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山梨(県) やまなし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山梨(県)
やまなし

本州、中部地方に位置する内陸県であり、東京都、神奈川県、静岡県、長野県、埼玉県と接している。旧国名の「甲斐」は山と山との狭間(はざま)を意味する「峡(かい)」が転じたものといわれ、実際に平地が少なく山がちな地形である。首都圏に含まれながらも自然が豊かで、県では「環境首都・山梨」を重要施策の一つとして推進している。面積4465.37平方キロメートル。県庁所在地は甲府市。
 本県では古くから、中西部の富士川流域を国中(くになか)地方とよび、東部の相模(さがみ)川および多摩川流域を郡内(ぐんない)地方とよんでいる。両地方はおもに1500~2000メートルの山地によって境されていて、気候や地形などの自然環境が異なっている。古くは交流も不便で、歴史や文化の点でも異なるところが多く、現在でも人々の風俗・習慣などに違いがみられる。
 産業では甲府盆地周辺の扇状地を中心に果樹栽培が盛んで、とくにブドウとモモは全国第1位の生産をあげている。しかし、工業生産は全国水準よりも低く、製造業製品出荷額では全国都道府県のなかでも下位のほうに属する。
 人口は1950年(昭和25)に約81万人に達するが、その後減少に転じ1970年には76万人となった。以後ふたたび増加に転じ、2010年(平成22)には86万3075人となっている。人口が減少した時期は第二次世界大戦後の経済復興と高度成長期にあたり、近代工業の発達が遅れていたことから、京浜、静岡方面へと若年労働力を中心に人口流失が続いたためである。現在人口は甲府盆地に集中しており、とくに甲府市周辺は農地が宅地転用され人口増加が著しい。
 2012年4月時点で、13市5郡8町6村からなる。[横田忠夫・浅川一郎]

自然


地形
山梨県の地形は、県の中央よりやや西に位置する甲府盆地と周囲の山地とに大別できる。
 甲府盆地は日本を東西に二分するフォッサマグナに位置する構造性盆地の一つで、北西、北東、南西を頂点とする北に広い三角形状をしている。標高は北から南に減じており、北縁で約350メートル、南西端では約250メートルである。盆地には周囲の山地から大小の河川が流入し、山麓(ろく)沿いには扇状地が形成されている。扇状地面はかつては桑園、現在は果樹園に利用されていることが多い。河川は、北から流れる釜無(かまなし)川と北東から流れる笛吹(ふえふき)川に合流し、両河川も盆地南西端で合流して富士川となり南流していく。これらの河川は古くからしばしば洪水を引き起こし、為政者はその治水に力をいれた。いわゆる信玄堤(しんげんづつみ)もそういった治水事業の一つの成果である。現在、扇状地の河川の多くは天井川となっている。
 甲府盆地の西縁、南縁には活断層が走っており、断層地形が発達している。市之瀬(いちのせ)台地や曽根(そね)丘陵はその前面の活断層の運動によって隆起してできた地形である。
 甲府盆地の西には2000メートル級の巨摩(こま)山地が南北に走っている。さらにその西には糸魚川‐静岡構造線をはさんで、わが国第2位の高峰北岳(3193メートル)を含む3000メートル級の赤石山脈が南北に連なっている。これら山地と甲府盆地との2500メートル以上の高度差は、第四紀の地殻変動の結果生じたものである。赤石山脈の北岳、間ノ岳(あいのたけ)、農鳥岳(のうとりだけ)、仙丈ヶ岳(せんじょうがたけ)等の山頂周辺には氷河地形、周氷河地形が発達している。県南部には1500~2000メートルの身延(みのぶ)山地と天子山地が南北に連なり、両山地の間を富士川が南流している。県の北部から東部にかけては秩父(ちちぶ)山地・関東山地とその周辺の低山が広がっている。北部県境沿いには金峰山(きんぷさん)(2599メートル)、国師ヶ岳、甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)、雲取山など2000メートルを超える高峰が連なっている。県の北東部には大菩薩嶺(だいぼさつれい)(2057メートル)があり、その南は笹子(ささご)峠を経て甲府盆地南の御坂(みさか)山地へと続いている。
 県東部の郡内地方は全体的に低山が広がり山がちである。郡内地方には桂(かつら)川(相模川の上流)、笹子川、鶴川、道志川、小菅川(多摩川の上流)などが流れ、それらの河川沿いには狭長な河岸段丘が数段発達し、古くからのおもな生活の場となってきた。
 県北西部には八ヶ岳、南東部には富士山と第四紀の巨大な火山がそびえている。八ヶ岳は南北に連なる火山列からなり、山頂部はかなり開析が進んでいる。一方、日本の最高峰である富士山(3776メートル)は歴史時代にも活動が記録されている若く美しい円錐火山で、古来、信仰の対象としても有名であった。さらに、富士北麓には溶岩流に堰止(せきとめ)られて形成された本栖湖(もとすこ)、精進湖(しょうじこ)、西湖(さいこ)、河口湖、山中湖(富士五湖)があり、風光明媚(めいび)な景観を形づくっている。両火山とも広い山麓をもち、現在は夏の避暑を中心とした観光地となっている。
 県域には豊かな自然をもとに秩父多摩甲斐(ちちぶたまかい)、富士箱根伊豆、南アルプスの3国立公園と八ヶ岳中信高原国定公園および四尾連湖(しびれこ)、南アルプス巨摩の2県立自然公園が指定されている。[横田忠夫・浅川一郎]
気候
一般的に気温は夏暑くて冬は寒く、降水量は比較的少ない内陸性気候であるが、地域差も大きい。気温は甲府盆地と県南部で高い。甲府盆地の年平均気温は14℃で、年較差は24℃に達する。八ヶ岳山麓、富士北麓などは夏は涼しいが、冬季の平均気温は氷点下を記録する。降水は梅雨期と秋霖(しゅうりん)期に多く、冬は少なくて乾燥する。年降水量は甲府盆地と釜無川の流域で1000ミリメートル余りと少なく、周辺ほど多くなる。県南部では2000ミリメートルを超し、赤石山脈では2400ミリメートルに達するところもある。
 また甲府盆地にはしばしば強い風が吹く。とくに冬には北西から冷たく乾燥した季節風が吹き下ろす。[横田忠夫・浅川一郎]

歴史


先史・古代
旧石器時代の遺跡は米倉山(こめくらやま)(甲府市)、天神堂(南部(なんぶ)町)、丘の公園(北杜(ほくと)市)など各地に30数か所が確認されている。縄文時代の遺跡は県下全域に分布しており、おもに丘陵や河岸段丘などの高台に立地している。釈迦堂(しゃかどう)遺跡群(笛吹(ふえふき)市、甲州市)からは1000体を超える土偶が出土し、金生(きんせい)遺跡(北杜市)を代表とする八ヶ岳山麓の遺跡からは広大な配石遺構が発掘された。弥生(やよい)時代になると朝気(あさけ)遺跡(甲府市)にみられるように、人々の生活の場は盆地低地へも拡大していった。弥生後期には微高地上に大集落も形成されるようになり、方形周溝墓も出現した。4世紀から7世紀にかけては、甲府盆地周辺を中心に古墳が造営された。なかでも南縁の曽根(そね)丘陵一帯には銚子塚・丸山塚(国指定史跡。甲府市)をはじめとする古墳が点在し、県内古墳文化の発祥地といわれている。
 律令(りつりょう)時代になると甲斐国が置かれ、山梨・八代(やつしろ)・巨麻(こま)・都留(つる)の4郡が設けられるが、当時の政治の中心は甲府盆地の東部で、国府は現在の笛吹市春日居(かすがい)町国府(こう)、同市一宮(いちのみや)町国分(こくぶ)、同市御坂町国衙(こくが)と変遷したと考えられている。甲斐国分寺は一宮町国分に建立された。この時期、盆地の開発とともに、山麓の扇状地も牧地として積極的に使用された。なかでも北巨摩の穂坂(ほさか)(韮崎市)、真衣野(まきの)、柏前(かしわざき)(ともに北杜市)の3牧は御牧とされ、名馬「甲斐の黒駒」の産地として有名であった。[横田忠夫・浅川一郎]
中世
10世紀以降になると、この牧場地帯や荘園(しょうえん)を根拠として甲斐源氏が勃興(ぼっこう)してくる。甲斐源氏は源頼義の第3子新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)(源義光)の子源義清(よしきよ)を祖とする。1131年(天承1)義清がこの国の市河荘(いちかわのしょう)に土着し、その子清光(きよみつ)と子孫が国内の要地に拠(よ)ってその勢力を不動のものとした。とくに清光の子の一人信義(のぶよし)は現在の韮崎市神山(かみやま)町武田の地にあって武田氏を称し、以降甲斐源氏の惣領(そうりょう)として源平時代から鎌倉・室町時代にかけて繁栄する。
 戦国時代の甲斐は武田信虎(のぶとら)、信玄(晴信(はるのぶ))、勝頼(かつより)3代の統一領治の時代であった。武田信虎は居館を石和(いさわ)の近くに構えていたが、1519年(永正16)に現在の甲府市北部の躑躅(つつじ)ヶ崎に移した。その子信玄は甲斐統一だけでなく、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、信濃(しなの)へと勢力を伸ばし、全国統一をも志した。信玄は内治にも力を尽くし、新田の開発、治山治水、金山の開発などに努力し富国強兵に意を注いだ。しかし、信玄の死後、勝頼は織田・徳川の連合軍に敗れ、天目(てんもく)山麓(現在の甲州(こうしゅう)市大和(やまと)町田野(たの))で、1582年(天正10)自害して果てた。今日も武田氏、とくに信玄の遺業は県民の間で語り継がれている。これはその後、甲斐国が江戸の一時期を除いて明治維新になるまで長く天領であり、長期にわたる支配者が存在しなかったこととも関連するものと考えられる。現在でも、信玄堤(しんげんづつみ)、信玄の隠し湯、金山跡など武田氏ゆかりの史跡、名所が各地に残っている。[横田忠夫・浅川一郎]
近世
関ヶ原の戦い後、徳川義直(よしなお)や忠長(ただなが)らが甲斐に入国、この間幕府領に編入されたりしたが、1661年(寛文1)徳川綱重(つなしげ)が封ぜられた(甲府藩)。その子綱豊(つなとよ)(家宣(いえのぶ))が1704年(宝永1)将軍養嗣子(ようしし)となると、同年柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が武蔵(むさし)国(埼玉県)川越(かわごえ)から15万石余で入封した。吉保の子の柳沢吉里(よしさと)が1724年(享保9)大和(奈良県)郡山(こおりやま)に転封ののちは全域が天領となり、幕府の御家人(ごけにん)から派遣される甲府勤番によって統治され幕末まで続いた。この時代には新田の開発、角倉了以(すみのくらりょうい)による富士川水運の開設(1612)、街道の整備などが行われ、産業では勝沼(かつぬま)のブドウ、市川大門の製紙、郡内の絹織物など地場産業がおこった。
 幕末の維新戦争では1868年(明治1)板垣退助の率いる官軍が甲府城に無血入城した。翌日、官軍は勝沼付近において近藤勇(いさみ)が率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と戦闘し、これを打ち破っている。[横田忠夫・浅川一郎]
近・現代
1871年(明治4)11月に山梨県が設置され、甲府が県庁所在地となった。明治政府から派遣された知事や郡長によっての統治が始まり、町村の合併も行われる。町村合併をみると1871年に788か村であったものが、1889年には1市245か村となり、甲府はそのとき全国39市のなかの一つとして市制が敷かれた。
 明治期における山梨県の主要産業は養蚕と製糸であった。わが国最大の輸出産物であった生糸は横浜港から輸出されたが、甲州人は早くから横浜に出て生糸の商売に従事し、若尾逸平(わかおいっぺい)(1820―1913)をはじめ幾人もの豪商が輩出した。それに伴って県内各地では桑園が開かれ、農民は養蚕を、地主のなかには製糸業に手を出す者も多く、県内各地に製糸業が行われるようになり、塩山(えんざん)や長坂・甲府などには繭市場が設けられた。甲府には若尾・雨宮(あめみや)などの大きな製糸工場があった。1886年、雨宮製糸工場で1日14時間労働、労働賃金引下げという業主間の取り決めに反対して、女子工員によるストライキが起こった。これは日本における最初の工場労働争議(雨宮製糸争議)として知られている。また、現在の甲州(こうしゅう)市勝沼町地区付近では特産のブドウ栽培も奨励され、ワインの醸造も明治初期から試みられた。
 山国である山梨県は山林の占める割合がきわめて大きいが、県民の所有する山林面積は非常に少ない。それは、天領であったこともあって明治以降多くの山林が国有林となり、ついでそれが御料林に編入されたため、県民の利用が閉ざされたのである。1907年(明治40)の大水害が契機となって御料林の払下げが県に対して行われるが、所有が皇室から県に移譲されただけで、民有林は依然として乏しかった。「山があっても山なし県」ということばは、このことを皮肉っていったことばである。
 大正後期から昭和の初年にわたる全国的な不況のなかにあって、勝沼、甲運(こううん)(現甲府市)を中心とするブドウ生産地帯の確立など地域的商品農業の発展もみられ、今日の果樹地帯の基礎ができた。
 交通の発達も著しく、明治期には県内各地に乗合馬車が設けられ、馬車鉄道も建設された。その後、国営鉄道の中央線が1903年新宿―甲府間に開通し、江戸時代以降県外への交通の動脈であった富士川の水運は急速に衰え、東京まで3日を要した日程が6時間に短縮された。その後、富士身延鉄道の甲府―富士間の開通(1928)、富士山麓鉄道の大月―富士吉田間の開通(1929)、旧国鉄小海(こうみ)線の小淵沢(こぶちざわ)―小諸(こもろ)間の開通(1935)などが相次ぎ、鉄道時代が出現する。
 1945年(昭和20)7月6日夜にアメリカ軍による甲府大空襲があり、市域の74%が焼失した。戦中に開設された北富士演習場は、終戦後アメリカ軍に接収された後、自衛隊へと引き継がれ、現在も返還運動が続いている。経済復興から高度成長期を迎えると、鉄道の高速化や自動車道路網の整備が進み、山梨も近代工業化への道を歩むようになった。また、観光開発も盛んになり、多くの観光客を迎えるようになった。[横田忠夫・浅川一郎]

産業

1995年(平成7)の産業別人口構成をみると、第一次産業人口は9.9%で、第二次世界大戦後まもない1950年(昭和25)の約60%からみると急速に減少している。一方、第二次、三次産業人口は1950年のそれぞれ約22%、30%から35.4%、54.7%と大きな増加をみせている。しかし、日本全体の産業別人口と比較すると第一次産業人口の比率はかなり高い。[横田忠夫・浅川一郎]
農業
山梨県の農業の中心地は甲府盆地である。甲府盆地には日本の農業のなかでも最高の水準にある果樹作地帯があり、狭い耕地から大きな収益をあげている。しかし、そのほかの地方は山間部や高冷地にあたり、わが国農業の不振も影響して農地の荒廃や農業人口の減少の著しい地域も少なくない。その結果、農家数は1960年(昭和35)の8万2000戸から1995年(平成7)の4万7000戸へと減少した。専兼別農家数は専業20.9%、第一種兼業27.5%、第二種兼業51.6%(1995)と兼業農家が8割近くを占めている。第二種兼業は全農家数の半数以上を占めているが、1990年代に入り、著しい減少傾向にある。
 経営耕地も1960年の約4.6万ヘクタールから1995年の2.3万ヘクタールへと著しく減少している。桑園の減少は激しく、水田と普通畑も減少が続いている。果樹園は1980年ごろまでは増加していたがそれ以後は横ばい状態が続いている。1995年の耕地面積の内訳は水田33%、普通畑20%、果樹園45%、牧草地2.3%、桑園1.7%であり、果樹の割合が大きい。地域別の耕地面積の変化をみると、山間部および甲府市周辺での減少が著しい。山間部は後継者不在で荒れ地が増加し、甲府市周辺は宅地、商工業地への転用が進んでいる。
 農家1戸当りの耕地面積をみると、零細経営の農家が多く、50アール未満の農家が半数以上を占め、そのうちのさらに半数以上が自給的農家である。販売農家のうち1ヘクタール以上の耕地を有するのは約25%にすぎない。
 山梨県の農業は、第二次世界大戦前は米と養蚕が主力であったが、いまではブドウ、モモを中心とした果樹栽培に比重が移り「果樹王国山梨」をピーアールしている。甲府盆地東部の甲州市、笛吹市、山梨市、甲府市東部へと広がる峡東地区はブドウ、モモが栽培され、国道沿いを中心に観光農園も立地し多くの観光客を集めている。また、盆地西部の南アルプス市を中心とした峡西地区はモモやスモモを中心に複数の果樹が栽培され、北西部の八ヶ岳、茅ヶ岳(かやがたけ)山麓ではリンゴの栽培も行われている。ブドウやモモの出荷先としては首都圏が約50%、京阪神地方が約20%を占める。出荷方法についても従来の農協を通しての出荷から、グループ出荷や宅配便を利用した個人出荷などのさまざまな形態が現れている。しかし、山梨の農業の中心となる果樹栽培だが、近年は生産費の高騰や生産者の高齢化・後継者不足などから、経営が困難になり、離農する農家も現れている。
 一方、養蚕は第二次世界大戦後の不振のなかで激減した。甲府盆地南部の曽根(そね)丘陵上や県北西部の茅ヶ岳山麓にある程度まとまった桑園も存在するが、かつての比ではない。
 そのほかの商品農業としては、八ヶ岳・富士山麓の戦後開拓地を中心とするキャベツ、レタス、ダイコンなどの高原野菜、山間部でのコンニャク、県南部での茶の栽培などがあげられる。畜産は高冷地で一時酪農が盛んであったが、1980年(昭和55)ごろより衰退傾向にあり、乳牛にかわって肉牛飼育や養豚が行われている。[横田忠夫・浅川一郎]
林業
県の面積の約80%は山林で、そのうち約45%が県有林である。県有林の面積がこのように大きいのは全国でも例をみない。また、水源涵養(かんよう)林も多く、多摩川上流部は東京都の、相模川の支流、道志(どうし)川流域は横浜市の所有となっている。したがって民間の林業は山地が広いわりには振るわず、県南部の富士川流域がスギ、ヒノキのまとまった人工林地帯になっているにすぎない。[横田忠夫・浅川一郎]
工業
甲斐絹(かいき)(海気)とよばれる郡内地方の絹織物、市川三郷(いちかわみさと)町大門地区の和紙、六郷(ろくごう)地区の印章、甲府市の貴金属加工と水晶研磨業、甲州(こうしゅう)市勝沼(かつぬま)町地区のワイン醸造、早川町の硯(すずり)などの伝統的な地場産業が各地にみられるが、近代工業は全国水準よりも低い。しかし、中央自動車道が全通した1982年(昭和57)以降、県外からの電機、精密機械、輸送機械等の工場が県内の労働力を求めて各地に立地するようになり、工業生産もしだいに増加するようになった。第二次世界大戦前の県の工業は、養蚕と結び付いた製糸業が主体であり、養蚕地帯には大小の製糸工場が建ち並んでいた。また郡内は絹織物業が盛んであり、繊維工業が中心であった。戦後になると養蚕製糸の不振で製糸工場の数も減少し、郡内機業も不況が続いている。しかし、数からみると繊維・衣服工業は家内工業が多い関係で、その工場数(従業員4人以上)は電機・機械に次いで多い。最近発達の著しい重化学工業部門は工場数のうえで1995年(平成7)には44.1%へと割合を増やしており、なかでも電機工業は工場数では16.5%であるが、従業員数では約28%を占めている。一方繊維工業は従業員数5.6%で昔日のおもかげはみられない。重化学工業全体の従業員数は60.6%となり、製品出荷額も70.3%となっている。1980年代に入りロボット工場のような最新鋭の工場もみられるようになってきたが、全体的にみると工場の多くは部品生産や組立ての小工場が多くを占め、工業力は他県に比べて劣っている。工場の分布をみると甲府市、都留(つる)市、富士吉田市など7市に工場の48%、従業者の41%が集中しており、なかでも甲府市の占める割合が大きい。しかし、釜無川、国母(こくぼ)、甲西(こうさい)など多くの工業団地が甲府盆地西部から南部を中心に各地に建設されたため、それらの地域における工業の成長が著しい。とくに前記の工業団地を有した中巨摩郡と南アルプス市には多くの企業が進出し、この地域は事業所数では甲府市と並び、従業員数では甲府市の1.5倍となり全県の約24%を占めている。[横田忠夫・浅川一郎]
商業
商業の中心は甲府市で、多くの卸売・小売商が集中しており、甲府盆地全域を商圏として活動している。その年間の商品販売額は県全体の約51%(1994)を占めている。そのほかの県内の商業中心地は、甲府盆地では甲州市塩山(えんざん)地区、山梨市、韮崎市などの商店街であるが、自家用車の普及に伴い、甲府市郊外から周辺町村にかけての地域に郊外型の大規模小売店が進出し、広い商圏を形成するようになってきている。一方、甲府駅周辺の商店街や百貨店は集客力の低下が目だっており、各種イベントなどさまざまな対応策を実施しているが、有効な手段はみつかっていない。郡内地方の商業中心地は富士吉田市、都留(つる)市、大月市、上野原市などであるが、耐久消費財などでは、八王子市に客足の多くをとられている。[横田忠夫・浅川一郎]
交通
鉄道は県内を東西に横断するJR中央本線、小淵沢から八ヶ岳山麓を通って長野県に通じるJR小海線、甲府と静岡を富士川沿いに結ぶJR身延線、大月と富士吉田を結ぶ富士急行線がある。いずれも通勤通学の重要な交通機関となっているが、自動車交通の発達でその重要度は低下している。自動車交通の大動脈は中央自動車道であり、山梨県と首都圏および中京・阪神とを結んでいる。また、各方面に延びる国道、有料道路がそれを補完している。幹線道路は渋滞を避けるため、バイパスが各所につくられ、農業道路、観光道路の整備・建設も進められた。1989年(平成1)にはリニアモーターカー新実験線が誘致され、県東部で実験が開始されている。一方、地域の公共交通機関であるバスは、赤字のため山間地を中心に路線の廃止が相次いでいる。廃止路線を町村自治体が引き継いだところもある。[横田忠夫・浅川一郎]

社会・文化


教育文化
江戸時代天領であったため、独自の統治の方針や文化政策などがたてられず、特色ある文化や教育制度は生じにくかった。しかし甲府勤番の武士のなかには学者や文人がおり、永住する者もあって江戸の文化が直接入ってくる傾向があった。教育面では1796年(寛政8)ころに甲府勤番支配近藤淡路守(あわじのかみ)政明、永見(ながみ)伊予守為貞(ためさだ)の力によって甲府学問所が甲府城内に設けられ、富田富五郎(とみたとみごろう)を教授方として勤番の子弟や庶民の有志に漢学が教授された。学問所は1805年(文化2)には江戸の昌平黌(しょうへいこう)との関係を強めてより整備され、大学頭(だいがくのかみ)林衡(たいら)によって徽典(きてん)館と命名された。ついで1843年(天保14)には幕命によって学舎の改築や学制が改革され、昌平黌から教授2名が派遣されて学頭となった。また江戸紅葉山(もみじやま)文庫の図書や昌平黌の図書の一部も移され、教官・事務系の者をあわせると総勢34人という当時としては大規模な組織の学舎がつくられ、さらに館内には医学所も設けられて、勤番医や町医が医書の研究を行った。この徽典館は明治以降も継承され、師範学校や甲府中学校へと引き継がれるのである。
 明治以降、中学校以上の上級学校は、小学校教員養成のための山梨師範学校(甲府市)、山梨女子師範学校(加納岩(かのいわ)村、現山梨市)のみであったが、1924年(大正13)甲府市に国立の山梨高等工業学校が設立され、第二次世界大戦後は師範と統合されて現在の山梨大学に引き継がれている。現在、大学は山梨大学のほかに山梨県立大学、市立都留文科大学、私立では山梨学院大学、身延山大学、帝京科学大学、健康科学大学、山梨英和大学、昭和大学がある。短期大学は公立1校、私立2校があり、ほかに公立の専修学校もつくられている。また社会教育施設の整備も進んでいる。[横田忠夫・浅川一郎]
生活文化
甲州人がよく食べる郷土料理に「ほうとう」がある。「ほうとう」は季節の野菜をたっぷりと入れた煮込みうどんのことで、うどんには、きしめんを太めにしたものが用いられることが多い。野菜にはカボチャがよく用いられ、味つけにはみそを使う場合が多い。また来客や祝い時には小豆(あずき)を入れた「あずきほうとう」をつくって客をもてなす場合もある。また、富士山麓などの、稲作ができずトウモロコシが主作物であった山間地方では、「おねり」「おやき」とよばれるトウモロコシの粉を練って固めた焼き餅(もち)を常食としていた。
 民家は、かつて養蚕県であった関係で養蚕につごうのよい造りがみられ、とくに切破風(きりはふ)造とよばれる切妻民家は甲府盆地全域にみられ、また、急勾配(こうばい)の草葺(くさぶ)きの正面をくぎって突き上げ屋根にしたものや、二重切妻にした櫓(やぐら)造もある。岳麓や峡南地方には甲(かぶと)造とよばれる入母屋(いりもや)や寄棟(よせむね)の妻を切り開いて明かり窓をつけた造りがあり、櫓造とともに甲州民家の代表的なものといわれている。しかし、最近は農家の改築が著しく、風情のある民家の景観は乏しくなった。[横田忠夫]
民俗芸能
おもな年中行事として、まず小正月(こしょうがつ)の行事として1月14日の道祖神祭が県下各地で多彩に行われ、どんど焼きのほかに獅子舞(ししまい)や能・鳥刺(とりさし)踊などの神事芸能を行う所もある。2月13、14日は甲府市湯村温泉にある厄除(やくよけ)地蔵尊の会式(えしき)であるが、県内各地からの参拝客が多い。厄年の人は団子を持って参拝し、厄除けや願い事をかなえてもらおうという行事である。4月になると桃や桜が開花して甲府盆地のもっとも美しい季節となる。甲府市では4月12日に信玄祭が華やかに行われ、「武田二十四将騎馬行列」や山車(だし)などが練り歩く。また、15日は笛吹市一宮町浅間(あさま)神社の御幸(みゆき)祭がある。この祭りは825年(天長2)この神社に勅使が下向して水難除けの神事を行ったことに由来する。
 夏になると富士登山で岳麓地方がにぎわうようになるが、その山閉(やまじま)いにあたる8月26日、日本三大奇祭の一つとして名高い「吉田の火祭り」が行われる。この祭りは山開きの間、里に下っていた神を山に送る神事から始まったと伝えられ、神輿(みこし)の渡御が済んで夜になると、冨士浅間(せんげん)神社(富士吉田市)の大松明(おおたいまつ)をはじめ、山小屋、各家庭でも薪(たきぎ)に火がともされ、上吉田一帯が火の海となる壮観な祭りである。また、10月1日勝沼(甲州市)では「鳥居焼き祭」が行われる。これは柏尾(かしお)山の西斜面に薪を鳥居形に積み上げて火を放つもので、秋のブドウ郷を映し出す姿は美しい。
 郷土芸能としては、小正月に演ぜられる甲州市一之瀬高橋の春駒(はるごま)、甲府市黒平の能三番などがある。両者とも谷深い山村に残る芸能で、前者は武田信玄が開いた黒川金山の金掘り衆の間に伝承されたもので、籠(かご)に紙を張ってつくった春駒を抱えての行列や踊りを演ずるものであり、後者は平家の落武者によって伝えられたものといわれている。そのほか、4月に甲府市小瀬(こせ)町の諏訪(すわ)神社で行われる天津司(てんづし)舞(国指定重要無形民俗文化財)や大月市笹子(ささご)の追分(おいわけ)人形芝居などがある。[横田忠夫]
文化財
山梨県内の国宝は次の5点である。(1)県内最古の建築物(1286)である甲州市大善(だいぜん)寺の本堂(附厨子(ずし)1基)。(2)山梨市清白寺の入母屋造、唐様建築の仏殿(別名観音(かんのん)堂)。(3)甲州市塩山の菅田天(かんだてん)神社に伝わる武田家相伝の重宝小桜韋威鎧兜大袖付(こざくらかわおどしよろいかぶとおおそでつき)(通称「楯無(たてなし)の鎧」)。(4)甲州市塩山の向嶽(こうがく)寺所蔵の絹本著色達磨図(けんぽんちゃくしょくだるまず)。これには鎌倉建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の賛がある。(5)日蓮の開創による身延町身延山久遠(くおん)寺が所蔵する国宝絹本著色夏景山水図(けんぽんちゃくしょくかけいさんすいず)。足利義満(あしかがよしみつ)の鑑蔵印がある。
 このほかに、国の重要文化財101点、重要無形民俗文化財3点、重要有形民俗文化財1点が指定されている(2012)。さらに、武田氏館跡などの史跡13か所、富士山など特別名勝2か所、名勝4か所、ライチョウ、カモシカなど特別天然記念物3点、忍野八海(おしのはっかい)、鳴沢風穴(なるさわふうけつ)、甲斐犬など天然記念物31点も国によって指定されている(2012)。また、県でも文化財や天然記念物などを指定して保護、保存に努めている。武田信玄が戦のときにたてた孫子(そんし)の旗(いわゆる風林火山の旗)も県の重要文化財のひとつに指定されている。
 埋蔵文化財の調査も開発に伴う緊急発掘が主体として、盛んに行われ、遺物・遺構の記録、保護、保存が行われている。[横田忠夫・浅川一郎]
伝説
太古、甲府の地は大きな湖に占められていたという。2人の巨人がここに平野をつくろうと申し合わせて、南の山並みを蹴(け)破って湖水をことごとく富士川から海へ落とした。こうして甲府盆地が出現したと伝えている。この開闢(かいびゃく)伝説の巨人の名は「岩裂(いわさく)の神」と「蹴裂(けさく)の神」という。蹴裂神社(西八代(にしやつしろ)郡市川三郷(いちかわみさと)町)、佐久神社(甲府市下向山町)はこの2巨人を祀(まつ)った社という。山深い温泉地の南巨摩(みなみこま)郡早川町奈良田(ならだ)に孝謙(こうけん)天皇の行幸伝説がある。この霊湯が難病に効験ありと聞き、女帝はしばらく仮宮(かりみや)で霊湯に浴せられた。その間、しばしば奇瑞(きずい)が現れた。それを七不思議と言い伝えたが、いまはダム建設などによって消えて、御符水(ごふすい)と2羽の鴉(からす)の二つのみになった。なお同地に「琴路(ことじ)のがれ」というよそ者との悲恋伝説もある。村の娘琴路は曲物(まげもの)職人の吾平と恋仲になったが、添うことができず2人は早川で死んだ。逢瀬(おうせ)の別当(べっとう)峠はそれから琴路峠とよばれるようになった。
 日本三奇橋の一つに「猿橋(さるはし)」(大月市猿橋町)がある。桂川の断崖に架かる橋で、長さ32メートル、水面よりの高さ31メートル、1本の橋脚も用いず、両崖から框(かまち)を重ねてせり出したものである。この架橋は推古(すいこ)天皇の時代、百済(くだら)の志羅呼(しらこ)という技術者が命ぜられたが、くふうのめどがつかず困り果てていた。ある日、野猿の群れが崖の上から互いに手と手を結んで鎖(くさり)状につなぎ、対岸へ渡ってゆくのを見てヒントを得たという。橋の西詰の猿の社は、志羅呼が建立したと伝えている。『裏見寒話(うらみかんわ)』(1752序)という古書に、「国玉(くだま)の大橋」のことが載っている。国玉の大橋は甲府市国玉町の濁(にごり)川に架かる石橋で、もとは重要な街道筋にあたっていた。土木工事の幼稚な時代には架橋は困難な事業だった。それゆえ大橋のたもとには、橋姫という愛憎の激しい女神を祀った。この古書によると、橋上で猿橋のことを話すとかならず怪異がおこるとある。またこの橋の上で謡曲『葵上(あおいのうえ)』や『野宮(ののみや)』を謡うと道に迷うとも記している。謡曲といえば『鵜飼(うかい)』は、笛吹市石和(いさわ)町の遠妙(おんみょう)寺の「鵜飼翁(うかいおう)」伝説が主題になっている。鵜飼翁とは、平家滅亡のとき、甲斐に流罪となった平時忠(ときただ)のことだという。法城山(ほうじょうさん)観音寺の領内にいたが、生計のために殺生(せっしょう)禁断の掟(おきて)を破り、寺領の石和川で鵜飼をしていたため、里人によって水責めの刑で殺された。その怨念(おんねん)が祟(たた)りをするのを哀れみ、巡錫(じゅんしゃく)中の日蓮(にちれん)が施餓鬼(せがき)を行ったと伝えている。遠妙寺には鵜飼翁の祠(ほこら)、木像、日蓮の硯(すずり)、経石(きょうせき)などがある。南巨摩郡身延(みのぶ)町上沢(じょうたく)寺の逆銀杏(さかさいちょう)、北杜市須玉(すたま)町の遠照(えんしょう)寺のしだれ桜などに、日蓮の「杖(つえ)立ての伝説」が残る。県下には弘法(こうぼう)大師の伝説も散在する。南アルプス市清水の独鈷(どっこ)の水をはじめ、弘法水、印石(おしていし)、弘法栗(ぐり)などがある。
 甲斐は武田氏にゆかりの深い地だけに、その興亡に関した伝説が多い。金山(かなやま)千軒(北杜市須玉町)、黒川千軒(甲州市塩山萩原(はぎわら))、湯之奥(ゆのおく)三千軒(身延町)、川尻(かわじり)千軒(同町釜額(かまびたい))などは、武田氏繁栄のもとになった甲州金の採鉱によって一時栄えた鉱山町の跡である。戦傷をいやしたと伝える下部(しもべ)温泉は、信玄隠し湯の名で知られている。甲州市大和(やまと)町田野(たの)の周辺には、武田家滅亡の地であるだけに数多くの哀話がある。笛吹市石和町鎮目(しずめ)の芍薬(しゃくやく)塚、甲斐(かい)市の泣き石など、勝頼(かつより)の最期を語る。日(ひ)川は源を大菩薩(だいぼさつ)峠に発する川であるが、「三日血(みっかち)川」の異名がある。天目山の合戦のとき3日間も川水が血に染められたという。いかにすさまじい激戦であったかが想像される。
 都留(つる)市盛里(もりさと)から上野原市秋山地区へ越える峠が「雛鶴(ひなづる)峠」である。昔、晒(さらし)者になった大塔宮護良(だいとうのみやもりよし)親王の首級を奪い、逃れてきた雛鶴姫が、この地の無生野(もしょうの)まできてにわかに産気づいた。姫が苦しんでいるのを見た里人は、後難を恐れて峠向こうへ追いやった。姫は力尽きて盛里で亡くなったという。その地に墓と祠、宮の首級を納めたと伝える石船明神がある。山梨市三富(みとみ)には「笛吹川」の伝説がある。ある年の豪雨で川が氾濫(はんらん)し、権三郎と老母が家もろともに押し流された。若者は助かったが老母は濁流に飲まれた。それから日夜母を求めて、まるで正気を失ったかのように笛を吹いて川岸をさまよっていたが、そのうち川に落ちて死んだ。それから真夜中になると、川の音とともに笛の音が聞こえるようになったという。若者の霊を慰めるために河原に権三郎不動、川下の笛吹市春日居(かすがい)町の長慶(ちょうけい)寺の境内に塚をつくったと伝えている。[武田静澄]
『山梨県立図書館編・刊『山梨県史 1~8』(1958~1965) ▽土橋里木編『甲斐の民話』(1959・未来社) ▽磯貝正義・飯田文弥著『山梨県の歴史』(1973・山川出版社) ▽山梨県高等学校教育研究会社会部会編著『山梨県の歴史散歩』(1976・山川出版社) ▽『角川日本地名大辞典19 山梨県』(1984・角川書店) ▽山梨日日新聞社編・刊『山梨百科事典』(1989) ▽『図説日本歴史19 山梨県の歴史』(1990・河出書房新社) ▽山梨郷土研究会『山梨郷土史研究入門』(1992・山梨日日新聞社) ▽『日本史地名大系第19巻 山梨県の地名』(1995・平凡社) ▽『日本地名大百科・ランドジャポニカ』(1996・小学館) ▽『県勢ダイジェスト――統計からみた山梨』(1997・山梨県) ▽『人づくり風土記19 山梨』(1997・農文協)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

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