ロック(読み)ろっく(英語表記)John Locke

デジタル大辞泉 「ロック」の意味・読み・例文・類語

ロック(lock)

[名](スル)
かぎをかけること。じょうを下ろすこと。また、錠。「ドアを内側からロックする」
ラグビーで、フォワードの第2列の二人。セカンドローともよばれ、スクラムの押しの中心となる。LO。
自動車・オートバイなどで、走行中ブレーキを踏んだときに、車輪が停止したまま滑走すること。「急ブレーキでタイヤがロックする」
排他制御
[類語]錠前キースペアキーマスターキー南京錠合い鍵箱錠掛け金かんぬき解錠施錠シリンダー錠

ロック(rock)

《原義は「揺り動かす、揺さぶる」の意》
ロックンロールのこと。
ロックンロールをはじめ、その流れをくむ強いビートを特徴とするポピュラー音楽。電気的に増幅した大音量のサウンドを特色とし、1960年代にビートルズが出現して以来、急速に世界に広まった。ハードロックグラムロックプログレッシブロックオルターナティブロックなど。

ロック(John Locke)

[1632~1704]英国の哲学者・政治思想家。イギリス経験論の代表者で、その著「人間悟性論」は近代認識論の基礎となった。政治思想では人民主権を説き、名誉革命を代弁し、アメリカの独立やフランス革命に大きな影響を及ぼした。

ロック(rock)

岩。岩壁。暗礁。
オンザロック」の略。「バーボンをロックで飲む」

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精選版 日本国語大辞典 「ロック」の意味・読み・例文・類語

ロック

  1. 〘 名詞 〙 ( [アメリカ] rock )
  2. ロックンロール
  3. ロックミュージック
    1. [初出の実例]「バンドがその一組の客のために、自棄(やけ)じみたロックのリズムをくり返している」(出典:追いつめる(1967)〈生島治郎〉二)

ロック

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] rock )
  2. 岩。岩石。岩壁。暗礁。
  3. 障害物。危険物。禍根。
  4. オン‐ザ‐ロック」の略。
    1. [初出の実例]「ウヰスキイのロックを飲み」(出典:薔薇くひ姫(1976)〈森茉莉〉)

ロック

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] lock )
  2. 錠をおろすこと。鍵をかけること。また、錠。
    1. [初出の実例]「玄関のドアはロックしてあるが」(出典:見知らぬ家路(1970)〈黒井千次〉)
  3. ラグビーで、フォワードの第二列の二人。セカンドローともよばれ、スクラムの押しの中心となる。

ロック

  1. ( John Locke ジョン━ ) イギリスの哲学者、政治思想家。経験論の代表者。「人間知性論」は近代認識論の基礎をなすもの。「統治二論」で人間の自然権・革命権・社会契約説に基づいて名誉革命を擁護し、民主主義思想の発展に大きな貢献をした。教育面ではルソーの先駆となり個性を尊重した。(一六三二‐一七〇四

ロック

  1. 〘 名詞 〙 ( [アラビア語] rokh [英語] roc ) 伝説上の巨大な怪鳥。「千夜一夜物語」のシンドバッドの冒険などに登場する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロック」の意味・わかりやすい解説

ロック(ポピュラー音楽)
ろっく
rock

20世紀後半にもっとも人気のあったポピュラー音楽の一つ。電気エネルギーで成り立っている産業社会を象徴するポピュラー音楽ともいわれる。基本的には8(エイト)ビートのリズムを強調した、若者向けの大音量のエレクトリックな音楽という意味で使われる。ただし1960年代後半以降は内容や聴衆が多様化しているので、実際はそれにとどまらない広範な音楽が含まれている。ロックン・ロールrock'n'roll(rock and roll)ということばは、しばしばロックと同じ意味で使われるが、狭義には1950年代のロックとそのスタイルにならった音楽、あるいはダンス音楽的な要素の強いロックをさす。

[北中正和]

ロックン・ロールの誕生とその特徴

rock(揺れる、振動)やroll(転がる、揺れ)ということばは、古くからアメリカのポピュラー音楽の歌詞では性的なニュアンスをこめて使われていたが、1950年代前半にラジオ番組のDJ(ディスク・ジョッキー)アラン・フリードAlan Freed(1922―1965)がアフリカ系アメリカ人のコーラス音楽やジャンプ・ブルース、リズム・アンド・ブルース(R&B)の一部をロックン・ロールとよんで紹介してから、音楽のジャンルを意味することばとして広まった。そのころはまだ電気楽器はあまり使われていなかったが、1955年の映画『暴力教室』にカントリー系のビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』が使われ、1956年にエルビス・プレスリーが『ハートブレイク・ホテル』などのヒットで若者の人気を集めたころから、白人アーティストによるエレクトリックな音楽をさして、ロックン・ロールとよぶことが多くなった。

 ロックン・ロールの先駆者としては、ほかにチャック・ベリー、リトル・リチャードLittle Richard(1932―2020)、ファッツ・ドミノ、ボ・ディドリーBo Diddley(1928―2008)、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis(1935―2022)、カール・パーキンスCarl Perkins(1932―1998)、バディ・ホリーBuddy Holly(1936―1959)などがいる。主要な音楽都市としては、メンフィス、ニュー・オーリンズ、シカゴ、ニューヨーク、フィラデルフィアなどがあげられる。初期のエルビス・プレスリーの音楽はリズム・アンド・ブルースとヒルビリー(南部のカントリー音楽)の影響を強く受けていたので、ロカビリーrock-a-billyともよばれた。チャック・ベリーやボ・ディドリーはラテン系の音楽の影響も受けていた。

 1950年代中・後期のロックン・ロールには、次のような特徴がみられるものが多い。

(1)メロディや使われるコード(和音)が単純明快。

(2)8ビートのダンス向けの音楽だが、1930年代~1940年代のダンス音楽であるスウィング・ジャズ以来の4(フォー)ビートの感覚も受け継いでいる。

(3)歌詞はティーンエイジャーの日常生活の出来事を素材にしている。

(4)少人数のグループで演奏され、リード楽器としてエレクトリック・ギター(電気ギター)、ピアノ、サックスなどが使われる。

(5)正確さより荒々しさや音量が強調され、歌手や演奏者はリズムにあわせて体を大きく動かしながら歌い、演奏する。

[北中正和]

ロックン・ロールからロックへ

第二次世界大戦後のアメリカ社会では好景気が続き、2000万人にのぼるベビー・ブーマー(日本でいう団塊の世代にあたり、その多くは当時の白人中産階級の若者)が、大人と違う好みをもつ消費者として登場してきた。しかし画一的な大量生産・大量消費を前提とする社会になじめない若者も少なくなかった。その気分を代弁したのが、『暴力教室』や『理由なき反抗』といった青春映画や、ロックン・ロールのような音楽だった。1950年代後半の5年間で、アメリカのレコード売上額は3倍の6億ドルに増えたが、5年間のヒット曲のトップ・テンのうち4割がロックン・ロールのレコードで、しかもその3分の2がインディーズ(小・中規模のレコード会社)の作品だった。また、その時期はメディアの変革期でもあり、1949年に登場した45回転のアナログ・シングル盤と旧来の78回転SPレコードの生産枚数は、ロックン・ロール・ブームのさなかの1957年に逆転した。

 ロックン・ロールのブームは1960年前後にいったん失速したが、1960年代中期には1950年代を上回る勢いで世界中に広がった。口火は1964年にイギリスのビートルズやローリング・ストーンズの音楽が、アメリカで爆発的な人気をよんだことだった。フォーク歌手のボブ・ディランや、ビートルズ以前から人気のあったビーチ・ボーイズなどもその動きに呼応し、アメリカやイギリス各地から無数のアーティストが登場した。そのなかでさまざまな音楽的実験が行われ、表現が飛躍的に複雑化し、1950年代的なスタイルを連想させるロックン・ロールにかわって、ロックということばが定着した。音楽の変化の背景には、ベトナム戦争の拡大と世界的な規模での反戦運動、アメリカの公民権運動、学園闘争、ヒッピーのドラッグ文化など、1960年代の社会のさまざまな動きがあった。

 当時登場したおもなアーティストやグループの一部を紹介しておくと、エレクトリック・ギターの演奏に革命をもたらしたジミ・ヘンドリックス、女性歌手の草分けにしてシャウト(絶叫)するボーカルの先駆者ジャニス・ジョプリン、ジャズ的な即興演奏でロックの幅を広げたクリーム、ハード・ロックの基礎をつくったザ・フーやレッド・ツェッペリン、カントリー的な要素を取り入れたザ・バンドやクロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング(CSN&Y)、クラシックや現代音楽の手法を使ったフランク・ザッパ、ベルベット・アンダーグラウンド、ピンク・フロイド、キング・クリムゾンなどがあげられる。主要な音楽都市は、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、デトロイト、メンフィス、ロンドンなどだった。当時のヒッピーのメッカ、サンフランシスコにほど近いリゾート地モンタレーで行われたモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967)、ニューヨーク郊外のベセルで行われたウッドストック・アート・アンド・ミュージック・フェア(1969)などは、大規模なロック・フェスティバルの先駆けとなった。

[北中正和]

多様化と成熟と先祖返り

1960年代には無限の可能性を秘めているように思われたロックだが、1969年末にカリフォルニアのオルタモントで行われたローリング・ストーンズのフリー・コンサートで、観客が会場警備員に殺害された事件は、反戦や平和と結び付いてきたロックのイメージを大きく傷つけた。1970年代に入って、ビートルズの解散や、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンJim Morrison(1943―1971)らの薬物による落命が相次ぐと、ロックの未来に対する楽天的な期待はさらに薄れた。1970年代に入って新たにみられた傾向は、シンガー・ソングライターの内省的な歌やエンターテイメント色の強いロックの増加、音楽の多様化などだった。1960年代に始まった音楽的実験はより洗練され、ハード・ロック/ヘビー・メタル、プログレッシブ・ロック、ジャズ・ロック、グラム・ロック、カントリー・ロック、サザン・ロックなどさまざまなスタイルの音楽が人気を集めた。リズム・アンド・ブルースから生まれたファンクfunkの16ビートや、ジャマイカのレゲエreggaeのリズムもロックに影響を及ぼした。また、ロックン・ロール/ロック世代の社会人が増えるにつれて、ロックは成熟した大人の音楽としての性格を帯び、その一部はAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)とよばれた。

 1960年代に2.5倍に成長したアメリカのレコード売上額は、1977年にはさらにその倍近くの30億ドルに膨れ上がった。1970年代中期にはフリートウッド・マック、イーグルスなどアルバムを1000万枚以上売るアーティストが初めて現われ、スタジアムを使うコンサート・ツアーが一般化し、ロックは完全に音楽産業の主力商品となった。一方、1970年代中期のニューヨークやロンドンでは、パティ・スミス・グループ、セックス・ピストルズ、クラッシュなどが商業的に巨大化したロックに背を向け、原点回帰的なロックン・ロールを演奏して注目を集め、パンク・ロックpunk rockとよばれた。その周辺から登場したポリス、トーキング・ヘッズ、U2、REMらニュー・ウェーブnew waveと称された一連のグループは、リズムを重視した演奏で1980年代のロックに新しい領域を切り開いた。

[北中正和]

ヒップ・ホップとダンス・ミュージック

1980年代のロックに関連して起こったおもな出来事は、ミュージック・ビデオ(ビデオ・クリップ)の普及、ヒップ・ホップの定着、テクノtechnoやハウスhouseといったダンス・ミュージックの広がり、ワールド・ミュージックへの関心などである。

 音楽表現において視覚的な楽しさが占める役割の大きさを再認識させたメディアが、1981年にアメリカで設立されたポピュラー音楽専門の衛星放送局MTV(ミュージック・テレビジョン)だった。1980年代中期にはこのMTVを舞台に、マイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナら、歌って踊れるエンターテイナーがスーパースターになった。一方、視覚的要素に依存することが少ないブルース・スプリングスティーンやヒューイ・ルイスHuey Lewis(1950― )らの円熟した音楽は、ロックが誕生から四半世紀を経て、伝統的な音楽の領域に足を踏み入れつつあることを感じさせた。1980年代後半には、ピーター・ゲイブリエルPeter Gabriel(1950― )、ポール・サイモンPaul Simon(1941― )、スティングSting(1951― )、デビッド・バーンDavid Byrne(1952― )らロック系アーティストによる紹介をきっかけに、ブルガリアの女性コーラス、セネガルのユッスー・ンドゥール、パキスタンのヌスラット・ハーンら、ヨーロッパ周縁部、アフリカ、中南米、アジアなどの音楽がワールド・ミュージックという呼称で一般の音楽ファンの関心を集め始めた。その背景には旧社会主義諸国の政権崩壊、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策への国際的な反対運動などもあった。

 1980年代以降の音楽にみられた最大の変化は、楽器演奏よりもコンピュータやサンプラーを使って合成・編集・リミックスされた音楽が増えたことである。1970年代末にニューヨークで誕生したヒップ・ホップは、当初はアフリカ系アメリカ人の間で生まれたアンダーグラウンドな音楽であったが、1980年代にはターンテーブル2台+ラップというスタイルが一般化、1986年にランDMCがロック・バンドのエアロスミスと共演したころから広くポップス・ファンにも聞かれ始めた。コンピュータ機器の応用が進んだ1990年代には、ヒップ・ホップはR&Bと結びついてアメリカのポピュラー音楽の主流となった(1990年代のR&Bとは音楽的にはソウル、リズム・アンド・ブルースの発展形であり、一般にアール・アンド・ビーと発音される)。この音楽づくりの手法は、1990年代後半以降のティーン・アイドルの音楽にもまねられている。1970年代にドイツのクラフトワークや日本のYMOが始めたコンピュータ音楽のテクノは、1980年代にはデトロイトの一部のクラブでダンス・ミュージックに生まれ変わり、クラブのネットワークを通じて欧米に広まった。同じころシカゴやニューヨークで生まれたハウスも、コンピュータによるダンス・ミュージックの一種で、普通のヒット曲をクラブ向けにリミックスする手法としても急速に普及した。イギリスではこうしたダンス・ミュージックと結び付いたロックが、1980年代なかばごろからマンチェスターを中心に人気を集めた。1990年代には、ヒップ・ホップ、テクノ、ハウスの影響をロック的に応用し、高密度に洗練された音楽をつくる人たちも現われた。

 ロックの世界では、商業化が進んで角がとれてくると、つねに若い世代の間から反発がおこる。1990年代初頭にシアトルで人気を集めていたグループ、ニルバーナの荒々しいノイズにあふれたロックが爆発的な人気をよんだのをきっかけに、1990年代前半にはアメリカ各地のインディーズで活動していた草の根的なバンドが数多く浮上。主流の音楽に対する「オルタナティブAlternative=もうひとつの」という意味でオルタナティブ・ロックと総称された。そのほか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのようにファンクやレゲエなどさまざまな音楽の要素を取り入れたミクスチャー・ロック、長時間即興演奏を続けるジャム・バンドの音楽、ノイズや音響そのものの魅力に注目した音楽なども1990年代以降には登場してきた。

[北中正和]

日本のロック

ロックが日本に入ってきたのは1950年代後半のことである。当初はジャンプ・ブルースの流れをくむジャズの一部として紹介され、おもにジャズ喫茶で演奏されていたが、カントリー系の素養をもつエルビス・プレスリーの人気を受けて、1958年(昭和33)に日劇でウェスタン・カーニバルが行われたころからロカビリーという名前で知られるようになった。平尾昌章(のち、昌晃。1937―2017)、山下敬二郎(1939―2011)、ミッキー・カーチス(1938― )らが人気を集めた。当時はリズム・アンド・ブルース系のロックン・ロールはほとんど輸入されていなかった。1960年代に入るころにはウェスタン・カーニバル出身歌手によるアメリカのヒット曲の日本語カバーが盛んに行われた。この時期に登場した代表的なオリジナル曲、たとえば平尾昌章の『星は何でも知っている』(1958)や坂本九(1941―1985)の『上を向いて歩こう』(1961)は、まだジャズやカントリー系の音楽の影響が強かった。

 エレクトリック・ギターを中心にした小編成のバンド・サウンドが定着し始めたのは、1960年代後半のことである。1965年にはベンチャーズの来日をきっかけに寺内タケシ(1939―2021)、加山雄三(1937― )らによるエレキ・ブームが、1966年のビートルズ来日後、1967年から1968年にかけてはスパイダース、ブルー・コメッツ、タイガース、テンプターズらによるグループ・サウンズ(GS)のブームが起こった。グループ・サウンズは歌謡曲的な面ももっていたが、1960年代末にはそれに飽き足りないグループがクリーム、ジミ・ヘンドリックスら英米のロックの影響を受け、日比谷野外音楽堂などでロック・フェスティバルを組織し始めた。1970年代には、はっぴいえんど、キャロル、サディスティック・ミカ・バンド、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、RCサクセションサザンオールスターズなどが、英語の歌から生まれたロックのリズムと日本語の溝を埋める試行錯誤を続けた。1970年代末には日本でもパンクの影響を受けたバンドが登場したが、一部の動きにとどまった。

 ライブハウスやインディーズが増えた1980年代後半には、BOØWY(ボウイ)、ブルーハーツらに刺激を受けたアマチュア・バンドによるバンド・ブームが起こり、1989年の人気テレビ番組『イカ天(いかすバンド天国)』からは、たま、ブランキー・ジェット・シティらが紹介された。1990年代以降は、100万枚単位で売れるメガ・ヒットを出すポップなバンドと、おもにインディーズを拠点に実験的な音楽を追求するバンドの分極化が進んだ。日本において輸入音楽として始まったロックは、いまなお圧倒的な入超が続き、国内のバンドのほとんどは英米的なロックのリズムを土台にして音楽を生み出している。しかし、りんけんバンド、上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)など民謡的なリズムをくふうしているバンドもないわけではない。1990年代以降はボアダムズ、コーネリアスなど、実験的な音楽が海外で注目されるバンドも出てきている。

[北中正和]

『キャサリン・チャールトン著、佐藤実訳『ロック・ミュージックの歴史――スタイル&アーティスト』全2巻(1997・音楽之友社)』『『ロック・クロニクル』全3巻(1997~1998・音楽出版社)』『『ロック・クロニクル・ジャパン』全2巻(1999・音楽出版社)』『アンドレア・ベルガミーニ著、関口英子訳『ロックの世紀』(1999・ヤマハミュージックメディア)』『三井徹・北中正和・藤田正・脇谷浩昭編『クロニクル 20世紀のポピュラー音楽』(2000・平凡社)』『北中正和著『ロック』(講談社現代新書)』『The Rolling Stone Illustrated History of Rock & Roll(1992, Random House)』


ロック(John Locke)
ろっく
John Locke
(1632―1704)

イギリスの経験論の哲学者、政治思想家。

生涯

イングランド西南部リントンのピューリタンの家系に生まれる。オックスフォード大学に学ぶが、大学のスコラ学に失望し、学外で医学、自然科学、デカルト哲学などを学ぶ。1667年アシュリ卿(きょう)(のちのシャフツベリ伯)の知己となり、彼の秘書として動乱期の政治にかかわった。未遂に終わったシャフツベリの反王暴動に連座した嫌疑を受けて、オランダに亡命。そこで哲学主著『人間知性論』(1686)を完成する。1688年の名誉革命の成就により、翌1689年帰国。政府の顧問役として国政に参与する一方、もっとも多産な文筆活動の時期を迎える。1704年、オーツのマサム卿夫人Damaris Cudworth Masham(1659―1708)邸でマサム夫人の『詩篇(しへん)』の朗読を聞きつつ死去した。

[小池英光 2015年7月21日]

思想

知識論

彼の知識論の目的は、知識と偽知識とを区別するために「知識の起源、確実性、範囲、ならびに信念、臆見(おくけん)、同意の根拠と程度」を探究することであった。彼は知識の材料はすべて外感と内省の経験からくると考え、そこからいかにして多様な知識が成立するかを「記述的で平明な方法」で解明しようと試みた。このゆえに彼は近代認識論とイギリス経験論の創始者となった。彼はまず経験に由来しない知識(生得原理)を否定し、心は最初は白紙(タブラ・ラサ)であり、無限に多様な知識も経験に由来する単純観念の複合によって成り立つと主張した。しかし単純観念のすべてが外界の事物に類似するわけではない。延長、形、固性などは物体そのものの性質に類似し、色、音、香りなどの観念はそうではない。ロックは前者の性質を第一性質とよび、後者の観念を産む物体の力能を第二性質とよんだ。この区別を彼はボイルをはじめとする当時の自然科学者から学んだが、観念とその背後にあると想定される物理的事物との表象関係はあいまいで、のちにバークリーの痛烈な批判を浴びた。複雑観念は、実体、様相、関係の3種類に分けられるが、そのなかでロックがもっとも力を注いだのは、スコラ的実体観念の批判であった。自然にはさまざまな種が存在するが、それら自然的種をつくる実在的本質は存在しない。種の本質は、個々の事物の観察と経験に基づき悟性が抽象する唯名的本質にすぎないとした。知識は観念相互の一致・不一致、結合・背反の知覚である。観念相互の比較のみに依存する直観的知識は絶対的確実性をもち、論証的知識もこれに準ずる。しかし物理的自然にかかわる蓋然(がいぜん)的知識では観念相互の関係は経験に依存するので、直観的知識や論証的知識のような絶対的確実性をもたないが、自然科学の業績が示すように人間にとっては十分な確実性をもちうるとした。ロックの知識論は、基軸となる「観念」概念のあいまいさなどのゆえに混乱し、多くの問題を未解決のままに残したが、その視野の広さから後世の哲学がつねに立ち返る源泉の一つになっている。

[小池英光 2015年7月21日]

道徳論

ロックにはまとまった道徳論はないが、道徳は彼の終生の主題であった。『人間悟性論』初版では快楽主義の傾向が強いが、第二版以降では道徳規範の客観性およびキリスト教信仰との調停を試み、来世での賞罰の権能をもつ神の意志に道徳の源泉を求め、神意の布告に従うことが善であり、幸福であるとした(神学的快楽主義)。

[小池英光 2015年7月21日]

政治理論

初期の著作では反カルビニズムの側面が目だつが、主著『統治論』(1690)では反専制主義の色彩が濃い。自然状態にあっては統治はなく、自然法の支配する自由と平等の状態があった。しかし、現実の経済的事情などから他人の自然権の侵犯が生ずるため、人々は政府をつくり、契約によって自然権の一部を為政者に譲渡した。それゆえ政府は専制権をもち、国民には服従の義務がある。だがそれは絶対的なものではなく、国民は契約目的に反するときには為政者を更迭できるとして革命の正当性を擁護した。ロックの「自然状態」は現実に存在した事実とは考えられず、むしろ理論的仮設である。革命による政府の解体は、ただちに別の新しい政府の樹立のためであり、彼自身も現実に「自然状態」への復帰が可能であるとは考えなかったようである。

[小池英光 2015年7月21日]

宗教論

ロックは終生敬虔(けいけん)な正統派の信仰者であった。晩年彼は「パウロ書簡」についての大量の注釈を書き続けていた。しかし、その著作『キリスト教の合理性』や『寛容書簡』が理神論に武器を与えたことも否定できない。彼によれば、神の存在と摂理、来世の賞罰、救世主イエスの信仰と福音(ふくいん)書の教える道徳的生活が信仰の核心であり、それ以外の宗教上の相違は寛容の対象である。かつまた、信仰は心の問題であり、政治的差別の理由にはならぬとした。ただし、無神論とカトリックを例外とした。

 また、経済論においては一種の労働価値説を提示し、通貨・租税についても論じ、近代経済学の先駆者である。教育論では在来の教育制度を批判し、自由主義的な教育を説いた。

[小池英光 2015年7月21日]

『平野耿訳『寛容についての書簡』(1971・朝日出版社)』『ロック著、友岡敏明訳『世俗権力二論』(1976・未来社)』『ジョン・ロック著、北本正章訳『ジョン・ロック 子どもの教育』(2011・原書房)』『ジョン・ロック著、服部知文訳『教育に関する考察』(岩波文庫)』『大槻春彦訳『人間知性論』全4巻(岩波文庫)』『野田又夫著『人類の知的遺産36 ロック』(1985・講談社)』『田中正司著『ジョン・ロック研究』新増補(2005・御茶の水書房)』


ロック(年譜)
ろっくねんぷ

1632 8月29日イングランド南西部のサマーセット県リントンに生まれる
1647 ウェストミンスター校に入学
1652 オックスフォード大学クライスト・チャーチ入学
1658 同カレッジの特別研究員となる
1659 スタッブの『古き善き大義論』への反駁の一文を書く
1660 ロバート・ボイルと知り合い、共同研究を始める。バグショーに反論する論文『世俗権力論』を書く(~1661年)
1662 修辞学講師となる
1663 道徳哲学監督官となる
1664 自然法に関する八つの論文を完成
1665 外交官となりクレーフェに赴任
1666 帰国後、医学と自然科学研究に没頭
1667 アシュリ卿(のちのシャフツベリ伯)の侍医となり、ロンドンのアシュリ邸に入る
1668 『貿易と貨幣利子とに関する瞥見』を出版。『利子論草稿』を書く
1669 『医術について』をシドナムと執筆
1671 『人間知性論』の契機となる会合をもつ。草稿A、Bを書く
1675 フランス旅行に出る(~1679年)。ニコルの『道徳論集』の一部を翻訳。フランスの多くの知識人と交わる
1680 『政治二論』第二論文の執筆開始
1682 反王反乱の陰謀発覚し、シャフツベリ伯オランダへ亡命、のち客死
1683 ロック、オランダへ亡命。当初ロッテルダムに、のちアムステルダムに住む
1685 『人間知性論』の草稿Cを完成。『寛容についての書簡』を書く
1686 『人間知性論』完成
1688 名誉革命(→抵抗権)
1689 ロック帰国。政府の閑職(訴願局長)に就く。『寛容についての書簡』出版。『政治二論』『人間知性論』出版
1690 ニュートンと会う。プロウスト、ロングら『寛容についての書簡』を非難、ロック反論し、論争を繰り返す
1693 『教育論』出版
1694 『人間知性論』第2版出版
1695 『キリスト教の合理性』出版
1697 スティリングフリートとの論争始まる
1702 『奇跡論』出版
1704 10月28日死去。ハイ・レイバに埋葬

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改訂新版 世界大百科事典 「ロック」の意味・わかりやすい解説

ロック
rock

第2次世界大戦後にアメリカで生まれ,その後の世界の大衆音楽,ことに若者の音楽を主導してきたロックは,30年の歴史のなかで幅広い多様性をもつに至っており,今ではその音楽的性格を端的に指摘するのは不可能に近い。しかしもともとは,偶数拍に強いアクセントをもつ4拍子の音楽で,その躍動するリズム感覚を表した〈ロック・アンド・ロールrock and roll〉という語が短縮されて〈ロックンロールrock'n'roll〉,さらに〈ロック〉という名称を生んだ。

ロックを生み出す源となった音楽を,三つ挙げることができる。リズム・アンド・ブルースカントリー・ミュージック,そしてポピュラー・ソングである。なかでもリズム・アンド・ブルースは決定的な影響を与えており,前述した偶数拍にアクセントをもつロックの基本的なビートも,そこにしばしば3連音符やシャッフル・ビートを導入してリズム感覚に味わいを加えているのも,叫ぶような歌い方やエレクトリック・ギターを激しくかき鳴らすことで緊張感を高めているのも,すべてリズム・アンド・ブルースから受け継いだ手法だとみてよい。

 リズム・アンド・ブルースは1940年代の初頭から中葉にかけての,第2次大戦下の時期に形を整えた黒人の大衆音楽であるが,戦後の混乱期に,白人の若者のなかにもリズム・アンド・ブルースの音楽で踊るのを好む者が現れ,それに目をつけた白人の歌手や楽団の一部がリズム・アンド・ブルースの感覚を取り入れ始めた。その一例として挙げることができるのが,54年に白人のビル・ヘーリーBill Haley(1927-81)の楽団(ビル・ヘーリー・アンド・ヒズ・コメッツ)が録音した《シェーク・ラトル・アンド・ロールShake,Rattle And Roll》と《ロック・アラウンド・ザ・クロックRock Around The Clock》で,ともに黒人(前者はジョー・ターナー,後者はサニー・ディー)のレコードを模倣したものだった。翌55年,ヘーリーの《ロック・アラウンド・ザ・クロック》が映画《暴力教室Blackboard Jungle》(MGM。監督リチャード・ブルックス)に用いられたのがきっかけで,大ヒットとなった。

 54年にはまた,エルビス・プレスリーも最初のレコードを出した。彼は当時,南部の黒人音楽の中心地メンフィス市で電気会社の運転手をしていたが,地元の小さなレコード会社から《ザッツ・オール・ライト・ママThat's All Right,Mama》を出した。この曲は黒人ブルース歌手アーサー・クルーダップの作品である。そしてその裏面にはカントリーの曲《ケンタッキーの青い月Blue Moon of Kentucky》が入っていた。ヘーリーもプレスリーもその音楽的感覚にはカントリーの要素が強く,またプレスリーは好きな歌手としてフランク・シナトラの名を挙げていたことでわかるように,ポピュラー・ソングの伝統をも受け継いでおり,この要素は彼が大スターとなるにつれて表面化することとなる。ヘーリーとプレスリーの音楽を聞けば,彼らがリズム・アンド・ブルース,カントリー・ミュージック,ポピュラー・ソングの3要素を融合していたことは容易に感じ取れる。

 こうして生まれてきた新しい音楽を〈ロック・アンド・ロール〉と呼びはじめたのは,ラジオのディスク・ジョッキーをしていたアラン・フリードAlan Freedだとされている(彼自身も《暴力教室》に出演した)。また,プレスリーや彼に続いて現れた《ブルー・スウェード・シューズBlue Suede Shoes》のカール・パーキンズCarl Perkins(1932-98),《ホール・ロッタ・シェーキン・ゴーイング・オンWhole Lotta Shakin' Going On》のジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis(1935- )などがいずれも南部のカントリー音楽の要素を強くもっていたことから,彼らの音楽をロックとヒルビリーhillbillyの合成語で〈ロカビリーrockabilly〉と呼び,《アイル・ビー・ホームI'll Be Home》のパット・ブーンPat Boone(1934- )や《ダイアナDiana》のポール・アンカPaul Anka(1941- )のようにポピュラー・ソングに近い感覚を示した歌手たちの音楽を,ロックとバラードの合成語で〈ロカバラードrock-a-ballad〉と呼ぶようになった。こうしてさまざまの派生語を生みだしつつ多様化していったため,1960年代になると,それらの全体を呼ぶ言葉がロック,1950年代中葉の初期のロックを指す言葉がロックンロール,と使い分けるのが一般的となった。

このように,ロックという音楽が生まれたのは第2次大戦が終わって10年後の50年代半ばであったが,これを単なる音楽の流行現象として片づけることはできない。60年代の反体制文化運動の旗手ジェリー・ルービンは《ドゥ・イット!》に〈ニューレフトはエルビスのくねくねする腰から生まれた〉〈精神を解放する音楽。みんなの心を結びつける音楽〉〈ロックンロールこそ,革命の開幕を告げる狼火(のろし)だった〉と書いているが,まさにロックの出現は60年代の反体制文化の先取りだった。しかもそれが,思想家や社会運動家の演説とか著作物ではなく,無教養な下層の若者の衝動的な叫びとして,激しく肉体を動かす踊りとして自然発生的に出てきたのをみると,そこに深い社会的・歴史的必然性があったと考えないわけにはいかない。

 アメリカの歴史を振り返れば,南北戦争の後の〈めっき時代〉,第1次大戦の後のローリング・トゥエンティーズと,戦争後に大衆文化の爆発をみた前例がある。それらはいずれも俗悪低級な享楽的文化がはびこった時期としてしばしば非難の対象にされてきたが,それが,真にアメリカ的なものへの前進の時期であったことは否定できない。つまり白人と黒人の対立を中心に,さまざまな異種の文化を抱え込んだ国アメリカが,その矛盾を一挙に解消して文化的統合を遂げようという衝動に駆られる時期が,戦争を体験するたびごと必ずその直後に到来するのである。そうした衝動を繰り返すことでアメリカナイゼーションが進行してきたわけだが,とくに1950年代のロック誕生は,白人の若者の欲求不満を白人文化では吸収しきれなくて黒人文化に頼らざるをえず,黒人底辺文化の価値観を白人若年層が大幅に取り入れたという,前例をみないラディカルな社会現象であった。そうした動きがやがて知的階層にも及んだのが1960年代の反体制運動であったといっていいだろう。

しかしロックは急速に原初の過激さを失い,商業主義に取り込まれていく。そのような商業主義のしたたかさもまたアメリカ大衆文化のもつ重要な属性の一つなのかもしれない。メンフィスの小さなレコード会社から出したレコードで人気に火がつきかけたプレスリーは,直ちに大手のRCAレコードに引き抜かれて1956年に《ハートブレーク・ホテルHeartbreak Hotel》の大ヒットを出し,全米で人気が爆発した。その後を追って登場したのが前述のロカバラードである。それらはロック以前のポピュラー音楽と同じ方式,つまり,プロの作詞家・作曲家がヒットをねらって書いた曲でレコードを作り,ラジオやテレビなどのメディアでうまく宣伝して広めていくという商業主義の生産販売方式にのっとったものであって,商業主義システムで作られる音楽に対する不満から生まれたはずのロックが,たちまちまた同じシステムに組み入れられてしまい,ロックの誕生はスターとそのスタッフの世代交替を促しただけという結果となった。1959年と60年には,音楽業界から放送関係者に賄賂(わいろ)が贈られていたのが発覚し,連邦議会(下院)で聴聞会が開かれ,人気の高いラジオのロック番組のディスク・ジョッキーであったフリードが,疑惑の主人公として大々的にとりざたされるという空前のスキャンダルに発展,ロックを深刻な沈滞に陥れた。もう一つ,ロックと対照的に中流階級の大学生に支持されてフォーク・ソングがブームを起こし,清潔で知的なイメージでもてはやされたのも,世間のロック離れに拍車をかけた。

 ロックを生んだ国アメリカがそうした状況にあったとき,意外にもイギリスから,新しいロックの動きが興ってきた。62年,ビートルズの《ラブ・ミー・ドゥーLove Me Do》に始まって,ローリング・ストーンズThe Rolling Stones,ジ・アニマルズThe Animalsなど多くのグループが,ロックの原点を取り戻し,アメリカの若者にも熱狂的に迎えられたのである。すぐそれに続いて,アメリカでも呼応するような動きが出た。まず64年に《サーフィン・USA Surfin' U.S.A.》で頭角を現したビーチ・ボーイズThe Beach Boys。プレスリーなどが南部から出てきたのに対して,このグループはカリフォルニアの産だった。カリフォルニアはフォーク・ソングも盛んであり,またサンフランシスコとその周辺のヒッピーが新しい若者文化をつくり出していたが,そうした土壌から,65-66年あたりを境にして,急速に新しいロックが盛り上がってきた。プレスリーなどの最初のロックは無教養な若者の衝動に発した部分が大きかったが,10年後に再生したロックは,知的な性格を帯び,運動の側面を備えたものとして,より広範な社会的影響力を発揮した。

1960年代後半から70年代前半,この約10年は,ロックが最も目ざましかった時期で,数多くのグループがそれぞれ個性的な活動を展開した。そしてロックは,音楽的な幅が広がり,さまざまに種類分けされるようになった。そのおもなものは次のとおりである。

(1)ハード・ロックhard rock イギリスのレッド・ツェッペリンLed Zeppelin,アメリカのグランド・ファンク・レールロードGrand Funk Railroadなどに代表される。強烈なビート,最大限に音量を増幅したエレクトリック・ギター,金切り声のボーカルを特徴とする,最もロックらしいロック。この系統で,様式化した緊張感の演出を極度に推し進めたものを,70年代の終りからヘビー・メタルheavy metalと呼ぶようになり,若年層の人気を集めている。

(2)ブルース・ロックblues rock 1960年代なかば,イギリス,アメリカ両方で,本来は黒人音楽だったブルースを,好んで演奏する白人ギタリストが人気を集めた。イギリスのエリック・クラプトンEric Clapton(1945- )がその好例で,彼を中心にした3人組クリームThe Creamは,わずか2年の活動ののち68年に解散したが,イギリスのロック史に不滅の足跡を残した。同じころアメリカで人気の高かったブルース・ロックのバンドに,ポール・バタフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Bandがあった。

(3)フォーク・ロックfolk rock フォーク・シンガーのボブ・ディランが1965年にエレクトリック・ギターを取り入れて賛否両論を巻き起こして以来,フォークとロックの融合の試みがなされ,バーズThe Byrds,バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfield,ママズ・アンド・パパスThe Mamas & The Papasなど多くのグループや,ソロのシンガー・ソングライターが登場した。

(4)カントリー・ロックcountry rock ディランもバーズも67年ころカントリー的なサウンドに接近したが,そういったサウンドを一貫して追求したのは,結局フライング・ブリット・ブラザースThe Flying Burrito Brothersなど少数のグループにとどまった。

(5)サイケデリック・ロックpsychedelic rock 1960年代後半のサンフランシスコで,ヒッピー文化の影響を最も強く受けたジェファソン・エアプレーンJefferson Airplane,グレートフル・デッドThe Grateful Deadなどの音楽は,ドラッグ(とくにLSD)による幻覚,心理(サイケデリック)を音で表現するようなロックだった。舞台では音楽だけでなく照明などもその効果を高めるようくふうされた。

(6)プログレッシブ・ロックprogressive rock ピンク・フロイドPink Floydやキング・クリムズンKing Crimsonなど,1970年前後を活動のピークとするイギリスの一連のグループがその典型だが,現代音楽やジャズのサウンドをも取り入れ,重厚な音を駆使した多彩な編曲で,ロックの音楽的高度化をはかる試みがなされた。

 こうしたさまざまな試みが1970年代前半まで展開されたが,試行錯誤も出尽くしたころ,レコード産業全体が不況に見舞われたせいもあって,ロックは再び低迷期を迎え,70年代後半は,ディスコ・ブームという名の商業主義路線に主導された時期となる。

こうした状態に不満の声をあげたのは,やはり貧しい少年たちだった。1970年代半ばに,ニューヨークでもロンドンでもそうした声があがり始め,75年にはロンドンでセックス・ピストルズSex Pistolsが出現した。そのグループ名や《アナーキー・イン・ザ・UK Anarchy In The U.K.》といった彼らの曲の題名からも推察できるように,かなり過激な,怒りの音楽だった。クラッシュThe Clash,ジャムThe Jam,スージー・アンド・バンシーズSiouxsie And The Banshees,ストラングラーズThe Stranglersなどがそれに続いた。そうした音楽をパンク・ロックpunk rockと呼び,その支持者で現状に不満をもつ若者たちをパンクスと呼んだ。しかし,閉塞した状況を打ち破りたいという気持ちで一致していたかにみえた彼らの活動も意外と長続きせず,78年ころにはさまざまに変質し,早くもパンク以後がとりざたされるようになり,その後の多様化を視野に入れたニューウェーブnew waveという包括的な呼び方が一般化する。どこまでをニューウェーブに含めるかは人によってさまざまだが,80年代に入ってからの主流となったのは,いわゆるエレクトロニック・ポップ・ミュージックelectronic pop musicで,これはサウンドの感覚からいえば確かにパンク以後の流れのなかに位置しているものの,その姿勢はかなり商業主義に接近した若者向けの大衆音楽であって,当初のパンクの姿勢とは大きく隔たっている。エレクトロニック・ポップは,その呼名が表すとおり,シンセサイザーなど最新の電子楽器や録音装置を駆使したポップ・ミュージックであって,ドイツのクラフトワークKraftwerkに始まり,イギリスのゲリー・ニューマンGary Numan,日本のYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)などが盛んにした。コンピューターを組み込んだ電子楽器の長足の進歩もあって,例えばリズムのパートはすべて機械にゆだねるといった演奏形態が急速に広まり,グループを組んで人間関係にわずらわされるよりも,1人でスタジオにこもり,機械相手に音を組み立てたほうが存分に自己の個性を伸ばせる,と考えるミュージシャンが増え,グループのメンバー同士で触発しあうといった集団性や身体性が失われ,ロックの本質が崩壊の危機に直面しているようにも思われる。

 そんななかで,アメリカのトーキング・ヘッズTalking Headsのように黒人音楽のダンス感覚を取り入れて知的感性と身体性の統合を図ろうとしているグループもあり,ポリスThe Policeのようにエレクトロニクスを援用しながらも,メンバー相互間の緊張関係のなかで研ぎすましたシャープなロックを作り出しているグループもあって,1980年代半ば以降のロック界は,先行きの読みにくいこんとんとした状況のなかにある。
執筆者:


ロック
John Locke
生没年:1632-1704

ホッブズとともに17世紀のイギリスを代表する哲学者。その決定的な影響力のゆえに,〈17世紀に身を置きながら18世紀を支配した思想家〉(丸山真男)とも評される。サマセット州リントンに生まれ,ピューリタニズムに基づく家庭教育を受けた後,ウェストミンスター校からオックスフォードのクライスト・チャーチに進む。その間,医学や自然科学に深い関心をもち,またガッサンディやデカルトの哲学に強い影響を受ける。1659年から64年にかけて《世俗権力二論》《自然法論》を,67年に《寛容論》を執筆。同年,後のシャフツベリー伯宅に寄寓,以後彼の腹心として行動をともにする。71年,《人間知性論》に着手。チャールズ2世とシャフツベリーとの対立が先鋭化した〈王位排斥法案をめぐる危機〉の最中,80年前後に《統治二論》を執筆。83年身の危険を感じてオランダに逃亡し,名誉革命直後の89年に帰国するまで亡命生活を送る。後年,89年と93年にそれぞれ刊行された《寛容書簡》や《教育に関する若干の考察》は,この亡命生活の所産にほかならない。帰国後は,新体制に参画する一方,89年に《統治二論》《人間知性論》を,95年に《キリスト教の合理性》を公刊し,時代を代表する思想家として圧倒的な名声を確立した。それとともに,寛容や神学をめぐる論争に巻き込まれたが,晩年はマシャム夫人の保護の下に比較的平穏な日々を送り,エセックス州オーツで死去。未完に終わった《パウロ書簡註釈》が〈学者〉としてのその最後の仕事であった。

 こうした経歴の中で形成されたロックの思想は,その一貫性を疑わせるような複雑な構造をもっている。第1に,認識論,道徳哲学,政治学,宗教論等彼が理論化した各ジャンル相互の関係が必ずしも明確ではないからであり,しかも第2に,各ジャンルの内部で視点に重要な変化がみられるからである。二大主著《人間知性論》と《統治二論》との架橋が困難な事実は第1の例であり,認識論の内部で独断論から不可知論への,政治学の内部で権威主義から自由主義への視座の転換がみられるのは第2の例にほかならない。しかし,こうした複雑さをもつにもかかわらず,ロックの思想は,全体として,一つのきわめて単純な宗教的枠組みの中で展開されたということができる。激動する時代状況の中で解体した人間の善き生の条件=規範を,神の意志に照らして再確認しようとする一貫した関心がそれである。事実,この関心は,ロックの多様な思想ジャンルの結節環であった。その認識論は〈啓示宗教と道徳原理〉の認識論的基礎づけを,その道徳論は〈神と同胞への義務〉の論証を,その政治学は政治の世界における人間の義務の探究を,その宗教論は聖書によるそれらの義務の確証をそれぞれ意図したものであったと考えられるからである。もとよりその場合,ロックが前提とした人間像は〈合理的で勤勉な〉主体,自己判断に従ってみずからを規律する自律的な個人であった。ロックの思想にみられる一連の特徴,すなわち,認識論における生具観念の否定と経験の重視,政治学における労働・自然権・政治社会を作為する人間のイニシアティブ・抵抗権の強調,寛容論における宗教的個人主義への傾斜は,すべて主体的な人間のあり方を前提にしたものにほかならない。その点で,例えば,ロックの認識論が自律的な人間の能力を内観し批判した近代認識論の出発点とされ,またその政治学が,〈人間の哲学〉を政治認識に貫いた近代政治原理の典型とされるのは決して不当ではない。しかし,同時に注意すべき点は,ロックにおいて,人間の自律性,人間の自由が,つねに神に対する人間の義務と結びついていたことである。ロックにとって,人間は,〈神の栄光〉を実現すべき目的を帯びて創造された〈神の作品〉であり,したがってその人間は,何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務を免れることはできないからである。その意味で,世界を支配する神の意志と人間の自律性とが矛盾せず,むしろ両者の協働の中で,思考し,政治生活を営み,信仰をもつ人間の生の意味を規範的に問い続けた点に,ロックの思想の基本的な特質があったといえるであろう。
イギリス経験論
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ロック
lock

閘門(こうもん)

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百科事典マイペディア 「ロック」の意味・わかりやすい解説

ロック

第2次大戦後米国で生まれ,世界的に広まった大衆音楽。〈ロック・アンド・ロールrock and roll〉あるいは短縮して〈ロックンロールrock'n'roll〉と呼ばれた音楽に由来し,他ジャンルとの接触を繰り返し多種多様なスタイルを生みながら発展した。黒人音楽であるリズム・アンド・ブルースを白人が演奏したことが始まりとされ,ビートや歌唱法,ギター演奏のスタイルまで,その基本となる音楽的要素の多くを負っている。プレスリーに代表されるロックンロールは当時反体制的なものと受けとめられたが,次第に既成の音楽産業の枠組みのなかにとりこまれた。一方で英国からビートルズが出て,社会的にもより広い影響力を持つ,折衷的で実験的な音楽として定着,以後多様化の一途をたどった。〈ロック〉という呼称が一般化したのも1960年代の後半からであり,1970年代前半にかけてロックはもっとも力づよく展開,その指向性によりハード・ロック(のちヘビーメタル),プログレッシブ・ロックなどと呼ばれた。一方大衆音楽の主流を占めるにまでなったロックの原点回帰運動としてパンク・ムーブメントが1970年代半ばに起きたが長続きせず,1970年代の末からは〈ニュー・ウェーブ〉と呼ばれるさらに新しいロックの模索や,エレクトロニック・ポップの隆盛があり,また世界の音楽を等価のものとして捉えるワールド・ミュージックの考え方が広まるなど,ロックという言葉は今日,境界の見えにくい多種多様な音楽の総体を表すに至っている。
→関連項目ウォーカーウッドストック・フェスティバルガイクラフトワーク崔健サザンオールスターズザ・バンドジャングル(音楽)ズークディランテックス・メックスニュー・ウェーブニュー・エイジ・ミュージックブルースベリーライリーリンガラレゲエロカビリー

ロック

イギリス経験論の代表的哲学者,政治思想家。オックスフォード大学に学び,若くしてデカルト,ガッサンディの影響を受けた。初代シャフツベリー伯の庇護を受け,行動をともにする。1683年からオランダに亡命,1689年名誉革命の成功によって帰国,余生をエセックスでの著述に送った。哲学的には認識論の革新者で,認識の起源を経験に求め,生具観念を否定して,感覚と反省から得られた観念の一致あるいは不一致の知覚が認識にほかならぬとした。宗教的には人間の知性に基礎を置いた寛容論で,政治的な意味での信教の自由の確立の基礎づけを行った。政治思想では王権神授説に反対して社会契約説をとり,最高権力は人民にあり,政治は人民の同意のもとに行われねばならぬと主張し,アメリカ独立革命,フランス革命に影響を与えた。この点で,近代民主主義の政治原理の確立者とされる。著書《人間知性論》(1682年),《統治二論》(1690年),《寛容書簡》(1689年),《キリスト教の合理性》(1695年)など。
→関連項目アステルアメリカ独立宣言感覚論権力分立政治学抵抗権バークリーヒューム

ロック

千夜一夜物語》に出てくる伝説上の巨大な鳥。ペルシア神話の不死鳥シヌルクと同系といわれる。→エピオルニス
→関連項目シンドバッド

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロック」の意味・わかりやすい解説

ロック
Locke, John

[生]1632.8.29. ブリストル近郊リントン
[没]1704.10.28. オーツ
イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。

ロック
Locke, Matthew

[生]1630頃.エクセター
[没]1677.8. ロンドン
イギリスの作曲家。エクセター大聖堂の合唱団で,E.ギボンズに師事し,1661年チャールズ2世の王室作曲家に就任。のちカサリン王妃のオルガン奏者をつとめた。パーセル以前のイギリスの最も重要な劇音楽の作曲家で,代表作は『キューピッドと死』 (1653) ,『ロードス島の包囲』 (56) ,『テンペスト』 (74) ,ほかにビオル合奏曲やアンセムなどがある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロック」の解説

ロック
John Locke

1632~1704

イングランドの哲学者,政治思想家。オクスフォード大学で哲学,宗教を学んだのち,医学を修めた。シャフツベリ(初代伯)の庇護を受け,王弟ジェームズ(のちのジェームズ2世)の王位継承排除に失敗した伯と共謀した疑いをもたれて,1683年オランダに亡命。89年名誉革命によって帰国,余生を著述活動にささげた。『人間悟性論』でイギリス経験論哲学の伝統をさらに強化し,『統治二論』において社会契約説による市民社会の統治原理を明らかにするとともに,名誉革命を擁護し,また宗教的寛容を主張した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ロック」の解説

ロック
John Locke

1632〜1704
イギリスの哲学者・政治学者
父はピューリタンで,革命義勇軍に属した。オクスフォード大学を卒業後,貴族の家庭教師兼友人となり,王政復古の時代にはオランダに亡命したが,名誉革命後,ウィレム(ウィリアム)妃メアリ(2世)とともに帰国。イギリス経験論の代表者で,『人間悟性論』で認識の起源を経験—感覚と反省—に求めた。政治論では,『統治論二篇(市民政府二論)』(1690)でホッブズに対立して人民主権を説き,人民の抵抗権を主張して名誉革命の正当さを理論化した。また三権分立を説き,この考えはやがてモンテスキュー・ルソーに受けつがれ,アメリカ合衆国憲法に具現された。

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ASCII.jpデジタル用語辞典 「ロック」の解説

ロック

ソフトウェアが、データや機器を占有して、ほかのソフトウェアに使用させないようにすること。たとえば、データベースにおいては、あるユーザーが編集中のレコードを、ソフトウェアの機能でほかのユーザーに編集させないようにすることをレコードロックという。また、アプリケーションで、作業中のデータが変更できない状態にすることをロックするという。たとえば、グラフィック・ソフトでオブジェクトをロックすると、移動や編集ができない状態になる。

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パソコンで困ったときに開く本 「ロック」の解説

ロック

パソコンやインターネットのサービスなどを利用できない状態にすることです。ウィンドウズには一時的に離席する場合などにロックをかけて、パスワードを入力しないと操作できないようにする機能があります。
⇨パスワード

出典 (株)朝日新聞出版発行「パソコンで困ったときに開く本パソコンで困ったときに開く本について 情報

飲み物がわかる辞典 「ロック」の解説

ロック【rock】


「オンザロック」の略。⇒オンザロック

出典 講談社飲み物がわかる辞典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「ロック」の解説

ロック

ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社が販売する基礎化粧品のブランド名。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のロックの言及

【閘門】より

…また,水位差の大きい2河川を結ぶ運河を造る場合,急流や水量不足のため運河化できないことがある。このような場合に,船の航行を可能にするために造られる構造物が閘門で,ロックとも呼ばれている。もっとも単純な閘門は,図に示したように上流および下流の二つの扉室(ひしつ)と,その中間の閘室および扉によって構成されており,船の通過は,上・下流の扉の開閉および暗渠(あんきよ)を通じての水の流入,排出によって閘室の水位を上・下流と一致させて行う。…

【イギリス経験論】より

…多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロックG.バークリーD.ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者T.リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。…

【学校】より

…彼は,神は神の前では個人の身分は問わぬのだから,ある種の人々だけの知能を開発するのでは不公平であるとし,すべての人にすべてのことを教える技術の創造の必要を説き,学習全体を精密に学年に区分し,先の学習が後に続く学習への道を平らにし,それを照らすたいまつにすることを提案していた。イギリスのJ.ロックも,当時の学校におけるスコラ的な古典知識のつめ込みに強く反対し,伝統的な修辞学や論理学より数学の教育を重視していた。 ロックや,それに続くルソーにみられるのは,家庭教育の重視である。…

【感覚】より

…他方イギリス経験論においては,感覚はあらゆる認識の究極の源泉として尊重され,その思想は〈感覚の中にあらかじめないものは知性の中にはない〉という原則に要約されている。ロックによればわれわれの心は白紙(タブラ・ラサtabula rasa)のようなものであり,そこに感覚および内省の作用によってさまざまな観念がかき込まれる。ここで感覚とは,感覚器官が外界の可感的事物から触発されることを通じて心に伝えるさまざまな情報のことである。…

【観念】より

… 観念を真に経験的な意味での人知の対象へと徹底させたのは近世におけるイギリス古典経験論であった。ロックは人間の知識や信念の可能性,限界を探究するという,認識論,知識哲学の創始者となったが,それには精神の直接の対象である観念の探究が必要であるとして,観念の博物学,観念理論とよばれる方法を唱導した。ロックの観念はおよそ心の対象となるすべてのものをいう最広義の存在で,概念をも含んでいたが,ロックは観念の発生源上の分類として,感覚と反省の2種を区別した。…

【基本的人権】より

…イギリス人の権利は市民革命によって人間一般の権利にまでたかめられるが,それには,近世の合理的な自然法論の与えた影響が大きい。とくに近代立憲主義の思想を体系的に示したジョン・ロックの《統治二論》(1690)は重要である。彼によれば,人は自然状態のもとで人間としての生存に不可欠の自然権として固有の所有権propertyを有し,これには生命,自由,財産が含まれるのであるが,自然権をよりよく確保し,社会の安全を維持するために,他人との合意により政治社会すなわち政府を設立する。…

【権利】より

…T.ホッブズは,人間には法以前に生命防衛権があり,それを保護するために国家がつくられるが,国法が生命を侵そうとする場合には,個人は法や拘束を免れると主張した。J.ロックもこの自然権保護の制度として国家を設立したとし,その思想はアメリカ独立宣言を経て日本国憲法に流れている。この権利中心の法思想と,義務中心の法思想の対立は,ある程度まで,自然法論と法実証主義の対立に対応している。…

【権力分立】より

…大日本帝国憲法では,天皇が〈統治権ヲ総攬〉(4条)するという根本的なたてまえのもとで,天皇の立法権の行使を帝国議会が〈協賛〉(5条)し,行政については国務大臣が〈輔弼(ほひつ)〉(55条)し,司法権も〈天皇ノ名ニ於テ〉裁判所がおこなう(57条)という構造であったのと比べ,日本国憲法は三権分立の根本原理により忠実であるが,三権分立の骨格を前提としたうえで,国会を〈国権の最高機関〉(41条)として位置づける点で,近代憲法確立期の議会中心主義を継承すると同時に,司法権に法令違憲審査権を与える(81条)点で,現代憲法に共通する傾向をもあわせ示している。
[権力分立思想の系譜]
 権力分立論には,古代ギリシアのヒッポダモスやアリストテレスの混合政体論にさかのぼる背景があるが,近代憲法の権力分立に大きな影響を及ぼしているのは,ロックとモンテスキューの思想である。ロックの《統治二論》(1689)は,生命・自由・所有物に対する固有の権利propertyを保全するために,各人が〈自然状態〉においてもっていた〈自然の権力〉を放棄して〈政治社会〉(〈市民社会〉)をつくりあげるのだという説明を前提とし,〈政治社会〉を形成した人民の意思による意識的な法制定作用として,〈立法〉というものを位置づける。…

【合意】より

…ここに合意の観念は政治社会そのものの構成原理の問題となった。ホッブズにおいては設立された政治社会の意思は君主の意思に体現されるため,君主の絶対性が結論されるが,自然状態における自然法の支配を前提とするロックは,政治社会の目的を自然権の保障とし,近代自由民主主義を基礎づけた。またルソーは政治社会の意思を一般意思と規定し,その現実化たる法の支配によって,自由と平等の理念の貫徹をはかった。…

【心】より

…心が固有の精神現象であるなら,その成立ちや機能を改めて考える必要があり,17世紀後半からの哲学者でこの問題に専念した人は多い。心を〈どんな字も書かれていず,どんな観念もない白紙(タブラ・ラサtabula rasa)〉にたとえた経験論のロック,心ないし自我を〈観念の束〉とみなした連合論のD.ヒューム,あらゆる精神活動を〈変形された感覚〉にすぎないと断じた感覚論のコンディヤックらが有名で,こういう流れのなかからしだいに〈心の学〉すなわち心理学が生まれた。ただし,19世紀末までの心理学はすべて〈意識の学〉で,心の全体を意識現象と等価とみなして疑わなかった。…

【国家】より

…かくして,市民社会を高く評価する人々は,国家に対してはむしろ消極的態度をとる。たとえば,J.ロックは国家と市民社会を区別し,市民社会は国家に一定限度内で統治を信託しているにすぎないと主張した。またA.スミスは,人間は〈神の見えざる手〉によって導かれているとして,市民社会の自律性を説き,最小の政府こそ最良の政府であるとした。…

【自然権】より

…自然権は当然人間の自由・平等と結びつき,政治的・社会的関係をすべて人為的にみずからつくり出していくという視座をもっている。ロックによって自然権はより明確な政治的・社会的権利として位置づけられた。社会契約説による政治社会の構成を,自然権を保障するためのものとした。…

【社会】より

…この最も基本的な問に対する答として,従来いくつかの考え方が提示されてきた。西洋近代初頭の17世紀において社会科学の出発点をなしたホッブズロックにあっては,この問題は次のように答えられた。 まずホッブズは,人間の自然状態を〈万人の万人に対する闘争〉の状態として想定し,このような状態のもとでは〈継続的な恐怖と,暴力による死の危険とが存し,人間の生活は,孤独で貧しく険悪で残忍でしかも短い〉ので,人間たちは相互に契約を結び,個々人に与えられた自然権の一部を主権者に譲渡したのである,と説明した。…

【社会科学】より

…自然科学の方法原理とは経験科学(実証科学)のそれであるから,この源泉は要するに社会科学を経験科学(実証科学)として確立しようとする努力にほかならなかった。イギリスのロック,ヒュームに始まる経験論,フランスのサン・シモン,コントに始まる実証主義,これらの流れの中に社会科学の源流があった。 ロックの《人間知性論》は,人間の悟性的能力がすべて経験によって習得されたものであって,なんら生得的な能力によるものではないということを論証することを主題としたが,このことはまた,人間の社会生活における道徳的・実践的原理がなんらかのア・プリオリな超越的根拠から出てきたものでなく,人びとが経験を通じてお互いの利益になるように取り決めたものだという,《統治二論》の主題たる近代民主主義のテーゼとつながる。…

【社会契約説】より

…しかし,自然状態―社会契約―社会状態という図式を理論的に確立したのはホッブズであって,彼は自然状態を戦争状態と考え,その無秩序を克服するために絶対無制限の権力が必要であるとして,各人が特定の自然人または合議体を主権者として受けいれることを相互に契約するとき,その間に政治社会すなわち国家が生まれると説いた(《リバイアサン》1651)。これに対して,ロックはまず相互契約によって社会を構成した諸個人が,多数決によって選んだ立法機関に統治を委託すると説き,その目的を私有財産を含む個人の自由権の保障に求めることによって,権力に制限を加えた(《統治二論》1689)。 18世紀に入ると,社会生活の組織化が進み,また社会契約は歴史的事実でないという経験科学的批判が起こったが,その中でJ.J.ルソーはこの図式に新しい内容を与え,この理論の革命的意味を明らかにした。…

【自由】より

…伝統的な価値秩序に代えて新しい秩序を構成しようとしたホッブズは,自由とは〈障害の存在しないこと〉であると定義したが,それは自然権としての消極的自由とともに,契約による秩序の構成という積極的自由をも含意するものであった。そして,この第2の側面は,ロックにおいては,私有財産権の保障を基礎に,政治社会の構成員として秩序を自発的に形成することが〈人間の自由〉であるとされるようになるし,またルソーはよりラディカルに,政治社会の再構成の担い手になることこそが自由を意味するとし,さらに〈自由であるように強制する〉ことまで説くのである。このような自由概念の展開は,君主主権論から国民主権論ないしは人民主権論への転換と表裏をなすものであったといえよう。…

【統治二論】より

…17世紀のイギリスを代表する哲学者J.ロックの政治学上の主著。1689年に匿名で刊行された。…

【人間知性論】より

…17世紀のイギリスを代表する思想家ロックの主著。1689年刊。…

【平和】より

…その背景には,当時〈信仰の自由〉が自由の最大の課題であったことがある。 J.ロックはホッブズの抵抗権を革命権にまで発展させ,また宗教的寛容を説いて,近世人権思想の先駆となった。イギリスはロックの時代に名誉革命(1688)を通じて人民主権を確立した。…

【ジャズ】より

…このころからアフリカでは黒人指導者たちによる独立が相次ぎ,アメリカ国内にあっては白人・黒人の共学問題,バス・ボイコット運動,公民権獲得運動など黒人差別撤廃の動きが大きくなった。57年のリトル・ロック事件で,州兵を動員してまで白人の味方をしたアーカンソー州知事フォーバスを罵倒したチャールス・ミンガスの《フォーバスの寓話》や,黒人受難史を描いたローチの《フリーダム・ナウ組曲》は,黒人側のラディカルな抗議として,現れるべくして現れた作品といえる。一時的にもウェスト・コーストの白人に主導権を奪われた黒人たちは,ジャズのバックボーンをなす黒人ブルースや,黒人教会の中でのみ歌われ演奏されるゴスペル・ソングをジャズに盛りこみ,再びジャズ界の主流となった。…

【ディスコ】より

…もとはイタリア語,スペイン語などで〈レコード〉を意味した(フランス語のディスクdisqueにあたる)。しかし1970年代後半から,ロックないしソウル系のダンス(ディスコ・ダンス),およびダンス向きに作られた音楽(ディスコ・ミュージック,ディスコ・サウンド)を指す言葉として広く使われるようになった。これは,1960年代にフランスで,ダンス・バンドの代りにレコードを使用するダンスホールを〈ディスコテークdiscoteque〉と呼んだことからきている。…

※「ロック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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