首相の座についた。しかし財政金融危機への対応の遅れや本人の素行問題などで支持率が低下したことに加え、与党議員の離党などで安定多数を維持できなくなり、2011年11月に辞職。経済の専門家であるモンティMario Monti(1943― )を首相とする新政権が発足した。モンティ政権は経済政策を進めたが、2012年12月、議会第一党が政権の信任投票を欠席したことを不信任とみなし、辞意を表明、上下両院を解散した。2013年2月の総選挙では上院で過半数を獲得した政党がなく、新政権は樹立できなかった。さらに同年4月の大統領選挙でも新大統領の選出ができず、高齢のため再任を固辞していた現職のナポリターノが新政権樹立への協力を取り付けたうえで大統領に就任。ナポリターノに首相候補に指名された民主党の下院議員レッタEnrico Letta(1966― )がこれを受諾し、レッタ新政権が発足した。[重岡保郎]

イタリア史の研究史


 イタリアには6世紀以来つねに複数の国家が存在し、統一国家が成立するのは1861年のことである。したがってそれ以前は、イタリア史研究というより、イタリア内の個々の国家あるいは地域を単位とした研究が主で、マキャベッリの『フィレンツェ史』(1523)やピエトロ・ジャンノーネPietro Giannone(1676―1748)の『ナポリ史』(1723)などがあるが、18世紀に入るとルドビーコ・アントニオ・ムラトーリLudovico Antonio Muratori(1672―1750)が膨大な史料集『イタリア記述史料集成』Rerum Italicarum Scriptores24巻の編纂(へんさん)を試みた。19世紀なかばにイタリア統一の気運が高まると、イタリアの歴史を貫く原理は何かの議論が起こり、ジュゼッペ・フェッラーリは皇帝派(ギベリン党)と教皇派(グェルフ党)の対立がイタリア史の特徴であると述べ、またカルロ・カッタネオは都市の存在とその機能がイタリア史の原理であるとした。2人はともに、イタリア統一を共和制による諸国家連合という形態で構想していたが、実際の統一はサボイア家のもとでの立憲君主制国家として実現した。その結果、統一後のイタリア史研究は、政治状況に強く影響される形で、サボイア朝の伝統ならびに穏健自由主義的な指導階層に焦点を当てる政治史中心の方法によって始まった。
 統一国家は新たな行政制度の創出や地域間の経済格差など多くの課題を抱えたが、そうした現実に触発されつつマルクス主義的方法の一部を摂取した研究者たちが、19世紀末から20世紀初めにかけて現れた。彼らは、歴史における法制度や経済構造を重視したことから経済・法制史学派とよばれたが、研究対象は主として中世史の領域で、サルベミニやジョアッキーノ・ボルペGioacchino Volpe(1876―1973)がその代表的な歴史家である。同じ時期にクローチェは、マルクス主義を否定して「精神の哲学」の体系を構築し、イタリア思想界に大きな影響を及ぼした。彼は、哲学を歴史の方法であるとして歴史主義の立場を鮮明にし、さらにしばらく後のファシズムとの対抗のなかで、歴史叙述は倫理・政治史となるべきことを唱え、『イタリア史 1871―1915』や『十九世紀ヨーロッパ史』を著した。
 イタリアでは1922年から1945年までファシズムが支配したが、この期間はイタリア史の展開のなかでファシズムをどう位置づけたらいいのか、という議論との関連でイタリア史が考察された。大きく分ければ四つの見方が生じた。一つはファシズムを支持する歴史家たちで、イタリア史における国家の発展を中心にすえて、ファシズムがイタリアの国家および国民を強大化させたことに評価を与えた。あとの三つは反ファシズムの立場であるが、それぞれに観点が違った。第一は急進主義的な見方で、ファシズムをイタリア史のなかに潜んでいた諸矛盾が顕在化したものととらえ、イタリア史を全体としてペシミスティックに描いた。第二はクローチェに代表される保守的自由主義の立場で、イタリア史を自由の発展の歴史と意味づけ、ファシズムは自由主義的発展から逸脱した現象、いわば健康体が一時的に病気にかかった状態とみなした。第三は共産党の立場で、最初はファシズムをイタリア資本主義の発展段階に位置づけ、革命による変革を唱えたが、後にはファシズムに民主主義を対置する方法をとった。
 ファシズム政権の打倒には民衆のレジスタンス(抵抗運動)が大きな役割を演じ、またファシズムの崩壊とともにイタリアの政体は君主制から共和制に移行した。共和制のもとではキリスト教民主党が支配政党となり、これに次いで共産党が第二党の位置を占め、政治だけでなく文化の面でも両者が競うことになった。こうした状況を背景にして、これまでもっぱら指導階層を中心に扱ってきた歴史研究にも変化が生じ、イタリア史における共和主義、民主主義、社会主義の系譜あるいは労働運動、農民運動、カトリック運動など民衆の社会運動の歴史が盛んに取り上げられるようになった。歴史研究の方法にかかわって大きな影響を及ぼしたのは、グラムシの『獄中ノート』だった。共産党指導者だったグラムシが、ファシズム体制下の獄中で綴(つづ)った膨大なノートが戦後に公刊されたもので、そこでグラムシは政治過程における知的道徳的指導の問題を論じ、「力」のみでなく「同意」の重要さを唱えた。グラムシは、クローチェの倫理・政治史に挑戦して新たな政治的文化的ヘゲモニー論を構想したのだが、このヘゲモニー論はその後イタリアを越えて国際的な注目を集めた。19世紀末から刊行されている伝統的な『イタリア史学雑誌』Rivista Storica Italianaに加え、1959年に『歴史研究』Studi Storiciが創刊された。1960年代、1970年代にさらに諸種の歴史雑誌が生まれて、このころからイタリア史研究は一段と多様化した。それは単に、政治史や経済史から社会史や文化史に対象が広がったということだけでなく、現代に生きる人々の多様な問題意識が、歴史家たちを従来の歴史の見直しとそのための方法の探求に導いたことを表すもので、諸世代の歴史家を結集してエイナウディ出版社が企画した大部の『イタリアの歴史』全6巻(1972~1976)は、そのような意味でフランスのアナール学派とも通ずる新たな研究動向の先駆けとなった。同社はこれに続けて、知識人と権力、病気と治療、科学と技術、犯罪、食事など個別テーマによる『イタリアの歴史』別巻シリーズを1987年から刊行し始めた。
 イタリアにおける新たな研究動向のなかでも、とりわけ注目されるのがミクロストーリアである。これは微視の歴史学と訳されるが、その目ざすところは、観察単位を縮小した微視の方法によって「みたところ変則的で無意味な事柄が重要な意味を帯びるようになる社会コンテクストを発見」(ジョバンニ・レービGiovanni Levi、1939― )するということにある。ミクロストーリアは、レービと並ぶもうひとりの歴史家カルロ・ギンツブルグCarlo Ginzburg(1939― )の作品を通して、日本を含めた世界各地に広まり、ささいな徴候や特殊的なものを手がかりにして事柄の文化的意味を読み解くというこの方法は、歴史研究にとどまらず学問諸分野に刺激を与えた。
 1990年代以降イタリアでは、一方でヨーロッパ統合の進展、他方で国内政治勢力の再編成や地域主義の台頭など内外情勢の変化に直面し、改めてナショナル・アイデンティティ(国民の一体性原理)を問う議論が活発となった。歴史研究の場でもこの問題は重要なテーマに設定され、統一国家の成立、ファシズム、レジスタンスなどイタリア史の主要な画期において、イタリアのナショナル・アイデンティティがどのように意識され、どう形成ないし分解されたのかをめぐる論争が、目だった動向の一つとなっている。[北原 敦]
『森田鉄郎編「イタリア史」(『世界各国史15』1976・山川出版社) ▽森田鉄郎・重岡保郎著「イタリア現代史」(『世界現代史22』1977・山川出版社) ▽D・ウェーリー著、森田鉄郎訳『イタリアの都市国家』(1971・平凡社) ▽N・オットカール著、清水廣一郎・佐藤真典訳『中世の都市コムーネ』(1972・創文社) ▽清水廣一郎著『イタリア中世都市国家研究』(1975・岩波書店) ▽清水廣一郎著『中世イタリア商人の世界』(1982・平凡社) ▽E・ガレン著、清水純一・斎藤泰弘訳『イタリア・ルネサンスにおける市民生活と科学・魔術』(1975・岩波書店) ▽森田鉄郎著『ルネサンス期イタリア社会』(1967・吉川弘文館) ▽北原敦著「リソルジメントと統一国家の成立」(『岩波講座 世界歴史 第20巻』所収・1971・岩波書店) ▽山崎功著『イタリア労働運動史』(1970・青木書店) ▽G・フィオーリ著、藤沢道郎訳『グラムシの生涯』(1972・平凡社) ▽B・クローチェ著、坂井直芳訳『十九世紀ヨーロッパ史』増訂版(1982・創文社) ▽C・ギンズブルグ著、杉山光信訳『チーズとうじ虫』(1984・みすず書房) ▽J・プロカッチ著、斎藤泰弘訳『イタリア人民の歴史』全2巻 (1984・未来社) ▽藤沢道郎著『ファシズムの誕生』(1987・中央公論社) ▽清水廣一郎・北原敦編『概説イタリア史』(1988・有斐閣) ▽後房雄編『大転換――イタリア共産党から左翼民主党へ』(1991・窓社) ▽R・ロメーオ著、柴野均訳『カヴールとその時代』(1992・白水社) ▽G・ファルコーネ著、千種堅訳『沈黙の掟』(1993・白水社) ▽G・ボッカ著、千種堅訳『地獄――それでも私はイタリアを愛する』(1993・三田出版会) ▽A・グラムシ著、東京グラムシ研究会監修・訳『グラムシ・リーダー』(1995・御茶の水書房) ▽C・ファーヴァ著、中村浩子訳『イタリア南部・傷ついた風土』(1997・現代書館) ▽S・ルーポ著、北村暁夫訳『マフィアの歴史』(1997・白水社) ▽Storia d'Italia, 6vols.(1972―76, Einaudi, Torino)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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